ソルジェニーツィン氏の訃報に接し思い起こしたことの一部

 最近ニュースから遠ざかっていて、ロシアの作家・ソルジェニーツィンが去る3日に亡くなっていたことを知ったのは、5日になってからのことでした。いろいろ思うところがあって、記事を書こうと思いましたが、しかしすぐにはまとまらず、また体調も機器も不調だったこともあって一旦見送り、本日(6日)付けとしました。これも諸般の事情により、アップは日付が変わってしまっていますが・・・。

 なお、完成が遅れに遅れていた「ウェルダン穂積氏主催アキバデモ見物記 及び『やまざき』氏との邂逅」は一応完成しましたので、今更ですがご関心のある方はどうぞ。でも実は完全に終わってはいませんが・・・。

 表題の件につきまして。

 今を遡ること十年余、当時中学生(確か中2)だった小生は、ソルジェニーツィンの『ガン病棟』を読んで、深い感銘を受けました。
 ではそれは、とここで今すぐ書くことは出来ません。その感銘はあまりに深く、小生の世界観のある部分が確実に『ガン病棟』に影響されていると思うからです。物差しを作った基準を、そこから作った物差しで測ることは、この場合不可能でないかもしれませんが、大変難しいことです。それがすらすら出来れば、評論家になれるでしょうね。
 一つ、本書が残した分かりやすい小生への影響を挙げるならば、本書の感銘があまりに深く、しかもそれが深すぎて自分でも分からないほどだったために、この本について(ひいてはソルジェニーツィンについて)かえって人と話すことはなかった、ということでしょうか。そしてそこから、感動はそれが自分にとって深くかけがえのないものであればあるほど、容易に他人と共通理解や共感できるようなものではない、そう思うようになりました。
 なので、小生は、「これを読んで(見て/プレイして 等)感動した! 是非読んで(見て/プレイして 等)しろ!」と言う人間(の感動の程度)については、原則不信感を抱くようになりました。これは一般的な人間関係、殊に友人関係、そしてなんといっても恋愛関係を築く上で多大な障害を齎すものかもしれませんが、そんなことはどうでもいいのです。『ガン病棟』のシュルービンのように、死ぬまでに話のできる人間が一人見つかれば、それでいいのです。
※追記:関連した話をこちらに書きました。

 そんな次第で、『収容所群島』は、身構えてしまってかえって読めていません。いつか、と思っていますが「いつか」なんてのはそうそう来るもんではありません。もちろん、東浩紀氏の評論も読んではいません。

 ちょこっと、訃報に関するネット上の幾つかの記事を読んだりもしたのですが、『収容所群島』の著者であることをもってして、「共産主義の害悪と悲惨を世界に知らしめた」という感じの評価をしているところが散見されました。ですが、以下が小生の勝手な思い込みの可能性は否定しませんけど、ソルジェニーツィンの告発は、単にある時代と地域に限定されるものではない普遍性を備えているのだ、そう考えます。
 ソルジェニーツィン作品が、史料になるほどある時代と地域をリアルに描き出していることは勿論で、それが第一義的に読んだ者に衝撃を与えるのですが、それはまた同時に、普遍に至る確固たる基礎でもあるのです。

 考え出すとまた広がっていって収拾がつかなくなりそうです。ブログの記事としてはこの辺で締めておくのが適当なところでしょう。
 ですが、簡単には解決の方法が見つけられないことについても、折々は考えてみる意味があるでしょう。そして、少しでも良い方向へ進めるように(ゴールは見えないし、たどり着くことも出来ませんが)、藤田省三の孫引きをすれば「陰気な顔して何になる」という、希望の源泉をもつことは大事だと思います。小生の場合、その際の手がかりとして、これからもソルジェニーツィン作品を座右に置くことでしょう。
「私の内部は、全部が私じゃない。ときどき、はっきりそう感じるんだ。何か絶対に撲滅できないものが、非常に高貴なものが、内部に巣くっている! 世界精神のかけらみたいなものだ。きみはそう感じることはないかね?」
ソルジェニーツィン(小笠原豊樹訳)『ガン病棟』より

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by bokukoui | 2008-08-06 23:59 | 書物