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「象の鼻パーク」の転車台と軌道跡見学記
 先週の記事で紹介した、横浜港の「象の鼻地区」の「港の貨物線の鉄軌道及び転車台」を見てきました。以下にその見学記を(※この記事以外に、続篇もありますのでそちらもどうぞ)。

 この日は畏友たんび氏(氏も鉄道趣味者で、かつ貨物線に少なからぬ関心を抱いておられます)を誘って横浜に赴きました。
 13時からの見学会の前に、まず後述のG氏に教えていただいた、山下公園で開催中のインド関係フェスティバル「ディワリ・イン・ヨコハマ」を覗き、カレーなど食します。一番怪しそうな店にしよう、と二人の意見が一致し、そして同じ店を選定したのは慶賀の至り。
まだ開場後まもなく、比較的空いている「ディワリ・イン・ヨコハマ」

 早い時間でまだ空いていたのがもっけの幸いでした。昼間からインドビール試飲の誘惑に駆られますが、後のイベントとおのが体型を考慮して踏みとどまります。揚げパンのようなもの(名前失念)がなかなか美味しゅうございました。
マリンタワーは改修中、天気はやや雲が多く残念

 やがて昼が近くなり、家族連れなどで次第に混み始めました。我々は次なる目的地に向かいますが、その途中山下公園では海中のゴミをダイバーが拾うというイベントをやっておりました。
氷川丸を背景に集合するダイバーの方々

 我々が次に向かったのは、これは小生が大学に張ってあったポスターで知ったのですが、26日まで開催している横浜開港資料館の展示です。名前が売り飛ばされなくて良かった良かった。
 で、開港資料館の展示は「白船来航」と題し、今からちょうど百年前の1908年10月に、世界一周航海の途中日本に来航したアメリカ艦隊(艦隊を白く塗っていたので「白船」と呼ばれた)に関する資料を展示しています。これはアメリカ海軍力の伸長を世界にアピールする意図があり、日露戦争に勝利した日本への示威も目的ではあったのですが、いざ来航してみれば日本では大歓迎のお祭り騒ぎだった、という件。確かに、「こんなものまで!」という記念品、おみやげの類には目を見張ります。
 鉄道趣味者的には、アメリカ海軍軍人向けの乗車券などが目を惹きますが、これは鉄道国有化から鉄道院発足までのごく短期しか存在しなかった官庁、帝国鉄道庁発行になっているのが珍しいところです。当時のマスコミがアメリカ艦の写真を載せ、また絵はがき(当時の有力広報メディア)になったものも展示されていました。軍艦好きとしては、この頃は弩級艦の由来であるドレッドノートが完成したばかりの頃で、弩級艦以前の味わい深い艦形の戦艦やら装甲巡洋艦やら、それを出迎えた日本艦隊ともども見ていて楽しいものです。

 見ているうちに見学会の時間が迫ってきたので、残念ながらそこそこで打ち切って出ます。会場は既に開いていて、人が入っている様子です(後で聞いた話では、時間前に人が集まってきたので、早めに開けたそうです)。
 たんび氏と小生は「何人ぐらい来ますかね」「30人くらいじゃないですか」「4、50人は来るのでは」などと会話しながら会場に入りましたが、自分たちの見方の甘さを思い知らされました。
見学会の解説に集まった人々(の、一部)

 100人以上来ていたことは確かに思われます。自分のことは棚に上げて、何でこんなマニアックで渋いものを見にこれだけの人が集まったのかと驚きました。流石にお年を召した男性の方が多かったのですが、女性の姿もあり、あまつさえ若い女性やカップルまでいたのは、やはり観光地である横浜ならでは、なのでしょうか。普通カップルでいきなりこんな所に連れてきたら、別れ話ものと思いますが・・・

 閑話休題、解説は、まず港湾局の方が出てこられ、ついで講師の堀氏と米山氏(この本で星晃氏にインタビューしてた人)が、港湾の歴史および鉄道の歴史の観点から解説を加え、その後かなり活発な質問が出されました。15分の予定とありましたが、30分はかかったと思います。
 この場所で、小生は旧知の軍艦マニアの方々に久しぶりにお会いしました。「三脚檣」のNさんとGさんです。技術と歴史に途方もなく詳しい方々で、この方々と色々お話を伺ったことで、自分一人で見に来たのでは気がつかなかったであろう多くの知見を得ることができました。

 話が先走りました。
 解説の内容を適宜織り交ぜつつ、軍艦マニア両氏の見解を参考にさせていただいて、肝心の物について説明しましょう。以下の写真はクリックすると拡大表示します。
転車台と軌道跡 写真奥が海側

 これは、横浜港で明治から大正時代にかけて使われていた、港の荷役用の軌道と転車台(当時は旋車盤とか言っていたらしい)です。明治20年代に建設され、今回発掘された軌道と転車台は、税関の海側に面した位置のものでした。これらの施設は関東大震災で被害を受け、震災によって出た瓦礫で埋められてしまいました(転車台や軌道の周りに転がっている煉瓦の欠片は、その瓦礫のようです)。その上に戦後倉庫が建てられ(倉庫の上屋は霞ヶ関の海軍航空隊で格納庫として使っていたものを転用したのだとか)、最近まで倉庫用地となっていました。それが、再開発でこの辺り一帯を公園化することになり、倉庫を撤去して土地を整備していたところ掘り当てた、という経緯になります。以下に見学会で配られていたチラシを載せておきます。
配付された資料 地図と写真に注目

 この軌道は、ゲージ(レール同士の間隔)が3フィート6インチ、1067ミリあって、JRはじめ日本で一般的な線路と同じ規格です。当初は孤立した港の中の軌道でしたが、後に港が拡張されると貨物線と接続したそうです。
 一方、転車台の直径は8フィート、約2.4メートルほどで、蒸気機関車を方向転換させるものと比べるとごく小さなものです。上のチラシで、トロッコらしきものが写っている写真が載っていますが、このような人力で押す小型の車輌を、荷役用に使っていたのだろう、ということです。ポイントでなく転車台なのは、場所の節約の他、手で押す車輌の場合はカーブがあると抵抗が増して押すのが大変なので、なるべく直線で軌道網を構成しようとしたためではないか、との米山氏の説明でした。この地域には40箇所以上も、このような転車台があったそうです。技術的には、このような貨車用の転車台はイギリスで多く見られるとのこと。
 現在のところ、転車台の天板(正式にはなんと呼べばいいのか分からないのですが、鉄で出来た円盤の部分をこう呼ぶことにします)やレールのメーカーは分からないそうです。工事を発注する広告はあるそうですが、レールなどは今後調査してロールマークがあれば・・・との由。明治20年代ではまだレールの国産化は始まっていませんから、輸入なのは確かでしょうが、一体どこから輸入したんでしょうね。
 ところで、上の地図によれば、この附近にはまだまだ線路も転車台もあるはず。今後さらなる発掘は行われるのでしょうか。これ以上見つかっても困る、というのが当局の本音かも知れませんが・・・

 さて、今日の見学会では、ご丁寧に転車台の天板を載せた状態の、外した状態と、両方の形を見せてくれていました。より細部に迫って見てみましょう。
転車台(一番海側のもの)

転車台の天板を外したピット

 転車台の構造は、井戸のような丸いピットを掘って、周りを煉瓦で固め、縁を石で囲っています。真ん中に軸が付き出していて、ピットの中の肩の部分に8つの滑車が置かれています。この上に天板が載っているわけです。縁石には、天板を固定するための金具を差し込む穴が設けられています。
転車台の天板

転車台の天板 側面から(腕と軸受に注目)

天板を支える車輪(やや縁石が崩れた箇所から撮影)

 転車台の天板には車輪を通すための溝が刻まれ、真ん中にはマンホールがあります。横から見ると、天板の下面には斜めに腕が取り付けられ、軸受らしき部品が腕の先に取り付けられています。
 回すためのハンドルなどはなさそうで、載せた貨車そのものを押して回転させたのでしょう。

 軍艦マニアの方々に色々お話を伺いましたが、まず話題になったのが、何で穴なんか掘ってあるのだろう? ということでした。肩の滑車で天板の重量を受け、真ん中の軸は中心を出す役割だけを持っているのだろう、と考えられますが、なぜ穴をこんなに深く掘ったのでしょうか。軸を据え付ける面も、滑車と同じ高さで構わなさそうです。
 ピットは煉瓦が10段は積んであって、かつ縁石がありますので、深さは70~80センチくらいありそうです。この転車台や軌道の水準は、横浜港の満潮時水面から69センチしかなく(この一帯を公園として整備する際は、海面から3メートル以上の高さにするそうです)、台風で高潮の時満潮が来て、海から風が吹いた日にはえらいことになりそうですが(震災以前はもうちょっと高かったのかもしれませんが)、なぜわざわざそうまでして穴を掘ったのでしょう。
 ここでN氏から出た意見としては、マンホールを設けていることからして、軸受や滑車に注油をする必要があり、その際の作業スペース確保のためではないか、ということでした。なるほど、注油の際にいちいち天板を持ち上げるのは、いかにも重くて大変そうです。しかしそれにしてはここまで穴を掘るのも大仰とも言えるかもしれません。

 この重そうな転車台の天板ですが、おそらくは鋳物で一体成形されているようです。勿論腕と軸受けはボルトでつないであるのでしょう。厚みは貨車を支える必要からかなり厚そうで、縁を見ると1インチくらいはあるのかなと思われます。
 これだけのものが当時の日本で国産できたのでしょうか? G氏のご意見では、イギリス辺りでこういった貨車転車台の規格があって、メーカーに注文すれば規格通り製作してくれたのではないか、との見立てでした。腕と軸受、ピットの複雑な構造も、海外の規格に理由があるのでは、とのお説でした。確かに、海外(特にイギリス植民地)との比較検討が、この転車台の意義の解明には必要でしょう。
 
 写真で分かるとおり、転車台に繋がるレールは、縁石から斜めに傾いてずり落ちているような感じになっています。
縁石とレールの関係(海側から2番目の転車台)

 これは、おそらく元々枕木を敷いてレールを敷設していたのが、長い年月で枕木が朽ちて消滅し、支えがなくなって傾いたのだろう、との意見でした。この上によく無事に倉庫が載っかっていたものです。
 また、たんび氏が疑問として挙げられたのは、関東大震災で地盤が傾くなどしてこの軌道群が放棄され、転車台もろとも瓦礫で埋められたのは分かるが、何でその時レールや天板を外して屑鉄として再利用しなかったのか、ということでした(これはうろ覚えですが、震災直後は復興需要で屑鉄価格が高騰した筈)。確かに奇妙です。頑丈な天板だったから埋められて80余年を経ても大丈夫でしたが、或いは腐食してピットへ崩落して、地上が陥没ということもあり得たかも知れません。転車台をそのまま埋めた理由は、奈辺にあったのでしょう。

 さて、この倉庫跡地、昔の防波堤の形から「象の鼻パーク」と名付けられて公園となるのですが、この転車台跡地はどうするのでしょうか。米山氏曰く、汐留駅跡地でも同じような転車台の遺跡はあったが、天板が載っておらず、また場所から保存も叶わなかったとの由。市の方の説明では、何とか見える形で残したいということで、現在検討しているのは、転車台や軌道の水準が公園の水準より低いことを生かして、上にガラスのようなものを張って、広場として機能させつつ遺跡を見えるようにするということです。この遺跡が、見える形でそのまま保存されるのは大変喜ばしいことですね。来年6月2日は横浜開港150周年ということで、その日を期してここも公園としてグランド・オープンする予定だそうですが、それまでにそういった工事が完成するよう、期待しております。
 もっとも保存は遺跡活用の第一歩ともいうべきで、この正体や歴史的な意義などは、さらなる検証が必要でしょう。米山氏は、この軌道は国鉄の貨物線に繋がっていたことを強調し、「全国にこの軌道は繋がっていた」と説かれていました。しかし写真に写っていたトロッコの台車のようなものの運用では、全国に繋がっていたとは言えなさそうですね。国鉄の貨車は入れたのでしょうか。直径8フィートの天板に載るためには、軸距はそれより短くなければなりませんし、転車台同士がくっつき合っていることからして複線中心間隔は9フィートちょっとくらいしかなさそうです。小生は明治の貨車のことはよく知りませんが、確か阪神間開業時の小型客車の軸距が8フィートだったはず。明治の小型の貨車なら何とか・・・? 大正時代に放棄された理由も、もしかするとその辺にあるのかも知れません。

 とまあ、短い時間の見学で、小生は学会報告(の準備報告)の準備で忙しいためそのまま帰りましたが、なかなか充実した半日でした。特に、わざわざ転車台の天板を外して、ピットの中や天板の様子も分かるように展示してくれた港湾局関係者の皆様の配慮には頭が下がります。
 米山氏はこの転車台群と軌道を「重要文化財もの」と語っておられましたが、正直そこまでの価値が認められるかは疑問なしとしませんが、相応の保存と展示の措置が執られることを望みますし、またその方向にあることは喜ばしいことです。近代史が他の時代より圧倒的に重要な横浜ならではかも知れませんが、近代の遺産に光が当たることを、嬉しく思います。

※追記(2008.10.23.):この記事の補足情報を書きました。是非ご参照下さい。
 また、「転車台」「ターンテーブル」「天板」の使い分けがいい加減だったので、修正しました。

※更に追記:公園として整備・公開された状況は以下の記事をご参照下さい。
 「象の鼻パーク」の現況・転車台の保存状況を見る

by bokukoui | 2008-10-19 17:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)
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