12月10日(黒鳥忌)に思う

 去年も同じようなことを書こうとして果たせなかったので、今年こそ。
 書くべきことは一年経っても、その意味は変わっていないと思いますので。

 今年亡くなった著名人、といえば小生はやはりロシアの文学者・ソルジェニーツィンが思い浮かびますが、そのソルジェニーツィンが亡くなった際に当ブログに書いた記事中で、「感動はそれが自分にとって深くかけがえのないものであればあるほど、容易に他人と共通理解や共感できるようなものではない」ということを書きました。この件については、何人かの友人と十年ぐらい前に相当議論したことがあって、そもそも決着をつけるようなことではないのですが、今なお小生の心の中にわだかまっている思いです。小生は、感動を重視すればこそ安直に共有は持ち出すべきではないと考えたのですが(であるからこそ、小生は桜井由躬雄教授の言葉を忘れることが出来ないのです)、ある友人はそれを、共有し得ないような感動は価値がないと捉えていたようでした。
 今から書くことは、その更に延長線上にあるような話です。

 「感動」の話をしていながら、上に挙げた記事ではその定義をちゃんとしていなかったりしますが、強く感情が揺り動かされるようなこと、という大雑把な括りで概ね話を進める上で問題はないだろうと思います。そして、強く心揺すぶられるというと、これは揺すぶられる強さだけを問題にしているのであって、ベクトルの方向は問うていないわけです。
 となれば、先刻「感動」について述べたことは、より広く心の動き全般、例えば災害や犯罪のような悲劇に巻き込まれた人々の心の動きについても、同じように考えられるのではないか、と小生は思います。このことはしばらく前、岩手・宮城内陸地震の一月後に書いた記事で、あくまで「個人的な思い」として述べたことでもあります。

 となるとどうしても、犯罪被害者についても考えてしまいます。
 近年は犯罪被害者及びその家族への注目が高まっておりまして、それ自体はこれまでないがしろにされてきた面がありますので、重要なことであることはもちろんです。しかし、「被害者(家族)への配慮」を安易に持ち出すことは、反って被害者感情に対する敬意を欠いているように思われるのです。
 何となれば、その被害者及びその家族の衝撃や悲しみや怒りが大きければ大きいほど、安易に外野がその「心情を慮る」ことは難しくなります。更に、強い衝撃であればあるほど、それへの心の反応は、強さの見なさず幅や深みについてもまた、なかなか外からは窺い知るわけにはいかないでしょう。
 とすれば、「被害者(家族)への感情の配慮」ということを、当事者でもない外部の人間が安易に掲げてなにがしかの社会的要求をすることは、やはり賞賛すべきことではないのではないかと小生は考えます。その安易さは、強い衝動への個性(これが個人の尊厳を支える大事な要素と思いますが)を伴った反応の幅に対し無頓着ということに繋がります。すなわち、そういった安易な主張に適合的なように、被害者(家族)の感情を、いわばテンプレートの中に押し込めてしまうことに繋がります。それは感情に対する敬意をもったこととは考えられません。そこでは、外部の観衆にとって都合の良いストーリーに、いわばワイドショー的に、事態が丸め込まれてしまっているわけです。
 また、「家族」と一括りにすることも、同様の誤謬に陥る危険性があるでしょう。家族だからといってすべてが共有可能でないということは、容易に想像できることの筈です。

 話が逸れるのであまり詳しくは触れませんが、このような安易な感情の利用は、犯罪の場合「加害者」が明確になっていると、ただ漠たる不安や不満を抱いている人々にとっての、単なるストレス発散のための攻撃性発露の口実となっている場合も、率直に言ってしばしば見かける光景であります。これが、事故の場合を考えると、手近な犯人捜しと処罰でこと足れりとしてしまうことに繋がり、それは原因究明と再発防止に反って支障を来すという具体的な社会的損害にも繋がります。

 ではどのような対応を被害者(家族)に対し取るべきなのか、ということについては、小生は確たる政策論を持ち合わせているわけではありません。ただ、一つの考えとしましては、その損害の度合いも補償の程度も窺い知ることが出来ない「感情」という局面ではないところ、事務的にある程度(感情よりましな)算定が可能な、経済的な支援の方を、特に公的な政策としては中心に据えるべきであろう、そう考えております。


 さて、以上の話は、表題に付しました通りに、大変回りくどくはあっても、中井英夫『虚無への供物』の感想文のつもりです。
 12月10日は、『虚無への供物』開巻の日付(今年で54周年)であり、そして中井英夫の忌日でもあります(同じく十六回忌)。去年も同じ日付でこの記事を書こうとして果たせませんでした。一年経って少しは肩の荷が下りた気分ですが、しかしまだすべて書き切れたという感はありません。道は尚通し。
 この記事の内容を思うに至った、直接のきっかけとなった箇所を同書から引用できればいいのですが、しかしこの小説の性格上それが出来かねることは残念です。なにせ感動は人様々だから、『虚無への供物』を読まれた方であっても、小生がかかる想念を抱くに至った箇所を、どなたでも見つけるわけにはいかないでしょうから。
 それでももし、ここだね、と察せられた方がいたとしましたら、例え、わかり合うことが出来ずただ許すことしかできない人の世でも、いくらかの道しるべはあるということになろうかと思います。
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by bokukoui | 2008-12-10 23:59 | 思い付き