ミニシンポ@地下鉄博物館「東京の地下鉄の歴史と都市交通」聴講記

 今日は新幹線の初代車輌・0系が記念運行も終わって完全に引退した日だから(参考ニュースリンク:こちらこちら)なのか、Googleのトップ画像が↓
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なんて風になってまして驚きましたが、それなりに鉄道の歴史が世間の人々の耳目を惹くようになってきているのでしょうか。0系の車輌は確か鉄道博物館に収められると聞いていますが(現在あるのはカットボディのみ)、何せ走行できる路線が限られている以上、動態保存や復活運転は多分不可能でしょうね。蒸気機関車なら、とりあえずレールさえちょこっと引けば、「動かす」だけは出来ますが、電車(しかも交流25000ボルト)ではそうも行きません。可能な限り鉄道車輌は動く形で保存するのが望ましいのですが・・・。

 というわけで、新幹線やグーグルとは何の関係もありませんけれど、鉄道への広い関心?ということで、表題の如きシンポジウムというか講演会が地下鉄博物館という公開の場で先月開かれました。小生それを聞きに行っておりましたのですが、諸事に追われて2週間も経ってしまいましたので、いい加減忘れたり資料を亡くす前に記録を記しておきたく。
 このミニシンポとは、交通史学会が例会を兼ねて企画したもので、詳細はリンク先を参照していただくとして、要点を抜粋すれば以下の通りです。
テーマ:「東京の地下鉄の歴史と都市交通」

鈴木勇一郎 氏
「戦前東京の地下鉄計画」 

久多羅木吉治 氏(東亜建設工業株式会社 技術部長) 
「東京圏における高速鉄道の歩みと未来」
 鈴木勇一郎さんは、以前歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」にて、「近代日本のおみやげと鉄道」という、とても楽しい講演をされた方です。
 さて、小生は交通史学会の会員ではありませんが、たまたま研究室に告知のハガキが貼ってあってこれを知り、、地下鉄博物館にて公開で行う、というのであれば、そして鈴木さんの講演であれば、これはと思って聞きに行った次第です。幾人かの友人にも本件のことを伝えておいたところ、2名の同道者も集まり、子供の頃以来行ったことがなかった地下鉄博物館に足を運びました。
 交通史研究会の会員は、申し出れば無料で入館できたそうですが、我々は非会員なので210円払って入館します。で、講演開始までに博物館を見学・・・というほど時間がなかったので、とっとと講演会場に。
 交通史学会がどれほど会員がいてどの程度活動しているのか、小生は全く存じませんが、例会となればそれなりの人数が来ているだろうと思ったところ、案外少なくて30人ほどでした。ということは我々が1割・・・来場者はやはり年齢層の高い男性が多かった気がしますが、趣味者なのか若めの方もおられましたし、またどういうわけか、こういう場所ではあまり見かけないうら若き女性3人連れがいました。

 閑話休題、講演の内容をかいつまんでご紹介しましょう。

 まずは鈴木勇一郎さんの講演「戦前東京の地下鉄計画」です。
 この講演の概要は、日本最初の地下鉄を実現したとして名高い早川徳次の東京地下鉄道は、東京市を含めた様々な地下鉄計画の中の一部を担っていた存在であるということ、結果的に東京地下鉄道は東急を築いた五島慶太の傘下に入りますが、それは五島の私利私欲だけではない五島なりの交通調整(様々な交通機関や事業者が入り乱れると、混乱して効率が低下し利用者の不便にもなるので、政策的にそれを調整すること)の考えがあったこと(しかし結局東京の交通調整は営団が出来たのみ)、といった辺りにあります。以下箇条書き。

・戦前東京の地下鉄は、早川徳次を中心とする東京地下鉄同の物語としてもっぱら語られ、五島慶太の東京高速鉄道と新橋で争い、遂に乗っ取られる経緯はかなりよく流布した話である。しかしこれは、東京の地下鉄の中では一部の話に過ぎない。相対化の必要がある。
・この講演では、地下鉄だけでなく、明治から蓄積されてきた様々な都市交通を語る。その際、市内・郊外交通の関係と、経営体のあり方という二つの視点から俯瞰する。問題提起的な話。

・東京史における市街電車の成立は、1903年の東京馬車鉄道・東京市街鉄道・東京電気鉄道の三社が誕生したことによる。この三社がまもなく合併して東京鉄道になり、1911年に市有化される。
・これらの市街電車はしかし、市内交通機関にとどまらない性格を有していた。東京電気鉄道は当初川崎電気鉄道と称し、信濃町から渋谷、中目黒、池上を経て川崎に至る路線を構想していた。市内と郊外の直通連絡を志向していたのである。しかし、結局それは実現せず、当初の構想は忘れられて旧市内に閉じこめられ、市電に取り込まれて市内交通になってゆく。
・東京の郊外私鉄については、東京市の市営主義で郊外私鉄が山手線より内側に入れなかった・・・と良く云われるが、東京市に鉄道の免許権限はない。許認可権を持っているのは国で、市は牽制はするが、国は時として免許を与えた。しかし国の方針は揺れ動き、都市交通も振り回される。

・川崎→東京電気鉄道の計画を実質的に引き継いだのが渋谷~横浜の武蔵電気鉄道(1906計画:後の東急へ繋がる)。しかしこの電鉄は高速鉄道(路面電車ではない、専用軌道を有する電車)を志向したため、路面電車と規格が異なり、そのままでは市内直通が困難に。
・1914年に武蔵電気鉄道は市内有楽町への支線を出願し、それは地下式か高架式として、明確に高速鉄道による乗り入れを志向。
・1919年には利光鶴松らの東京高速鉄道(後の五島による地下鉄とは別)が、市内・郊外の半環状線・新宿~小田原の路線を出願。これは市内の計画が却下されて、残りが現在の小田急になる。従来、市内の出願はダミーともいわれてきたが、市内と郊外を一体化した交通ネットワークを志向していたのでは。
・同年、ロンドンを調査した早川徳次等による地下鉄出願。

・一方、1917年には鉄道院主導で東京市内外交通調査会が作られて、東京における高速鉄道計画を策定、私鉄に地下鉄免許が下りる。
・しかし、1923年の関東大震災後、国の政策が転換し、計画が進んでいた東京地下鉄道以外の私営地下鉄の免許を失効させる。代わって市が1926年に免許を獲得。その翌年に、最初の地下鉄・東京地下鉄道が上野~浅草を開業。
・ところが、東京市は起債の許可が政府から得られず、建設資金調達の目処が立たなくなった。そのため、民間から再び参入の動きが出、東京高速鉄道が東京市の免許路線の一部を肩代わりして建設することを要望し、1932年に一部免許を譲受。

・東京高速鉄道の経営を五島慶太が実質的に掌握し、巷間よく知られる東京地下鉄道との対立へ。新橋でぶつかった両線が、乗り入れを巡り衝突。
・割り込まれた東京地下鉄道は、明治時代から市内直通を画策していた京浜電気鉄道(現京急)と共同し、京浜地下鉄道を設立。品川~新橋~浅草の相互直通を構想する。このため、当時の京浜の電車は、第三軌条集電方式である地下鉄用の、コレクターシューが取り付け可能の構造になっていたといわれる。
・そこで五島は「強盗慶太」として東京地下鉄道・京浜電鉄とその関連会社を乗っ取り。これは市内・郊外の統合的運用を意図した、事実上の交通調整となっていった。同じ頃、イギリスではロンドン交通営団が組織され、都市交通が一元管理されていた。

・1932年、東京市の市域拡張(大東京:現在の23区の範囲に)。これにより、広がった市に相応しい交通が必要に。
・大東京の交通調整では省線が重要な要素であったが、その参加が交通調整のネックになった。
・1938年、各地の交通調整を進めるために陸上交通事業調整法成立。交通事業調整委員会を設置。
・その委員会の検討では当初、帝都交通株式会社という半官半民の経営体による統一が検討されたが、結局郊外は地域ブロックごと、旧市内は地上交通を東京市、地下鉄を特殊法人に統合することとなる。帝都高速度交通営団が設立され、私営の地下鉄(計画)も市の計画も、全てを継承した。

・戦後、郊外と市内交通の関係は、相互乗り入れの促進によって改良された。一方経営体の問題は、東京都が戦後、地下鉄を営団へ渡したのは戦時中でやむを得なかったからだと主張しだし、複雑な関係が続くことになる。


 引き続き、久多羅木さんの講演です。久多羅木さんは元々営団地下鉄で長年建設に従事され、交通計画やトンネルなどがご専門なのだそうです。そして営団を辞めて、今は建設会社に勤めておられる由。
 さて、久多羅木さんの講演は、理系だからというのか、パワーポイントによる上映画像が多く、しかしそれはレジュメの形では配布されませんで、またお話全体も多岐に渡って、こういった「講演」の形式にあまりお慣れではなかったのか、話を一本の線でまとめて以下に述べることが難しいので、小生が取ったメモの中から興味深いトピックを箇条書きで列挙していきたいと思います。

・地下鉄の定義はややこしい。ここでは主として地下を運行している事業者の路線、くらいの意味とする。世界最大はロンドンとされるが、地下区間だけを取り上げれば東京は約270キロで世界最大。ちなみに地下第2位はソウル(約260キロ)で、ほとんどの区間が地下。

・東京の地下鉄ネットワークは、世界に例のない特徴を幾つも持っている。相互直通はその一つで、適切な英語の訳語がない。これは日本人の緻密な性格やソフト面のきめ細やかさによるものか?
・また、地下鉄を地上の電車と同じ、20メートル級10両編成の大規模な列車が走るのも割と珍しい。東京では、都営12号線の車輌が他の路線よりも小ぶりだが、あれくらいが地下鉄車輌の世界標準。

・東京の高速鉄道網の整備には、震災と戦災が大きな転機になった。また、1962年の都市交通審議会6号では、地下鉄計画が大幅に郊外に延伸され、郊外との連絡が図られた。

・地下鉄を作る上では、特に建設規格が重要である。(具体的に、トンネルをの掘り方がどのように変わってきたか、図を出して詳しい解説があったのですが、それは残念ながらここでは述べられません。建設中の面白い写真も色々あったのですが・・・)
・地下鉄は排水などの都合上、水平な線路を造ることが出来ない。最緩勾配は2パーミル。
・地下鉄の経費は高い。在来線を東京から下関まで作る費用で、新幹線は名古屋までしかできないが、地下鉄は横浜までしかできない。

・昔、「牛の乳の出が悪くなる」と鉄道建設反対運動があったというが、地下鉄でも反対があった。麻布付近で反対があり、その地域は都電廃止後鉄道がなく「陸の孤島」となった。その後南北線を作ることになって地元に行ったら「反対したのは親爺の代だから、宜しく」といわれた。
・地下鉄建設の問題は、開削工法の場合周辺への影響が大きいこと。そこで周辺への影響が少ないシールド工法が採用されるように。千代田線は20%をシールド工法で作ったが、有楽町線は66%。その後の路線は大部分シールド工法。

・今年開通した副都心線について。副都心線は従来と異なるコンセプトであり、千代田区付近を通らず、副都心の大ターミナルを貫通している。
・郊外から地下鉄に直通した電車が、地下鉄に乗り入れると遅くなるというのを解消するため、副都心線では速達制を重視し、東西線程度の表定速度を確保した。これには平行線の存在もある。
・また、他線との乗り換えを便利に、なるべく歩かずに済むよう工夫した。

 他にも色々あったのですが、図なしでは上手くお伝えできず残念です。余談ですが、昔の鉄道反対云々は怪しいという話(鉄道忌避伝説)はこの本で説明されておりますが、大体その伝説では「宿場が衰退する」「火の粉で火事になり、蚕に悪影響」なのであって、「牛の乳の出が悪くなる」というのは新説な気が。日本では牧畜が盛んではないし、大体コールドチェーンがなかった昔は、牛乳用の牛は町中かせいぜい郊外で飼っていたのではなかったかしらん。
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質疑応答時の会場の様子

 閑話休題、質疑応答の要点は以下の通り。

 まず、司会の早稲田の山根講師が問題提起的な指摘を幾つか。
・早川徳次への影響、震災復興など、後藤新平の存在が大きいのではないか。20世紀の初頭は世界的な都市論ブームで、留学した官僚が欧米の情報を持ち帰っている。後藤もそれに関係。
・地下鉄に於いては、土木技術と同時に電気技術が深く関与している。長距離送電技術の実用化が地下鉄を可能にしたのではないか。現在でも電気技術は重要。

 これらについき、講演者の回答。

久多羅木さん:地下鉄の技術は安全性を重視し、戦前の打子式ATSにはじまり、新幹線より早く日比谷線でATCを導入している。そういった先進性がある。

鈴木さん:後藤の話をしなかったのは、東京の都市計画の中でその話は既に語られており、それとは違う話を今回したかったため。地下鉄については早川の話も以前から有名であるが、五島や早川や東京市を並列的なプレーヤーとして扱ってみた。
 震災以降の、国の地下鉄政策の方針転換(私営容認→市営)は、後藤の影響の可能性はある。
→(山根):後藤はアメリカと縁があり、ニューヨークを真似て市政調査会を作った。都市の拡大を問題視せず、大都市でいいんだ、という開き直りの都市行政となっていくのではないか。それを主導するのが技術官僚で、彼らを支えた一人が後藤。

 続いて、会場から出た質問。

・90年代に営団民営化の話が出てから、副都心線の構造が変わったようだが、その辺りの背景は。
→(久多羅木):営団の民営化は営業状態と関係なく、特殊法人改革の一環として行われた。営団民営化という決定自体は、閣議決定では4、5回されている。民営化の結果、白金付近は複線になった。

・帝都交通株式会社とはどのような構想か。
→(鈴木):各私鉄と省線を含めて会社を作ろうとしたが、省線参加が大きな問題になった。

・東京市としても地下鉄の位置づけが不明確。
→(鈴木):地上の交通(路面電車)から高速鉄道に移行すべきとは認識していた。だから経営も引き続き市が行う、という発想を持っていた。

・地震の際、地下鉄にいたらどうすればよいか。
→(久多羅木):地下鉄の構造物は、大地と共に揺れるので、地上より相対的に安全。自分なら地下鉄に避難したいくらい。但し怖いのはパニック。

・東京の地下鉄建設が終わったら、技術者集団はどうなるのか。トンネルの多い新幹線などに転身するのか、海外に打って出るのか。
→(久多羅木):今後も大深度地下は活用されるだろう。

 この辺で、時間いっぱいになりました。
 なかなか面白い話でした。個人的には、やはり歴史的な方向に関心が向いてしまいますが、久多羅木さんの建設秘話的な麻布地区住民の声は興味深く、こういう話をもっとたくさんしていただければ、と思わずにはいられませんでした。
 歴史方面でいえば、山根さんの「長距離送電技術の実用化が地下鉄を可能にしたのではないか」というご指摘はなかなか面白いと思いました。ただ、長距離送電の実用化それ自体がもたらすのは、端的に言って電力の価格が低下するということですが(供給量が増えるから。また、大規模な水力発電は、将来の需要増を見込んで作られるため、建設当初はどうしても余剰電力が生まれる。そのため電力会社は余剰分を安売りして電力需要を開拓しようとするので、電力の活用が進む)、電力が安くなるだけでは地下鉄建設の強いインセンティヴになるのかどうか。地下鉄の運営に際し、電気代が直接的にどこまで重要かは検討が必要です。むしろ、社会での電力の活用が進むことで、電気産業全体が栄えるという間接的な形で関与しているのではないかと思います。電力会社と鉄道会社は、資本・技術・経営の各面で関係が深いので、この方向はもっと追求されるべきと小生は考えています。
 東京の交通調整について、鈴木さんの講演では鉄道省の行動の経緯がやや弱いと感じました(と、ご本人に後で言いました)。なかなか分かりにくいのは確かなのですが。しかし、当時の交通調整委員会の議事録など読んでも、省線は都市交通で重要な存在なのに、交通調整への参加を渋り、「線路が繋がっていて駅も共用しているから、新法人には出資できない」と主張したり、出資するにしても運営は鉄道省が委託という形で行う、と主張したり、揉めています。結局委託では見目の前を通り過ぎただけで意味がない、と委員会で一番文句を言っていたのは堤康次郎でした(衆議院議員の資格で参加)。
 鉄道省は巨大な現業部門と、交通事業の監督部門とを同時に抱えており、しかも都市交通上重要な存在なのに、現業部門の中では「全国の交通体系が国鉄の任務であって、都市交通はおまけに過ぎない」と軽んじられ、その捻れが、おそらくは戦後に至るまで様々な問題を引き起こした(反って良かった面もあるかも知れませんが・・・)といえます。そして東京市(→東京都)は、自分こそが中心と自負してみても、結局自分の力では出来ずじまいで他の当事者から経営能力を疑われたり。実際東京の都市交通は、市や都の範囲を超えているわけですが。
 となると、世界に比類なき相互直通運転の発達も、こういった戦略レベルでの当事者のごたごたを、現場の作戦レベルで解決しちゃった・・・という、ある意味「日本的」なことだったのかも知れません。そしてそれに協力的だった、満員電車の乗客の存在と。 
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by bokukoui | 2008-12-14 23:36 | 鉄道(その他)