2006年 08月 30日 ( 1 )

先週の話に一区切りつける

 今日こそ何とか、この話題の完結を。
・・・つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々な汚点を見出すよりも、投げ捨てられた襤褸の片にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実がかえって沢山に摘み集められる。
 とりあえず永井荷風を引用して考えの糸口にしようとしてみたり。これは小生のHNに似た言葉が漢字で出せない作品の一節より引用。
 先週の話にコメントをつけると書いてはや一週間。古本屋で買ってきたササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』とか読んで多少考えてみるもそれほど見通しは広がらず。

 ところでもともとのところに立ち返って考えるに、本話題は『ガンダム』を肴に「オタク」文化等と称されるような類のもの(「マニア」とか「サブカル」とか呼ばれるものも大体入りそうな大雑把な意味で)を評価(正当化)するスタンスについて小生が自己の経験に基づいて雑感を述べ、それに何人もの方がコメントをお寄せくださった、特に緒方任意収容所氏はご自身のブログで関連した議論を展開してくださったという経緯を辿ってきました。
 で、結局何が問題かというと、自分の趣味的行動について、それを周囲にいかように説明するか、或いはしないかという問題であろうと思います。そもそもの発端である『ガンダム』について、それが「大人向け」「深い」から、それを見ている自分もまた立派なのである、そのような精神が垣間見えるわけですが、そんな説明をしたがるところに疑問を覚えたわけです。
 その疑問はさらに二つの内容に分析できると考えます。一つは、大人向けである、高尚であるというけれど本当にそうか? という疑問です。これは「軍事」に関しては緒方氏が詳細に論じてくれましたが、一見高度そうな要素(軍事、政治、歴史、哲学、etc.)を取り込んでいるように見えても、その高尚そうな話題に触れていること自体で恰好つけているだけで、その軍事や政治の内容そのものに関心があるわけではないのではないか、ということです。某後輩氏が弟さんの『銀英伝』についてのコメントで脱力されたというのが、大変分かりやすい例だと思います。

 で、一つ目の内容については緒方氏や某後輩氏が触れてくださったので、ここでは二つ目の疑問を中心に考えてみたいと思います。
 二つ目の内容とは、これは22日の記事に spade16氏がコメントしてくださったことと通じるのではないかと思うのですが、自分の趣味について、「大人向け」「高尚」といった根拠で正当化しようということ自体にそもそも意味があるのか? ということです。
 「オタク」といってもいろいろあるわけですが、特撮・怪獣・巨大ロボットだとか、漫画だとかアニメだとかテレビゲームだとかのそれについて考えるに、そもそもそういったものは子供のおもちゃみたいなもので、いい年をした大人が趣味とするにふさわしくないとそもそも見做されていたものでした。鉄道趣味者もやはり「いい年齢をして・・・」といわれるような存在ではありました。
 で、そういった類の趣味を継続している人間が、その趣味にはまっている自分に自信を持つための何らかの理論を構築する際には、自分の趣味を「高尚」であると称する以外にも戦略はあると思うのです。それは、自分の趣味の対象は確かに「子供向け」「荒唐無稽」「悪趣味」である、しかしそういったものを趣味として評価できる自分の価値観というものはスゴイんだぞ! という、いわば選民思想です。この趣味の楽しさは選ばれし者にしか分からないんだ、という考え方ですね。
 選民思想というとどぎつい言い方ですが、もう少し穏健な言い方をすれば「分かる人だけ分かればいい、分からない人は一杯いるだろうがそれは仕方ない」という考え方です。
 第一の内容の方法が、趣味対象への世間のものさしの当てはめ方を批判する方法であるとするならば、この第二の内容の方法は、ものさしの目盛りの振り方を変えてしまうという方法になります。

 最近の「オタク」を好意的に持ち上げて見せる一部の状況や、それを比較的素直に受容してしまうような一部の(あくまで一部のはず)「オタク」と呼ばれるような人々が多少いるように思われ、しかしそういった事態に違和感を感じることがあるのですが、それは自分の趣味を正当化するのに世間の価値観に順応して見せる必要は別に無いのではないかということです。
 もっと言えば、自分の好きなことを追い求めるのが「マニア」やら「オタク」やらの行動原理であって、世間的な評価が欲しければそんなこと最初からやらずに別のことをやった方が合理的ではないかと思うのです。ですから、「オタク」なり「マニア」なりと呼ばれる人々が自己正当化する場合は、第2の内容の方法、つまり選民主義的な発想をするというのが、合理的な説明のように思っていたのです。それは自己を顧みても思い当たるところがあるもので(苦笑)。
 狭義の政治的な運動ではない趣味に関る話ですから、個人的で主観的なこのような解決方法でも構わないと思います。むしろ、世間の承認を求めようとして返って承認しない人々を無闇と批難するようになるよりも、安全な方法かもしれません。

 で、そこら辺から『嫌オタク流』の評価に話を繋げて、Lenazo氏のご意見に小生なりの見解を示したいと思うのですが、流石にもう長すぎるので、以降は次回に回します。
 ああ、結局区切りはつかなかった・・・
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by bokukoui | 2006-08-30 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(0)