カテゴリ:歴史雑談( 132 )

『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩

 率直なところそれほど気の進む記事ではありませんが、来年に持ち越すのも何なので年内に何とか書いておきます。

 それは少し前の記事でちょっと触れましたが、当ブログの過去の西尾幹二氏に関する記事の一部が、西尾氏がブログなどをまとめた本『西尾幹二のブログ論壇』(総和社)に掲載され、そのため発売日直前に同書を一部ご恵贈いただいた、というものです。

 まずは何より、ご恵贈いただいたことに感謝申し上げます。小生は、以下に再度述べますように、西尾氏とその取り巻き連のご意見には全く賛同できませんし、そのことをブログでも明記しておきましたが、そのような意見についてもブログを本にする際に収録し、そのネット上の文章の執筆者にもご恵贈下さるというご丁寧な姿勢は、まことにご立派なことです。
 ただし、本書巻末の「執筆者一覧」の「編集部からお知らせ」には、連絡の付かなかったブログ筆者に宛てて「献本と薄謝を差し上げたい」からご連絡乞う、とあり、当初小生が編集部からいただいたメールにも同様の旨記述がありましたが、編集部から送っていただいた封筒には本と手紙しか入っておりませんでしたが・・・まあ、かえって気まずいので、これでいいのでしょう。

※追記:その後、「薄謝」は送っていただきました。

 なお、本書にご収録いただいた拙ブログの記事は、以下の一連の記事の一部です。

 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」
 ・秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き」
 ・『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ
 ・『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談評への西尾氏のコメントについて


 また、以下の記事も関連する内容を含んでおりますので、ご参照いただけましたら幸いです。

 ・アパグループ『謀略に!翻弄された近現代 誇れる国、日本。』瞥見
 ・「建国記念の日」に思う 「条件付き愛情」的な「愛国心」

 さて、小生の、西尾氏の歴史に対する見方については、上掲記事に既述してあり、大きく付け加えることはありません。西尾氏の本書も、基本的には西尾氏のブログの文章を、トピックごとに引用部も含め再録したものですので、これも付け加えることはあまりありません。
 ですのでこれでご紹介を終わってしまっても構わないですし、率直に言えば小生の考えとは氷炭相容れぬ書物について喋々するのは読む方も書く方も楽しいとも思えませんが、しかし多少胸に閊えているものもあり、一筆しておきます。

(胸のもやもやを愚痴っているだけなのでお暇で物好きな方のみどうぞ)
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by bokukoui | 2010-12-30 22:06 | 歴史雑談

講演会「第一次世界大戦における海軍と外交」@五月祭 無事終了

 先日来当ブログでも告知に努めておりました、東大の五月祭での講演会「第一次世界大戦における海軍と外交」が昨日無事終了しました。
 正直告知が後手に回ったので、どれほどの来場者があるか心配だったのですが、蓋を開けてみれば満員御礼といっても良いくらいの入りで、まことに嬉しい結果となりました。
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講演会の様子 聴衆で一杯の教室

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受付の様子 大きなポスターが人目を惹き、撮影する人も

 上の写真は肖像権を考慮して、ちょっと小さめのサイズに調整してありますが、会場の入りの具合はお分かりいただけようかと思います。12時半の開始時点ではやや入りが少なく、知り合いの顔が目立つ感じもありましたが、幾ばくもなく会場はご覧の通りになりました。学園祭の一環ということを考慮し、入退場自由なのは勿論、三つの講演毎に長めに休憩を取って出入りしやすくしましたが、かなりの方が全ての講演を聴いて下さったようですし、また講演の途中で中座される方もほとんどいませんでした。それだけ、皆さん講演を面白く聞いて下さったのだと思います。これほど成功と言えることはありません。
 素晴らしい講演をして下さったいぎしさん・新見さん・大塚さんと、企画の黒幕の金剛会諸氏、そして聴衆の皆様に感謝申し上げる次第です。

 さて、もし期待して下さった方がおられましたら申し訳ないのですが、前回の講演会については当ブログでレポを掲載しましたが、今回は諸事多忙につきレポが掲載できませんことをお詫び申し上げます(都条例関係のイベントレポより、講演会のレポを書いた方が、当ブログの読者層にとっては良いのかも知れませんが・・・)。今回はまた、小生が司会や案内などいくつかの業務を講演会中行っておりました関係で、メモを全く取れていないのも理由です。
 司会は成り行きで務めることになってしまった(誰かに押しつけるつもりが忘れていた)のですが、要領の悪さで講演者や聴衆の方々にご迷惑をかけなかったか・・・質疑応答の時、見落とした質問希望の方はいなかったと思いますが。質疑と言えば、今回の講演会でも結構多くのご質問を聴衆の方からいただきましたが、この手の講演会でありがちな(苦笑)自分語りとか始めてしまう困った人がおらず、よく講演を聴いた上で発せられた質問ばかりだったのは、この講演会の成功をもっとも良く表していると思っています。それだけ聴衆の方にも講演の面白さがよく伝わっていたわけで、喜ばしい限りです。・・・余計な話をしたといえば、司会者がついスション提督の敗戦時のエピソードなどついでに紹介してしまったりしましたが、ぶちこわしになっていなければ幸いです。
 講演の内容については、なにがしかの形で纏めて提供することも考えられておりまして(実現するか不明ですが)、気長にお待ちいただければと思います。

 さて、以下ちょっと五月祭関連の余談など。

(以下余談)
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by bokukoui | 2010-05-30 23:59 | 歴史雑談

【告知】講演会「第一次世界大戦における海軍と外交」@東大五月祭

 5月29日(土)、五月祭中の東大本郷キャンパスにて、講演会「第一次世界大戦における海軍と外交」が開かれます。ご関心のある方は是非お越し下さい。
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(詳細は以下に)
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by bokukoui | 2010-05-29 12:30 | 歴史雑談

坂本龍馬ブーム? にふと浮かぶ妄念「せんたくいたし申候」

 一昨日は四月も半ば過ぎというに降雪を見、一体どうなっているのかと寒さに震え上がっておりましたが、昨日の午後から今日にかけては漸く天候も春らしくなってきたようです。寒さもあってか、或いは花粉デビューによる目の疲れなのか? 何事も能率が上がらず片付かずブログも間が空く状況が続いておりますが、これから気候が良くなりそうなので、それに合わせて物事を済ませていきたいと思っております。

 ところで、最近NHKの大河ドラマで坂本龍馬を取り上げているせいか、龍馬関係の話題が何だか矢鱈と目に付き、先日の鳩山邦夫離党の際にも自分を龍馬に準えたとかで、しかしそれを批判した前原国交相も龍馬の「ファン」だとかで、小生は基本的にはどんな形であれ多くの人が歴史に関心を持つことは結構と思いますが、歴史上の人物に勝手に自分の願望を託して悦に入らないで欲しいとつくづく思うわけです。以前にも西尾先生トバしすぎの一件とか、割と最近では「愛国心」がらみでそんなことを当ブログで書いた覚えがあります。
 しかし大河ドラマ効果か、書店の店頭などを見ても、もちろんネット上でも、龍馬関係の言説はあふれかえっており、特に個人的に目について気になるのは、坂本龍馬の書簡の一節だという、「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候」というフレーズで、これを振り回して改革を待望する的な心情があっちこっちで見られ、あまつさえこのフレーズが幸福実現党のポスターにまで書いてあったので、ますます以てげんなりしました。

 で、げんなりした小生の、寒さや何やでくたびれきった脳裏に、突然次のような電波が降りてきました。




「ユーゴを今一度せんたくいたし申候」

by ミロシェヴィッチ大統領



 "cleansing"の訳として「せんたく」は、許容の範囲だと思います。

 流石に原史料が気になって、「日本を今一度せんたくいたし申候」でぐぐってみると、有り難いことに元の書簡をアップしてくれている方がおられました。・・・をを、前後にのばしても行けそうだな。「右アルバニアの邪教徒を一事に軍(いくさ)いたし打殺、コソボを今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候」てなとこで。他にもいろいろ応用が利きますな。「ルワンダを今一度せんたくいたし申候」とか。

 一応念のために、かかる軽口を不謹慎と思われるような方のために蛇足を承知で一筆添えておきますと、史料をその文脈から切り離して、更に史料内の文脈からも切り離したフレーズだけ振り回しても、それは如上の電波の如きものであろうということです。
 小生は維新史には全く疎いですが、しかしこの書簡を一瞥しても、例えばその後の大政奉還や船中八策に通じる観点から見れば、この「せんたく」云々の一節と比して、より意義のありそうな箇所を見つけ出すことは出来そうです。それでもなお多くの人が「せんたく」を引っ張りたがるのは、社会改革は「姦吏」のごとき悪者を一掃すれば足ると考えがちだからなのでしょうか。しかし、それこそエスニック・クレンジングへと繋がる道のようにも思われるのです。そして、エスニックをクレンジングしてしまうような時には、文脈から切り離された歴史上のフレーズが使われることもまた、ままあるようにも思われます。
 ・・・てな風に真面目ぶってみたけど、案外、元の書簡で一番わかりやすいフレーズが「せんたくいたし申候」だったから目に付いた、だけかも知れませんね。玉音放送の「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」みたいなもんで。
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by bokukoui | 2010-04-18 20:33 | 歴史雑談

「宇治電ビル」(近日解体予定)を見に大阪へ行く

 初手からなんですが、本記事の表題には誇張があります。小生は目下、某学会の大会で大阪に来ておりますが、そのついでに表題の宇治電ビルを見に行ったまでです。某学会も大変面白く、今後の研究にいろいろ参考になりましたが、それを詳細に書いている暇はありませんで、代わりに宇治電ビルのご紹介などをしてみようかと思います。
 ところで宇治電とは、戦前の日本の五大電力の一つ・宇治川電気のことで、社名のように宇治川の水力発電に端を発し、関西地区を地盤とした会社で、一時は現在の山陽電鉄を支配下に収めていたりもしました。もっとも関西では、大阪・京都・神戸は電気事業が市営化されており、郊外は電鉄会社が電力供給区域を有していて、関東の東京電灯・中部の東邦電力ほどの圧倒的支配力を発揮することは出来ませんでした。五大電力の三番手といったところです。
 そんな宇治電が1937年に建てた9階建ての本社ビルがこの宇治電ビルで、電力国家管理が行われて宇治電が解散に追い込まれてのち、関西電力が発足するとその所有になりました。現在は関電の関係の不動産会社が所有しているようです。宇治電が消えてもその名を現在に伝える存在でしたが、残念ながら取り壊して再開発することが決定したそうです。昭和初期の鉄筋コンクリート建築なんてまだまだ頑丈そうなのですが、今時地上9階では駄目ということでしょうか。

 というわけで、現在電鉄業から電力業に研究の手を広げつつある小生、開業した京阪中之島新線や阪神なんば線はいつでも乗れると無視して、学会開始前のひとときに急いで見に行って、写真を撮ってきました。以下にご紹介。今回の記事の写真は、基本的にクリックすると拡大表示します。
 ビルの所在地は上掲リンクにありますが、大阪駅から南東方向に徒歩15分くらいの所にあります。曽根先警察署の先を右に折れ、太融寺の前を通って南下すると、大通りの向こうに宇治電ビルが見えてきます。
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新御堂筋のランプの向こうに姿を見せる宇治電ビル

 正面の白っぽいタイル張りのビルが宇治電ビルです。この写真でも、宇治電ビルにはなにやらレリーフが取り付けられていることがお分かりいただけようかと思います。

(写真が多いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-11-14 23:59 | 歴史雑談

史実の『大正野球娘。』 大正14年に実在した少女野球チーム

 なんか忙しさに目が回りそうで、それでいて眠気も取れず、いろいろ鬱積しております。
 ので反動で、以下にどうでも良さそうな歴史ネタを見つけたので一つご紹介。

 小生が唯一定期購読している雑誌は『月刊COMICリュウ』ですが、同誌でコミカライズ作品が連載中の『大正野球娘。』が、今夏アニメ化されてそれなりに話題になっておりました。当ブログでも何度か取り上げましたが、大正14(1925)年に女学生が野球をしようと奮闘する物語ですが、設定以外は漫画とアニメはほとんど違っておりました(笑)。原作は小生は未読ですが、どっちに近いんでしょうね。

●小説版

神楽坂淳(挿絵:小池定路)『大正野球娘。』
 小説版は現在3巻まで出ていますが、3巻は何故か『帝都たこ焼き娘。』という表題になっております。
●コミック版

伊藤伸平(原作:神楽坂淳)『大正野球娘。 1』
 こっちは2巻まで出てます。






 ところで、大正14年といえば、前年に阪神甲子園球場もできているし、野球人気はすっかり定着した時期ではありますが、女子野球チームなんてあったのでしょうか。小生はスポーツ史や教育史にはあまり関心がないので存じませんが(電鉄会社の兼業と沿線開発には多大の関心を寄せていますが)、ウィキペディアに「女子野球」なる項目があって、「1924年には福岡県立直方高等女学校(現・福岡県立直方高等学校)野球部と熊本県立第一高等女学校(現・熊本県立第一高等学校)野球部とが日本初の女子野球試合を予定していたが、前者が県当局の命令で解散させられ実現しなかったという記事が『福岡日日新聞』に掲載されている」なんて記述があります。無いわけではなかったんですね。

 で、最近小生、仕事で『山梨県史』の資料編をひたすらめくっておりましたところ、上の小説や漫画やアニメの舞台である、まさに1925(大正14)年に、少女野球チームが存在したという記事を見つけましたので、以下にご紹介します。
 それは、『山梨県史 資料編19 近現代6 教育・文化』に収められている、『山梨日日新聞』の大正14年11月3日付の「大正十四年度山梨県下運動年鑑」という記事(資料番号315、p.915~)で、この年正月から10月末までの山梨県でのスポーツ関係情報総まとめ、のような記事です。ここから野球に関する記述を引用してみましょう。なお仮名遣いを読みやすく直しています。
 野球界
 春の大会に聯隊が優勝した後のシーズンはホット一息いれた貌であったが、法政対オール甲府軍の一戦に煽られたファンの熱は次第に高まって爾後の筍の□(注:欠損)に生まれ出た市内各町チームや村の青年団チームの対抗戦などが其処此処で行われて百花爛漫の賑いを見せた。
 (中略)
 「女子の野球は」と文部省あたりの役人が兎や角問題にしている間に本県には早くも少女チームさえ生まれて郡内の球界を賑わせ、遠く本場のアメリカからは花秘かしい女子の野球団が来朝してお転婆振りを発揮して皮肉り廻る。
 更に天高肥馬秋の県下大会は二ヶ月に亘って回を重ねる毎に人気を博したが(一)対法政戦に初めて入場料を徴したこと(二)三十歳以上の天狗クラブの出現や(三)少女チームの活躍振りなど二十年前の素手素足からサシコのズボンの野球時代と比較すれば甲州の野球も全く隔世の感があるといえよう。
 この後、山梨でこの年行われた野球の試合結果が延々と続きます。県史の資料編にして10ページくらいあります。他にもテニスだの武道だのの話もあり、この日の山梨日日新聞はスポーツ特集で埋まっていたのでしょうか。
 その試合の中には、実は少女野球チームの話はなかなか出てこず、はっきり書いてあったのは以下の一つしか見つかりませんでした。この年9月27日のことです。
郡内少年野球戦 谷村小学校に挙行、参加チーム八、評判の少女チームは尋五チームに惜敗し尋五城下竜門ハート一勝す
 郡内とは山梨県東部の都留郡あたりのことですね。谷村は現在の都留市です。
 で、少年野球の中に少女チームもいた模様。8チームで4戦して、勝ったのが尋五・城下・竜門・ハート(ハイカラな名前だ)の各チームだった、ということなのでしょう。少女チームのチーム名が不詳なのは残念。
 対戦相手がチーム呼称から尋常小学校5年生と推測されますので、彼女らも小学生でしょうか。もっとも小学生でも、男子相手に多少のハンデとして、高等小学校の生徒でチームを作れば、年齢は14歳も含むことになって、まさにアニメ版『大正野球娘。』でやっていた、桜花会vs近所の小学生の試合状態だったかも知れない、と妄想は膨らみます(笑)。
 本件の詳細に関し、地元の方などからの情報提供をお待ちしております。旧谷村町の町史でも調べれば載ってるかな? 『大正野球娘。』ファンの山梨県民の方は、一つ原資料でもあたっては如何。

 余談ですが、記事中に出てくる野球チームで「聯隊」って、これは甲府の第49聯隊のことでしょうね。で、聯隊の野球チームは対外試合もしょっちゅうやり、山梨球界の強豪チームとして名を馳せているようです。
 数えたらこの年10ヶ月間で13戦7勝(新聞社主催の県大会で優勝1回)の戦績を残しておりました。・・・演習そっちのけで練習してたのかなあ、もしかして。聯隊チームが打って勝つと、新聞に「健棒大いに振るって」などと書かれてありましたが、「健棒」という表現は今でもスポーツ新聞で使えばと思います。

 てなわけで、大正14年に、少女野球チームが試合をした史実は存在しました。是非、『大正野球娘。』の今後の展開に、山梨遠征を入れていただきたいと思います。実際、法政や慶応などが遠征に行っているようですね。
 ところで、小生は小説版『大正野球娘。』は読んだことがないのですが、書店で本書に参考文献が載っていないか好奇心で覗いてみたことがあります。すると載っていたのですが、なるほど東洋英和の校史やお馴染み『女學生手帖』などが載っていたのは納得ですが、それにしても食物史関係の本がえらく多かった印象があります。なるほど、主人公・小梅の家が洋食屋だから、そこの描写に必要だとは思いますが、しかし『魯山人味道』とかは別に関係ないような。大体魯山人は和食の人だし、この本に載ってる記事はみんな昭和のだし。
 てなことを書くのは小生も中公文庫の『魯山人味道』は持ってるからで(『陶説』は持ってない。白崎秀雄『北大路魯山人』は持ってるけど読んでない)、「まぐろの茶漬け」とか早速実践してみました。簡単でなかなか美味しく、これはお勧め。
 閑話休題、コミック版が野球を離れて「マッドエンジニア乃枝さん暴走の日々」と化している一方、原作小説の3巻は『帝都たこ焼き娘。』となっていて、これまた野球でなくなっています。もしかすると著者の神楽坂氏は、野球よりも食べ物の歴史にご関心がおありなのでしょうか(そういえば参考文献に、スポーツ史関係の文献が見あたらなかったような記憶が)。
 でしたら、是非次は、本件の史実を取り入れ『山梨ほうとう娘。』でお願いします(笑)

 ところで、『大正野球娘。』歴史ネタといえば、小生の周辺でも「金融恐慌や世界恐慌で、お嬢の家は没落するに違いない。そこでお家再興のため一旗揚げようと満州に渡って・・・」などと妄想を巡らしていた人がおりました。で、今回、この山梨のネタを先にネットで紹介している人がいないか検索した時に、以下のようなブログ記事を発見しました。

・落書きノート2冊目 ヽ(゚∀。)ノ さん「【アニメ・政治・社会】大正野球娘。」

 やはり考えることは皆同じ、ですね。
 このブログの執筆者の方は、三郎さんが日中戦争勃発時点で32歳だから召集されないかと心配されていますが、それはまさに危険で、1937年8月に東京第1師団管区から召集した中年の兵士で特設師団・第101師団を編成し、上海戦に投入しています。これが上海周辺のクリーク地帯攻略で苦戦を強いられ、相当の損害を出しました。現役部隊でも手強いところ、特設師団ですから一層の苦戦になりました。詳しくは当ブログでも昔紹介した『第百一師団長日誌 伊東政喜中将の日中戦争』をご参照下さい。
 更に、アニメ版で野球娘たちの練習試合の相手になっていた小学生たちの将来も、上掲ブログ執筆者の方は心配されてますが、確かに心配です。麻布周辺に住む彼らの多くはおそらく麻布第1聯隊に入営するでしょうが、年から行くと、2.26事件で反乱軍になってしまう可能性もありますな。それをやり過ごしても、第1聯隊は第1師団所属部隊として太平洋戦争に臨み(ちなみに甲府49聯隊も第1師団です)、そして第1師団は、フィリピンのレイテ島で玉砕します。
 アマゾンは、『大正野球娘。』関連商品に、大岡昇平『レイテ戦記』を入れるべきかも知れません。
 
 何だか暗い落ちになってきたので、最後は明るめのネタで締めましょう。
 本記事のおまけに、大正時代の女学生の体操服姿の写真を載せておきます。昔作った同人誌『大正でも暮らし』の使い回しですが。当時の女学生の体操着の一例です。
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『女学世界』1921(大正10)年3月号
「改良服を着用して運動中の福岡県立嘉穂高女の女学生」

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by bokukoui | 2009-10-28 23:59 | 歴史雑談

アメリカ本土にシャクティ・パット~野依秀市雑彙

 しばらく前に、当ブログで「高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』を読んで余計なことばかり考える」なる記事を書きまして、その中でインチキ薬売りから有田ドラッグのことにまで話が脱線していきました。で、戦前の誇大広告の帝王にして詐欺的フランチャイズの元祖・有田音松については谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎責任編集『ドキュメント日本人9 虚人列伝』(学芸書林1969)が詳しく、これをネタ本にしつつも古書市で発掘した有田ドラッグのビラを紹介している「兵器生活」のサイトがネット上では詳しいということを紹介しておきました。
 さて、その「兵器生活」さんのところにも書かれていますが、誇大広告を吹きまくって儲けていた有田ドラッグのインチキを激しく糾弾し、その商売に打撃を与えた雑誌があります。『実業之世界』という経済雑誌で、同誌を出していた雑誌社の社長にして主筆であったのが、野依秀市(1885~1968)という人物でした。
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野依秀市像
野依秀市『戦争と選挙』秀文閣書房(1942)の表紙より引用

 『虚人列伝』でおかしいのは、有田音松の章では誇大広告の「虚人」有田音松を討つ役の野依本人が、『虚人列伝』の末尾を飾る「虚人」の一人として登場していることです。この野依なる人物も、一筋縄ではいかない怪しい人物なのです。
 彼は、一般には「右翼ジャーナリスト」と見られていたようですが、同時に堺枯川や荒畑寒村のような社会主義者とも付き合いがあったり、渋沢栄一の名を冠した神社を拵えたり、浄土真宗に帰依して仏教雑誌を出したり、大横綱・双葉山のパトロンだったり、戦後は紀元節復活運動やったり、とにかくものすごいパワーを持った人物――『虚人列伝』の野依の章を執筆した、野依の部下であったこともある梅原正紀の表現によれば、「モウレツ人間」だったのでした。著書は200冊を超えていたようです。その大部分は、日々雑誌や新聞の論説として口述筆記させたものを集めたもののようですが。

 さて小生、今書いている論文の史料として、野依が出していた(彼が最初に出した雑誌でもある)『実業之世界』をそれなりの年代にわたって読みました。もっぱら昭和初期のを読んでいたので、残念ながら有田ドラッグ糾弾記事は読んでいませんが、小生が目にした範囲でも、『実業之世界』では製薬会社とその経営者の糾弾をやっておりました。それは塩原又策という人物で、三共製薬(現・第一三共)の創業者でした。
 となると、何だか野依は薬屋と見ると噛みついていたように見えますが、彼は決してただの総会屋的人物ではありません。逆に誉めている記事を載せた製薬会社もありました。それは星製薬――つまり、SF作家星新一の父・星一の興した会社ですね。
 星新一といえばショートショートですが、毛色の異なった作品に、星一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』があります。その中で、官僚と結びついて星一を陥れる敵役として登場するのが塩原(作品中では名前は変えてありますが)だったりするわけで、野依の評価基準は興味が湧くところですね。
 もっとも『実業之世界』、別な号では経営が傾いた星製薬の再建に疑問を呈し、次の号に星製薬の重役が反論をよこしたのを掲載したりとかしていましたが・・・

 では野依の主催する『実業之世界』は、医業という人の命を預かる大事な事業(製薬業は広告の一番の顧客という面もあります)に厳しい目を向け、その効用や広告の誇大さを厳しく検証していた・・・のかというとそうでもないようです。
 『実業之世界』昭和8年7月号では、「健康の泉・山下紅療法」なる記事を数ページにわたって掲載し、安部磯雄藤山雷太小汀利得などの著名人が「これで治りました」的体験談を寄せています。これはいかにも怪しい(笑)。検索してみたら、紅療法というのは今でもあるようで、植物から採った紅を患部に塗り、上から棒で叩いたりこすったりするような民間療法のようです。でも『実業之世界』に紹介記事を載せていた頃、この紅療法は大審院で「医療行為に該当しない」という判決を下されていたようで。
 しかし、野依はそんなこと気にしなかったようで、彼自身その後も紅療法にはまっていたようです。野依が主宰した雑誌に記事が載っていたからといって、野依自身がはまっていたことにはならんだろうというご指摘もあろうと思いますが、実際に野依が紅療法に「帰依」していたという史料があるのです。これも小生、論文執筆中にたまたま見つけたのですが、折角なので(論文中で使い道がなさそうなのが悔しいので)以下に紹介しましょう。

 その史料とは、大和田悌二(1888~1987)という逓信官僚から日本曹達の社長に転じた人物の日記です。大和田はいわゆる「革新官僚」の一員として第1次電力国家管理に活躍した人物ですが、彼が日本曹達に転じてのちの1944年8月、故郷の大分県(ちなみに野依も大分県出身)に行った帰途、船中で野依に出会った際のものです。引用文中、漢字は新字体に直し、下線は原文のままです。色づけは引用者。
三時半紫丸乗船。
野依秀市君同船、松山へ講演行途中とのこと。東条、後藤文夫、徳富蘇峯諸氏を貶し、五島慶太の如きは論外にて、九月八日の大詔奉戴日に、共立講堂にて彼の急所を衡く講演予定なり。奥村、石渡、岸、後藤国彦の諸氏を賞賛す。人を評して好悪の感情に囚わるる傾向あり、直情径行を念とするも、時に心を欺くことあり、念仏に帰依するも、到底極楽には行けぬと自嘲する所案外正直なり。四谷に紅療法を営む人同伴せり、紅を棒に着け、頭部を軽打して難病を治すと、野依氏は帰依者なりとぞ。
 ところで、野依は戦争中の旅行も不便な時期に、紅療法の人まで連れて、何を講演して廻ったのでしょうか。
 当ブログでも過去に何度かネタ元に使わせていただいた、戦時体制の面白い史料を発掘している、早川タダノリさんの「虚構の皇国」というサイトがあります。論文に一区切りついた先日、「虚構の皇国blog」をまとめ読みしていたら、何とここでも野依秀市の名前に偶然出くわしてびっくり。

 テポドン発射記念 米本土空襲

 野依が太平洋戦争中、国民が献納したお金で飛行機を作ってアメリカ本土を爆撃しよう、という講演会を全国で行っていたという話です。野依が大和田と出会った時の講演というのも、この「米本土爆撃」関係のものでしょう。で、野依は精力的にアメリカ本土爆撃講演をして廻る疲れを「紅を棒に着け、頭部を軽打して」癒していたんでしょうね。
 ・・・本日のブログの意味不明なタイトルは、そういう次第でつけました。いや、棒で頭を打って病気を治すって、一読即「ライフスペース」高橋グルの顔が浮かんでしまって。

 話を戻しますと、大和田の日記中の野依の言葉はなかなか興味深いものです。野依のこの時点の人物観(本人が「人を評して好悪の感情に囚わるる傾向あり」と言ってますが・・・)が伺えるわけで。
 東条、後藤文夫、徳富蘇峯、五島慶太に対して奥村喜和男、石渡荘太郎、岸信介、後藤国彦という対比軸が意味するものは、一考の価値があると思います。操觚界の重鎮であった蘇峯に対し、野依が噛みつくのは何となく分かるのですが、あとのいわゆる革新官僚・新官僚を分類する軸は何なのか。小生が一番唸ったのは、東急を作った五島慶太と京成を切り盛りしていた後藤国彦を並べているところですが、これも議論し始めると長くなりますので、今は控えておきます。

 野依秀市についての先行研究は乏しく、ネット上で取り上げている記事も、上の「兵器生活」や「虚構の皇国」を別にすれば、ざっと目についたところでは以下のようなものです。

・書物史片々「經濟誌に出版史料あり――『實業之世界』から」
・四宮正貴「この頃出した手紙・この頃思ったこと」
・天国太平の愛書連<全国愛書家連盟>「国民の敵・容共朝日新聞を衝く」

 さらに他には、どういう訳か「ネット右翼」("ヘタレ保守")の親玉・瀬戸弘幸氏のブログのコメント欄に出てきたり、野依が日中戦争で日本軍が占領した直後の南京に入って書いた記事を取り上げて「南京大虐殺はなかった!」と主張する人々(どこかにネタ元があるのか、似たような記事が複数あります)がいたり、といった状況です。

 野依秀市の活動は、相当に複雑で単純には割り切れません。しかし、ここに挙げたネットの記事のうち、「書物史片々」以外の記事は、野依のそういった複雑さを捨象し、ありきたりな「保守ジャーナリズム」の枠に押し込めてしまうきらいがあります。野依をそのように割り切ってしまうことこそ、おそらくは「ネット右翼」的な人々が憎んでやまない、マスコミ主流派が野依に対して取ってきた態度に他ならないのですが。
 野依はもっと面白いはずだ、というのが、『実業之世界』を一山読み通した小生の感想です。はっきり言って、「ネット右翼」の朝日新聞への罵詈雑言を正当化する根拠如きに使うのは、もったいないにも程があります。とはいえ、口述筆記で積み上げた二百冊の本の山を見ては、自分でどうこうするのはやはり二の足を踏むわけで。
 とりあえず、野依ワールドの雰囲気を比較的簡単に感じていただくため、上の野依の漫画の出典元である『戦争と選挙』の巻末広告3ページと、附録(野依の新聞で募集した、時事に取材した歌の入選作)の扉との、4ページを以下にご紹介します。クリックすると拡大しますので、ごゆるりとお楽しみ下さい。
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野依秀市『戦争と選挙』秀文閣書房(1942)巻末より

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野依秀市『戦争と選挙』秀文閣書房(1942)巻末より

 ちなみに、本書の野依の著作目録は13ページあります。上の画像は、その最後の3ページと附録の扉を取り込んだに過ぎません。

 というわけで、最近野依秀市に興味を持っていたものの、自分で研究するわけには行かない状況だったのですが、いよいよ野依にも研究の手が及びそうです。
 季刊『考える人』という雑誌に、『八月十五日の神話』や『「キング」の時代』で著名なメディア史研究者・佐藤卓己氏が、「天下無敵 戦後ジャーナリズム史が消した奇才・野依秀市という連載を、この4月発売の号から始めたのです。いよいよ野依もメディア史の研究の俎上に上がったようで、連載の続きが楽しみです。

 小生、大学の図書館で早速第1回「野依秀市という「メディア」」を読んできました。
 記事冒頭のリード文で「昭和初期から戦後まで、『実業之世界』や『帝都日々新聞』を経営し言論活動を続けた野依秀市」とあり、『実業之世界』創刊は明治末(1905年)だぞとちょっとびっくりしましたが、本文は大変興味深いものでした。
 佐藤氏は、まさにこのような「混沌」とした野依の言論、しかもその多くを、口述筆記で自分で手を入れたとはいえ、他人に書かせていた、そのような野依は、オーソドックスな思想史のアプローチでは分かりにくいと指摘されています。佐藤氏は、野依は言論人(「何を言ったか」が大事)というよりもむしろタレント、メディア(「誰が言ったか」が大事)ではないかと指摘されます。野依自身が、メディア=広告媒体的な存在であったというのです。「メディア人間」とは、その発言内容が発言者自身の知名度(=メディアとしての価値)を高めるかどうかで、その発言の価値を決めます。つまり内容は二の次で、知名度が上がるかどうかが大事というわけ。
 なるほどと思いますが、しかしそれって、世論に反対する国士的論説(普通選挙反対とか)を部下に書かせて売薬広告にしていた、有田音松のやり方と本質的に同じことになるわけですね。あ、そうか、だから野依は有田のやり口を見抜いて攻撃できたのか。
 それはともかく、上に挙げたイラスト化された野依像なんかも、メディアとして読者に印象づける一手法(キャラクター化)だったのかも知れませんね。

 佐藤氏は「一流雑誌、全国誌の視点で書かれてきたメディアの歴史を、これまで「総会屋雑誌」「二流新聞」と目されてきた野依の『実業之世界』、『帝都日々新聞』などから逆照することで相対化したいと考えている。それは結局のところ、近代日本における「負け組」メディアの歴史を書く作業になるだろう。歴史の教訓は勝者よりも敗者から多く学ぶべきだと私は考えている」と記事を結ばれています。「負け組」という言い方を使っていいのか、何が「負け組」なのか、そこがちょっと引っかかりますが(『実業之世界』は現存しないのに、同誌立ち上げの際野依と協力してのち袂を分かった石山賢吉創刊の『ダイヤモンド』は今でもビジネス誌一の売上げを誇っているという点では「負け組」ですが)、野依を通じての方がその時代の風景は、確かによく見えそうです。
 同じ経済雑誌で言えば、『東洋経済新報』の石橋湛山の評論は今日読んでも通じる自由主義の筋が通っていますが、それだけ普遍性を持っているということは、言い換えれば時代を超えてしまっている面があるわけです。評論としては、時代を超えるというのは最大の賞賛の言葉ですが、歴史の史料としてはむしろ、時代の波に揉まれ載っかっていた、だから波が引いたら忘れられてしまった野依の方が、価値があるといえるかも知れません。

 『実業之世界』では他にも面白い誌面がいろいろありましたが、いい加減長いので、ひとまずここでおしまいにします。例によって纏まらない記事ですが、野依について語ってうまくまとめるのが難しいということはお分かりいただけようかと思います。
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by bokukoui | 2009-05-08 23:33 | 歴史雑談

『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談の評論への西尾氏の批判について

 この記事は、

 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」
 秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き
 「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ


 の続きです。

※追記:以上一連の記事及び本記事が、西尾氏の著書に引用されました。
 「『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩」

 正直、もう続きを書くつもりはなかったのですが、これらの記事で批判した西尾幹二氏が、先日ご自身のブログで小生の記事を取り上げて批判をされ、トラックバックも送られるという思いがけないこと(上掲記事のうち最初のもの参照。ちなみに管理者にだけ見えるコメントの内容は、西尾先生のブログの管理者の方からのご連絡でした。丁寧にありがとうございます)がありまして、小生の如き若輩者の記事に対してもお目通し下さったということ自体は、有難いことと思います。その記事は以下の通りです。

 西尾幹二のインターネット日録「『諸君!』4月号論戦余波(三)」

 (三)があるということは、当然論戦余波(一)論戦余波(二)もあります。

※追記:これらの記事は『西尾幹二のブログ論壇』収録に伴い、削除された模様です。詳細は以下の記事をご参照下さい。
 ・「『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩」

 さて、西尾先生が小生の記事を読んで下さってコメントを下さったこと自体は大変ありがたいと思います。しかしながらそのコメントを拝読いたしますと、残念ながら小生の意図したところをご理解いただけなかったのではなかったかという印象を抱かざるを得ませんでした。ですがそれは、当ブログの記事がやたらと長くて読み取りにくかった(もっとも長くなった最大の理由は『諸君!』対談記事の引用ですから、西尾先生はそこは読み飛ばしていただければ良かったのですが)ことにも一因があるかとも反省し、以下に再度、なるべく簡潔に、ポイントとなる点を挙げておきたいと思います。

 まず一つは、歴史について自由な解釈はもちろん認められるにしても、その基盤として着実な事実の検証は必要不可欠ということです。これは歴史ならずとも、何事についても証拠なしに勝手なことをいうな、という意味では普遍性があると思いますが。
 歴史的事実というのは実験によって再現・検証することが出来ませんので、これは史料という証拠を吟味して「より確からしい」事実を積み上げ、議論を重ねて精度を上げていくことになります。この基盤なくしては、どんな議論をしても砂上の楼閣ということになってしまいます。
 もちろん、歴史の精華というのは、その事実を元により見事な解釈をしてみせるところにあります。事実の確認がしっかりしていても、その研究が直ちに高い評価に結びつくとは限りません(ただし、事実の検証がしっかりしていれば、一定の評価はちゃんとされます)。しかし、その材料があまりにいい加減では、出来上がった建物の見た目が派手でも、とても評価できたものではありません。出来上がりの格好さえ良ければ、それを構成する材料のいい加減さが正当化されるわけではありません。これも歴史に限った話ではない普遍性があると思います。何せ、今回の件のそもそものきっかけである、田母神「論文」を世に送り出したアパホテルは、耐震強度の偽装が発覚して使用停止命令を受けたわけで・・・

 繰り返しますと、「解釈」、事実の「意味」は時代によって論者によって変化するけれど、その拠って立つ基盤となる「事実」というのはそうではない、ということです。もちろん、新史料の発見によって事実が変わることはありますが、それは史料を基に実証を積み重ねる作業の一環です。秦先生が指摘されていることも、自由な解釈をするには拠って立つ基盤が大事、という点で同じと思います。
 つまり、コロンブスのアメリカ大陸到達の意義についてはさまざまな解釈が可能ですが、「新大陸を発見したのは鄭和だ!」(そういうトンデモ本があるそうな)とか言い出されると話にならない、ということです。アメリカ到達を当時のスペイン人は「神の恩寵が世界を広く照らした光栄なこと」と考えたかも知れませんが、今そう考える人は多くないでしょう。でも、コロンブスがアメリカに着いたことは変わりない事実のわけです。

 さて、しかし西尾氏は、「証拠なんてない」「細かいことはどうでもいい」と放言しておられます。また、上掲西尾先生のブログに登場する、西尾支持派の多くの方も同様の見解のようです。
 そこで、小生は以前の記事で、そのような見方に対し、以下のような疑問を提示しておきました。そしてそっちこそが、小生の主張したい批判点の核心だったのですが、西尾先生にしても、上に指摘した事実と解釈の関係についての倒立した見方にこだわって示されただけで、肝心のこちらにお答えいただけなかったことは残念でなりません。
 それは、仮に事実はどうでもよく歴史はストーリーなのだと考えた場合、「正しい」ストーリーとはどのような基準で決められるのでしょうか。西尾氏は、如何なる根拠によって、自己の「歴史」の正統性を保証するのでしょうか、ということです。

 秦先生にしても、歴史について一つのストーリーを最終的には提示しておられるわけです。秦先生の提示されたストーリーが正しいかどうかは、その拠って立つ膨大な検証された事実が支えています。秦先生のストーリーを覆すためには、その事実を再検証するのが一つです。事実に特に大きな問題点がなかった場合でも、同じ事実を基盤に、異なった解釈を示して議論することはできます。再検証と議論を通じて、歴史像は次第に形成されていきます。
 ですが、細かい事実は検証しない、解釈は勝手にやって拠って立つ基盤となる事実はどうでもいい、という場合は、一体そのストーリーの「正しさ」はどう判断できるのでしょうか。それが史料にこれこれの根拠があってこのストーリーは正しい、というのであれば(そして西尾先生も「ヴェノナ文書」などを示していますが)、それでは秦先生の指摘を無下にはできないことになります。

 小生は以前の記事で、「正しさ」の基準は示されていないのではないかと疑問を提示し、西尾氏のブログでの書きぶりを手がかりに、山本七平を引用しつつ、「仲間ぼめ」を繰り返すことでトートロージーとして「正しさ」を作り上げているだけではないか、と批判しました。
 今回の西尾氏が書かれた「論争余波」3件の記事では、合計7件の西尾氏への意見が登場します。うち批判は小生含め2件ですが、小生以外のもう一件というのは、以前の記事でも紹介した「元木昌彦のマスコミ業界回遊日誌」さんの3月3日付記事です。これへの西尾先生の評言がちょっと意味が分からなくて、分からないので以下にそのまま引用しておきますが、
 執筆者の元木昌彦氏は元『週刊現代』の編集長で、『現代』にもいた。もう定年退社している。年末に私は新宿のバーでお目にかかっている。
 偶然隣り合わせに坐り、知り合いの講談社の知友の噂ばなしなどをした。私が昨年『諸君!』12月号に書いた「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」を大変に面白いと言っていた。
 人間はみな心の中にどんな「鬼」を抱えて生きているのか分らない。老齢になるとことにそうである。また、若いときに一度刷り込まれた物の考え方は、どんなことがあっても消えることはないようである。
 意見そのものではなく、人間について語られても、知り合いでも何でもない読者には困るのですが・・・

 で、この元木氏の批判に対しては「年だから」みたいに流してしまい、残る小生の記事については、他に二つの意見をわざわざ引用して批判を加えておられます。もっとも、西尾先生のブログ記事中の文章の長さとしては他人の意見の引用の方が圧倒的に長く(引用の長さ自体も、拙ブログのものよりずっとその二つの意見の方が長い)、西尾先生ご自身の書かれた言葉が少ないのは多少遺憾であります。
 さて、これらの批判は、本記事で挙げた二つのポイントのうち、第一のそれに向けられているようです。それについては上で既に書きましたのでもう措いておきますが、第二の、小生の考える最も重要な点については何ら触れておりません。第二の点で、ストーリーの「正しさ」を史料に拠って証明できない以上、何によってそれを示すのか(「正しさ」が証明できないなら、何を言っても構わないことになり、議論自体成立しない恐れがある)、ということです。
 ですがこの点は無視され、小生が書いた記事があまりに長すぎたため、第二の点まで西尾先生にお読みいただけなかったのではないかと懸念しました。

 小生は、「正しさ」の基準は西尾氏の発言からは読み取れず、ブログの様子から、「支持してくれる人がいるから正しい」としているのではないかと疑問を提示しました。支持者の方は「西尾先生がこう仰ったから正しい」というわけです。これは山本七平の言葉を借りれば「仲間ぼめ」ではないでしょうか。
 西尾先生もさすがに多少気にしておられるのか、「知友だからといって格別に私に贔屓して言っているのではない」「知友だから私を応援している、という文章ではない」などと書かれていますが、こんな言い訳がましいことをつけるのであれば、最初から紹介しないか、違った形で紹介するようにするべきと思います。

 西尾先生は小生の記事に対し
私に対し「歴史を論ずるということ自体を根本から分っていない」とか「歴史でないなにかを論じようとしている」と決めつけていたときの「歴史」が非常に狭い、固定した一つの小さなドグマ、特定の観念にすぎないことがお分りいただけたであろう。
と書かれています。小生はなるほど、史料という証拠に基づいて発言すべきであるという歴史学の手法に則って発言しているつもりですが、では逆に西尾先生は何に基づいて発言されているのでしょう。
 歴史学は学問の手法として一定の認知を受けていますが、西尾先生はそういった学問手法に準拠することを「ドグマ」と呼ばれるようです。その手法は決して密教ではなく、誰にでも利用可能なものに過ぎないし、だからこそ普遍的な有用性を認められているのです。むしろ拠って立つ基盤、構築に参加することになる体系、それを支える定義といったことを「ドグマ」と切って捨てたならば、それはただの根無し草、妄想の集積に過ぎないと考えます。

 は、長いから短く同じ内容をまとめ直すだけのつもりだったのに、随分長くなってしまいました。これでは本来の記事の意図が損なわれてしまいます。この辺が我ながら駄目ですね。まだ補足したいことはいくらでもありますが、充分長すぎるのでこの辺で切ります。もし万が一、まずあり得ないと思いますが、本記事に西尾先生がまた何か反応して発言されたら続きを書くことにします。
 反応といえば、名だたる評論家の西尾先生が直々に小生のブログを取り上げられたからには、アクセス殺到・批判コメント続出で当ブログ初の「炎上」が起きるのではないかと期待・・・もといびびっていたのですが、蓋を開けてみれば特に何事もなし。むしろ西尾批判派の方がコメントを下さったくらいでした。西尾派の人もコメント一つ残していかないなんてなんだかなあ。まあ、ここは当ブログの「A-A基準」ぶりが健在であることを感謝することにします。
 アクセス解析してみれば、西尾先生のブログから来た人はここ二日間で30~40/日 程度にすぎません。西尾ブログの読者のうち何割がクリックして当ブログにお越しになったかは分かりませんが、もし1割としたら、西尾ブログの閲覧者は当ブログ較べても大して多くないということになります。西尾先生が拠り所としているらしい「支持者」の輪も、案外小さいのかも知れませんね。
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by bokukoui | 2009-03-24 22:18 | 歴史雑談

戦前の夢のマイホーム? 平尾善保『最新 住宅読本』(1938)を見る

 当ブログの前回の記事で、アサミ・マート『木造迷宮』を取り上げましたが、この漫画の舞台と思しき昭和初期~戦後間もなく頃の家について、単行本に間取り図が付いているものの、この間取り図がどうにもおかしい、という話をもう一度しておきました。
 では、この時代の家はどのように建てられていたのか、ということの参考になりそうな本について、今回は考えてみたいと思います。

 というわけで、今回のお題は、表題の通り平尾善保『最新 住宅読本』(日本電建株式会社出版部)という本です。最新つったってこの本は、1938年初版となっておりますので、今から七十年も前に出された、住宅の建て方解説書です。出版は住宅を建設している会社自体が行っていて、著者はその社長です。余談ですが、この日本電建株式会社という会社は、創立者にして社長の平尾善保亡き後、紆余曲折を経て田中角栄の手に入り、その金脈の一角を形成することになってしまったのだとか。
 さて、この本は、ざっとA5版で600ページに近く、しかも図版や写真が数百枚も載っているという立派なものです。値段は4円とありますので、今でいえば1万円くらいにはなるのではないかと思います。小生は古本市で割と安く手に入れましたが、本来は多分箱入りだったでしょう。
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 巻頭には序文や揮毫が、賀屋興宣だとか菊池寛だとかやたらいっぱいあって、それ自体なかなか興味深いのですが、それはともかく、本の内容は、まず日本と世界の住宅の歴史を述べ、ついで家を建てるための知識が、敷地の用意、建物の設計・構造、室内の造作、庭の作り方、さらには材料の木材についても、どのような工法や材料、仕上げがあるのか、写真や図をふんだんに使って述べられています。例えばこんな感じです。以下の画像はクリックすると拡大表示します。
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 ここに挙げたのは、ごくごく小さな家で、どちらかといえば設計図を書く練習的に位置づけられているようです。ですが、これを問題の間取り図と見比べれば、基本的な問題点は見えてくるだろうかと思います。
 で、ここまで引っ張っておいて何なのですが、この本には間取り図の具体例は、実はほとんど載っていません。目立つのはこれぐらいかな? これもクリックすると拡大表示します。
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 現在スキャナが故障中のため、デジカメで撮っていて多少お見苦しい点はご容赦ください。
 で、この邸宅、戦前のものとしては、いや現在の基準でも、かなり立派なものではないかと思われます。上の家なんか、建坪でも50坪はあるんじゃないかと。なれば土地は100坪以上は・・・。なるほど、戦前は土地と人件費は現在の感覚より割安だと思われますが、それにしたって、これだけの家がそうそうあったとは考えにくそうです。なお、これだけの豪邸でも、階段の幅は『木造迷宮』の図面よりは狭いように思われます(笑)

 そう、この本の最大の謎だと小生が感じたのは、「豪華」「立派」ってことです。種々の内装の様子が写真版となって収められているのですが、どう考えてもこれは普通のサラリーマンなどの中産階級が建てられる家には立派すぎないか? というしつらえが多々見出されます。本当にみんなこんな家を建てていたのか知らん? かといって、そのセンスは田舎のお金を持っている地主さん向けとも思われず、洋風の意匠も多く取り入れられていて、やはり都市住民を主たるターゲットとして編まれているようです。そもそも序文に「特に大衆の人達に読んで頂いて、多少とも住宅の知識が普及され、家を建てられる参考ともならば結構だと考えて筆を執ることにした」とあるのですが、大衆向けにしてはえらく立派な気がしてなりません。
 更にこの本、どうもよく売れていたようです。初版は1938年7月15日発行とありますが、同じ月のうちに再版されており、小生が手に入れたのは「昭和十五年十二月二十日二十五版(改訂規格判)印刷」とあります。25版! そうそう見ない数字ですね。しかも日中戦争が既に起こっており、あと一年足らずで太平洋戦争という時期です。

 一体どういう人が買っていたのでしょう。限られた上流だけではこれほど売れたとは思われませんし、大体そのような人たちであれば、こんなマニュアル本なんか読んで家を建てたりしないでしょう。となると、半ばは中産階級の憧れを満たすために、実際にどこまでこれに準じた家を建てるかは別にして、読まれていたんだろうなあと推測します。
 時代としては、軍需景気によって小金を手に入れた層が、ちょっと気張って家を建ててみるというシチュエーションも考えられそうですが、時代からして資材統制や職人の手不足は既に始まっていたはずです(詳しくは調べてないけど)。となると、そもそも金があっても思うように建てられない可能性も・・・本書には鉄筋コンクリートの家についても触れた箇所がありますが、本が出た頃には、自由に鉄が手にはいるのか微妙な時代のはずです。なにせ阪神電鉄が梅田にデパートを作ろうとしたら、資材統制で断念せざるを得なかったという頃ですので。

 で、戦時下を反映した内容も確かにあって、「防空室」という一節があります。こんな感じで、図も載っています。これまたクリックすると拡大表示します。
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 これは随分立派な防空壕、いやいや、防空室ですね。平尾はさらりと「こうした防空の建設は、いざという時には、材料が間に合わなかったり、人手が足りなかったりするため、容易に出来ないものであるから、各自が平常から心掛けて、小さいながら我が家に一つの防空室は造って置きたいものである」なんて書いてますが、実際にこんなのを自宅に造れた人はどれだけいたのでしょうか。戦時中の空襲対策として聞くのは、多くは「防空壕」であって、こんな立派な「防空室」というのは、やはりこの本の他の幾つかの箇所と同じように、憧れの理想像を描いたものなのではないか、という気がしています。
※追記:実際にコンクリート製の立派な防空壕を自宅に作った人の話はこちらをご参照ください

 またこの本は、一種の教養書というか雑学本というか、そんな感じの役割もあったのではないかと思います。例えば、世界の建物の歴史の箇所では、さてこそパルテノン神殿やコロッセオや、更にはエンパイアステートビルから胡同(多分)まで、日本で家を建てる人とはおよそ関係なさそうな写真がてんこ盛りだったりします。直接は関係なくても、教養として紹介しておこうという方針だったのか、単に著者がハッタリをかけていたのか。
 とはいえそういった建築物ならまだ分かるのですが、家の材料となる木について説明した章につけられていた写真には、教養にしてもマニアックなものが幾つもありました。以下にざっとご紹介します。写真のうち横長のものはクリックすると拡大表示します。(スキャナが直ったようなのでこっちは取り込んでます)
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熊本県鹿本郡内田村国有林の木馬インクライン

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秋田県北秋田郡羽根山国有林の雪橇インクライン

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長野県南安曇郡島々谷国有林のトロ運搬

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秋田県北秋田郡長木沢国有林の鉄道運搬

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青森県下北郡二叉山国有林のトラクター運搬

 なかなか興味深い写真ですが、家を建てるのには直接関係はなさそうですし、一般教養というわけでもない観がします。家を建てるのはこれだけ大変なんだ、ということを強調したかったのでしょうか。
 小生は鉄道趣味者なもので、森林鉄道についても多少の知識はありましたが、林業にはさほど詳しいわけではないので、「木馬インクライン」の写真なんかは初めて見たもので感心しました。インクラインとは、急勾配を越えるために、ケーブルカーの要領で斜面をワイヤーで引っ張って貨物を上下させるもので、森林鉄道には時折設置されていたようです。更に地形が険しい、あるいは輸送量がそれほど多くない場合には、索道を使うことが多く(というか、インクラインの採用例はそんなに多くないと思います。索道が山岳地域の近代交通手段としてはかなり有力だったはず)、本書にも写真がありましたがそれは省略しました。
 なるほど山中なんだから、鉄のレールを運んでくるよりも、そこらの木材で作ってしまえば合理的ですね。写真をよく見ると、ケーブルカー同様上下列車(?)が交換する場所は、線路の木材が4本に分かれている箇所があることが分かります。他の箇所は3本の材木(というか丸太)を、真ん中の一本を共用する形で台車を動かしているようですね。
 更に冬の降雪地帯では雪ぞりになるのですが、わざわざそんな冬に雪ぞりまで使って搬出するのは、雪の方が抵抗が少なくて運ぶ効率が上がったのだろうと思います。
 これらの木馬や雪橇のインクラインは過去の遺物かと思ったところ、検索してみたら「労働安全衛生規則 第八章 伐木作業等における危険の防止」というのが引っかかって、少なくとも条文の上では現役のようです。

 森林鉄道の写真は見ての通りですが、小生は個々の林鉄に詳しいわけではないので、詳細はまた折を見て物の本でも調べてみたいと思います。
 それにしても、最後の下北半島の二叉山国有林で使っていたというトラクター、これは見るからに自動車の改造で、軌道だけでなく道路も走れるようにしていたものかも知れません。森林鉄道といえば、手押しや可愛い蒸気機関車(戦後なら加藤のちっこい機関車)が通り相場だと思っていたので、これにはびっくり。どなたか詳細をご存じの方がおられましたが是非ご教示ください。
 一つ疑問なのが、自動車の大きさから考えると、この森林鉄道のゲージは一般的な2フィート6インチ(762ミリ)より広いように思われるのですが、どうでしょうか。森林鉄道のレールは低規格で細いので、普通の線路の感覚で見るとゲージが相対的に広く見えることはあると思いますが、それにしたって、という感じです。そういえば最後から二番目の長木沢国有林の軌道も、横の人の大きさから考えると、やはり762ミリより広いゲージのような気がしてきますが・・・

※追記:戦間期~高度成長初期頃の国鉄官舎(宿舎)の間取図を掲げた記事はこちら
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by bokukoui | 2009-03-22 23:25 | 歴史雑談

「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ

 この記事は、

 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」
 秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き


 の蛇足的なまとめというか、おまけのようなものです。

※追記:更に続きの記事として、以下のものがあります。
 「『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談の評論への西尾氏の批判について」

※更に追記:以上一連の記事が、西尾氏の著書に引用されました。
 「『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩」

 もっと前に書き足しておく予定だったのですが、諸事多忙且つ体調不良などが相俟って先送りになっているうちに、時機を逸してしまった感もありますが、まあ一応。コメント返信も遅れまして申し訳ありません。

 さて、上掲2記事で、西尾氏のことを延々批判してきましたが、最後に何故このような声が出てきてしまっていて、しかもそれがそれなりの支持を受けているのか、ということについても少し考えてみたいと思います。
 で、西尾氏のブログに寄せられた「歴史というものを年代暗記ではなく、物語として捉える楽しみがある」という声が参考になるのではないかと思うのですが、学校教育における歴史が一般に暗記中心でつまらないと言われ、一方史料の検討というような話は「普通の」人には縁がなく、さてこそパッと見「面白い」方に引かれてしまうことはあるんだろうなと思います(といって、ある程度の暗記はやはり基礎として必要なことも確かですが)。
 別に歴史学に限ったことじゃないでしょうが、学問が発展すればするだけ、外からは分かりにくくなってしまうことはあるでしょう。歴史の場合でも、細かい研究(もちろんそれはきちんとした史料の研究に基づく)を踏まえた通史を示す、それも面白く分かりやすく、というのはたいそう難しいことと思います。秦先生のような「大御所」な先生がそういった仕事をして下さることを期待してしまうのですが、そして実際秦先生はそれに成功された方と思います。ですが、それでも尚影響力はこの程度にとどまっているもので・・・。

 かといって、そういった面白く分かりやすそうなことばかり発表するここばかりが重要とするのは本末転倒です。やはり、事実関係をきちんと検証して積み上げていくことがもっとも根幹となることです。
 話が逸れますが、世間一般で「秦郁彦」といった場合のイメージとしてありそうなのは、「教科書訴訟で国側の証人だった人」「戦史本をいろいろ書いてる人」「南京事件の有名な本を書いてる人」といったところではないかと思われますが、大学で日本近代史をやっていると、秦郁彦といえば『日本陸海軍総合事典』『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』など、多くの人がお世話になる辞典の編纂者としてもっとも親しまれていると思います。みんながみんな盧溝橋事件の研究などをしているわけではありませんので。いや、『諸君!』はまだいいのですが、書店で平積みになっている『正論』『WiLL』とかの題名を見ると、日本近現代史とは南京の死体の数を数えることと誤解している人がいるのではないかという懸念にとらわれることがあるので・・・。
 話が逸れましたが、基本的な事実関係をきちんと抑えてまとめるということが歴史の基盤であるということは、秦先生の仕事からも分かるということです。

 では、その基盤を守りつつ、かつ今回のような不幸な事態を避けるためにはどうすればいいのか、といえば、歴史教育で「史料」(文書に限らなくても)に触れるという経験をして、その扱い方のごくごく基本的なところだけでもちょこっと触れる、という教育を取り入れては・・・というのはもう前にも書きましたね。この対談のきっかけになったアパグループの顕彰(懸賞)「論文」について書いた時も、更に以前、戸井田とおる議員の問題発言から史料について書いた時も、結論としては同じことになっています。しかし、同じことをしつこく言い続けることも大事だろうと思っております。「歴史を大切にする」ことは決して自分の思いを人に押し付けることではないですし、また史料を読んで読み取るという練習自体は、社会のどの局面でもなにがしか役に立たないこともないでしょう。
 で、学校現場でそれのできる先生が足りない、そんな面倒なことをやってる暇は先生にはない、というもっともな問題がありますが、ここは全国の日本史の院生を全国の学校でティーチング・アシスタントとして臨時に働かせればよいのです。こうすることで研究と普及とがつながり、かつ歴史研究者養成の層の厚みも増すということで。
 ・・・こういう政策実現のためのロビイング団体結成は夢ですが。でもその圧力団体が歴史のためになることは、教科書だの南京だの慰安婦だので請願を出してきた如何なる団体とも、全く桁違いのことになるのです。
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by bokukoui | 2009-03-13 23:19 | 歴史雑談