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秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き

 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」の続きです。この度休刊が決まった文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』の2009年4月号の、秦郁彦先生と西尾幹二氏の対談記事「重鎮・直接対決! 捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか 「田母神俊雄=真贋論争」を決着するについて、本文を引用しつつ、西尾氏の歴史を見る方法(それは西尾氏にとどまらず、それなりの人数の人が同様に思っているようですが)の問題点を指摘するというものです。
 前記事でかなりの量を引用をして、一つの記事の許容量に達しそうでしたので、記事を分割しました。で、本記事でも以下に比較的長めの引用を行い、しかる後に全体のまとめをしたいと思います。是非とも前記事から通してお読み下さい。

 それでは、引用部分に入ります。これは前記事の最後の引用部分の続きです。以下の引用は少し長いですが、重要な箇所なので敢えて引用します。
 前記事同様、青=西尾氏黒=秦氏と色分けしてあります。で書いてあるのは小見出しです。強調は引用者が施したもので、「・・・」は省略を、「……」は原文中の3点リーダーそのままを示します。

(引用が長いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-03-07 09:20 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(19)

『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」

※註(2009.3.24.補足):この記事に続く関係記事は以下の通り。
秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き」
『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ
『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談評への西尾氏のコメントについて

※註(2010.12.31.補足):この一連の記事が西尾氏の著書に引用されました。
『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩

 先日新聞の社会面を見ていて、文藝春秋社の雑誌『諸君!』が休刊するということを知り、驚きました。創刊40年になる保守系のオピニオン誌で、かなり有名な雑誌ですから。更に、昨今の世相からすれば、『諸君!』の論調は世間に対する受けはむしろ良い(少なくとも逆風はない)はずなのでは、という疑問が浮かびました。
 時事ドットコム「雑誌「諸君!」休刊へ=文芸春秋」によると、「最高部数は2006年の8万5000部、最近は6万4000部程度」だそうで、実売はもっと少ないにせよ、40年の歴史で比較的最近に最高記録を立てたにしては、見切りを付けるのが何とも早い感がしますが・・・

 そんなわけで、『諸君!』のことが気になっていた昨日、駅構内の書店で3月1日発売の同誌4月号を見つけて手に取ったのですが、表紙に刷り込まれていた記事の表題に目を剥きました。煽り文句を含めて表題を書くと、

 重鎮・直接対決! 捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか
「田母神俊雄=真贋論争」を決着する

 というものでありまして、つい先日、田母神氏の「論文」が掲載されたアパグループの冊子『謀略に!翻弄された近現代 誇れる国、日本。』についての記事を書いた身としましては、やはりこれは読まねばと感じたのでした。更にいえば、ネット上ではこの冊子に関する評論は小生の記事の他まとまったものは少なく、小生の記事がネット上では最も重要なものと自負しております。なんとなれば、googleで件の冊子のフルタイトルを入れて検索すると、小生の記事がトップになるので(笑) 以下に証拠画像を掲げておきます。
f0030574_2320174.jpg
 当のアパグループに検索ランキング争いで革命的勝利を収めるとは、コミンテルンの陰謀に違いありません。

 閑話休題、その場で『諸君!』を一読した結果、これはあまりに酷い――もちろん西尾氏が、です――と感じ、日本近代史を学ぶものとしては一言書いておいた方が良いのではないかと思い、ここに記事を立てるに至った次第です。秦先生の著作には、高校時代『第二次大戦航空史話』を読んでソ連の女性飛行士の話で萌・・・もとい、研究の際の参考文献としてお世話になった恩義もありますので、ネット上では数としては多そうな西尾支持の声と違ったものを打ち出していきます。
 え? ではその場で『諸君!』買ったのかって? いや、図書館で該当ページをコピーしまして・・・なるほど、休刊になるわけだ。

 まず、ネット上での、この対談についての反応を、ざっと検索して見つかった範囲で挙げてみます。数的には西尾支持がずっと多いようです。

・西尾幹二のインターネット日録 ↑対談の一方の当事者・西尾氏のブログ。(一)は記事の背景で、(二)(三)が読者からの反応。当然読者の声は西尾支持ばかり。
・書道家ABC版「西尾幹二氏、秦郁彦氏の偽善「歴史家」の素性を看破する」
・syuunのSYUUN的こころ
 ↑タイトルから分かるように、同じ内容の文章が2箇所のブログに。はて?
・TEL QUEL JAPON「『諸君』4月号:重鎮・直接対決(1)」 / 「同(2)」
・#やまさんのブログ「歴史はストーリー」
・Apes! Not Monkeys! はてな別館「「田母神俊雄=真贋論争」を決着する」
 ↑南京事件などの解説で有名な方のブログですね。当然この中で唯一、秦氏支持。

※追記(2009.3.8.)
 検索し直したら、秦氏の方を支持するブログ記事が幾つか見つかりました。西尾支持の方が「ずっと多い」というわけではなかったようです。失礼。
・元木昌彦のマスコミ業界回遊日誌 3月3日付記事
・人生朝露「『田母神塾』(田母神俊雄著 双葉社) 」
追記ここまで
※更に追記(2009.3.24.)
 コメント欄でご指摘いただいた記事へのリンクを追加で張っておきます。
・M.FUKUSHIMAの単刀直入
 これらの意見の多くは、秦・西尾対談の中で挙げられた、個々の歴史的トピックについて触れているものが多いようです。「書道家ABC版」「syuunのSYUUN的こころ」「TEL QUEL JAPON」「Apes! Not Monkeys! はてな別館」などがその傾向が特に強いと言えます。後は全体について大雑把に触れている感じです。

 小生はこれらの切り口とは少し異なった点から、主として西尾氏の言論を批判してみたいと思います。といいますのも、小生のこの対談を一読した際の感想は、議論が全く噛み合ってない、ということでした。西尾氏が「これが正しいのだ!」と叫ぶのを、秦氏は「あー、うざいなあ」という感じでいなしている、そんな印象です。
 曲がりなりにも日本近代史の勉強をしてきた身として、秦氏の発言は至極当たり前に感じられました。それに噛みついている西尾氏の言動は、歴史を論ずるということ自体を根本から分かっていない、と書くのが傲岸であるとするならば、歴史でない何かを論じようとしている、そのようにしか読み取れませんでした。であれば議論が噛み合わないのも当然です。雑誌の煽り文句で、広告にも掲載された秦氏の言葉が「西尾さん、自分の領分に帰りなさい」というのも、歴史でない話をしたいなら歴史でないところでやれ、という謂ということだろうと思います。
 しかし、ネットで見つけた上掲のいくつかのブログを読むと、歴史でないものを「真の」歴史と思い込んでいるブログが少なくないことに気がつきます。小生は、これこそがこの対談の最大の問題であろうと思います。つまり、歴史の「何を」論じているかではなくて、歴史を「いかに」論じているか、そちらが肝心なところだと。

 ので、以下では個別具体的な歴史トピックよりも、方法論の方に焦点を当てて読んでいきたいと思います。まあ、そうする理由はもう一つあって、個別のトピックを検討するにはそれなりに史料に当たるべきですがそんな暇はないし面倒だし、第一個別に突っ込んでいたら、ツッコミどころが多くて対談全文を引用せねばならず、『諸君!』編集部に怒られます。

(引用が長いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-03-05 23:59 | 歴史雑談 | Trackback(3) | Comments(22)

アパグループ『謀略に!翻弄された近現代 誇れる国、日本。』瞥見

 前回の記事「古澤克大書記長『火力の歴史的発展と現代のRMA』合評会記録」およびその補遺・解説が取り上げていたのは「革命的非モテ同盟」古澤書記長卒業論文ですが、書記長はこれをネット上にアップした理由について、
●田母神「論文」とかで自衛隊の知性が疑われると嫌なので…
○一応私も元ですし
○現役の方の論文も引用しているです。
○つーか、田母神「論文」はひどい。
 と語っておられます。
 ここでいう「田母神『論文』」とは、昨年10月から11月にかけて話題となった、田母神俊雄航空幕僚長(当時)がアパグループの「『真の近現代史観』論文顕彰」に応募した「論文」である「日本は侵略国家であったのか」が賞金300万円の最優秀賞に選ばれたものの、その内容が政府の見解と異なっていたことなどから問題となり、結局田母神氏は空幕長を事実上辞めさせられた、その一件のことですね。当ブログでもちょこっと触れましたが、書記長も指摘する通りのその内容の酷さは、多少なりとも歴史に関心のある向きからは、あるいは論文的な文章を読み書きする経験を有している人々からは、広く認められました。田母神氏が出典とした文献の著者である秦郁彦氏が、この「論文」をこっぴどく批判したことが、その象徴です。

 その後12月に、この顕彰「論文」の入選作を集めた本(ISBNコードも雑誌コードも無いようなので、書籍というよりパンフレット的な扱いのようですが)が出ていました。どこまでがタイトルなのか分かりかねるのですが、多分『謀略に!翻弄された近現代 誇れる国、日本。』(前半がサブタイトルで、後半が本題)だろうと思います。「!」と「。」も題名に入っているようです。
 で、「田母神『論文』」の時はかなり世間を騒がしたものの、出た本については少々検索してみた限りでは、あんまりまとまった検討をしているものは見あたりませんでした(評価するにせよ、批判するにせよ)。タイトルが長く探しにくいという事情もあるかも知れませんが・・・
 さて、その『誇れる国、日本。』ですが、今小生の手許に一冊あるのです。まあ、さるルートから持ち込まれたものなのですが(もちろん一文も払ってません)。ので、ちょっとだけ検討を加えてみたいと思います。もっとも、このブログのここひと月を振り返っただけでも、『西日本鉄道百年史』だとか、橋本寿朗先生の論文集だとか、水洗トイレの歴史だとか、さらにはナヲコ先生の同人誌まで、このアッパッパーな「論文」集より遥かに遥かに小生の人生にとって価値があって一読心を躍らせるに違いないとわかりきっている「積ん読」本がある以上、この本を全部読んで書評するが如きことはしておりません。あくまで「瞥見」です。しかし問題点の指摘としては、それほど無意味でもないと思います。

(続きを読む)
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by bokukoui | 2009-02-18 23:44 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(10)

久保田正志『日本の軍事革命』 紹介と感想

 随分以前のこと、このブログでジェフリー・パーカー『長篠合戦の世界史 ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年』取り上げたことがありました。更にそれ以前に、サイトの方のネタにしていたのですが、そちらの方でこんなことを書きました。
 軍事革命 military revolution というのは、多くの方にとって馴染みの無い言葉でしょう。これは近代初期、軍事技術の革新(火器の登場)によって戦争の方法が変化し、それに対応した軍事力の肥大に対応する中で近代国家がその態勢を整えていったという考え方です。その軍事革命について、もっともよく纏まった概要を示しているのが本書です。原題はずばり The Military Revolution で、ヨーロッパを中心に軍事革命が世界各地にどのような影響を与え広まっていったかまでも述べられ、その一環で日本の戦国時代も出てくるため、上のような邦題がつけられたようです。しかし、戦国史の専門家曰く、長篠合戦はヨーロッパ式火力優先軍隊とは全然違うので、長篠の信長が軍事革命の担い手であるかのごとき本書の記述は誤りであるそうです。これは著者のパーカー教授の責任というよりは、彼に日本史のレクチャーをした人々の勘違いによるもののようですが。訳者の大久保桂子氏は西洋近世史の方なので、その辺りに気が付かなかったのか、中央公論社の『世界の歴史』の中、大久保氏が軍事革命についての説明を述べた箇所でこの誤謬を繰り返してしまっているのは、誤解の再生産に繋がる恐れがあります。(後略)
 自分で書くのも何ですが、パーカーの本の意義と、日本について触れている箇所についての問題点を手短に指摘した文章ということで、ここに再録させていただきました。
 で、この誤解の再生産を食い止める本が、遂に出たのです。

久保田正志『日本の軍事革命』(錦正社)

 帯の文句が、そのまま本書の狙いを示しています。
 繰り返すと、ヨーロッパ史でいわれる軍事革命とは、戦場に火器が導入されることにより、戦術や城塞が変化し、結果巨大な軍隊を恒常的に維持するという要請から国家の体制が整備され、近代化に繋がったということです。それが日本ではどうだったのでしょうか。
 パーカーは『長篠合戦の世界史』の中で日本における軍事革命について、火縄銃の導入と築城技術の変化について述べていますが、社会に及ぼした影響についてはヨーロッパのようには述べていません。また日本にもたらした変化についても、長篠合戦の所謂「三段撃ち」が最近疑問視されているように、首を傾げるところがあります。どうやらパーカーは、「日本の軍事革命は中断した」という考えのようですが(本書p.6)、その見方は妥当なのでしょうか(単純なヨーロッパの図式の当てはめかも知れません)。そういった側面を検証しているのが、本書の内容です。

 以下に目次の概要を掲げます。
序章 軍事革命論と本書の問題意識
第一章 日本の槍戦術の推移と特徴
―ヨーロッパの戦例との比較から―
第二章 銃兵の訓練と常備兵化
第三章 近世初期までの日本での大砲使用
第四章 鉄砲による山城の弱体化と城郭立地の変遷
第五章 鉄砲の普及による野戦の決定力の上昇と
大名勢力圏の拡大の促進
第六章 兵農分離の進展とその要因
第七章 近世初期の日本の兵站・輜重隊の整備とその限界
―ヨーロッパとの比較から―
第八章 近世城郭築城に関わる作業量の増大と大名財政
第九章 大名における軍事要員雇用態様の変化と財政
終章 本書の結論・日本の軍事革命の態様について
 と、火器の導入によって日本に起こった野戦・築城・兵站といった戦術の変化をヨーロッパとの相違に注目しつつ追い、社会に与えた影響がどう違ったかを指摘しています。
 その具体的な様相は本書を読んでいただければよいので、詳細ははしょりますが、「馬」が鍵になります。日本の馬が小柄で弱体だったため、野戦では騎兵の脅威がないから歩兵は一斉射撃で弾幕を張って騎兵突撃を阻止する必要がなく、むしろ狙撃の個人プレーに走ります(首を取ったら恩賞、という伝統的システムにもその方が適合的)。一方馬が弱いので大砲を運べず(馭法も未発達)、城郭は対鉄砲戦のみに特化して砲撃戦を考えない形になりました。兵站についても具体的な検討がなされています。
 鉄砲の導入で兵士の死傷率は上がっても、ヨーロッパのような要塞が出来なかったので、日本では戦争の決着はむしろ速まりました。そして成長した大勢力は、住民を根こそぎ動員しなくても、精鋭だけ選りすぐっても十分な兵力になったため、兵農分離がすすみ、江戸時代の身分制に繋がったと結論づけています。

 軍事の歴史はこれまで、その範囲の専門家(マニア)内部の議論にとどまりがちでしたが、ヨーロッパの軍事革命論は、軍事の変化が社会や国家のあり方に大きな変化を与えたことを指摘し、軍事史をそれまでの狭い垣根の中から解き放ったといいます。本書もまた、狭い垣根――それは日本の戦国時代の場合、軍事専門家(マニア)内という垣根だけでなく、「大河ドラマ的」とでもいうべき通俗的歴史観という、社会や経済を捨象した英雄物語的な、「戦国無双」的な垣根もあると思いますが――から戦国時代の歴史を解き放ち、世界との比較をも可能にする、大変重要な一冊と思います。
 本書の主張では、日本の軍事革命は、中断というよりむしろ「必要最小限の範囲で革命を終えた」(p.255)としています。とすれば、「軍事革命」を経ていた江戸時代の評価についても、特にその"近代性"を考える上での視座を与えてくれるかも知れません。更に、火器のような技術が他の文化圏に受け入れられた時、既存の社会をどのように変えるか、かつその技術の使い方がどのように変わるか、という技術導入と社会の関係についても、考える手がかりを数多く与えてくれるでしょう。
 例を一つあげれば、馬というネックが軍事革命期における日本の大砲導入を妨げたといいますが、明治以降の近代軍でも、やはり馬がネックとなって輸送などに大きな問題が起こっています。著者の久保田氏は比較軍事史研究者と称しておられますが、比較の軸は東西に限らず、時間軸にも応用できるでしょう(実際、久保田氏は戊辰戦争に焦点を当てて次回作を予定しておられるそうです)。

 誉めるばかりも何なので、苦情も一つ二つ。
 本書では軍記を史料として数多く用い、その中に記された数字を収集して統計的な分析を加えている箇所が多くあります。ですが、これは中世史にはとんと疎い者の思い過ごしなのかも知れませんが、果たして単純に軍記の数字をそのような利用をして良いのか、ということです。これはなかなか難しいことだろうとは思いますが、史料のさらなる検討は今後進められるべきだろうと思います。
 また本書では、鉄砲導入後の日本の城郭の変化について、「完全隔絶型」と「不完全隔絶型」という新たな区分を導入しています。それは鉄砲対策として、水による障害が城を周囲と隔絶しているかどうかに拠る(p.83)由ですが、定義の解説そのものはさらりと流してしまっていて、どうもイメージがつかみにくい難があります。特定非営利活動法人・城塞史跡協会の理事長をつとめ、数多くの城を巡っておられる久保田氏であれば、具体例に則して、図・写真など活用して明確に定義を説明していただきたかったところです。
 これに限らず、軍事の理論のようなことについて説明する場合は、図式による説明を導入することが定義を明確にする上でも有効なことが多かろうと思います。もちろん、本書の場合は新たな視角を切り開いたものである以上、まだ図式を早々に固める段階ではないとはいえるかも知れません。

 しかし、些少な問題は措いてもなお、この本は大変面白い本です。お値段もハードカバーの立派な装丁(栞の紐付き)で272ページ3400円と、この種の本としては比較的安価ですし、歴史好きには強く本書をお勧め致します。日本の軍事革命を取りかかりに、様々な方向に議論を発展させる起点になりうる本でしょう。英雄譚的なものを求める向きには「実も蓋もない」と受け取られるかも知れませんが、それだけにむしろ、読み手の力をも同時に問われる一冊であろうかと思います。
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by bokukoui | 2009-02-08 21:54 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(9)

戦前の映画を見た話(亀井文夫作品2点)

 少し旧聞に属する件ですが、前月の浦嶋嶺至(礼仁) 画業20周年トークイベントに行った際、たまたま出会った昼間たかし氏に教えていただいた昔の映画の上映を見に行ったので、そのことを忘れる前に書いておこうと思います。といっても、既に充分時間が経ってしまっているので、結構あやふやなのですが・・・何しろ映画というのは、メモを取るのがなかなか難しいもので。

 見に行った映画とは、上のリンクにある通り、亀井文夫監督作品の「姿なき姿」(1935年・29分)と「支那事変後方記録 上海」(1938年・77分)の二本立てです。映画館に映画を見に行ったなんて何年ぶりだろう。酒井翁メイド系映画(?)を見に行って以来かも。
 場所は京橋のフィルムセンターです。そういや中島らも『なにわのアホぢから』の中のひさうちみちおの漫画で、「京橋で映画を見る」というと、東京ならフィルムセンターに行くことだけど、大阪ではポルノ映画を見る意味になるというネタがありましたな。

 閑話休題、先に結論を書けば、二本とも非常に面白く鑑賞し、時間があっという間に過ぎました。もっともそれは、映画としての出来の善し悪しを云々するというよりも、「歴史の史料として」非常に面白かったということなので、映画ファンの方からすれば邪道な感想かも知れません。ただ、史料として見るならば、コマ送りでじっくり見たい所で、映画館で一通り見るだけではかえって欲求不満が溜まる感もないではありません。
 以下うろ覚えですが、個々の映画について印象に残っていることをつらつらと。

 まず、戦前の日本最大の電力会社であった(最大の民間企業でもある)東京電灯のPR映画「姿なき姿」について。小生は電力業の歴史にも少なからず関心がありますので、この日見に来た最大の理由でもあります。
 昭和初期の日本の電力は水主火従(特に東京電灯は水力依存傾向が強かった)でしたので、大規模な水力発電所の映像が続々と流れ、インフラ好きにはたまりません(フーヴァーダムの迫力には残念ながら負けますが)。火力発電所も紹介され、確か「お化け煙突」の千住火力も出てきましたっけ。
 このような大規模な水力発電所を建設するには、まず山を切り開いて資材運搬手段を講じねばなりません。今なら道路でトラックですが、戦前のことですから軽便鉄道を敷設して建設資材を輸送します。その模様が数多く出てくるので、画面から目が離せません。そもそもこの映画自体、軽便の機関車が大写しになって始まっています(文脈がちょっと分かりにくいのですが)。
 その中で、確か大井川の開発だったかと思いますが、橋を架けて川を渡る軽便鉄道の背後に、もう一本川を渡らない別な線路があって、二本の列車が同時に走っているという、模型のレイアウトのような情景がありました。あれはどこなんだろう。
 映画の最後は、冬の送電線を守る作業の大変さを写しています。新潟県や長野県から山を越えて東京まで延びる送電線を、雪をスキーで乗り越えて保守するのですが、ナレーションでは、食料を運び上げておいた山小屋に冬の間中こもって保線員は作業をするとのことでした。大変な作業であることはもちろんですが、この地域の住民にしてみれば、降雪で農作業が出来ない時期の間じゅう衣食住東京電灯持ちの賃金仕事というのは、合理的なものだったのかも知れないとも思われました。
 映画では、電気が産業や生活に不可欠になっていると強調するシーンがあり、そこで流線型の電気機関車・EF55が疾走しているのはよく分かるのですが、電気の使用例として「劇場照明」が挙げられているのが、何だか突飛な例に思えました。しかもその劇場、羽根をつけたおねいさんたちが階段で隊列をなしてダンス・・・ヅカか。いや、東京電灯だから東京宝塚劇場? というところでやっと気づいたのですが、1935年当時の東京電灯社長は小林一三だったのでした。成程。

 「支那事変後方記録 上海」の方は、日中戦争初期に占領された上海の模様を撮影した宣伝映画です。しかし一見しては声高なプロパガンダ映画ではなく、むしろ淡々と戦闘が終わった上海の情景を描写しています(そのように作られています)。
 これは盛りだくさんで、市街戦の跡であるとか、揚子江(の支流)に浮かぶ各国軍艦、航空機の出撃前状況や防空戦闘の説明など、陸海空すべての状況が盛り込まれています。市街戦では、共同租界との境界線にあったことを利用して、国府軍が最後まで抵抗した有名な倉庫の状況が分かります。市外だけでなく、郊外で激戦が展開されたクリークの様子も映し出されます(この戦闘に関しては、以前紹介した『第百一師団長日誌』が良い史料になります)。軍艦関係では、連装砲塔を4基備えたイタリア巡洋艦(多分。連装砲塔の二門の砲の間隔が狭いので。実は仏艦の見間違い?)や連装砲塔3基備えたイギリス巡洋艦(多分)が大写しになりますが、艦名が分からない辺りが我ながらヘタレでありました(ご存じの方がおられましたらご教示下さい)。

 雑駁な感想ですが、「聖戦完遂」的なスローガンの単純な連呼ではなく、むしろ戦闘の過酷さを示唆させるような、そんな印象を受けます(そのため現在でも尚鑑賞に堪える作品となっているのでしょう)。兵士の戦死した地点に、木柱に「誰それ戦死之地」と記した慰霊碑を建てた情景が、随所に織り込まれています。市街戦に関して、「世界に類例のない激戦」といったようなナレーションもあったかと思います。
 実際、第1次大戦の陣地戦の経験を積んだドイツから導入した技術を活用し、中国軍としてはもっとも装備も練度も高い部隊が投入された上海戦は、大変な激戦であり、日本軍もその突破には様々な工夫と大きな犠牲を必要としました(詳しくは上掲リンクの『百一師団長日誌』参照)。その直後の第2次世界大戦の奔流の中で霞んでしまいましたが、当時としては確かに、一時代を画した戦場であったのでしょう。そして、その激戦という背景があったからこそ、その直後の南京事件へと繋がっていくのです。
 で、あからさまな戦意高揚でない、むしろ犠牲の大きさや激戦を強調する、一歩間違えば厭戦機運にも繋がりかねない、この映画が当時の軍に許されたのは、一時代を画した戦場ということを軍も感じていたからなのかも知れません。これは全くの思いつきですが。

 ところで、やはりプロパガンダ映画といえば、子供の扱いが大事ですね。この映画でも例に漏れず、子供が登場します。それもご丁寧にも、在上海在留邦人の子供と、中国人の子供と、両方を写しています。
 また、動物も同じような、プロパガンダの道具として使われるものでしょう。平和の演出に有効ですから、犬猫もこの映画に何度も登場したかと思います。ですがその中で、海軍陸戦隊の水兵さんが犬を連れて出かけるシーンがあったのですが、どういうわけかその犬、四本の足を全力で踏ん張って、首輪につけた縄を引っ張る水兵さんにちっとも従わないのです。映画だということで無理に引っ張り出されて不機嫌だったのか、はたまた抗日精神旺盛な愛国犬だったのか。

 さて、この「支那事変後方記録 上海」はDVD化されているようです。小生、この映画もできればコマ送りで見たい、さっき書いた巡洋艦の他にも、鉄道に関するシーンで復旧した駅に列車が入ってくる、その機関車がどうも大陸に送られた1435ミリゲージ改造9600形のような気がして、他にも確認したい所は多々ありましたから。で、アマゾンで見つけてちょっと覗いてみたのですが・・・
 同じシリーズで「南京 戦線後方記録映画」というのもあります。これにアマゾンでつけられたカスタマーレビューの酷いこと酷いこと。日本軍公認の映画を根拠に「虐殺事件はなかった」と言い切るというその神経は信じがたいものです。当然その映画に何を写すかは、軍の意向が反映されないはずはないですから(完全に意嚮そのまま、ではないにしても)。史料批判ということを知らないのでしょう。
 興味深いのは、「南京」については8件のレビューがあるのに比し、「上海」には一つもないということです。これは虐殺まぼろし説を批判している側にも言えそうな問題点ですが、上海があったからこそ南京もあったわけで(映画も上海・北京・南京と三部作になっているそうで)、その関係は念頭に置かねばならないでしょう。南京だけが歴史の中に漂っているわけではないのですから。そして、映画やその制作者の評価はまた別でしょう。

 で、その「上海」をアマゾンのページを改めて見ると、驚くべき発見がありました。これは経時的に変わるかもしれませんので、画像の形で取り込んで示します。以下の画像をご参照下さい。
f0030574_4134914.jpg
 ・・・・・・。

 「類似した商品から提示されたタグ パンツじゃないから恥ずかしくないもん

 もう詳しく解説する気はありませんので、意味の分からない方はご自分で検索してください。
 結局、「南京」は南京事件ということでしか興味を抱かれず、「上海」は趣味の偏ったミリヲタのみが関心を示したということになります(「南京」の「類似した商品から提示されたタグ」には、「チャンネル桜」が出てくる)。
 ・・・なるべく本はアマゾンではなく、神保町で買いたいと思います。

 嗚呼、昔の映画を見て面白かった、ということを書きたかっただけなのに、何でこんなハナシになってしまうのでしょうか。亀山監督、申し訳ありません。
 最後ぐらい真面目にまとめれば、映像資料の活用については、歴史学の研究はまだあまり多くを蓄積していない、現状のごたごたはそれ故の一時的な(将来解決せられるであろう)問題である、そう信じたいものです。
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by bokukoui | 2008-12-27 23:55 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(5)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・坤

 講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・乾巻の続きです。
 完成まで、イタリア艦の如く時間がかかってしまい済みません。いろいろ忙しかったりなんだかんだしたもので・・・。

 本題に入ります。
 最後の講演である髙木さんの講演「『金剛型』機関部詳解・余談」も、三番目の大塚さん同様『決定版 金剛型戦艦』の内容に基づいており、これは大塚さんのお話以上に図がなくては理解できず、しかもレジュメの図面だけではなく、黒板に自ら図面を描いてのご説明もありました。ところが小生、この時爾後の打ち合わせや看板類の撤収などで席を外していた時間もあり、申し訳ないことですが、ますますメモが取れておりません。講演会後の打ち上げで伺った「なぜドイツの蒸気機関車はダメか」というお話なら、メモがなくても書けそうなんですが(笑)。やはり燃焼室がないと燃 / 萌えませんね。
 というわけで、ますます断片的な形で恐縮ですが、すくなくとも『金剛型戦艦』の髙木さんの記事の訂正箇所は以下に略述しておきたいと思います。詳しくは『金剛型戦艦』や髙木さんのサイトをご参照下さい。

 で、壇上に登場した髙木さん、まずは自著の宣伝。

『日本軍艦写真集』(光人社)

 これは髙木さんの長年のコレクションを本にしたものですね。小生も見たことがありますが、大変綺麗で見応えも資料性もある写真集です。買ったわけじゃないけど・・・

 で、これはいいんですが、もう一冊の宣伝はなぜか軍艦ではなくて鉄道の本。

『幻の国鉄車両』(JTB)

 題名だけ見ると、最近はやりの国鉄懐古で、団塊の世代当たりのノスタルジーに便乗した本みたいですが、著者の面々、石井幸孝・岡田誠一・小野田滋・齋藤晃・沢柳健一・杉田肇・髙木宏之・寺田貞夫・福原俊一・星晃というお名前を見れば、安心してお薦めできる本といえそうです。済みません、そんな本が出たことをこの日まで知りませんでしたが・・・

 そして、もう一冊は壇上で宣伝したのではなく、確か打ち上げの時に伺ったのだと思いますが、鉄道雑誌『Rail Magazine』の300号記念号に、髙木さんが十年ばかり前に書いた記事の増補改訂版「改稿 国鉄蒸気機関車発達史」が載っているそうで、正直RM誌があまり好きではない小生ですが、リアル工房の時分に髙木さんの前稿で日本の蒸気機関車の歴史を理解した(それまでにも断片的な情報やトピック的な通史は読んだことがあったが、髙木さんの記事は practice(手法体系)という概念を持ち込むことで、明快な筋を通した通史を示していた)身としては、買わずばなりますまい。資金の都合でまだ買ってませんが・・・

 話が逸れまくりましたが、本業鉄道趣味者としては、髙木さん=蒸機の人なので、ご勘弁下さい。
 『決定版 金剛型戦艦』の訂正補足としては、
・p.146:タイガーとリナウン級の図面が間違い。正しくは以下の通り(レジュメを取り込むのは控えていましたが、この場合は構わないだろうと考え以下に紹介します。クリックすると図は拡大表示します)。
f0030574_1933573.jpg
 正しくは翼軸が直結タービン中圧(I)、内軸が直結タービン高圧(H)・低圧(L)。
・p.152:タイガーの後部2砲塔は当初背負式の計画であったが、Y砲塔直後に後部魚雷発射管室を設けたことにより、弾薬庫が前に寄り推進軸と干渉するため、第3砲塔を機械室の前に移した。
・p.153:リナウン級の缶圧はタイガーではなく金剛と同一。
・p.156:出力が同じ時は、速力の3乗が排水量の2/3乗に反比例。榛名の第2次改装時期は1933年8月~翌年9月。
 また、練習戦艦化された比叡は、ロンドン条約の制限に従って最大速力18ノット、出力1万3800軸馬力と公表されていたが、実際は缶の性能から3万9700軸馬力程度と推算される。練習戦艦時代の基準排水量は1万9500トンだが、長さと幅の比が近似している英巡戦インディファティガブル排水量1万8750トン、4万3000軸馬力で25.79ノット出していることから、その速力は24.5~25.0ノットと推算される。
・p.157:タービンと減速装置の重量は、1軸当たりではなく4軸合計で439トン。
・p.158:第2次改装後の金剛の過負荷全力(10.5/10)公試の結果は、排水量3万6860トンの時、14万3691軸馬力で30.48ノット。また不明だった第2次改装後の金剛のタービン初圧は、17kg/cm2 と判明。

 盛りだくさんなトピック中から、メモが残っていたものを一つご紹介。それは、「なぜ日本海軍はイギリスに戦艦ではなく装甲巡洋艦(巡洋戦艦)を発注したのか?」という点です。
 黒板に表を書かれて説明されたのですが、かいつまんで言えば、砲の製造技術の導入という点では戦艦でも装甲巡(巡戦)でも同じ、装甲については戦艦の方がより技術を得られるが、機関については戦艦:4万馬力vs.巡戦:7万馬力で巡戦に分があり、お値段は巡戦が安い、ということで、トータルで巡戦が選ばれたのだろう、とのご指摘でした。

 随分時間も押して、髙木さんの講演はまだいろいろ話題を積み残したまま終わらざるを得ませんでした。今回最大の反省点です。

 そして全体の質疑応答に移る前に、平賀文書の整理とデータベース化、そして「平賀譲デジタルアーカイブ」開設の中心となった、そして平賀文書を駆使して『近代日本の軍産学複合体 海軍・重工業界・大学(創文社)をまとめられた畑野勇先生が急遽登壇され、告知をされました。
 それは、呉市海事博物館、といってもピンと来ない方が多いかも知れませんが(笑)、大和ミュージアムの第2回特別展として、「軍艦設計の天才 平賀譲 ―戦艦大和への道をひらいた東大総長―」という展示を来月から明年2月まで行うということ、そしてそれに合わせて、来月19日に『平賀譲 名軍艦デザイナーの足跡をたどるという図録が文春から出るというお話でした。
 畑野先生は図録のゲラまで見本にご持参下さり、来場者に閲覧の機会を下さいました。まこと、感謝の念に堪えません。

 そして質疑応答の時間になります。個別の質疑をはしょらざるを得なかった大塚・髙木講演を中心に、広く質問を募ります。以下に概要を(メモし損ねた質問があり、すべてではありません)。

・大塚氏へ、金剛建造時に主砲用の水圧機が3機しかなかったのはなぜか。斉発する気がなかったのか、予算上の問題か。
→当時はあまり斉発を考えなかった。ライオンも最初は水圧機が少なく、その後改装して積み増した。費用の問題もあった。結局、水圧はやめて空気圧にした。

・大塚氏へ、改装して空気圧にしたというが、ドイツ艦は昔から空気圧を使っていた。その影響はあるのか。
→直接の資料はないが、ドイツの資料が1920年代に入って日本で研究されていることは確か。影響は考えられるが、状況証拠しかない。

・大塚氏へ、金剛級により、それまでより排水量が50%も増えた艦を日本で作ることになったわけだが、それによる問題はなかったのか。
→船体も機関も大幅増強なので、まずヴィッカーズに注文した。主要部品をみな買ってきて、最初に日本で作った比叡は、4隻中最も調子が悪く、艦隊での評判も悪かった。そこで民間造船所(技術が不安)で作る榛名と霧島は、設計を変更して作りやすくした。この2隻は評判が良く、海軍の資料でも「金剛級の榛名型 / 霧島型」という言い方がされることもある。

・小高氏へ、金剛代艦の艦政本部案は主砲の前に副砲塔があり、主砲との間にブラストスクリーンのようなものが描かれている。この辺りはどうなっているのか。副砲は後ろが開放されているのか、ちゃんとした砲塔なのか。
→副砲は、後部も閉鎖したちゃんとした砲塔と考えられる。
(大塚氏より補足)→砲塔の上の装甲は薄いので、実際に作ったら砲塔内の衝撃が激しいと思われる。最上級でそのような例があった。

 と、一通り質問が出たところで、質問ではないのだが一言、と登壇されたのが、軍艦関係の著作も多い斯界のベテラン・阿部安雄さんでした。阿部さんはこの機会に是非、と思いがけない秘話を語られます。

 先程も話題に出た大和ミュージアムには、金剛が建造当時に積んでいたボイラーが展示されています(英国製のヤーロー缶)。これは第1次改装の際に降ろされ、その後重油専燃に改造されて陸上で海軍の技術研究所の暖房用ボイラーとして使われていました。戦後になっても、やはり金属技術研究所や防衛庁施設の暖房に使われ続けました。しかし研究所を移転することになり、目黒区が跡地を公園にするというので、このボイラーも撤去することになりました。
 さてその頃、大和ミュージアムの開設作業が行われていました。その際、「旧海軍関係のものなら何でも集めよう」派と、「呉の施設なんだから呉関係のものだけでいいよ」派との間で、時として意見対立があったそうです。今では大和ミュージアムが好調なもので予算も付き、「何でも集めよう」ということになっているそうですが。そして設立委員の一人であった阿部さんは、貴重な旧海軍の遺産であるこのボイラーを、何とか集めたいと考えておられました。
 そんなある日、朝日新聞の記者がボイラーのことを聞きつけて、取材したいと申し入れてきました。そこで造機屋の阿部さんが、記者についてボイラーを見に行くことになりました。見に行ったところ、改造されていてもこれは金剛建造時のボイラーということはすぐ分かったそうです。金剛のボイラーは2度積み替えられていますが、第2次改造で積まれたものは台湾海峡の海底に眠っているわけですから、区別自体はそれほど難しい話ではないでしょう。
 しかし、阿部さんはここで考えます。建造時のボイラーということはイギリス製で呉とは直接関係ない。とすると、保存の予算が付かないかも知れない。第1次改装後に積まれたボイラーとなれば、呉製だからこれは予算が付くだろう。そこで阿部さんは、新聞記事に「ボイラーの製造時期は不明」と書くよう、新聞記者に頼み込んだそうです。そして記者もそれを受け入れ、朝日新聞にこのボイラーのことが結構な紙面を割いて紹介されたそうですが、そこでは「製造時期不明」と書かれたのだとか。
 かくして、このボイラーはめでたく大和ミュージアムに保存展示されることになりました。もちろん展示の際は、ちゃんと「このボイラーは調査の結果、金剛建造時のものと分かりました」と解説を付けました。
 ところが阿部さん曰く、いくつかの書物で朝日新聞の記事を元に、「大和ミュージアムの金剛のボイラーは製造時期不明」と書いているものがあるそうです。そこで、この機会に本当のいきさつを話し、製造時期不明という間違いを訂正しておきたい、とのことでした。

 この秘話に、会場が大いに感動して、阿部さんに盛大な拍手を送ったことは言うまでもありません。そして、確かこの講演会の案内にも使った金剛の絵を描いて下さった fismajar さんだったと思うのですが、阿部さんにこの話はオフレコなのか公にして良いのかと質問されたところ、間違いを正すために広めて良いという趣旨のお答えだったと思いますので、ここに特に書いた次第です。
 こうして、最後の最後に、まさに運営側もサプライズなイベントが起こり、講演会は終了しました。
 
 運営の一端に関わった者として、このイベントはお陰様で成功裏に終わり、意義も大きかったと思います。
 小生が平賀文書アーカイブの構想や、畑野先生のご研究について知ったのは2年半前の学会がきっかけでしたが、その後アーカイブが一般公開され、駒場キャンパスで「平賀譲とその時代展」と講演会が開かれるなど、その成果が次第に広く知られるようになってきました。そして、今回の講演会がそもそも実現したのも、「平賀譲とその時代展」講演会場で偶然再会したことで、しばらく縁が切れていたじゃむ猫さん髙木さん「三脚檣」の方々との交流が復活したということが伏線にありました。
 いわば、学問的研究の成果が在野の研究者、趣味者、マニアの人々を刺激し、このようなイベントが実現したわけです。そして、在野でも面白い情報や理論を抱えている人々が、今度はその成果を学問的な貢献につなげることも出来るかも知れない、そういう循環が出来れば大変有意義であろうと思います。
 ちなみに東大には、日本史上最大の新聞雑誌マニアが蒐集した、新聞や雑誌のコレクションを、法学部の教授が認めて大学に所蔵したという話が実際にあります。そう、宮武外骨と吉野作造、そして明治新聞雑誌文庫ですね。

 最後の講演をされた髙木さんは、鉄道に関する自著を紹介する時に、「船も鉄道も好きな人を"両棲類"といいますが、自分もその一人で、今日は"両棲類"の大御所である青木栄一先生もお見えで・・・」と言っておられたかと思いますが、この趣味者の研究の厚みが学問的なそれに劣らない場合もある、ということを鉄道史の分野で以前から指摘されていたのが青木先生だったわけで、このことは当ブログでも以前書いたことがありました。で、鉄道がそうなら軍艦だって、と小生は思うわけです。
 今回の講演会が、そういった趣味と研究の循環のサイクルを作る一つのきっかけになれるかは分かりませんが、平賀文書のような膨大な資料群が公開され、多くの人が様々な形でそれにアプローチし、その成果を交換し合うという場が成立すれば、それは社会全般の教養の向上に繋がるのではないか、という希望は持っています。つまり、空幕長が史資料の読み方を全く知らずに「論文」を書いて、国民に国防の危機を憂慮させる、そんな事態が減るんじゃないかとは、期待しているわけで。
 今回は、畑野先生はじめ、他にも平賀文書整理に関係された先生方がお見えになりました。そもそも部屋を取る手続きを取って下さったのは、鈴木淳准教授です。ご協力下さった先生方に心より感謝すると共に、秘話を話して下さった阿部さんはじめ、"両棲類"大御所・青木先生、そして出版社やライターの方々も結構来ていたということで、聴衆の水準も高かった?こともまことに嬉しいことでした。
 実際、今回のイベントが良かったと小生が感じたのは、この手のイベントをすると必ず、質問タイムであんまり講演と関係ない自分語りを滔々と始めるお爺さんとかが現れるものなのですが(苦笑)、そういう「質問に見せかけた自分語り」な人が全くといっていいほどおらず、講演と質問とがよく噛み合っていたのは、良いことであったと感じました。

 とまあ、こんな話をはしょって、散会挨拶として壇上で小生がさせていただきました。せっかくの講演会の印象をぶちこわさなければ良かったと今にして思う次第です。いや、じゃむ猫さんの陰謀でなぜかそんなことになって。
 なお、じゃむ猫さんのブログに、この講演会の際に配布したアンケートの集計結果が載っていますので、ご興味のある方はご参照ください。50~60人程度の来場者で27通というアンケート回収率は、かなり高い方だと思います。

 以上、結局長くなったレポートですが、最後に改めて、講演者の皆さん、運営に携わった皆さん(印刷失敗して済みません)、ご協力下さった鈴木先生、そして聴衆の皆様に、心より御礼申し上げる次第です。

 え、次回の予定?

※2008.11.30.追記:書き間違いや舌足らずな箇所を修正しています。
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by bokukoui | 2008-11-28 22:47 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(1)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・乾

 先日来当ブログでも広報に努めていた講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』が昨日行われました。
 どれくらい来場者があるのか、事前にはあまり反応がなく予想がつかなかったのですが、蓋を開けてみれば60人近い方がご来場下さり、まずは盛況であったと思います。反省点としては、十分な時間配分が出来ず、各講演者の予定した話の内容をすべて伝えることが出来なかったということです。もちろん、各講演者の方がそれだけ濃い内容のお話をして下さったということなのですが。
 というわけで、この講演会の簡単なレポートを綴ってみようと思います。簡単というのは、今回小生は講演会運営の手伝いを少々やっていた関係上、出たり入ったりして完全にメモを取っている訳でもないからです。また、そもそも話の内容から言って図面がなければ理解が難しく、しかし講演者の方の作成したレジュメの図面を勝手にここで公開することも礼儀にかなったことではないと思いますし、講演自体の録音運営団体側でされていたので、詳細なまとめなどはそちらを元にどこかでとりまとめられることもあるでしょう。ので、ごくあっさりしたものですが、以下に総括を。
f0030574_23213522.jpg
会場の案内看板

 写真は何枚か撮ったのですが、どれもこれもこの日のは出来映えがいまいちで、せっかくの看板の画像が不鮮明になってしまいました。案内看板の絵は、「恍惚したいモナカ」のfismajar さんの描かれた金剛(新造時)の絵を使わせていただいております。写真はあれな写りですが、元の画像はfismajar さんのブログに掲載されているので、是非こちらをご覧下さい。
 会場の入りは上にも書いたように、50人を超えていました。教室の定員が88人でしたので、結構埋まった感じでした。
f0030574_028131.jpg
教室の状況(肖像権を考慮してわざと小さくしております)

 まず最初に、今回の講演会の「首謀者」である「東江戸川工廠」のじゃむ猫さんが開式の挨拶を述べられます。

 最初の講演は小高まさとしさんの「平賀文書に見る金剛代艦の考察」です。ワシントン軍縮条約で主力艦建造が停止されましたが、建造以来20年経った艦については代替艦の建造が認められていたので、当時在籍中の日本の主力艦中一番古い金剛の代艦が構想されたわけです。この金剛代艦について、当時海軍軍艦建造の一線を離れていた平賀譲の案と、海軍の艦政本部の案とを、「平賀文書」はじめとする資料の活用によって比較検討するのが、小高さんの講演の趣旨です。
 その詳細を図面なしで纏めるのは苦しいので、ここではごく荒っぽく小高さんのまとめのみ紹介しておきますと、艦政本部案も平賀の案も運用側の要望や第1次大戦の戦訓を考慮しているが、平賀案はイギリス式設計の延長線上にあるのに対し、艦政本部案はドイツの影響があるのではないか、とのご指摘でした。両者は逆のアプローチをしている(艦本:船殻を溶接や軽金属で軽量化、全体を広くドイツ式に防御vs.平賀:船殻は必要な重量を割り当て、徹底して集中防御)のですが、結果的には同じような性能を達成しています。
 これは、英国式を磨き上げた単純確実な平賀←→ドイツの技術を接ぎ木しようとした革新的な藤本喜久雄、というほど単純な対比ではなく、日英同盟廃棄以後、どこから技術導入を行うのかという戦略的な問題を反映したものであったと解釈すべきことと小高さんは指摘されています。そして当時の日本海軍はどちらにするか決められず、そうこうしているうちにロンドン条約で金剛代艦は廃案になってしまったのでした。

 ついで質疑応答。

・船殻重量と装甲重量の比率から、艦本案をドイツ系と規定していたが(註:35000トン級戦艦の場合、平賀案は船殻に1万トンを必要とし、装甲に1/3程度にするのに対し、艦本案は軽量化で船殻を9000トンに絞って装甲重量に4割程度充てている)、船殻と防御重量とはどう区別するか。
→艦によるが、主力艦の舷側装甲は構造に寄与しない。軽艦艇はそうではない場合もあるが、構造か装甲かは恣意的に変えられるものではない。

・金剛代艦と同時期に、妙高級や最上級を建造している。それと艦本案との影響はないのか。
→高雄級は艦本案に近い性格を持っている。最上級は構想と実現したものとの乖離が大きく評価が難しい。

・艦本案は色々なところから色々な要素を持ってきてはいるが、結局は英国流ではないか。むしろ第1次大戦の戦訓は副砲など違うところにあるのではないか。
→広くヨーロッパ諸国の手法を咀嚼しようとしていたと考える。

・平賀案は喫水線下を軽巡並に極めて絞っているが、これをどう評価するか。
→平賀案が速力に気を使っていることは確か。中速戦艦中では高めを狙っている。しかし、本格的な高速戦艦を目指しているわけではない。

・連装と三連装の異種砲塔混載を平賀はいとわなかったというが、英国の戦艦ではその例はない。これは平賀の独創か、何かから考えたのか。
→平賀の混載案の最初は陸奥変態案。実現しなくても混載案自体は英国はじめ各国にあった。

・小高氏の示した平賀案の各時代の図面を見ると、兵装などは変わっているが、艦首は八八艦隊と同じように見える。これは案なのでラフに慣れた調子で描いたのか、本当に同じように造るつもりだったのか。
→もちろん実際に造る際はブラッシュアップしただろうが、平賀はそもそも艦首波の影響などにはわりと無頓着。藤本は気を使っている。

 小高さんの講演は(他の方もそうだったのですが)、内容盛りだくさんで時間内に収まりきらず、この時点で既に押し気味。

 ついで、新見志郎さんの講演「金剛と英国の姉妹たち」です。
 新見さんのこの講演は、サイト「三脚檣」で以前掲載された「ライバル・他人の空似」をベースとした内容です。金剛のモデルとされる英国の巡洋戦艦ライオン級、その一つ前のインディファティガブル級、金剛の影響を受けたとされる英巡戦タイガーとの関係を検討します。
 これは図や写真の一部は上掲サイトでも見られますので、そちらを参照していただければある程度雰囲気はお分かりいただけようかと思います。12インチ砲塔を梯形配置していたインディファティガブル級から、13.5インチ砲塔を中央線上に並べていたライオン級は大きく飛躍したように見えますが(排水量4割増)、完成当時の姿(前三脚檣を第1煙突の後に立てていたが、排煙でマスト上の指揮所がえらいことになって改装された)や、艦内の構造(なぜか第3砲塔の弾薬庫が右舷に偏っている)を見ると、ライオン級は実はインディファティガブル級の影響を色濃く残していると考えられるということです。建造時期も半年しか違わないのでした。
 金剛は、ライオン級を参考にしつつも、トルコ向けの戦艦レシャディエ(のち英国が接収してエリンとなる)に倣ったところが大きいといわれ、一方タイガーはライオン級の前級を引き継いでいたところを洗練改良したものといえます。ライオン級の第3砲塔に後方射界がないのは、前級の影響によるものと同時に、英国海軍は伝統的に前方射界を重視するものの後方射界はあまり重視していなかった事情もあるようです。タイガーがこの点を改良したのは、金剛の影響ばかりとはいえないようですが、仮に金剛がなければ、第3砲塔後の広いスペースにマストくらい建てたかもしれない、とのご指摘がありました。
 第3砲塔の後に広いスペースがあるのは金剛とタイガーの共通点(この部分の艦内には機関室がある)ですが、これは真似したというより、弾薬庫スペースを軸路で制限されないで済むとか、推進軸の長さが短くて済むなどのメリットからと考えられるとのことです。実際タイガーには当初、後部2砲塔を背負式にする案もあったそうです。また金剛の後部2砲塔は、バーベットが妙に高く、タイガーとその点は異なっているようです。
 まとめれば、当初は装甲巡洋艦として造られた最初の巡洋戦艦インヴィンシブル級からライオン級まではひとつながりの設計思想上にあり、金剛以降が準戦艦的な巡洋戦艦に洗練されたのではないか、ということでした。

 新見さんの講演に寄せられた質疑応答は以下の通り。

・煙突の配置について伺いたい。
→原則、英艦は煙突を一ヶ所にまとめるが、舷側に砲塔を配置している艦はボイラーと機関室を分離した配置となり、煙突も分離して配置される。中央線上に砲塔を揃えた艦は普通煙突を一ヶ所に集めるもので、英艦ではライオン級のみ例外。

・金剛の後部砲塔のバーベットが高いという話だが、それは前後の砲塔の高さを揃えて斉射する際の命中精度を上げようとしたのか?
→それはないと思う。その程度ではさほど精度に影響はない。

・マストの前に煙突を立てて、指揮所が排煙や熱で大変ということはドレッドノートで既にあった事例の筈。それを何でライオン級で繰り返したのか。
→マストをあのようにした直接の理由は、ボートのデリックポストを兼ねるため。それまでの事例では我慢できる程度だったが、ライオン級では遂に耐えられないほど酷かった。

 三番目は大塚好古さんの「金剛型建造ドキュメント余話」です。これは、講演の案内の方に紹介してありますが、学研の『決定版 金剛型戦艦』の記事をベースに行われたものなので、該書なくして説明するのはなかなか難しいところです。大塚さんは今回の講演者の中では一番こういうことにお慣れだったのか? 軽妙な語り口で聴衆に笑いのこぼれる場面もありましたが、こういうのを文字で伝えるのはいよいよ以って難しいですね。レジュメの枚数は多く、大塚さんは最初から「町内会の寄り合いと同じで、時間がかかりそうだったら『あとは読んでおいて下さい』という予定」と仰ってまして、実際にその通りになってましたし。
 というわけで、小生が面白いと思ったトピックを、適当に幾つか紹介させていただきます。

・金剛の試案の資料は英国のものに拠っているが、それは日本側の話があまり信用できないから。
・金剛が当初12インチ砲艦として計画された理由は、14インチ砲が時期尚早という他に、艦形を小さくして経費を安く上げるということもあった。
・14インチにしたのは駐英武官加藤寛治少佐が砲撃試験の結果を手に入れたためといわれるが、ヴィッカーズ社の売り込みもあった。15インチにしなかったのは時間がかかるせいだという。しかしもしかすると、英海軍の15インチは「42口径14インチ砲」の秘匿名で開発されていたが、ヴィッカーズが「42口径よりウチの45口径14インチの方がいいですよ」とだまくらかした?
・金剛の装薬庫と弾薬庫の配置は当時の英艦と逆で、装薬庫が下にある。これは艦の大型化で火薬庫の上部が水線上に露出して注水に不便になったのと、大落角弾への防御による。その後第1次大戦が始まって、機雷による沈没艦が相次いだため、伊勢級ではこれを逆にしたが、ジャットランド海戦の教訓から元に戻った。英艦も逆にした。
・国産化された艦のうち、最初の比叡は細かい不具合が多くて評判が良くなく(のち練習戦艦にされる)、榛名の出来映えが一番良かった。
・兵員区画の一人宛面積を拡大したのは長門級からだと『金剛型戦艦』に書いたが、実際には扶桑級からで、これは間違いだった。伊勢で面積が植民地サイズに戻り、長門でまた大きくなった。
・金剛級の主砲用水圧機は3基しかなく、英艦の5基(含予備)より少ない。そのため主砲の連続斉射が困難であった(当初は交互発射が基本だった)。しかしこれが後に不満の元となり、訓練では過負荷で連続斉射したこともあったが、すると水圧の配管が水漏れを起こす。結局空気圧に改装された。
・斉射を求めたのは、遠距離砲戦時の命中弾が期待できるだけの門数を確保するため。これにより、10門以上装備することにこだわる必要がなくなった。
・改装では防御も強化されたが、その際艦隊側では、上部装甲帯を外して水平装甲を強化して欲しい、「姑息なる薄鋼鈑」はかえって徹甲弾の内部爆発を誘う、非防御の方が当たっても抜けるだけ、と集中防御大万歳。一方造船側は、弾片などでも様々な被害の恐れはあり、排水量制限などの条件がなければ、集中防御はあまり好まなかった。結局は造船側の意見が通る。

 他にも色々あったのですが、紹介しきれないのが残念です。
 講演自体の時間も足りず、質疑応答は最後に回すことにして、引き続きサイト「蒸気推進研究所」「機関車技術研究会」を運営する髙木さんの講演に。

 ですが、記事が長すぎて一つに入りきらないので、以下の続きはレポ・坤巻に。
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by bokukoui | 2008-11-24 23:24 | 歴史雑談 | Trackback(2) | Comments(2)

ジュール・ヴェルヌ関連の話 慶応の展示・『文明の帝国』雑感など

 先日のゼミで伺った、大変興味深いお話に関連して、つらつらと思いつくまま。

 今年は慶応大学が創設150周年だとかで、いろいろとイベントをしているらしいですが、その一つにこのようなものがあるそうです。

  異国見聞『八十日間世界一周』
   1872・グローバリゼーション元年、ヴェルヌの見た横濱

 ジュール・ヴェルヌの代表作の一つ『八十日間世界一周』は、1872年に新聞連載され、まさにその同時代が舞台になっています。連載中から大評判で、その後演劇化されそれも好評で、各地でロングランしたそうです。ちなみにヴェルヌの全作品中でも一番の売れ行きだったとか。
 そして作品中、世界一周の途上で主人公・フォッグ氏一行は日本の横浜にも立ち寄ります。もっともヴェルヌは、取材で世界一周をしたわけではない(むしろ家の中にこもって小説を書いていたらしい)ので、ヴェルヌが横浜を「見た」訳ではありません。
 物語の設定上、1872年11月13日にフォッグ氏の従僕・パスパルトゥーが横浜に上陸したと書いてあります(彼とはぐれた主人・フォッグ氏一行の来日は翌日ぐらい)が、そこで描かれる日本は江戸時代です。「江戸」という地名は出てきても、「東京」は出てきませんし、将軍が江戸にいることになっており、ミカドが「ミヤコ」にいることになっています。新橋~横浜間の鉄道開通はこの年10月14日だから、実際にこの日に横浜に上陸すれば、ちゃんと汽車が出迎えてくれた筈なんですが。

 それはともかく、『八十日間世界一周』は日本に紹介されたフランス文学の中でも最も早いものなのだそうです。そしてその版元が慶応大学だったことが、このような企画に繋がったもののようです。
 『八十日間世界一周』は日本でも川上音二郎が劇化し上演したそうですが、それ以後長らく舞台から縁が遠かったそうです。それを先年、久方ぶりに舞台に載せたのがおのまさし氏たちだったそうで、それを一日だけとはいえ無料で再演するというのは、ずいぶん大盤振る舞いなイベントです。汽車や汽船に興味のある身として『八十日間世界一周』は好きな作品なので、見に行ってみようかな。
 「グローバリゼーション元年」として『八十日間世界一周』を捉えるのは、確かに納得できる面があります。何しろフォッグ氏は2万ポンド(現在の数億円程度か)の金力にものをいわせて、80日間で世界を駆けめぐるわけで、その辺がああ資本主義の時代だなあと思わされます。道中フォッグ氏が使った金額で最大のものは船をアメリカ人から買うところですが、ここはアメリカ人から買うのでドル単位で出てきます。しかし他はイギリス人の旅行なので、ポンドで計算されています。中学生頃本書を読んだ小生は、これを差引勘定し、当時は1ポンド=5ドル位なのだと見当を付けましたが、これは結構いい線を行っていました。

 さて、ゼミで伺った話とは、日本で『八十日間世界一周』を最初に訳出した川島忠之助(1853~1938)という人物についてでした。フランス語に通じていたそうですが、実は文学者ではなく(文学者になりたい意図もあったようにも伺えるらしいのですが・・・)、横須賀製鉄所(造船所のこと)や富岡製糸場に勤め、後に横浜正金銀行(戦後の東京銀行)の重役にまでなったそうです。しかし、日本の重工業と軽工業の、それぞれの発祥の地に勤めたにも関わらず(どちらもフランスから技術導入しているのでフランス語は出来たのでしょう)、その事蹟は殆ど知られていない、同時代の資料でも目立たない、そんな人物であったようです。
 で、この川島は、1876年から翌年にかけて、自分もフォッグ氏と類似したルートで世界一周しています。これは蚕の卵を、当時蚕の病気が流行して養蚕業が打撃を受けていたヨーロッパに売り込もうという事業の通訳としてで、事業は渋沢栄一なんかが深く関与し、実際に派遣された中の中心人物は、のちに軽便鉄道を日本各地に展開したことで有名な、雨宮敬次郎だったのでありました。
 そこから更に、養蚕業の話やヴェルヌ翻訳の経緯など、興味深い話は色々とありましたが、人様のご研究を勝手に個人のブログで公開するのも何なので、その一端は上掲展示会でも示されるようですし、やはりここはそれを見に行くのが宜しいかと思います。

 ヴェルヌ繋がりでもう一つおまけに。

f0030574_22565173.jpg杉本淑彦
  『文明の帝国
 ジュール・ヴェルヌと

 このような本をずいぶん前に古本で買い、一年以上前に読了しておりましたが、感想を書く機会を逸したまま時間が経ってしまいましたので、この機会にご紹介。といっても舞えすぎて、本の内容をあらたか忘れてしまっているのですが(苦笑)、本書の読書メモの断片が発掘されたのでそれに基づいてごく簡単に一筆。

 ヴェルヌが活躍した19世紀後半とは、とりもなおさず帝国主義の全盛期でした。その時代のフランス最大の流行作家だったヴェルヌの作品に見られる「帝国」の像、植民地支配や人種問題について、その描かれ方を検討した書物です。全部で400ページを超える浩瀚なものですが、うち100ページ以上はヴェルヌ作品のあらすじ紹介です。文章が敬体なのがちょっと変わっている気もします。
 ヴェルヌ自身は、例えばキプリングのような、植民地活動のイデオローグとして活動した人物ではなく、また『海底二万マイル』のネモ船長の造形からも伺えるようなヒューマニストでもありました。彼の読者もまた、第三共和政下での主流である穏健共和派が中心で、子供向けの本としても当時既に定番だったそうです。だから、当時のフランスの一般的な、「帝国」への見方・考え方というものが見えてくるのではないか、という課題設定でした。
 で、結論を先取りすれば、当時(19世紀後半)においては、ヴェルヌ作品から推し量る限り、国民の間に帝国主義的なイデオロギーは、それほど浸透していなかったそうです。興味深いことに、フランスで植民地の維持拡大を重視する意識が最も盛んになったのは、1930年代以降、ドイツに戦争で敗れて占領され、また解放された1940年代半ばのことというのが、最近の定説なのだとか。ドイツに負け、そのドイツを負かした英米ソに負けてなるものかという意識が、植民地に向かったのだそうです。なるほど、インドシナの事態の説明として大いに説得的ですね。
 また、ヨーロッパの民族自決(当時そういう言葉は広まってませんが)や奴隷解放を支持していたヴェルヌも、植民地独立には全く後ろ向きでした。この両者を矛盾なく繋ぐのは、「文明化」するということで植民地を正当化する考え方を、当時の多くの人と同様にヴェルヌも抱いていたということになります。ヴェルヌはイギリスなどの植民地支配を批判する一方で、フランスの支配をやはり文明化という点で支持していたようです。そして文明化してやる、ということは、主観的には充分人道的なことであったのです。
 そして、帝国主義の時代が終焉し、フランス植民地もあらたか独立した現在でもなお、この帝国意識は清算されることなく抱き続けられており、時としてそれが移民に対し噴出することもある、そういった形で今日にも繋がっているのと考えられます。

 という趣旨の本書で、なかなか興味深く読んだものですが、幾つか感じた疑問を以下に列挙し、感想に代えさせていただきます。
 まず、帝国意識の最盛期が第二次大戦頃であるならば、その時代にどうヴェルヌが読まれていたかを考えるべきではないか、ということです。本書はヴェルヌの作品が書かれている当時に即して読み解いていますので、その後どう読み継がれたかということは触れられていません。
 また、ヴェルヌの内容を社会の標準と見做すより、逆にヴェルヌの作品が社会に影響を与えたという側面はないのか、ということです。ちょっとしたエピソードが幾つか紹介されていますが、なかなか調べるのが難しい点だろうとは思います。しかし彼が流行作家で、作品は子どもに読ませるものでもあったとすると、その影響は広く長く及んだでしょう。翻訳もフランス文学史上もっともされたのですから、フランス内部にその影響はとどまるものではないでしょう。
 ついでに、流行作家であったヴェルヌの作品中に登場する、帝国的な何か(「野蛮人」たちやその住む土地、他の列強の政策など)の描かれ方に、その時々の「流行」を取り入れる商売っ気のようなものがないか、ということも気になります。どういうテーマを目ざとく取り込んだかも興味がありますが、またそのようなことによって起こる偏りも考察に入れるべきではないか、ということです。

 以上、まとまらぬ話ではありましたが、行ければ慶応の展示や企画は覗いてみたいところです。誰か行きたい人はいませんか?
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by bokukoui | 2008-11-20 22:54 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(4)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』ご案内

 来る11月23日(日)、東京大学本郷キャンパスにて、日本海軍の巡洋戦艦・金剛に関する講演会が開催されます。なかなかに濃ゆい方々が集まりそうなイベントです。興味と関心のある方は、連休中の一日、是非お運び下さい。(追記:開催時のレポートはこちら→乾巻坤巻
 このイベントについての案内としては、SNSの mixi 内にコミュニティが設置されており、そちらで質問なども受け付けております。しかし mixi 会員でない方には閲覧できませんので、講演会に関する要旨を以下に同コミュニティから抜粋・編集してご紹介いたします。

【巡洋戦艦「金剛」;技術的視点による再考】

日時:11月23日(日) 13時~17時
場所:東京大学本郷キャンパス 法文1号館1階113号教室
運営団体:金剛艦プロジェクト2008
参加費:無料(寄付金歓迎)

●講演者・内容
小高まさとし
「平賀文書に見る金剛代艦の考察」 (13:05~)
平賀文書公開によって得られた新情報から通説を再検討する。

新見志郎
「金剛と英国の姉妹たち」 (14:15~)
巡洋戦艦「金剛」と、同時代に誕生したイギリス巡洋戦艦「タイガー」とを比較する。

大塚好古
「金剛型建造ドキュメント余話」 (14:50~)
学研「決定版・金剛型戦艦」の「金剛型建造ドキュメント」に対する補足解説を行う。
金剛新造時、第一次改装時、第二次改装時を中心に。

髙木宏之
「『金剛型』機関部詳解・余談」 (15:35~)
学研「決定版・金剛型戦艦」の「『金剛型』機関部詳解」に対する補足解説、その他。
金剛新造時、第二次改装時を中心に。

全体討論(16:20~)
個別の講演後に質疑応答の時間を設けますが、それで足りなかった分や全体に関わるものはこちら。

●参加方法
参加は自由です。当日、会場まで直接お越し下さい。
但し席数に限りがあります。
満席の場合、大変申し訳ありませんが立ち見で我慢して頂くことになります。
 案内に追加事項があれば、この記事も適宜加筆していく予定です。
 また、mixi に加入しておらずこのコミュニティを見ることができないが、しかし運営側に質問がある、という方は、記事のコメント欄若しくは小生のメールアドレスへご連絡いただければ、取り次ぎなどの対応を行います。小生もこの講演会の運営に関わっておりますので。

 なお、大塚氏と髙木氏の講演の参考文献として挙げられているのは、

  歴史群像太平洋戦史シリーズ65
です。いつの間にやらこのシリーズ、65巻も出ていたんですね。確か出始めたのは小生が高校入ったかどうか頃だったような気が。
 小生もいろいろ用事に追われていて、今日買ってきたところで、まだ読んでおりません。講演会までには読んでおかないと。


 というわけで、この講演会は、巡洋戦艦・金剛について「技術的視点」から考えるというもので、戦う話は一つもないという構成になっています。
 特に今回、東大キャンパスでの講演会が実現したのは、「平賀文書」関係の講演があることに起因しております。平賀文書とは、日本海軍の造船技術者として著名な平賀譲が残した文書群で、最近ネット上にアップされて見られるようになっております(→平賀譲デジタルアーカイブ)。平賀は東大の工学部で学び、また教鞭を執り、総長を務めたと東大に縁が深く、文書も東大に寄託されました。それが近年、ネットで見られるようになったわけです。(詳しい経緯は上掲サイトの「平賀文書の受け入れ・整理の経過」参照)
 今回講演される方々は在野の軍艦研究者の方々ですが、こういった資料が一般公開されることで研究の裾野が広がることを期待し、ひとつ平賀と縁の深い東大で開くのも面白かろう、ということで、小生も少々お手伝いし、実現の運びとなりました。・・・いやまあ、軍艦マニアというのは決して昨今の堕落した状況に流される存在ではないはずだ、という個人的な思いが、小生をして本講演会に協力せしめたのでありますが。

 講演自体は巡洋戦艦・金剛を軸に、各時代ごとの様々なトピックを取り上げるという形になります。金剛誕生の系譜(新見講演)、建造と改装(大塚講演、髙木講演)、実現しなかった金剛後の系譜(小高講演)となりましょう。平賀がこれすべてに関わったわけではないですが、このような筋を通す事で、第1次大戦前から1930年代までの日本海軍の軍艦に関する思想や技術の流れがある程度見えてこようかと思います。
 このような大変興味深い企画ですので、ご用とお急ぎでない方は是非、連休の一日、本郷へお運び下さい。

※以下、11月14日追記

 113号教室への行き方を写真でご案内。本郷キャンパスの地図を参照しつつ、ご覧下さい。
 まず、有名で本郷三丁目の駅からも近い赤門ではなくて、安田講堂正面の正門から入ります(赤門からでも行けますが、正門の方が分かりやすいです)。
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東京大学正門

 正門を入って、まっすぐ進みます。左手に「工(学部)列品館」という看板のある建物、右手には「法学部研究室」という看板のある建物を見つつ、その前を通り過ぎます。ちなみに列品館は、安田城攻防戦の折、防衛を任されていた革マル派が組織温存を優先して機動隊突入前日に勝手に撤収してしまい、以後その他の新左翼諸派から忌み嫌われるセクトになったという、現代史上の戦跡です。
 それはともかく、建物の間を抜けて四つ辻のようなところに出ますが、そこで向かって左手の建物が法文一号館です。
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法文一号館

 写真中央の三角屋根の処が入り口です。当日はこの辺に看板を立てられれば、と考えています。
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法文一号館の入り口

 入ってもう一つ扉を通ると正面に階段がありますが、それは上らないで、左に行きます。
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法文一号館の一階 入り口を入ったところ

 左に入った廊下を右に折れると、そこの左手が113号教室です。
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113号教室の前(正面のドアは112号教室)

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113号教室(傾いているのは撮影者の腕のせいです)

 会場はご覧のように割と広い部屋なので、多分席が不足することはないとは思いますが、万一満員の節は立ち見でご容赦下さい。

 なお、講演会の日、東大の総合図書館では、以下のような展示を行っております。
「かわら版・鯰絵に見る江戸・明治の災害情報―石本コレクションから」
 今年度の附属図書館秋の特別展示会は、東京大学地震研究所の所長であった石本巳四(みし)雄(お)先生(1893~1940)のコレクションのうち、 本図書館が所蔵する江戸~明治期の災害かわら版・鯰絵などの出版物を中心に展示します。
・石本先生は関東大震災を挟む3年間フランスに留学、帰国後は地震計測機器を考案するなど、地震学の発展に寄与されました。 留学先で最先端の科学研究に触れた地震学者が自国の一見科学の対極にあるようなかわら版や鯰絵などの出版物に関心を抱いた 理由にはどういうものがあったのでしょうか。近代地震学を担う学者のなかで、早くから災害と社会の関係を文化という次元から捉えてみようとする 懐の深い理解をもった人物のひとりであったのかもしれません。展示品の数々がみなさんを石本先生の興味のおもむくところへいざないます。
 なお、展示で取り上げる災害について最先端の研究成果も併せて紹介いたします。
 土日も開いていて、9時から18時まで展示しているので、ご興味のある方は講演会の前後にでもどうぞ。

※以下、11月19日追記

 講演会終了後、18時より懇親会を予定しております(@炭火焼だん)。事前に関係者で参加者を募りましたが、多少の余裕がありますので、参加ご希望の方はお早めにご連絡ください。

※以下、11月19日追記

 講演会は無事終了しました。レポートはこちらです→乾巻坤巻
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by bokukoui | 2008-11-10 20:09 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(2)

ドイツ革命90周年

 今日は、キール軍港の水兵叛乱をきっかけに、ドイツ革命が起こってからちょうど90周年になります。ドイツでは何か記念式典でもやっているのでしょうか。

 研究室の放出本だったか在庫の投げ売りセールだったか、木村靖二『兵士の革命 1918年ドイツ』などという本を手に入れて読み、ずいぶん以前のこととてあんまり内容を覚えていないのですが、ノスケはなかなか大した政治家だったんだなあなどと思ったりした覚えがあります(別の本かも知れない)。
 ところでドイツ革命の発端となった水兵叛乱というのは、戦局が絶望的になってきた第1次大戦末期のドイツ帝国で、少しでも講和条件を有利にしようとドイツ海軍主力の大海艦隊に自殺的な出撃を命じたので、水兵が叛乱したというものです。これによってドイツ第2帝国は崩壊してしまいました。
 ここで27年後のドイツ第3帝国の末期の状況を考えると、全般にはここまでの軍隊の崩壊は起こらなかったと考えられるので、政権による軍の把握という点では、第2帝国より第3帝国は進歩していたということなのかも知れません(同じように敗戦した日本もまた同様といえるかも知れません)。第2帝国は陸軍が政府を把握していたというべきなのかも知れませんが。
 しかし、その「進歩」の結果起こったことは、絶望的な戦闘の継続であって、大して良かったことでもなかったのかも知れない(勝った側から見ても)、ともまた思うのでありました。

 さて、『兵士の革命』を読んでいてあれっと思ったのが、キール軍港での叛乱当時の、キールの鎮守府司令長官が「ズーション Wilhelm Souchon」とあることでした。この人物は第1次大戦劈頭、地中海艦隊司令官であった提督です。ドイツ地中海艦隊といっても戦力は巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウしかなく、ドイツの力を地中海諸国に見せつけようと当時の最新鋭巡洋戦艦を送り込んでいたのでした。ところが突然第1次大戦が始まってしまいさあ大変。地中海の出口であるジブラルタル海峡とスエズ運河はイギリスが抑えています。
 しかしここで、ズーション提督は優勢なイギリス艦隊を振り切って、オスマン=トルコのイスタンブールへ逃げ込むことに成功します。そして艦隊ごとトルコに売却するという形で難局を逃れました(旗だけ替えて乗員はドイツ人のまま)。この結果、碌な海軍を持っていなかったトルコは突如、最新鋭の主力艦を手に入れて同盟側に参戦することになり、ロシアは黒海の制海権を失ってしまいます。
 黒海のオデッサは当時ロシア最大の貿易港だったそうなので、いきなりロシアは戦争継続に海外の支援を受けるのが困難になってしまい、このズーション提督の行動は世界史に少なからぬ影響を及ぼすことになるのでした(結果論としては、オスマン、ロマノフ、さらにはハプスブルクとホーエンツォレルンの王朝にとどめを刺してしまったのかも知れませんが・・・)。一隻の巡洋戦艦が世界の歴史を変えたとも言えます。

 このゲーベンの話については、サイト「三脚檣」「ゲーベンが開きし門」という記事がゲーベン乗員の手記を元にして大変詳しいので、興味のある方は是非どうぞ。ボリュームたっぷりです。
 ちなみにこちらのサイトでは、ズーション提督の名前の読み方を「スション」としています。フランス系だったらしいので、その方がいいのではとの由。
 更に余談ですが、ズーション提督は1946年まで存命だった由。自分も加わって変えた世界が、もう一回転する様までを見届けたことになります。

 とまあ、開戦時には大活躍したズーション(スション)提督でしたが、『兵士の革命』によると、戦争が終わる時にはうまく対応できなかったようです。叛乱した水兵たちに人質に取られたり、結局事態をおさめたノスケには「ズーションと彼の幕僚達は無力だった」とか言われてるし。
 革命は、海の上とは勝手が違ったようです。
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by bokukoui | 2008-11-03 19:00 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(0)