カテゴリ:時事漫言( 46 )

田母神俊雄出演の「笑っていいとも」を見てしまった

 今日は雨なので自宅でいろいろ作業をしていて、昼になったので何ぞ食さんと食卓についてテレビをつけたところ、表題の如き事態になっておりました。ブログ更新なんかしてる場合じゃないんですけど、流石に田母神氏関連の記事をいくつか書いてきた者としては無視しがたく、一筆。
 ちなみに当ブログの、田母神関連の主要記事は以下の通り。

 ・アパグループ『謀略に!翻弄された近現代 誇れる国、日本。』瞥見
 ・『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」
 ・秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き」
 ・『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ

 まあそのうち、「いいとも」の画像は youtube やニコニコ動画にアップする連中が出るでしょうから、見逃した方はそちらに。といっても、別に大したことはありませんでしたが。

 田母神氏は芸能人的に場をわきまえているのか、スタジオの観衆が大部分若い女性であることを踏まえて、自分を「人の良いおじさん」として売り込んでいる、という感じでした。「サービス精神旺盛」と自分で言っていたし、それは小生も実際そうだと思います。多分、国防と歴史に全く関わらなければ、本当に「人の良いおじさん」で済んだかも知れませんな。世間では自分を「危険人物」と言っているが、違うんだというイメージ戦略なのでしょう。小生もまた思うに、危険なのは田母神氏に託される幻想およびそれを託す人々の心境であって、田母神氏自体は、まあその、論文を書くような思考・言論の形態におよそ向いていない、ということだと思います。
 注目すべきはスタジオに贈られた花輪の多かったことで、本を出したとかいう出版社のとか、いろいろありました。アパグループからもあったのは勿論です。

 いいとものテレフォンショッキングといえば、何かお題を出して、スタジオの観客100人中1人だけ当てはまったら、出演したゲストが携帯電話ストラップをもらえるという企画がありますが、今回そのお題は、田母神氏の「論文」である「日本は侵略国家ではない」を読んだ人、というものでした。
 で、結果が2名。・・・新聞の全面広告とかで載せてたからでしょうかね。田母神「論文」については、上掲拙ブログの過去記事もご参照下さい。
 田母神氏が問題となった持説に触れたのはこの企画の所だけで、「『日本は良い国だ』と書いたら首にされちゃったけど、おかしい」みたいなことをちょっと言ってました。しかし、小生思うに、考えようでは日本は既に充分良い国でしょう。田母神氏がお昼にバラエティー番組に出ていられる、ある種のいい加減さがあるというところに。そのいい加減さの運用方向が問題ではありますが。

※追記:この田母神氏の発言にも関連して、以下の記事を書きました。
 直接的に問題になりそうな話はなかったのですが、何というか、「人の良いおじさん」の言説という“軽い”形で、田母神氏が売り込まれてゆくことに、危うさというよりむしろ膝から力が抜けるような感じがします。田母神氏をもてはやす(氏は今、月に20回も講演をしている由です)人々も、自分は決して「危険」な思想を抱いているのではなく、「人のよい」「サービス精神旺盛」な「普通」の人間であると自己規定しながら、「日本は侵略国家ではない」「良い国」と唱えているのでしょう。
 その、無反省に自分は「普通」で「正しい」と思い込まれることこそが、問題だと小生は思っています。それが無自覚に人を傷つけることがあるからです。あまり「普通」ではない、それになじめないような(大部分「普通」の人でも、どこかにそのような一面は持っている蓋然性は極めて高いでしょう。例えば「モテない」とか)、そのような人々を。

 とまれ、田母神氏の今回の出演がどのような効果が期待されていたにせよ、さすがにそれほど影響はないだろうとは思います。テレフォンショッキングでは、司会のタモリが「では、(今日のゲストのトークは終わりにして、次回の)お友達を紹介して下さい」というと、スタジオの観衆が「えーっ!!」と叫ぶのがお約束だったと思いますが、まあこれは「もう終わり?」の含意で、いわば礼砲みたいなものでしょうが、流石に今日は「えーっ!!」がなかったのでした。
 まあ、あんまり人の批判ばかり書いているのは、書いている当人の精神にも良くないので、今日の所は、田母神氏に危険なことを何も言わせないで間を持たせたタモリの司会が良かったということにしておきます。そういえば今週の「ブラタモリ」は本郷らしいですね。録画予約しておきました。
[PR]

by bokukoui | 2009-12-03 13:04 | 時事漫言 | Trackback | Comments(14)

横浜市が「新しい歴史教科書をつくる会」系の中学校教科書を採択

 八月になると歴史に関する話題がマスメディアに登場しますが、その経緯は佐藤卓己『八月十五日の神話』でもご参照下さい。
 以下に述べますのは、時事的ではありますがそのようなメディアイベントとは異なった、歴史に関する話題です。

(引用が長いので続きは以下に)
[PR]

by bokukoui | 2009-08-07 23:59 | 時事漫言 | Trackback(1) | Comments(0)

雑感・現在の状況と予定など(コマツ元社長死去・コミケ)

 日曜日に終わった報告を論文に纏めるべく構想中。構想はしているのですが、形になるにはまだいろいろとかかりそうです。年内には論文完成させねばと思い、それ自体はさほど高いハードルでもないとは感じていますが、それまでドタバタしていると、数年来の課題である部屋の片付けはいつになるのかとも思います。こうやって新しい課題を口実に先延ばししてきたような気が・・・。

 その報告と微妙に関係するようなニュースに、今日接しました。
河合良一氏死去
  (コマツ元社長、元経団連〈現日本経団連〉副会長)

 河合 良一氏(かわい・りょういち=コマツ元社長、元経団連〈現日本経団連〉副会長)3日午前8時30分、心不全のため東京都調布市の介護施設で死去、91歳。東京都出身。葬儀は親族のみで済ませた。(中略)
 54年コマツ入社。64年から82年まで社長を務め、同社をグローバル企業に押し上げる礎を築いた。86年から11年間にわたり、日中経済協会会長として日中交流に尽力したほか、経団連副会長も88年から6年間務めた。
(時事ドットコム)
 共同通信のニュースでは、「89年6月の天安門事件後も中国との経済交流を続け、産業協力のパイプ役となった。」と評されています。
 というわけで、コマツの経営者だった方の訃報ですが、小生の報告と関係しているのはその父でやはりコマツの社長を務めた河合良成の方でした。リンク先のウィキペディアに略歴がありますが、官僚から郷誠之助の縁で実業界入りした人ですね。
 で、ウィキペディアの略歴には書かれていないことなのですが、弟の鉄二が川崎財閥(川崎重工や川崎製鉄を作った関西の川崎家ではなく、金融中心で戦後は第百生命を有していた関東の川崎家の方)と縁があったため、河合良成は国華生命保険を中心とした、川崎系生命保険各社の経営に当たっていました。かなりのやり手で、会社の合併などにも相当働いたのですが、やり過ぎて川崎財閥本家に疎まれ、追い出されてしまいました。更に帝人事件に巻き込まれたりとしばらく財界の表面から消えることを余儀なくされましたが、帝人事件はでっち上げで、やがて復活、東京市の助役を一時務め、戦時中は木造船建造の監督という役職にありました。
 戦後はコマツの経営再建に当たり、同社では「中興の祖」と呼ばれているそうです。経営再建とは、つまるところ労組対策で、当時の経済誌で河合が「共産党は追い出した」などと語っているのが、今回報告のために集めた資料の中に見つかりました。
 ちなみに小生の報告の本旨は、河合と共に川崎財閥で腕をふるった挙げ句、やっぱり追い出された電鉄経営者・後藤国彦の話で、その途中で名前を知った次第。ちなみに後藤の項目もウィキペディアにあるけれど、小生の研究の結果に鑑みて、間違いが見られるのでリンクしません(ネタ本は推測つきますが、それをウィキペディアに書き写す時に話が勝手に膨らんでいる)。

 で、何に少々感じるところがあったかというと、経営再建のため外部からコマツに乗り込んできた河合良成は、その地位を息子に受け継がすことができたんだなあ、ということにです。
 河合良成や後藤国彦を追い出した川崎財閥は、一族で経営の首脳を固めたものですが、戦時中の銀行統合で中核の川崎銀行を三菱に合併されて失います。戦後は第百生命を有していたようで、同社の七十年史を見たら、その当時の経営陣には川崎家らしき人名が見つかりました。しかし、その後同社は経営破綻し、今ではマニュライフ生命になって経営陣は横文字の人名ばかり・・・
 河合家と川崎家、有為変転を些か感じたのでありました。


 というわけで、しばらくはやはり締切に追われる日々ではありますが、いろいろ片付けないとどうにもならなくなっているのも事実で、今日は片付けを試みると同時に、コンピュータの中身も整理して、ついでに「よりぬき『筆不精者の雑彙』」も久しぶりに更新しておきました。ブログの項目分類ももうちょっと何とかしたいところですが、それはまたしばらく先。
 で、「よりぬき」を更新したついでに、MaIDERiA出版局のサイトも大変久しぶりに更新、冬コミに当籤したのでその情報を書いておきました。この調子ではどうなるか分かりませんが、論文が上がれば資料は幾つもあるのでなにがしか、という感じです。もっともいい加減、在庫を一掃して撤収した方がいいと言うべきなのでしょうが。
[PR]

by bokukoui | 2008-11-13 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(0)

秋葉原通り魔事件 加藤容疑者起訴へ

 表題の件につきまして、そろそろ留置の期限も迫ってきていることから、動きがあるのではないかと思っておりましたが、いよいよ起訴の運びのようです。

秋葉原事件の加藤容疑者を起訴へ 完全責任能力を認定
<秋葉原殺傷>「責任能力あり」精神鑑定、遺族らに通知


 これまでの報道から鑑みるには、精神鑑定がそれほどこの事件においては重要とは思われませんでしたが(例えば宮崎勤の事件のような例と比べて)、何かしら裁判員制度に向けた対応などから、時間短縮のため先に済ませておいたということもあるのでしょうか。
 いずれにせよ、今後しばらくは裁判関係の報道がそれ相応に出てくるものと思われます。しかし争点自体は、それほど多くはないかもしれません。
 小生としては、事件当日警官の背中越しに見た人間が加藤容疑者だったのか確認のために、可能であるならば傍聴に行きたいところですが・・・。もうしばらく、裁判関係の情報は注視して行くつもりです。

 このニュースに関して、mixiその他ブログなどで見る意見に、少なからず「さっさと死刑にしてしまえ」的な乱暴なものが見いだされるのは、それは当然予期されるものとはいえ、やはりあまり見いだして楽しくなるようなものではありません。あまりこのことについて長々と述べる気は今のところありませんが、そもそもややこしいこの世界の出来事をあまりに単純に割り切ってしまうことが解決だと思う風潮が瀰漫することは、好ましいとは思えません。
 以下は小生のさる畏友の意見で、小生もまた深く同意するところですが、「建前」というのは大事なんだよということです。ネットの普及は、それまで言論を公にするような立場も経験もなかった多くの人々に、世界に向かって意見を発信することを可能にしましたが、それによって「建前」と相互に支え合う関係に本来あるはずの「本音」の暴走が起きているのではないか、という趣旨のことでした。
 しかし、「建前」というのは、社会のシステムを維持する上でかなり重要な役割を果たしているものです。
 法律的な問題解決のシステムというものも、内実と同じように形式的な手続きを積み重ねるということが大事なわけで、そのことを無視した言説ばかりまかり通る世の中になってしまうことは(特に裁判員制度開始も近い昨今)、そういったシステムの維持発展に好ましいこととは考えにくいところです。あまり形式一点張りなことにも問題はありますが、手続きの正統性を無視した単純な解決を求める声が増えすぎることも「盥の水ごと赤ん坊を流す」ようなことと言えるでしょう。

 やや話が逸れるかもしれませんが、最近の中国が行った宇宙遊泳に関して、「水中撮影による捏造だ」という批難をする徒輩に対し、宇宙開発の専門家・松浦晋也氏が、ご自身のブログで「このっ、バカ共がっ!」という記事を書いたところ、コメント欄がえらいことになったということがありました。そのコメント欄たるや、専門家に対し自分の無知を棚に上げて説明を要求し続け、説明を読んでも理解できないとループを繰り返し、旗色が悪くなると「説明が偉そう」などと言い出す、そんな状況になっておりました。
 これもまた、「単純、明快、分かりやすく」あるべきであって、専門家はそのように一般人に対し説明することが当然である、そのような考えが存在するという点で、一脈通じるのではないかと、ふと思いました。物事をやたらと「単純、明快」に求めることは、誰か悪いやつを求める陰謀論的な視野狭窄に陥りやすくなるでしょうし、犯罪の場合でいえば「さっさと吊せ」的言説に通じるのではないかと思います。
 小生のごとき者がかようなことを述べるのも僭越ではありますが、ある分野に詳しくなればなるほど、「単純、明快」には言いにくくなるのではないかと思います。

 例によってまとまらぬので適当にこの辺で締め括りますが、ややこしさを嫌ったり排除したりはすべきではない、なんとなればこの世は結構ややこしく複雑なものなのだから、そしてそのややこしい中になにがしか道筋をつけるには、本音を押し通すのではない、手続きを積み上げることが大事なのだろう、そのように思う次第です。
 秋葉原の事件のような凶悪犯罪の弁護に対し、「あんな犯人を弁護するとは何事だ」という声が、「本音」的座談の席、そしてネットではまま見られます(今回もそうなることでしょう)。しかし、裁判という制度そのものを健全なものに維持するためには、弁護士が被告人の利益を最大化するために全力を尽くすことは当然であります。弁護という手続きを弁護士がきちんと積み上げなければ、制度の意義に関わります。「積み上げ方がおかしい、下手くそだ」という批判を弁護士にすることはかまいませんが、「悪い奴のために手続きなんか積み上げるんじゃない」という批難は全く理不尽です。今回の裁判についても、そのあたりを取り違える声が余り出ないように祈る次第です。
 まあ、松浦氏の記事も、コメント欄が大いに荒れたものの、論点の整理と資料の収集といった着実な手続きを積み重ねることで収束の方向に向かっており、あんまり最初から悲観的になることも賢明ではないですね。

 秋葉原の事件から話がだいぶ逸れましたが、今回はこの辺で。
 裁判についてはまた新しい話題が出れば、追いかけたいと思います。
[PR]

by bokukoui | 2008-10-06 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(6)

自民党総裁選雑感~政権交代を知らずに僕等は育った

 あまりこういうことは普段書かないのですが、昨晩所用で某後輩氏に電話した際話題が表題のことに及び、一夜明けてあらかた忘れてますが(苦笑)備忘がてら以下に略記。

 自民党総裁に麻生氏が選出され、それ自体は当初の予想通りでしたのでどうということはないのですが、総裁選で「漫画を読んでいる」ということが売りになるという当今の世相に思うことしばし。テレビ報道(NHKしか見てませんが)でもその点がかなり報じられておりました。思うにこのような麻生評が確立したのは、一つにはネットで広まって後に事実らしいと言われた、「麻生太郎が『Rosen Maiden』を読んでいた」という一件に拠るところが大きいでしょう。別に『ゴルゴ13』を愛読していただけでは秋葉原方面的な層の支持を得る要因にはあまりならなかったでしょうから。やはりオタク界隈で評価の高いローゼンだったからこそですね(確かに、お年の割にはなかなか広く読まれていることには小生も感心します)。
 ですが、麻生氏にはこういった過去の実績? もあることは一応指摘しておくべきことでしょう。

 【オタクと政治】ポスト福田康夫の最有力候補、麻生太郎氏はオタクの味方か?
 児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律(以下、「児童ポルノ法」)の改正が議論されています。今回の改正における最大の争点は、単純所持規制の導入とマンガ、アニメ、ゲーム等、実在の児童を被写体としない創作物について、将来における規制を見越した調査研究規定の導入の2点です。自民党、公明党による法案は単純所持規制(「自己の性的好奇心を満たす目的」という限定付ではあるが)、創作物規制に関する調査研究規定導入のいずれについても「是」としています。

 麻生太郎氏は、表現の自由を重視するという観点から、自民党、公明党による与党案について反対の意思を表明してはいません。
 麻生太郎氏は、1989年に起きた「有害コミック」騒動では、「有害コミック」を規制する立場から1991年に「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」を結成し、会長に就任していますが、この点について、現在に至るまで何らの弁明も説明もしていません。
 かいつまんでいえば、漫画が好きといっても、表現の自由などの問題についてはあまり認識していないようだということです。
 ま、少なくとも、過大な期待を勝手に抱くのは、政治的な常識(この問題自体が、決定的な政治課題とは見なされない)やめた方がいいとは思います。
 ・・・てなことを小生が書いてしまうのは、自民党や麻生氏支持不支持云々以前に、自分の周囲のある一部のローゼン厨に対して抱いている何かが、大きなバイアスをかけているのだろうなあとは自分でも思いますが。だから「ローゼン閣下」などと持ち上げる連中をどうも懸念してしまうわけで・・・超個人的身辺内輪話で済みません。作品自体駄目だというつもりは更にありません(好きでもないですが)。

※以下やや話が逸れるので小さな字で補足的に若干。
 上掲リンク先の山口弁護士ブログ記事のコメント欄では、この記事を批判する声が少なくないようで、「敵味方に分けるのは不適切な行動」と指摘する声が複数あります。ただ、山口弁護士は、「麻生氏はオタクの味方か?」と指摘されたものの、「敵」という表現は使っていません。味方でなければ即「敵」と考えているのだ、と即断することは、やはり好ましくないことでしょう。
 署名運動については、当ブログでも過去に触れました以上、小生もその成功を願ってやまないのですが、勿論その内部でも様々な意見があり、それらの意見や立場の違いを踏まえつつ、最適の方針を打ち出していかねばならないと思います。で、単純に運動の手法でいうならば、署名活動代表世話人の言動に問題意識を持った活動参加者の行動としては、山口氏にメールを送ることの方が適切だったと思います。内部の意見の対立の存在自体を押し隠すべきではありませんが、それを外部に晒して拡大しかねないような、コメント欄での言動の方が、得るものが少ないと考えるのです。
 他にも小生には本件に関し思うところや情報もありますが、話題が逸れますし一般的なことでもないので、ここで打ち切ります。


 ま、以上はともかく、今回の総裁選のニュースを見ていて、映されていた各候補の演説中、小生がどうにも気になってしまったのは、石破氏のそれでした。
 今記憶に頼って述べれば、「『民主党に政権を一度任せても良いじゃないか』という声もあるが、国家観の違う政党に任せることは、断じて許されない」という言葉でした(細部には異同があると思います)。この「国家観」とは何なのでしょう。
 どうにもおどろおどろしい言葉です。なんだかその昔の「国体」(運動会ではない方)なんて言葉も連想されそうな。乱暴を承知で言えば、現在の議会に存在する諸政党は(例え共産党であっても)、議会制民主主義と資本主義経済という根本的な体制は変わらないわけで。

 今回の総裁選における石破氏の主張は、これまでのキャリアからすれば当然とも言えますが、専ら防衛問題について論じていたことが多く、特にインド洋における給油についての論がその中心だったように思います(余談ですが、最近地下鉄の駅にインド洋の給油の重要性を訴える防衛省のポスターが張り出されていますね)。
 とは畢竟、これも安全保障政策(の一論点)の相違に過ぎない話ではないでしょうか。それは政策上重要な点であっても、「『国家観』が違う」というのは、ずいぶんな言い方に思われたのです。「民主党の政策は間違っているから支持すべきではない」というのは、それは政策について議論することを前提とした言い方ですが、「『国家観』が違う」というのは議論を排斥する感さえ受けるのです。

 そんなことを某後輩氏に話したところ、「国家観」という言葉は読売新聞などでは結構よく使われているとのこと。ナベツネか。
 氏曰く、このような大仰な割に何を指しているのかよく分からない言葉として、氏が気になっているのは「政権担当能力」だとか。確かに、何を以てすれば政権を担当する能力なのか、具体的に示してないですね。

 で、何で「国家観」みたいな言葉が出てくるのか、多少考えてみました。
 これも某後輩氏の指摘ですが、戦後長らく政権に自民党があったため、自民党の一党優位体制そのものが社会のシステムの一環となってしまっている、というのです。だから自民党が政権に居続けることが常態になってしまっていて、政権交代ということが実感できない、そのような通念が薄いのが日本の社会なのかも知れません。
 細川政権の時、一時自民党が政権を離れましたが、比較第一党だったことは変わらず、結局細川首相が政権を投げ出してしまったため、以上の観念を変えるには至らなかったのかも知れません。以前取り上げた『歴代首相物語』の中で、これも今現物が見つからないのでうろ覚えですが、「細川政権の最大の功績は政権に就いたことであり、最大の失敗は政権を投げ出したことである」との指摘がありましたが、政権交代の可能性と限界をこもごも示したということかも知れません。
 思えば、選挙によって政権が交代するということがありふれていたのは、戦前の1920年代の「憲政の常道」の頃と、戦後の55年体制成立前と・・・あわせて20年ありませんな。団塊の世代が多少は世間のことが分かるような年になった頃には、もう選挙による政権交代の時代は終わっていたわけです。「戦争を知らない子供たち」は、「政権交代を知らない子供たち」でもあったのかも知れません。

 つまり、ここ半世紀続いていると言えそうな「戦後レジーム」といいますか、その時代の日本国のありようには、政権に居続ける自民党というものが牢固として組み込まれているため、政権交代の可能性を「『国家観』の違い」などと考えてしまう傾向が存在するのかも知れない、などと思うに至ったわけです。
 それを思えば、安倍晋三政権は、「戦後レジームからの脱却」という些か曖昧なスローガンを、半分は実現したというべきかも知れません。何となれば、「戦後レジーム」の構成要素として、自民党は日本国憲法に勝るとも劣らぬ重要な構成要素として政権にあり続けたのですから、そのレジームを解体するには自民党が政権から下野することも含まれると考えられます。参議院では実現しましたね、ええ。

 話が例によってとっちらかりましたが、この辺で。
 選挙はやってみなければ分かりませんが、政権交代が起これば将来、小生も安心して自民党に一票を投じることが出来るというものです・・・いや、やっぱ自民も民主も与党的なものとして、社民党にでも・・・もっともその頃、社民党が幸いにして生き残っていれば、ですけど。
 その社民党の福島瑞穂党首が、「麻生氏は憲政史上最短の首相になる」と発言していましたが、9月24日に就任して東久邇宮首相の在任期間を越えるためには、・・・11月16日まで頑張ればいいのかな?
[PR]

by bokukoui | 2008-09-23 23:40 | 時事漫言 | Trackback | Comments(16)

秋葉原通り魔事件から一ヶ月

 秋葉原の通り魔事件が6月8日に起こって丁度一ヶ月になります。

 小生は本日アルバイトで帰宅が遅くなったもので、また自宅の新聞が限られているため報道の状況は存じませんが、今ネットのニュースをざっと見たところでは、あまり話題になっていないようです(NHKのニュースではやっていたと家人が言っておりましたが)。まあサミットや「くいだおれ」閉店など他にもいろいろニュースがあるわけで、それもまたそんなものかと思います。
 一つ見つけたNHKのニュースを以下に引用(ニュースのログはすぐに消えるので)しておきます。

(引用など多いので続きはこちら)
[PR]

by bokukoui | 2008-07-08 23:58 | 時事漫言 | Trackback(1) | Comments(1)

秋葉原通り魔事件について補綴

 ここ十日あまりに世間を騒がせた二つの大きな事件に思いがけず身近に接することになってしまい、思うところもあり、またこれに関係して所用も幾つか増え、昨日は些か疲労して引き籠っておりました。
 ですが、自分が生きている限りは、どこかで区切りをつけて平常へ(その平常は以前と少し異なっているのかもしれませんが)復帰しなければなりません。葬儀や法事の社会的意義もそこにあるのでしょう。
 なので、まず「新記事を起こすかもしれません」と書いた秋葉原通り魔事件に関して、簡単に補足とまとめを書いておきたいと思います。

 まず、事件を他に目撃された方の記録について。
 拙文「秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録」にコメントを下さった灘雅輝さんのブログ「すごい勢いで~灘雅輝工房」に、事件の体験が綴られています。コメント欄では、「さらに近い現場より」さんもご自分の経験を書き込んでくださいました。また、検索で見つけたのですが、カタ山ペシ郎さんのブログ「カタペシブログ」に、事件の記録があります。以下に主要な記事への直接リンクを張っておきます。

「すごい勢いで~灘雅輝工房」より
  ・秋葉原通り魔事件~12:32事件を目撃した内容 他(6.8.)
  ・秋葉原通り魔事件・・・事件の印象がだいぶ違う 他(6.9.)
  ・秋葉原通り魔事件・・・発砲音がなかったことに・・・(6.12.)
  ・秋葉原通り魔事件~目撃後一週間・・・心になにか・・・(6.14.)

「カタペシブログ」より
  ・秋葉原通り魔殺傷事件でパニック(6.8.)
  ・秋葉原通り魔殺傷事件でパニック(続)(6.9.)
  ・秋葉原通り魔事件:恐怖感と自己嫌悪 他(6.10.)
  ・秋葉原通り魔事件:日本社会の闇と,埋まらない溝(6.12.)

 貴重な証言として読ませていただきました。
 灘雅輝さんのおられた場所は小生たちとは違った場所で、異なった視点からの証言として自分の経験を見直す手がかりとなりました。また、カタ山ペシ郎さんは、交差点南側という小生一行と近い位置におられ、その後の逃げたルートは我々よりも犯人に近い西側だったようです。犯人に近いだけ危険度も高かったわけで、何よりご無事で幸いだったと思います。

 灘雅輝さんは、交差点で警官が刺されたときに、「発砲音が2発ほど聞こえ」たと書かれています。だとすると、小生が聞いた「発砲だ!」との声は、この威嚇射撃のことで、辻褄は合います。しかし、マスコミ報道では威嚇射撃については触れられていません。むしろ、警官が発砲しなかった(犯人を逮捕した警官は確かにそのようです)ことの是非が話題になっているようです。
 銃については、カタ山ペシ郎さんも、「誰かが「銃を持っている」と叫んだ(厳密には叫んだのか,ただそう思って言っただけなのか分からないが)のが聞こえた記憶があります」と書かれ、誰かが何かこれに類することを声に出したことは、確実そうです。

 小生は、灘雅輝さんの仰る「発砲音」を聞いた覚えは無く、誰かの「発砲だ!」との声を聞いて逃げ出しました。しかし逃げつつも内心「でもあの『ドカン!』という音は交通事故のような気がする。発砲音ではないのではないか」などと思っていました。後で古澤書記長たちと無事合流した際、小生は元自衛官の書記長に真っ先に尋ねました。「あれは発砲音か?」書記長は、自分はライフルなら詳しいけど拳銃のことはあまりよく知らない、と断りつつも、「あれは(発砲とは)違う」と答えました。
 もちろん、ここで話していた「音」とは、結果的にはトラックが人をはねた時の音です。つまりそれ以外の発砲音(のような音)を、我々一行は認識していなかったのです。なお、やや話はそれますが、トラックがジグザグ走行して人をはねた、というようには、少なくとも小生のところからは見えませんでした。灘雅輝さんも同様のご指摘をしておられるかと思います。

 また、報道では、犯人が叫び声をあげながら人を刺して回ったといいますが、灘雅輝さんが書かれている通り、小生もそのような音を聞いた覚えはありません。
 音の記憶、というのは視覚以上に曖昧になりやすいものなのでしょうか。

 以上ご紹介させていただきましたお3方は、様々にご自分の行動を省みられ、この事件の衝撃が今なお尾を引いておられるようで、また小生と同道していた古澤書記長がいろいろ書いたりしているのも(書記長は元々気分が乱高下しやすい人だったとは思いますが)、衝撃が影響しているのだと思います。新聞では負傷者・遺族の「心のケア」について警察が積極的に取り組む旨が出ていましたが、こういった方々までは流石に手も回らないでしょうし、ブログなどで書くこと自体が回復の役に立つことを祈るばかりです。
 で、正直に言えば、小生は「心のケア」という言葉が嫌いなのですが、それにしたってフラッシュバックも無ければ夢一つ見ません。もしかして加藤容疑者並みに「心無い」人間なのかと思ったりもしてしまうのですが、或いは防衛機制が強力に働いているだけなのかもしれません。

 さて、小生はこの事件に出遭ってしまって、見たことや思ったことについて幾つか書いてきましたが、一つ書いてなかったことがあります。犯人について、です。

 犯人については、「主観的記録」で書いているように、小生は直接それと認識して見た訳ではありません。ので、直接的に何か感情が湧き上がってくる、という心境には、すぐにはなれません。通り魔の大量殺傷事件でありがちな、「誰でもよかった」という殺人者について考えるとき、そして今回の事件(参照1参照2)でも、小生の頭に真っ先に浮かんだのは、世界の(といっても大部分欧米なのですが)殺人事件の記録を数多集めたサイト「殺人博物館」「マジソンズ博覧会」内コンテンツ)で、カナダの大量殺人犯マルク・レピンについて書かれた記事の冒頭です。
 語りベの立場から云わせていただければ、大量殺人はつまらない。あらすじがいつも同じだからである。ワンパターンなのだ。
 大量殺人者の多くは、己れを「ひとかどの人物」だと信じている。しかし、その実際はちっぽけなゴミなのだ。そのギャップに彼は苦しみ、己れを認めない世間に毒づき、思い知らせてやろうと牙を剥くのだ。それは復讐であり、売名でもある。多くの命と引き換えに彼は歴史に名を残し、己れが「ひとかどの人物」であったことを証明するのだ。だから、彼らについて語ることはそれこそ思う壷なので、出来ることならやめるべきだ。しかし、彼らの惨めな生涯を晒しものにすることで追随者を抑止する効果もあるかと思う。
 これだけは云っておかなければならない。
 殺人者をアイドル視してはならない。彼らはいずれも正視に耐えないほどに惨めな落伍者なのだ。(以下略)
 「誰でもよかった」大量殺人犯どもは、皮肉にも彼ら自身が「誰でもよく」十把一絡げに「大量殺人犯」のタグで括られてしまうのです。

 この例示が不謹慎と思われるのであれば、今さっき検索して見つけたものですが、今回の事件の2月前に、NHKで斉藤環氏が論じた内容をリンクしておきます。

 視点・論点 「誰でもよかった」

 斎藤氏は上掲リンク中で、土浦と岡山の事件を例に引き、
 こうした匿名性という視点からみるとき、「誰でもよかった」という言葉は特別の意味を持つように思います。もちろんそれは、「殺す相手は誰でも良かった」という意味だったでしょう。しかし、本当にそれだけでしょうか。二人の容疑者が偶然にせよ同じ言葉を口にした事実は、この言葉を象徴的なものに変えます。
 私には、この言葉が彼らが自分自身に向けた言葉のようにも聞こえるのです。匿名性の中に埋没しつつあった若者が、「これをするのは自分ではない誰でも良かった」と呟いているように聞こえるのです。
 かつて、若者による動機の不可解な犯罪の多くは、犯罪行為による自分自身の存在証明のように見えました。自分自身の神を作り出したり、犯行声明文を出したりという形で、それは表現されました。
 しかし、今回の二つの犯罪には、もはや殺人によって何ものかであろうとする欲望の気配も感じられません。自分自身の行為すらも、半ばは匿名の社会システムに強いられたものであり、たとえ犯罪を犯しても自分の匿名性は変わらない。そのようなあきらめすら感じられるのです。
 もしかすると、今回の加藤容疑者は、携帯電話の掲示板で犯行予告をしていたということは、「自分自身の存在証明」に対するこだわりはまだ持っていたのかも知れません。
 しかしもちろん、この事件を風化させようというのではないのですが、加藤容疑者の身勝手な存在証明に付き合ってやる謂れはありません。

 この事件に関する社会の対応は、先ず一つが加藤容疑者の不安定な派遣社員とその孤独という方向に関心が向かっており、またもう一つの直接的影響として秋葉原の歩行者天国の中止ということがあります。
 派遣社員の問題、孤独や匿名性の問題、これらは今回の事件があろうとなかろうと問題として存在していたことです(事件2ヶ月前の斎藤氏のコメントは、本件にもある程度適用可能でしょう)。一方、歩行者天国の中止は直接本件に関わることです。歩行者天国の中止自体はパフォーマンスの過激化などで以前から話がなくもなかったのですが、それとこれとは別問題です。興味深いことに、「地元の町会」も、或いは「オタク」の方向の人も、こもごも「近頃の秋葉原の治安悪化」を理由に歩行者天国の中止に賛成している事例を見かけます。思うに「地元」が秋葉原の近況を嘆くのは「オタク」な人の流入による雰囲気の変化にあるようで(NHK番組による)、一方「オタク」は近年の観光地化による非「オタク」の流入を雰囲気の変化を批判しているようです。
 それはともかく、以前からあった問題について、本事件をきっかけに(しかしあくまで「きっかけ」として)考えることに意味はあるだろうと思います。しかし、個別的なこの事件について、その影響を過大にとどめるべきではないと考えます。それこそ、加藤容疑者の「思う壺」になってしまうように思われるのです。

 それほど秋葉原に思い入れがある、というわけでも小生はありませんが、この街の歴史について以前思い付きをちょこっと書いたりしたこともあり、このような経験をしたあとでは、この街に歩行者天国廃止という形で加藤容疑者の爪痕が残ることは、端的に言って腹立たしいことです。この事態の改善のためには、何がしか一臂の力を、とも考えています。そのためもあって書記長の活動は注視しているわけですが。
 これも以前、柴田翔の小説をネタに書いたことがありましたが、秋葉原という街の成り立ちというのはそもそも露天商を鉄道の高架橋の下に押し込んだことに始まったわけで、露天の道路での自主的活動(?)というのはそもそも秋葉原の存在そのものと密接に結びついているのだ、とまあ思ったりもするのです。

 あと一つ、今回報道では比較的「『オタク』の危険な犯罪」というありきたりの図式は少ないように思われたのですが、そんなときにわざわざ宮崎勤の死刑を執行して、90年代初頭のバッシングを想起させるというのは、なんだか陰謀論めいた発想をしたくもなってしまいます。

 ちょこっと書くつもりだったのに、存外長くなりました。時間も掛かって、自分の筆力の低下に憮然とするばかりです。その割にちっともまとまっていません。もともとまとめられるようなことでは、ないのでしょう。
 まだ思うところも、細かい事実関係で書いていないこともありますが、ひとまずこの辺で一区切りとします。最後に、戒めの言葉を引用しておいて。
 私たちの目の前で生じた事件でさえも、私たちがその痕跡からただちにそれらを評価し認識することはほとんど常に不可能である。ましてや未来の事件がどのようなものになるかは、私たちの予想をはるかに絶したことなのである。(ソルジェニーツィン「自伝」)

[PR]

by bokukoui | 2008-06-20 18:10 | 時事漫言 | Trackback | Comments(8)

地震対策の結果として本が貰えた話の補足・その他雑事

 腰は相変わらず、左目の下にできものが出来たり、なかなか復調というわけにも行かないようです。

 表題の通り、先日の「地震対策の結果として本が貰えた話」の補足。
 社会科学研究所のサイトでは、不要図書の放出は9日までとなっていましたが、本日見に行ったところまだやっていました。多分、工事で完全に閉まる来月まではやっているのではないかと思います。もっとも流石に本の数は少なくなっていました。当初はワゴンに6台以上あったのに、今日は3台。内容的にも・・・。

 故障中の旧マシン(短時間なら動く)からデータを取り出して新マシンに移す際、フラッシュメモリを使っていたのですが、これが困ったことに行方不明。そこで苦肉の策としてデジタルカメラのメモリーを使ってます。嵩張るけど意外と容量が多かったので。
 つーか、とっとと新たなコンピュータ環境を作らんと・・・。

 NHKの夜のニュースを見ていたところ、サミットへ抗議のデモ隊が暴徒化した場合の対処と称する警察の訓練が報じられていました。それ自体に対しいろいろ申し条はありますが、それはそれとして、「デモ隊」として登場していた警察の連中の被っていたヘルメットに、白ヘルに赤い線・黒く「Z」の文字が! 革マル派ですね。
 革マル派の登場がサミット会場周辺で予期されているのでしょうか? こういうときは架空のメットを使うのが普通ではないかと首をかしげました。もしかして公安警察には、各セクトに対応した仮想敵部隊がいる、なんて訳はないだろうな。
[PR]

by bokukoui | 2008-05-14 23:49 | 時事漫言 | Trackback | Comments(0)

聖火リレーでどうでもいい話~そして私は北京オリンピックを支持する

 ゼミの準備で忙しかったり、発疹がひどかったり、またぞろネットに繋がらなくなったり(別な機械で、別な方法でつないでるんですけどね・・・)、そんなわけで聖火リレーにせよ死刑判決にせよ書きたいと思う話題は数あれど思うに任せず、しかし後からゆっくり考え直して評論するという手段としてどうもネットは不適当らしく(それが困った点)、従ってどうでもいい思ったことを以下に書きます。

 日本における聖火リレーで起こったトラブルとして広く報じられた一件に、卓球選手の福原愛さんがトーチを持って走っているところに突如乱入した男がいたというのがありましたね。その瞬間、福原さんの表情が凍り付いて足が止まった映像は、テレビの報道でご覧になった方も多いかと思います。
 それを見て小生は、駕籠真太郎先生の「バトル・ロ愛ヤル」を瞬間的に連想してしまいました。本作は近刊『穴、文字、血液などが現れる漫画』に収められております。
 で、どういう話かと申しますと、本文から引用すれば 
東京湾沖に造られた
この人工島ラブラブ愛ランド
では各業界を代表する
愛ちゃんが集められ
ナンバー1の愛ちゃんを
決定するための死闘が
繰り広げられていた

お互い殺し合い
生き残った者にのみ
ナンバー1愛ちゃんの
称号を手に入れることが
できるのだ
 ・・・。主人公が一応福原愛ちゃんです。あと出てくるのが杉山愛とか大塚愛とか飯島愛とか前田愛(国文学者でも声優でもない方)とか・・・。
 今まで本ブログでも駕籠作品について何度か触れてきましたが(これとかこれとか)、今回も大変面白い一冊でございました。スカネタよりはパロディ的な方が本書では多い感がありますが、それもまたよし。駕籠先生はここ何年か、順調に新刊を出されているのは喜ばしい限り。

 あまりといえばあまりな話でしたので、ちょこっとだけオリンピックについて思うことを。

 そも19世紀に近代オリムピツク大会が始まった頃の世界を考えれば、まさに時は帝国主義の時代。ギリシャ・ローマの古典文化を引き継いだと称する欧州諸国が地球上を我が物顔で行き来しておりました。さてこそギリシャのイベントを復刻して近代オリンピック大会も始まったのですが、これはギリシャ・ローマ的なものが「優れた」ものと自明視され、それに近い順に「優れた」序列が築かれていた世界観を反映しております。それが白色人種による有色人種の植民地支配を正当化していた訳ですね。以前このブログでも書いたことがありますが、近代スポーツの「スポーツマンシップ」なんてのは、成立した場所と時代を考えればその背後に階級差別・人種差別・性差別を胚胎しているわけであります。
 で、それから百年して、流石にそういう差別の問題点もある程度は認識されるようになってきたわけですが、今時の北京オリンピックでは久々に、その「オリンピック的なもの」を生み出した構造を感じさせてくれました。今や「帝国」足らんとする、チベットを支配する中国こそ、今地球上で最も「オリンピック」にふさわしい場所に他なりません(次点はロシアか?)。聖火リレーに最も噛みついて見せたのが欧州諸国の人々というのは、ここ百年の時代と重心の変化を物語り、変わらぬものと変わるものとを一望できたのは大変興味深いことでありました。(え、黄禍論?)

 ま、長々書くのも面倒だし、こんなもんで。
 今次の抗議行動やそれにまつわるネットの言動を見ていて思うこともなにがしかありますが、少し前に読んだ有村悠氏のブログの記事に付いたコメントを見て心底うんざりし(他にも類似の例は多いでしょうが小生の見た中で最も酷い例だったので)、これはチベットそのもののことよりもただ何かを罵倒することで自己満足に浸る祭りでしかない輩が少なからず、そしてそれはおそらく、確かに今現在中国共産党政府が行っている人権侵害への批判をむしろ減殺してしまうものではないかと思ったので、これ以上書くのも今は控えておきます。
 そして小生は、チベットを舞台に書かれた久生十蘭『新西遊記』を取り上げている種村季弘『書物漫遊記』を書架から取り出すのでありました。ネタ本は無論河口慧海『西藏旅行記』であるわけですが、故種村先生の説くところに因れば、同書の前半は「狂信的なラマ僧の残虐きわまる処刑」の話が延々と続くそうです。(彼らの何人が慧海を知っているのだろう?)
[PR]

by bokukoui | 2008-04-28 22:06 | 時事漫言 | Trackback | Comments(8)

「ヒゲの隊長」は誰の利害を代表するのか

 数日前の記事のコメント欄で、いろいろと興味深いご意見が出ておりましたので、狭いコメント欄に書き足すのもなんだしということでこちらで一筆。

 まずお断りしておかなければならないことは、今回の参院選の期間中、小生は多忙にてろくに選挙関連の報道に目を通しておりませんので、イラク派遣自衛隊の隊長から転じて今回の参院選で自民党の比例代表から当選した佐藤氏が如何なる選挙運動をしておられたのか、よく承知しているわけではありません。ただ、無名さまなどの方から伺うには、どうも自衛隊っぽい格好? をして、自衛隊施設の前で演説したりされていたそうですね。また確か、比例の代表の中では、新人としてタレント候補でもないのに(?)相当の得票をしていたかと思います。
 で、これについて、左翼で平和主義者でミリオタな小生としては、ああ宇都宮徳馬先生が栗栖弘臣を打ち破った時代は遠くなりにけり(27年前か・・・)とまず思ったのでありました。栗栖を担いだのも民社党であって自民党ではなかったことからすると、時代も自民党も変わったのだということですね。思えば栄光の時代の自民党は、左側に宇都宮先生まで抱え込んで平然と政治やってたんですから大したもんだったんだなあ、とつくづく思います。小生は政治学にはとんと疎いですが、自民党はそのヌエ的性格(政治の場合は必ずしも非難の言葉ではない)から長期の政権を維持することができたのだろうと素人なりに考えます。しかしまあ、いまや自民党はその性格を振り捨てようとしている――少なくともやたらと敵を作りたがることを「毅然」と勘違いしている安倍政権の運営は――ことからすれば、とっとと政権も振り捨てればと思うのであります。

 話を戻して、で、「ヒゲの隊長」に投票した人たちはどういう人たちで、どんな期待を込めて投票したのかということは、検討するだけの価値があると思います。
 ここで「在郷軍人会」という言葉を無名さまが出されており、また某後輩氏が「得票数が自衛隊の定員とほぼ一緒で、陸自の駐屯地がある道県で集中得票しているという分かりやすい結果」と指摘されています。小生は既述のように今回の選挙の諸事情に通じているわけではまったくありませんが、これらの信頼できる方々からのご指摘からすると、「ヒゲの隊長」氏は自衛隊員を支持層として固めようとしていた、ということなのでしょうか。だとすれば、手法としては極めて伝統的な選挙戦ということになり、かつて自民党が建設業界や郵便局の票を当て込んだり、社会党が労働組合の組織票を集めたり、学会員が公明党に投票したりするのと同じ構図になります。
 で、こういう構図で議員が送り込まれるのであるなら、むしろ外交政策に際しては慎重に対処する方針を取るのではないかと思われます。もし憲法改正をして自衛隊が海外の戦地に派兵された場合、戦死するのは支持団体の人、ってことになりますから。
 この場合、自衛隊代表議員のなすべき仕事はむしろ、「現業公務員代表」としてその待遇改善にカネを出させることになるでしょう(正面装備費ではなくて)。これは行政改革という方向からするといささか難しいでしょうし、無名さまのご指摘「現役は別としても、退役者はあまりにも恩典が無い」からすると、既得権を守る以上のことが必要そうで、他の権益団体代表に比べてもなおその仕事は大変かもしれません。将校についてはまた別の論があるかもしれませんが、人数的に大部を占める下士卒の場合はこのように考えられます。

 自衛隊を現業公務員団体として考えたとき、教師の事例を参酌してみます。
 この場合、ヤンキー先生的思いつき「教育改革」に現場の先生を振りまわさせて疲弊させるより、ごく正攻法で現場に多くの予算と人材を与えて環境を改善させるべきではないか、という指摘が識者(苅谷氏や広田氏など)によってなされています。同様に国防についても、その構成員個々の待遇を改善することで、自衛隊員が麻薬でラリって憂さ晴らしをしないですむようにすることは、国防の根幹を強化することに直結するのではないかと思います。
 ことに、こういうことを書くのはあまり上品ではないかもしれませんが、徴兵制でなく志願制の軍隊の兵隊に、高度に発展した経済を持つ国で身を投じる人々の社会階層を考えた場合、それはもっと考えられるべきことではないかと愚考します。
 そういえば、わが国で軍隊が待遇への不満で叛乱や暴動を起こしたのって、竹橋騒動以来なかったような・・・これは結構珍しいことかも。

 しかしどうも、今回の「ヒゲの隊長」に投票した人は、このような層には限らないんじゃないか、違ったタイプの投票者もいたのではないかと、小生にはそのように思われるのです。つまり安全保障問題での活動を期待しての投票が一定数あったのではないかと思うのでして。
 これはいささか偏見があるとは自覚しておりますが、「元自衛隊」「イラク派遣隊長」という肩書きから投票した方々が対外政策に期待するものを推測するに、やはり対外硬・・・って用語は戦前のものですが、そういう方向である蓋然性が高いと思われます。しかし、上に書いたように、実はそれは自衛隊の構成員(下士卒)の利害とは必ずしも一致しないかもしれません。「ヒゲの隊長」は、どちらの代表者として行動することになるのでしょうか。
 小生が思うには、無名さまがご指摘されているような「カリスマ的な元自」登場による政治勢力は、自衛隊下士卒のような階層の不満を結集して何かに振り向けることに成功した場合であろうと思います。それはおそらく、対外政策以上に国内的な攻撃も含むことになろうと思われます。そしてそこに結集する層が自衛隊外の、社会に不満を持つ層とくっついたとき、もしかすると「悪い冗談」の事態が出来するかもしれません。
 もっとも、「元自衛隊」「イラク派遣部隊長」という肩書きに何がしか現状の自己の不満を託すような階層のメンタリティを斟酌するに、その多くは宮台真司の表現を借りれば「ヘタレ保守」ということになるのではないか(そういった力に自己を投影することで不満を解消しようとする)と思われるので、その結集は案外脆くすぐ崩れてしまうようにも思われますが。

 どうもまとまりませんが、こんなところで。
[PR]

by bokukoui | 2007-08-01 23:55 | 時事漫言 | Trackback(1) | Comments(13)