カテゴリ:時事漫言( 46 )

小田実氏の訃報に接し若干の感慨

 右足に奇態な痣が出現。赤城農相を襲ったかぶれの同類か。
 尾篭な話で恐縮ですが、ここ一月あまり消化器の具合も思わしくなく。

 表題の如く小田実氏が亡くなられたという報を新聞で読みました。
 小生は氏の代表作『何でも見てやろう』を読んだことがあります。そも遡れば、本書の題名を知ったのは、北杜夫氏のエッセイを読んだ時のことでした。なんでもどこぞの書評に、小田氏の『何でも見てやろう』と北杜夫氏の『どくとるマンボウ航海記』を比較して、「小田実のユーモアは、北杜夫の白痴的ユーモアよりも数等優れている」などと書かれていて、読んだ北杜夫氏がフンゼンとするという話が載っていたのでありました。出典のエッセイの本が思い出せないのですが・・・。
 で、大学に入ってから、確か何かのバイトで小田実の書いたものをざっと読む機会があり、その際に読んだ内容をMaIDERiA出版局の「今週の一冊」の中で使ったりもしましたが、その時に『何でも見てやろう』も読み通しました。結構面白かったですよ。
 で、小生が小学生の頃から愛読していた『どくとるマンボウ航海記』と比較した時、一昔前の書評者が『マンボウ』を「白痴的」と評した理由が少し分かった気もしました。『マンボウ』には直接的な社会批評的内容は全くといっていいほどないのです。言い換えれば、小田氏の作品は『何でも見てやろう』という通り、世界一周して「見てやろう」という問題意識が強くあります。しかし『マンボウ』にはあんまりそういうのがないんですね。こだわって見に行くのはトーマス・マンゆかりの地ぐらいなもので、その問題意識の(表面的な)なさが評者をして「白痴的」と言わしめたのでしょう。
 でも小生思うに、それこそが『マンボウ』の優れた点ではないかと。「見てやるぞ」と構えたところがない故に、出会った事象に対して普通の人には思いもよらない面白い観察と表現をなしえて独自のユーモア世界を形作っているのであります。まあ、これは当時の堅苦しい思想に嵌った(マルクスが堅苦しいのではなく、嵌り方が堅苦しいのだと、一応そうしておきます)書評者の目が曇っていたのであろう、そう思う次第。

 肝心の『何でも見てやろう』の話に戻して、同書で小生が最も印象に残ったエピソードを以下にご紹介。
 それは小田氏がギリシャに行ったときのこと、一ギリシャ青年が以下のように小田氏にぶちまけます。

「こんな国ってあるだろうか? 世界中の国の教科書で、最初のページではこれだけ詳しく登場し、その後二度と出てこない国なんて」

 記憶にのみ頼っておりますのでうろ覚えですが、確かこんな趣旨だったかと。
 言われてみれば確かに。日本の世界史の教科書では、その後登場するのは1830年の独立ぐらいですかね。しかしこのギリシャ青年の見方も今にして思えば偏っている面もあり、ビザンツ帝国とは事実上ギリシア人の国であったし、オスマン帝国でもギリシア人の存在は大きかったわけで。
 近代ギリシア史をちょこっと読むと、近代のギリシアというのはかなり国家運営(特にキプロスの件とか対トルコ政策周辺)がアレな国のように思われ、しかしそんなハタから見てアレな運営をしてしまうのもこの青年がぶちまけたがごとき偉大すぎるご先祖の名が、強力なアイデンティティを形成すると同時に重荷になってしまっているからなのかもしれません。

 話を戻して、兎角評判のある小田氏ではありましたが、ベ平連の活動はやはり時代に名を残すものであったと思うのでありまして、しかし結局その系譜を継いだ市民運動というのはできなかったのかな・・・。どうもわが国は「市民運動」というのが根付きにくい傾向があるのか、根付くような政策があまり顧慮されなかったのか、ネットの普及も必ずしもその傾向を変えるに至っていないのかと思うことがあります。ちょうど一月前の「アキハバラ解放デモ」のことなど思い出すにつけ。なんか小生がネットをやっていないうちにいろいろあったみたいですけど。

最後に余談。
 「白痴」って変換候補に入っていないんですね。「白雉」はあるのに。
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by bokukoui | 2007-07-30 23:57 | 時事漫言

昨日の今日で教育関連の話題

 昨日久しぶりに教育について記事を書きましたが、それを書き上げた途端に以下のニュースに接し腰が砕けました。

 <参院選>自民、大仁田氏引退でヤンキー先生・義家氏を擁立
 自民、ヤンキー先生を擁立 参院選比例代表で

 今日は来週に迫った「6・30アキハバラ解放デモ」に向けて、オタクという世間から歓迎されざる(とされていることが多い)文化について参考になるかもしれなさそうな書籍を読んだのでその感想でも書こうと思ったのですが、このニュースを聞いて予定変更。
 「熱血教師」的なものを教育政策に据えることへの批判は、過去の記事で戦術と戦略を混同していると批判したことがありますのでもう繰り返しません。ただ、日本の政治において教育に対する理解はやはり個人の自主自立(精神的な)を重視する方向ではないということを再確認した次第でした。
 それにしても、アンチ自民の小生にしても思わずにはいられないのは、自民党には他に幾らだって「ヤンキー先生」よかマシな人材を登用することは出来るだろうに、と・・・。まあそれを言い出せば、そもそもあれだけ議員がいるのに何で首相をあんな(以下略)
 とまれ、こうしたいわば「偉大なる自己像」に自らナルシスティックに酔いしれている(「昔は悪かった」というのはその陶酔を強化する技法である)人間を、「いい先生」と持ち上げてしまうような風潮を排除するところから、教育改革は始まるべきであろうと小生は思うものです。
 そして財政改革の名の下に名門公立大であった横浜市立大を荒廃させ、一方でこの「ヤンキー先生」を教育委員に据えた中田横浜市長に落選の鉄槌を。教育は行政からすれば財政と法制度によって運営に大枠を示すものであるはずであって、精神論を上意下達するものではありえないはずです。
 横浜市民として、これでは「荒川は日本のポトマック川だ。あの川の向こうはヤンキーに支配されている」などと心置きなく埼玉県民を馬鹿にして遊ぶことが出来なくなってしまいます。市の将来に懸念を抱かずにはおられないのです。

 今日は急なバイトで肉体労働をしたため、些か疲労しておりますのでこれにて。機械の調子も悪いようで。暑さと湿気のせいなのか。
 なおこれは一昨日の作業ですが、タグに「書籍・漫画等感想」を設けました。本(含漫画)を読んでその内容について何がしか感想や評論めいたことを記した記事につけてあります。今まで歴史に関する本の感想を「書物」カテゴリにしていたのを、このタグをつけて「歴史雑談」カテゴリに改めました。これで閲覧性は向上したはず。
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by bokukoui | 2007-06-23 23:59 | 時事漫言

「硫黄島」の読みの件続き・その他サイト更新など

 以前、「硫黄島」の読みが「いおうとう」なのか「いおうじま」なのか、という話をこのブログで書いたことがありました。で、最近の報道によると、この問題に一応の決着がついたようで。
 「いおうとう」に呼称変更 国土地理院
 国土地理院は18日、東京都小笠原村に所属する硫黄島の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に変更したと発表した。これに伴い「北硫黄島」「南硫黄島」も、「きたいおうとう」「みなみいおうとう」にそれぞれ変更された。

 地元で旧島民が、「いおうとう」と呼んでいたことから、小笠原村が国土地理院に地名修正を要望していた。同日開かれた国土地理院と海上保安庁海洋部で構成する「地名等の統一に関する連絡協議会」で変更を決めた。国土地理院では、2万5000分の1地形図「硫黄島」のふりがなを変更し、9月1日に発行する予定。
 皮肉にも映画『硫黄島(いおうじま)からの手紙』のヒットが、この島の名前を正式に「いおうとう」にしてしまったようなものでしょうか。
 さて、この件に関し以前拙ブログで触れた際にご登場いただいたの指導教官も、先日このことを話題にのぼせておりました。昭和初期、硫黄島が戦場となる前に住んでいた方々は「いおうとう」と読んでいたし、日本軍も「いおうとう」だった、そして今回正式名称が「いおうとう」と決まった。これでやっと、ある問題をおおっぴらに議論することが出来る、と。
 それは、日本が硫黄島を最初に領有した時の読みは一体どっちだった? という謎。
 こちらに小笠原諸島の歴史年表がありますが、これによると小笠原の領有宣言は1861年で、硫黄島(を含む火山列島)が正式に日本領になったのは1891年とあります。戦前居住されていた島民の方々からみても、半世紀以上昔のことになりますね。
 で、この時代はもしかしたら「いおうじま」って読んでたんじゃないか? と疑われる節もあるのだとか。しかしこの島を「いおうとう」と呼びたいという旧島民の意向や、戦中から戦後に至る小笠原の波乱万丈の歴史が、なかなかこの問題に関する議論を難しくしてきた面があるそうです。
 島の名前としてどっちが「正しい」ということよりも、島の呼び方を巡る変遷や名前に込められたイメージ、思いの歴史自体の方が、興味深い現象といえるかもしれません。そして今回の「いおうとう」正式名称化はその流れに一つの大きな区切りをつけたわけですが、これからどうなっていくのか、まだまだ関心を惹かれるところです。

 以上の話とは全く関係なく業務連絡的内容。
 本日MaIDERiA出版局サイトを久しぶりに更新しました。といっても「よりぬき『筆不精者の雑彙』」に内容を追加・その他色々修正を施し、トップでコミケ落選を告知した程度です。

 ここ数日、部屋の大掃除と模様替え、たまりに溜まった本や書類、史料コピー類の整理をしています。というか、今準備している論文の作業に色々と必要なのでコピー整理を始め、そのためには前に買ってあった本棚を設置して書物などの整理をする必要があり、本棚を置くには部屋の大掃除と模様替えが必須だったという因果関係ですが。
 まずまず順調にこの作業は進んでおりますが、その整理ついでにブログも整理、というわけでは特にないつもりですが、昨日完結した「お気楽アメリカ紀行」の記事が、従来のカテゴリ分類では「鉄道」だったり「歴史」だったり色々に亙ってしまってどうもすっきりしないので、「タグ」なる機能を使って「旅行記」という分類を別に作ってみました。
 で、一つだけなのもなんなので、これまた「歴史」ネタだったり「漫画」だったりいろいろな、イベントを見に行ってレポした記事のためのタグ「イベント・展示会等見学記」というのも拵えてみました(「イベント」といっても同人誌即売会は含みません)。何か他に、こんなタグがあれば閲覧しやすいというご要望があれば、コメント欄にでもお寄せいただければ幸いです。もっとも「タグ」は20種類しか作れないらしいですが。
 しかし早くも問題発生。群馬の富岡製糸場を見に行ったのは「旅行記」か「イベント・展示会等見学記」か、どっちなんだろう(笑)? 泊りがけではないから「旅行」というほど大袈裟ではないし、あれは某学会の見学会だったし。しかし、気分的に北関東に出かけるのは「旅行」に相当する、という主観に基づいた厳正な判断により、「旅行」にしておきました。早くもタグに蹉跌の予感。
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by bokukoui | 2007-06-20 23:59 | 時事漫言

柔道と軍隊について雑感 或いは臆面もなき嫌悪と妄想の告白

 諸事情でリビングにて某作業中、流れていたテレビの中で報じられ、まず耳を疑い、そして唖然となったニュース。
 ネットではこちら。
 [柔道]世界選手権代表ら陸自に体験入隊 井上は“尻込み”
 柔道男子の世界選手権(9月、ブラジル)の代表たちが6日、陸上自衛隊第1空てい団(千葉・習志野駐屯地)に体験入隊。高さ83メートルの降下塔の最上階で腕立て伏せや腹筋をしたり、地上11メートルの塔から飛び降りる訓練などに臨んだ。

 00年シドニー五輪優勝の井上康生(綜合警備保障)は高い所が苦手で、降下塔の最上階まで最後まで上がれず、飛び降りる訓練でも実行するまで塔の上で数十分間もしゅん巡。「今までこんなに怖かったことはない」

 斉藤仁・全日本男子監督は「塔から飛び出す瞬間は、技に入る瞬間と同じ。いかに腹を決める精神状態を作れるかだ」と体験入隊の狙いを説明する。もっとも、井上は「こんなことしなくても金メダルを取るよ」と言い訳していた。【来住哲司】
 この「精神」力を鍛えると称する(テレビでは「精神力を鍛える」とまんま言ってたように記憶)訓練に何の意味があるのでしょう。まさに「こんなことしなくても金メダルを取る」ことはできるでしょう。こんな阿呆なことをやっている限り、全くもって日本のスポーツ界というものは不合理性に満ち満ちている存在なのだと――日本以外の国も実はそんなに変わらないのかもしれませんが――と思ったのでした。
 小生の軍事知識は些か古い時代(半世紀以上前)に偏っているため、空挺部隊というのは降下するだけでも相当な危険がつき物というイメージがあります。今はどうなのかよく知りませんけど、やはり他の兵科と比べれば危険であろうと思います。そんな空挺の訓練に、基本的な肉体の能力は高いにしても、不慣れな柔道選手が参加した場合のリスクということは考慮されなかったのでしょうか。落っこちて打ち所悪かったら、誰が責任を取るのでしょう。
 そのリスクと引換えに、一体どれだけのリターンがあるのか、小生には全く理解できません。高所恐怖症だとしたって、畳の上で強ければ柔道選手として何の問題もありません。北京のオリンピックの柔道会場は空中に設けられるのでしょうか。それなんて格闘漫画?
 むしろ柔道選手が空挺降下を教わるより、空挺部隊に柔道を教えた方がまだ何がしか効果が望めそうな気がします。空挺部隊は軍の精鋭と相場が決まっていますし、陸自の空挺隊員なら柔道の心得も相当にあるでしょう。そういう交流の方がお互いに刺激になるんじゃないかと。

 ことほど左様に柔道に対して小生が無闇矢鱈と噛み付くのは、やはりいろいろと思うところがあるわけでして。
 思い返せば幼児より運動能力が低く、運動能力が人物評価に直結する小学校低学年の頃、休み時間に校庭に繰り出す旧友を尻目に教室の隅っこに引き籠って学級文庫の読破に勤しんでいたあの頃から、「体育」というものに肌合いの合わなさを感じていました。「運動会」なるイベントの不合理性もまた。運動的な、体育会系的な価値観と相容れない者にとっての運動会の苦痛とは、徒競走の順位なんかではありません(「手をつないで云々」は都市伝説説も)。あれは所詮一時の恥。
 最大の苦痛はあの延々と同じ動作を繰り返させられる「練習」、入場行進や「ダンス」なるもの。軍国主義教育の追放に熱心であったはずの日教組が何ゆえに運動会を撲滅しなかったのか、全く理解できません。昨今「ゆとり教育」見直しで授業コマ数の不足を補うために週休二日の廃止という声が出ています。小生は、運動会(の予行演習)を全廃する方がよっぽど手っ取り早く、実質的効果は変わらないのではないかと思うのです。

 幸い小生は中学受験をして、かなり特異な中高一貫校(東先生を輩出)に進みましたので、その後の六年間は運動会ファッショに付き合わずに済みました。運動会(体育祭)はありましたが、愚かしい練習はありませんでしたから。何でもその学校の特異な体育祭システムを発案した先生は、日本史の先生なのですが、左系の学会か何かでかつて名を知られていた方だったとか。流石によく民主化の何たるかを分かっておられたのだと思います。まあそんな学校でも、小生は一部体育教師と小競り合いを起したことがあるのですが。
 それはともかく、しかしこの中学生時代に小生は柔道に関して消えぬトラウマを心に刻み込まれることになります。といっても学校の授業に柔道があったわけではありません(剣道はあった)。小生は名だたる混雑路線で電車通学をしていたのですが、その沿線には学校も多く、なかんずくある学校――某S学園――は全国でも柔道の強豪校として名を知られた学校だったのです。
 今でこそ人並みの身長(174cm)の小生ですが、中学生頃は小学生と区別がつかない背の低さで、首都圏私鉄界随一の混雑率を誇る路線での通学はなかなか苦痛でありました。そのただでさえ大混雑した車内に、時として巨大な肉塊が存在するのです。某S学園の重量級の柔道選手です。あの肉塊(人間であると認識できない)と同じ箱に詰め込まれる恐怖。いつあの肉塊が、自分を押し潰しに来るのではないかという恐怖。車内で周りの人間たちにいいように押しやられる小柄な中学生は、肉塊と隣接する度に、自分の肉体が挽肉になり、骨が砕け散る幻想に苛まれます。多分実際に酸欠で朦朧としていたんだと思いますが、中学生時代のあの恐怖はとても筆では書き表せません。

 身長も伸びてそこまで恐怖を感じなくなった高校生の頃に、筒井康隆の短編「走る取的」を読み、深く感銘を受けました。この恐怖を見事に小説として結実させていたからです。
 この短編は、たまたま目が合ってしまった相撲取りになぜかどこまでも追い掛け回され、遂には首の骨をへし折られて殺されるという、不条理なホラー小説です。しかし読んだ小生は、これが少しも不条理な物語とは感じられませんでした。当然のことをただ描写しただけのようにすら思われたのです。

 この上更に、体育会的文化に対する文化的ハビトゥスの相違がもたらす苦痛、ということはもはや重ねて説明するまでもないでしょう。そういう人と会う危険性をなるべく減らすように小生は人生の針路を偏らせた結果、今ここにこうしています。
 小生の数少ない友人は、たいがい「オタク」の範疇にどこか引っ掛かりそうな人ばかりですが、それは「オタク」というものが体育会系的な文化的ハビトゥスとは異なった文化の人だから、と単純に信じていました。しかし、ことに近年の「オタク」の状況ですとか、社会での話題を呼んだ諸事件に関する「オタク」と称する(或いはそのような文化に親しんでいると見做される)人々のサイトやブログでの発言、さらには昨年末から多少読んでみた「非モテ」を巡る話題などから、或るいはこれは勘違いであったのかもしれない、と思うようになりつつあります。これは男のオタクにもっぱら限った話ではありますが、所詮彼らの多くはホモソーシャルな仲間内でミソジニーを肴に盛り上がっているだけの連中ではないかと。それじゃ実は根っこは体育会系とあんまり変わらないのではないか、そんな風に思うことが増えました。
 勝手な私見を述べれば、多分よりよき「オタク」は孤独を愛することが出来る人なのでしょう。そして自らの好きなものを愛でつつ、孤独と仲良く付き合って生きていくことが出来るのであれば、別に「モテ」なくても大した問題とは感じないでしょう。もしそのような人に恋人が出来るのであるとするならば、逆説的ではありますが、その恋人がそのような人が時として孤独でいる(いたい)ことを赦せる、そんな優しさを持った人と出会えたからだということになるでしょう。

 柔道の監督を皮肉る以上の意図はなかったのに、気がつけばえらく長文になっておりました。それはいつものことですが、柄にもなく湿っぽい話になって自分でも苦笑している次第です。今日の話は出典とか論拠とかをきちんと詰めて書いているわけではありません。
 折角空挺部隊が登場してくれたのですから、今日はノルマンディー上陸作戦63周年の日でもありますし、この戦いではアメリカ第82・第101空挺師団、イギリス第6空挺師団が大いに活躍しましたから、もそっと戦史の話題でも書けばよかったのですが、どうも妙な方向に行っちまいましたね。それだけ体育会系に対し内心(自分でも意識しないほど)思うところがあるのでしょう。
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by bokukoui | 2007-06-06 23:59 | 時事漫言

眠い

 どうも不調につき本日休業。
 まあ昨日付けで事実上二本記事を書いたということで・・・

 ロシアのエリツィン大統領が亡くなったそうで。
 ゴルビーやエリツィンの時代のロシアは、ある意味「よい」というか、周辺諸国がロシアの進む方向を好意的に見ることが出来たような印象がありましたが、その後すったもんだの末、プーチン時代になって「あるべき」姿に落ち着いたという印象があります。つまり何やらかすか分からない、おっかない国だということで。
 ジョルジュ・ボルトリ『スターリンの死』に、ソ連が自国にやってきた外交官に対し厳しい移動制限を課し、モスクワ近郊の町ですら「宇宙の星のように」行くことが叶わなかった、という一節がありましたが、今のロシアも旅行者が自由に国内を巡るのはかなり難しいそうです。大体帝政ロシア時代の農奴に移動の自由はなかったし、ソ連時代も自国民の国内移動すらパスポートが要ったわけで(まあそういう国は、19世紀頃までは結構あったようですが)、まして外国人においてをや、というわけなんでしょうけど。
 ソルジェニーツィンの作品の舞台になったコーチェトフカ駅を見に行くのは、かなり無理そうですな。

 書きたい話題は多々あれど、どうも色々不具合が多くて・・・
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by bokukoui | 2007-04-23 23:59 | 時事漫言

なんとかして

 今日こそは短く。昨日は全然短くなりませんでしたので。

 エチオピアのソマリア侵攻ニュースをちょっと探していたついでに、こんな海外ニュースを発見。

 英女王の発音、庶民にぐっと近づいた!?=ミュンヘン大教授の研究

 もっとも、記事の題名にあるように「庶民」に近づいたというのは、はちょっと言いすぎのような気もします。
 received pronunciation = 容認発音について幾つかのサイトを参酌するに、この容認発音とは「上流階級に容認された」という意味だそうです。記事を読む限りでは、エリザベス陛下のご発音は「上流容認発音」から「標準容認発音」に変ったそうですが、結局のところ容認発音内部の変化であるのならば、大局的には庶民と違う上流階級内ということに変りはないのではないか、とも思われます。
 ただまあ、「ハイソ」「パンピー」くらいの階級差は存在しているとしても、王室や貴族のような限られた超上流階級というのはもはや絶滅状態である、というように解釈するのならば、それなりに合理的かなと思います。
 もっとも、ここらへん論者によって容認発音の定義や範疇などが異なるかもしれないので、あくまで単なる思い付きということで。

※参考にしたサイト
英語の訛りの特徴を分析する「ゴスフォード・パーク」
RP(容認発音)とアクセント

 全然関係ありませんが、pgρ氏に創価学会の音楽コレクションを貰ったのでBGMとして愛聴中。もっとも、学会歌は軍歌・労働歌の亜流と考えられるので音痴にやさしい「バリアフリー音楽」かと思ったら、歌自体は合唱になっちゃってました。
 このところ、仕事上で前の教室にいた4年間に一度したかどうかのミスを連発しへこんでいるので、精々学会ソングで空元気でもつけるとしましょう。
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by bokukoui | 2006-12-28 23:58 | 時事漫言

今日こそは短く

 忙しいはずなのに昨日は長々と書いてしまい大後悔。
 今日はほんとに手短に。

 昨日紹介した「教育再生 有識者からの提言」とは、「日本教育再生機構」という、やっている「民間タウンミーティング」「民間教育再生会議」というお題からして、要するに「教育再生会議」別働隊的役割を果たしていると考えるのが妥当と思われる団体のコンテンツでした。「提言」からトップページに行けない不親切設計だったので、小生は昨日これら「提言」記事の性格を深く考えずに記事を書いてしまいました。
 で、先ほど「日本教育再生機構」のトップを見ていたところ、「教育再生への提言はこちらから」なんて掲示板みたいな書き込みをするところがあるし、「提言」の個々の記事にはこれまた掲示板の書き込みのように時刻が載っているし、そのURLをみると cgi なんて文字も入っているので(小生はコンピュータにちっとも詳しくないので正確なところは分かりませんが)、これは「提言はこちらから」から書き込んだ内容をそのままアップする掲示板みたいな性格のものなのでしょうか。
 もっともそれにしては面子がやはりある方向の人びとがかなり集まっており、しかもそれなりに名が通っていて忙しそうな人びとですから、自由意志でここまで集まるとも考えにくく、おそらくこの団体の事務局が依頼して、会員や賛同者の人たちに書き込んでもらっている/貰ったコメントを誰かが代打ちしている、というあたりかなと推測します。

 で、掲示板の書き込みに近いものなので、皆長さはごく短く、たいした濃さや深さを持ってはいないものばかりですが、流石に数が多いので、小生が適当にピックアップして斜め読みしたものの中でも、少なくとも部分的には、意味ある箇所も見出せます。しかしまあ、やはり長さの制約が大きいのでしょうが、大体のものはどこかで見たことがあるような、お約束のテンプレートを思い起させるものにとどまっているのは否めないところです。
 しかし、そんなこの「提言」の中から一つ素晴らしく個性的なものを見つけました。もっともこの場合の「個性的」というのは、あまりにも酷いので忘れられないという意味ですが。

 それは、「教育再生」に向けた提言/島田洋一(福井県立大学教授、拉致被害者を「救う会」副会長)です。
 大して長くもないので、以下に全文をコピペしておきます。
 新政権誕生から4日目の9月29日、首相官邸において、安倍晋三首相、塩崎恭久官房長官はじめ政府「拉致問題対策本部」関係者と拉致被害者「家族会」、「救う会」役員による懇談会が行われた。終了後、横田早紀江さんが記者団に対し、首相が思わず涙した場面が大変印象的だったと語っていた。
 実は私もその場にいて、強い衝撃を感じた一人である。私の記憶では、あれは出席者が一渡り発言し、司会役の中山恭子補佐官が首相に再度コメントを求めた時だった。いつも通り話し出した安倍氏が、「五人の被害者の方がタラップを降りてきた時の喜びを、他の皆さんにも味わわせねばならない、今は私がその責任をもつ立場にあります」という段になって突然声を詰まらせた。すぐ持ち直したものの、テーブルを囲んでいた約20名のみならず、壁際に椅子を並べメモを取っていた多くの政府関係者にも、首相の決意と責任感がこの上なく明確に伝わったはずだ。
 官邸から帰る道すがら、全く対照的な場面が脳裏に甦ってきた。5,6年前、後輩の結婚披露宴直前の控え室でのことである。話が拉致問題になり、五百旗頭眞氏(現・防衛大学校長)が興味なさげに次のように語った。「拉致なんて取り上げるのは日本外交として恥ずかしいよ。あんな小さな問題をね。こっちは、はるかに多くの人間を強制連行しているのに」。
 私が「救う会」に関わっているのを知る何人かが、一瞬身を堅くするのが分かった。反駁しようかと思ったが、場が場だけにグッと押さえた。それだけに一層不快な記憶として残っているのだろう。その後五百旗頭氏が認識を改めたことを望むが、次代の国防を担う若者たちが、「拉致なんてあんな小さな」という空気のもとで教育されてはならないと思う。
 安倍首相を突き上げた思いが、できるだけ広く深く教育の場に浸透していくよう願っている。
DATE: 2006-10-26T11:04+0900
 これは凄いです。
 この「提言」、その内容の出来不出来はあっても、とにかく「教育」に関する何がしかの言説を集めたものではありました。しかしこの島田氏の提言は凄いですね。なにせとってつけたような最後の2行以外教育と何の関係も無いんだもの。「教育」の代わりに、「憲法改正」とかでも全く同じ様に文章をでっち上げられるでしょう。いくら「救う会」副会長だからって。「再生機構」の他の人はこれをどう思っているのでしょう。
 しかも、末尾以外の本文にしたところで、実はこれ拉致問題についても何も語っていませんね。要約すれば「安倍首相は素晴らしい、五百籏頭眞はケシカラン」ってだけです。ゴマすりと個人攻撃以外の何をも読み取ることは出来ません。拉致問題がただの私怨に摩り替わっています。「救う会」の他の人はどう思うのでしょう。

 こういったある種「人間らしい」欲望が露骨に表れている裏には、きっと何か個人的で「人間らしい」理由があるのでしょう。小生は政治学には全く疎いですが、それでも五百旗頭眞氏の名前ぐらいは知っています・・・って、ご子息の五百籏頭薫氏が日本政治史の研究者だからですが(笑)。より大物の学者(でしょう、著作とかざっと調べましたが)に拉致問題を振りかざして噛み付くその姿は、一体拉致問題をどう考えているのかと思わざるを得ません。島田氏は北朝鮮問題でよくテレビに出てくる伊豆見元氏にも拉致を振りかざして噛み付いておられるようです。これが島田氏の芸風なのでしょう。
※参考リンク:「世に倦む日日」より「謀略の解読」「安明進証言と蓮池薫証言の矛盾」これもこれで謀略論ですが、しかし島田氏のような「救う会」関係者の行動からすれば、このように見られても仕方ない面はあるでしょう。

 島田氏がこういった行動をとる背景には、何がしか学会での勢力争いや人間関係、学閥のようなことが影響しているのかもしれません。島田氏は八木秀次氏と親しいらしいので、このような「提言」の趣旨と外れた頓珍漢な文章も、ボツにすることが出来なかったのでしょうか。
 小生は一応大学院生で、こういった類の業界の一つの末席に連なっているはずなのですが、このような人間関係に自分でも変だと思えるほど情報収集の意欲が無いので(どころか、一般的な自分の周囲の人間にもかなり無関心です。そういう意味では「非モテ」的かもしれません)、もうこれ以上どうでもいいですが。

 以上だらだらと書いたことは、結局「日本教育再生機構」のサイトの「顧問」で、「伊藤隆」という名前を見つけてしまったやるせなさをやつあたりしてごまかしているだけであるということは、重々自覚しております。
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by bokukoui | 2006-12-27 23:59 | 時事漫言

本日多忙につき適当に思い付きを連ねる・教育とトイレと谷崎と

 いろいろあって忙しいです。
 明日の授業の準備とか、金曜の授業の仕込とか。
 しかして、昨日の記事のせいか急に多くの方にご来訪いただけ、恐縮至極。ご紹介してくださったブログ等が幾つかあったようです。

 書きたいことは幾つもありますが、なかなか時間的余裕がありません(小生は文章を書くのがものすごく遅いのです)。しかしトラックバックしてくださった先などから辿って、「教育再生 有識者からの提言」などという素晴らしいページを見つけてしまい、ますます頭を抱え込むのでありました。
 渡部昇一もクライン孝子も中村粲も驚きませんが、流石に念法眞教は如何なものかと(念法眞教に関してはカマヤン氏のサイトなど参照。これまたウィキペディアで編集合戦があった由)。

 よくコメントしてくれる某後輩氏と以前教育について討論し、「教育とは社会経済学の問題であって倫理・道徳ではない」という一点で同意を見ましたが、教育をそう見たくない人が多いということはどういう意味なのかと考えずにはいられません。

 しかし。
 小生がここで教育について語るということ自体が、「教育再生会議」の面々のごとく、他者をコントロールするという「教育」の快楽に酔い痴れているという側面は否定できません。小生がバイトで塾講師をやっているということもこのことの言い訳になるとはいえないでしょう。人を呪わば穴二つ。
 というわけで、今日は自己批判をかねて、教育をきっかけに左斜め45度なお話を。まあいつもどおりということです。

 上掲「教育再生 有識者からの提言」の栄えあるトップバッターは、トイレ掃除で人格陶冶を図る「日本を美しくする会」鍵山秀三郎氏であります。ついでに言えば「日本を美しくする会」は「おやじ日本」なる団体を「応援」しており、この「おやじ日本」には警察官僚としてメディア規制に熱心で「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」委員でもある竹花豊氏が関っています。

 小生は以前19世紀英国の家事の指南書など抄訳したりして、少々家事の歴史をかじったりしました。で、20世紀の先進国では、家庭電化の普及などをてこに家事の合理化が進んだ(皮肉を言えば戦争のおかげ)のでありまして、その結果生活の質はおおむね向上しました。こういった家事の合理化に際しては、勿論市場の拡大を狙った企業の活動も大きいですが、婦人問題の運動家とか学者が生活の合理化を唱えて啓蒙普及活動に励んだのもあるでしょうね。
 で、鍵山氏のご高説ですが、小生には今ひとつ納得できません。同じ成果をあげるのにより少ない労力で済む/同じ労力でより大きな成果を上げることは「合理化」でありまして、まずもって大変結構なことだと思います。合理化を実行するには、状況の分析力・解決を編み出す発想力・アイデアを実現する実行力などが問われ、これはなかなか大変なことです。しかして特に企業経営においては、これが重要なことは論を俟ちません。
 家事の世界で合理化が進んだことは否定すべきではないし、ことトイレに関してはTOTOやINAXなどによる技術進化もめざましい物があると思います(小生の家の便器も数年前にリフォームして取り替えましたが、汚れがつきにくく落ちやすくなっています。おまけに水使用量まで減っています)。然るに、鍵山氏の会の清掃法は、どうもそういったことを一切顧慮に入れず、熱湯や紙やすりを使い、あまつさえ感染症の危険性も埒外に置いているようです。
 以上の問題点については、こちらの「七転び八起き日誌」で経験者の方が縷々指摘しておられます。小生は、合理性を欠いた行為に従事することへの教育的効果は疑問視せざるを得ません。

 でまあ、ここで言いっぱなしなのもあれなので、ふとここら辺までウェブ上の情報を読んで思いついたことを発展させるべく書架から一冊の本を取り出しました。
 岩波文庫の『谷崎潤一郎随筆集』を。
 どういう関係があるかって? 有名な「陰翳礼賛」の中で、谷崎が便所のことを色々書いているのですな。
 私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されるごとに、つくづく日本建築の有難みを感じる。(中略)数奇屋普請を好む人は、誰しもこういう日本流の厠を理想とするであろうが、寺院のように広い割りに人数が少く、しかも掃除の手が揃っている所はいいが、普通の住宅で、ああいう風に常に清潔を保つことは容易ではない。取り分け床を板張りや畳にすると、礼儀作法をやかましくいい、雑巾がけを励行しても、つい汚れが目立つのである。で、これも結局はタイルを張り詰め、水洗式のタンクや便器を取り附けて、浄化装置にするのが、衛生的でもあれば、手数も省けるということになるが、その代り「風雅」や「花鳥風月」とは全く縁が切れてしまう。彼処がそんな風にぱっと明るくて、おまけに四方が真っ白な壁だらけでは、漱石先生のいわゆる生理的快感を、心ゆく限り享楽する気分になりにくい。なるほど、隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔には違いないが、自分の体から出る物の落ち着き先について、そうまで念を押さずとものことである。
 といわけで、清掃をすること自体が目的であるならば、便所の構造自体も変えてしまったらどうでしょう。「伝統」とやらを重視する「教育再生会議」やら「教育再生機構」やらのご理念とも一致するかと思いますが。
 もっとも、谷崎先生のご意見がかなり偏ったものであることは念頭に置いた方がいいと思いますけど。大体昭和初期に水洗便所を「手数も省ける」といって導入するというのは、ごく限られた階層の話でしょうな。
 そして、谷崎先生は結構な(ノーベル文学賞級の)「変態」であられるということです。作品は面白いけれど、かといって一般の教育理念に安易に適用できる価値観じゃないですね。

 さてここで「変態」ということで思いついたことが。
 19世紀のヴィクトリア朝では、中間以上の階級は子供をパブリックスクールに送り込むことを当然と見做していました。そして全寮制のパブリックスクールでは、罰則としての鞭打ちが始終行われておりました。鞭打ちが当時の英国人の人格陶冶について如何なる影響があったのかを記した文献は読んだことがありません。ただ、どうも現在のSM趣味の原点はヴィクトリア朝の鞭打ち趣味にあり、そういった趣味がこの時代に生まれたのは、パブリックスクールのこういった仕組みによるとする説が有力なようです。
 さてここで、素手素足のトイレ掃除が、上掲「七転び八起き日誌」にあるように教育現場に取り入れられている状況が将来的にもたらす影響を、ヴィクトリア朝の先例を斟酌して推測しますと。

 次はスカトロ趣味が来る、と考えられます。

 実際、上のブログに「便器の水こしにビールを注ぎ飲む者さえ居ると聞く」とある(ソースが不詳ですが)ことからもその線は高そうです(笑)。変態が増えること自体は、案外世の中住みやすくなりそうかもしれませんけど。
 駕籠真太郎先生の作品を愛読している小生の趣味は、時代の先端を行っているのだ、なんて。今度、町野変丸にも手を出してみるか。

 ちなみにこんなことを思いついた直接の理由は、小生のパソコンのIMEは「そうじ」と打って変換したら第一候補が「双児」だったからです。『エロマンガ・スタディーズ』の索引を作ったせいですね。

※このネタの続きはこれとかこれとか
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by bokukoui | 2006-12-26 23:59 | 時事漫言

聖夜の雑話~教育を巡る2題

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 吾妻ひでお『失踪日記』イーストプレス(p.164)より。
 12月25日、という日付でまず思い浮かんだこと。

 今日の小生は、女子高生とふたりっきりで・・・









 世界史の授業をしてました。
 他の生徒は諸事情により休み。お題が第1次大戦なので(冬期講習は20世紀を重点的に扱う予定)、調子に乗って巡洋戦艦ゲーベンやシュリーフェンプランについて一席ぶちました。女子高生にこういう話をして喜んでいるところ、生半可な風俗より変態プレイかもしれません。

 そういう変態が多いから、ということとはまったく関係ないでしょうが、ノーベル賞を受賞した野依良治博士が「教育再生会議」座長として「塾の廃止」を唱えていたことが最近報じられ、話題となりました。
 本件に関しコメントしておられる方は多く、その非現実性であるとか、優れた科学の研究者が社会政策において同等の見識を発するわけではない(この二つは決して相反するものではなく、むしろ相関しうると小生は思うのですが・・・)、自分の体験の絶対視等々の問題点は指摘しておられる方もおられるようです(畏友の「憑かれた大学隠棲」氏も書かれていますね)。
 ここに小生が一点付け足すとすれば、野依博士のお説のごとく「公立小学校で放課後に児童を指導し、「祭り」「演劇」「ダンス学芸会」などを体験させる「放課後子どもプラン」」について「塾をやめさせて、放課後子どもプランをやらせないといけない」とすることには、おそらく現今のもうひとつの重要な教育現場の問題であるいじめの対策と相反する可能性があるのではないか、ということです。
 子供の生活する世界に学校の占める位置付けがあまりにも大きいと、いじめに代表されるトラブルに遭遇した場合、学校に対する絶望を世界全体への絶望と取り違えて最悪の選択をしてしまう危険性が高まるのではないでしょうか。その際に、塾のような学校と別個の生活の一角をなす拠り所があると、そこまで思いつめることもなくなるのではないかと思います。
 ああ、もちろん地域でサッカーするとかでもいいんですけど、地域活動は学区制の学校の場合学校の縁が持ち込まれやすい気がするので、それも切り離せるという点、塾は肯定的に評価すべき性格を持っていると思います。
 ・・・まあこれも、中学受験経験者の個人的経験に基づくもので、到底一般化できないという面では野依博士と大同小異なのかもしれませんが。あと小生は、小学校で特に辛い目にあった記憶はあまりなく、殊に5・6年の担任の先生は、中学受験が多く2月1日は学級閉鎖状態の学級を良くまとめておられたと思います。

 ここで「部活」の文字を見て突然思い出したけど、今日の授業中女子高生に
「スポーツマンシップとは三つの差別から成り立っている。
 貴族・ブルジョワジーの労働者に対する階級差別。
 白人の黄色人種・黒人に対する人種差別。
 そして男の女に対する性差別である!」

 と、一席ぶちましたな。『機関銃の社会史』に影響されすぎだと我ながら思いますけど(苦笑)。
 でもまあ、19世紀の歴史を振り返ればそんなもんでしょ。
 で、もうちょっと真面目に言えば、学校教育現場における「部活」、運動系のそれは、色々と再検討すべき余地が大きいと思います。
 「放課後子どもプラン」も、こういった視点を持っている小生からすると・・・放課後の選択肢は学校と別に整備した方が・・・。

 話を戻します。
 塾を廃止するといえば、もう随分昔に筒井康隆が「廃塾令」という諷刺小説を書いていました。野依先生はじめ「教育再生会議」の面々はそれを知った上でネタをしておられたのでしょうか。マスコミ関係者で筒井先生に取材した者がいないらしいのは残念です。
 それにしても。
 筒井康隆のネタを政府の会議で真面目に発言するとは、筒井康隆の目の鋭さも勿論あるにしても、現実とフィクションの壁なんて実はごく薄いということなのかもしれません。

 現実とフィクション、という論点が急に出てきたのは、こんなニュースも今日入ってきたからです。
 有害ゲーム、コミックは業界自主規制を 研究会
 児童ポルノ対策強化を=コミック自主規制、業界に要請へ-警察庁研究会
 後者の記事を引用しておきましょう。
 警察庁の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」(座長・前田雅英首都大学東京教授)は25日、子供を性行為の対象とする内容のコミックやゲーム、アニメについて、誤った認識を助長し、犯罪を誘発する可能性があるとして、関係業界の自主審査や販売規制などの対策強化を求める最終報告書をまとめた。

 特に幼い子供を描くポルノコミックが、同人誌の即売会やインターネット上で多数販売されている現状に懸念を示した。同庁は報告を受け、業界に取り組みを求める。
 研究会のサイトはこちら、報告書はこちら(pdf)。
 補足しておくと、座長「前田雅英」のウィキペディアの項目が編集合戦のような状態になっています。
 別に先日書評したから言う訳ではありませんが、この研究会の方々、「研究」と題されるからには、永山薫『エロマンガ・スタディーズ』もお読みになられたのでしょうね? 最後の研究会にはぎりぎり間に合ったはず。「前田雅英」のウィキペディアの項目に引用されている内閣府の議事録(これこれ)の中で、前田氏とやりあっている瀬地山角氏は、その昔研究のためにエロマンガを読み比べたそうです(『お笑いジェンダー論』勁草書房 男がフェミニズムを研究することの意味を述べている点が初学者むけかと)。

 それにしても。
 結局のところ、何かを悪者にしてそれに責任を押し付けようという点では、教育再生会議もバーチャル~研究会も同じことなのでしょうね。人は自分の信じたいことを信じるわけで、そのメディアが小説であろうがテレビであろうがゲームであろうが携帯電話であろうが、そして教科書であろうが、その差をあまり大袈裟に言い立てるのは、あまり事態の解決に貢献するとも思えません。結局それは「おまじない」でしかないわけですから。教育基本法「改正」もまたお題目的側面が限りなく強かったことからすればある意味なるべくしてなった事態であるといえますが。
 小生が思うに、教育の価値とは、何かを悪者にしてそれでことは済んだと思わないような思考力を身につけることではないかと。地味地味と、日々その実践に励むことと致しましょう。(←シュリーフェンとどう関係あるのかね?)

※追記。
塾講師にしてエロマンガ作者であったという、今日の記事で扱ったような問題に関するもっとも適切な論者であろうと思われるカマヤン氏が、後者の問題について発言しておられます。参考になる資料もあるのでリンク。氏が塾の仕事で多忙な中、記事を書かれたことには頭が下がります。小生如きのコマ数で音を上げていては駄目ですね。
 ・・・野依博士、塾関係者がテンパってる冬休みの前にこんな発言をするとは、狙ってたんでしょうか?
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by bokukoui | 2006-12-25 23:59 | 時事漫言

レックスHDの話続き・愉快なDVDからギャルゲーのアイディアを得る

 先日2回に渡って話題にした(こちらこちら)、焼肉の「牛角」をはじめとする外食産業とコンビニ「am/pm」、高級スーパー「成城石井」を経営するレックスホールディングスについて、MBO以降の展開についての報道が出ていました。

 コンビニ再編 エーエム・ピーエムの運命

 要するに「同HD傘下のコンビニ大手のエーエム・ピーエム・ジャパンと高級スーパーの成城石井の売却話がまことしやかに流れている」ということですね。出典がゲンダイネットなので眉唾といえば眉唾ですが(苦笑)、しかし以前の記事の材料提供者から得ていた情報と突き合わせても、ごくごく当然というところかと思われます。
 一時の勢いで規模を拡大してみたものの、結局「西山商店」を脱却する企業統治を編成できなかった以上、事業を絞り込む方向で再編するというのは当然でしょう。am/pmはどうなるか分かりませんが、成城石井に関しては買い手は必ず現れるでしょうし、値段も相当なものがつくはずで、ファンドも事前にそれを見越しての出資だった公算は低くないように思います。

 で、前回は件の会社の経営理念? を語った小冊子を肴にしましたが、今宵は別のグッズを題材に一席。といっても実は以前に書いたことの焼き直しに過ぎないのですが。
 レックスHDの外食事業を営むレインズインターナショナルは、半期に一度「パートナーズフォーラム」というものを開いて、全社員を一堂に集め、各店舗の取り組みの中で特に優れたものを発表させて表彰するというイベントです。小生が上掲記事で見たというDVDはこの「パートナーズフォーラム」の模様を記録した2枚組DVDなのでした。リンク先の2004年は東京ベイNKホールが会場だったようですが、小生が見たものは横浜アリーナを借り切ってというものでした。凄い規模ですね。
 あ、そうそう、レックスグループではアルバイトのことを「パートナー」と称します。ので、このイベントをもっと一般的に分かりやすい表現に直せば、「アルバイト日本一決定戦」というところになろうかと思います。これは「牛角」「温野菜」「土間土間」などのレインズ系各店舗のアルバイト(パートナー)が、店舗ごとに売上向上などの目標を定め、それを達成した店舗が自分たちの取り組みをプレゼンする、というものです。

 昔小生は、マルチまがい商法の大手として悪名高いAmwayの宣伝ビデオを見たことがあります。あれはあれで、そのネズミ講的性格を巧みに押し隠して新規メンバーを勧誘するテクニックや、その勧誘に説得力をつけるために登場する「成功者」の姿など、見ていて頭を抱えたくなる局面も多かった反面、突き放してみれば説得術の一つのマニュアルとしてはそれなりに興味深くもありました。その技術の使う方向が思いっきり間違ってますが。
 アムウェイで思い出しましたが、「成功者」の姿を売り込んで人々を勧誘するアムウェイの姿を最も巧みに戯画化して描き出した伝説のサイト「うえのはるきのほめぱげ」はまだ残っているんですね。

※追記:その後、「うえのはるきのほめぱげ」は残念ながら消えてしまいましたが、形を変えて復活しました。こちらを参照→伝説のサイト「うえのはるきのほめぱげ」ツイッターで復活!?~レッツビギンやで! ポジティブや!!

 しかし、アムビデオ鑑賞の経験を持つ小生にとっても、このレインズインターナショナルの「パートナーズフォーラム」DVD鑑賞は精神的に辛いものでした。
 目標を定めそれに向かって適切な方法論を検討し、実現に向かって努力する。そのこと自体は全く結構なことです。しかしこのフォーラムの画像を見てみるに、目標設定にもその達成手段についても、合理的な説明が全くといっていいほどされておらず、ただただ自分たちの熱意を絶叫と号泣と共に連呼していく姿ばかりがどこまでも続いていくのです。
 「宗教的」とでもその熱狂は形容すべきなのでしょうか。小生は見ていて辛くなり、屡々鑑賞を中断せざるを得ませんでした。正直言ってアムウェイよりきつかったです。社会的には、在庫を抱え込んで経済的に困窮する危険性があり、周囲との人間関係を破壊する恐れのある、マルチまがいのアムウェイの方が危険なはずなんですけどね。

 で、アムウェイに比べてレインズの「パートナーズフォーラム」が持つ嫌な感じを考えるに、アムは個々の構成員は個人事業主(ディストリビューター)として位置づけられるのに対し、レインズのそれは店舗単位の集団で行動しているからではないかと思い至りました。
 先ほど紹介した「うえのはるきのほめぱげ」に、アムウェイに勧誘されて入った暴走族が儲からないことに気がついて辞めてしまう話があります。アムの場合、こうして脱落した人間は脱落なかった人々から「成功という夢への道を諦めた落伍者」と馬鹿にされるでしょうが(はたから見てどっちが馬鹿かは別として)、とにかく、辞めて損切りをすることはある程度可能です。
 で、レインズの場合は如何、と考えるに、「パートナーズフォーラム」DVDを見ていると、舞台上でプレゼンをする店舗の人々のプレゼン前・後の姿が納められているのですが、プレゼン前にはスクラムを組んで気勢をあげ、後には抱き合って涙を流しています。プレゼン中では店舗のアルバイトたちの「一致団結」「仲間と共に」という言葉が連呼されます(で、DVDの演出は思いっきり『プロジェクトX』調)。
 もちろんアムウェイの方も、定期的にミーティングを開いて「成功」の魅力を注入し、脱落者が出にくいようにしていることは事実です。ただアムはマルチまがい商法というその性格上、人間関係のつながりが垂直的に編成されるのに対し、レインズの場合は店舗という形で水平的に編成されるという相違点があり、そこがおそらく集団への依存心をより強いものにしているのではないかと思います。

 あともう一つ、プレゼンする人々が「お金のために働くのではない!」と強調し、仲間との連隊と目標達成によって得られた人間的成長、のようなことを矢鱈と強調するのを見ていると、これも以前に書いたことと同じですが、新興宗教や自己啓発を連想させるような手法で従業員の精神を動員し、彼らの労働力を賃金水準以上に搾取する戦術という側面があるのであろうと思います。これが、そういった戦術である、という認識のもとに行われているのか、行っている経営陣もこの方法に自ら酔いしれているのかそこら辺は分かりませんが。
 こうなると、あまりにベタすぎて失笑が漏れてくるとはいえ、物質的な「成功」を目標に含んでいるアムウェイの方が、ある意味「まとも」に見えてくるような気さえします。アメリカ的個人主義、なのでしょうか(Amwayは American way の略)。もっともレインズ・レックスの創始者・経営者である西山氏は、以前の記事(こちらこちら)で紹介した小冊子によると、マクドナルドでの就業経験で現在の外食産業という事業に目覚めたらしいので、或いはアメリカ的経営術もレインズの方針に影響しているのかもしれませんが。しかしだとすると、アメリカと日本の悪いところを掛け合わせたような・・・なんてね。

 でまあ、こんなことばかり考えていても鬱々とするばかりですので、DVDを見ながら考えたヨタ話が以下。
 店長(社員)が中心となって店員(バイト)を団結させ、ライバルたちを倒して日本一(世界一)に輝く・・・というストーリーは、まんまゲーム化できるんじゃないか、と考えたのであります。で、飲食店経営をゲームにするなら、ここはやっぱ美少女+可愛い制服路線で行けばいいのではないかと(笑)。これはいわば「調教」ゲームです。しかりありきたりなSM系調教ゲームではありません。そういう調教ではご主人様と奴隷の二人きりの世界をとことん突き詰めるのが普通ですが、この場合は店舗経営の効率化のために洗脳するという点が加わり、複数の店員間の団結を図らせねばならないという点がより複雑なマネジメントを要求します。しかもこれと必ずしも両立しない、特定の女の子と仲良くなるという個人的目的をも同時に追い求めるとなると、ますます面白くなるでしょう。
 というわけで、『Pia! キャロットへようこそ』とか『ショコラ』とかの続篇を作る際に、「パートナーズフォーラム」を参考にしては如何、と思ったのでありました。すべての目標を上手く同時に達成させると、「パートナーズフォーラム」で満場の聴衆を前に女の子に告白してもらえる、とか。
 いやまあ、小生が知らないだけで、既にこういうの実際あるのかもしれませんが。昔酒井シズエ翁もこんなネタやっておられますし。

 と、一見下らないこと(いや本当に下らないことだけど)を考えたわけですが、しかし自分がオーナーならともかく、チェーン店の一店舗の場合店長の裁量でメニューを増やしたりするようなことはやりにくそうで、ゲーム的に言えば「いじれるパラメータ」が店員の時給の他には士気くらいしかない、ということがあるのかなあと思っても見たりするわけです。
 そしてまた、「パートナーズフォーラム」を見てこういうネタをすぐ思いついてしまうほど、いわば熱血少年漫画的世界を地でやっているということの可笑しくも物悲しき状況について、現実とフィクションの区別がついていないのは一体誰なのかと思ったりもするのでした。

※この駄文作成中繋いでいた音楽
※リンク切れに付画像差し替え


※追記:その後レックスホールディングスの事業は解体され、am/pm はファミリーマートに吸収されて商標は消滅し、成城石井は三菱系のファンドに譲渡されました。同社自体も居酒屋などを経営するコロワイド社に買収され、その子会社となってしまっています。
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by bokukoui | 2006-12-11 23:58 | 時事漫言