カテゴリ:時事漫言( 46 )

MaIDERiA出版局更新・その他小ネタなど

 昨日の記事で宣言したとおり、MaIDERiA出版局の記事を更新しました。何とか月に一回の更新は維持できました(苦笑)。
 更新した記事は「げんいけん」こと現代文化遺跡研究会の記事です。お題は「豊島界隈そぞろ歩き~早すぎた先駆者ブリジットを悼む・メイド超特急~」で、2003年の大塚にあったメイド喫茶・ブリジットの思い出話と、その他池袋附近の散策の結果をまとまたものです。そこそこ真面目に書いていますが、「超特急」という言葉にピンときた方にはまた別個の面白さがある、かも知れません。
 帝国メイド倶楽部での出展予定については、MaIDERiAの掲示板に書いておきましたが、基本的にペーパー以外の新作は渡辺プロデューサーが今回担当していただけることとなりました。同人誌の在庫状況については、オフセット印刷の『英国絵入諷刺雑誌「パンチ」メイドさん的画像コレクション1891~1900』の在庫がそろそろ尽きる可能性があります。再販については全く未定で、夏コミに向け第2版という案もなくはないのですが、とりあえずご関心のある方は帝国メイド倶楽部でお求めいただけると安心かと(なんかテレビ通販みたいな・・・)。

 以下小ネタ。
 数日前の日経新聞夕刊のコラムで、ヒトラーの誕生日である4月20日前後はネオナチが活発化して外国人を襲撃するため、食糧を買い込んでアパートに篭城していた、という日本人記者(?)の体験談が掲載されていました。なんでもインド人が襲われて重傷を負ったという穏やかならざる事件も報告されていました。今日4月30日は総統閣下の命日ですので、やっぱりネオナチどもが暴れていた公算は高そうです。
 で、これはドイツ・・・の話ではなく、なんとロシアのことなのです。サンクト・ペテルブルクやモスクワで起きている事件なのだそうで。この報告者は、ロシアの資本主義への移行で生み出された社会的不満が、若年層の場合ネオナチという形で外国人(日本人とかインド人とか、要するに非白人の)を襲撃するという事態になっており、弱者が弱者を襲うという哀しい状況であると指摘しており、それは確かにそうだと思いますが、この報告者は筆者がもっとも不審に思ったことの答えを書いてくれていません。
 ナチスは第2次大戦で、ソ連の人民(とは、その少なからぬ部分がロシア人)を2000万人だか2500万人だか死なせた主犯だと思うんですが・・・人数だけならユダヤ人より多いわけで(犠牲者の人口比は別として)。なんでナチスに劣等民族扱いされていたロシア人がネオナチになる?(某東洋の国も当時は同盟を結んでいたけど、それは別問題)
 ロシアの歴史教育がどうなっているのか疑わしいのですが、しかし今20代の連中がこのネオナチの主力とすると、彼らは小学校くらいまでソ連だったのかな? となるとその時点まではソ連万歳・ロシアマンセー・ナチを打破した偉い国、てな教育を受けていたはずなんですけど、社会ががらっと変ったので、教育の説得力が全く消えちゃったのでしょうか。

 そしてもう一つ。
 小生が教育談義に一区切りつけたことにあてつけるように(?)、かの戸塚ヨットスクールの校長が29日釈放された由。相変わらず「体罰は教育」と公言した由で。
 教育談義は一区切りつけたので今更書くのもなんですが、一つだけ。
 『ニートって言うな!』の中で内藤朝雄氏が、最近の教育を巡る言説、殊にニートやひきこもりへの「教育」から、若年層を軍隊や矯正収容所のようなところにぶち込んで「教育」してやりたい、という怨念の存在を指摘しておられました。戸塚校長もまたこの手の「暴力装置=教育」論者の例(もっとも極端な)と見做せるでしょう。
 で、無理やりぶち込んで再教育、ってそれを目的にしている最大手組織は刑務所ですね(笑)。軍隊は戦争に勝つ手段として教育してるのであって、それ自体が目的ではないはずなので(一応は)。しかし刑務所的矯正の限界というものを、戸塚校長は身を以って釈放第一声でお示しになられたのではないかと思うのであります。
[PR]

by bokukoui | 2006-04-30 23:46 | 時事漫言

当てもなく教育について語ろうとする・さらに続き「熱血教師」考

 数日来書くといっていた内容です。

 話の取っ掛かりに苦慮していたのですが、渡辺プロデューサーと大学時代のお知り合いであったというLenazo氏が、ブログでこのような記事を書いておられますし、あるいは先日触れた『「ニート」って言うな!』における、佐世保の事件に触発されて製作されたというNHKスペシャル『子どもが見えない』なる番組への批判(pp.147-150、内藤朝雄氏執筆箇所)も手がかりになろうかと思います。少々長くなりますが、後者の記事を一部引用します。
 実際に放映された番組をみて、仰天しました。番組では、相変わらず青少年の凶悪化を自明の前提にし、子どもたちの一般的な傾向と、代表性がゼロに等しい佐世保の殺人事件の衝撃を短絡的に結びつけ、「近頃のおかしくなった子どもたち一般」に対する疑惑と不安を煽っていたからです。
 そして発言者たちの人選というのが、また非常に偏ったもので、犯罪社会学者や統計を知っている人が全く入っていませんでした。
 主要発言者は、一人の作家(重松清氏)を除けば、問題を抱えた青少年に対し「熱血でやっています」という傑出したパフォーマンス(をマス・メディアに売ること)によって「世に出た」著名人たちでした。不安を煽るようなVTRの後で、「それではどうしたらよいか」というトピックに入ると、発言者たちは自分の「いっしょうけんめい」を披露します。製作側は彼らの語りに続けて、美談エピソードをはめ込みます。そして、この傑出した人たちのように「いっしょうけんめい」子どもに接すれば事態はよくなる、というお手本のメッセージが放たれます。もちろん犯罪統計は無視されています。(中略)
 視聴者の側は、傑出人にしかできないことを「こういう風にすればいいのだよ」と示されると、ますます不安感を煽られます。(中略)これはマス・メディアの煽り方の典型的な例だと思います。
 示唆に富む箇所ですが、ここから話を発展させていきましょう。

 今回考えてみたいのは、こういった場面でみられる、いわゆる「熱血」な教育ということについてです。
 「熱血」の定義というのは相当に難しいですが、なるべく最大公約数にまとめれば、自己が正しいことを強く確信し、その自己の抱く理念を他者へ説得するに当たり、論理性よりも感情・情緒を重視した説得行動を行う、ということが、一応の目安にはなろうかと思います。初手から否定的な定義を作っておいてなんですが、このような強い信念を持った人物がその場のイニシアティヴを取り、状況を自らが理想と望む方向へ引っ張っていくことは少なくないように思われますし、ことに「教育」という場においては、教育者はそのような行動を起こしやすい(また引っ張ることが適当だと思われる)立場におかれており、また被教育者は引っ張られやすい(また従っていくべきだと思われる)立場にあるといえ、このような「熱血」状況を惹起させやすい環境であると考えられます。

 「教育」というものが持つ、教育者が被教育者に対し占める地位ゆえの問題点は、前掲『ニートって言うな!』第2部の第4節~第5節辺りで縷説されています。教育という営為については、そのような問題点を認識しつつ、成果を最大化し弊害をなるべく抑えるようにすることが望ましいわけです。しかし、「熱血」的振舞いは、教育の持たざるを得ないそのような問題点を看過してしまうことになります。
 結果として引っ張られたことにより、教育が一定の成果を挙げたように見える状況はありえるでしょう。しかし、このような限界を承知していない「熱血」教育行動は、同時に上掲Lenazo氏ブログに引用されているNPO団体のような弊害(これは流石に極端な例であるとは思われますが)を引き起こす公算もまた大きく、さらに問題なのは、このような弊害を弊害として認識し得なくなってしまう危険性もまた高いということです。それどころか、これが「美談」にすらなってしまうのです。

 このような事態を引き起こす原因として、「熱血」を支える自信(一定はないとそれはそれで困ることはもちろんですが)が自己陶酔・自己絶対化を招くことが考えられ、さらに彼もしくは彼女が場のイニシアティヴを握る能力に長けていると、この自己陶酔・自己絶対にその場にいる他者を巻き込んでしまう、そのようにまとめることができようかと思います。

 相変わらずグダグダで申し訳ない。もうちょっとこのテーマ、続けます。なかなか終わらないな。次はもうちょっとすっきり論理展開させるようにします。
[PR]

by bokukoui | 2006-04-23 23:58 | 時事漫言

今日も思いつくまま・当てもなく教育について語ろうとする

 以前に村上ファンドが阪神株を手放すという情報で下らぬ憶測記事を書きましたが、結局は阪急が引き取るという話がここ数日出ています。阪急単独で全部引き取れるのか疑問の余地は大きいですが、どの私鉄が引き取るかという点では妥当な話でしょう。やはり岩下清周は正しかった?

 それはともかく、少し前に教育について何か書こうとして挫折しましたが、もしかするとそこで語りたかったことに繋がるかもしれないコラムを日経新聞本日の夕刊に発見。それは金田一秀穂氏の「にほんごチェック」という記事です。表題は「『〇〇力』安直な造語飛び交う」。ちょっと引用してみましょう。
 「力(りょく)」は今一番はやっている造語成分といってよさそうだが、なんでもかんでも、力をつければいいというものではなかろうとおもう。
 少し前に、老人力ということばを赤瀬川原平氏が発明した。老人特有のゆっくりさ加減、力の抜け具合を表したことばで、マイナスの力のようなものであった。そこでの力というのは、決して強いものではなく、それをあえて「力」と言い当てたところに、センスのよさがうかがえた。しかし、昨今の「力」には、その洗練が見られない。
 なるほど、言われてみれば最初は赤瀬川原平氏だったかも。「力」とは通常決して見做されないものを敢えて「力」と呼ぶところにセンスがあると金田一氏は指摘し、しかし最近のにはそれが欠けていると批判、「(最近の「力」は)何らかの積極的な価値のことであり、力さえあればいいだろうという安直な思想が見え隠れする」とまとめています。
 この手の安直な「力」の最高峰に「人間力」が位置します(アマゾンのカテゴリ「和書」で「人間力」と入れて検索し、発売年月日順に並べてみるとなかなか楽しいです。どうも教育現場で生み出されたらしい言葉が、加藤諦三センセイや船井幸雄大センセイあたりによってビジネス界に導入され、ゴキブリのように繁殖していく過程を見て取ることができます)が、ともあれ、この手の安易な「力」使いを流行らせたのは、まず間違いなく齋藤孝でしょう。
 アマゾンで彼が本のタイトルに使っている「〇〇力」という言葉を調べると、「作文力」「質問力」「国語力」「少年力」「日本語力」「コメント力」「潜在力」「集中力」「眼力」「英語力」「段取り力」「読書力」・・・他に「~チカラ」なんてのも幾つかありましたが、これだけ書いていればこいつが安易な「力」をはやらせた張本人である可能性はかなり高いでしょうな。齋藤の著作に「体育会系的な明朗さと健康至上主義」を日本文学の研究者・坪井秀人氏が指摘したと、香山リカの本に書いてあったけど、齋藤の言説の背後にあるのが「力さえあればいいだろうという安直な思想」であることは、かなり確かなのではないかと思います。
 さて、話はここから本題に入りますが、今日はこれ以上考えていないので続きは明日。
[PR]

by bokukoui | 2006-04-18 23:59 | 時事漫言

鯨にぶつかる話

 昨日・一昨日の調子で書いていると流石に身が持たないので本日は時事的な話題に関連して簡単に。

 種子島~鹿児島の高速船が鯨にぶつかったらしい事故を起こし、百名以上の負傷者が出た由です。死者が出なかっただけ不幸中の幸いという感ですが、高速船だけに衝突時の衝撃は相当なものであったようです。
 小生も数年前に同じ航路の高速船に乗りました。桜島の前を航行していたとき、雨上がりで島に虹がかかっていたのを覚えています。結構早かったけど揺れたなあ。あと運賃が飛行機より高かったのには驚いた(もっともその飛行機代は、早朝の便だったので半額割引というやつだったけど)。

 実は、高速船が鯨とぶつかる事故というのは結構起きているそうです。といって対策もなかなか難しいようで、鯨よけの音波を出して航行しているそうですが、効果の程は不明とか。
 で、この事故の話を聞いて思い出したのが、毎度おなじみ山田貴敏『アクシデンツ』の3巻に収められている「クジラと鯨」というお話。まんま、高速船と鯨の話です。
 もっともこれは単純に鯨とぶつかるのではなくて、「鯨との遭遇率90%」を誇るホエールウォッチング兼連絡船が何かにぶつかり、それが鯨なのか流木なのかで大激論、というお話なんですけど・・・それにしても、いろいろ先駆的で優れた漫画だったんだなあ。やっぱアニメ化しかない。実写化もよし・・・でも制作費はかかりそうですな。
[PR]

by bokukoui | 2006-04-10 22:52 | 時事漫言

「やつら」と「わたしたち」

 高校生の時分だったか、国語で長田弘の「『敵』という名の怪獣」という話を読まされました。その頃は余りその意味が良く分かりませんでしたが、今はいくらか判るような気がします。

 で、奈良県でこんな条例が可決された由。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/060310.html
 この記事では「案」ですが、通っちまったそうです。
 そのことをニュースで聞いて、冒頭に書いたようなことを思いました。

 当ブログ読者の方に多いであろういわゆる「オタク」方面の方と密接に関連する条項を挙げるならば、18歳未満の者が「正当な理由がなく、有害図書類(奈良県青少年の健全育成に関する条例第21条第1項の規定により指定された図書類又は同条第2項の規定に該当する図書類をいう。以下同じ。)及び有害がん具刃物類(同条例第22条第1項の規定により指定されたがん具刃物類をいう。以下同じ。)を所持する行為」が「不良行為」に含まれている模様です(ネット上で見つけたのは2月20日時点の案なので、可決されたものとは異なっているかもしれません)。「正当な理由」って何なんでしょうね。
 そして、この条例の第4条には(同上)、「県民(少年を除く。)は、不良行為少年を発見したときは、当該少年にその行為を止めさせるため必要な注意、助言又は指導を行うとともに、必要に応じ、保護者、学校(学校教育法第1条に規定するものをいう。以下同じ。)の管理者又は職員(以下「学校関係者」という。)、警察職員その他少年の保護に関する職務を行う者に通報するよう努めるものとする。」のだそうでございます。
 松文館事件を想起せずにはおられません。あの事件は、息子がエロマンガを持っていることに気が付いた親が、何をトチ狂ったか、平沢勝栄に通報して漫画家と出版社を逮捕させた事件でした。そんなこと家庭内で解決しろと思わずにはいられませんが、条例の文面からすれば、奈良県ではこのような行動が推奨されることになるのでしょうか。

 さて、数日前に書いた記事のコメント欄でのたんび氏のご指摘と本件の問題構造は通底するような面があるのではないかと思われます。それは、世の中の様々な問題は、清く正しく暮らしている自分とは関係ない「やつら」が外部から襲ってくるために起こってくるのであり、自分は正統性をもって「やつら」を批難することが可能で、かつ「やつら」を排除すれば問題は解決すると考えてしまいがちな心理状況が少なからず存在する、ということです。
 考えてみれば、「オタク」もその心理状況下で「やつら」として排除される存在の有力候補ですね。最近いろいろと話題になったお蔭で、あまりそのような目に合わなくて済む(そのような振舞いをする輩がいた場合、少なくともネット社会では逆に徹底的に攻撃される)ようになって慶賀の至りですが、その一方で「オタク」の持っていた「何か」が失われたような気がしなくもありません。そこまでして掴むほどの地位だったのか、どうか。

 まあとにかく、陰謀論とかにはまらないようにしよう、というのが本稿の趣旨な訳ですが、言うは易く行なうは難し。自分にとって嫌いな「やつら」(嫌韓厨の心理とかはこれかな?)、何をやってるんだか分からんような「やつら」(宗教関連とかが例でしょうか)、何かキモいことやってるような感じの「やつら」(同性愛者差別とかこれですね。やおいも入るのか?)に対してもそう言えるかどうか、「DQN」「珍走団」「学会員」とかを代入して思考実験することにします。仲良くする必要はさらさらありませんが、別段いちいち宣戦布告する必要も必ずしもないだろうし、そういう攻撃的な行動は、最後は自分の首を絞めるはずだからです。
[PR]

by bokukoui | 2006-03-24 23:57 | 時事漫言

ニアミス事故の判決に思う

 表題の件について、月曜日の話ですが、管制官に無罪の判決が下りました。
 交通に関し人より多少の興味を持っている身としては、この判決には関心を抱かざるを得ませんでした。
 率直な感想としては、まことに妥当な判決であり、事故に関する司法の判断もやっとここまで来たかと思いました。交通のような高度で複雑なシステムの場合、現場の人間の能力に多くを負わせるのは不合理だと考えます。しかるに今までの日本の事故の事後処理では、現場の担当者の刑事責任を問うばかりで、その背後のシステムの問題を見据えた判断は少なかったように思われます(航空事故の文献などを読む限りでは)。その点、今回の判決は進歩といえるでしょう。検察が控訴しなければいいのですが。

 と思っていたら、日経新聞の21日付朝刊のこの判決を報じた記事に、白鴎大学法科大学院の土本武司教授が以下のようなコメントを寄せていました。
「事故の根本原因を作ったのが便名取り違えである以上、管制官の過失責任は認めるべきだ。負傷者を出した事故に誰も責任を負わないという結論で国民は納得するだろうか」(強調引用者)
 ・・・。事故の処理の至上課題は、原因を究明して二度とその事故を起こさないようにすることであるはずです。誰かの責任を問うのはその後の課題に過ぎません。そして既に述べたように、交通のような大規模で複雑なシステムの場合、現場の人間の責任のみで事故の原因の究明になるほど簡単な場合は決して多くないように思います。
 なにより、人間はミスをする存在です(と、この記事にコメントを寄せていた航空工学者加藤寛一郎氏も指摘しておりました)。その点を踏まえたシステム作りをせず、現場の人間の能力(ミスが起こりうる)に多くを依存して、それでいて事故の責任も押し付けるというのは、不合理でしょう。それは事故の解明をむしろ阻害してきたと考えられますし、昨年の尼崎にける鉄道事故の遠因もそこに求められるでしょう。
 この法学者の言い草は、事故の究明よりも「国民を納得」させるために誰かに責任を取らせることに重きを置いているように読み取れます。それは――極論すれば――生贄を差し出してまじないをするような、見当違いの行為のように思われてなりません。法律家とはこのような考え方をするものなのでしょうか。
 ・・・納得しない国民が悪いのか? ひとつみんなで『アクシデンツ』を読むとかどうでしょう。いっそドラマ化とか映画化とか。
[PR]

by bokukoui | 2006-03-21 23:58 | 時事漫言