カテゴリ:鉄道(歴史方面)( 67 )

「取手の鉄道交通展」と小池滋先生の講演の話

 何事も思うに任せず遅れがちなことばかりですが、この記事も遅ればせながら先週訪れた、展示と講演会のお話を簡単に。「取手市埋蔵文化財センターで鉄道交通展&小池滋先生講演会」の記事で紹介した、展示と講演会に行ってきた件です。

 この見学の企画は、小生のブログを読んで下さった友人2名が同道を申し出て下さいましたが、それは毎度お馴染み憑かれた大学隠棲氏と、先日の「統一協会が秋葉原でデモ行進 『児童ポルノ規制強化』を訴える」の記事に写真をご提供下さった、やm氏のお二方です。
 で、小生がぐずぐずしているうちに、憑かれた大学隠棲氏が先にレポートをアップされ、しかも取手駅前の商業施設事情まで触れておりますので、ご関心のある方は是非どうぞ。

 ・障害報告@webry「ここは酷い虫の息取手駅ですね」

 で、小生が取手まで出掛けようと思ったのは、この展示会に筑波高速度電気鉄道の資料もあるらしいと聞いたからで、個人的な事情ですが、今修正再投稿準備中の論文の中でこの鉄道の話もちょいと書いたので、いささか関心があったためです。
 この鉄道は、現在のつくばエクスプレスに似たコースで東京~筑波間を結ぶ構想でしたが、路線敷設の免許を得たものの、茨城県の柿岡にある地磁気観測所に悪影響を及ぼすという理由から直流電化が出来ず、また資金調達も出来ずに、建設が行き詰まっていました。そこで免許だけでもどこかの鉄道に売りつけようと、まず東武へ持ち込んだものの断られ、そこで京成へ話を持ちかけたところ、当時経営の中心だったという専務・後藤国彦の決断により同社が引き受けることになりました。後藤国彦については当ブログでもかつて、「京成電鉄創立百周年記念企画」(1)(2)(3)(4)と題して、知られざる後藤没後の京成のドタバタを史料から紹介しました。
 で、当時京成は、ターミナルが隅田川東岸の押上で、都心へのターミナル延伸を狙っていましたが、押上から隅田川を越えての浅草乗り入れを実現しようと東京市議会に金をばらまいて一大疑獄事件を引き起こしてしまい、結局東武に先を越され、実現には至りませんでした。そこで代わりに筑波高速度電気鉄道を買収し、その免許を利用して、上野への乗り入れを図ったのです。筑波高速度には松戸に至る支線も計画されており、それを利用して現在の京成上野~日暮里~青砥間が建設されました。

 てな話は今までにも鉄道史の記述で取り上げられています。ところで、この筑波高速度買収を決意したという後藤国彦はのち社長にもなり、自動車や不動産業など、電鉄お約束の多角化経営を京成で推進したといわれます。実際、1935年頃から京成の不動産事業の利益は急速に拡大し、バスをしのいで全利益の1割くらいを占めるに至ります(当時、京成の利益の約6割が電車で、25%前後が電力供給業でした)。
 ところが京成の不動産資産を営業報告書に見ると、妙なことに、財産項目の「土地」「建物」の他に、谷津遊園と埋立地関係の項目があるのは分かるのですが、更に「千住経営土地」という独立した項目があり、それが京成の不動産資産のおよそ6割を占めているものと推測されます。「千住土地経営」の項目は京成が筑波高速度を合併した時から登場していますが、京成の社史によると、筑波高速度が用地買収にかかったところ、千住で「某紡績工場所有の広大な土地」を一括して買わされる羽目になり、かくて同社の資金繰りも悪化した旨の記述があります。つまり、京成の不動産資産の過半は、筑波高速度合併のおまけだったのです。
 結局、後藤国彦の多角化に於いて、不動産業はあまり重視されておらず(当時の経済誌のインタビューにはそのような後藤の発言がある)、ただ上野乗り入れ免許のために買収したら千住の土地が6万2千坪ほどおまけでついてきたので、それは適宜売却した、ということなんじゃないか、と小生は考えるに至っております。

 話が逸れまくりなので戻します。
 両氏と常磐線車内で無事合流し、ボックスシートに並んで座り揃って土足のまま足を向かいのシートに投げ出して爆睡しているケバいねーちゃん達の姿に「はるけくも茨城に来つるものかな」と旅情を感じつつ、取手に着きます。講演会が始まる少し前に展示会場に着き、一通り見てから講演会を聞くつもりでした。
 で、展示会場の取手市埋蔵文化財センターが駅から離れており、バスもあるけど風が強くて待つのが寒く、3人いるし、とタクシーに乗り込みました。が、運転手氏に「埋文センター」と言っても知らぬ様子。最寄りのバス停の名前から見当を付けて行ってみるも見つからず、そろそろ附近だろうと車を止めて歩いているおばちゃんに声をかけて聞いてみれば、

 「わたしも講演会に行くんです」

 この展開に3人ともずっこけました。
 ようよう別の人に聞いて辿り着きましたが、ここで痛恨のミスが発覚。なんと講演会は市役所の隣のホールが会場で、埋文センターではなかったのです。ううう。さっきのおばちゃんはじめ、同様の誤認者数名。もう時間がない。
 仕方ないので、急ぎ展示を見て再度タクシーで市役所に向かうこととします。お目当ての筑波高速度の史料ですが、鉄道建設と同時に沿線での土地開発が目論まれていたらしく、その広告がありました。とはいえそれは千住ではなく、柏付近で計画されていたものでした。「郊外の土地は値上がりしているから将来有望!」みたいな煽り文句と地価のグラフが添えられていますが、戦前の住宅開発としては都心から遠すぎる感もあります。小田急の林間都市もちっとも売れなかったし。煽り文句と付き合わせると、居住より投機目的の開発計画かとも思われます。

 そんなこんなで慌ただしく見て、再度タクシーで市役所へ。今度は裏道を駆使して最短ルートで到着したらしく、幸い90分の講演の、最初の10分程を遅れただけで済みました。

 講演会場には6、70人くらい入っていたでしょうか、結構賑わっていた印象です。講演は「鉄道とミステリー小説」とのお題で、ミステリーのマニアにとっては周知のことなのかも知れませんが、なかなか面白く拝聴しました。鉄道はミステリー小説の舞台として多く用いられたそうですが、その理由には大きく二つあり、欧州では客車がコンパートメントになっていて走行中の移動が出来ず、いわば密室となっていたからで、もう一つは鉄道ダイヤを利用したアリバイ作りです。で、欧州のミステリーは前者の理由によるものが多い一方、日本では後者が有力なのは、日本ではコンパートメント式の客車は一般的にならず、また日本のようにダイヤが正確な国でないと鉄道によるアリバイ工作の真実味がないから、というわけでした。
 で、コンパートメントでない日本の鉄道で密室殺人をやろうと思ったら、トイレか乗務員室に閉じこもるしかない、という話をされ、トイレを舞台にした作品の例として小林信彦「<降りられんと急行>の殺人」(『神野推理氏の華麗な冒険』所収)を挙げられました(厳密にはトイレで密室殺人、って訳じゃないんですが)。本作(を含むシリーズ)は、タイトルからも分かるように、ミステリーのバーレスク(パロディ)作品集ですが、あんまり小説を読まない小生も珍しく読んだことのある作品で、結構気に入っているので何となく嬉しくなりました。
 余談ですが、小林信彦は「<降りられんと急行>の殺人」のトリックが気に入ったのか、続篇の『超人探偵』の中の一編でも使っています。今度はブルートレイン「はやぶさ」のA寝台個室で殺人未遂事件が起こるのですが、それはそれとして、個人的には『超人探偵』の中に収められている「ヨコハマ1958」が印象に残っており、小生の狭い読書の範囲中ではありますが、鉄道を絡めたミステリーとして出色の一編と思います。路面電車と根岸線が思いがけない使われ方をするのですが、ミステリーとして厳密に考えると怪しくもあるものの、横浜市民の端くれとしては何とも鮮烈な読後感を覚えた一編でした。

 閑話休題、鉄道ミステリーの日本における祖は松本清張ではなく戦前の蒼井雄『船富家の惨劇』であって、紀勢本線直通の「黒潮号」が出てくるだとか、鮎川哲也の鉄道の考証はいい加減だったとか、豊富な話題の中でも、地元の取手の聴衆に配慮して、常磐線が舞台となった作品を紹介するなど、小池先生のサービス精神にも大いに感銘を受けました。鉄道もミステリーもマニアが繁殖しやすい分野ですが(笑)、その両分野に跨って、一般の聴衆も楽しめるように纏められたところに小池先生の真骨頂を感じました。何よりお元気に講演をされていたことに安心しました。
 講演終了後、ご挨拶して退出。利根川の渡し船を見に行く案もありましたが、遅いし風が強いしで今回は見送り、関東鉄道で取手に戻って遅い昼食とします。その食事をしたビルのさびれっぷりについては上掲憑かれた大学隠棲氏のブログ参照。いやあ、本当に閉鎖予定だったんですね・・・最上階の中華屋は、味に特筆するところはありませんが、架け替え工事中の常磐線の利根川橋梁を一望できるので、鉄道趣味者の食事にはいいかもと思います。
 なお食事の席上、この日初対面だった憑かれた大学隠棲氏とやm氏(小生の別方面の知己だったので)ですが、すっかり電波な話で盛り上がって意気投合してたのは有り難いことでした。あ、電波な話ってのは、地上デジタル放送時代にどう受信・視聴するべきかという話で、怪しい話ではありません(笑)

 以上、日帰りの見学でしたが、タクシーでかけずり回ってくたびれたことに鑑み(苦笑)、「旅行記」のタグを附しておきます。
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by bokukoui | 2010-04-03 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)

天理ギャラリー展示略感~汽車の窓から釜を投げないで下さい

 今月は寒さがぶり返したせいなのか、全く何事も思うに任せず、半日はだるさでへばっているような毎日で、僅かに残った体力も予備校バイトの春期講習に吸い取られてしまいました。そんなわけで肝心の研究が進まず、しかし用事が不良在庫をなし、ますます心身共に懈くなる有様です。ブログの方もそんなわけで、途中まで書きかけていた記事「松田裕之『ドレスを着た電信士 マ・カイリー』略感」「『統一協会が秋葉原でデモ行進』に関連して纏まらぬ思い付き雑彙」も月末になって漸く完成した体たらくです。出来栄えは・・・前者はそこそこと思いますが、後者は書いた当人も・・・?

 それはともかく、書こうと思って溜まっている記事もいくつもあり、とりあえず月内に一つ急いで片付けます。それは一月程前に「【備忘】『鉄道旅行の味わい 食堂車メニューと駅弁ラベルに見る旅の食文化』」と題して紹介した、天理ギャラリーの第139回展「鉄道旅行の味わい―食堂車メニューと駅弁ラベルに見る旅の食文化―」を見に行った件です。

 結論を先に書いておくと、数的にはそれほどの展示でもありませんが、面白いことは面白いし、何よりタダとあれば、近くまで行く用のある人は見る価値があるでしょう。今週の土曜日までですので、お急ぎ下さい。感心したのは、図録というか展示品解説の小冊子が結構よくできており、しかも天理ギャラリーが過去行った鉄道関連の展示会のそれも合わせた「鉄道関係図録小冊子詰め合わせパック」とかも販売所に用意されていて、なかなか行き届いていることです。
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天理ギャラリー・鉄道関係冊子詰め合わせと今回の図録
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 展示品は食堂車関係(メニューや領収証、ビラなど)と駅弁関係(古今東西の駅弁ラベル)からなっておりまして、それはそれで楽しめますが、個人的に一番関心があったのは、天理教の博物館が何でこんなものを「交通文化資料」などとして集めているのか? ということでした。民俗資料などを集めるのであれば、何となく納得できるのですが。最初は、天理臨で全国からやってきた臨時列車の中から集めたのかと思いました(笑)。
 ちなみに天理臨とは、天理教の祭典に参拝する信者を全国から運ぶための臨時列車群のことで、いまは大部分観光バスになってしまっていますが、往時は西の天理臨・東の創価臨といえば相当な本数が運転されたもので、その受け入れのため桜井線天理駅には長いホームが幾面も設けられています。普段は2両編成の電車とかしか来ないのですが。

 で、天理ギャラリーには学芸員の方によるギャラリートークの日を狙って行ったのですが、学芸員の方の説明を聞いてその理由が分かりました。これは、戦前以来の切符の大コレクターだった山本不二男という方のコレクションを受け容れたものなのだそうです。山本氏は既に戦前、そのコレクションを大阪市に寄贈しようか考えたそうですが、当時の大阪市長・関一にまだ当分は自分で集めた方が良いと忠告され、結局戦後になって天理参考館が、山本氏のコレクションを受け入れるだけでなく今後も収集をすること、整理の嘱託に山本氏を迎えるという条件で引き継いだのだとか。
 そんな次第で天理参考館には何万点もの(数は伺ったのですが失念)鉄道関係の資料が所蔵されており、しかもその数は年々増えているそうです。ちゃんとこの分野担当の学芸員の方もおられ、整理を進めているそうですが、数が多くてなかなか大変だそうです。鉄道関連の文書資料もあるらしく、ひろく一般の閲覧に供されるよう、整理が進むことを祈念します。
 ちなみに切符などのコレクションは、元々の山本氏のそれは台紙に糊でべったり貼り付けて保存管理していました。そのため今回の展示も、台紙もろとも展示されておりました。ちょっと面白いのは、戦前既にコレクターとして名を馳せていた山本氏は展示会などに資料貸与を求められることも多く、その際貸し賃代わりに台紙を作ってもらって保存に使っていたそうです。ので、今回展示されている資料の台紙にも、何とか博覧会記念・何とか交通局、というような(確か熊本だったけかな?)借りた機関の名前が入っていたりしました。
 台紙に糊で貼っていると聞くと、糊が劣化したり変質して資料に悪影響を及ぼさないか心配になりますが、何でも和糊を使っていて、これは粘着力が弱って剥がれることはたまにあるものの、資料を傷めることはないそうです。

 とまあ、展示品より「天理教が何でこんなの持ってるの?」という疑問とその解明が印象に残った展示でした。とはいえそれでは本末転倒なので少々内容に触れますと、一番印象に残ったのは信越本線横川駅の「峠の釜めし」の、昔の包装紙でした。おぎのやの釜飯といえば駅弁業界最大手といっても過言ではない有名駅弁、ご存じの方も多いと思います。それのどこが印象に残ったかって? それは、こんな言葉が印刷してあったからです。

  「お願い
    危険ですから窓から釜を投げずに
    屑物入又は腰掛けの下にお捨て下さい」


 ・・・。小なりとはいえ釜飯の釜は陶器ですから、それなりに重さも強度もあります。これを走行中の列車の窓から放り投げて、万一沿道の人に当たったりしたら命に関わりますね。マナー以前に危険です。
 以前当ブログでは、鉄道と衛生・ゴミ捨てを巡る話題を何回か取り上げ(「鉄道の話題」「鉄道の話(主として衛生に関する話)続き」「鉄道と衛生の話・補足」)、昔は鷹揚というか、衛生に関する水準が低くマナーもそれ相応だったということを紹介しましたが、安全についても似た傾向があったのかも知れません。ちなみにこの包装紙には、「国際観光年 1967」と印刷されていましたので、その頃まではこんなもんだったと推測され、新幹線開業以降、乗客にゴミをゴミ箱に捨てる習慣が出来たという星晃氏の回想とも大体符牒が合います。

 その他の展示として、1905(明治38)年に東海道線の各駅で15銭(今なら1500円くらいか?)の幕の内弁当を買って食べ比べてみた、という雑誌『食道楽』の記事が紹介されていました。おお、テレビ東京旅番組的企画の元祖か? と思って読んでみると、いきなり「腐敗の患なし」などと書いてあって、グルメレポどころか保健所の報告書状態でした。冷蔵庫の普及しない、伝染病も多かった時代を反映しています。もちろん旨いと褒めている駅もあって、その記事では静岡と大阪を東西の優秀駅としています。まあ乗降客が多ければ、品の周りもよく、古いものが紛れ込む危険性も減るでしょうね。
 ところで、上に挙げた図録には、この記事は全文収録されていません。展示会場には全文記されていたのに。「中略」扱いとなった駅は、有り体に言えば「腐敗」してて旨い不味い以前の問題だった各駅なのです。百年も前の話で今の駅弁とは違いますし、腐敗していたのはたまたまだっただろうと、展示でも図録でも断り書きを丁寧に付けており、天理ギャラリーの気の使いようが伺えます。
 このことは小生、帰宅して買った図録をチェックしてから気づきましたが、記憶に頼って図録の欠部分を補うと、堀之内駅(現・菊川)が「鰈の煮物が腐敗してた」、岡崎だか蒲郡だかが「蒲鉾が腐ってる」、京都は「鱧の煮物は昨日の使い回しだろう、六大都市の一つのくせに酷い」とか書かれておりました。かまぼこは幕の内弁当に必須ですが、練り物は足が早いだけに管理も大変だったでしょうね。しかし京都人はやはり伝統的にケチ、もとい、もったいない精神に富んでいたのでしょうか。

 なんだかんだで結構楽しみ、記念品として硬券の切符そっくりに作った入場証まで貰いました。先着順とサイトに書いてあったけど、3月22日まで残っていたのか・・・そういえば展示品解説の時、来場者は30人くらいいたかと思いますが、平均年齢は相当高そうで、小生と同行者の2名のみ年齢が20や30は飛んでそうでした。今後鉄道ものは人が来ないと思われても困るので、気になった方は是非。今週土曜までなので、お急ぎ下さい。
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by bokukoui | 2010-03-31 23:58 | 鉄道(歴史方面) | Trackback(1) | Comments(0)

三木理史『塙選書108 局地鉄道』(塙書房)紹介

 諸事に追われている上に体調も例によって例の如く怪しげで、眠気や消化器の不具合につきまとわれている今日この頃ですが、ブログの更新がぼちぼちなは多忙とともに機械的事情というこれまた毎度の事情です。まあそんな愚痴を言っていてもしょうがないので、そんな諸事の一つの副産物をば。

 というわけで、表題の本を以下にご紹介します。

三木理史『塙選書108 局地鉄道』塙書房

 たまたま本書の新刊紹介をさるところに書くことになり、先日やっとこさ原稿を出してきたのですが、新刊紹介なので内容を紹介しただけで紙数が尽きてしまい、感想などを記すことが出来ず残念でしたので、はみ出した分をブログに転用してやろうというわけです。
 それはそれとして、まず順序として本書の内容紹介を。

 局地鉄道とは、延長30キロ(20マイル)程度以下の、地域内の輸送にもっぱら従事するような鉄道のことですが、三木先生は前世紀末に『近代日本の地域交通体系』(大明堂・同社は廃業したので古本で探して下さい)、『地域交通体系と局地鉄道―その史的展開―』(日本経済評論社)という二冊の研究書を発表され、局地鉄道研究についての権威(という言い方は仰々しいですが・・・)の方です。で、このたび局地鉄道についてコンパクトな一冊を出すこととなり、当初はこの二冊を一般向けに再構成する構想だったそうですが、著者ご自身が「二番煎じ的」内容に満足できず(「あとがき」p.214)、局地鉄道の通史という新たな形として編まれたものです。内容を以下に章ごとにおおざっぱに要約して紹介しますと、

 「序章 日本鉄道史と局地鉄道」で局地鉄道を「小規模な鉄道」の総称と定義し、そのような局地鉄道の研究意義として交通体系の変化、地域社会との関係、鉄道と前近代の連続を挙げ、鉄道史の研究史を整理します。
 「Ⅰ 馬力から蒸気機関へ」では、日本の鉄道創業から局地鉄道が誕生する明治中期までを概観し、馬車鉄道や人車鉄道、蒸気動力の軽便鉄道それぞれの発祥を紹介します。
 「Ⅱ 鉄道熱と法的規制」では企業勃興期の鉄道熱(鉄道会社設立ブーム)と地域社会への波及、全国に蒸気軌道を展開した雨宮敬次郎を扱います。
 「Ⅲ 軽便鉄道の叢生」では、1910年の軽便鉄道法をきっかけとした1920年代前半までの軽便鉄道ブームと、全国へのブーム普及に大きな役割を果たしたコンサルタント・才賀藤吉を紹介します。
 「Ⅳ 局地鉄道の様相」では、国鉄の軽便線や、改正鉄道敷設法・地方鉄道法の制定を背景にした地域と鉄道の関係、局地鉄道の鉱山や港湾と結びついた貨物輸送のほか、台湾や樺太、朝鮮、「満洲」の局地鉄道にまで話は及びます。
 「Ⅴ 地域統合と戦時体制」では、昭和初期の不況を背景にした交通調整、戦時期を背景とした交通統制により局地鉄道が地域統合へ向かう状況を描き、また戦後の石炭不足期に進められた動力の電化・内燃化にも触れます。
 「Ⅵ 高度経済成長から国鉄解体まで」では戦後の局地鉄道について、自動車の台頭による地方の局地鉄道の衰退と、国鉄のローカル線問題、第三セクターの登場を叙述します。
 「終章 二一世紀の局地鉄道」では、局地鉄道を取り巻く厳しい現状の中で、観光による新たな需要発掘の事例を紹介しています。

 と、本書は二百頁余りの決して大部とはいえない一冊の中で、時代を追って、局地鉄道の持つ様々な性格をあますところなく豊富な実例を以って紹介しています。交通史の入門者向けというのがまず目的の本と思いますが、普通の鉄道好きにも取っつきやすいと思います。コラムや数多くの写真(過半は著者ご自身の撮影というところが、三木先生の「鉄分」の濃さを示しているように思われます)が盛り込まれており、また前著から転載された地図やグラフが載っていて、読みやすさに配慮されています。
 ただグラフは、ちょっと見づらいかも知れません。版型の大きな前著からそのまま転載したので縮小されているところに加え、元々情報量が多くて解読に骨の折れる図も少なくないので、より一層目がチカチカするきらいが若干あります。もちろん、虫眼鏡で拡大して読むだけの価値があるのですが、それだけにもったいない気もします。
 それはともかく、著者の前著を読んだ小生のような読者にとっても、通史的な整理がされた本書の価値は大いにありますし、リファレンスとして便利です。そして通史的な整理をする過程で新たな見解も盛り込まれていまして、例えば局地鉄道研究ではJR・私鉄という区分が有効性を失っていること、私鉄も大手・中小という区分だけでなくローカル線を有する大規模事業者を「大私鉄」と見るべきなど、賛否はともかく刺激を受けることが出来ます。「前の本の焼き直し」なんて言わせることはなく、三木先生の目論見は達成されていると思います。

 とまあ、こんな感じの新刊紹介を書きました。内容を要約したら字数が尽きてしまったし、書評じゃないからこれでいいかと思いましたが、ブログではそっちで書けなかった疑問点なども以下に書いてみようかと。下書きの段階ではそこまで書いていたので、お蔵入りはもったいない、というわけで(笑)

 本書は上に書いたように、三木先生の前著2冊をベースに再編したものですが、そこに新たな観点も加わっているのです。それはよいことなのですが、同時に一つ問題もはらんでいると感じました。
 三木先生の前著では、「局地鉄道」とは、全国レベルの交通網(江戸時代~明治半ばまでは海運、その後鉄道が取って代わる)に接続する、地域内で完結した小規模な鉄道、具体的には軽便鉄道のような地域に根ざした小私鉄が取り上げられており、「局地鉄道」の定義がはっきりしていました。本書では、視野を戦後まで広げ、ローカル私鉄だけでは局地鉄道のみを語ることは出来ない、新幹線やごく一部の幹線以外のJRも地域的な輸送を中心に行っている局地鉄道であると指摘され、国鉄の地方交通線を取り上げています。
 確かにローカル私鉄だけでは、地域内で完結する小鉄道を論じるに不足というのはもっともと思います。ですが、そうやって話を広げていくと、はてではどこまで「局地鉄道」なんだろうかと、定義が変わってしまっているのではないかと思われるのです。

 本書では序章で、小規模の定義として20マイル(約30キロ)以下という数字が出てきますが、その後の論ではその距離に特にこだわっているということはなさそうです。それはむしろ、時代に合わせて柔軟に解釈する方が妥当だとは思いますが、であれば時代毎の交通体系の変化に合わせて、局地鉄道自体の定義づけももうちょっと明確に変遷を意義づけていってもいいのではないでしょうか。同様に「地域内で完結」の地域の様相も変化しているわけで、思いつきですが、交通機関の高速化・市町村の合併の進展によって、明治時代なら30キロで良かった「局地」が、今はもっと広範囲になってしまっているとも考えられないでしょうか。
 以前、三木先生の『水の都と都市交通』を読んだ時だったかと思いますが、三木先生は地域ごとの私鉄の統合について、不況を背景に昭和初期から進められていた「交通調整」と、戦時下の「交通統制」とを区別するべきことを強調されていました。それは全くもっともな、従来混同されやすかった問題点でした。しかし三木先生は同書の後ろで、「スルッとKANSAI」も交通調整だ、のようなことを書かれていたもので、その当時読書会のご指導を仰いでいた某先生が「これでは何でも交通調整になってしまう」と指摘されておりました。何となく類似した傾向を感じないでもありません。従来の定義づけでは見えてこないところを踏み出して興味深い指摘をして下さった反面、踏み出した原点が曖昧になってしまったと申しましょうか。

 とまあ、この点については疑問も感じましたが、おそらくこの点は今後検討せらるべきであって、本書の価値を大きく損なうものではないと思います。若輩者の放言と言うことでご海容の程。
 ちょっと検索してみたところでは、以下のような感想がネット上で見つかりました。

・久安つれづれ日誌さん「『局地鉄道』(三木理史著 塙選書)を読みました。」

 拝読する限りでは、鉄道にある程度関心をお持ちでも、マニアや専門というわけでもない、そのような読者の方のようで、そのような方に面白く読まれたということは、本書の目的は充分達成されているものと思います。
 ただそれだけに、本書に固有名詞の間違いが散見されたのは、初めてそのような情報を得る方にとってちょっと問題と思います。小生が気がついた範囲で以下に指摘しておきます。

・10頁:中国鉄道は現JR因美線ではなく津山線・吉備線
・185頁:瀬棚線は新潟県ではなく北海道
・186頁:臼ノ原→臼ノ浦、石狩炭田→石狩沼田
・189頁:明和線→明知線(多分)

 三木先生ほどの方が斯様な間違いをするとは、上手の手から水が漏れるということもあるのだなと思いますが、どっちかというと編集部の問題かも知れません。

 以上、長々と書いてまいりましたが、ローカルな鉄道の歴史や、地域と鉄道の関係に興味のある方は是非どうぞ。

※追記:三木先生の『都市交通の成立』の紹介はこちらへどうぞ
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by bokukoui | 2009-11-28 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(2)

夢の砂川ディズニーランド? 某学会で見た阪和電鉄のパンフなど

 いろいろと所用に追われ多忙きわまりなく、なかなか思い通りに物事が片付かぬ日々を送っております。近日中に書かねばならぬ論文や原稿類の数を指折り数えれば片手で足りず、腹が痛くなる思いです。
 まあそんな話をしていてもしょうがないので、最近の面白かった話を一つ。

 先週末小生は某学会で大阪にでかけ、そのついでに宇治電ビルを見てきたのは先日の記事の通りですが、その学会で見たものについてです。その学会では関西の私鉄の歴史を大会のお題として掲げ、いくつもの興味深い報告が行われましたが、それらをレジュメとメモから書き起こす余裕がないのが残念です。小ネタを一つだけあげれば、かの宮本又郎先生の謦咳に接することが出来たのは嬉しいことでしたが、その宮本先生が、

『民都』大阪というのなら、ちゃんと史料を見んとアカンですね」

 と原武史氏の『「民都」大阪と「帝都」東京 思想としての関西私鉄』を洒落のめし、なるほど関西ともなると大学の先生も駄洒落のセンスが問われるのかと感心しました。というのはともかく、原氏が史料をきちんと読んでいないという批判は政治史の分野で伊藤之雄先生がされていたかと思いますが、経営史でもやはり同様の評価のようでした。
 宮本先生は、自分は鉄道は専門ではないので、細かいところではこの道を長年やってきた人に敵わない、だからこのような時は“資本集約的”な話をすればよい(労働集約性=積み重ねた細かい知識では専門家が優位だから)、と前置きされて、鉄道統計を駆使した戦後私鉄の経営比較を発表されていました。確かに鉄道のように公式の統計が充実しているような分野の歴史は、勿論細かい史料の発掘は大事にしても、既にある資史料をしっかり読みこなし分析することから得られることもかなり多い、ということがよく分かったご報告でした。内容もさりながら、得るところが多かったです。

 さて、このように報告を総て紹介するとおおごとなので、わかりやすいものを一つご紹介。
 この学会では、創設以来の大御所の某先生が今回、記念講演をされたと同時に、秘蔵のコレクションを展示されていました。長年の鉄道史の専門家(≒マニア)の面々も、こんなの初めて見たと口々に嘆声をあげる逸品ぞろいで、例えばごく初期の箕面有馬電軌(現阪急)の案内パンフなど、一般的な阪急のイメージとは異なった、花柳界のセンスに傾いたものだったり、分析すれば面白そうですし、細かいこと抜きにしても目を楽しませるものばかりでした。
 そのなかでも、小生が度肝を抜かれたものを一つご紹介。
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阪和電鉄のパンフ「天恵の楽園 砂川 御案内」
ミッキーマウスがでかでかと描かれている

 阪和電鉄というのは現在のJR阪和線を作った会社ですが、戦前の日本で最高速の電車を走らせていた(世界の1067ミリゲージ中でも最速と言われ、また過剰に速度が喧伝されている満鉄「あじあ」とほぼ同じ速さだった)というその筋では有名な鉄道です。ウィキペディアの記述も詳しいのでそちらをご参照下さい。
 電車のスピードの偉大さとは対照的に、いまいち兼業分野に成果の乏しかった阪和でしたが、沿線の砂川に遊園地を開いていました。これはその砂川の宣伝パンフですが、堂々とミッキーマウスが描かれています。ちゃんと版権を取ったのでしょうか? 阪和はじめ戦前の日本の、というか戦後かなりまで、日本の電車はアメリカの技術に追随しており、経営手法などでも影響が見られますが、ここまでとは思いませんでした。
 ちなみにざっと検索してみたところ、これまたウィキペディアの「ミッキーマウス」の項目にこのパンフは紹介されており、ディズニーマニアの間では知られているようです。もっとも検索した範囲では、このパンフの画像は出てきませんでしたから、ここにご紹介する意義もあろうかと思います。

 ところで、阪和電鉄は並行する南海鉄道(現・南海電鉄)と激しい競争を繰り広げましたが、これは弊害の方が多いと、統制経済や交通調整の時流によって経営の苦しかった阪和は南海に合併させられ、更にその後国有化されます。戦後になって、戦時中に強引に統制された事業を復旧させようとする動きが出、特に公営の電力(戦前は、大阪・京都・神戸各市をはじめ、東京市の一部や富山県・高知県などで公営の電気事業が行われていました)の復旧運動が激しかったことが知られていますが、阪和電鉄も再民営化の動きが出ます。それを物語る貴重なビラも展示されていましたのでご紹介。
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南海電鉄による「阪和線還元払下」ビラ
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 描かれているのが如何にも63形電車なのが時代を感じさせます。この運動は、阪和線沿線では一定支持があったようですが、紀勢線沿線では「国鉄で大阪まで直通できなくなる」とむしろ反発を受け、結局失敗しました。どちらせよ、戦時中かなり強引に国有化された私鉄が、戦後民営に戻った例はないわけですが。

 この他にも興味深い報告内容や昔の資料はいくらもありましたが、とりあえず今回はこの辺でおしまい。
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by bokukoui | 2009-11-20 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback(1) | Comments(2)

復刊:中西健一『日本私有鉄道史研究 増補版』(ミネルヴァ書房)

 ここ何ヶ月も、忙しかったりくたばっていたりでろくろく書店にも足を運ばず、時に資料の必要があって本を探す時は往々ネットで注文していたもので、最近の出版事情にはとんと疎くなっておりました。
 そんな先日、久方ぶりに探している本があったので大学生協書籍部に赴きました。すると吉川弘文館とミネルヴァ書房の割引セールを来月12日までやっているとのこと。これはいいものに出くわした、と、当初予定の本が空振りだったのでいろいろ眺めていると、表題の本を発見、感動してその場で購入しました。
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 スキャナが現在使えないので、書影が不出来なのはお詫びします。

中西健一
『日本私有鉄道史研究 増補版 都市交通の発展とその構造
ミネルヴァ・アーカイヴズ(ミネルヴァ書房)

 本書は元々、1963年に初版が出され、1979年に増補版が出た(初版で削除された2節を足した)、日本の私設鉄道史に関する古典的研究です。本書は1906年の鉄道国有法以前の幹線系私鉄と、それ以後の電鉄を中心とする私鉄、さらに公営の路面電車なども含めた、包括的な日本の私鉄の歴史研究になっています。個別のトピックに関しては、初版以後半世紀近くに様々な研究が送り出されてきましたが、「私鉄」というテーマに関して総合的にここまで広く目配りした研究書は、今に至るまでないと言っていいと思います。
 というわけで古典として交通史の分野では知られた本書、小生も修論で先行研究の代表的なもの(大規模なもの?)として取り上げたものですが、それだけに自分の手元に置いておきたく、古書店を探したこともありました。しかしこのようなものだけに、2万とか相当なお値段が付いていてあきらめていたものでした。

 それがなんと、今年復刊されていたのです。7月に復刊されていたのですが、小生はまったく存じませんでした。我ながら自分のアンテナの低さに憮然としますが、更に意外だったのが「中西健一 日本私有鉄道史研究 復刊」でネット検索しても、全然これを話題にしている鉄道趣味者のブログなどが引っかからず、唯一発見できたのが「suchitooの独り言」さんの記事でした。こちらのブログの筆者の方は、中西先生にその昔学ばれた方のようです。
 にしても、私鉄の歴史に関心のあるマニアなら、手元に置いて然るべきと思いますが・・・むしろ院生の場合は、古典だけに大体図書館に所蔵があるし、扱う内容が幅広いのでかえって全面的に使うことは少ないし、値も張るし、借りて済ます選択肢が現実的かも知れませんが(苦笑)。

 というわけで、歴史系鉄道趣味者必携・学生は必読という類の本だけに、復刻は当然としても喜ばしいことです。ただ妙なことに、版元のミネルヴァ書房のサイトを検索してもヒットせず、よっぽどちょっとしか刷らなかったのでしょうか。※追記:ありました。「中西健一」で引っかからなくて、「中西 健一」でないと引っかからなかった・・・。アマゾンには本記事執筆時点でまだ3冊在庫があるようです。また、東大の本郷の書籍部の書棚には、小生が抜いたあとにもまだ2冊ありましたので、その筋の方は15%引きセールのうちにどうぞ。
 お値段は10000円+税、とやはりそれなりに張りますので、手に取る人は限られようとは思いますが、我こそはと思う方はこの機会に揃えるべきと思います。古書相場を思えば妥当ですし。

 それにしても、初版・増補版・復刻と、半世紀近くも読み継がれているということには、ひたすら頭が下がります。
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by bokukoui | 2009-10-21 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(2)

「象の鼻パーク」の現況・転車台の保存状況を見る

 急速に夏めいて参りましたが皆様いかがお過ごしでしょうか。小生は例年の如く暑さで倒れ、順調に論文も仕事も遅れ、友人との約束もキャンセルし、頭が痛いのでネットも碌に見ない、ひたすら横になっているという日々を送っております。当ブログも更新が停滞し、またどういう訳かここ十日ほどは来訪者もがくんと減少しております。そんなこんなでコメント返信も遅れて申し訳ありません。

 それはそれとして、少々前のことですが、横浜で開港150周年を期して整備された「象の鼻パーク」に行ってきましたので、一応その写真を以下に紹介しておきます。「象の鼻パーク」は横浜の港で最初に埠頭が設けられ、その形から「象の鼻」という名が付いたのですが、その後の港の拡張整備で使われなくなり、最近まで倉庫(その倉庫も霞ヶ浦で海軍の航空隊が使っていたというもので、それはそれで保存価値があったと思うのですが・・・)が建っていました。その倉庫を撤去して跡地を公園として整備しようとしたら、関東大震災以前の港の遺構が出てきて、急遽それを整備して公園の一部として保存することになった、という経緯があります。
 その遺構とは、貨物を運ぶためのトロッコの線路と転車台で、発掘されたその遺構の模様は、当ブログでも過去に以下の記事でお伝えしました。

 「象の鼻パーク」の転車台と軌道跡見学記
 「象の鼻パーク」の転車台と軌道跡について 補足情報・異説など

 で、これら遺構と公園の整備が終わって、去る6月2日の開港記念日に公開されていたようですが、なかなか尋ねる機会がなく、先日ようやく行って参りましたので、以下にご紹介。
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遊歩道(旧貨物線の高架)から見下ろす「象の花パーク」
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 綺麗な公園になっています。周辺には遺構の歴史を伝える看板や、なにやら飾りの板のようなものが立っていますが、一部の板には側面に横浜の近代化に貢献した人の写真と略歴が表示されています。
 で、この公園の真ん中にある、ポールで囲まれたガラス張りになっているところが、転車台のあったところです。震災の瓦礫で嵩上げされる前の、低い水準にあった転車台はそのままにして、上にガラスを張って見せています。なかなか凝った試みで、近代遺跡保存の方法としてはなかなか意欲的なものと思います。
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同じく遊歩道から見下ろした転車台とカバーのガラス

 それでは、地面から様子を見てみましょう。
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「象の花パーク」の転車台とその覆いのガラス
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 発掘状況公開時のレポに写真を載せておきましたが、発見された転車台は4基ありました。その4基すべての上にガラスが張られています。海側から順に、転車台に鉄のテーブルが載った状態・テーブルのハッチを開けてある状態・テーブルを半分に切断してある状態・テーブルをとりのけて滑車や軸、土台の煉瓦を見せている状態、ととりどりになっています。数が多いのを有効に活用してありますね。
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ガラス越しに見る転車台(1)

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ガラス越しに見る転車台(2)

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ガラス越しに見る転車台(2)

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ガラス越しに見る転車台(4)

 ガラス越しの様子が分かりにくいのは転向や機材の性能、撮影者の腕もありますが、そもそも硝子が厚いので良くは見えないのです。上を人が通る以上はやむを得ないことだとは思いますが。年に一度くらい、例えば開港記念日あたりに、ガラスの蓋を外して点検がてら一般公開、なんてことが出来れば尚望ましいとことと思います。
 ところで、外した鉄のターンテーブル(転車台の回転部分)はどうなったのかと言いますと、公園の一角に公開展示されていました。
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外に展示されているターンテーブル
(この写真はクリックすると拡大表示します)

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同上 土台や腕の様子もよく分かる
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 屋外の野ざらし展示で大丈夫かとも思いますが、まあ瓦礫で埋められてしまうまで数十年間露天で使われていたターンテーブルですから、当分は大丈夫でしょう。
 ところで半分に切断した鉄の回転部分の残り半分はどこに行ったんでしょうか。まさか捨てた訳じゃないと思いますが・・・何かで読んだところでは、グラインダーで削ると火花の飛び方から材質が鋳物か錬鉄か判別できるそうで、その詳細も知りたいところです。折角切断までしたんだから。

 とまあ、なかなか費用も手間もかけたであろう意欲的な展示と思いますが、その肝心の転車台に関する案内板はこのようになっていました。
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「象の花パーク」の転車台に関する案内板
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 細かいところですが、「鉄軌道の幅員は1.06m」というのはちょっと変かと。本来、これは3フィート6インチ=1067ミリのことなので、四捨五入したら1.07の方が近い・・・というか、最後の桁まで書けば(出来ればフィートポンド法の値もつけて)いいと思うのですが。また、「車軸幅」というのも意味が不明です。車軸の幅ではなく車輪相互の間隔とでもしないとおかしいでしょう。大正時代頃の長軸台車なら車軸が長い、なんてマニアにしか分からないツッコミはともかく、英語表記も"the width of general railroad axies in Japan"なんてしなくても、"Japanese standard gauge"とでもすれば良いと思いますが、いかがでしょうか。英語に詳しい方のご意見を乞う次第です。

 とまあ、多少の問題はなくもないですが、近代の遺産をこのような形で公園の中に取り込んで保存できたことは、近代遺産の保存活用の一例として大変重要で意義深いことと思います。今後の保存活動の良き先例となればと願ってやみません。
 今年の夏は開港150周年ということで、この周辺ではそれを記念したさまざまな展示やイベントなどが行われています。お時間のある方は一つ、手頃な夏のお出かけ先としていかがでしょうか。なおその会場では、開港150周年記念イベントのキャラクターとして賛否両論(「否」の方が多かったか・・・?)あった「たねまる」のグッズが大量に売られていますので、「ゆるキャラ」好きの方は是非。「ゆるキャラ」界の著名人(?)である彦根の「ひこにゃん」とのコラボレーショングッズもいっぱいあり、どういう関係かと思えば横浜開港の条約を結んだのは井伊直弼だからということのようです。納得できそうで何か変な気もしますが、これまた「ゆるキャラ」ファンには見逃せないでしょう。
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by bokukoui | 2009-07-26 20:27 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(4)

くりでん(くりはら田園鉄道・栗原電鉄)の現況を見る 中篇

 くりでん(くりはら田園鉄道・栗原電鉄)の現況を見る 前篇

 の、続きです。今回は栗駒駅とその周辺、及び倉庫や車庫の中身をご紹介します。

(写真が多いので続きはこちら)
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by bokukoui | 2009-07-13 21:57 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)

くりでん(くりはら田園鉄道・栗原電鉄)の現況を見る 前篇

 2007年3月廃止になったくりはら田園鉄道、旧栗原電鉄、通称「くりでん」については、当ブログでも過去に廃止直前に訪れた旅行記を書きました(→こちらこちら)。そしてこの度、たまたまその廃線跡の現況を見る機会に恵まれましたので、その状況を写真付きで簡単に述べてみたいと思います。
 なぜ栗原に行ったかといいますと、さる4日、栗原市で以下のようなシンポジウムがあったからです。
シンポジウム 「くりはら田園鉄道の歴史と遺産」
主催: 鉄道史学会  協賛: 栗原市

1. くりでん資料を未来に―宮城資料ネットの保全活動―
 平川 新(東北大学)

2. 宮城県の鉄道発達史とくりでん
 高嶋修一(青山学院大学)

3. くりはら田園鉄道の諸建築について
―若柳駅舎(本屋・機関車庫など)及び沢辺駅舎―
 永井康雄(東北大学)

4. 大河原・村田・蔵王を走った仙南温泉軌道
 岡崎明典(白石高校)

5. パネルディス カッション「戦後のくりでんを語る」
 進行役 大平 聡(宮城学院女子大学)
 パネリスト 佐々木四男(くりでんOB)
        高橋 啓三(くりでんOB)
        石川 金悦(くりでんOB)
 これは鉄道史学会の例会として行われたものですが、同時に一般の方にも公開して、くりでんの遺産について広く知ってもらおうという企画でした。で、このシンポジウムの附属企画(巡検)で、廃線跡と細倉鉱山の見学がありまして、本記事は主にその模様をお伝えしようと思います。

(写真が多いので続きはこちら)
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by bokukoui | 2009-07-10 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)

京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成

 京成電鉄創立百周年記念企画(1) 幻の京成第3代社長・河野通
 京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男
 ・京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった

 の、続きです。今回こそ完結。

 ここまでのあらすじを繰り返すと、田園都市会社を追われた後、京成子会社の成田鉄道に入った河野通は、1945年10月の京成社長・後藤国彦の急死後、後藤の遺志と称して後任社長の座を狙いますが、運輸省の意向とそれを受けた京成取締役・大和田悌二らの運動によって阻止され、鉄道省から京成に入った大山秀雄が「当分」専務をつとめた後社長に昇格することとなりました。ところが実際に、1946年1月に社長に就任したのは吉田秀彌で、大山の社長就任は「当分」先どころか1955年になりました。
 今回は締めくくりとして、河野の社長就任却下後の動きを見てみましょう。

 まずは、河野の社長就任却下と大山の社長昇格(「当分」は専務)が決まった1945年12月3日の重役懇談会翌日の大和田の日記を読んでみましょう。
12月4日
(前略)
○河野通氏来り、大山社長では本社は兎も角、傍系社長は自分でないと納まらず(小湊鉄道の坂西社長を指す如し)、佐原に引込むから後はよろしくと捨台詞を残し去る。
 傍系の成田鉄道(現・千葉交通)の社長の地位は確保していた河野、そちらに引っ込むようです。なお、「小湊鉄道の坂西社長」とは、京成から小湊鉄道に入った坂齋梅三郎のことと思われます(京成関係の人名のこのような誤りは、大和田の日記にまま見られます)。
 かくて社長の座を伺った河野が去り、京成は落ち着いたかといえばそうではなく、この12月には労働組合が結成され、給料五倍増などの要求を掲げて激しい争議を始めます。もっともこのような労働攻勢自体は、当時どこの電鉄会社でも起こっていたことですから、京成特有の事態というわけではありません。
 ところが、その労使紛争中の京成で、なおも河野は何らかの策謀を巡らしていた可能性があるようです。年末の大和田の日記を見てみましょう。
12月30日
京成大山君来訪。
二十八日、二十九日、津田沼にて団体交渉の処、組合の暴行を受け、眼鏡を破壊せられしが、昨夜妥結せり。
次の如し、暴力に屈せる如し。
 一、団体協約締結
 一、本給五倍賃上
 一、経営協議会設置
 一、八時間労働
 一、争議費会社支給
河野に使嗾されし吉田本人の社長色気等、重役間に統一を欠く所禍根たり。断乎、引締めの要ありと警告す。阿爺(をやじ)を失い迷える羊の姿の如く、京成の現状聊か心配なり。
 赤での強調は引用者によるものです。
 残念ながら、これ以降の大和田の日記は公開されておりませんので、1946年1月の吉田社長就任の経緯は分かりません。ですが、12月3日に決まったように大山社長就任、とはならずに、吉田が社長に就任した背景には、やはり河野の「使嗾」がなにがしかの影響を与えているのであろうと思われます。
 
 さて、強力なリーダーシップと多角化路線を執っていたといわれる第2代社長・後藤国彦の急死がこのような騒動を引き起こしたとは間違いなさそうで、後藤国彦は実は「両ゴトー」の五島慶太より年下でしたから、五島慶太と同じ年まで生きれば、後藤国彦体制は1960年代後半まで続いていたことになります。
 ちなみに、『京成電鉄五十五年史』は1967年に発行されましたが、社史の通例に則って巻頭には歴代の社長・会長や主要役員、現役の重役の肖像写真が載っています。今回の一連の騒動で名前が出てきた人たちの多くはこの社史の頃まで生きていて、当時会長が大山、社長が川崎、そして河野通は顧問として掲載されていました。今現物が手許にないのでうろ覚えですが、当時の京成には顧問がもう一人いて、それが高梨博司でした。河野と高梨の写真は並べて掲載されていますが、「恫喝」したとかされたという二人が並んでいるのもなにかの因縁でしょうか。ちなみに大和田は監査役として掲載されていました。
 この一連の騒動が京成の経営に如何なる影響を及ぼしたかについては、今のところ小生にはそれを語るだけの知識がありません。戦後の京成は、電鉄経営の常道とされる兼業部門がオリエンタルランドという極めて特異な例外を除いてあまり振るわず、第5代社長・川崎千春の長期にわたる経営の結果、1980年代には経営危機に陥っています。その分、東急や西武のようにバブルに踊らずに済んだという見方もできますが・・・。空港新線を作ってみたら空港開業が延期したり、概して何となく間の悪いことが多かったような印象があります。
 もしかすると、内紛の反動として川崎千春長期政権が生まれ、またそれが経営の間の悪さに関連しているのかもしれませんが、その辺は今後の課題ということで、皆様のご意見もいただければと思います。
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by bokukoui | 2009-07-06 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(4)

京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった

 京成電鉄創立百周年記念企画(1) 幻の京成第3代社長・河野通
 京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男

 の、続きです。今回で完結・・・と思ったら終わりませんでした(苦笑)

 ここまでのお話を振り返ると、池上電鉄で「強盗慶太」こと五島慶太に破れた後藤国彦は、京成を自らの支配下に置くために、京成子会社の成田鉄道を京成の筆頭株主とする持ち合い体制を築きます。その成田鉄道の専務、のちには社長に任じられた河野通は、かつて田園都市会社の支配人を務め、五島慶太も一枚噛んでいたらしい復興局疑獄の疑惑を一人でかぶって、逮捕され職を失っていました。
 敗戦直後に後藤が急死し、おそらくは成田鉄道の有する京成の株を背景に、河野は京成第3代社長の地位をうかがい、一度は重役会を通ります。しかしそこで、運輸省から待ったがかかり、元逓信官僚で後藤と親しかった京成の取締役・大和田悌二らが巻き返しを図ります。

 では、河野の野望はどのように挫かれたのでしょうか。大和田の日記(本記事(1)を参照)を手がかりに、その経緯を辿ってみましょう。これらの経緯は日記にかなり詳しく記されていますが、あんまり長々引用するのも何なので、なるべく簡潔に。
11月27日
後藤国彦故人の法会、成田山新勝寺の由縁(ゆかり)の寺にて営む。
法会後、余より大山専務、北条、橋口両常務に対し、後任社長の選任は社運に関し、軽々に定むべからず。先般河野氏と定めし由、右は故人の遺志なる趣旨が理由とのことなるが、運輸省より異議あり、後藤家親戚よりも反対申入あり、余も重役会に格別の議題なきことを予め承会したる上、工場に赴き欠席せる、かかる重大案件については承服し難き故、改めて重役会を開き、余をして理解せしめよと要望し、前田、高梨、吉(註:「田」脱落カ)三氏同意し、左様取運ぶこととなる。
 傍点の強調を太字に変えているのは前と同じです。後藤が没して一月、「河野下ろし」の本格始動です。
 そして、12月の始めに重役会が開かれ、ここで河野の社長就任は否決されます。
12月1日
京成本社重役懇談会に臨む。(中略)余本日懇談会要求の趣旨を述べ、先ず前回河野氏を社長と決定せる前提は、これが故人の遺志なりというにある所、自分の見る所は之に反するを以て、再検討を要望せる事実を述ぶ。(中略)故人の遺志が少くとも河野氏の上に無きことは、大勢を支配す。遂に余の主張の如く、大山専務の昇格、北条、橋口二常務の陣容にて進むことに満場一致す。
 高梨氏は、昨日河野氏を訪い、自発的辞退を勧告せるも応ぜず、若し重役会の新決議が自分を退けなば、必らず社内に動揺生ずるを覚悟せよと恫喝せり。(後略)

12月2日
○大山君報告。――河野氏と会談の結果、後藤の遺志自分に無しと全員一致の上は、潔く辞退すと、高梨氏に対するとは反対に了解せりと。然らばよし。
 この重役懇談会に河野は呼ばれていません。欠席裁判で河野が社長就任の根拠とした「故人の意志」は否定され、河野の社長就任も打ち消されます。ただしここで、いったん重役会で社長と決めたことをすぐ取り消すのも問題ということで、この場ですぐ後任社長を選ぶことは避け、河野に経緯を説明することとします。高梨には恫喝的だった河野も、大山には素直に辞退した・・・ようですが、河野はそう大人しい人物なのでしょうか。
 因みにこの高梨博司取締役の経歴も興味深いのですが、ここで述べる紙幅がないのは残念です。

 12月3日、今度は河野も交えて重役懇談会が行われます。
12月3日
○京成重役懇談会続行。河野氏も出席せり。
同君は、監査役より取締役に選任方要望す。之に対し吉田取締役より、今回は社長互選に踏切らず、大山専務、北条橋口常務にて進み度しとの申し入れあり・・・
(中略)
席上先ず、大山専務より、河野氏より、無条件社長決議を辞退するの言明ありし旨報告、河野氏より、前田氏に無条件一任すと述ぶ。余、大山報告は無条件辞退とありしに、今前田氏に一任とは其意如何と反問し、答えず、更に吉田氏より、暫く現状にて進み度しとの提案あり、これに付、余、「吉田氏も出席の懇談会にて、河野社長取止め、大山昇格、二常務輔弼を決定し、一人々々確認せるに、今この提案ある理由如何」と詰問せるが、答ゆる能わず、依って、右提案は察する所、今直に大山昇格は前回取締役会にて河野社長を決定せることを変更すること故、暫定的に大山昇格を河野の面子を立てる意味にて延期する意味と解するが如何と助け舟を出し、吉田、井手全く左様の意味なりと答う。結果前田座長左の如く決定を宣す。
「京成は、当分大山専務、北条、橋口常務にて取運ぶ。大山専務を代表取締役とす、河野氏取締役への変更申入は拒絶す。当分は極めて短期間なること。」
 大和田の台詞のカギカッコの締めが原文ではありませんが、文意から補足しておきました。何だかこれを読んでいると、吉田取締役は形無しで、大和田の仕切りぶりが目立ちます。大和田の日記と言うことを考慮して、多少は割り引いた方がいいかもしれません。
 とまれ、河野は取締役にもなれませんでした。そして、故・後藤国彦が後継者として鉄道省から招いたらしい大山専務が「極めて短期間」の「当分」ののち、社長になることが決定しました。これにて一件落着、でしょうか。

 実際には、京成がネットに公開している年表にあるように、1946年1月に社長に就任したのは吉田秀彌で、大山秀雄が社長になるのは1955年のことでした。全然「当分」ではないですね。ちなみに大山の社長就任後間もなく吉田会長は亡くなっており、健康上支障が出るまで吉田はその地位にいたようです。
 何故こんなことになってしまったのか、その模様は大和田の日記に直接は述べられていませんが、多少の手がかりは記されております。その辺りは次回に。

※この記事の続きは以下。
 京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成
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by bokukoui | 2009-07-03 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)