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京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男

 京成電鉄創立百周年記念企画(1) 幻の京成第3代社長・河野通

の続きです。

 前回のあらすじを繰り返しますと、1945年10月に第2代社長・後藤国彦が急逝した京成電鉄では、重役会で監査役の河野通を社長に昇格することがいったん決まりました。が、河野の人物に運輸省から苦情が入り、元逓信官僚で京成取締役の大和田悌二を中心に、河野下ろしの工作が始まります、というところでした。
 今回は、本件の基本史料である大和田日記を読み進める前に、そもそも監査役から社長になろうとした河野とはどのような人物か、という話をしようと思います。そのためにはまず、急逝した第2代社長・後藤国彦の話をしなければなりません。

 後藤国彦については、ウィキペディアに「後藤圀彦」として項目がありますが、結構間違いが多いので注意が必要です。京成の社史を資料に書いたようですが、後藤国彦が五島慶太と並べて「両強盗」と呼ばれたとは社史になく、「両ゴトー」の間違いと思います。「両ゴトー」は報知新聞経済部編『現代経済人』からの孫引きらしいですが(国会図書館に所蔵があるらしいが閲覧不能なので小生は見たことがありません)、小生は他に「電鉄界の二人ゴトウ」という表現を、例の野依秀市が編集していた雑誌『実業之世界』の昭和14年2月号で見つけました。
 なお、後藤の名前の漢字が「圀」になっていますが、小生の管見の範囲では、戦前の新聞や雑誌、役所に提出した書類や会社登記簿の謄本、さらに大和田の日記に至るまで、みな「後藤國彦」でした。社史には何か根拠があるのでしょうが、かといって同時代の史料が揃って「國」なのも無視できません。ここでは新字体で「後藤国彦」としておきます。

 さて、後藤国彦は、戦前に電鉄への投資を進めていた川崎金融財閥の代理人として電鉄業界に入り、池上電鉄(現・東急池上線)と京成電鉄の専務を務めます。厳密に時系列を書くと、1925年に京成の取締役、26年に池上の専務、27年京成専務となっています。
 ところが、川崎財閥の方針転換により、川崎は池上の持株を五島慶太に譲渡、後藤は池上専務の地位を追われてしまいます。これは1933年の7月頃のことで、背景には川崎と後藤の方針対立、自分の経営する目蒲電鉄と並行する池上電鉄を吸収しようという五島慶太の目論見がありました。
 とまあ、このような五島慶太の「強盗」的エピソード第1号である池上電鉄乗っ取り事件のやられ役として、現在はもっぱら歴史に名を残している観のある後藤国彦ですが、同時代的には「電鉄界の両ゴトー」と並び称されていたのであります。上でリンクしたウィキペディアの「池上電鉄」の項目でも、「東急の社史にまで、「池上電気鉄道時代は沿線の宅地開発事業を行わず、事業といえば洗足池にボートを浮かべる程度であった」という趣旨のことを書かれている」なんて東急寄りの記述がありますが、実は後藤の経営時代の池上は、目蒲とバス兼業で争っており、五反田駅ビルに白木屋百貨店の分店を迎えて、ターミナルデパートとしては渋谷の東横百貨店より先を越していたりしたのですが。
 余談ですが、電鉄系百貨店の雄として名高い阪急・東急・西武は、その歴史上白木屋百貨店との浅からぬ関係があり、また白木屋は池上の他京浜電鉄(現・京浜急行)と組んで品川などにも進出しています。白木屋と当時のその経営者・山田忍三も再評価の必要性があると思うのですが、山田も現在のところでは、井上章一『パンツが見える。羞恥心の現代史』によって、日本近代史上最大のガセビア「白木屋ズロース伝説」の捏造者としてしか名をとどめていなさそうなのは遺憾です。

 話が逸れまくりまして済みません。やっとここで河野通の登場です。
 河野通は、五島慶太の経営する目蒲電鉄の前身となった田園都市会社、つまり高級住宅地の代名詞である田園調布を作った会社の、支配人だったのです。

 田園都市会社時代の河野の動向については、猪瀬直樹『土地の神話』が、河野の書生だった人物のインタビューも収録していて、詳しく述べています。河野は、渋沢栄一の息子と同級生だった縁で渋沢家に学資を援助して貰い、帝大を出て内務省に入りますが、渋沢家の要請によって官を辞して渋沢家の事業に携わっていました。
 ところがここで関東大震災が起こり、これは郊外への移住を促進したので、田園都市会社や目蒲電鉄にとってはむしろ好機となったのですが、震災復興に際して復興局疑獄事件というのが発生します。詳しくは猪瀬直樹の本を読んでいただければいいのですが、復興局への土地転売に際し、裏金作りの片棒を担いだりした河野は逮捕されてしまいます。結局河野はトカゲのしっぽ切りに遭って田園都市会社を解雇されてしまいますが、それは世話になった渋沢家に累が及ばないように自分が全てかぶったのだといいます。ところがそれは結果的に、五島慶太の東急グループ建設の踏み台にされてしまうのでした。

 かくて、五島慶太の前にその地位を追われた後藤国彦と河野通が、どこでどう出会ったのかはよく分かりません。河野も大分県出身なので、大和田同様同郷の縁であったのかも知れません。とにかく、河野は1929年に成田鉄道の専務となり、1937年には京成の監査役にも就任しています。
 成田鉄道とは現在の千葉交通で、当時は成田付近の路面電車と成田から八日市場に至る路線などの鉄道、および千葉県北東部のバス路線を経営しており、京成が株式の過半数を所有、社長は京成社長の後藤が兼務していました。戦時中に鉄軌道を廃止してバス会社になっています。

 ところで、成田鉄道はただの交通関係の京成子会社ではありませんでした。実は、後藤が京成社長になった頃、京成の筆頭株主は成田鉄道だったのです。つまり株式の持ち合いをしていたのです。
 先に、後藤が池上電鉄を追われた話を書きましたが、オーナーの川崎財閥が株を手放してしまえば、雇われ経営者の後藤はその地位を失ってしまうわけです。そこで池上を追われた後藤は、京成の地位は守るべく、自ら京成の株を買い集めます。結局川崎と話をつけて株を引き取ったようですが、さほど資本家でもない後藤はいろいろ借金して株を集め、その相当部分を成田鉄道に移したようです。後藤が京成社長になったのは1936年12月ですが、1937年の株主を見ると1位が成田鉄道で約8万株、後藤個人が3位で約4万株を持っています。ちなみに当時の京成の総株数は81万株(公称資本金4050万円)です。
 かくて、株式持ち合いによる、後藤の京成経営権把握の要となった成田鉄道ですが、河野通は1942年、成田鉄道の社長に昇格します。筆頭株主の社長を任されるとは、河野は後藤に信頼されていたのかな? と思われますが、実は河野の社長就任と同時に成田鉄道には会長職が設けられ、後藤はしっかり会長に就任しています。おまけに代表取締役はやはり後藤で、いまいち信頼されていなかったのでしょうか。
 1930年代後半、京成も沿線の千住や谷津で土地事業をやるのですが、だったら田園都市会社で支配人を務め、田園調布建設の表も裏も(なにせ疑獄で捕まったくらいです)知っている河野を登用しても良さそうです。でも河野は京成では監査役にしかなれず、成田でバスと路面電車と軽便鉄道を経営していたわけで、考えてみれば不思議な話です。京成が戦前に、田園調布的な住宅地を沿線に作っていれば、今こんなに京成は軽んじられなかった・・・? かは分かりませんが、敢えて後藤がそのような人事をしたのは、興味深いことです。

 こんな状態で京成と成田鉄道は敗戦を迎え、そして後藤が亡くなります。となると、京成の筆頭株主は一体どうなったのでしょう? 後藤の死で成田鉄道のトップになった河野が、転がり込んできた京成筆頭株主の地位を背景に、京成社長の椅子を狙った・・・というシナリオはどうでしょうか。
 大和田の日記には、河野がどのような理由で京成社長の椅子を要求したのか、「後藤社長の遺思を継ぐと河野氏は称す」というだけで具体的記述はないのですが、以下は小生の推測ではありますが、やはり筆頭株主の法人のトップになったということは大きいのではないでしょうか。
 ちなみに、やや時代が下って1950年版の『株式社債年鑑』によると(敗戦直後の資料が見つかりませんので)、京成の筆頭株主は、71,644株を有する河野通と記載されています。・・・成田鉄道の株を手に入れたのでしょうか、数的にも近いし。

 『土地の神話』には、河野が五島慶太の自伝を読みながら「こんなのは嘘だ」と洩らした、というエピソードが記載されています。五島の踏み台にされた河野は、後藤を踏み台に、五島と並ぶ大手私鉄のトップに上り詰めようとしたのです。河野が「陰険、圭角多」いのも宜なるかなという気もします。
 しかし結局河野の社長就任は、運輸省筋からの巻き返しで阻止されてしまいます。その様子は次回の記事に。

※この記事の続きは以下の通り。
 京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった
 京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成
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by bokukoui | 2009-07-01 23:59 | 鉄道(歴史方面)

京成電鉄創立百周年記念企画(1) 幻の京成第3代社長・河野通

 今日からちょうど100年前の1909(明治42)年6月30日、京成電気軌道(現・京成電鉄)の創設総会が開かれました。それから一世紀、色々ありましたが今日尚盛業中であるのは喜ばしい限りです。
 京成のサイトでも、百周年記念のページを設け、今日を百周年記念としています。
 で、最近の大手私鉄では阪神西鉄が百年史を出しており、京阪や阪急も出すそうですので、京成もここで一つ、と思うのですが、今のところ社史発行のアナウンスはないようです。京成は過去に五十年史ではなく『五十五年史』を発行し、八十年史ではなく『八十五年史』を発行しておりますので、今度も『百五年史』で発行するのでしょうか。実際、成田高速新線開通が来年度ということですので、それで一区切りにしたい、というのならそれはそれで妥当と思います。

 こんなわけで京成のサイトにも歴史を記した年表がアップされております。その中に、次のような一項があります。
(昭和)21年1月19日
後藤圀彦社長辞任、取締役吉田秀彌、取締役社長に就任
 これは正確には、前年の1945年10月末に亡くなった京成第2代社長・後藤国彦の後継社長が、年明けの1月になって正式に決定した、ということです。そして第3代社長が吉田秀彌、第4代が大山秀雄、第5代が20年以上の長期政権を敷いた川崎千春になるのですが、実はこの間、重役会で内定まで出ていながら、第3代京成社長になり損ねた人物がいたというのが今回の記事のお話です。
 これは小生の知る限り、社史などにも今まで出ていない話ですが、小生がたまたま今書いている戦前期電鉄経営史に関する論文の史料調査中に見つけたエピソードでした。しかし指導教官曰く、「論文が冗長だから本題に関係が少ないところは削るべし」とのことで削りまして、その後教官に「エピソードとしては面白いので、本件は何か使い道はないでしょうか」と問うたところ、「うーん、論文にはならんね」とのことでしたので、そして京成の社史もいつ出るか分からんし、『鉄道ピクトリアル』の京成特集号も2007年にやったばっかりだし、京成創業百年を祝して、ここで取り上げようと思った次第です。
 ・・・祝うのに相応しいエピソードかは疑問なしとしませんが。

 今回のお話の出典は、前にも当ブログで書いた野依秀市の話で使いましたが、逓信省官僚で次官まで務め、その後日本曹達社長を務めた大和田悌二の日記です。これは東大法学部が1945年分までをマイクロフィルムに撮影して所蔵しております。このうち、大和田が逓信官僚として第1次電力国家管理実現に務めていた時期については復刻が企図され、1935年の一年分は、1999年に『東京都立大学法学会雑誌』で復刻されています。復刻したのは、かの御厨貴ゼミの方々だそうで、1938年分まで復刻するとその雑誌論文の中で述べられているものの、残念ながら十年経った今でも続きが出ておりません。
 で、この大和田悌二は電力事業の監督(戦前の京成は沿線で電力供給業を営んでおり、また戦前は電気事業の監督官庁は逓信省だった)から京成電軌の第2代社長・後藤国彦と縁が出来たようです。大和田と後藤は大分の同郷出身ということで親しくなり、大和田は退官後京成の取締役に就任、戦後は監査役に代わって長くその地位にありました。大和田と後藤の関係は良好だったようで、旅先で後藤の死去を知った大和田は、日記に新聞の死亡記事を貼って長文の追悼記事を書き、その死を悼んでいます。大和田は旅先から戻ってすぐ後藤邸に弔問に訪れ、遺族と生活について秘かに話をするなど、親密な関係が伺えます。

 社長が死んだ以上、京成としては重役会を開いて後任を決めねばなりません。しかし大和田は日本曹達社長でもあり、その所用で京成の重役会に欠席することになり、事前に連絡に京成に行ったことが、大和田の日記に書いてあります。
(昭和20年)11月1日
○京成本社に赴き、明日の重役会は二本木行きの為欠席につき議事の内容を尋ぬ。重役不在、川崎総務部長在り、社長急死に伴う懇談にて別に議事無き模様とのことにつき辞去す。
 原文の傍点を太字に変えてあります。その他、日記の引用に当たっては新字体に直し、仮名遣いや句読点などを一部修正しています。
 日記中、二本木は日本曹達の工場所在地です。そしてここに出てくる「川崎総務部長」こそ、のちに20年にわたって京成社長を務め、沿線と関係ない東北地方なんぞの土地を買い漁るなどの放漫経営で80年代の京成を危機に陥れた、しかしオリエンタルランド実現に強力なイニシアチブを発揮しディズニーランドを日本に招いた、経営史上評価の難しい人物・川崎千春であろうと思います。
 で、特に重要な議題はないと聞いて二本木に行った大和田でしたが、しばらくして今度は京成の大山専務(のちに第4代社長となる)が大和田のところにやってきます。
11月7日
○京成電鉄大山専務来社。
昨日の重役会にて、社長に河野通監査役を推すこととなれり。後藤社長の遺思(原文ママ)を継ぐと河野氏は称す。陰険、圭角多く、運輸省の評判よからずと、反対説ありしも、他に適当の人も無しとて、結局決定せり。
 赤による強調は引用者が加えたものです。
 重要な議事無しといっていたわりに、次期社長という極めて重要なことが大和田不在のうちに決定されてしまいます(重役会は二回やったのかも知れませんが)。
 しかし、社長が急死したので後継を取締役から選ぶというのなら普通ですが、監査役というのはあまり聞きません。専務がいるなら彼が昇格するのが普通でしょう。京成は初代社長・本多貞次郎も、第2代社長・後藤国彦も、専務から社長になりました(創業当初の京成には、専務はいても社長はいませんでした)。「陰険、圭角多く、運輸省の評判よからず」とはひどい言われようですが、どうしてこの河野通という人物が社長に決定してしまったのでしょうか。

 そして、運輸省の評判良からずという評価に間違いはなく、京成のこの決定に対し運輸省から苦情が持ち込まれてしまいます。大和田の日記を引き続き見ていきましょう。
11月20日
○平山孝運輸次官より、京成電鉄は、後藤社長死去、後任河野通氏に内定の由なるが、長崎前次官の引次(原文ママ)は、大山監督局長京成入りの際、後藤社長と行々社長とする約束なりし趣きなるにつき、省として河野氏の来省を求め、省の意嚮を伝うる考なり。前田米蔵氏相談役につき、了解を得たりとて、趣旨貫徹につき協力を求めらる。余も河野氏が、後藤社長の遺思なりとて社長就任を主張するには同意し難き故協力を約す。

11月24日
平山運輸次官の依頼にて、前田、高梨二氏と会話す。二氏が河野社長に賛成せしは誤りなりと釈明。余は、右重役会に欠席なりしを理由に、尽力捲返すこととす。
 11月7日に大和田のところへ「河野社長内定」を伝えに来た大山専務は、鉄道省監督局長から京成に天下ってきていた人で、この人こそ後藤国彦社長の後継候補だったようです。少なくとも、役所方面はそう考えていたようです。
 で、どういう訳か自分の社長就任を強く主張せず、河野の社長就任を大人しく大和田に伝えに来ていた大山専務でしたが、役所からは大和田を通じて河野の社長就任を阻止せんとしたようです。大和田の日記しか史料が今のところありませんので、大和田中心になってしまうのはやむを得ませんが、大山は何をしていたのでしょうか。

 陰険だ何だと役所から不信感を抱かれていながら、監査役なのに他の専務や取締役を差し置いて、一時は京成社長就任を社内で認めさせてしまった河野通。彼は何者なのか、何でそんなことが出来たのか。
 その理由を探っていくと、戦前の電鉄界で後藤国彦と並んで「電鉄界の両ゴトー」「電鉄界の二人ゴトウ」と呼ばれていた、でも現在の知名度は圧倒的に京成の後藤国彦をしのぐ、東急の事実上の創業者・五島慶太の存在が浮かび上がってきます。その驚くべき関係とは、刮目して次回を待て。

※この記事の続きは以下の通り。
 京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男
 京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった
 京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成
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by bokukoui | 2009-06-30 23:54 | 鉄道(歴史方面)

分冊百科『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』近日創刊

 諸事多忙なうちに月も変わりました。

 今日からNHK教育の「知る楽」という番組で、毎週月曜日全8回に渡って「鉄道から見える日本」という企画をするそうですが、その「語り手」が原武史氏。うーん・・・
 このような番組があることを小生は全く存じませんでしたが、図らずも複数の方からこの番組の存在についてご教示を受け、これは毎週視聴して批評記事を書けということかと思いましたが(笑)、目下のところは多忙でそんな余裕はありません。録画はしておきましたので、そのうち見ようと思います。

 ところで、鉄道ブームといえばまだ続いているようで、今月16日から全50巻の分冊百科で朝日新聞社からこのようなシリーズが発刊されるそうです。

 現在の鉄道に乗るばかりではなく、鉄道の歴史にも注目が集まるのは結構なことと思います。小生が聞いた話では、この分冊百科の歴史記事の執筆陣には、阪神の社史西鉄の社史の執筆者の方もおられるそうで、その記事の内容には充分期待が持てると思います。ご関心のある方は一つ如何でしょうか。
 個人的には、このシリーズが売れて、翌年に「私鉄編」が出ればいいなあと思います(笑)国鉄・JRだけでは日本の鉄道の特徴の半分しか抑えられませんので。
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by bokukoui | 2009-06-01 23:59 | 鉄道(歴史方面)

もっとも過酷な「鉄道むすめ」の仕事 8メートルの雪を除雪せよ

 前回の記事「鉄道と漫画・MATSUDA98篇 19才の『鉄道むすめ』はなぜ死んだか」の続篇です。というか、もはやマンガはあんまり関係なくなってきていて(苦笑)、当ブログでは以前にも戦前の鉄道業の従事する女性に関する記事を掲載し、原武史氏の謬見を正しておきましたが(サントリー学芸賞の鉄道本略論 番外(1) ~鉄道と女性・阪急篇~ / 同(2) / 同(3))、どちらかといえばその続きになるかも知れません。
 で、小生先日仕事であちこちの地方史をめくり倒しては鉄道関連の記述を集めるということをやっていたのですが、その中で大変よくできた地方史と鉄道関連の記述にぶつかり、大変興味深いので以下に簡単にご紹介する次第です。

 それは新潟県津南町が作った、津南町史編さん委員会編『津南町史 通史編 下巻』(津南町)というものです。津南町というのは新潟県の南西の端、長野県と県境を接する、信濃川沿いの地域です。そしてここは日本屈指の豪雪地帯として知られています。
 ここを走る鉄道はJR飯山線で、長野のちょっと北の豊野から、小千谷のちょっと南の越後川口まで、信濃川沿いに走っています。この路線は、豊野~十日町間が元々飯山鉄道という私鉄で、十日町~越後川口間は国鉄によって建設されました。
 建設に至るまでのさまざまな鉄道構想も興味深いのですが、本題から外れるので省略。このルートは東京~新潟ルートの候補だったことがありまして、それについては興味のある方は『津南町史』の記述が良くできているので読むといいでしょう。新潟連絡の鉄道構想全般については、今年交通図書賞を取った老川慶喜『近代日本の鉄道構想』(日本経済評論社)を参照のこと。

 では本題。
 このような豪雪地帯を走る鉄道にとって、冬期の除雪作業をどうするかは重要な問題です。除雪といえばラッセル車だのキマロキだのというのが有名ですが、結局最後は人海戦術です。これは豪雪地帯ではどこでもみられる話で、大体は地域の青年団とか消防団などが中心になって人を集め、除雪作業を請け負います。これはその昔では、豪雪地帯の住民にとっても、農業のできない冬に出稼ぎに行かなくても地元で現金収入が得られるメリットがありました。豪雪でどうにもならなくなると軍隊が出動します。旧日本軍の豪雪などの災害出動については、吉田律人さんの諸論文をご参照下さい(CiNii とかで調べてね)。
 で、これまで幾つかの文献で読んできたところでは、こういう作業は皆男がやっていたものでしたが、津南町の場合では女性も作業に参加していたという、これまでにあまり聞いたことのないことが記されていました。昭和初期の話です。

 飯山鉄道沿線の村では除雪組合を組織して、人夫の供給を請け負っていたのですが、その請負契約書では、人夫は身体強壮の18~45歳の男子、勤務時間7時~17時で賃金1日1円(当時の1円は現在なら3000円くらいかと思います)、時間外手当1時間10銭等々ということが定められていたそうです。ここでは「男子のみ」となっていますね。ところが実際には、1927~28年の冬の巻下集落(外丸村→現津南町)の場合、
・・・男子のみという契約にもかかわらず女子労働も認められ、80銭の日当が支給された。この年、巻下と外丸本村で男842人5分(賃金842円50銭)女111人(賃金88円80銭)計953人5分(賃金931円30銭)の実績になっている。
 
(註:除雪)組合は、(註:飯山鉄道)会社の支給する賃金から男子は1日15銭、女子は20銭を天引きして経費にあてた。この冬は総額148円57銭5厘の収入となり、交際費・監督の日当・事務費を控除したあと86円87銭5厘の残金が出たので、その半分を出動人夫に配当している。女子の賃金が一般に男子の半額といわれた時代だけに、天引き率も男子より高率に定められたのである。
(『津南町史 通史編 下巻』p.354)
 と、女性が除雪に動員されていたことが分かります。

 この後の推移を『津南町史』の記述を拾ってみていくと、1930~31年の冬には女子賃金の記載がなく、1933~34年の冬は豪雪で男子1704.1人・女子410.8人が出動し(端数は途中で帰った人などがいたのでしょう)、1936~37年の冬には少雪のため女子の出動はなかったようですが、1937~38年の冬には男子1873人、女子212人が出動したそうです。『津南町史』の資料編には詳しい資料が載っているそうですが、残念ながらそちらは未見です。
 出動人数に占める女子の比率からして、炊き出しみたいな補助作業ではなく、除雪本体の作業に従事していたのだろうと考えます。除雪作業は危険度も高く、これは近隣の『飯山市誌』に載っていた話ですが、橇に雪を載せて鉄橋から川に雪を捨てる際、雪が橇に凍り付いて橇ごと落っこちてしまい、それに巻き込まれて転落死したとか、除雪しているところに列車がやってきて、逃げ場がなく轢かれたといった事例があったそうです。
 戦時中車掌や運転士になった女性には、颯爽とした制服姿の乗務員の仕事に憧れをもってなった方もかなりいたようですが、全然颯爽としていない、危険で大変な、縁の下の力持ち的な仕事の従事していた女性もいたのだ、というお話でありました。
 いろいろ勘案すると、やはり雪が酷かったり(日本最大級の豪雪地帯ですから。もっとも、本当に雪が酷くなると除雪を諦め運休しますが)、発電所工事や戦争で人手が取られると、元々人口の多くないこういった地域では、女性の労働力も活用せざるを得なかったということでしょう。1935、6年頃は鉄道省に加え東京電灯の発電所工事も始まり、そして間もなく日中戦争となって、人手不足はますます深刻化したようです。

 ですが、折角なのでこれも、実際に若い娘がいたかどうかは別にして(やはり長野の製糸工場に出稼ぎに行ったんじゃ・・・)、フィギュアの「鉄道むすめ」シリーズを続ける際の案の一つに入れては如何でしょうか。
 「むすめ」の名前は「森宮のはら」を提案しておきます。何といっても飯山線の森宮野原駅は、1945年に7.85mという、日本の鉄道での積雪最高記録を樹立したところですので。ちなみにこの駅名は、最初新潟県の上郷村(現・津南町)羽倉に予定したところ、地形的に厳しいため長野県側の水内村(現・栄村)の森に変更したので、「森」に上郷村の地名「宮野原」も付け足して「森宮野原」になったそうですので(『津南町史』p.349)、この切り方はちょっとおかしいんですが、しかし何となく人名ぽくはあります。
 飯山線も経営状態がいいはずはありませんので、グッズでも何でも作って、除雪経費の足しにでもなれば、それはそれでいいのではないかと。

 ああそうそう、「森宮のはら」ちゃんの衣装ですが、これはもうもんぺしか。時節柄としても。で、藁靴にかんじきとかでどうでしょうか。

 ヨタ話は置いておいて、この『津南町史』の鉄道の記述は、この除雪組合の件のように、地元に残された史料をよく活用しており、興味が尽きません。全体の記述も、より広域の鉄道構想に目配りしつつ、飯山線と深い関係を持った東京電灯や鉄道省の発電所(鉄道省の発電所はJR東日本に引き継がれましたが、先日取水量を誤魔化していたことが発覚して水利権を没収されました)の建設とも関連づけ、地域にとっての意義を良く描き出しています。
 地方史の鉄道に関する記述については、以前当ブログでも青木栄一『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』(吉川弘文館)を紹介し、地方史にはあんまり検証もせず、「地元の反対で鉄道が来なかった」という、実際の史料上では発見できない話を書いてしまう、という問題点が指摘されていることを紹介しました。近年の地方史では、そのような記述はだいぶ影を潜めてきています。
 『津南町史』は1985年と結構以前の発行ですが、鉄道忌避伝説については、まず史料をあげて地域の鉄道誘致の熱意を示したのち、
・・・この時代は鉄道建設は総論賛成・各論反対(鉄道が自分の町を通るのは賛成だが自分の土地をつぶすのは反対)が一般的で、忌避伝説では「鉄道が通れば火事になったり風儀が乱れたりするから反対」という俗説が多いが、明治二十五年という早い時期に総論、各論とも賛成というのは見事であり、交通機関に恵まれていない津南郷住民の鉄道への協力が十分に察知される。
(『津南町史 通史編 下巻』p.343)
 と述べており、時期的にはかなり早い「忌避伝説」打破をした地方史ではないかと思います。

 『津南町史』でもっとも興味深いのは、飯山鉄道の寄付金強要問題です。
 ローカル私鉄の建設時は、株式を沿線の人に割り当て、あたかも「村祭りの寄付」のようにして資本を集めたというのはよく知られていることです。そして、株式応募以外にも、鉄道のために補助金を出したり、用地を寄付したりという話も全国各地に伝わっています。沿線住民の、「自分たちの鉄道」が欲しいという熱意で、この意識の残滓が、今になってローカル線廃止反対につながることもあるのではないかと思います。
 飯山鉄道もその例に漏れず、信濃浅野駅なんかについて用地を寄付したという話があります。ところが飯山鉄道はそれでもさらに金がなく、結局沿線の信濃川流域で水力発電所を計画していた電力会社に、建設資材の輸送を担うことを条件に出資して貰うことになりました。すると、
・・・信越電力の資本参加後、工事が信濃川・中津川の電源地帯に向かって進むにつれ、住民の考えも大分変わってきた。株式募集に応じたり、用地買収に協力するなどの通常の経済関係はみられたが、用地の寄附は少なくなり、また新潟県も南魚沼郡も補助金は支出していない。
 そこで飯山鉄道は、駅用地を寄附した地元とそうでないところとの間に公平を期するという理由で、停車場(駅)を設定する地域の地元から寄附金を徴収することにした。寄附に徴収とはそぐわない言葉だが、少なくともこの寄附金の実態は、自発的な寄附というよりは賦課金に近い・・・。
(『津南町史 通史編 下巻』pp.350-351)
 寄付金を徴収。確かにこれは、そぐわない言葉です。しかも会社が公然と要求したというのは、日本ではあまり例を聞いた覚えがありません。アメリカでは、「金払わないと線路つけないぞ」と鉄道会社が金を要求した例はよくあったようですが。
 実際、飯山鉄道は当初駅建設予定だった平滝を、寄附に熱がないからと横倉に変えてしまったのでした(のちに平滝駅もできますが)。そこで地元が払わされることになった寄附金、越後外丸駅6500円、越後鹿渡駅3500円。今のお金で外丸が二千数百万、鹿渡が一千数百万というところでしょうか。

 この資金調達と支払については、『津南町史』のこの部分の資料編を作成された瀬古龍雄氏が、「飯山鉄道と地元寄附金問題 不況期に金策に苦しむ零細山村の実態」という論文を『鉄道史学』1号(1984)に発表されています。

 それによれば、この寄附金は貧しい山村にとっては大金で、仕方なく当座は村が銀行から借りて払い、その後分割払いで鉄道におさめることになったのですが、折からの世界恐慌に農村不況でどうにもならず、すると鉄道会社の支配人から「はよ払え」と督促状が届きます。その督促状には、「払わないと鉄道省とかうちの社長が怒るよ」という趣旨のことが書かれていました。飯山鉄道の社長は、最大株主の東京電灯=当時日本最大の電力会社、というか当時日本最大の株式会社、の社長が兼務していました。
 これが多摩あたりで同じことをやれば、住民が逆ギレして鉄道本社が火の手に包まれたと思いますが(笑)、山村の住民はそれだけの力もなく、泣く泣く払ったようです。さらに金を借りていた銀行からも返済を迫られ、こっちは何とか利子を負けてもらって解決したとか。
 
 東京電灯の威光まで使って金を要求するとは、なんだかやってることがヤクザじみてますね。東京電灯はアメリカから電灯技術を導入して創業しましたが、アメリカから余計なビジネスモデルも学んできたんでしょうか。
 アメリカといえば、世界鉄道史上最悪の雪害は、アメリカの大陸横断鉄道の一つであるグレート・ノーザン鉄道が、カスケード山脈で雪崩に巻き込まれて96名の死者を出した事故だと物の本にあります。「ラッセル車」というのも、アメリカのラッセル社から買った車輌が最初だったのでそういう名前になったらしいです。
 で、アメリカ大陸横断鉄道といえば、太平洋岸では人手が少なかったので、中国人労働者を連れてきて働かせたことがよく知られていますが、飯山線の建設工事では、人夫の約8割が朝鮮人労働者だったそうです。
 ある意味飯山線は、「アメリカン」な鉄道だったのかと・・・


 というわけで、2回にわたって鉄道と女性関係の話をお届けしましたが、どちらの記事も実は後半にこそ小生の書きたいことがあったわけで、「鉄道むすめ」というワードに引っかかってここまで読んできてくださった方には期待はずれだったかも知れませんが、当ブログの仕様なのでご海容の程。枕にしてしまったMATSUDA98さんや読者の方には失礼いたしました。
 最後に一応話を元に戻してくるならば、「鉄道むすめ」的な話をもっとふくらますのだったら、観光案内的なものから地域に根ざしたものになることで、鉄道全体への好感度がもっと上がれば、そして交通体系への関心が高まれば良いと思います。それは物語作りの上でも手がかりになろうかと。
 それにつけても、鉄道の労働組合が暴走した挙げ句住民が怒る、という話を作った速水螺旋人先生のセンスにはほとほと脱帽する次第です。荒唐無稽なお話でも、ツボを押さえているから読者を唸らせるわけで、車輌の絵同様、知識に裏打ちされた速水先生のディフォルメの上手さだろうと思います。作品数が増えることで、こういった知識やツボの抑え方も、マンガの世界で広まっていけばと願います。

 「鉄道+女の子」もので、世界で一番流行ったのは、おそらくアメリカのMGM映画『ハーヴェイ・ガールズ』(1946)だと思います。ハーヴェイ・ガールズの話は当ブログでも何回かしましたが、この映画は、なんてったってアカデミー賞を取っているのです(ジュディ・ガーランドの歌による音楽賞ですが)。
 というわけで、「鉄道むすめ」も目指せオスカー! として、本稿をひとまず締め括ります。
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by bokukoui | 2009-05-13 23:59 | 鉄道(歴史方面)

鉄道と衛生の話・補足

 前回の記事「アメリカ本土にシャクティ・パット~野依秀市雑彙」を書くに至ったきっかけは、そちらに書いたように「虚構の皇国blog」を久しぶりにまとめて読んだことも一つでしたが、そこでもう一つ、過去に「鉄道の話題」 / 「鉄道の話(主として衛生に関する話)続き」という、鉄道社内のマナーについて記事を書いた者として、興味深い写真が紹介されていましたので、メモがてらリンク。

 戦前の列車の中はすっごく汚ないっ!

 これはいい写真ですね。弁当殻が車内の床に積み上がっています。
 早川氏が、このような状況の理由として、ゴミ掃除は身分ある者のすべきではないという階級的道徳の存在を示唆しておられるのは鋭いと思います。鉄道職員自体が官吏なので厳密な身分制度があり、弁当殻掃除は正規の官吏ではない、傭員クラスの仕事だったでしょう。もっとも、こういった仕事が衰退したのは、価値観の変遷云々以上に、結局他にもっと有利な賃仕事が普及した(戦時中は軍需産業があり、戦後は高度成長で工場などが増えた)ことによるものだとは思いますが。人件費が安く賃仕事の少ない時代、弁当殻掃除のような雑業は、特に地方では農業と掛け持ちできるお手頃仕事として、掃除する側にも一定のメリットがあったはずです。そもそも鉄道職員に「半農半鉄」という人は戦後も結構いたし。

 で、このような車内の風習が変わったのは、やはり1960年代のことで、国鉄側も意識的にそう誘導したのではないかと思います。
 以前の記事で、ネタ本に使った星晃・米山淳一『星さんの鉄道昔ばなし』に、新幹線をきっかけに車内のゴミを片付けるようになっていったという話があることを紹介しましたが、実はゴミ掃除についてはもうちょっと前の車輌にも記述があったことに気がつきました。
 それは、1959年に登場した、修学旅行用電車155系の話です。ちょいと引用。
・・・それから、ゴミ箱があるし、掃除の道具が付いてるでしょ。躾のためですよ。自分たちが使ったら、ちゃんと掃除をしてから降りる。そういう躾をちゃんとやるように、と。(p.98)
 というわけで、国鉄側が車内マナーを子供に躾けようと考えていた節があったようです。この当時の大人は、まだ戦前の「座席の下」マナーの世代だったでしょうが、大人は駄目でも子供なら、これからは電車を綺麗に使ってくれる、という思いがあったのでしょう。
 その背景を考えれば、やはり高度成長期で人手不足であり、車内清掃要員も戦前ほどは確保できないから、掃除自体をなるべく合理化することで乗り切ろうと考えたのでしょう。本書巻頭10頁に、星晃氏の設計理念が箇条書きで列挙されていますが、その中に「清掃に便利な構造的配慮」というのがありますし。或いは、星氏が車輌設計を学んできた、スイスの影響もいくらかあったのでしょうか。
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by bokukoui | 2009-05-10 23:59 | 鉄道(歴史方面)

文豪でない人の大陸横断鉄道~郡菊之助『旅と交通』(欧州篇)

 前回の記事の続き、郡菊之助『旅と交通』から、引き続きヨーロッパの旅程をご紹介します。
 本来こんな長い記事を書くほどのネタでもないので、今回は出来るだけ短く簡潔に。

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by bokukoui | 2009-03-03 19:00 | 鉄道(歴史方面)

文豪でない人の大陸横断鉄道~郡菊之助『旅と交通』(北米篇)

 前回の記事で小島英俊『文豪たちの大陸横断鉄道』を取り上げ、その末尾に「古本屋でたまたま発掘した、文豪でない人の大陸横断鉄道旅行記」云々と書きましたが、今日は引き続きその話。大陸横断鉄道というか、世界一周旅行のことを書いた本の話です。

 その本は郡菊之助『旅と交通』(永吉書房)という、1934年10月に出版されたA5版300ページほどの本(一応ハードカバー)です。著者の郡菊之助は名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)の教授で、国会図書館のOPACで著書を調べると、経済統計が専門だったようです。その名前で検索したら、日本統計学会が1931年に創設された際の発起人に名前があり、その方面では有名なのかも知れません。発起人中、有澤廣巳や蜷川虎三や中山伊知郎なら名前に見覚えはあるのに、郡の名前を今まで聞いたことがなかったのは、小生が統計学に疎かったことが大きいにせよ、国会図書館の検索で見る限り戦後の著書が妙に少ない(全38件中4件しかない)こととも関係あるのかも知れません。郡は1897年生まれだそうですが、そんなわけで没年も今のところ不詳です(1970年の著書があるので、その頃までは存命だったようです)。統計学会の歴史とかを見れば分かりそうですが、調べている暇も無し。
 古本屋で安く手に入れた『旅と交通』は前見返しに「贈呈 著者」と筆で書いてあったりしましたが(笑)、前半が「交通物語」と題して、交通に関するエッセイ的なものを18篇ほど集めたもので、ここはさほど面白い話は多いとは言えない印象です。後半が「欧米の旅」と題して、郡が1931年10月から33年7月まで行った外遊の模様を綴っています。もっともこれも、旅行先から日本の雑誌類に投稿した便りがベースになっている部分が多いようですが。郡教授は交通論も名古屋高商で講じていた由で、『趣味の交通学』なんて本も出しているようです(そっちの方が面白そうだ)。

 で、その郡の外遊コースがなかなか豪華なので、以下に概要を書いてみましょう。本文からの引用は新字体・現代仮名遣いに直してあります。

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by bokukoui | 2009-03-01 22:05 | 鉄道(歴史方面)

小島英俊『文豪たちの大陸横断鉄道』雑感

 暫く前に、友人が読んでいて題名に惹かれたので買った本について一筆。

小島英俊『文豪たちの大陸横断鉄道』(新潮新書)

 題名に惹かれたのは「大陸横断鉄道」であって「文豪」ではありません(笑)。大陸横断鉄道って言ったらやはりアメリカだよなあ、とアメリカ系鉄道好きとしてはあまり深く考えずに購入しました。
 ところで、買ってから気がついたのですが、この本の著者は『流線形列車の時代―世界鉄道外史―』の著者の方だったんですね。同書については当ブログでも以前取り上げたことがありました。もっとも『流線型列車の時代』についての感想はちょっぴりで、そこから何故か当時放映していたアニメ『SoltyRei』の話になっていくんですけど(笑)。

 さて本書は、夏目漱石・永井荷風・里見弴・林芙美子・横光利一・野上弥生子の六人の作家の紀行文を引用しつつ、20世紀前半の鉄道・汽船最盛期の世界の交通の模様を振り返ろうというものです。
 で、「大陸横断鉄道」と表題にうたいつつ、やはり日本の作家の紀行文を元にしていますから、最初の三分の一ぐらいは満州関係で、あんまり大陸横断ではないのでした。また大陸横断はシベリア鉄道がメインで、アメリカの話は最後に二十数ページ程度でした(この本の本文はちょうど200ページくらいです)。ちょっと残念。
 前作は、文章があまり読みやすいとは言えなかったところもあったのですが、本書ではその点は改善されて読みやすくなっていると思われます。扱っている題材は魅力的なものですし、シベリア鉄道経路が道中の不安や設備の貧弱さからあまり利用されていなかったという説明はなかなか興味深いところです。
 また、あまり日本では紹介されていなかったイタリアの昔の鉄道に触れているのも嬉しいですね。ただ、日本の長距離電車に影響を与えたのがイタリアだというのは(pp.185-6)、どうなんでしょうか。「最も影響を受けているのは間違いなくイタリア」とまで言い切っていいのか、やはり素直にアメリカで良いように思われますが。そのアメリカの電車、インターアーバンについても、最後の箇所でちゃんと紹介しています。

 わりと面白く一息にすぐ読める本で、その点『流線型列車の時代』とは対照的です。ただそれを美点と言い切ってしまって良いのか、鉄道に関する説明はあっさりで、ちょっと物足りない読後感もありました。それは趣味の偏った鉄道趣味者のつけた因縁であって、昨今の「鉄道ブーム」にかこつけて、鉄道と昔の話に興味を持った(でも詳しくはない)層に向けて売る新書としては、妥当な方向性なのかも知れません。文学作品に書いてある鉄道ネタを綿密につつき回しすぎて読者を辟易させてしまった松下了平『シャーロック・ホームズの鉄道学』という本もありましたし(小生も以前サイトのネタに使いました)。
 しかし、一方本書は文学評論という性格でもありませんで、この6人の作家を取り上げる理由が何か文学上の意義があるというわけでもなく、その作家の作品に及ぼした影響などを解説しているわけでもないので、どっち付かずな印象をも受けるわけです。文学+鉄道という本を今から書くのが難しいのは、小池滋『英国鉄道物語』の水準の高さというのが一つあるかも知れません。

 読んでいて首を傾げた箇所を一つ挙げれば、表題に銘打っている「大陸横断鉄道」のうち、アメリカのそれについて、「7ルートもあった北米大陸横断列車」という節を設け、その地図を載せています(p.197)。北からカナディアン・ナショナル(CN)、カナディアン・パシフィック(CP)、グレート・ノーザン(GN)、ノーザン・パシフィック(NP)、ユニオン・パシフィック(UP)、サンタフェ(SF)、サザン・パシフィック(SP)というわけです(サンタフェのフルネームはアチソン・トピーカ&サンタフェなので、略称はAT&SFと書く方が多いと思います)。
 ですが、これでは2ルート欠けています。シカゴ・ミルウォーキー・セントポール&パシフィック(CMSTP&P or MILW)のルートと、ウェスタン・パシフィック(WP)およびデンヴァー&リオグランデ・ウェスタン(D&RGW)の連携によるルートです。なるほどこの2ルートは完成したのが遅い分マイナーかも知れませんが、著者の小島氏は前作『流線型列車の時代』でミルウォーキー鉄道やWPの列車を取り上げているので、ご存じなかったはずはないのですが。ミルウォーキー鉄道は流線型の超高速蒸気機関車を造ったり、ロッキー山越えの区間を延べざっと千キロも電化して当時世界最強クラスの電気機関車を走らせたり、そんな投資をしまくったせいでアメリカの鉄道の黄金時代だったはずの両大戦間に三度破産したり、話題も多そうな会社のはずです。

 地図について細かい文句を言えばきりがありませんが、この二つを足して9ルートというのでも、あくまでもそれはメインラインであって、列車の運行経路としてはまだ足りないだろうと思います。あいにく小生は昔のアメリカの鉄道の時刻表を持っていないので詳細は分かりかねますが、こちらのブログ「蒸気機関車拾遺」さんの記事「米大陸横断1」「米大陸横断2」の記事をご参照下さい。特に「2」には、1946年のアメリカ大陸横断鉄道の概念図が掲載されていますので、ご興味のある方は是非ご参照ください。この地図も細かく見れば、ん? な所もないではないですが。
 ちなみに小生が地図云々言っているネタ本は Yenne,Bill Atlas of North American Railroads です。これは西山洋書のセールで見かけて買ったのですが、アメリカの鉄道マニア(多分)が個人的にコレクションしたらしい鉄道路線図(1950年代頃のが多い)を一冊にまとめたものです。会社の選択基準は多分、著者が手に入れられたかどうかなんでしょうが、主要な鉄道会社は一通り集められているようで、カナダのCNとCPも載っています。地図に各社の簡単な歴史が付けられていて、小生のような、それほどディープではないけど一通りのことを知りたい、という程度の人間にはうってつけの本でした。これを読んで、漸くアメリカの鉄道各社のネットワークがどのようなものか、概要が掴めました。あとはこれに時刻表(Official Guide)があれば・・・(各社ごとに無料配布していたような戦後の時刻表なら、古本屋で幾つか見つけて買ったのですが)。

 ところで、文学部卒業のくせにあまり文学を読まない小生ではありますが、荷風の作品は幾つか読んだものでした(小生のHNと荷風作品は無関係です)。ただ『あめりか物語』はちゃんと読んだことがなかったので、荷風がアメリカでインターアーバンの電車に乗ったということは知りませんでした。本書によると、シアトルとセントルイスと、二箇所で乗っているそうです。
 電車についての説明は本書ではそれ以上ありませんでしたので、そこでこれまたネタ本を当たりますと、荷風がシアトルからタコマまで乗ったという電車は、Puget Sound Electric Railway という1902年にシアトル~タコマ間36マイルを結んだ鉄道のようです。この頃としては先進的な鉄道で、第3軌条方式を採用したインターアーバンの早い例だそうです(もちろん第三軌条方式は郊外の専用軌道区間で、市内の路面区間は架空線方式ですが)。荷風が米仏生活を終えて帰国すると、東京にも路面電車が開業していましたが、荷風はその架空線が風致を害すると酷評しています(『日和下駄』)。PSEの第三軌条方式を見ていた影響がもしかするとあったのかも知れません。・・・と、鉄道の情報を一応文学と結びつけてみました。
 ちなみにこの鉄道、シアトルとタコマを最速では70分(表定ほぼ50km/hの計算になります)、30分ヘッドで結んでいたそうです。でも1928年廃止。経営者が鉄道事業に熱意が乏しく、赤字が出るとすぐ見切りを付けたのだとか(だから車輌はゼロ年代・笑 に投入した木造車のままだったらしいです)。
 セントルイスの方は、郊外に延びる路線が複数あって、残念ながらそのどれかは今のところ分かりません。もっともセントルイスの電車は、インターアーバンというよりは、セントルイスと郊外を結ぶ郊外電車という性格だったようです。これらの路線の中には、1891年という極めて早い時期に開業した路線もあったとか。
 この辺のネタは、これ一冊あればとりあえずアメリカのインターアーバンのことは一通り分かるという有難い本、Hilton, George W. & Due, John Fitzgerald The Electric Interurban Railways in Americaでした。英語の不得手な小生が、そんなに英文サイトを漁りまくって記事なんか書くはずがありません(苦笑)。

 気がつけば記事が随分長くなっていました。これだけ話の種になるということは、やはり結構面白い本であったという証左ともいえます。読書ガイド的な性格もある本ですから、本書からこのように話を広げるというのは、案外正しい読み方なのかも知れません。
 さて、マニア的な細かい話ばかり書いていても何ですし、ことのついでに趣向を変え、古本屋でたまたま発掘した、文豪でない人の大陸横断鉄道旅行記を紹介しようとも思ったのですが、諸事多忙に付きまた今度。

※追記:文豪でない人の話はこちら→北米篇欧州篇
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by bokukoui | 2009-02-26 22:57 | 鉄道(歴史方面)

「近代日本のおみやげと鉄道」補足・質疑応答摘録

 もう半年近くも前のことですが、歴史民俗博物館の主催する歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」に行き、当ブログにレポを載せました(前篇後篇)。その中に登場した、鈴木勇一郎さんの「近代日本のおみやげと鉄道」が、別のさる学会にて再度発表されました(それも既に昨年末なのですが)。
 で、歴博フォーラムは会場の都合上、あるいはイベントの都合上、会場内からの質問受付タイムというのはなかったのですが、こちらの学会では質問の時間が設けられました。なかなか興味深いやりとりがありましたし、以前の鈴木さんの講演を理解する助けにもなろうかと思いますので、補足記事としてこちらに記させていただきます。小生が取ったメモをもとにしておりますので、文責はすべて小生にあります。質疑が噛み合わないように見えたら、それはまとめのせいです。

 まず、前提としてこちらの鈴木さんの講演要旨をご参照ください。そうでないと、多分意味が分かりません。
 では、以下質疑応答。

・質問1:おみやげには保存期間が大事だと言うが、明治以降のおみやげの保存期間はどの程度か。
→赤福の場合を例に取ると、1日~2日程度。

・質問2:鉄道弘済会のキオスクは弁当を扱わなかったというが、既得権を持つ業者との関係はどうだったのか。
→時代が下るにつれ、駅での販売というのは制度化される。しかし完全に弘済会に一本化されることはなかった。

・質問3:今回の報告では東海道本線のおみやげがメインだったが、東海道以外、私鉄などではどうだったか。鉄道会社自体が自ら売り出したりはしていないか。
→鉄道会社直営おみやげは見あたらない。私鉄の詳細は不詳であるが、山陽鉄道の岡山駅ではキビダンゴが有名だった。ただしこれは「吉備団子」で黍は入っていない。山陽鉄道で売られてメジャーになった。

・質問4:八つ橋の歴史で、同社のサイトによれば七条駅で売り始めたというが、京都駅では売れなかったのか。(註:「七条駅」は奈良鉄道→関西鉄道→現奈良線の京都のターミナルを指す。官鉄→現東海道線の京都駅と違う扱いだったらしい)
→直営か委託かは不明。一次史料がなく詳細不明。
・会場からの指摘:官鉄の京都駅も当時「七条」と呼んでいた。

・質問5:講演冒頭の大英博物館の評価が引っかかる。おみやげが日本特有とするなら、鉄道だけではおみやげの存在は説明できない(発展は説明できても)。近世以来の伝統ではないか。
→この講演では鉄道に引きつけて論じた。近世以前の要素はかなりおみやげに影響している。しかし近世から直線的に今に結びついているわけではない。近代的な装置を媒介として発展。

・指摘1:鉄道唱歌の京都では、「おしろい、紅」が京都の土産で登場、「鷺知らず」という菓子も歌詞に出てくる。
註:鉄道唱歌(東海道篇)の53番。
 扇おしろい京都紅
 また加茂川の鷺しらず
 みやげを提げていざ立たん
 あとに名残は残れども
・質問6:講の影響はどうか。
→共同体が発達していたからこそおみやげが発達してきたのは確か。しかしそれでは、おみやげの現状が説明できない。

・質問7:駅での大量の食事供給という点で、軍の影響は。駅弁の発展には影響していたはず。このノウハウがおみやげに影響していないか。
→軍は自分で食糧供給を行える団体で、そもそもなんで駅弁を使うようになったかが謎。慰問品として名物は利用され、また修学旅行の影響はあったはず。

 以上、かなり活発な質疑があり、それだけこの講演に寄せられた関心も強かったということでしょう。

 余談ですが、講演開始前、鈴木さんに「前回のお話と同じ内容ですか?」と壇の前で小生は伺ったりしていたところ、突然学会の偉い先生が「では始めましょう。墨公委君、司会宜しく」と仰っていきなり司会を仰せつかり、実は結構あがり症なもので内心震え上がりました。が、幸いこれらの質問も無事に捌ききることが出来ました。あとで聞いたところ、偉い先生は前で鈴木さんと小生が打ち合わせをしているのだとばかり思われたそうです。
 あ、でも一つヘマをしたな・・・最後に自分も質問をしたのに、そこを書き留めておりませんでした。そして記事を書くまで間が開きすぎて忘却。無念。

 余談はともかく、大変興味深いお話でした。これをきっかけに、おみやげや駅弁(この両者の系譜が重なるのか違うのか、それも要検討のポイントでしょう)についての研究も深まると、日本の鉄道、ひいては日本文化の特徴を知る上で、少なからぬ貢献がなされることでしょう。
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by bokukoui | 2009-02-06 23:33 | 鉄道(歴史方面)

『西日本鉄道百年史』発行 一足早くちょこっとご紹介

 昨年創業百周年を迎えた西日本鉄道(細かくいえばその母体の一つとなった九州電気軌道の創業から百年です)では、それを記念して『西日本鉄道百年史』を発行しました。
 西鉄による公式の案内は以下のリンク先をご参照ください(リンク先はpdfです)。

 「西日本鉄道百年史」の発行について

 で、これは今月から一般にも7000円で頒布の予約を受け付けているそうです。ネットから申し込む場合は以下のリンク先のフォームから申し込めばいいようです。

 西鉄創立100周年記念 「西日本鉄道百年史」頒布のご案内

 申込は3月6日まで受け付けている由ですが、「※在庫がなくなり次第、頒布を終了させていただきますので、あらかじめご了承願います。」ということなので、ご興味のある方はお早めにどうぞ。今のところは受け付けているようです。西日本鉄道といえば大手私鉄の中では小規模ですが、バス会社としては日本最大の企業でありますから、鉄道趣味者のみならずバスマニアの皆さんも是非購入を検討されては如何でしょう。受付終了後、3月上旬に配送の予定だそうです。
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外見 A4版814ページでかなりの大きさ

 さて、3年前、小生は当時発行された『阪神電気鉄道百年史』を購入しましたので、今回も早速申し込んだ・・・かというとそうではなく、上の写真のように実はもう既に手許に一冊あるのです。図書館で借りてきた? いや、まだ大学図書館にも地域の図書館(横浜市)にも、国会図書館(借り出せないけど)にも配架はされていないようです。送ってはいるだろうと思いますが。
 どういうことかといいますと、3年前に阪神の社史を買うぞー!と当ブログで宣言した時、「院生仲間で某私鉄の社史編纂の作業の一部をお手伝い」していて、そのバイト代で阪神の社史を買うのだとか書いておりますが、それがこの西鉄百年史だったわけで、そのご縁で一冊頂戴した次第です。小生もバイトしたことをあらかた忘れておりましたので、思いがけずバイト代の他にこのようなご厚意にあずかり、まことに嬉しく有難いこと。ので、少しでも多くの人に本書の存在を知っていただこうと、このブログでも微力ながら宣伝させていただきます。
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箱から出したところ

 A4サイズと大きめの本体を収める箱は、およそ4センチ半くらい厚みがあり、かなりの迫力です。写真では分かりにくいですが、表紙には"Nishi-Nippon Railroad" と布の装丁に刻み込んであります。"Raiway" ではないんですね。
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百年史対決 ライオンズ対タイガース?

 並べてみました。B5の『阪神百年史』より、A4の西鉄の方が一回り大きいですが、ページを数えると前者が900ページ余なのに対し後者は800ページ余と、見た目よりは差が少なくなっています。更に興味深いのは、重さを体重計で測ったところ、阪神が約2キロだったのに対し西鉄は約2.4キロと、見た目には容積の少なそうな西鉄の方が重くなっております。
 これは恐らく、西鉄の方が良い紙を使っているためではないかと思います。即ち、西鉄の社史が(恐らく)フルカラー故に、こうなっているのでしょう。以下に見本程度に中身を紹介します(社史の写真を載せている報道もありますが、あまり綺麗さがよく現れていない感がありますので)。
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フルカラーのお陰で見やすい鉄軌道路線の沿革図

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写真、表、グラフがフルカラーでふんだんに盛り込まれた紙面
(この写真のみクリックすると拡大表示します)

 と、たいへん見やすい構成になっています。写真や図表を数多く活用していることは、資料的にも読み物としても、実に有用なことと思います。

 形式的なことばかりで中身について書いていませんね。実はこのところ諸事に追われて、なかなか読む暇が取れないのです。おまけにこのサイズと重さでは、出かけるついでに携行して電車の中で読む、というわけにもなかなか行きませんで・・・
 というわけで、読んだ感想は後日とさせていただきますが、それだけで終わるのも何なので、以下に目次の概要を挙げることで内容紹介に代えさせていただきます。
歴史編
第1章 鉄軌道の創業(1900~1919)
第2章 都市交通の発展(1920~1937)
第3章 西日本鉄道の成立(1938~1949)
第4章 復興から成長への経営発展(1950~1963)
第5章 運輸事業の停滞と経営効率化(1964~1975)
第6章 経営の再編成と多角化(1976~1985)
第7章 天神ソラリア計画と21世紀の経営基盤づくり(1986~1997)
第8章 規制緩和とグループ経営(1998~2006)

現況・未来編
第1章 100年の歴史を貫くもの~未来へ継承される西日本鉄道の革新的DNA~
第2章 西日本鉄道の現況~100年目の到達点と課題~
第3章 第2の世紀へ~西日本鉄道が目指すもの~

資料編
 感想はまた後日書ければと思いますが(せめて自分の関心のある戦前だけでも)、西日本鉄道の成立以降次第に鉄軌道の地位が低下していく様相が目次からも伺えて・・・まだ収益最大の部門は自動車事業のようですが、バスを分社化していったものでだいぶ減少してしまい、この調子では間もなく航空貨物と不動産に抜かされそうです。つまり現状、この三部門は同じくらいの収益規模で、鉄道が一番収益少ないんですね。こういったことが分かるのも資料編が充実しているからで、数字ばかりのページもすべてカラー印刷の凝りようです。
 最後に、執筆陣を奥付から引用紹介しておきます。
監修
 老川慶喜 橘川武郎
執筆
 高嶋修一 歴史編1~3章
 老川慶喜 歴史編4~5章
 橘川武郎 歴史編6~8章、現況・未来編1章・2章1節・3章
 神﨑公一郎 歴史編6~8章、現況・未来編2章2節
 福原信彬 歴史編6~7章
 宮崎仁士 歴史編6~8章、現況・未来編2章2節
 田中滋幸 歴史編6~8章
編集協力
 高橋伸夫 鈴木文彦 塚本雅啓
 総じて、このボリュームとクオリティで7000円というのは、たいへんお値打ち価格と思いますので、品切れになる前に関心のある方は申し込まれるべきと思います。ダイジェスト版もあるそうですが、ここはケチるところではないでしょう(もっともダイジェスト版は見ていないのですが)。
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by bokukoui | 2009-01-26 23:42 | 鉄道(歴史方面)