カテゴリ:鉄道(歴史方面)( 67 )

「象の鼻パーク」の転車台と軌道跡について 補足情報・異説など

 去る日曜日に公開された、横浜港の「象の鼻地区」の「港の貨物線の鉄軌道及び転車台」について、見学記を先日書きましたが、関連する情報や補足すべきことなどがいくつかありますので、引き続きご紹介をば。

 では、ネット上で得られた情報をいくつか。
 まずはニュース。神奈川新聞・カナロコより。

 「遺構3点セット保存展示へ/横浜・象の鼻地区」
 「横浜の象の鼻地区/港の歴史語る遺構一般公開」

 前者は保存決定を伝えた8月のニュース、後者は先日の、小生も見にいった見学会の模様を報じたものです。
 次いで、鉄道雑誌の名取編集長が執筆しているブログ「編集長敬白」より。

 横浜港で“出土”した転車台群。(上)
 横浜港で“出土”した転車台群。(下)
 横浜港で“出土”した転車台群・続報。(上)
 横浜港で“出土”した転車台群・続報。(下)

 前二つの記事は、日本鉄道保存協会の関係者が見にいった折のもので、後半はその後寄せられた様々な情報を紹介しています。写真が多くあるのみならず、鮮明な図面や絵はがきなども紹介されており、興味のある方は是非どうぞ(そのような方からは、とっくに見たよ、という声が聞こえてきそうな・・・) 

 個人のブログから二つご紹介。

 「まちなみとでんしゃ」さん「横浜の鉄道風景 その1 ハマの転車台」
 「猫猿日記+ちゃあこの隣人+」さん
 どちらも、この転車台の上に長年鎮座していた倉庫の写真があり、公園化工事以前の様子が分かります。

 さて、この転車台について、小生は見学記中で、「なぜ穴をこんなに深く掘ったのでしょうか」という疑問を提示し、「注油用のスペース確保」などの説を紹介しました。この件について別の意見を聞きましたのでご紹介いたします。
 まず、話を分かりやすくするために、この転車台の簡単な模式図を以下に示します。
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発掘された転車台の横断面の模式図

 いかにも、ペイントで5分で描いたようなテキトーな図(苦笑)ですが、ご寛恕下さい。黒の線が縁石と煉瓦積みの土台、茶色が天板とそれに取り付けられた腕・軸受(天板中央の空白部はマンホール)、左右の赤が車輪、真ん中の赤が軸です。

 上で挙げた名取編集長のブログ記事に、日本鉄道保存協会の関係者がこの転車台を見に来たことが記されていますが、小生その中のさる先生にお会いする折がありましたので、なぜわざわざ穴を掘って、腕をつけたりしたのか、という疑問を伺ってみました。
 すると指摘されたことが、小生は見学記に「肩の滑車で天板の重量を受け、真ん中の軸は中心を出す役割だけを持っているのだろう」と書いたものの、そうではなくてむしろ逆であり、真ん中で載っかった貨車の重量を受けているはずだ、というのです。そして、腕を三角に組んであるのは、強度上の理由ではないか、ということでした。いわば橋梁におけるトラスのような役割を、腕が果たしているわけです。また、天板にかかる力を分散させることもあるのかもしれません。天板に乗った貨車の重量が中心の一点に集中したら、板が持たないかもしれないということです。
 言われてみれば、いわゆる「転車台」、蒸気機関車を方向転換させるものの多くは、真ん中で荷重を受けていました(真ん中と両端と、3ヶ所で重さを受け止める「三点支持式」という転車台もありますが、それは20世紀の新しいものだとものの本で読んだ覚えがあります)。その方が転車台を回す力が軽くて済むそうです。
 転車台の車両が載る部分というのは、いわば小さな橋のようなものですから、トラスで補強するという発想もありそうです(軽便鉄道の小さな転車台で、レールをへの字に折り曲げた補強をつけたものの写真を見た記憶があります)。この点はその場に居られた、理系の憑かれた大学隠棲氏も指摘するところでありました。
 また、この天板の材料については、鋳鉄でなくて錬鉄などかもしれないと仰ってましたが、鋳鉄の場合は特に、圧縮力には強くても曲げには弱いので、トラスで補強する意味はありそうですね。

 ちなみに先生方が転車台を見にいかれた時は、19日の見学会のように天板を外したりはしなかった代わりに、マンホールの蓋を開けて中を覗き込んだそうです。そして、「試しに回してみたら動いた」(!!)そうで、しっかり作られていて保存状態も良かったのだと察せられます。今でも回せるほど、回す力が小さくて済んだということは、これも中心で重量を受けていた証左、になるのかどうか。

 もう一つ、「(わざわざゲージを1067ミリにしたというのは)国鉄の貨車は入れたのでしょうか」という点に関しては、これについてはG氏(見学記参照)からも後でご指摘いただきましたが、大きさからしても耐えられそうな重量からしても、普通の貨車は入ってこれなかっただろう、とのことです。

 以上、いろいろな情報が集まりましたので、皆様に感謝しつつ、纏めさせていただきました。

※追記:公園「象の鼻パーク」として整備・公開された状況は以下の記事をご参照下さい。
 「象の鼻パーク」の現況・転車台の保存状況を見る
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by bokukoui | 2008-10-23 23:35 | 鉄道(歴史方面)

「象の鼻パーク」の転車台と軌道跡見学記

 先週の記事で紹介した、横浜港の「象の鼻地区」の「港の貨物線の鉄軌道及び転車台」を見てきました。以下にその見学記を(※この記事以外に、続篇もありますのでそちらもどうぞ)。

 この日は畏友たんび氏(氏も鉄道趣味者で、かつ貨物線に少なからぬ関心を抱いておられます)を誘って横浜に赴きました。
 13時からの見学会の前に、まず後述のG氏に教えていただいた、山下公園で開催中のインド関係フェスティバル「ディワリ・イン・ヨコハマ」を覗き、カレーなど食します。一番怪しそうな店にしよう、と二人の意見が一致し、そして同じ店を選定したのは慶賀の至り。
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まだ開場後まもなく、比較的空いている「ディワリ・イン・ヨコハマ」

 早い時間でまだ空いていたのがもっけの幸いでした。昼間からインドビール試飲の誘惑に駆られますが、後のイベントとおのが体型を考慮して踏みとどまります。揚げパンのようなもの(名前失念)がなかなか美味しゅうございました。
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マリンタワーは改修中、天気はやや雲が多く残念

 やがて昼が近くなり、家族連れなどで次第に混み始めました。我々は次なる目的地に向かいますが、その途中山下公園では海中のゴミをダイバーが拾うというイベントをやっておりました。
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氷川丸を背景に集合するダイバーの方々

 我々が次に向かったのは、これは小生が大学に張ってあったポスターで知ったのですが、26日まで開催している横浜開港資料館の展示です。名前が売り飛ばされなくて良かった良かった。
 で、開港資料館の展示は「白船来航」と題し、今からちょうど百年前の1908年10月に、世界一周航海の途中日本に来航したアメリカ艦隊(艦隊を白く塗っていたので「白船」と呼ばれた)に関する資料を展示しています。これはアメリカ海軍力の伸長を世界にアピールする意図があり、日露戦争に勝利した日本への示威も目的ではあったのですが、いざ来航してみれば日本では大歓迎のお祭り騒ぎだった、という件。確かに、「こんなものまで!」という記念品、おみやげの類には目を見張ります。
 鉄道趣味者的には、アメリカ海軍軍人向けの乗車券などが目を惹きますが、これは鉄道国有化から鉄道院発足までのごく短期しか存在しなかった官庁、帝国鉄道庁発行になっているのが珍しいところです。当時のマスコミがアメリカ艦の写真を載せ、また絵はがき(当時の有力広報メディア)になったものも展示されていました。軍艦好きとしては、この頃は弩級艦の由来であるドレッドノートが完成したばかりの頃で、弩級艦以前の味わい深い艦形の戦艦やら装甲巡洋艦やら、それを出迎えた日本艦隊ともども見ていて楽しいものです。

 見ているうちに見学会の時間が迫ってきたので、残念ながらそこそこで打ち切って出ます。会場は既に開いていて、人が入っている様子です(後で聞いた話では、時間前に人が集まってきたので、早めに開けたそうです)。
 たんび氏と小生は「何人ぐらい来ますかね」「30人くらいじゃないですか」「4、50人は来るのでは」などと会話しながら会場に入りましたが、自分たちの見方の甘さを思い知らされました。
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見学会の解説に集まった人々(の、一部)

 100人以上来ていたことは確かに思われます。自分のことは棚に上げて、何でこんなマニアックで渋いものを見にこれだけの人が集まったのかと驚きました。流石にお年を召した男性の方が多かったのですが、女性の姿もあり、あまつさえ若い女性やカップルまでいたのは、やはり観光地である横浜ならでは、なのでしょうか。普通カップルでいきなりこんな所に連れてきたら、別れ話ものと思いますが・・・

 閑話休題、解説は、まず港湾局の方が出てこられ、ついで講師の堀氏と米山氏(この本で星晃氏にインタビューしてた人)が、港湾の歴史および鉄道の歴史の観点から解説を加え、その後かなり活発な質問が出されました。15分の予定とありましたが、30分はかかったと思います。
 この場所で、小生は旧知の軍艦マニアの方々に久しぶりにお会いしました。「三脚檣」のNさんとGさんです。技術と歴史に途方もなく詳しい方々で、この方々と色々お話を伺ったことで、自分一人で見に来たのでは気がつかなかったであろう多くの知見を得ることができました。

 話が先走りました。
 解説の内容を適宜織り交ぜつつ、軍艦マニア両氏の見解を参考にさせていただいて、肝心の物について説明しましょう。以下の写真はクリックすると拡大表示します。
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転車台と軌道跡 写真奥が海側

 これは、横浜港で明治から大正時代にかけて使われていた、港の荷役用の軌道と転車台(当時は旋車盤とか言っていたらしい)です。明治20年代に建設され、今回発掘された軌道と転車台は、税関の海側に面した位置のものでした。これらの施設は関東大震災で被害を受け、震災によって出た瓦礫で埋められてしまいました(転車台や軌道の周りに転がっている煉瓦の欠片は、その瓦礫のようです)。その上に戦後倉庫が建てられ(倉庫の上屋は霞ヶ関の海軍航空隊で格納庫として使っていたものを転用したのだとか)、最近まで倉庫用地となっていました。それが、再開発でこの辺り一帯を公園化することになり、倉庫を撤去して土地を整備していたところ掘り当てた、という経緯になります。以下に見学会で配られていたチラシを載せておきます。
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配付された資料 地図と写真に注目

 この軌道は、ゲージ(レール同士の間隔)が3フィート6インチ、1067ミリあって、JRはじめ日本で一般的な線路と同じ規格です。当初は孤立した港の中の軌道でしたが、後に港が拡張されると貨物線と接続したそうです。
 一方、転車台の直径は8フィート、約2.4メートルほどで、蒸気機関車を方向転換させるものと比べるとごく小さなものです。上のチラシで、トロッコらしきものが写っている写真が載っていますが、このような人力で押す小型の車輌を、荷役用に使っていたのだろう、ということです。ポイントでなく転車台なのは、場所の節約の他、手で押す車輌の場合はカーブがあると抵抗が増して押すのが大変なので、なるべく直線で軌道網を構成しようとしたためではないか、との米山氏の説明でした。この地域には40箇所以上も、このような転車台があったそうです。技術的には、このような貨車用の転車台はイギリスで多く見られるとのこと。
 現在のところ、転車台の天板(正式にはなんと呼べばいいのか分からないのですが、鉄で出来た円盤の部分をこう呼ぶことにします)やレールのメーカーは分からないそうです。工事を発注する広告はあるそうですが、レールなどは今後調査してロールマークがあれば・・・との由。明治20年代ではまだレールの国産化は始まっていませんから、輸入なのは確かでしょうが、一体どこから輸入したんでしょうね。
 ところで、上の地図によれば、この附近にはまだまだ線路も転車台もあるはず。今後さらなる発掘は行われるのでしょうか。これ以上見つかっても困る、というのが当局の本音かも知れませんが・・・

 さて、今日の見学会では、ご丁寧に転車台の天板を載せた状態の、外した状態と、両方の形を見せてくれていました。より細部に迫って見てみましょう。
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転車台(一番海側のもの)

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転車台の天板を外したピット

 転車台の構造は、井戸のような丸いピットを掘って、周りを煉瓦で固め、縁を石で囲っています。真ん中に軸が付き出していて、ピットの中の肩の部分に8つの滑車が置かれています。この上に天板が載っているわけです。縁石には、天板を固定するための金具を差し込む穴が設けられています。
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転車台の天板

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転車台の天板 側面から(腕と軸受に注目)

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天板を支える車輪(やや縁石が崩れた箇所から撮影)

 転車台の天板には車輪を通すための溝が刻まれ、真ん中にはマンホールがあります。横から見ると、天板の下面には斜めに腕が取り付けられ、軸受らしき部品が腕の先に取り付けられています。
 回すためのハンドルなどはなさそうで、載せた貨車そのものを押して回転させたのでしょう。

 軍艦マニアの方々に色々お話を伺いましたが、まず話題になったのが、何で穴なんか掘ってあるのだろう? ということでした。肩の滑車で天板の重量を受け、真ん中の軸は中心を出す役割だけを持っているのだろう、と考えられますが、なぜ穴をこんなに深く掘ったのでしょうか。軸を据え付ける面も、滑車と同じ高さで構わなさそうです。
 ピットは煉瓦が10段は積んであって、かつ縁石がありますので、深さは70~80センチくらいありそうです。この転車台や軌道の水準は、横浜港の満潮時水面から69センチしかなく(この一帯を公園として整備する際は、海面から3メートル以上の高さにするそうです)、台風で高潮の時満潮が来て、海から風が吹いた日にはえらいことになりそうですが(震災以前はもうちょっと高かったのかもしれませんが)、なぜわざわざそうまでして穴を掘ったのでしょう。
 ここでN氏から出た意見としては、マンホールを設けていることからして、軸受や滑車に注油をする必要があり、その際の作業スペース確保のためではないか、ということでした。なるほど、注油の際にいちいち天板を持ち上げるのは、いかにも重くて大変そうです。しかしそれにしてはここまで穴を掘るのも大仰とも言えるかもしれません。

 この重そうな転車台の天板ですが、おそらくは鋳物で一体成形されているようです。勿論腕と軸受けはボルトでつないであるのでしょう。厚みは貨車を支える必要からかなり厚そうで、縁を見ると1インチくらいはあるのかなと思われます。
 これだけのものが当時の日本で国産できたのでしょうか? G氏のご意見では、イギリス辺りでこういった貨車転車台の規格があって、メーカーに注文すれば規格通り製作してくれたのではないか、との見立てでした。腕と軸受、ピットの複雑な構造も、海外の規格に理由があるのでは、とのお説でした。確かに、海外(特にイギリス植民地)との比較検討が、この転車台の意義の解明には必要でしょう。
 
 写真で分かるとおり、転車台に繋がるレールは、縁石から斜めに傾いてずり落ちているような感じになっています。
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縁石とレールの関係(海側から2番目の転車台)

 これは、おそらく元々枕木を敷いてレールを敷設していたのが、長い年月で枕木が朽ちて消滅し、支えがなくなって傾いたのだろう、との意見でした。この上によく無事に倉庫が載っかっていたものです。
 また、たんび氏が疑問として挙げられたのは、関東大震災で地盤が傾くなどしてこの軌道群が放棄され、転車台もろとも瓦礫で埋められたのは分かるが、何でその時レールや天板を外して屑鉄として再利用しなかったのか、ということでした(これはうろ覚えですが、震災直後は復興需要で屑鉄価格が高騰した筈)。確かに奇妙です。頑丈な天板だったから埋められて80余年を経ても大丈夫でしたが、或いは腐食してピットへ崩落して、地上が陥没ということもあり得たかも知れません。転車台をそのまま埋めた理由は、奈辺にあったのでしょう。

 さて、この倉庫跡地、昔の防波堤の形から「象の鼻パーク」と名付けられて公園となるのですが、この転車台跡地はどうするのでしょうか。米山氏曰く、汐留駅跡地でも同じような転車台の遺跡はあったが、天板が載っておらず、また場所から保存も叶わなかったとの由。市の方の説明では、何とか見える形で残したいということで、現在検討しているのは、転車台や軌道の水準が公園の水準より低いことを生かして、上にガラスのようなものを張って、広場として機能させつつ遺跡を見えるようにするということです。この遺跡が、見える形でそのまま保存されるのは大変喜ばしいことですね。来年6月2日は横浜開港150周年ということで、その日を期してここも公園としてグランド・オープンする予定だそうですが、それまでにそういった工事が完成するよう、期待しております。
 もっとも保存は遺跡活用の第一歩ともいうべきで、この正体や歴史的な意義などは、さらなる検証が必要でしょう。米山氏は、この軌道は国鉄の貨物線に繋がっていたことを強調し、「全国にこの軌道は繋がっていた」と説かれていました。しかし写真に写っていたトロッコの台車のようなものの運用では、全国に繋がっていたとは言えなさそうですね。国鉄の貨車は入れたのでしょうか。直径8フィートの天板に載るためには、軸距はそれより短くなければなりませんし、転車台同士がくっつき合っていることからして複線中心間隔は9フィートちょっとくらいしかなさそうです。小生は明治の貨車のことはよく知りませんが、確か阪神間開業時の小型客車の軸距が8フィートだったはず。明治の小型の貨車なら何とか・・・? 大正時代に放棄された理由も、もしかするとその辺にあるのかも知れません。

 とまあ、短い時間の見学で、小生は学会報告(の準備報告)の準備で忙しいためそのまま帰りましたが、なかなか充実した半日でした。特に、わざわざ転車台の天板を外して、ピットの中や天板の様子も分かるように展示してくれた港湾局関係者の皆様の配慮には頭が下がります。
 米山氏はこの転車台群と軌道を「重要文化財もの」と語っておられましたが、正直そこまでの価値が認められるかは疑問なしとしませんが、相応の保存と展示の措置が執られることを望みますし、またその方向にあることは喜ばしいことです。近代史が他の時代より圧倒的に重要な横浜ならではかも知れませんが、近代の遺産に光が当たることを、嬉しく思います。

※追記(2008.10.23.):この記事の補足情報を書きました。是非ご参照下さい。
 また、「転車台」「ターンテーブル」「天板」の使い分けがいい加減だったので、修正しました。

※更に追記:公園として整備・公開された状況は以下の記事をご参照下さい。
 「象の鼻パーク」の現況・転車台の保存状況を見る
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by bokukoui | 2008-10-19 17:59 | 鉄道(歴史方面)

北原遼三郎『東急・五島慶太の生涯―わが鐡路、長大なり』雑感

 しばらく前に大学に行った際、生協書籍部の新刊コーナーで見つけて、中身をよく見ぬまま買った本について。

北原遼三郎
  『東急・五島慶太の生涯
 東急の事実上の創業者として名高い、五島慶太の伝記です。五島の伝記や東急の歴史の読み物はたくさんありますが、今年7月発行の、ごく新しい本です。
 で、350ページあまりあるハードカバーのかなり厚い本なのですが、小生は今日一日の電車の行き帰り+αで読んでしまいました。それは面白かったからというよりも、知っている話が大変多かったので、読むのに手間が取れなかったという方が正確な気がします。

 本書は巻末に「※本作品は、独自の取材、調査をもとにしたノンフィクション・ノベルです。」とあるので、つまり小説ですから、経営史的に新たな観点がないなどという感想はそもそも見当外れと思います。では小説として、読み物として面白いかというと、正直それも・・・というのが正直な感想です。
 本書は五島慶太を中心にしつつも、その息子の五島昇、そして五島のライバルであった堤康次郎にも記述を割き、五島と堤(堤の子息・康明などもちょっと出てくる)の比較や関係についての叙述が軸となる・・・のかといえばそうでもないようです。つまり本書の小説的問題は、五島慶太の何が面白かったのかが読者にいまいち伝わってこないところにあると思います。
 おそらく、面白さの芯が読み手に伝わってこないのは、本書の構成上の欠陥にその原因があろうかと思います。普通、伝記というのは時系列に沿ってその人の人生を追っていくものですが、本書は時系列が前後に錯綜し、おまけにそこに堤の話が挿入され、ごたごたなのです。多くのエピソードが挿入されていて、それ自体は興味深いのも多いのですが、いったいどういう文脈でそのようなエピソードをその場所に入れているのか、よく分からない場合が多いように思われます。
 章立ては一応単元別? というのか、鉄道経営や映画や晩年の北海道開発や、トピックごとに纏めてあるような感じですが、それもあまりはっきりとはせず、読んでいて時間が前後し、どうもすっきりしません。一例を挙げれば、本書中盤で東映の歴史が追われ、それ自体はいいのですが、途中で何の断りもなく五島慶太没後の五島昇の経営の話になっていて、え? どこで五島慶太死んだの? と読んでいて戸惑いました。
 また、本書には写真・地図などが一枚もなく、東急本体のみならず箱根山戦争や伊豆や北海道の開発で多くの地名が出てくるのに、少々不親切です。地図を載せれば五島や堤の野望もよりいっそう分かるでしょう(確か猪瀬直樹『土地の神話』に、晩年の五島が伊豆の地図を自室に張って、それを睨みながら戦略を立てていたという逸話があったと思います)。といって、その地名が大体頭に浮かぶマニア筋には、新味が乏しいと思われてしまうでしょう。

 というわけで、いまいち狙いのはっきりしないのが残念な本だったなあ、というのが一読した率直な感想です。
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by bokukoui | 2008-09-26 22:50 | 鉄道(歴史方面)

知らなかった

鉄道史の大御所の一人であった中川浩一先生が先月亡くなられていたということを、今日はじめて知りました。謹んでご冥福をお祈りすると同時に、自分のアンテナの低さに憮然とさせられました。昨年、今年と斯界の著名な方々の訃報に接することが幾度もあり、時代の変化を痛感させられます。

まだしばし更新ままならず、コメントの返信も遅れてすみません。この記事も機器の制約で思うことのほんの一部すら書けず、無念です。
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by bokukoui | 2008-09-06 23:14 | 鉄道(歴史方面)

歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」聴講記(後篇)

 前篇に引き続き、歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」の内容を紹介します。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2008-07-26 23:58 | 鉄道(歴史方面)

碓氷峠の鉄道文化財について思い出したこと

 前回の記事で、岩手・宮城内陸地震から一ヶ月ということで、この地震で亡くなった岸由一郎さんのことについてなど書きましたが、実は昨日、岸さんを偲ぶ会がありまして、小生も末席に連ねさせていただきました。改めて喪ったことの大きさを感じた一夜でした。
 いろいろと故人の業績に関係したお話をその場で伺ったのですが、一緒に仕事をしていた方々の無念の言葉はまだあまりに生々しく、このような場で書くことはまったくふさわしくありませんので、今は小生の心にとどめておくことにします。

 その代わり、といっては何ですが、最近世界遺産に落書した日本人観光客のことが世間を騒がせたこととも関係して、日本における遺跡と落書について。
 少し前のことですが、友人と一日出かけ、碓氷峠の信越本線廃線跡など見てきたときの写真です。
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碓氷峠の有名な煉瓦アーチ橋

 これは有名な橋なので、皆さんもご存知かと思います。
 で、この橋は観光地として整備され、横に道と階段があって橋に登れるようになっているのですが、その途中道が橋脚の横を通るところは・・・
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落書だらけの煉瓦の橋脚

 この写真はクリックすると拡大します。落書の状況が良く分かろうかと思います。 
 一枚目の写真の黒丸のところには、落書を戒めるこんな看板が立てられています。
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 しかし効果はどうなのでしょうか。
 落書といいつつ、実際にはこれは煉瓦を尖ったもので削ったり彫ったりしているため、消すことも出来ません。パテか何かで埋めることは出来るかもしれませんが、それは原状をかなり損なってしまうともいえます。壁で囲ってしまえば話は簡単ですが、このような構造物を身近に感じる機会を失ってしまいます。煉瓦は積み方や目地の工法なども見る点ですから、なるべく近くで、触ったりして観察できた方が望ましいんですよね(煉瓦の積み方の話とかはこのブログで前にやりましたな)。

 この近所(というほど近くも無いが)の富岡製糸場(ここも前に結構細かく見る機会がありました)は世界遺産登録を目指しており、その際関連する近代遺跡ということで、この信越線の煉瓦アーチ橋も入っているそうです。「世界遺産」になっても、いやここはなってませんけど(個人的には日本ローカル文化の平泉より、非西欧が西欧近代技術を取り入れて世界の産業に重きをなしたという点で、富岡の方が世界的普遍性を有すると思うのですが・・・)、観光地化するということはこのような問題を避けて通れないのでしょう。
 で、その対策は、・・・地道な教育しかないのでしょうか。でも通じない馬鹿者は一定数いるわけで・・・うーん。

(おまけ画像)
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by bokukoui | 2008-07-16 23:09 | 鉄道(歴史方面)

歴博企画展&歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」

 夏休みに行ってみたい展示と講演会について、自分用の備忘を兼ねてご紹介。

 千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館で、この夏以下のような企画展が行われている由です。

  旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-
■趣旨
現代の観光旅行のルーツは近世に求めることができます。近世の旅は伊勢参宮に代表されますが、各地の都市を中心に多様な旅行地が成立しました。旅は寺社参詣が目的でしたが、街道も楽しみの場であり、旅の行程すべてが壮大なアミューズメントパークでした。

鉄道旅行により、そのアミューズメントパークは崩壊しますが、都市周辺には多くの旅行地が成立し、短時日のうちに、より遠くへの旅行も可能になりました。一方、鉄道の発展は汽車に乗ることも楽しみとなり、鉄道趣味へと発展していきます。鉄道旅行が当然のことになると、旧道回顧も盛んになり、画家を中心に旧道旅行も行われ、現在の旧道歩きに引き継がれています。

今回は旅行案内書などを中心に展示しますが、本展示により、新しい旅行の在り方を模索していただきたいと思います。
 大きく江戸時代と近代以降(鉄道開通以後)との、二部構成の展示のようですね。
 既に展示は始まっていて、8月一杯行っているそうです。

 なかなか面白そうな展示と思いますが、佐倉はちと遠いよなあ、という場合にはこのような企画が。来週土曜日、7月19日に関連した講演会が東京の丸ノ内であるそうです。

  歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」
基調講演「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」
山本光正(国立歴史民俗博物館教授)

「日本人の旅文化」
神崎宣武(旅の文化研究所所長)

「道中記に民俗を読む-富士登山を中心にして-」
西海賢二(東京家政学院大学教授)

「鉄道の開通と『旅』の変容」
老川慶喜(立教大学教授)

「近代日本のおみやげと鉄道」
鈴木勇一郎(青山学院大学非常勤講師)

討論
司会:小野寺淳(茨城大学教授)
パネラー:神崎、西海、老川、鈴木、山本
 これも面白そうですね。鉄道趣味者にはお馴染みのお名前である老川先生の講演もありますし、また鈴木勇一郎さんは『近代日本の大都市形成』という著書を出されており、小生思うに日本の大都市での私鉄と郊外の発展についてきちんと知りたいという人には必読の本です。原武史とか読んで済ましている場合ではありません。
 というわけで、なかなか興味を惹かれる講演会ですが、入場無料とはいえ事前申し込み制なので、行きたい方はリンク先の連絡先にメールをされた方が良かろうと思います。560人も定員があるので、多分当日行っても大丈夫そうですが、一応念を入れて。

追記(2008.7.31.):歴博フォーラムに行ってきました。
レポはこちら(前篇)こちら(後篇)

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by bokukoui | 2008-07-11 21:51 | 鉄道(歴史方面)

原田勝正先生亡くなる

 今日、東雲氏に教示されるまで存じませんでした。

 日本鉄道史研究の和光大名誉教授・原田勝正さん死去

 謹んでご冥福をお祈り致します。

 ちょっと検索してみたところ、ネットでこのことに触れている鉄道趣味者のブログなどが案外少ないので、いささか寂しく感じました。「鉄道ブーム」といわれるご時世だとはとても思えません。原田先生の業績については、小生以前の記事で青木栄一先生との関連から少し書いたことがありますが、ウィキペディアの記事が著作目録だけで、新聞の訃報も『日本国有鉄道百年史』編纂に触れていないのが残念です。(追記:新聞の訃報が消えたのでウェブ魚拓に切り替えました)

 一度だけお会いしてお話を伺ったことがありました。著書『日本鉄道史 技術と人間』(刀水書房)について、青木栄一先生のご紹介で、何人かで原田先生を囲んで質問などしたのです。小生は緊張してあまり話しませんでしたか。今混沌とした部屋の中で、当時のメモが見つからないので詳細は書けませんが、一つだけ思い出したことを。
 同書の中で、原田先生は日本の蒸気機関車技術の自立のポイントとして、鉄道国有化直後幹線の急行旅客用に同時にまとまった数輸入された8700形・8800形・8850形・8900形を取り上げていました。で、確かにこれは技術上重要な車輌たちだけれども、英米独からの輸入機であるから、「自立」といっていいのか、国産標準機の8620形・9600形ではないのか、という質問が出たのです。
 原田先生は、輸入であっても発注者に明確なポリシーがあって先端技術を導入すれば自立と呼べる、と仰ったかと思います。確かに国産標準機の技術はこれら輸入機をなぞったものですし、また南アフリカの事例なんかを思い浮かべても納得できます。
 で、原田先生はその時次のような例を挙げられました。

「同じ時代の日本で言えば、金剛がそうですよね」

 小生はそのひとことでなるほど、とすっかり納得したのですがその場にいた他の人たちの中にはピンと来なかった人もいたようでした。
 金剛は当時日本がイギリスに発注した巡洋戦艦で、世界最大最強クラスの軍艦でした。日本はこれをモデルに同型艦を3隻作り、十年経たずに世界最大最強最高速の戦艦・長門を送り出しました。が、まあ鉄道マニアだから軍艦に詳しいとは必ずしも言えませんよね。原田先生は青木栄一先生の連れてきた連中だから、と思ってそう例示されたのかも知れませんが(笑)

 鉄道という一つの高度な技術で築かれたシステムを知るには、同様の他のシステムのこともある程度は知っておきましょう、というのがこの教訓でしょうか。

 原田勝正先生が翻訳に関わったD.R.ヘッドリク『帝国の手先』(日本経済評論社)という、とても面白い本があります。19世紀の欧米列強による新技術開発と世界の植民地化の関連を、様々な技術を挙げて叙述しています。交通・通信・兵器が主ですが、中にはマラリアの特効薬キニーネ(これが出来たお陰で白人がアフリカ奥地に入り込み植民地化が進んでしまった)の話などもあり、大変興味深い本です。
 いつぞやネタにしたジェフリー・パーカー『長篠合戦の世界史』の前書きで、パーカーはこの本を「読み始めたらやめられなくなるほど面白い」と賞賛しています。そして、19世紀初頭に世界の2割を支配していたヨーロッパ人が如何にして百年で世界の8割を支配するに至ったかを述べている本書に対し、自分は16世紀から18世紀までにヨーロッパがどうやって最初の2割を獲得したのかを述べるのだ、と書いています。なるほどパーカー教授の本もとても面白いことは確かですが、話の幅の広さではヘッドリクの方が上かも知れません(時代の制約はあるでしょうが)。一つの分野を長く追っかけることは大事ですが、類似性のある分野も知っておくことは大事ですし、何よりその方が面白いのです。
 ・・・と偉そうに書いている小生も、別段技術史とか交通産業全般に詳しいわけでもないですが。自動車なんか特に疎いので、最近友人諸氏にいろいろ教わっております。

 話が逸れました。
 昨年には久保田博氏や吉川文夫氏が亡くなりましたが、戦後日本で鉄道に関する情報の集積・普及に活躍された最初の世代の方々が次第に鬼籍に入られることに時代の流れを感じます。斯界が先学の業績を受け継ぎ発展させることができるか、大事なところです。こと昨今の鉄道ブームとやらを見るにつけ。
 と、ひとごとみたいに書くわけにはいかないのですが。打倒原武史のためにも、早く論文書かないと・・・
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by bokukoui | 2008-04-14 23:45 | 鉄道(歴史方面)

近藤喜代太郎『アメリカの鉄道史―SLがつくった国―』略感

 今日はエキサイトブログのサーバー工事でしたが、12時までという予定だったのが、その後もかなり長くログインできなかったような・・・。もっとも画像のアップロードは改善されたようで、これは大変結構なことであります。

 さて、昨日買ったと書いた表題の本ですが、今日には読み終わってしまったので簡単に感想をば。

近藤喜代太郎
『アメリカの鉄道史 ―SLがつくった国―
 です。

 昨日買って今日感想を書いているように、大変読みやすい本です。写真が多いのは見ていて楽しいところ。手ごろな厚さの中に、アメリカの鉄道に関する情報を一通り揃えており、これまで日本語で読める一般の類書がほとんどなかったような(旅行記的なものや、ある時代のみを取り上げた本、個別的な事例研究、政策論などはありました。また本書と性格の似た書物に辻圭吉『米国鉄道歴史物語』というのがありますが、私家版なので市販されませんでした)感がありますので、まず何よりもこういった本が出たこと自体が大変喜ばしいことと思います。
 同じ成山堂から出た海外鉄道歴史ものとして、高畠潔『イギリスの鉄道のはなし』という本があり、この本は続篇も出ています。小生も森薫『エマ』の話をするついでにこの本を紹介したことがありますが、この本と比べると『アメリカの鉄道史』は、あまりアメリカ万歳的なところが感じられず、その点では読む上で引っ掛かることは少ないです。また、『アメリカの鉄道史』は、社会一般の情勢の中での鉄道の位置付けということに大いに留意しており、また技術についても章立てを別にして解説、その点でもひたすら鉄道(≒蒸気機関車)ばなしの『イギリスの鉄道のはなし』より一般性があると思います。
 まあ、その分話が薄くなってしまっていることは否めません。イギリスのそれに倣って本書もマニアックな続篇が出れば嬉しいところで、今までアメリカの鉄道に興味のなかった人にも手にとられて関心を持たれるきっかけとなればいいのではないかと思います。
 小生としては、こんな本を読むと、ボードゲームの『1830』をやりたくなってきます。このゲームの好きな方(戦史研方面)などは、購入を検討されてはいかが?

 備忘として若干読んでいて? と思ったところを幾つか。
・p.55の地図は、「1989年の状態」とキャプションにあるが、地図中に「1930」と書かれている(記載内容からして1930年が正しいと思われる)。
・p.76で、グレート・ノーザン鉄道について、補助金代わりに与えられる土地が「特段に多かった」、図III-2で「供与地の幅が異常に広い」とあるが、それはノーザン・パシフィック鉄道の間違いではないか。
・p157で、蒸気機関車の軸配置表記法のホワイト式を「日本ではホワイト式には不慣れ」とあるが、日本でもホワイト式は良く使われている。著者が「欧州式」と言っているのは、欧州は欧州でもドイツ式ではないか(日本の国鉄式はドイツ式と大体同じ)。フランス式では動輪の軸数も数字で表記した筈。
・p.167で、スティーブンソンの「ロケット号」について「後にスティブンソン式と呼ばれた弁装置」を備えていたとあるが、カットオフが調節できる所謂スティーブンソン式弁装置の完成はもっと後ではないか。
・技術に関する章には写真はあっても図がないため、文章だけで意を汲み取ることは難しい。ここらへんは斎藤晃『蒸気機関車200年史』でも読めば・・・(そういえば、参考文献に斎藤晃氏の前著や、加山昭『アメリカ鉄道創世記』がないのはちょっと不思議な気も)。
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by bokukoui | 2007-11-19 23:36 | 鉄道(歴史方面)

サントリー学芸賞の鉄道本略論 番外(3) ~鉄道と女性・阪急篇~

 一昨日昨日の記事の続きです。今日で完結のはず。

 というわけで、ここまで二回に渡って原武史氏の鉄道と女性の関連についての所説に批判を加えてきました。その大きな論点ふたつのうち、1点目はこれまでに説明しましたので、今日の記事では2点目の論点、すなわち「小林(一三)は、文化事業では女性を取り込もうとしたが、肝心の輸送事業で女性を積極的に採用することはしなかった」理由を考えてみよう、というものです。

 小生はこれまで、当ブログにおいて阪急に関する記事を幾つか書きました。それをお読みいただければ、これから小生が書こうとしていることはお察しいただけようかと思います。過去の記事を以下にリンク。
 ・近代家族幻想と電鉄会社との日本的関係性
 ・阪急食堂名物10銭ライスカレーの肉はどこから仕入れたのか
 これだけで終わりにすると楽なのですが、それは流石に手抜きなので以下に敷衍して述べます。

 で、上記の記事で書いたことを簡潔にまとめますと、近代社会の発達、つまり資本主義が発展し近代家族像が浸透してくる過程で、それまでの支配層に代わって台頭してきた中産階級の人々は、どのような生活スタイルが良いものとされるのか、ということに関し、新たな価値観を模索します。で、先行研究を徴するには、フランスでボン・マルシェを開いたブーシコーのように、19世紀末において発展した百貨店こそが、このように生活すれば幸福になれますよ、というライフスタイルを作り上げて売り込むことで新たな価値観を作り、そして消費を加速させることで資本主義をも発展させることに寄与したのでした。そのような中産階級的「幸福」像は、近代家族モデルとして今日尚規範としての拘束力を維持しています。
 これに関し、小生は日本におけるこのような価値観の宣伝と消費社会の到来に大きな役割を果たした存在として電鉄業を考え、その代表的経営者として小林一三を挙げるべきではないかと考えています。

 さて、ここで小林一三が広めたようなライフスタイルとは、郊外住宅地に住んで電鉄で一家の主人は都心に通勤し、休日には沿線の行楽地へ家族連れで出かける、というものです。戦前にこのようなスタイルを送ることができた人は決して多くありませんでしたが、しかしこれは戦後の日本人の多くが目指した(そして高度経済成長を通じておおむね達成された)スタイルとなるのでした。まあ戦後は自家用車と家電製品が消費において大きな地位を占めることになりますが。
 余談ですが、戦前の日本では電灯こそ世界最速級の普及率を達成したとはいえ、電化製品の普及は微々たるものでした。しかし関西を中心とした有力電鉄会社の中には、沿線住民への電化製品の売り込みに相当の熱意を傾けた会社がありました。阪急もさることながら、ライバルの阪神は電化製品を並べたモデルルームを電車の中に作り、主要駅の待避線に停めて回って移動する電気博覧会をやっています。電化製品普及の下地がこのようにして作られた面もあるのではないかと思います。もっともこれらの電化製品売り込みの真意は、阪神や阪急が沿線で兼業していた電力供給業の需要を増やすことにあったのでしょう。

 とまれ、今まで拙文で始終書いてきたような、近代家族モデルの普及こそが、小林一三が推し進めた経営戦略と合致する方向だったのだと考えるのです。
 このようなモデルでは、働き手は男に限られ、その働く場は家庭と切り離されます。家庭はもっぱら消費の場となり、女性は主婦としてその消費活動を仕切る役割を担わされます。家庭は子どもを育む団欒の場であると位置づけられ、消費活動もそれに沿ったものが求められます。なので娯楽も、飲む・打つ・買うなんて「不健全」なものはいけません。かくて「清く正しく美し」い宝塚の出番となるわけです。

 というわけで、結論はこうなります。
 男=仕事という公的な場、女=家庭という私的な場、という性別役割分担を前提とする近代家族モデルに乗っ取ったライフスタイルを幸福の形として売り込んでいた阪急が、輸送という公的な労働の現場に女性を採用するはずがない、ということです。
 「女性を対象とする博覧会」や「宝塚少女歌劇団」をやった「のに」女性を採用しなかったのではありません。博覧会や歌劇をやった「から」輸送には女性を採用しなかったのです。
 ついでに、この博覧会も歌劇もそもそもの理念は中産階級的近代家族のための娯楽として作られた、つまり女性は女性でもあくまで一家の主婦としての女性(彼女が養育を任されている子どもがくっついてくる場合多し)がメインターゲットであるということを見落としてはなりません。単純にこれを「女性」一般を取り込もうとした営為と見なすのは早計でしょう。そこら辺についての傍証として、以前も使ったネタ本ですが、阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』から引用しておきます。
・・・(宝塚)新温泉を開業してから三年目、すなわち大正二年に、一三の方針がはっきり変っている。それは客寄せのための催物の変化で判る。大阪南地の芸者の「芦辺踊」と、二年続いた「遊女会」から百八十度切替えて、三年目の大正二年春には「婦人博覧会」となり、京大から上田敏博士を講演に招いたりしているし、次いで大正三年春に婚礼博覧会、四年春には家庭博覧会と続いた。既に紹介した通り、宝塚少女歌劇第一回公演は、婚礼博覧会の余興として、「観覧無料」で見せたのである。(同書単行本版p.146)
 「婚礼」「家庭」とあるように、ここでの女性へのアプローチは(近代家族の)一家の主婦となることに眼目がおかれていたと見えます。それは女性を労働力として活用するという方針と相反するでしょう。

 以上、原武史氏の鉄道と女性との関わりに関する所論への批判を述べました。原氏は小林一三が偉大な経営者であったと繰り返す割には、小生が思うには、何が偉大であるのかよく分かっていないのではないかと思います。
 既存の鉄道史の研究者が、近代家族論に疎かったことは間違いないのですが・・・しかしそれが原氏の論の問題点を惹起したわけではないと思います。先行研究を踏まえていれば、昨日や一昨日の第1点目の論点は見落とさないでしょうから。

※追記:鉄道と女性の「関係については、以下の記事もご参照下さい。
・鉄道と漫画・MATSUDA98篇 19才の「鉄道むすめ」はなぜ死んだか
・もっとも過酷な「鉄道むすめ」の仕事 8メートルの雪を除雪せよ
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by bokukoui | 2007-02-21 23:57 | 鉄道(歴史方面)