カテゴリ:鉄道(歴史方面)( 67 )

鉄道の話(主として衛生に関する話)続き

 昨日の続きです。

 昨日紹介した記事に「中国の列車の乗客は窓からやたらとゴミを捨てる習性を持ち合わせている」という一節があり、また檸檬児さまからも「当時(日露戦争後)は汽車の窓からゴミを捨てるのは当たり前という一般感覚だったのかと、そっちの方が気になりました」というコメントをいただいたりしたので、列車内マナーについて少し思うところなどを書くことにします。

 今話題の阪急電鉄の経営者として名高い小林一三について、没後(1957年没)編まれた『小林一三翁の追憶』という本があります。小林一三と関係のあった人々による個人の思い出話集で、まあ実も蓋もない言い方をすれば提灯記事が六百ページともいえますが、読み方次第では結構面白いものあって、ここで一つ阪急の社長・会長を務めた佐藤博夫の回想から一節引用。
 私の運輸課長時代のこと、日曜や祭日には、先生(引用注:小林一三)はよく電車で駅々を廻り、殊に、箕面や宝塚には屡々行かれた。私も職業柄、沿線を巡回していると、お出会いすることが再々あった。時候のよい休日などは、家族連れの乗客が多く、車内で盛んに蜜柑や栗を食べては、皮をあたりに散らかす人がいる。そんなのを見かけると、先生は見兼ねて、すたすたとその前に行かれ、懐から懐紙を取り出すと、膝の上に置いて、これに包んで腰掛の下に置くよう仕ぐさで注意され、後はまた素知らぬ顔をして私と話を続けられる。――そんな場面が度々あった。(同書p.261)
 佐藤が運輸課長だったのが何年ごろか正確には調べていませんが、明治40年に就職、昭和十年代に第5代社長に就任していることから察して、大正末~昭和初頭ぐらいだろうと思います(後で調べておきます)。
 で、この話から読み取れることは、

1.戦前の人間は電車の中にゴミを散らかすことが度々あった
(しかも阪急で週末ハイキングなぞに出かける層となると、中間層である可能性は高い)

2.散らかすことに小林一三は不快感を示したが、紙に包んで腰掛の下に置くのならオッケー。
 ということです。

 要は昔の人の車内マナーはそれほど今から見ていいというわけでもなく、また求められる水準自体もさほど高くなかったということですね。だから『三四郎』の時代に汽車の窓からゴミを捨てたとしても別に不思議ではありません。
 今手元に資料がないのですが、『鉄道時報』という、確か今の交通新聞の先祖に当たる業界紙の復刻版(1900年頃の)を読んでいたら、乗客のマナーの悪さを嘆く業界人の投書があって、なかなかすごいものがありました。車内でタバコを捨てる輩(当時の客車は全て木造車です)、ナイフの切れ味をシートで試す奴(キれる乗客?)、ダイヤの指輪を自慢しようとガラスを引っかく徒輩(成金ですな)、とまあ今よりひどいもんですが、これが当時の水準であったということです。明治時代の人は、まだ近代的な公共空間での振舞いを身につける途上であったともいえましょう。とりあえず、マナーについて論じるときに「昔はえらかった」とあまり言わないほうがいいとは思いますが。あれは限定された秩序内での作法の話であって、多分公共空間での近代的振舞いとは異なるところもあると思うので。

 閑話休題、ではいつから日本人は車内にゴミを捨てなくなったのでしょうか。実はこの手がかり、昨日紹介した『星さんの鉄道昔ばなし』に書いてあったりします。新幹線に関する章からちょっと引用してみましょう。
・・・気を使ったのは、車内が汚れないようにすることだね。その結果、ゴミ箱を必ず使うというクセがお客さんにつきましたね。降りる前に、ゴミを持ってゴミ箱のとこまで行くクセが。新幹線みたいにきれいだと、ちょっと車内にゴミを捨てるわけにいかないしね。そういうことが非常に良くなったと思いますね。(同書pp.140-141)
 だ、そうです。新幹線ごろから列車が綺麗になって捨てにくくなった、確かにこの少し前頃から車輌の床が木張りからリノリウムとかになっていきますね。こういったことの積み重ねが、次第に車内でのマナーとして要求される水準を向上させていったのでしょう。

 というわけで、中国の旅客が窓からゴミを捨てなくなるには、エアコンが普及したり列車が高速化して窓がはめ殺しになっていけば、当然捨てられなくなるはずです(笑)。
 中華民族はそんなことにへこたれない? という声もありそうですが、高速鉄道が実際に開業すれば、やはりいくらかは向上もするのではないかと思います。もっとも、上海の人が捨てなくなっても、甘粛あたりまで普及するのには年月がかかりそうですが。
 ともあれ、案外マナーという「上部構造」も、車輌の性能向上みたいな「下部構造」によって変わってしまうもんなんじゃないか、そんな風に思います。

※さらに補足記事→「鉄道と衛生の話・補足」
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by bokukoui | 2006-05-30 23:57 | 鉄道(歴史方面) | Trackback(1) | Comments(0)

死ぬかと思った鉄道趣味

 さる先生に伺った話。

 山陽本線に瀬野と八本松という駅があり、この間がきつい勾配になっています。その昔、機関車が列車を牽引していた頃は、勾配に対処するため後ろに後押しの機関車をつけて登っていました。今は電車になり、電車は機関車で引っ張るより勾配に強いので後押しは不要ですが、貨物列車は今でも後押しをつけているとか。この後押し機関車のことを補機と言いますが、この区間では時間節約のために補機は走行中に切り離すということをやっていました(連結する時は駅で停車してやります)。ちなみに昔は東海道線の箱根の峠越え(現御殿場線)で走行中切り離しをやっていたことが知られています。

 さてその昔、まだ電車が今のように幅を利かせておらず、旅客列車も機関車が客車を引っ張っていた頃のこと。瀬野~八本松(鉄道趣味者は「セノハチ」という)間を走る列車もまた機関車牽引客車列車で、補機がつけられており、そしてお役目が済んだら列車は走ったまま後押し機関車を切り離していました。
 若き日の某先生、この走行中切り離しの瞬間を撮影しようと列車の最後尾にカメラを抱えて陣取りました。昔の客車なので、列車の最後尾には扉もなく開け放しです。それだけ外はよく見えるわけですが。
 いよいよ列車は勾配を登りきり、補機は連結器を遠隔操作で切り離しました。写真撮影。
 その瞬間、旅客列車は急加速したのです。列車が加速すれば慣性の法則で体は進行方向から見て後ろ側に倒れます。つんのめる先生。そこには開け放された最後尾、そしてその直後には今切り離したばかりの機関車が追走中。
「死ぬかと思った」と、先生は述懐しておられました。
 考えてみれば、走行中切り離した機関車と列車本体の衝突事故を避けるには、列車が加速して補機がブレーキをかけるというのは大変合理的な行動なのですが、しかし実際に体験しないと分からないですよね。

 幸い小生はそれほど鉄道関係で危険な目に遭ったことはありません。
 五月祭の準備で徹夜を続けふらふらになった時、駒場東大前の駅でホームから線路に転落したことくらいですね。自力で這い上がりましたが。
 あの駅では、酔っ払った機動隊員が転落して仲間が助けようと線路に下り、まとめて轢かれてしまった事件が昔あったかと思いますが、現実に線路に落ちて列車が接近、という時には、レールとレールの間で身を伏せれば助かるのかな? 幹線用の50キロレールとかなら高さも結構ありそうだし、コンクリート枕木なら真ん中が少し低くなっているし、人一人伏せるくらい大丈夫な気もします。
 大丈夫かどうか間違っても実験しないように。
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by bokukoui | 2006-05-10 23:58 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(3)

近代家族幻想と電鉄会社との日本的関係性

 下の記事の続きです。

 『もうあなたは幻想の女しか抱けない』は女子高生の援助交際に多くの紙数を割いていますが、援助交際を生む温床は家庭で父親が娘に「清く正しく美しい」聖なる少女像を押し付けるという抑圧にあり、しかも皮肉なことにその男どもが、聖少女幻想に浸りたいために女子高生を買うのであると説明しています。この少女像は近代家族幻想の一翼を担うものといえますが、それにしがみつく男の幻想が援助交際を生む一因となっているわけですね。
 同書にこんな一節があります。(p.85)
 コギャルが演じる「女子高生の原型は、明治時代に生まれた。社会学者の宮台真司は共著『サブカルチャー解体神話』(パルコ出版)の中で、「近代日本に初めて成立したこの少女の、非性的で『清く正しく美しく』という<理想>が、明治末から大日本帝国へと続く<秩序>に一体化していた」と記述している。
 さらに戦後、日本の近代化、経済大国化のために掲げられた、「健全で文化的な家庭」という国家目標にとって、この「清純無垢な少女」の幻想は非常に好都合だった。
以上の箇所です。元の『サブカルチャー解体神話』を読んでいないので、この宮台氏の指摘がどういう文脈なのか小生は存じませんが、速水氏(あ、そういえば速水由紀子氏は確か宮台氏の事実上の結婚相手であったような)の本を読んでいる時にこの一節を読んで思いついたことを以下に述べておきます。

 時代の変わり目にあるべきライフスタイル像を求めて人々が彷徨う、というのは間々あることです。
 フランスの場合、19世紀に台頭してきたブルジョワジーが、経済力はつけたものの、そして数度の革命で政治力も拡大したけれど、ライフスタイルの点では貴族とどう対抗していいか分からない。そこへ現われたのが世界初のデパートであるボン・マルシェであり、ここへ行ってお勧めの品を買い揃えればたちまち立派な文化っぽい生活が手に入ってしまう、そのような巧みな売込みを行ったのでありました。詳しくは鹿島茂『デパートを発明した夫婦』、高山宏『世紀末異貌』あたりをご参照ください。前者は良く売れたので多分今でも簡単に手に入るでしょう。後者は小生も探しているものの手に入らず、遂に禁断の最終奥義を使ってしまった記憶が・・・
 まあとにかく、ボン・マルシェの経営者ブーシコーは一時代を画したライフスタイル、貴族のそれを巧みに取り入れたブルジョワジーのライフスタイルを作り上げた立役者の一人だったわけです。そして、このブルジョワジーのライフスタイルこそ、今日の我々のライフスタイルの源流に他なりません。近代家族という像も、この中に含まれます。

 さて、では日本でブーシコーに当たる人物はいるでしょうか。日比翁助?(注:三越を呉服屋からデパートに作り変えた経営者) うーん、しかし三越がライフスタイルの提供というところまで踏み込んでいたかとなるとちょっとどうかなあ。中産階級向きとは言いにくいですよね。
 小生が日本版ブーシコーに擬したいのは、阪急の経営者である小林一三です。
 彼がデパート経営者であることは勿論ですが、よく知られているように彼は電鉄創業に当たって沿線の土地を買収し、近郊住宅地として売り出しました。そして、その住宅地に住む層(中産市民層)に相応しい娯楽を供し、ひいては運賃収入にも寄与すべく、宝塚に少女歌劇団を創設します。
 そう、「清く正しく美しく」、これは宝塚の理念ですね(あ、「非性的」ってのとも符牒が合ってそう)。実はこの文句ができたのは1933年ごろだったそうで、この頃宝塚は東京進出を図っていました。そしてその時、小林一三は「今までの俳優は花柳界の連中と付き合っていて低俗だ」と放言して物議を醸します。うーん、まさに「不道徳」なものを排除する中産階級的近郊住宅的理念ですな。(阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』による。使ったのは文庫でなく単行本)

 話がちょいと先走りました。
 振り返ってみると、明治維新から20世紀初頭までの日本はある意味単純で、外国=欧米列強に植民地支配されないための富国強兵路線に突き進んでいました。そして産業革命を一応達成し、日露戦争でロシアをへこませるに至ったわけですが、さてそうしてみると次に何をしたらいいのか分からない。「不可解」と叫んで華厳の滝からダイブする青年もおりました(これは1903年ですが)。この日露戦後の閉塞感は大江志乃夫『凩の時』とか読むといいんじゃないでしょうか。
 阪急(の前身の箕面有馬電気軌道)の創業はちょうどその頃でした(1910年開業)。そして阪急は沿線開発を通じ、近代化の中で生まれてきた中産階級にライフスタイルをパッケージングして売ることに成功します。都市の煤煙を離れた環境の良い近郊住宅地に住み、旦那は電車で会社に通い、休日には宝塚のような「健全な」娯楽に家族で出かける。まさにもって中産階級的近代家族のありようを形にしたわけです。家と環境まで売るあたり、ブーシコーより気合が入ってますな。後には周知の通りターミナルデパートを開業し、消費生活も囲い込むことに成功します(住宅開発の当初にも消費組合を作ろうとしていますが、これは失敗していました)。
 交通公社の『旅』という雑誌(今は新潮社に売っちゃいましたが)の、昔の面白い記事を集めた本があります。この中に、関西私鉄の副業について述べた1936年の記事があり、勿論真っ先に阪急が取り上げられているのですが、その文句がいかしてます。

「人生は阪急から阪急へ」

 また話が脱線気味ですね。いつものことですが。
 結局どういうことかというと、日本の現在の社会問題は近代家族が曲がり角に来ていることに起因しているものがいくつもある、その近代家族が如何にして広まったか、近代家族幻想は人々に如何にして刷り込まれたかを探っていくと、日本では電鉄会社の果たした役割が非常に大きいのではないか、ということです。しかもその流れは戦前から高度経済成長以降まで連続しているのです(「アメリカ占領軍の陰謀」ではありません)。電鉄会社は、近代家族の理念――「清く正しく美しく」――を目に見える形で示し、しかも一定の財力があれば手に収めることができるようにしていた訳です。
 阪急が梅田の百貨店を兼ねたターミナルビルを建て直すそうです。もったいない、歴史的価値から保存すべきだという声があり、小生もできれば保存して欲しかったと思いますが、反面これは近代家族像を売りつける電鉄商法が終焉を迎えたということを象徴しているのかもしれませんな。

 ところでここまで書いてきて、「近代家族」についての説明を一言もしていないことに気が付きました(苦笑)。皆さん大体はご存知かと思いますが、今から説明するのも面倒なので、できれば落合氏の本とか読んでください。
 近代家族の説明を端折っても随分と長くなってしまいました。まあ、明日は帰宅が遅く日付変更前に更新するのは無理そうだし、今日の更新は本記事ということで。
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by bokukoui | 2006-02-23 02:29 | 鉄道(歴史方面) | Trackback(2) | Comments(4)

『阪神電気鉄道百年史』を読む

 昨日入手した『阪神電気鉄道百年史』ですが、第3章まで(戦前部分)読了。

 何はともあれ大きくて立派です。外箱の大きさはミリで測って273×203×63くらいですか。
 記念撮影。
f0030574_21294095.jpg
 コンピュータ(DELL製品)の上に載っけてみました。背景は気にしない方針で。
 ついでに大学から借りてきた『八十年史』と並べて撮影。
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 相当に厚くなっています(627ページ→918ページ)。でも筆者の研究対象である戦前についてのページ数は減っているという罠。

 で、戦前の部分をざっと読みました。
 今回の『百年史』は関連事業を含めた阪神グループ全体像を描き出すことに力点を置いたそうです。戦前に関していえば、不動産業についての叙述が充実していたように思います。阪急に先駆けた経営構想を持っていた、ということを強調しているのかな。特に甲子園開発(球場だけではなく、住宅などを含めた開発全体)については地図も詳しく読み応えがありました。ただその分、稼ぎでは不動産業を大きく上回っていた最大の兼業部門である電灯電力業についての叙述は、やや少な目のように感じました。
 阪神電鉄創業時、技師長の三崎省三がアメリカに渡って、技術や経営に関する調査を行っているのですが、百年史ではこれに関する記述がかなり詳しかったのが嬉しいところでした。日本の電鉄を知るためにはアメリカの電鉄を知らねばならない、と最近考えている筆者としては心強い限りです。でも三崎が視察した「シカゴ・ミルウォーキー電気鉄道」(29ページ)って所謂ノースショア・ライン(Chicago North Shore & Milwaukee Railway)のことなのかな? できれば原史料が読みたいです。ノースショア・ラインはじめアメリカのインタアーバンについて日本語で一番詳しいサイトはこちらなので皆熟読するように。
 前作に引き続き、経営史としての分析が中心になっており(そのため技術的な面がやや等閑に付されている憾みがありますが)、部門別収益の評価などは筆者が修論でやったこととかぶるため、今後も精読して参考にしていきたいと思います。資料編も充実していて大変便利。

 書こうとすればいくらでも長くなってしまうので、この辺でひとまず筆を措きます。
 ネット検索すると、一部マスコミが「阪神の百年史には村上ファンドが出てこない」ということばかりネタにしていることが分かりますが、そんな目で見るばかりではもったいなさ過ぎる話です。まあ、社史の存在が世に知れ渡ったという点ではいいのかな。
 でも阪神に手紙を出すとき、「貴社いよいよご清栄のこととお喜び申し上げます」という定型文を書いてみて、少し心が疼いたのは事実ですが。
 とはいえ、もはや村上ファンドの阪神になっている以上、この手紙は村上ファンド宛でもあるのだろうかと、「法人」というものの意味にもまた少し悩んでみたりもしたのでした。
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by bokukoui | 2006-02-04 21:18 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(3)

バイトをする

 このところバイトで国立公文書館に通っています。院生仲間で某私鉄の社史編纂の作業の一部をお手伝い。今日も竹橋で古文書をめくってきました。
 認可書類に押してある「五嶋」のハンコをみつけ、「をを、かの強盗五島慶太がその手で押した判子だ~」などと感慨に耽ったりしているので、小生の作業速度は他の人より遅くなってしまいます(苦笑)。すんません某私鉄。

 このバイト代で、これを買う積もりです。
 阪神の社史は、前作『阪神電気鉄道八十年史』が読んで面白く勉強になるし資料性も高い、立派な出来栄えでした。修論書くときも便利に使わせてもらいました。神保町の古本屋で見つけて値段を見たら2万5千円でした。流石に高すぎて買えません。
 それだけに、新品で1万円なら買いでしょう。執筆陣の小川功・老川慶喜といった先生方の名前も、いやがおうにも期待を高めてくれます。

 ちなみに阪神の八十年史の発行は1985年、百年史は2005年です。
 社史を出すとタイガースが優勝するんですね(笑)。次の社史は百二十年史というところか。2025年まで優勝はおあずけ? まあ、2003年の例もあるから、トラキチの皆様も諦めないことが肝心です。
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by bokukoui | 2006-01-27 00:27 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)

新京成の話など・続き

 日付変更前の記事の続きです。

 明治の昔、鉄道が敷設される時に、「宿場が寂れる」などとして地元が反対し、線路がその町を避けたという話が各地にあります。それを「鉄道忌避伝説」といいますが、なぜ「伝説」なのかといえば後からつくりあげられた話だからです。というのも、町や村が鉄道を誘致しようとしてばら撒いた建白書やら宣伝ビラやらは少なからず現存しているのですが、同時代で建設に反対したという史料はほとんどないのです。「鉄道忌避伝説」を述べている本を探ると、典拠は古老の昔話のような曖昧なところになってしまいます。一見街を避けているような線路も、地図を良く見れば地形上やむをえない選択と分かるところが多いのです(ことに蒸気機関車は勾配に弱いし)。
 で、新京成の話も、地図をぱっと見てカーブが多いので、鉄道連隊の由来から短絡的にそう判断されたのではないか、もっとよく見れば地形で説明が付くのに、という話でした。
 なお、以上の「鉄道忌避伝説」について述べた本は、まもなく吉川弘文館から出版されます。鉄道趣味者は必ず買いましょう。新京成の話も、その著者の方に伺ったものです。

 とまあ、いろいろ勉強になった会合でした。
 ちなみに、この会合は五反田であったのですが、中途半端に時間があったので、小生は大手町からてくてくと歩いて向かいました。2時間弱。途中品川で、京急の赤い電車を見て目の保養としました。
 なお、その途中でウィング高輪に立ち寄ったのは、ただ単に歩道橋と繋がっていたのでそのまま入ってお手洗いを借りただけです。
 ・・・いやあ、黄色のカーディガンとの取り合わせは初めて見たね。
 品川は目の保養がいろいろできていいところです。
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by bokukoui | 2006-01-14 01:53 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)

The Long And Winding Railroad

 今日は交通史の勉強会?のようなところへ行って来ました。
 いろいろと議論も出、興味深い話を聞くことができたのですが、ちょっと意外な話を知ったので備忘にここで一筆。

 千葉県に新京成電鉄という準大手私鉄があります。この鉄道、やたらとカーブが多いことで有名なのですが、なぜカーブが多いのかといえば、その理由はこの路線が戦前は陸軍の鉄道連隊の演習線で、規定の距離を稼ぐため、或いはカーブを敷く演習をするため、そうなったのだといわれています。ネット上でもウィキペディアはじめ多くのサイトでそのように書かれています(「新京成電鉄 鉄道連隊」で検索すればいくつも出てきます)。
 が、実はそのような根拠を明示した史料は見当たらないそうで、カーブが多い理由はただ単に地形的要因と考えられます。この地域は台地で、小さな谷がたくさん切れ込んでいます。その谷を嫌って、台地のへりに沿って走ったらカーブが多くなった、というわけ。

 日付が変わりそうなのでここで一旦切ります。
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by bokukoui | 2006-01-13 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(3)