カテゴリ:鉄道(現況実見)( 28 )

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その8

 その1その2その3その4その5その6その7の続きです。

 えちぜん鉄道を乗り終え、田原町で福井鉄道に乗り換えます。
 福井鉄道は福井と武生を結ぶ鉄道ですが、福井の市街地では路面電車として道路上を走るのが特徴です。もっとも、市街地は路面(併用軌道)・郊外は専用軌道というのは、昔(日本で言えば1910年代以前)の電鉄の形としてはごく普通のもので、むしろ福井鉄道はその古典的な形を現在までとどめている例といえます。
 福井鉄道では近年まで、普通の床の高い電車が路面区間ではステップを使って乗客を乗降させながら走っていましたが、最近廃止になった名鉄のローカル線の電車を譲り受けて、路面区間での乗降をより安全なものへと改善しました(福井鉄道は名鉄のグループ企業です)。名鉄の岐阜周辺には、岐阜市街地内を走る路面電車と、それに乗り入れて岐阜市街中心部まで走る郊外電車がありましたが、どちらも2005年3月で廃止になってしまったのでした。小生はこの廃止になった名鉄のローカル線に良く通っていましたので、思い出も一入です。

 さて、待っていた福井鉄道の車輌は880形、名鉄の美濃町線(岐阜と刃物で有名な関、更にその先の美濃市までを結んでいた)でかつて活躍した電車です。車番を控えていませんが、多分岐阜時代も乗ったことがあるはずです。
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 写真はクリックすると拡大します。以下も同じ。
 ちなみに、同形車の名鉄時代の姿を次に挙げておきます。
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名鉄美濃町線新関附近にて(2005年3月11日撮影)

 余談ですが、当ブログの看板画像になっている「線路内を耕作しないで下さい」の立札は、この写真を撮った附近で見つけたものです。それ以外にも手書きのものやワープロ打ちの紙片をはりつけたもの(この写真に写っています)など何種類かあり、一体ここの沿線住民はどういう電車観を持っているのだろうかと思いました。まあだから廃止になっちゃったのか。
 ついでなのでその看板画像を挙げておきます。
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「線路内を耕作しないで下さい」看板

※この看板と同じ辺りにあった類似の看板の写真は、こちらの記事にあります
 話を北陸に戻します。
 帰宅の高校生などでそれなりに座席の埋まった電車に乗り込みます。電車は右にカーヴして駅を出、道路の上へと進みます。道路の交通量はあまり多くなく、電車はまずまず順調に走ります。もっとも歩道を走る高校生の自転車と大差ない程度ですが。車内から見ていると、女子高生がスカートを盛大に翻して力漕し、電車と並走していました。電車の揺れ具合は特に問題なかったように思います。
 福井鉄道の路線は単純な一本線ではなく、市役所前電停から福井駅前まで一電停だけ延びた支線(ヒゲ線と俗称)があります。昼間の電車は、このヒゲ線に一旦寄り道してから武生に向かいます。武生から来た電車も、やはり寄り道をしてから田原町に向かいます。
 市役所前の電停から左手に折れてしばし進むと、商店街の真ん中で線路がぷつりと切れて、福井駅前電停になります。以前探訪したというたんび氏によれば、前より少し電停が手前になったようだとのことでした。電停も綺麗なので、おそらく名鉄車受け入れに際して改装したのでしょう。福井駅は商店街を抜けてもう少し先のところだそうです。電車はここの電停で暫く停まります。折角なので車掌に断って降り、写真を撮ります。
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 電車は数分停車して再び動き出し、再び市役所前の電停に戻ります。来た道をそのまま戻るのではなく、一旦田原町行きの線路に入ってから、本線上を折り返して再度武生行きの線路に入るというややこしいことをします。ポイント操作の都合でしょうか。
 途中、橋の架替工事をしているところがあって、電車が仮橋に迂回していました。この工事が終わればもう少しスピードアップすることでしょう。

 路面区間は市役所前から電停二つを過ぎて終わり、福井新からは専用軌道になります。路線はおおむね直線で南下します。電車はそれなりに飛ばして走ります。線路は単線になりましたが、結構多くの駅に交換設備があります。豪雪地帯らしく、ポイントを雪から守るスノーシェッドが駅の前後のポイント部分に設けられているのが目を惹きます。冬季にも探訪したいところです。
 駅のホームが名鉄車導入に合わせて低く改造されているのが面白いところです。ホームのかさ上げ改造というのは良くありますが、低くするのは聞いたことがなく、また工事としても難しいのではないかと思います。昨日乗った富山ライトレールの場合は、前の駅を取り壊して作り直すか少しずれた位置に作り直すかしていましたが、ホームそのものを低くしたというのは珍しいですね。
 沿線風景は特に記憶に残ってはおりませんが、結構昔ながらの家が多く、長閑な雰囲気でした。途中、眼鏡のフレーム生産世界一で有名な鯖江市を通り過ぎ、田原町からちょうど1時間ほどで終点の武生新に到着します。武生新の駅には、名鉄の車輌導入前に使っていて今もラッシュ時には動くという高床式の電車や、今まで乗ってきた880形と同時に名鉄から導入された純然たる路面電車スタイルの800形などが停められていました。
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 小生が良く乗りに行った名鉄の岐阜周辺の路線は消えましたが、併用軌道と専用軌道を通しで走ったり、車輌も名鉄譲りだったり、なかなか面白い路線でした。機会があれば、今日乗れなかった車輌などにも乗りに来たいものです。
 事のついでに、今日は走行する姿を見られなかった800形の名鉄時代の姿を張っておきます。
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 こうして今回の北陸の私鉄めぐりは終わりましたが、各社とりどりの特徴があって興趣の尽きぬ旅でした。駆け足になってしまったので、できれば再度、ゆっくり時間をかけて探訪し、また合わせ今回乗れなかった富山地方鉄道も乗りに行きたいものです。
 今回の旅では、富山ライトレール・万葉線・福井鉄道と路面電車が3社ありましたが、どの事業者も苦しい経営状態の中で将来に向けた投資や施策を行っており、また特に富山の事例では住民や行政が軌道交通のインフラ維持に積極的であるというのは興味深く、また環境問題がやかましく原油も騰がっている昨今、結構なことであると思います。そして、地方自治体が交通に関った例としては、えちぜん鉄道の事例は今後の参考になるだけのものであり、現状は比較的うまく行っているようですが、今後ともこの傾向が維持されることを願って止みません。
 神岡鉄道は・・・決して長い間とは申せませんがお疲れ様でした、としか言いようがありません。

 最後に引き合いに出した岐阜の場合、行政当局は自動車大好きで路面電車を冷遇し続け、軌道敷内への自動車乗り入れ禁止を名鉄の要請にもかかわらず認めず、安全地帯の設置も認めないという態度を貫いてきました。そんな状況下で、儲かっているとも思えないのに、名鉄が車輌に一定の投資を続けてきた(2000年になっても新車導入)のは驚くべきことですが、結局地元の支持がなくては存続できなかったのでした。岐阜では廃止が本決まりになってから存続運動が起きましたが、当然のことながらもう手遅れだったわけで、結局公共交通に対する意識が低い以上はどうしようもないでしょう。
 現在日本で最も発達した路面電車ネットワークを有しているのは広島ですが、広島市では警察当局が早くから軌道敷内への自動車の侵入を禁止していました。そのため広島は路面電車の運行が比較的安定し、今日に至るまで活躍しています。

 一説には、これらの路線が冷遇されていたのは、当初建設した岐阜資本の美濃電気軌道を名古屋資本の(旧)名古屋鉄道が合併したためだったといいますが、だとすればその心の狭さがこの地域に何をもたらそうと、「よそ者」が気にしてやる必要は無いのかもしれません。名鉄を乗りに行っていた当時目にした岐阜駅前のシャッター通りや、羽島銀座商店街の惨状が思い起こされます。
※現在の名鉄の前身である名古屋の路面電車・名古屋電気鉄道は、市内の路面電車区間が市営化されたため、郊外の線路だけで(旧)名古屋鉄道として再出発します。その後、岐阜の路面電車と関や揖斐、笠松などに至る郊外路線を有していた美濃電気軌道と合併しますが、この際「名古屋に乗っ取られた」という岐阜(美濃電)側の不満を鎮めるため、社名を名岐鉄道に改称します。その後、名古屋以南の路線を持っていた愛知電気鉄道などと大合併して、現在の名鉄が成立します。

 というわけで、北陸の諸例は自治体と交通インフラのあり方について、色々考える良い例になりました。そういった小難しいことを抜きにしても、結構乗ってて楽しい路線ばかりだったので、名鉄の岐阜周辺廃止以降乗りに行きたいところがあまりなくなっていましたが、これからはちょくちょく北陸に足を運びたいなあと思っています。

 これにて目的に私鉄めぐりは終了し、この後はJR武生駅から北陸線→東海道線で各駅停車を、車中酒を飲みつつ乗り継いで帰宅しました。その経緯自体は書くほどのことはありませんが、ただその車中で話題になったことは、当ブログで今まで論じてきたこととも関連するので、番外編という形でちょっと書き足すことがあるかもしれません。
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by bokukoui | 2006-10-31 23:58 | 鉄道(現況実見)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その7

 その1その2その3その4その5その6の続きです。

 えちぜん鉄道の勝山永平寺線を乗り終えた我々は、福井口の駅で三国芦原線に乗り換えます。
 福井口は分岐駅であるためホームの数も多く、また車庫を併設していることもあって構内は結構広くなっています。車体こそ更新されているものの、見るからに戦前製のボールドウィンタイプ、日車D型の台車をはいた電車がいて、まだこんなのがいたのかと面白く思いました。調べると、この古い台車は元々南海の1201形(1933製造初年)という電車についていたもののようです。この1201形は十年ほど前まで、南海の貴志川線というローカル線に残っていて、小生も一度乗ったことがありました。車内は木造ニス塗りで風情あるものでしたが、やはり冷房がないのは沿線住民に不人気だったとか。
 ちなみにこの貴志川線、あまりにローカルで南海が廃止を表明し、地元が救済策を検討した結果、岡山の路面電車会社が引き取って現在運行していますが、この経緯はNHKの番組で取り上げられてそれなりに話題になった記憶があります。その際にえちぜん鉄道の再建も参考にされたようで、何となく縁を感じます。

 閑話休題、やってきた元阪神の車体を持った電車に乗り込みます。
 電車は大きくカーヴして築堤で北陸本線を越え、しばし西に進みます。市街地を縫って走り、田原町で福井鉄道と接続し、その次の福大前西福井駅附近で方向を北に転じます。そして九頭竜川を鉄橋で渡り、福井平野を一路北へと走ります。橋を渡る前後頃からだったと思いますが、人家が次第に減少して田圃が沿線に増えてきます。電車はその中をほとんど一直線に走り続けます。川と山に沿ってカーヴを繰り返していた勝山永平寺線とは全く対照的でした。
 30分ほどそのような情景の中を走り続けた電車は、芦原の町に近づくと向きを再び西に変え、あわら湯のまちという多少どうかと思わなくもない名前の駅に着きます。元々この駅は、国鉄の三国線という支線の駅として設けられ、そこへ三国芦原電鉄(現えちぜん鉄道三国芦原線)が乗り入れました。駅名は戦後芦原湯町に改められ、さらにえちぜん鉄道発足時に現在名になりました。やたらとひらがな表記にするのはどうかと思いますが。
 この駅は芦原の中心で、乗客の乗降もかなりありました。その後電車は終点三国港駅へ向けて、西へ走ります。この区間は当初国鉄三国線が作られ、そこに平行して三国芦原線が東尋坊口まで建設され、その後戦時中に三国線が休止になったり、京福も三国から先が休止になった代わりに国鉄三国線に乗り入れたり、国鉄の三国線が廃止になったり、短い区間ながら実は結構ややこしい有為変転を経て現状に至ります。
 ともあれ、福井口から40分少々かかって、電車は終点三国港駅に着きました。
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 写真はクリックすると拡大します。以下も同じ。
 この写真背後の、道路を挟んだ向こう側はすぐ海なのですが、ちょっと分かりにくいですね。駅自体はごく静かで、あまり港らしさも感じません。乗ってきた乗客も僅かでした。ただ、構内にまだ2本の側線が残されていることが、かすかに昔の状況を推測させるだけです。
 折り返しの時間は10分しかありません。写真など撮っているうちに時間はたちまち過ぎていきます。
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 乗ってきた電車は、元阪神5101形を改造したものだそうです。元々は3扉だったのを、真ん中のを埋めて2扉にしていますが、なかなか綺麗に改造してあります。1959年に登場し、いわゆる新性能電車の初期の車輌中では有名なものの一つでした。猛烈な加減速性能から「ジェットカー」と呼ばれたものです。もっともえちぜん鉄道(譲渡当時は京福電鉄)と阪神はレールとレールの間隔が違う(阪神の方が広く新幹線と同じ)ので足回りは変更されており、往時の走行性能は偲ぶべくもありません。まあ地方私鉄でそんな走りをしても電気代が嵩むだけでしょうが。
 それでも、前面に雨樋や電気回路を縦にくっつけた、一昔前の阪神電車の精悍な表情の特徴はよく残されています。やはり、いくら改造されていても、それが現役で走っているのであれば、それが何よりのことです。しかし、どれほど歴史的価値の大きいものであっても、古い車輌を現役で残すのはかえって経済的に不合理だったり、安全性に問題がある場合もあります。その場合、動く状態で保存できれば喜ばしいですが、これもなかなか困難なことが多く、やむなく静態保存という形になることが大部分です。その場合は、できうればもっともその車輌らしさが表れている状態に復元し、保存車輌を長く保つようにする体制を整えるのが重要です。
※このような保存例として素晴らしい例は、小田急のSE車や東武の蒸気機関車があります。どちらも会社を代表する(のみならず日本の鉄道史上重要)な車輌ですが、これらの保存に当たっては、色々改造されて長く使われた最終状態のものと、原形に復元されたものとの、両方の形が保存されています。
 つまり、何が言いたいかというと、東急5000形デハ5001号の扱いは論外である、ということを改めて強調したいのです。ここで写真に示したジェットカー初期車を阪神が回収に来るかは分かりませんが、少なくとも阪神は、戦前の同社の著名な車輌を最後まで使っていた野上電鉄が廃止になった際、その車輌をちゃんと引き取って保存しています。
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 乗って来た電車で折り返します。稲穂の揺れる福井平野の中を一直線に南下し、田原町駅に着きました。ここで福井鉄道に乗り換え、武生へと向かうことにします。

 田原町の駅は乗換駅とはいっても、どちらの鉄道会社の駅もホーム一本だけのささやかなものです。ホームの上屋は木造で、その下に沢山の自転車が置かれています。一部トタン張りだったり、ちょっとみすぼらしくもありはしますが、それはそれで落ち着いた雰囲気の駅という印象を受けました。木造の上屋の状況を以下に示します。左手の線路が福井鉄道、右手がえちぜん鉄道です。
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 以前富岡製糸場を見学した時も思いましたが、このような木造の小屋組みは、如何にもしっかりと屋根を支えていますよ、という構造の美が感じられて好ましいものです。ホームの上屋としてはレールを再利用したものも同じく構造の美を感じさせるものがあり、見ていて感じの良いものですが、近年は鋼材が安くなったためか、あっさりしたものばかりになっています。

 この日は土曜日で、時刻は13時少し前でしたが、午前中に授業でもあったのか帰宅の高校生が何人も駅にいました。彼らのある者はえちぜん鉄道(福井行きと三国港方面行き両方)に乗り、またある者は福井鉄道に乗っていたことからすると、この田原町の近傍に学校があるのでしょう。
 女子の制服は、大き目のセーラーの襟に灰色のラインが2本入った、なかなか上品なデザインのものでした。田原町には幾つも高校がありますが、調べたところ県立藤島高校の生徒たちだったようです。先ほど見かけた永平寺中学といい、福井県教育当局は灰色を基調にしたセーラーが好きなのでしょうか。なかなか結構なセンスと思いますが。
 ついでに、以上のようなことを調べているうちに、斯様な新聞記事に行き当たりました。
制服を美しく着こなそう 福井商高で講習会
 高校生にきちんとした制服の着方を学んでもらう「着こなし講習会」が20日、福井市の福井商業高校で開かれた。

 各校が頭を悩ましている生徒の服装の乱れを直そうと同校が開催し、全校生徒約890人が受講した。

 同校の制服を製造している明石被服興業(岡山県倉敷市)のデザイン担当、松山美和さん(21)が「制服は整然とした美しさや相手への第一印象を考えて作られている」と説明。▽シルエットが崩れないようポケットに物を入れすぎない▽生地を傷めないようスカートの腰の部分を折らない-などと、制服の目的や特徴を理解して美しく着こなすよう訴えた。

 その上で松山さんは、生徒代表12人に正しい制服の着方を指導。「(就職などで)面接する時にも役立てて」と話しながら、女子生徒には襟やリボンの整え方を、男子生徒にはズボンをずり下げずにはくよう、それぞれ指導していた。
 やはり制服生産といえば岡山ですね。
 この学校も田原町のそばにある学校ですが、ここはブレザーみたいですね。そう、ブレザーの女子高生を見かけると、襟元をだらしなく緩めてネクタイやリボンが見苦しくなっている例が、はなはだ多いですね。とはいえ夏は暑い日本で、若い諸姉が首元を絞められる暑苦しさに悩むのももっともなことであります。やはりここはセーラー服化で(笑)・・・セーラーにもセーラーで、着こなしの問題はあるそうですが。
 え? 男の制服? どうでもいい観察対象外ですし、中高と私服だったので特に提言が思いつきません。

 最後は話が逸れましたが、次回の福井電鉄篇でこの旅行記も最終回です。
 つづく
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by bokukoui | 2006-10-30 23:58 | 鉄道(現況実見)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その6

 その1その2その3その4その5の続きです。

 金沢で一泊し、今日は福井県の私鉄を回ります。当初は福井で泊まる案でしたが、福井の宿泊事情が良くないことから、金沢で泊まって早めに福井に移動することとしました。
 午前6時台に起きだし、7時前の電車で金沢駅を立ちます。早すぎて駅の売店は開いていません。通学する学生で混雑した国鉄時代の急行形電車に乗って福井に向かいます。道々、北陸本線を輻輳する特急列車に追い抜かれますが、加賀温泉駅で退避時間中に駅弁を購入して食事を摂ります。確か最近評判の新名物らしい焼き鯖すしと、あとは鯛稲荷だったか、まずまずは結構な食事でした。値段もですが。
 全く余談ですが、「鉄道で旅する」というとすぐ駅弁を連想するのがテレビ東京に毒された一般人の通念のようでありますが(『たびてつ友の会』とかもそういった通念に乗っかったものといえましょう)、強行軍で予算に制約のある鉄道趣味者の旅行は、食料費を節約するために駅弁より駅蕎麦・駅前コンビニを重視する場合が少なくないのであります。

 車中からかつて北陸鉄道や京福電鉄の支線のあった駅などを確認したりしつつ、1時間半ほどで福井に着きます。工事中の駅に降り立ち、京福電鉄改めえちぜん鉄道に乗り換えます。
 ご存知の方も多いと思いますが、えちぜん鉄道とは、地方私鉄の京福電鉄が経営悪化していたところに事故を連発して運行差し止めになり、県が出資した第3セクターに改組して鉄道を再生させたものです。その際に支線の永平寺線は廃止になりましたが、越前本線改め勝山永平寺線と三国芦原線の2路線を有しています。これもまた昔はもっと支線がいっぱいあったのは北陸鉄道と同じ。
 そもそも京福電鉄とは、京都と福井に別個に路線を有していたのでその名がありますが、元々は戦前の京都電灯という大手電力会社(戦前の電力会社は「五大電力」と呼ばれる最大手五社が中心で、それに次ぐ存在として「地方大電力」と呼ばれた会社(これを入れて九電力)があり、京都電灯はその筆頭格でした)が、安定した電力供給先兼営事業として営んでいた電鉄事業にその源流があります。京都電灯は京都と北陸(水源)で電力事業と共に電鉄業を営んでいましたが、日中戦争以降の経済統制の中で進められた電力国家統制により本体の電力事業が国の手に移ってしまい、その際残った鉄道事業をまとめて会社を作ったので、京都と福井にバラバラに路線を持つ電鉄会社ができたのでした。
 戦時中の交通統制により、京福は福井の小私鉄を併合して路線を増やしますが、戦後はご多分に漏れずモータリゼーションで経営が悪化し、福井の路線は縮小され、京都の路線の半分は叡山電鉄という別会社に分社したりし、この度えちぜん鉄道に福井の路線を委譲したことで、京福は完全に解体されてしまったといえるでしょう。

 更に余談ですが、戦前は電力会社が電鉄業を兼営したり、逆に電鉄会社が電力事業を沿線で展開したりすることは良くあったことでした。江ノ電や箱根登山鉄道も電力会社の一部門や子会社だったことがあり、京王や京成、京阪や阪神や南海などは大規模な電力兼業(電力業界で言えば中堅程度の規模)を行っていました。
 以下は小生が現在持っている仮説ですが、電鉄会社の経営に占める電力兼業の比重は、大正から昭和初期の不況の時期にかけて高まっています(京王の昭和10年ごろの収入は電車より電力の方が多かった)。一方、これと同じ時期に、電力会社が持っていた兼営電鉄業を別会社にして切り離す例が幾つかみられます(東京電灯の群馬軌道線とか)。つまり電鉄業にとって電力兼業の重要性が増す一方で、電力業経営からは電鉄兼業の意味が薄くなるような、捩れ現象が起きていたのではないかと思うのです。この現象を解決したという意味では、電力の国家統制や陸運統制を、企業経営を国家が介入して捻じ曲げたものとばかりはいえない側面もあるのではないか――とも考えられますが、実証的な調査はまだしていません(苦笑)。それに京都電灯はこの例として都合が悪いな・・・(藁)。

 余談が長くなりすぎました。話を戻して、えちぜん鉄道に乗り込みましょう。
 この日は土曜日でしたが、折りよく週末に限り全線乗り放題800円のフリー切符があることが判明しました。これはありがたい。更に400円足して1200円出せば福井電鉄も乗り放題になる切符がありましたが、福井鉄道は片道を乗り通すだけなので普通に切符を買う方が安いため、この週末限定えちぜん鉄道フリー切符を求めました。福井から勝山永平寺線の終点・勝山まで750円、三国芦原線の終点・三国港まで750円ですから、頗るお値ごろです。

 まずは旧越前本線、勝山永平寺線に乗って勝山を目指します。待っていた電車は案外現代風の車輌でした。何でも愛知環状鉄道から譲り受けたものだそうで、101系から流用したモーター類はともかく、車体は20年経っていないのでそう古くはないようです。もっとも、えちぜん鉄道発足時にけっこうきちんと手を入れたらしく、車内外とも割りと綺麗でした。転用した古い部品を見るとお里が知れますが、第一印象はなかなか良い感じでした。
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 例によって写真はクリックすると拡大します。以下も基本的に同じ。

 えちぜん鉄道は県の肝煎りで経営の効率化や利用促進に色々と力を注いでいますが、その一つに女性のアテンダントを乗り込ませて(車掌ではない)接客をしているということが挙げられます。この列車にも、勝山永平寺線と三国芦原線が分岐する福井口駅だったかと思いますが、途中駅でアテンダントが乗車し、切符の発行や回収、アナウンスなどをこなしていました。いでたちは・・・制服趣味者としての琴線に触れなかったのか覚えていません。ただ、旅行者がよく使うようなカートを引っ張って乗ってきたのは覚えています。普通の鞄ではないものを持ち込んでいたのが面白かったので。
 折角アテンダントが乗り込んでも仕事がなかったら残念ですが、割合駅ごとに乗降客はあり、現時点ではそこそこ利用されているようです。

 天気の良い日でした。明るい秋の日差しを浴びて、沿線はなんとも長閑に見えます。かつて永平寺線を分岐していた永平寺口(旧東古市)駅の辺りから路線は山間部に入り、沿線に占める緑の割合が多くなります。路線は九頭竜川に沿って蛇行を繰り返しながら、高度を上げていっているようです。感心するくらいカーヴの多い路線でした。
 線路に立つ架線柱は、古色蒼然たる木製から、如何にも地方私鉄らしい鋼材を組んだ物、そして近代的でありふれたコンクリート柱まで入り混じっており、この路線の歴史と懐具合と、それでも投資の意欲があることとを伺わせ、なかなか興味深いものでした。
 ちょうど1時間ほどで終点の勝山に着きました。九頭竜川と山とに挟まれ、工場の手前といったところにある駅ですが、木造の駅舎に地方私鉄としては比較的ゆったりした構内の醸し出す雰囲気は、天候とも相俟って何とも爽やかな印象でした。
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 折り返しの列車まで30分ほどあるので、その間周囲を散策します。

 この路線は、かつては更に九頭竜川の上流である大野まで延びていましたが、その区間は1974年に廃止されました。その痕跡がないかと探してみましたが、工場が拡張して産業廃棄物でも埋めたのか、廃線跡は駅のすぐ北で見失われ、九頭竜川沿いまで出てみましたが判然としません。探索は諦めて駅に戻り、駅舎のたたずまいなど観察します。
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時代を感じさせる看板(たんび氏撮影)

 10時過ぎの電車で勝山を離れます。当初は空いていた車内ですが、次第に乗客が増えていきます。
 途中「轟」という駅を過ぎます。「とどろき」と読む駅は難読として知られ、東急の「等々力」、青森県は五能線の「驫木」、今はもうありませんが和歌山県の野上電鉄の「動木」と、どれも一筋縄では読めそうにもない駅ばかりです。ところがこのえちぜん鉄道の「轟」は、「どめき」と読みます。なんとまあ。
 下志比の駅で、灰色のカラーに白いラインが入った、なかなか瀟洒なセーラー服を着た、永平寺中学のネームプレートを付けた女の子が乗ってきて、次の永平寺口で降りていきました。アテンダントの制服よりずっと印象に残っています。
 永平寺口を過ぎて平野部になる頃には、例のフリー切符のお蔭なのか、乗客はどんどん増え、しまいには立ち客だらけになります。これだけの利用があるとは、えちぜん鉄道当局の努力は一定の成果を挙げているようで、はなはだ結構なことです。

 我々は終点まで乗らず、分岐点の福井口で下車して、三国芦原線に乗り換えます。

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-25 23:58 | 鉄道(現況実見)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その5

 諸事情により間が開いてしまいましたが、その1その2その3その4の続きです。

 西金沢の駅でH氏と合流し、小生とたんび氏は新西金沢駅より北陸鉄道石川線に乗り込みます。この線の電車は元東急7000形で、浅野川線の車輌とは東急車輛系のステンレスカーという点で共通しており、あちこちの地方私鉄に中古で流れていった電車です。東急沿線住民とはいえ東横線系統に縁のなかった者としては、昔水間鉄道で乗った電車と同じだなという感慨を抱きます。
 ちなみに水間鉄道に乗りに行ったのは小生がリアル厨房であった当時で、中学の鉄研の友人某氏と行ったのですが、当時某氏はさる声優の熱心なファンで、というか親衛隊で相当の地位にあったとかなんとかで、この鉄道の沿線にその声優さんの実家(金物屋)があるというので乗った際にそこを訪ね、小生もお供する羽目になりました。そこで某氏が某声優さんのお父上と話しこむこと数十分、小生は横でおとなしく聞いていました(笑)。
 以後、小生は某声優さんのファンではありませんが、某声優のお父上のファンは自称しています。なお某氏はその某声優さんの店でメジャーやステンレスの物差などを購入し、その後学校の文化祭でこれらの機材は大活躍しましたが、由来を皆知っていたので、これらは「〇〇メジャー」「〇〇定規」(〇〇にその声優さんの名前が入る)と呼ばれ、皆取扱いには気を使っていたものでした。
 今にして思えば、いくらリア厨とはいえちょっと押しかけ厨みたいだったのではと思わなくもありませんが、しかしまあ昔は呑気だったのでしょう。昔といっても十年ばかりのことですが。

 えらく話が脱線しました。鉄道の話にこれはいけません。
 石川線の電車は学校帰りの生徒などでそれなりに賑わっていました。カーヴを繰り返しながら市街地を抜け、やがて沿線は近郊住宅地となり、そして収穫中の田圃の中をまっすぐ走ります。H氏の案内のお蔭で、金沢市を抜けると途端に住宅が減って田が広がり、工場が出現する(規制の影響だとか)といった沿線の情景の意味をよく理解することができ、なかなか充実しておりました。
 北陸鉄道はかつて石川県各地に路線を展開しており(あちこちにあった小私鉄が戦時統合で大合併したのですが)、この石川線に繋がる支線も二つありました。特に鶴来(つるぎ)から出ていた支線は比較的近年まで残っていたため、今でも車窓から遺構を望むことができます。これもH氏が案内してくれたお蔭で分かったのでした。
 この石川線、かつては山を越えて名古屋まで繋げるという夢があった路線でしたが、結局夢破れ、路線も一部廃止されて往時より短くなっています。鶴来以北は本数が半減し、いっそ鶴来まで廃線になってもおかしくなかったような感もありますが、終点の加賀一の宮は初詣客が押し寄せるために残されているのだとか。
 その加賀一の宮駅に、30分ばかりで到着しました。乗客はやはり随分少なくなっていました。
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 写真はクリックすると拡大します。以下も同じ。
 加賀一の宮は木造の駅舎になかなか風情があり、訪問の価値ある駅です。短い折り返し時間の間に周囲を見て回りますが、かつて延びていた区間の廃線跡は判然としませんでした。駅舎の様子が良いので記念撮影(この写真はたんび氏の撮影したものです)。
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 木造の駅舎もさることながら、レールで作られた柱が目を惹きました。レールの刻印がはっきりと読み取れます。
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 6009 ILLINOIS STEELCo SOUTH WKS || 1901 IRJ とあります。以前にもお世話になったこちらのページを参考にさせていただくと、イリノイ製鋼会社が1901年2月に日本帝国鉄道(当時は鉄道作業局)向けに南工場で作った30キロ(60ポンド)レール、ということになります。明治のこととて、30キロレールでも幹線で使われていたものでしょうね。

 来た道を戻ります。乗る乗客もやはり少数でしたが、途中から多少は乗ってきました。
 このまま終点の野町まで乗り通します。当初は、この後市内をうろついて適当に夕食および折角なので一杯やるという程度に、大雑把な計画しか立てていませんでした。宿は金沢駅近傍にとってあります。しかしH氏が合流したのでどうしようかということになり、結局H氏のご好意に甘えて、氏のご実家を急遽手土産もなく探訪することと相成りました。
 小生は以前から、サークルと研究室とでH氏と交友があったのですが、氏は世界中足跡至らざるはなき旅行家で、マイレージが切れそうだからなどとといってしょっちゅう海外に出かけ、世界各地の鉄道を乗ってきているという人物です。更に、氏の書籍の収集ぶりは大変なもので、予算もさることながらあれだけの本をどこに置くのだろうと不思議に思っていました。ある時、さる方からJTBの時刻表を無慮三十数年分(毎月揃っていて欠号なし)処分するという話が持ち込まれたとき、氏はそれを引き取ってご実家に送られていました。で、これらの経験から、H氏と交流のある人びとの間では、氏の家はきっと金沢に土蔵を持っている素封家なのだろう、ということになっていました。で、その土蔵(?)を覗いてみたいという欲求には勝てなかったのであります。

 石川線の起点の野町から、かつて市電が走っていたという通りを歩いて、バスに乗り込みます。バスの路線網や案内などはかなり充実しており、バスも帰宅ラッシュが始まってかなり混雑していました。そしてH氏のご実家に到着。・・・本当に素封家だったようです。土蔵ではありませんが、庭に書庫が建っています。うむむ。
 当然、まずは玄関からお邪魔したわけですが、この玄関からしてちょっとした旅館並みに堂々としたものでした。すっかり恐縮しているところを応接間に通されます。ここがまた、書架に年鑑や事典類(英語のもの少なからず)が収められ、古典的な教養の集積を見せ付けられます。H氏が収集した鉄道のビデオなど鑑賞しますが、これがまた究極のアナログ式家電のセットというか、デジタルのDVDより画質が上なS-VHSという驚くべきものでした。
 H氏のご家族のご挨拶を受けますます恐縮。小生は気付かなかったのですが、専門家のたんび氏がバッジを見たところでは、お父上はどうも弁護士でおられたようです。本当に地方名望家だったのでした。夕食までお相伴に与ってしまいますます恐縮至極。

 そして本題の、庭の土蔵、もとい、書庫を見せていただきました。手前に閲覧室というか、ソファーなどが置かれた四畳半くらいの部屋があり、奥の12畳くらいだったでしょうか? そこが書庫になっていました。
 その書庫が、これまた普通の個人宅にある本棚とは隔絶したものでした。図書館、それも公立の普通の図書館の開架式のそれではなく、大学の研究室などに見られる閉架式の書庫のように、床にレールを敷いてぎっちりスチール製の書架が並べられ、ハンドルをぐるぐる回して書架を移動させて本を出納する、そんな書庫だったのです。個人宅でそんなものを持っているとは、なんともはや。
 書籍のコレクションも、文学全集の類が各種揃っていたり、各種の雑誌が何十年分も揃っていたり(例の時刻表もありました)、ますます図書館のようです。これはH氏一人ではなく、無論ご家族全体のコレクションなのではありましょうが、レパートリーの広さは目を見張るものがありました。壁沿いには木製の文庫本などを専門に収める本棚が並べられています。これも特注品んとの由。ご自身数千冊のやおいコレクションの収納に難儀されているたんび氏は、この書庫の偉容に興を得たらしく、このスライド式書架の予算を聞いて自宅への導入を検討し始めたようでした。しかし、お金は調達できても土地が・・・とか。

 随分遅くまで長居してしまい、帰りも送っていただくなど、急な訪問にもかかわらず至れり尽くせりの接待を受けてしまいました。今度は手土産を持っていかねば。
 今まで近代史の話をする時、小生はあまり深く考えもせずに「地方名望家」という言葉を使っていましたが、今回初めてその意味を実感することができたように思います。財だけではなく、文化(ある程度公共性を持った)をも地域で集積している存在、ということです。ただの金持ちではないのです。なるほど、今までのH氏の振舞も納得できたのでありました。

 その夜は、予想外の体験を再度噛みしめつつ、金沢の安宿で二人地味地味と酒など飲んでおりました。しかし明日は朝早いので、そう遅くまで呑むわけにもいきません。程々に切り上げてやすみます。

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-22 23:58 | 鉄道(現況実見)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その4

 その1その2その3の続きです。

 高岡の万葉線を往復し、今度は北陸本線に乗って金沢へと向かいます。高岡でたんび氏は「ますのすし」など購入していたような。金沢までは一時間足らずでした。石川県に足を踏み入れたことで、本州の都府県はすべて行ったことがあることになります。ついでに九州と四国も全県行ったことがあるので、残るは北海道と沖縄・・・。

 金沢到着。駅は高架化されて立派で、なにやら駅前に巨大なモニュメントのようなモノが建っています。その趣旨は良く分かりませんが。
 この高架化と一体の事業だったようですが、これから乗る北陸鉄道浅野川線の金沢駅はその際に地下化されたようです。エスカレーターに乗って巨大な半地下のコンコースに降り立ちます。広さの割りにあまり人は歩いていません。時間帯のせいでしょうか。そのコンコースの横手に、こじんまりと浅野川線への改札口がありました。

 北陸鉄道浅野川線は、金沢から反米闘争で有名な内灘までを結ぶ路線で、車輌は京王井の頭線で使われていた3000形が中古で入っています。長らく井の頭線の顔だったこの電車も多くが隠退して地方私鉄に去り(車体長が手ごろなステンレス冷房車ということでそれなりに引き合いがあったようです)、残ったものも改装を受けてオリジナルの面影が薄れています。井の頭線沿線の学校に長らく通ったため(まあ中高時代は、井の頭線ではない別の路線の駅から歩いていましたが)、多少の懐かしさを感じます。井の頭線時代にも乗ったことがあったはず。
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 写真はクリックすると拡大します。以下も同じ。
 ちょっと暗めの頭端式ホームにこの電車が二本並んでいると、なんだか改装される前の渋谷駅を思い出してみたり。

 電車はそれほど混んでいませんでした。地下線を少し走り、カーブしながら地上に顔を出します。金沢の平野部を走るこの路線に勾配はほとんどないようです。沿線は住宅が多く、民家の間を縫って電車は走ります。
 と、ある途中駅で、小学生の大群が乗ってきました。皆お揃いの制服に身を包んでいます・・・と思いきや、紺のスカート/ズボンに白のブラウス/シャツというのは共通していても、上着の細部は微妙に異なっている様子。制服というより標準服というのが適切なのかもしれません。どうも私立ではなく公立の学校の児童のようでした。後で聞いたところでは、石川県では小学校に制服のあるのが普通なのだそうです。いっそならセーラーとか、或いはもっと地場的な・・・(笑)
 大勢でがやがやと賑やかにしていますが、基本的には空いた電車なので別に迷惑ということもありません。面白いことに彼らは皆同じ駅で降りていきました。

 20分と掛からず終点の内灘に着きます。
 車庫が併設されていて、電車が何両か停められています。皆同じ元井の頭線3000形ですが。ちなみに小生らが乗ってきた電車は、ドアが片開きで、車体幅が少し狭く裾を絞っていない初期形車でした。北陸鉄道では初期形を8800形、両開きになって幅も広くなったのを8900形と区別しているようです。内灘の駅でその両方を見ることが出来ました。
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 この写真に写っているのはどちらも初期形です。

 電車はすぐに折り返します。乗ってきた電車でとんぼ返り。途中の駅ですれ違った電車は、やはり小学生を満載していました。

 北陸鉄道にはもう一路線、石川線という路線があります。この路線の起点は野町といって金沢市街地の中心から少し南にあり、金沢駅とは大分離れていてバス連絡の必要があります。鉄道の場合は、北陸本線の次の駅である西金沢で連絡しているので、そちらで乗り換えることとします。ホームに上がるとちょうど札幌行きのトワイライトエクスプレスが停まっており、間もなく北へ発車していきました。
 と、そこにメールが。この少し前に、金沢出身で大学の鉄研・研究室の後輩であるH氏から所用で連絡がありました。返信を出しておいたのですが、そのついでに「貴殿の実家の近くにおります」と書き添えておいたところ、返信が来て、H氏もご実家の金沢におられ時間も余裕があるとの由。そこで西金沢で合流することと相成りました。
 今度は帰宅の高校生(セーラー服が多くて嬉しいが、どこの学校かはよく分からない)の大勢乗った電車に揺られて一駅、西金沢駅で下車し、JRの駅の南側にある北陸鉄道の西金沢駅に向かいます。随分とカーブしたところにある駅だなあという感じです。国鉄の路線に何としてでも近づけようとしたのでしょうか。
 ここでH氏と合流し、石川線の加賀一の宮に向かいます。

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-12 23:59 | 鉄道(現況実見)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その3

 その1その2の続きです。

 富山港線を乗り終え、北陸本線で高岡に向かいます。今回は富山地鉄は見送り。また改めて来訪したいところです。
 高岡に着き、今度はここで加越能鉄道、と昔は言いましたが、経営難により廃止されるところを地元が引き受けて第3セクターの万葉線に生まれ変わった路線に乗りに行きます。
 この路線は高岡の市街地を路面電車で走り、郊外になると専用軌道へ変わります。かつては終点で富山地鉄射水線に接続して直通しており(万葉線も富山地鉄の一部だった時代がありました)、市街地を路面で走って郊外は専用軌道という形で都市間連絡をするという、古典的な形の電鉄でした。それが掘り込み港である富山新港建設のため分断され、射水線の高岡側が加越能鉄道に譲渡されて現在の形になりました。射水線は1980年に廃止されています。
 なお、射水線で使われていた電車は、その後和歌山県にあった野上電鉄(1994年廃止)に譲渡されており、小生も乗ったことがありました。その時、他の電車と違って、ドアの高さが低い(ドアの上辺が窓の上辺と同じ高さ)のを妙に感じましたが、射水線が路面区間直通の路線だったことからすれば当然だったのでした(併用軌道区間用にステップがあったが、野上電鉄移管時にステップ部分を切ったらしい)。
 閑話休題、電停に行くと、先ほどの富山ライトレールのLRTとは対照的な、まずは典型的な路面電車的車輌が迎えてくれました。この路線にも新型のLRTが導入された(一時故障で大変だったらしいけど)そうですが。なお写真はクリックすると拡大します。以下同じ。
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 早速乗り込みます。万葉線は一時廃止の話が出たくらいで、昼少し前の車内には数人の女性(おばちゃんと婆ちゃん)の乗客が乗っていただけでした。そのままの状態で発車します。
 高岡駅前の電停を出発して、駅前商店街の真ん中を単線の併用軌道で走ります。その揺れること揺れること。軌道の状態がだいぶ悪いようです。前世紀のこと、今は廃止された名鉄美濃町線の末端区間(県道の端に沿って走る併用区間だったが、最後まで砂利道状態であった。自動車の通るところしか舗装していなかった。他の区間より早く1999年廃止)に乗ったときに、その揺れ具合の酷さに一驚したことがありましたが、それを上回るかもしれない揺れっぷりです。初手から万葉線の将来が気になりましたが、気がつけば車内に「軌道補修工事をするので9月某日高岡駅前と某電停(忘れた)との間を運休します」というお知らせがあり、ああまだちゃんと直す気はあるのだと一安心しました。

 電停を一つ二つ過ぎると軌道は複線になります。それに歩調をあわせるわけでもないでしょうが、乗客も少し増えたりしながら米島口電停に到着します。ここには車庫があり、また万葉線の本社もあります。乗客もまとまって下車しました。ここから一旦専用軌道になり、道路と並んだ跨線橋でJR氷見線と貨物線を越えます。越えたところで再び併用軌道区間となり、道路の真ん中を電車は走ります。
 この路面の区間に幾つかの電停がありますが、路面の電停は道路に線を引いただけで安全地帯も無く、待合室は道路沿いにバス停のように設けられ、これも昨年完全に廃止された名鉄の美濃町線の風景を偲ばせるものでした。
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 この写真は実は帰途に撮ったものですが、電停と待合室の様子がお分かりいただけようかと思います。

 幾つか電停を過ぎると線路は再び専用軌道に戻ります。六渡寺から先は、旧射水線の区間に入ります。乗客はますます少なくなり、線路の揺れはまた激しくなり、沿線は海に近いことを感じさせます。冷房も無い旧型車ですが、側面だけではなく正面の窓も開け放しており、車内は涼しくて快適です。正面の窓も開けているため、電車のスピードの割りに風切り音が激しく、モーター音もやかましく聞こえ、それもまた情趣を添えます。
 またも昔話で恐縮ですが、今は無き名鉄谷汲線を思い出しました。夏場に何度か訪れた路線でしたが、あの線は昭和初期製の旧型車を最後まで使っており、夏場はやはり正面の窓を開け放して走っていました。旧型車だけにモーター音もブレーキ音もやかましく、しかし駅に停まるとぴたりと音がやんで、開け放した窓からちょっと先の踏切の警報音や沿線で鳴く蝉の声が急に耳に入ってくる、その喧騒と静けさの対比が印象的でした。この万葉線の時も、同じ印象を受けました。
 ますます話が逸れますが、小生リアル厨房初期の頃、鉄研に初めて入った段階では、普通におとなしくJRなぞ乗り潰していたありきたりの鉄道趣味者であったのですが、中学時代に箱根登山鉄道の車庫を修学旅行で見学したり、先述の野上電鉄に出会ったりしたことによって、古い電車マニアに転向したものでした。しかし中学を出る頃には野上電鉄は廃止、今度は京阪京津線(京都と大津を結ぶ路線で、京都と大津の市街地は路面を併用軌道で走っていた。京都の市街地は1997年地下鉄の開業により廃止、現在は乗り入れをしている)に数度通いましたがこれも数年ならずして京都の路面区間が廃止され、その後はもっぱら岐阜県内の名鉄線を乗りに行っていました。しかしこれも昨年完全に廃止されました。こんな趣味遍歴ですから、正直もう普通のJRのローカル線にはあまり興味を抱かず、私鉄の古い話にばかり関心を持つようになり、大部分の鉄道趣味者とは話が合いにくくなりました(笑)。その結果日本史の院生になって鉄道の話を発掘するようになったわけですが。
 というわけで、路面を走るローカル私鉄の旧型車、という状況は、いたく小生の心に染み渡るものなのでありました。

 40分ほどかかって終点の越ノ潟に着きました。掘り込み港ができたため終点になってしまった電停で、線路の車止めの目の前はもう海です。無料の渡し舟で対岸に行けるそうで、暇そうなおっさんが数名、港の待合室にたむろしています。駅の周辺はそれ以外、特に目立った建物はありません。コンビニ一件無く、工場もあまり立地していないようです(渡し舟で渡った先はあるようです)。
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 乗ってきた電車でそのまま折り返すかどうか、たんび氏と検討しましたが、後続の電車が新型の超低床車、つまり富山ライトレールのようなLRTらしいので、それでは帰りは趣向を変えて新型車に乗るか、ということになり、今乗ってきた電車が折り返すのを見送ります。
 20分ほど昼下がりの越ノ潟の駅で時間を潰します。越ノ潟の電停には二本線路があったようですが、一本を撤去中で、半ば剥がされた線路敷にショベルカーが停められていましたが、昼休みのせいか作業員は誰もいませんでした。ややあって、高岡方向から新しいLRTがやってきます。
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 新型車に乗り込みます。こちらは先ほどと対照的に空調完備なのはもちろんです。越ノ潟からは僅かな乗客を乗せて発車します。
 行きによく揺れたということを書きましたが、流石に新しい電車の性能は大した物で、旧型車と比べると乗り心地は雲泥の差、と言うと言い過ぎかも知れませんが、揺れがずっと少なくなっていたのは確かです。ということは、LRTの導入による軌道整備コストの低減は、結構大きなものなのでしょうね。このような超低床車を、老人や身障者にも乗りやすく交通弱者に優しい電車、という名目(もちろん実際に優しいのは間違いないですが)で自治体の補助金を獲得して導入し、同時に保線費の低減も図れるとなれば、なかなか結構なお話でしょう。

 帰り道のせいなのか、新型車の走りぶりが大変スムーズだったからか、帰路は速く感じました。実際には旧型車と新型車でダイヤ上の違いは無いようですが。
 大変興味深い路線でした。また機会があれば来訪したいところです。

 今日は朝の6時から飛び回っているため、この時点でもまだ午後1時台でした。これから金沢に向かい、さらに私鉄の探訪を続けます。

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-07 23:59 | 鉄道(現況実見)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その2

 やや間が空きましたが、その1の続きです。

 神岡鉄道を乗り終えて富山に戻ってきた我々は、JR富山港線改め富山ライトレール線に向かいます。JRの電車区間を一部を路面軌道にしてLRT化、公設民営方式に移管し、改造工事をして今年のゴールデンウィークに開業しました。これまで路面電車的性格の路線を高速電車に改める例は数多くありましたが、逆の例はあまり無く、今後の鉄道のあり方の例となるかもしれないというわけで、今回の旅行の眼目の一つでした。駅ホームで蕎麦をすすって朝食兼昼食に代え、慌しく駅の北口に向かいます。
 富山駅は北陸新幹線対応の駅高架化工事中でしたが、この高架化に富山港線を加えないという事情が、富山港線のライトレール化の理由の一つとなったようで、将来高架化実現の時には富山地鉄の路面電車と乗り入れする計画もあるとか。
 駅北口に新設された路面電車の駅には、最近流行の超低床電車が停まっています。小生の見解では、日本の電車の技術はもっぱらアメリカ由来だろうと思いますが、最近はLRTはじめヨーロッパからの導入が流行となっており、時代の変化を感じさせます。まあ、アメリカの旅客鉄道がそれだけ衰退したということかもしれませんが・・・。
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 写真はクリックすると拡大します。以下も同じ。
 軌道敷が緑化されているのが目を惹きました。ヨーロッパでよくあるらしいと写真で見たことはありましたが、実物を見るのは初めてです。もっとも、富山ライトレールの場合、緑化してあるのは富山駅北の電停の範囲内だけのようですが。

 運賃は200円均一ですが、平日のデータイムと土休日は当分の間半額の100円とのこと。そのせいなのかどうなのか、乗客は結構乗っていました。ICカード利用者もそれなりにいるようです。
 新設された真新しい路面の軌道を暫く走ります。将来の複線化の予定があるようで、複線化に備えたポイントが既に設置されていました。路面区間は短く、電停3つほど過ぎるとかつての富山港線を転用した専用軌道区間に入ります。もっとも駅を全て路面電車対応の低いホームに変えるなど、かなりの改良工事がなされていました。電車も新しい超低床車でスムーズな走りです。車内も綺麗で申し分ありません。ただ、下車を知らせる押しボタンの文字が消えかけていたのと、早くもシートがへたっていた箇所があったのがちょっと気になりましたが。
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 使ってみなければ分からないことも多いのでしょう。
 30分足らずで終点岩瀬浜に到着。ここは駅前が整備され、バスとの接続が図られています。電車到着後ややあってバスが来て、そう多くはありませんでしたが、乗客が行き来します。
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 戻りの電車も、昼前に富山に着くというやや中途半端な時間帯でしたが(昼食兼買物などにはいいのかな)、途中から結構乗って来て、富山駅に着く頃は立ち客が大勢出ていました。今のところはそれなりに利用されているようで喜ばしい限りです。半額割引シーズンが終わって、導入当初の熱気が去っても利用者が維持されるかがこれからの課題ですが。冬場は雪が降れば利用者はありそうですが、超低床車が雪が詰って動かなくなったりしたら大変です。まあ、ヨーロッパや富山地鉄のノウハウがあれば大丈夫でしょうけど。
 ともあれ、一往復しただけの感想ですが、とりあえずシートのへたり以外は明るい状況のようで、あとは飲酒運転の取締りを徹底すればきっと・・・(苦笑)

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-04 23:58 | 鉄道(現況実見)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その1

 本来昨日書く予定だった話を改めて。

 少し前の話ですが、北陸地方の私鉄を駆け足で回ってきました。これは近く廃止になる第3セクターの神岡鉄道に乗りに行こうという話がたんび氏から持ちかけられ、これまで北陸地方に縁がなかった小生としては、ついでに北陸各地の私鉄にも乗っておきたいと話を広げた次第です。北陸では路面電車関連で新たな動きも見られるので、電鉄ファンとしては一度は行ってみたかったのです。

 かくて某日、小生はたんび氏ともども高速バスで富山入りしました。バイト先から高速バス乗り場まで直行しましたが、いきなり小田急が人身事故でさあ大変。乗れた電車が快速急行だったので動き出したら速かったのが不幸中の幸いですが・・・何とか高速バスに間に合って出発。しかしどうも高速バスは眠れませんな。
 眠れませんでしたがバスは順調に走り、予定より早く富山到着。お蔭で高山本線の始発に乗ることができました(乗れなかった場合はバスで神岡入りの予定でした)。朝のローカル線らしく、高校生を大勢載せて列車は動き出します。すれ違う列車も高校生で一杯。でも制服はありがちなブレザーばかり。つまらん。
 昨日は豪雨だったようですが、今日は幸いにも好天でした。しかし豪雨の爪あとは随所に見られ、保線員が線路を巡回していたり、ダムがものすごい勢いで放流していたり、収穫間近の稲が無残に倒れていたりします。車中から撮った写真を一枚。(画像はクリックすると拡大します)
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 土木とかを専攻している友人を連れてくれば、かなり充実した解説が聞けただろうなあと思いました。

 列車はやがて猪谷駅へ。ここからが本命の神岡鉄道です。
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 出発までちょっと駅周辺を見て回ります。「神岡鉄道」という社名は実は二代目で、初代は鉱山が経営していた2フィート(609mm)ゲージの軽便鉄道だったそうです。軽便鉄道時代は、軽便で運んできた鉱石を高山本線に積み替えるホッパーがこの猪谷の駅にあったとか。その痕跡らしいところを探してみましたが、はっきりしたことは分かりませんでした。なお、軽便鉄道は、猪谷駅から富山方へと(現在の神岡鉄道と逆)分岐し、すぐに直角にカーブして、鉄橋で川を渡っていました。そのコンクリートの橋脚は、今でも確認できます。

 単行の、少しくたびれたディーゼルカーの乗客は、やはり同好の士が相当部分を占めていたように思われます。
 神岡鉄道は建設時期が新しいため、トンネル区間が多いのが特徴です。路線は神岡へ川沿いに遡っており、車中からの渓谷美はなかなかなのですが、すぐにトンネルに入ってしまいます。特にこの日は昨日の豪雨のため、川の流れの激しさは相当なものでしたが、あまりゆっくりも見ていられません。まあ川見物のために鉄道を引いたわけではないし、殊にこの鉄道は貨物中心でしたし。実際、貨物輸送がなくなって、このたびの廃線という事態に至ったと聞きます。車中から一枚。(画像はクリックすると拡大します)
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 かなりの水勢です。

 途中、貨物用に分岐していた線路の後を確認したり(脱線ポイントが目を惹きました)、踏切が第3種だったりするのを観察しているうちに、やがて終点の奥飛騨温泉口に到着。まだわりと真新しい駅舎があり、またその駅前にはバス停もあって先へと行けるようになっていますが、乗り換えそうな人は見当たりませんでした。バス路線図を見れば、神岡鉄道にわざわざ乗らずともバスで富山や高山に出られるようで、これでは廃線もやむをえないのかもしれません。
 駅前広場には貨物を引いていた機関車が一台置かれていましたが、広場の先には道路を隔てて如何にも廃線跡のような砂利敷の空き地が伸びていました。見に行ってみると、鉄道の敷地の境界を現す標柱があったので、やはり見立ては正しかったようです。
 それと関連するのかどうなのか、奥飛騨温泉口駅構内に、コンクリート枕木が大量に積んでありました。神岡鉄道の本線は、木の枕木だったのですが・・・謎です。

 折り返しの時間はそう長くありませんでしたので、以上のことをあわただしく見て取ってから切符を買い、戻りの列車に乗り込みます。トンネルの合間の渓谷風景を鑑賞し、窓を開けて雨上がりの湿気を含んだ高原の空気を堪能しているうちに、列車は猪谷へと戻ってきました。
 富山行きの列車が出るまで、待合室で時間を潰します。現在高山本線は、2年前の豪雨により猪谷~角川が運休中で、復旧(ほとんど作り直し状態なのでしょう)にはもう一年程度かかるとか。その代行バスの掲示などを見て暇潰しとしていましたが、ふと待合室の一隅に興味深いものを発見しました。
 それは駅で時折見られる、寄贈された(遺棄された?)書物を集めて作った文庫でした。(写真はクリックすると相当大きめに拡大します)
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 微妙な取り合わせが不思議な魅力を持つラインナップです。
 上段に2冊の講談社X文庫ティーンズハートが見出せますが、そのうち向かって左は折原みと『2100年の人魚姫』という本です。1989年に出た本というから結構昔ですね。
 小生小学生の砌、確か4年か5年か、その頃だったと思いますが、クラスの女子の中にこの手の小説を学校に持ってきてみんなで読んでいる集団がありました。当時から本をそれなりに読んでいた小生、好奇心を持って一冊それを読んでみました。それがこの『2100年の人魚姫』という本でした。
 何しろ生意気な小学生でしたし、当時は北杜夫の著作にはまってせっせと読んでいた時期でしたから、折原みとの文章を1章と続けて読むことができず、「こんな低俗な文章の本を読むとは何と程度の低い連中か」と彼女らをバカにしていた記憶があります。そのような態度こそが「程度の低い」ものであるということを悟るのに、小生はその後短からぬ時間を要しました。まあ今でもラノベは読みませんが・・・。
 というわけで、小学生時代の思い出の書物にこんなところで再会し、思いがけないめぐり合わせにひと時感慨に耽ったのでした。

 つづく。
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by bokukoui | 2006-09-30 23:57 | 鉄道(現況実見)