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『月刊COMICリュウ』特集(1) 速水螺旋人「螺子の囁き」のことなど

 ここ2週間、このブログは重苦しい話題ばかりでしたので、さすがに書いている人間も気が滅入ってきますし、そろそろ明るく楽しい話題も書いて気分転換させてもらいたいと思います。

 で、これまでも折に触れ書いておりましたが、小生はナヲコ先生の漫画作品をこよなく愛しており、そのためナヲコ先生が現在「なずなのねいろ」連載中の『月刊COMICリュウ』を昨年11月号以来ずっと買っていたりします。最初はそれが目的だったのですが、これも酒井翁主催「新春メイドさん放談2008」の中で延々と話したことですが、この雑誌が結ツボにはまって、人生で初めて漫画雑誌を定期的に買うことになったのでした(ちなみに『voiceful』の時に一度『百合姫』を買いましたが、その時は一度買ったきりでした)。ついでにリュウコミックスも結構買ってます。
 しかし雑誌を買い始めたころと、心身ともに不調に陥った時期とが重なっていたため、このブログで『リュウ』について書いたことはほとんどありませんでした。ですが、先週発売の8月号で、ナヲコ先生の単行本の来月発売が報じられた(しかも2冊!)こともあり、そこでナヲコ先生単行本発売決定記念企画として、10箇月分の『リュウ』及びリュウコミックスの感想を、来月の単行本発売日まで何回かに別けてやっていこうと思います。(ほんとに続くのか?)

 というわけで(以下敬称原則略)、最初に速水螺旋人のイラストコラム「螺子の囁き」のお話から・・・漫画じゃないところからいきなりはじめるというのもなんですが、まあ速水先生は先月単行本『速水螺旋人の馬車馬大作戦』が発売になったこともあるので、時節柄ちょうどよろしいかと。

 速水螺旋人のイラストコラムは、『リュウ』が大幅リニューアルしてナヲコ先生の連載も始まった昨年11月号以来やはり連載が始まったようです。1ページだけですが、毎回いろんな実在のメカが登場して面白く、何よりそのラインナップが愉快です。順番に挙げていきますと、

 ・T-35(ソ連の多砲塔戦車)
 ・UAZワゴン(ソ連のワゴン車)
 ・ソッピース・キャメル(1次大戦の英戦闘機)
 ・タービニア(世界初のタービン船)
 ・蒸気バス(19世紀イギリス)
 ・スタンレースチーマー(アメリカ20世紀初の蒸気自動車)
 ・ヴェネラ探査機(ソ連の金星探査機)
 ・エレクトロニカB3-26(ソ連の電卓)
 ・腕木通信(18世紀末~19世紀初の通信手段)
 ・ZIS5v(ソ連の大戦中のトラック)


 ロシア度が高いですね。しかもなかなか、余人を以って代え難いラインナップであります。この中で知名度が高いのは・・・キャメルか? でもWW1は日本のミリオタではマイナーだから、ゲテモノとはいえT-35の方が上か? 技術史的には文句無くタービニア、と思いますが。
 で、毎月何が出てくるのか楽しみなのですが、『リュウ』の読者アンケート葉書を見ていて小生、ふとあることに気が付きました。
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『月刊COMICリュウ』2008年8月号 読者アンケート葉書

 そう、題名が間違って「螺の囁き」になっているのです。そりゃあ著者は速水螺旋人ですが、螺旋が囁いているのでは、メカコラムというより遺伝子のお話みたいですね。
 で、これは先週発売の号の葉書なのですが、実はこの間違い、ずっと前から始まっていたのです。なるほど連載第1回、『リュウ』リニューアルの時は・・・
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『月刊COMICリュウ』2007年11月号 読者アンケート葉書

 と、ちゃんと「螺子の囁き」になっています。しかし次の号からどうなっていたのか、もうこうなったら一気に全部並べてお見せしましょう。
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『月刊COMICリュウ』2007年12月号 読者アンケート葉書

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『月刊COMICリュウ』2008年1月号 読者アンケート葉書

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『月刊COMICリュウ』2008年2月号 読者アンケート葉書

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『月刊COMICリュウ』2008年3月号 読者アンケート葉書

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『月刊COMICリュウ』2008年4月号 読者アンケート葉書

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『月刊COMICリュウ』2008年5月号 読者アンケート葉書

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『月刊COMICリュウ』2008年6月号 読者アンケート葉書

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『月刊COMICリュウ』2008年7月号 読者アンケート葉書

 ・・・というわけで、9ヶ月連続で間違っておりました。誰も気づかなかったんかいな。
 小生、数ヶ月前にこのことに気がついたのですが、まあ来月には直るだろうと思っていたところ、何ヶ月経っても直る気配が無いので、遂にこうして編集部の猛省を促す次第です(笑)。

 は、スキャンしてたら時間が遅くなってしまいました。
 このコラムの魅力については、『速水螺旋人の馬車馬大作戦』と一緒に語った方が意義がはっきりさせやすいと思いますので、続きは次回
 ・・・初手から脱線しまくりですみません。
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by bokukoui | 2008-06-23 23:55 | 書物

金も暇も体力もないのに衝動買い

 相変わらず腰が痛く、またどうも草臥れやすい調子が続いております。しかし所用を少しでも片付けねばならず、またいろいろ飛び回ったり、まだしばらくドタバタな日々が続きそうです。コンピュータと本棚とを買いそろえ、作業環境改善を図るという予定は何時になったら達成されるのやら。

 で、そんなドタバタな昨晩、ふとおなじみ革命的非モテ同盟の古澤書記長のブログを覗いたら、なんだか労働収容所組合氏が大活躍中で、氏が何者かをつゆ知らぬコメント欄の連中の将来を危ぶまずにはいられませんでしたが、それはそれとして、速水螺旋人先生の新作が出たということを知りました。

 で、小生最近資金繰りが苦しいのですが、1500円くらいなら捻出できるかなと思い、近年の軍事オタクの質的劣化の元凶の一つであるイカロス出版に金を落とすということの若干の葛藤はあったものの(アマゾンで同書を見たときの、一緒に買われている商品を見ると・・・)、これは買いと思い、しかしそこはケチに本日大学に行ったついでに生協に売ってないかと一割引での購入を目論みました。
 が、流石にマニアックすぎたのか物はなく(『嫌韓流』が在庫してるのにねえ・・・)、これは又の機会にして長居は無用と撤収しようとしたその時、表紙を表に向けてディスプレイしていた一冊の本が目にとまり、思わず手に取ってしまいました。

 高月靖『南極1号伝説 ダッチワイフからラブドールまで 特殊用途愛玩人形の戦後史です。
 表題からして面白そうなのですが、しかし小生が手に取った理由はそこではありません。
 何が目に留まったのかといえば、この表紙のラブドール(だろう)が着ているコスチュームが、今は亡き立川は日野橋、ブロンズパロットの制服に他ならなかったからであります。ブロパといえば、かつて「メイド喫茶」などというものが存在しなかった頃、制服マニアの熱い視線を集めていたファミレスでありました。この店が2000年9月に閉店してから、秋葉原からの「メイド喫茶」ブームが始まった物でしたが・・・ラブドール衣装もいろいろあるだろうに、こともあろうにこの選択とは。いや、感動しました。
 で、ディスプレイしてあった同書を元に戻そうとしたら、この『南極1号伝説』の下にはなぜか違う本が並べられていました。ラブドールに隠されてしまっていた本があったのです。

 それこそ、宮崎学による革マル派そして国鉄→JR労組のドン・松崎学『秘録』でありました。
 出版されたことは知っており、そのうち手に入れようと思っていましたが、なんという出会いだったことか(笑)。
 というわけで、今日の所はこの宮崎学・松崎学『秘録』を買い込んだ次第でありました。書評はまたもう少し余裕が出来たらということで(ということは当分・・・)。それにしても、この本をラブドールの本を置いて隠した人は、一体どんなつもりだったんでしょうね。
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by bokukoui | 2008-05-16 23:37 | 書物

地震対策の結果として本が貰えた話

 腰痛がいまいち良くなりません。良くならないのに一層悪くしたような話。

 東京大学では近年、地震への対策として建物の改修を行っておりまして、それはそれで大事なことなのですが、その間改修中の建物に入っている施設が使えなくなったりするのは困るわけです。昨年から今年にかけては、古代から近世の史資料を収める史料編纂所が改修ということで図書室が使えなくなっており、前近代を研究している人たちは大変だなあと思っていました。
 と思ったら、今年から来年にかけて、史料編纂所の裏手にある社会科学研究所の図書室が耐震補強工事で長期閉室ということで、この図書室は良く使っていただけに、うーんこれは困った。蔵書の傾向としても良く使っていたのですが、ここは閉架式なものの出納の方が親切で使いやすかっただけに。

 ですが、上掲リンク先の「社研図書室 長期閉室のお知らせ」の下にずずっとスクロールすると、「不要資料の展示・頒布について」という一項があります。資料整理の際に、不要図書を放出するということのようで。
 このこと、小生同図書館に先日資料を閲覧しに行った際に気がつきました。サイトの文言と違っていますが、実際には「引き取りメモすべし」の部(ワゴン約2台)と、「メモ不要」の部(ワゴン5台)とに分かれていました。前者は紀要の類、後者が種々の単行本でした。
 ので、面白そうなのをせっせと漁って、担いで帰ってきました。腰に来そうな重さでした。戦果はこんな感じ。
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 クリックすると拡大します。(追記:入れ忘れた本があったので写真差し替えました)
 いくらタダとはいえ、読まなさそうな本は放っておきましたが、まだワゴン4台分くらいは残っていた様子。昨日までだったそうですが、来週になっても放出続けてるんじゃないか? と思います。冷戦時代と、80年代のジャパン・アズ・ナンバーワンな時代とを反映した本が多かったので、好きそうな人は拾いに行っては如何。

 ところで、史料編纂所→社研と来ると、建物の並びからして、次に改修・閉室は明治新聞雑誌文庫になるのかな? 戦後の建物の方が戦前のより信用できない、というのは東大の建物ではよく言われることですが・・・。
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by bokukoui | 2008-05-10 23:05 | 書物

混沌からの脱却を目指して

 というわけで、積極政策に転じようといろいろあって思うに至りましたので(春になって悪い電波でも受けたのか)、何か書こうと思ったのですが、なにせ引きこもり生活が長くて書くこともなく、書く筆力も衰えております。

 で、今何をしているのかというと、ここ半年余、何度となく試みて気力が萎えていた部屋の混沌からの脱却に改めて挑戦中。いろいろ思うところありまして。
 さて、どんな状況かを記すことでネタにし、また挫折の防止にしようと思いついたのですが、しかしあまりにあまりな状況なのでやっぱりやめることにしました。
 その代わりに、少し前ですが、大変珍しいことに、この魔窟ぶりをものともせず拙宅に某友人がご来駕くださった折の記念写真を挙げておきます。この画像はかなり拡大するので、暇な人はクリックして小生の読書傾向でも推測してください(一応言い訳しておくと、友人との歓談に出てきた本と未整理の本を主に積んであり、研究用の本は流石に優先して本棚にしまってあります。高いし)。
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 現状はこれより遙かに悲惨です。

 行方不明に陥っている資料や書物が数知れず、まあ例えばクレフェルト『補給戦』みたいな文庫本だったらありがちなことと思いますが、『阪神電気鉄道百年史』ほどの巨大なものまで行方不明になるに至っては流石に危機的であります。様々な研究・作業などに支障出まくりなわけで・・・。

 本当の意味で「年が明ける」には、混沌と埃と機械のトラブルから脱却して、新年度から復活すれば・・・いや同じような期待は、ここ半年余り何度も抱いてきたのですが、今度こそ何とか。
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by bokukoui | 2008-03-30 22:53 | 書物

開設2周年御礼・身辺雑事(いろいろ溜まったことを大掃除)

 今日で当ブログ開設2周年です。皆様有難うございます。

 さて、ここ数日は首は回るものの背中や腕が痛く、風邪に下痢が加わるなど、要するに相変わらずなのですが、何で寝ていても症状が改善しないのかしばし考えた末、ハウスダストが原因なのではないかと思い至りました。然るに小生の部屋は書物や書類が散乱して埃の一大生産現場と化しており、そのような状況であるため掃除機の導入もままならず、埃の害が解消しないのです。また単純に収容力不足で様々な書籍類・コピー類が山積しては崩壊を繰り返し、もうどこに何があるのやら小生にも良く分からなくなっており、斯様に様々な面で今現在せねばならぬ仕事にも差し障りが出ております。
 で、今年は本棚を一架導入したものの焼け石に水だったということがあり、何とか場所を捻出してもう一つ導入することとしました。整理しないと何も進まない、大掃除をしないと仕事も片付かない、そういう感じです。
 これらがすべて片付くのは、流石に今日明日では難しいですが、しかしこれが片付くまでは新しい年は始まらない、と思ってせっせとやっております。短期的には余計埃が舞って喉がおかしいんですが。
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by bokukoui | 2007-12-30 16:27 | 書物

ケン・パーディ『自動車を愛しなさい』雑感

 前回は鉄道の本の話なので今度は自動車の本の話を。

 日曜日に某学会に行って色々な方の発表を拝聴し、それ自体は面白かったものの、自分の研究が諸事情により数ヶ月は進展していない(そして最も楽観的な予想でもあと一月は進展しそうにない)ことを改めて意識してそっちでは面白からぬ感情に陥ったことは、日曜日の記事に書いたとおりですが、小生の一応の研究課題は電鉄業史ということになっております。で、それについて色々考えているうちに、日本における電鉄業(含沿線開発)の成功はつまるところ「幸福」のあり方をパッケージ販売できたからではないかと漠然と考えるに至りました。この「幸福」は、近代家族像と密接な結びつきを有しているというのが小生の所説です。
 さて、戦後の日本では(世界中どこでもですが)自動車が発達して陸上交通の主役の地位を奪いました。で、それが成功したのは、交通機関としての利便性のみならず、自動車こそが「幸福」の象徴となったからなんだろうなあ、と思います。これは近代家族的なものでもヨリ個人主義的なものでも(当初は「権威」の象徴で、その性格もなお保持)、広い「幸福」を拾うことが出来て、だから鉄道よりもっと優秀な「幸福」の象徴になって世界中に広がったんだろうなどと思うのです。
 ま、この辺の話は、以前スタインベックとあらきあきらについて書いたときにやったことの繰り返しなのですが、そういう次第で自動車のことも知らなければ、それも交通機関としての特質のみならずそれが擁している文化的性格についても、と思ったのですが、なにせ小生は鉄道趣味者で自動車に対して思い入れがないので、ひとつ何か本でも読んで手がかりを得てみよう、そう思って何冊かの本をこれまで買い込んできました。
 で、やっと本題ですが、だいぶ前に古本屋で買って読んだのが表題の ケン・ハーディー(高斎正訳)『自動車を愛しなさい』(晶文社) でした。(この本は絶版です)

 散々っぱら前置きを書いておいてなんですが、この本は以上の小生の関心に直接答えてくれる本ではありませんでした。でも、なかなかどうして面白かったので、感想をここに簡単に記す次第です。

 この本は、アメリカ人の自動車愛好者が1960年に出版したものを1972年に翻訳したものです。ですから、書かれている内容は今から半世紀前のことになります。これがなんとも興味深いのです。
 1950年代といえば、第2次大戦の勝利後、ヴェトナムでの挫折の前というわけで、アメリカにとっていわば「我等の生涯の最良の」時期であったともいえ、自動車もでっかいことはいいことだ、的な価値観が浸透していたようです。その問題点は当時、まだあまり認識されていなかったようですが、パーディは大型車への盲信を戒め、ヨーロッパでは当時から多かった小型車の利点を説き(フォルクスワーゲンは既にアメリカでも大人気だったようですが)、安全の大切さ、運転において安全をどう心がけるべきか、ということを縷々説明します。当時はまだシートベルトはほとんど普及していなかった(あっても前部に2点式)ようですね。
 といって、単なる啓蒙的な解説ばかりではなく、ある章ではレースに命をかけた男たちの姿を生き生きと活写し、啓蒙的内容でも時には小説の形を、或いは軽妙な筆致を採って楽しく読ませてくれます。

 隔世の感があるのは、安全性についてアメリカの大型車盲信を批判し欧州の小型車を評価している(日本車は時代柄ほとんど登場しません)一方、燃費や排ガスの問題は殆どといっていいほど触れられていないことです。
 当ブログに折々コメントしてくださる某後輩氏は自動車に詳しい方ですが、先日東京モーターショーを見に行かれたそうです。ところが余り面白くなかった、というのも各社のコンセプトカーを見ても「エコ」がどうこうとかばかりで、どうも夢がないという趣旨のことを仰っていたのでした。結局「エコ」「環境に優しい」「低燃費」という売り文句は、あんまり人の未来への夢を羽ばたかせるようなものではない、言い換えると自動車を通じて人間が何かを手に入れられるというより、何かを失わないで済むという、そういうものに過ぎないからでしょう。
 その点、やはり1950年代のアメリカは夢一杯だったんだろうなあと、本書を読み終えて小生は感じたのでありました。安全という問題はあっても、それはメーカーとドライバーの意識次第で改善可能。車社会の行き詰まりなんてことはなく、自動車がいわば未来と幸福の導き手と思われていたのでしょう。

 20世紀は、ロシア革命に始まってソ連崩壊で終わったという言い方がよくされますが、その間の共産主義世界が掲げていた革命によって実現されるとされた理想に、資本主義側で立ち向かったイコンは、自動車だったんじゃないかと最近思います。20世紀、共産主義と対抗して勝った思想は、庶民レベルでは「拝車教」だった、というわけで。
 ま、これは大風呂敷に過ぎるにしても、日本でも自動車が権威の象徴から大衆の幸福の象徴へと移り変わった時代が高度成長期で、自動車は恋愛やマイホームと密接な関係を保ちつつ、「幸福」のイコンとして確乎たる地位を築いたのだと思います。しかし最近は若年層が自動車にあまり関心を持たなくなってきているといいます。「幸福」のあり方が変わってきた(このモデルの限界が明らかになった)ということですね。
 ではその代りに、「幸福」を齎してくれる新たなイコンはというと・・・セグウェイ? DMV? 違いそうですね。無難な答えは「ネット」ですかねえ。もう現時点で既にイコンとしての神通力が崩れている気もしますが。ま、その新たなイコンかもしれないネット上で、「革非同」古澤書記長の如く旧来の「幸福」の価値観の代表としての恋愛を批判する人が出てくるのも道理でしょう。それと関連して、自動車の消費社会史も研究するに値すると小生は思います。

 で、その古澤書記長の近稿「非モテの闘い方、あるいはF-1に戦車で出ること。 」の表題を見たときに、本書の中でパーディがアメリカ人の大型車信仰を批判した箇所が思い浮かび、思わず噴き出してしまったのでした。以下に引用。
 メンケンは正しかったのだろう。平均的アメリカ人の無知さ加減には、説明することばを持たない。小さな自動車に乗っていると、それがどんな小型車であっても、こう言われるだろう。「誰かにぶつけられたらどんなことになるか、気になりませんか? そんなに小さな自動車で」と。第一ナショナル銀行ビルの大金庫のあるところへ、時速五〇キロのスピードでぶつかって行くとしたら、内張りのしていないシャーマン戦車と、フォルクスワーゲンと、どちらを選ぶだろうか? 戦車だって? 馬鹿。私ならフォルクスワーゲンを選び、すばらしい安全な戦車の中から、あなたをひっぺがす道具を探している救助隊をゆっくり見物させてもらうよ。フォルクスワーゲンの前部は、見たとおりの柔らかい金属板で出来ており、衝突するとしわくちゃになるが、運転している私が少なくとも生きていられる程度の割合で、スピードを落としてくれる。あなたの乗ったシャーマン戦車の装甲板は一ミリたりとも凹まず、運転しているあなたは時速五〇キロのスピードで、冷く硬い金属にぶち当たる。そしてあなたは神のみ許に召されるわけだ。(pp.222-223)
 ま、あんまり本題と関係ないですが(書記長の記事の問題点は、誰にどのような意志を認めさせることで勝利になるのかが意味不明なところでしょう)。しかしシートベルトが普及せず、恐らくクラッシャブルゾーンなんて言葉の知名度もなかったであろう頃の、時代の雰囲気は察せられます。

 本から話が随分逸れましたが、ま、それだけ色々アタマを刺激してくれる面白い本だったということで。
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by bokukoui | 2007-11-21 22:56 | 書物

生きてます

 まあ何とか。相変わらず熱出してますが。結核ではないと思います。

 神保町の書肆アクセスが閉店と知って驚き。地方のマニアックな鉄道本なんかも置いていた記憶があるだけに残念です。
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by bokukoui | 2007-09-06 19:54 | 書物

アキハバラ前史?としての柴田翔「ロクタル管の話」 附・共産趣味など

 昨日の記事を鑑みるに、やはり慣れない自衛隊の話など書くのではなかったと思うばかりで、今日はやはり小生の好きな方の自衛隊に(多少)関係する本の話でもしようかと思います。
 で、自衛隊といって陸上とか海上とか航空とかなんてのはありきたりなわけで、ましてや『戦国自衛隊1549』などと言い出す手合いに用はありません。自衛隊といえば中核自衛隊。なんつったって陸海空より古いのだ。
 「革命的非モテ同盟」の古澤書記長が「アキハバラ解放デモ」の後に中核派だと叩かれていた時に、古澤氏は元自衛官だから、中核派ならこれがホントの中核自衛隊、という駄洒落をやろうかと思いましたが、どうもこの駄洒落が通じる雰囲気ではなかったので断念しました。

 枕が本題から逸れまくりなので、話を戻しまして。
 日経新聞の夕刊一面下段に、曜日ごとに筆者の変わるコラムがあり、その筆者は半年おきに交代しているようです。で、先月交代した今年後半のコラム執筆者の中に、芥川賞作家の柴田翔氏の名がありました。それで表題の小説のことを思い出した次第。

 柴田翔氏の芥川受賞作を収めた単行本『されどわれらが日々――』は、表題作(これが芥川賞受賞作)ともう一篇、短編を収めています。それが「ロクタル管の話」です。ロクタル管とは真空管の一種で、この小説は朝鮮戦争勃発当時のラジオ少年の姿を描いた小説です。この中で、秋葉原電気街形成以前の露天商なんかが描かれているんですね。後に秋葉原のガード下に囲い込まれるようなラジオ部品の露天商が、神田から須田町あたり一帯に分布していたのだとか。そこで売られている真空管は、米兵が朝鮮に送り込まれる前の最後の歓楽のために軍の資材をかっぱらって横流ししたものという世界です。
 「秋葉原」の読み方の歴史について一仮説を述べたりした者としては、その描写自体なかなか興味深いものでした。しかしのみならず、ラジオ少年がなぜラジオに惹かれているのか、そのココロの描写が今読んでも何か心打たれるものがありました。正直、今読んでもすんなり頷けるのは、「されど~」より「ロクタル管の話」だと思うのです。
 そういえば「アキハバラ解放デモ」への批判として、秋葉原は「萌え」系のオタクが増えたせいで「本来の」コンピュータのマニアなどがかえっていづらくなっている、というのがありました。その気持ちは分からなくもないですが、しかし時とともに街の性格は移り変わるものですから、何が「本来」かは簡単には決められないでしょう。もし、街の扱う主な商品が変わっても、街に集う人のメンタリティに共通点が多ければ、それが街の性格を規定する重要なファクターになるでしょう。もしかするとそういうものがあるのかもしれない、なんてことまでこの作品を読んでいて思ったのでした。

 小生のくだくだしい説明より、「ロクタル管の話」からその箇所を抜書きする方が分かりやすかろうと思いますので、以下に少々長いですが、参考となりそうな箇所を引用。
だが、あの頃のぼくらのラジオへの、いや、より正確には、一般に真空管を使って、ある回路を作ること、への熱中には、実際一種特有のものがあった。…回路を作って行く時、ぼくらはいつも自分の現に住んでいる世界とは別の世界を、その一見複雑にこんぐらがった配線の向うに、作っているような幻想を抱いたものだ。…
 …ぼくらを掴んでしまって接して離そうとしない配線の向う側の世界の本当の魅力は、おそらく、その世界で起きることが、
それは非常に正確であり、そのことは疑いえないのだけれども、同時に、決してぼくらの眼には見えることはないのだという点にあったのだ。


…そういうエピソードのうちに、ぼくらは時々見慣れないものにぶつかり、おどろかされ、ふっと戸惑うことはあったのだけれども、やはり大体に於てぼくらは陽気だったし、さっきから何回も言っているように、自分らが作り上げる、現実の向う側の世界の美しさに夢中になっていたので、それ以上の、ぼくらをおどろかせるような、見慣れぬ、少しばかり異様なものは、少なくとも表面的には、直ぐに忘れてしまっていたのでもあった。あの頃のぼくらの最大関心事は、何と言っても、やはり、美しさと言うことだったのだ。
 だから、あの頃ぼくらは自分たちの部へ、決して女の子を入れようとはしなかった。勿論ぼくらは、それは中学三年生としては随分子供っぽい連中の集まりではあったけれども、それでも、同級の女の子たちの漸く肉づき出した腰や胸のふくらみ、短いブラウスから出した、すんなりした白い腕、それに何にも増して、彼女たちが時折見せる、横顔をちらとかすめるあの表情、そういったものの美しさに決して無関心ではいられなかったし、そういう美しさがやがてぼくらの中に誘い出すであろう恐ろしいものを、ひそかに予感してもいたものだった。けれども、それだからこそ女の子達をぼくらは仲間に入れなかった。と言うのは、つまりあの頃のぼくらにとって――それは年相応の感じ方だったのだけれども――女の子は美しさそのものであって欲しいものであって、彼女らが美しさの追求者となることは、ぼくらが心秘かに考えている彼女らの本質を壊してしまうように思えたのだった。そして、ぼくらの女の子に対するこういう態度のうちに、また逆に、自分らを美しさの具現者ではなく、追求者と厳格に位置づけたことのうちに、あの頃のぼくらが電気回路だとか真空管だとかによせた憧れの、いわば質といったものを考える、一つの示唆のようなものがありそうな気もするのだ。そして、あのロクタル管の美しさが結局のところ、そういう憧れの対象たる美しさの質を、目に見える形で一番よく代表していた。ロクタル管の美しさ自体は、いわば虚像の美しさであったと言えるかも知れない。しかし、その虚像を通じて、ぼくらの憧れが指向していたのは、あの、ぼくらが見ることなく信じうる、曖昧さの全くない、確定的な正確さを持った電気現象の世界だったのであり、まさにそれ故に、ぼくらにとってロクタル管は美しかった。
柴田翔氏がラジオ少年だったかどうかは存じませんが、柴田氏のお兄さんの柴田碧氏はその昔東大の鉄道研究会に在籍していたということが和久田康雄『私鉄史探訪60年』に書いてありました。鉄道趣味者だったようです。この兄弟の父は東武鉄道の重役だったんだとか。時代を考えますとなかなか洒落た命名を子供にしたと思います。

 そうそう、中核自衛隊の話でしたが、これは「されど~」の方の話です。共産趣味的に読んでいてなかなか興味深いわけで、「駒場の歴研」などと出てくると、最近は革マルになったなあと感慨しばしです(今は知らない)。
 しかしこの小説の重要なテーマは政治思想というより、その状況下での青年男女のくっついたり別れたり、という方にあるのだろうと思います。そっちの方からも事のついでにちょこっと引用しておきますかね。あんまり重要な人物じゃない、宮下という助手が主人公に対し恋愛観を語るところ。
・・・恋愛は、それがどんなに周囲に祝福されているようにみえても、本質的に反秩序的なものです。いや、ぼくは性的欲望についてだけ言っているのではありません。そうではなくて、相手が自分にとって何よりも大事なものになるというプラトニックな愛情自体のうちに、既に反秩序的傾向、自分が属している秩序から抜け出して自由になりたい傾向があるのです。いや、逆なのかもしれません。自由になりたいという願望が、恋愛を生み出すのかも知れません。ですが、自由が何でしょうか。世界の中の束の間の存在であるぼくらにとって、自由が何でしょうか。
 ま、この引用は結構恣意的な切り方をしているのですが、どこがどう恣意的かは作品を読んで下さい。
 というわけでこの二編をおさめた一冊、オタク心から共産趣味と恋愛と一通り揃っているので、古澤書記長にお勧め。でもまあ、今一般に読んで広い支持を受けるかは、いささか微妙であろうとは思います。
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by bokukoui | 2007-08-02 23:58 | 書物

暑気あたり 附:車中点景・やおい篇

 いろいろ駆け回って、そんな感じです。

 駆け回って帰宅の際、荷物は多いし気温は高いし、駅からバスに乗って帰ることにしました。バスはそれほど混んでおらず、座ることができました。小生の前の席には、黒い和服に身を包み、医療用らしいアルミの杖をついたお婆さんが座っていました。こういっては失礼ですが、少々御髪が薄くなっておられ(杖から察してもご病気なのかも)、結構なお年と拝察しました。バスに乗る際に横浜市の敬老パスを出していましたから、少なくとも70歳以上であることは確かです。
 で、走り出したバスの車内で、そのお婆さんは手提げ袋からなにやら書物を取り出し、老眼鏡をかけてぱらぱらとページをめくっておられました。巻末によくついている、既刊の書籍の案内ページのようです。いつもの癖で自然と目が行きます。
 小生は目を疑いました。

 どう見てもやおい本です。

 お婆さんが見ていた本は、アルルノベルスなるレーベルの、妃川螢著・実相寺紫子絵『恋におちたら』という作品でした。
 これはもしかして、やおいを好む女子、いわゆる「腐女子」のさらに進化した「腐婆」・・・というのはなんか失礼だし麻婆豆腐みたいだし、「腐媼」なんて表現でどうかとか暑さにうだった頭で一瞬考えてしまったのですが、冷房で頭を冷やして冷静に考えるに、おそらくこの著者か絵師がこのお婆さんのお孫さんか何かに当たるのではないかと、そのような仮説を立ててみました。実際お婆さんは、巻末の既刊案内ページを中心にぺらぺらページを繰っただけで、本文には碌に目もくれずまた手提げ袋に仕舞い込んでおられましたので。

 実はこの一件で小生が気になったのは、お婆さんがやおい本を持っていることよりも、巻末の既刊案内にあった次の本でした。

 宮川ゆうこ・桜遼『レールウェイポリスに口づけを』

 やおい本で鉄道を舞台にしたものが幾つかあるらしいとは聞いておりましたが、最近アニメ化もあって耳にする鉄道好きの女子の方々、いわゆる「鉄子」の方々の中には、このような作品を好ませ給う方もおられるのでしょうか。
 ま、鉄道は(最近はともかく)男ばっかりの職場の代表的なものでしたから、やおい作品の舞台としては結構使いやすいという事情かもしれません。昨今の「鉄子」流行がそれなりに深いものなら、より本格的な設定の鉄道を舞台としたやおいものも売れるかもしれませんね。小生もひとつ考えてみましょう。

 ・・・それは国鉄がまだあったころ、駅員と乗務員の間に生まれた禁断の愛。なぜならば駅員は国労、乗務員は動労。労労紛争が二人を引き裂かんとすればするほど一層愛は燃え上がる。数少ない理解者(でひそかにどっちかに惚れてる。ここの微妙な関係が中盤の肝か)の助役が下位職代行して二人の愛を支えていた。しかしそこに襲いかかる葛西大明神の魔の手国鉄改革の大嵐。孤立していた二人は新生JRへの移籍を周囲の妨害で果たせず、もはや二人は国鉄の如く分割民営化されるは必定。ならばいっそ現世は清算事業団、とばかりに二人は鉄路に身を投ずる。途端に二人の愛を引き裂いていた労組は彼らを「国鉄改革の犠牲者」に祭り上げて不毛な裁判闘争に乗り出し、ただ一人この愛の真実を胸にとどめた助役は、傷心を抱いて地方の第三セクターへと去っていくのであった。
 社会派やおい小説として如何でしょうか。

 つまりバス車内で見かけたやおい本案内と、最近起こったJR社員の新幹線投身と、長いこと積んでおいてやっと最近電車の行き帰りにさらっと片付けた葛西敬之『未完の「国鉄改革」』の印象とが、蒸し暑い気候によって脳内で蒸された結果、かかる妄想が生まれたということです。
 ・・・あー、おとなしく戦前の私鉄の経営分析に戻ることとします。
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by bokukoui | 2007-07-27 23:59 | 書物

中島らも『アマニタ・パンセリナ』そして自衛隊の『悪い習慣』


 昨日の記事で、飲酒・喫煙・薬物・賭博・性的非行・罵りを扱った、翻訳が頗る読みにくいのが難点のJ.C.バーナム『悪い習慣』について述べましたが、今日は大学院の帰りに古本屋で故中島らも氏の著作『アマニタ・パンセリナ』を見つけて買い込み、読み終えました。
 内容は睡眠薬や咳止めシロップ、怪しいキノコにサボテン、シャブ・大麻から仕舞には抗鬱剤まで、そして最後にアルコールと、人間に怪しい作用を引き起こすドラッグ列伝。ドラッグとの中島らも氏(と氏をとりまく人々)の付き合いぶりがおかしくも恐ろしく、何よりそんな自分とその周辺を描き出すらも氏の筆に魅せられます。で、らも氏は「薬」で一括りにされがちなこれら諸々を、体験と美学に基づいて「ドラッグには貴賤がある(p.45)」と、細やかに描き分けていきます。実際、ドラッグ別になっている章ごとに叙述スタイルが変わっているように思うのです(筒井康隆の不条理小説みたいになっている「ハシシュ」の項なんかが、特徴が分かりやすい)。いわばドラッグ各種でラリリ感が違う、ということを、医学的ではなく散文的な方法(ジャンキーなロッカーが歌で伝えるのとはまた違った)で伝えてくれているというところでしょうか。更に、コカインで捕まったことを苦にして自殺してしまったプロレスラー(実は事故で足を痛め、リングに上がるためにコカインをやっていた)の話からステロイド剤にまで話が及ぶその広い視野は読んでいてうーんとうなりました。

 様々なクスリに加えアルコールについても書かれ、まあタバコやバクチの話は出てきませんが(エロはちょい)、扱っているテーマとしては昨日の『悪い習慣』にも通じるように思われます。
 しかし叙述形式が全く違うわけで、それが『悪い習慣』でいまいち隔靴掻痒だったところに微妙にかすって行ったような読後感を覚えました。
 なぜ人はかくもドラッグにひかれるのか。社会学者や心理学者の大部の研究を無視して僕はこう答える。
「それが気持ちいいからだ」
 と。まことに阿呆な答えだが、そうとしか言いようがない(学者はこんなアホな答えはできない)。
 (中略)
 すべてのドラッグは「自失」へのい希求ではないかと僕は考えている。
 公園で、三つか四つくらいの子供たちが、くるくるくるくると廻っている。回り終わって倒れそうになるくらいのあのめまい、血の逆行が「気持ちいい」からだ。
 あれはドラッグの根源だ、と僕は見る。
 人はそうして「自失したい」のである。
 (中略)
 では、人はなぜかくも「自失」を望むのか。
 心理学的にはたくさんの分析ができるだろうが、僕の答えはまた元に戻る。
「それが気持ちいいからだ」
 と。
 人間が快楽原則にのっとって生きている以上、聖者もジャンキーも同じ舟に乗っているといえる。禁を犯さず何十年と修行すること、それははなはだドラッグ的だ。
(pp.211-213)
 左様、しかし時にはアホな答えをアホと切り捨てずに突っつきまわしてみることも必要なんだろうと思います。

 なんてことを思いつつ、電車の中で読了して帰宅後テレビのニュースを見ていたら、こんなニュースが。

 陸自隊員が覚せい剤所持=隊舎に吸引器、陸士を逮捕-習志野駐屯地

 をいをいをい、去年も大規模な麻薬事件が発覚してたじゃないか! おまけに習志野空挺団といえば陸自きっての精鋭の筈。それが、何が悲しゅうて旧軍が戦時中に労働者に長時間作業をさせたり特攻隊などの景気付けに使ったといわれるヒロポンをやるとは・・・。旧軍以来の伝統、ですかね。

 バーナム『悪い習慣』では、飲酒・喫煙・性的非行などの普及には、20世紀前半の2度の戦争でアメリカ人が大勢徴兵され、彼らが軍隊で下層階級的な文化を受け入れてきたからだ(麻薬はヴェトナムの時とか)、と述べていたように思われますが、自衛隊もラリパッパな風習の伝播に貢献しているのでしょうか。
 で、実は中島らも『アマニタ・パンセリナ』にも麻薬と軍隊の話が出てきますのでちょこっとご紹介。
 これは柘植久慶センセイが『月刊imago』なる雑誌の1990年7月号に書いていた「麻薬と政治学」という文章の一節についてらも氏が述べたもの。柘植氏は第4次中東戦争やイライラ戦争で、ハシシュで戦意を高揚させて死ぬまで戦わせたり地雷原に進撃させたりしたのだ、と自説を述べるのですが、それに対しらも氏はこう疑問を呈します。「はて、ハシシュやアヘンを吸ってとろとろに溶けた人間が戦争なんぞできるものだろうか(p.132)」と。
 ハシシュはダウナー系なので、吸うと「とろりとして、実に平和な気分になる」のだとか。柘植氏は文中で、中東はハシシュの本場であり、かつてこれを使った暗殺団があった(イスマイール派のニザリ教団)としています。しかし、その教団によるドラッグの使い方は、若者を山中に作った花咲き乱れる美しい城に拉致し、そこでうまいもん食わせて綺麗なねーちゃんはべらせて、そしてハシシュを吸わせて「地上の楽園」もとい天国を体感させます。しかる後に若者をそこから追っ払い、戻ってきたければ誰それを暗殺せよ、と命じるのです。たとえ失敗して死んでも魂は天国に戻ってこられるのだと説くのです。だから単純に、ハシシュで狂戦士となるわけじゃないんだと。
 そしてもっと重要な指摘は(ここまでの話は別な本で読んだこともあったので)、単純な薬効の問題ではなく文化的背景をらも氏が指摘していることだろうと思います。
・・・死ぬためには本物の天国がいる。もはやニザリ教団の時代ではない。
 あきらかに、ドラッグ抜きの抽象が、宗教による高次元へのまなざしがここに介在している。でなければ、いくら羽化登仙していても人間は地雷原を歩けるものではない。
(p.133)
 なるほど、なるほど。
 ところでこれに関連して、マルタン・モネスティエ『【図説】児童虐待全書』にあった話だと思いますが、イラン・イラク戦争のイランでは、少年兵を麻薬でラリらせて「宗教的体験」のような幻覚を与え、しかるのち地雷原に突っ込ませていたという話があったように記憶しています(確かめていません)。柘植氏のハシシュ観に誤りがあったにせよ、「伝統的」な使われ方はされていたのかもしれませんね。
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by bokukoui | 2007-06-25 23:59 | 書物