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カマヤン氏(&ナヲコ先生)の作品との出会いについての思い出

 あんまり気は進まないんですけれど、先日書いた件について書きっぱなしなのもどうかと思うので、一応続きらしきものを書こうかと思います。

 で、多分長くなってしまいそうなので先に結論を書いておくと、小生が「先鋭的美少女愛マガジン」であるところの『Alice Club』から得ていたものは、直接の性的な欲求を満たすものが全く無かったなどとは口が裂けても言えないにせよ、それ以上に、サブカル的――という表現はあまり適切ではないのですが、何というか、世間一般と違ったことにとことんのめりこんでいる人々の発信する何か、であって、それに感じ入るところがあったから、ということになります。その背景には、小生自身がそれまでの「世間一般」とは違ったものに興味を抱いていたから、そして自分もそういったものに専心することで「世間一般」と違った存在になりたいという欲求があったから、という事情があります(そして今もあります)。
 つまり「先鋭的美少女愛マガジン」を読んでいた理由は、「少女」ではなく「先鋭的」にあったという次第です。そして『Alice Club』を介して知った諸々の発信者の中でも、政治的なものに強い関心を持ち、独特な世界を築いていたカマヤン氏の作品に惹かれ、その作者に関心を持ち、コミケで同人誌を買ったりブログを読んだりするようになった、まあそのような経緯です。

 具体的な話を以下に続けます。
 カマヤン(「鎌やん」名義の時代もありますが、ここでは煩瑣を避けるため統一します)氏の作品に最初に触れたのは、『Alice Club』ではなくて、その関連商品? であるところの『アリスの城』という漫画雑誌(雑誌コードがあるので)であったかと思います。本誌の存在は『Alice Club』を通じて知った筈ですが、そのあたりの記憶は曖昧です。手にしたのは1996年4月発行の奥付を持つ『アリスの城』Volume4 でした。ちょうど十年ほど前ですね。
 本誌は今でも手元にあるので(表紙が写真のACより買い易かったし、値段も安かった)、内容まで含めてちょっと紹介しておきたいと思います。f0030574_0102798.jpg
 目次を以下に紹介しますと、

みほとこうじ「不思議の国のアリス」
ナヲコ「悩んで学んで」
のぞみ侑海「悩める桜子ちゃんの憂鬱な日々」
回輪鬼畜「さよならさん こんにちは」
カマヤン「少女調教(きょういく)講座」
るりあ046「1997 AMEZING MARS! #4」
江戸川童画「Yesterday's Child」
北川たけし「お医者さんごっこしよっ」
知恵袋一番「SOUTHRN WIND」

以上が漫画作品です。
 他に「アリス解体新書」というイラストコーナーがあり、五人の漫画家が作品を寄せていますが、その名前は表紙画像から読み取れる通りです。しかし、実は漫画に関しては表紙に嘘があって、表紙および巻末目次には「睦」「みむだ良雑」の名前と作品ページ数が記載されていますが、実際には前者のページはイラスト再録集とメモ用紙(笑)と読者投稿で埋められ、後者のページが北川たけし作品に差し変えられています。二人一遍に原稿を落としたんで、代原が足りなかったんですね。いやはやいい加減な雑誌だ(笑)
 他にコラムとかいろんなコーナーがあって面白いんですが、その紹介は話が逸れるので又の機会に。

 とか書いておきながらいきなり話が逸れますが、考えてみれば小生がナヲコ先生の作品を初めて見たのも本誌のことでしたね。もっともこの時点では、絵はとてもいいなあと思ったものの、現在のように追っかけるほどまでの深い印象を受けたわけではありませんでした。それはやはり単行本『DIFFERENT VIEW』を読んでからのこと。
 では何故小生は、本雑誌中カマヤン氏の作品に惹かれたのでしょうか。このほど読み直してみたところ、その理由は案外明白に分かったような気がしました。

 この雑誌に載っている漫画の内容を考えるに、代原であるためか山も落ちも意味も無い北川作品をひとまず措くと、カマヤン氏の作品以外は、先に挙げたナヲコ先生の作品をはじめとして、登場するキャラクターが何がしかの心情を抱いて行動する様子を描いています。まあそれが創作とされる分野では、エロだろうがそうでなかろうが、おおむね普通のことではあるわけですが。そして、こういった作品は、登場するキャラクターに感情移入したりして鑑賞するのが通例であろうかと思います。
 然るに、本雑誌に掲載されていたカマヤン氏の作品、「少女調教(きょういく)講座」(のち単行本『小さな玩具(いきもの)』に収録)はそうではありませんでした。カマヤン氏のセルフポートレートとしてよく使われる擬人化されたゴリラが、少女と営みをするための方法を延々と説明している(全4回の連作で、この雑誌に載っていたのが最終回)という内容で、そもそも感情移入して読むような作品ではありません。そのような物語より情報というか思想というか、そういったものの占めるウエイトの大きいところが、小生の好みに合ったのではないかと自己分析します。どうも小生は小説を読むというのが苦手で、蔵書も9割以上が小説でない書物であり、仕舞には「全ての小説は同時代の史料である」等と妄言を発するに至ったりしておるもので・・・。
 で、考えてみればカマヤン氏の作品は、もう一冊の『世紀末鳥獣戯画 アニマルファーム』収録作品を見ても、普通の漫画の創作のような、キャラクターに感情移入するような読みに向かないような作品が多いのではないかと思います。『アニマルファーム』の場合、表題どおり登場するキャラクターは動物を擬人化したものが多いです。それは「猫耳」みたいな「萌え」趣味では全くなく、むしろ安易な感情移入的読みを排除する装置ではないでしょうか。ですので、多くの漫画読みの人にとっては、理屈っぽくて違和感が感じられたりするのかもしれません。しかしそれこそが、小生にとっては魅力となっているわけです。

 こうして見ると、甚だ勝手な私見ではありますが、カマヤン氏が漫画から現在のような表現形式に移行されたのは、それなりに合理的なものであったといえるのかもしれません。どちらかといえば物語を描くのが中心の漫画という形式より、ブログという情報発信形態の方が。
 実際、『小さな玩具』には多くのエッセイが収められ、成年コミック単行本としては他にあまり例がないと思われるほど文字で書かれた「読む」部分が多くなっており、巻末には対談もついています。『アニマル・ファーム』もまた、巻末に宮台真司との対談が掲載されています。
 さて、1997年発行の『小さな玩具』収録の巻末対談のメンバーはといいますと、カマヤン氏はもちろんとして、ゲストに迎えられたのは、何と米沢嘉博氏と永山薫氏・・・。こんな日にこの本の話題を取り上げることになるとは、これも何かの縁でしょうか。
 昨日亡くなられた米沢氏(本名は「米澤」だそうですが、筆名は「米沢」だったようです)が、このカマヤン氏・永山氏との対談中で語っておられることを幾つか引用し、この長々しい記事の締めくくりとしましょう。米沢氏の語ったことを語り伝えることこそ、何にもまさる物書きであった故人への手向けでしょうし。
鎌やん 本当は、「漫画家は理論武装しちゃいけない」ってのが、自分の持論の一つなんですけどねぇ(笑)
米 沢 うん、漫画家がそれやっちゃうと、面白くなくなるんだよね。
鎌やん 間違いなくそうなんですよ。
永 山 その理論が漫画の中で絵解きになってるとつまんないんですけど。
米 沢 話にどこかで絵解きをなにげなく隠し味として混ぜとくのはいいんだけど、それが全面に出てきちゃうと、読む方は辛い。ただ、初期のロリコンブームのときは、結構、理論武装しないと楽しめなかった。入ってこれなかったっていうのはあったんだけど、一回受難の時代を潜り抜けてきてるから、更なる理論武装が必要なことは必要なんですよね。
鎌やん まあ、エンターテイメントは他の人に頑張って頂いて、っていう感じで、僕は理論武装を担当しようかなぁ、みたいなところはあります。
米 沢 ロリコンを本当のエンターテイメントと言えるかというと、非常に難しいとは思いますね。やっぱり、非常に趣味的な世界になっちゃう。
永 山 鎌やんさんの作品を読んでて、ずっと考えてたんですけど、普通の意味での“教育”とか“躾”とかの薄められた形でのチャイルドアビューズ。そういうのがちゃんと分かるように描いているんで。
鎌やん “調教”と書いて、“教育”というルビをふってあります。
永 山 そのことを、もっと読む側は気づいたほうがいいなと思います。
米 沢 一つ間違うと、人形趣味みたいなものと混同されちゃうから。つまり、自分の好きにできる人形の手をもいだり、足をもいだりっていう、そういう目で片方は見ちゃうから。調教・教育っていうのと人形遊びは、重なるようで違う。そのへんの意識はどうでしょう?
鎌やん 深いところではつながってるはずですが、現象としては違うはずです。ロリコンってのは、“後ろ向きで居たい!”っていう欲求だと思うんで、これはすごく気持ちいいけど、あまりこの気持ちよさに溺れちゃいかんだろうな、というのがあって、うまくそのへんが描けるようになれるといいんですけどね。なかなか難しくって・・・。
米 沢 ロリコン的なムードの醸成っていうのは、子供時代の自分に戻って、少女とのロマンスへの憧れから入っていく人たちもいるんですよね。あと、全くの性欲の対象としての少女。これは人形愛ってのと少し重なるけど。でも、ベクトルが皆少しずつ違う。結構、フェティシズムと同じで個的なものだと思うから、あまり一般的できるものでは無いんですよね。少女に対してトラウマみたいなのがあるとか、どういう想いで見ているかとか、そこから自分を追い込んでいくんですよね。
米 沢 調教っていうのはまさしく、親が子供に対してやるのは調教だから。
鎌やん “躾”っていう英語と“調教”っていう英語は同じだし。
米 沢 “お仕置き”と“折檻”もおなじですよね。ですから、ちょこっとづつは皆、病気をかかえたほうが良いと思ってるんですよ僕は。100%になっちゃうと駄目だけど、1割づつぐらいでいいんですよね。SもMも、ロリコンも。
永 山 そのへん、僕も前から言ってるんですけど、あんまり自分を決め付けない方がいいよと。もうちょっと楽に見たほうがいいんじゃないかと。自分を追い込んじゃうと、すごくそれが危険だし、不毛だと思うし。
米 沢 ただ、アイデンティティを確立するために、自分は“こう”であると、決めたり、あるいは決めてもらわないと駄目な人達が居るってことも事実なんですよね。そうなってくると、自分が“こう”であるというスタンスに立つことで初めて自分が成立する。つまり、あやふやな透明な存在であったものが、そこで初めて場所ができて、人格ができていく。結局、自分をどう形成していくかでしょう。
永 山 あやふやでいいじゃないですか。そのほうが面白いですけどね。
米 沢 うん。僕もそう思う。だから、“病気は色々持ってたほうがいいよ”って。
鎌やん 危ないのは、視野が狭くなるってことですよね。視野さえ広くなっていれば、どんな病気を持っていても、たぶん現実に対応できますよね。
米 沢 自分を分かるために、自分はどういうモノが好きだ、とか、そこから考えはじめるから。それはコレクションであってもいいし、何であってもいいんだけども、そういうモノっていうのを極めることによって、自分を確立していこうという方向に動いちゃうんですよね。
永 山 結局、第一次ロリコンブームがもたらしたものって、そういうふうに多角的にある自分っていうものを見つめ直すきっかけを、何人かの人には確実に与えたな、と。
米 沢 と想います。漫画にももっと色々できるはずだってことで、色々なことをやっていって、その一つとして、ロリコンもあって、ロリコンはあれで良かったと思ってる。少女漫画も青年漫画も色々変っちゃったし。
 出典は全て『小さな玩具』所収「つきつめよ、そしてそれに縛られず生きよ」です(一部表記を修正しています)。
 ま、「ちょいオタ」がモテるなどと言われるこのご時世ですから、こういったものを読んで考えてみるのも多少の意味がなくもないのではないかと思います。
 また、そのうちに、『Alice Club』関連で思いついたことなどを少し書くかもしれません。

 ・・・n-dprj(S竹)君にこんな長広舌垂れるとは、全くいやらしい老人になっちまったもんだ。
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by bokukoui | 2006-10-02 23:55 | 漫画 | Trackback | Comments(3)

訃報

 コミケット代表の米澤嘉博氏が肺癌で亡くなられたそうです。
 急なことで驚きました。享年53歳とのこと。故イワエモンこと岩田次夫氏も確か肺癌で50歳にて亡くなられたかと思いますが、これからの同人者はまず禁煙を心がけねばならぬようです。米澤代表の場合、岩田氏以上に、気がついたときはもう手遅れだった由です。大変残念なことです。
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 コミケ68(昨夏)のカタログより。本当に縁起でもねェぞDr.モロー。
 なお、旧友のコミケスタッフに所用で電話したところ、今後ともコミケは後継体制により開かれるのでどうぞご参加ください、との由でした。上の漫画のオチは↓のようになっていますが、
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何卒コミケが武田家のような運命をたどらず、米澤氏のいわば子孫として、末永く一族(コミケはじめ諸イベント)が繁栄することを祈って止みません。
 にしても、やっぱ煙草吸ってるな・・・。

 昔小生がたんび氏ともう一人の友人と、コミケで非電源系ゲームを頒布していた時、「米澤」とネームプレートを付けてスタッフの装束に身を固めた中年男性が、我々のサークルのゲームを買っていったことがありました。あれは米澤代表だったのか、それとも同姓だったのかな?

 私事はともかく、これは一つの時代を区切る出来事なのかもしれません。昨今の「オタク」を巡る状況を見るにつけ。
 当たり前とまではいえないまでも、ある程度「オタク」的なものが認知されたからこそ、「オタク」であること、そのようなものとどう関るのかということの意味を、問い直す必要が出てきているように感じられますから。(追記:こちらの記事の後半の引用参照)

 今はただ合掌。
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by bokukoui | 2006-10-01 23:58 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

[深夜アニメ一期一会]『BLACK LAGOON』の巻~保険屋は死せず

 一昨日に引き続き、なんか妙な企画を思いつきで立ち上げてしまったような形になりました。
 ちなみに「一期一会」というのは、小生は決して録画してアニメを見ることをしないから、です。録画してあとで見ようと思うと、「あと」という時は決して来ないと経験則上明らかだからです(笑)。ついでに、放映されるアニメーションというのは、一歩引いて眺めれば、テレビ局やスポンサーも「作り手」に入るわけで、「総合的娯楽」として楽しむのならば、やはり放映された時間に生で見るのがよい鑑賞スタイルなのだ、と勝手に決め付けている次第です。
 だから鑑賞の心得は、
・録画しない。
・CMも真面目に見る。代アニのCMが如何に痛くても目を逸らしてはいけない。
 この手の企画は前にMaIDERiAでちょいとやったことがありましたな。

 さて今回のお題は、現在放映中の『BLACK LAGOON』であります。一言で言えば、派手なガンアクション作品です。小生は原作を読んでいるので、折々見ていますが、かなり原作に忠実なアニメ化なので、ある意味毎週見る意味はないような気もしています。
 さて、この作品の原作にこんなコマがあります。(2巻p.75)
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 画像はクリックすると拡大しますが、そうせずとも台詞は読み取れるでしょう。
「全員保険に入ってんだろ? ならそれでいいじゃねえか」
 アニメでもこの台詞がありましたね(その後の展開が少し異なっているのですが)。

 で、小生はこのアニメをtvkにて視聴しているのですが、tvkでは『BLACK LAGOON』が終わったあと最初に流れるCMが、今まで見てきた限りでは毎週必ず、

 自動車保険のアクサダイレクト

 なのであります。しかも1分位ありそうな長尺ヴァージョンのそれを。
 さんざ殺人や銃撃戦やカーチェイスやっといてこれかよ! と、その落差がたまりません。
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by bokukoui | 2006-06-22 23:56 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

[深夜アニメ一期一会]『夢使い』を見て思う

 今晩はゼミ発表の準備で徹夜なので更新はお休み。
 のつもりだったのですが、それも芸がないかと思い、一つ思ったことなど。
 ゼミのために明治時代の文書など読んでいると、漢文調の表現に始終出くわすのですが、その影響で? 思ったことです。

 小生はオタクではない、少なくともアニオタではないのですが、夜中徒然なるままに深夜アニメを見たりすることは間々あります。
 以前、植芝理一『ディスコミュニケーション』を愛読していたこともあり、最近は同じ原作者の作品のアニメ化である『夢使い』を見ています。実は、『ディスコミュニケーション』末期の、『夢使い』への橋渡しのような役割とでもいうべき「精霊編」があまり好みではなかったので、漫画の『夢使い』は全く読んでいなかったのですが(その理由は又の機会に)。
※追記:理由を書きました。こちらです。

 で、毎週続けて見るくらいには面白く見ているのですが、CMを見ている時にある疑問が湧きました。
 『夢使い』の主要登場人物たちは、人の心に巣食う悪夢を退治することをその職務としているのですが、そのときの決め台詞が、例えば主人公の三島塔子の場合、「金曜星の夢使い」という設定で、
「金曜星あそびたてまつる! 現世(うつしょ)は夢、夜の夢こそまこと!」
 というのですが、耳で聞いていた時は別にどうとも思わなかったのです。
 が、DVDのCMを見ていたら、「あそびたてまつる」を漢字で「遊奉」と表記していたんですね。
 あれ? こういう場合「奉遊」と書くもんじゃない? 例えば「奉仕」とか(本来は「主君に仕える」意)、「大政奉還」みたいな語順になるわけで。
 まあ、こんなことは誰か既に言ってるだろうと思って検索してみました。
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 ・・・え?
 思い過ごしかなあ。ちなみに「夢使い 遊奉」だと61件ヒットします。

 ところでこの場合の「たてまつる」は、「(神に)捧げる」という意味なのでしょうか、それとも謙譲の補助動詞なのでしょうか? 普通に考えれば後者だけど。
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by bokukoui | 2006-06-20 23:57 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

改めて山名沢湖『レモネードBOOKS』を読み直す

 一つのことしか一度に出来ないという、ウィンドウズ以前のMS-DOSみたいな性格の人間なもので、毎日駄文をここで書き流しているとMaIDERiA出版局の更新が全く停滞的になっております。
 まあ、『エマ』7巻が出たので、来月は確実に「墨耽キ譚」の更新が出来ますが、今月の更新はどうしよう。「よりぬき『筆不精者の雑彙』」は新しいコンテンツを作ったわけじゃないしなあ。
 というわけで、何とか今月中に、一年以上放置している書評企画を何とかしたいと思っているのですが・・・メイドさんを理解するには近代家族の理解がよい手がかりとなり、近代家族についてヴィクトリア朝から現代日本まで繋げて見る時に郊外住宅地という視点で見るといいだろうと思って数冊の本を読んできていたのですが、ふと気が付いたらこれは鉄道趣味者向けコンテンツであってメイドスキーの関心のありそうなことなんぞ出てこない、という始末。はてさてどうしたもんか。

 まあとにかく、メイドとオタクと近代家族、というテーマでボチボチこのブログに草稿を挙げ、それをまとめて本家のコンテンツにする、という風に出来れば便利かなと思います。今後は出来るならばそういった方針でこのブログを運営していければと思います。
 で、オタクと近代家族について論じるならば本田透氏の所論には触れずばならぬでしょうし、その場合『萌える男』を入手する必要が生じ、これにもう暫く時間がかかりそうで、そこで当面の代替措置としてネット上をうろうろして幾つかのサイトの書評など見ているうちに、全然違うことを急に思いついたのでこれを今日の話題として書いておくことにします。・・・初手から掲げた運営方針と違ってるようですが気にしない。

 暫く前に山名沢湖『レモネードBOOKS』を買って読み、なかなか楽しかったのですが、ブログの記事ではやや本書から離れたところまで飛躍したような印象を書いておりました。
 さて、上記のような事情で幾つかのオタクと恋愛関連の――つまり本田透氏の書物を評した幾つかのサイトなど読んでいるうち、『電波男』を読んだ時に感じた諸々の違和感というか不満点というか、そういったものが甦ってきて、それをぼんやり反芻しているうちに突然『レモネードBOOKS』のことが意識に上ったのです。
 『電波男』の基調をなす要素として、「オタクである自分を認めてくれず毛嫌いする」世間へのルサンチマンが大きいものであるように思われ、自分のことを分かって欲しい、受け入れて欲しいでもそんな女性はこの恋愛資本主義のご時世に存在しない、だから二次元キャラに萌えよう、という展開になっていたように思います。
 それに突っ込むことはいろいろあるのですが、ひとまず『レモネードBOOKS』の描いた世界にひきつけて考えれば、「分かってもらう」という必要は別にない――もうちょっと穏当な表現を使えば、「分かってもらう」「受け入れてもらう」のハードルを著しく引き下げることが可能であり、しかもそれは実現可能性にしてもかなり高い目の方法であろうと考えるのです。
 というのも、どうも本田氏の書物では、受け入れる=同じ趣味嗜好になる、という趣旨のようで、批判するか改宗するかの二択にしてしまっているように思われてしまうのです(二分法という点は、氏の書物全般に見られる傾向ですね)。そこまでハードル上げるから自爆するんじゃないかと思うのです――実例を身近に知らぬでもありませんから。

 『レモネードBOOKS』の世界に戻りましょう。
 自分は特別本が好きというほどではないけれど、本の大好きな岩田君(作中でしょっちゅう「オタク」と形容されています)が気になって、結局付き合うことになった森沢さん。彼女は本の好きな岩田君に戸惑い呆れつつ、時には自分に趣味がないということに悩んでみたり、そうしつつ関係はほんわかと続いていきます。
 一方本が大好きな朝霞さんは、本屋のバイトで出会った男と「趣味が同じでうちとけて 趣味が合わずに険悪になった」のでした。これって結構重要なことで、趣味とか嗜好が同じというのは無二の親友になる可能性もありますが、不倶戴天の仇敵になる可能性もあるのです。全然趣味嗜好と関係のない連中とはまた別個の憎しみが湧いてくるもので。ほれ、中核派の人が革命を起こす前に革マル派を襲っちゃったりするみたいな(ひどい例だ)。
 とまれ、趣味(仕事とかでももちろんいいけど)が自分にとって大切でかけがえのないものであればあるほど、同じ趣味の人との差異が明確になってしまうこともありえます(しかし、それが必ずしも「険悪にな」るとも限りません)。

 要するに、すべてを理解しあわなければ恋愛のような深い人間関係(友人関係でもいいでしょう)にならないと強迫観念を抱くことはないだろうと思うのです。別に世界が、不倶戴天の異教徒と信仰を同じうする同志とに截然と分かれるわけではないと考えれば、互いに差異が存在することを承知した上で、互いに未知の部分があるということを承知した上で共存することは出来るであろうと思われるのです。
 ただ、この関係を維持するには、以前の話題にひきつければ「情」のみならず「理」の果たす役割が相当程度重要であろうと思われますが。未知なる部分が何かの拍子に表面化したときに適切な対応を取るには、今まで築いてきた関係の価値をも勘案した上で判断を下す必要があり、それに「理」の役割が重要であろうからです。

 最後は、以前にご登場願った桜井教授にまた登場していただくことにしましょう。
「人は決して分かりあうことは出来ない、ただ許すことが出来るのみである」 
 分からなくてもそんなに気にすることないんですね、許すことが出来れば。
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by bokukoui | 2006-05-28 23:56 | 漫画 | Trackback | Comments(2)

ナヲコ先生のサイン本を購う

 「情」「理」の議論ばかり続くのも重いので(書く方が)、ちょっと今日は小休止させていただきます。
 代わって、これは実は昨日の話ですが、表題の件について一筆。まあ要は自慢話ですが。

 昨5月18日付で、ナヲコ先生の新作『voiceful』が発売になりました。ナヲコ先生のリニューアルしたサイトで書かれていてはじめて知ったのですが、今高田馬場にあるまんがの森本店で『百合姫』関連のフェアをやっており、その一環でこの日単行本発売の『百合姫』掲載作品の著者サイン本を販売するなどのイベントを行っていたのです。
 正直なところ「百合」に関心も造詣もない小生ですが、ナヲコ先生の実に七年ぶりの単行本となれば話は別。折角の情報でしたので、大学の研究会が終わってからバイトに行くまでの間隙を縫って高田馬場に赴きました。18日午後2時ごろだったかと思いますが、まだ数冊の在庫があり、無事サイン本を手にすることが出来ました。
 ちなみに『百合姫』フェアとしてはむっちりむうにいという作家さんの方がメインらしく、原画展も行っていて、サイン本も一番目立つ位置に二列並んで積んでありました。ナヲコ先生の本はその陰に隠れるように一山だけ積んでました。
 なお、ミクシーでの情報によれば、この日の閉店時刻までにはナヲコ先生のサイン本は完売していたらしく、このとき積んであった山がもしかすると在庫のすべてだったのかもしれません。
 というわけで入手できた一冊、ナヲコ先生のサインを拝見あれ。 
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 表紙の画像はナヲコ先生のサイトやアマゾンで見られるので、ここでは裏表紙(帯付き)をお目にかけましょう。 
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 裏表紙もこれだけ魅力的なら、買いたくなった人も多いでしょう。サイン本はないけれど、今からでも本は手に入るから書店へ走るのだ。
 ・・・と、この帯、よく見たらなんか変だな・・・拡大写真はこちら。 
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 一瞬、「代表作」なのかと思いましたが、これは「表題作」の誤変換がそのまま残ってしまったんでしょうね。

 え? 写真はいいから内容の紹介や書評でもしろって? しかし、ここでまさに一昨日及び昨日の記事で述べたような問題に突き当たってしまうのです。漫画の感想というのは大部分個人の感興なわけで、とりあえず「いいよね~」と言っておけば同意してくれる人は決して少なくはないでしょうけれど、ではどこがいいのかを説明しようとしたならば、途端に壁に当たらざるを得ませんし、たとえ詳細に定義づけして検討してみても、個人の思い入れ以上の何かを表現できるかは難しいところです。それが自在に出来る人のことを、「評論家」という肩書きで呼ぶわけですから。ことに、問題点の批判をするのはまだ比較的容易なのですが、好きなものを何故好きか、いいと思ったものがなぜいいのか、説明するのは相当に骨が折れます。

 言い訳めいたことばかり書き連ねるのも流石に芸がないので、何とか一筆してみましょう。
 帯に「少女同士の絆にスポットをあてた」とありますが、実のところこの作品については「絆」が重要であって、「少女同士」というのは副次的なものに過ぎないのではないかと思います。つまり「絆」を描くにあたってたまたま少女同士を選んだのであり、少女である必然性が(おそらく)薄めであろうということで、これは「百合」を求めて雑誌を買った人には不満の原因となる可能性がありますが、小生のような「百合」に関心のない読者でも作品世界に入り込みやすいという利点があるでしょう。
 ナヲコ先生はロリもショタも百合も描かれている訳ですけれど、どの場合も(実はショタは碌に読んでいないんですが)その世界でなければならないという必然性はあまり濃くないのではないかと思います。だから一面では分野にとらわれず様々な人を惹きつける作品を描けるのでしょうけれど、しかし嗜好別に細分化された昨今の漫画界ではかえって作家としての位置を定めにくくしているのかもしれません。
 そんなことを思いつつ本書の表代作表題作「voiceful」を読み返すと、ネット上でしか歌を発表してこなかった歌姫ヒナが、引きこもり少女かなえとの出会いを通じて、「自分の声がどこへ向かってるのか意識するようになったんです」といって人の前で歌えるようになる、というそのヒナの姿を、つい作者のナヲコ先生に重ねて見てしまいたくなりもするのです。
 一方、ヒナの歌が好きで応援しているヒッキー少女かなえが、応援することとは相手のためではなく畢竟自分の幸せを祈っていることなのだと悟る姿は、読者である小生はつい自分の方にひきつけて考えてしまい、結局ある作品を評論するという行為も馬鹿ポエム並に自分語りなのだなあと身につまされるのでした。
 結局この評論も、当ブログの過去の記事と結びつけてしまっていることからも明らかなように、小生の個人的感興に拠る所が大きく、やはり評論家への道は遠いようです。

 最後はまたマニア談義に戻って、こちらの写真で締めることと致しましょう。 
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 左が『voiceful』の、右がナヲコ先生が挿絵を描いた、エロラノベ最高峰との呼び声も高いJ・さいろー氏著『SWEET SWEET SISTER』のサインです。えっへん。これは何の予備知識もなく某日渋谷の今は亡きまんがの森に入ったら、全く偶然に置いてあったという一品です。ナヲコ作品との運命的なめぐりあわせを感じますね(笑)。いつかイベントに『DIFFERENT VIEW』を持参して、ナヲコ先生にサインしていただくのが密かな野望です。
 ちなみに、アマゾンの『SWEET SWEET SISTER』のページにある古書としての出品状況を見ると、本日現在では3960円が最安値で3点並び(後から出した古本屋が前のと同じ値段をつけたんでしょう)、もう一点が4300円で出ているという状況です。しかし、先日小生が中野のまんだらけに行ったところ、なんと630円で売っていたのを発見しました。
 興味関心のある方はこの週末へ中野ブロードウェイへ急ぐべし。

※追記:『SSS』は復刊されました。こちらの記事参照。
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by bokukoui | 2006-05-19 23:59 | 漫画 | Trackback | Comments(2)

拳銃と日本刀~『BLACK LAGOON』を読んでふと思う

 時には「オタク」に因縁つけるばかりでなく、その筋にどっぷりはまった話題を提供してみようかと。

 最近は5巻が出て(リンク先のレヴューでネタバレ書いてる者あり)、この四月からアニメ化もされた広江礼威『BLACK LAGOON』という漫画があります。ご存知の方も少なくないと思いますが、ガンアクションのかっこよさで多くの人を惹きつけている注目の作品です。この作品も、昨日の話題を引っ張るようですが、全体のストーリーよりは(主人公?ロックの成長は一応あると思うが)一齣一齣のアクションや台詞回しを鑑賞する作品なのかなと思います。
 こういった類の作品をものされる多くの執筆者の方の例に漏れず、広江礼威氏もまた銃砲には多大な知識とこだわりをお持ちのようです。実際、5巻の巻末にはこの作品で登場した銃の紹介が巻末付録として掲載されています。

 先程小生は「一齣一齣のアクションや台詞回しを鑑賞する作品」と本作を評しましたが、このような見方をすると、本作4巻~5巻の日本篇は、なんと言っても日本刀を織り込んだアクションを描くために物語が作られたのだ、そのように思われてきます。そして、日本刀で拳銃の弾を止めてしまうなど、随所に日本刀を駆使した見せ場があり、この2冊の読みどころの一つであろうと思います。
 さて、その日本刀を振り回すキャラクター・銀次に対し、若頭の坂東は次のような台詞を言います(4巻p.66 原文傍点は太字で強調)。
――己に、もう一度、白鞘を持ってほしいンや。
 つまり、この2冊のストーリー中で銀次が使っている日本刀は「白鞘」なんだそうです。

 ここで書架から名和弓雄『間違いだらけの時代劇』を引っ張り出してみると、こんなことが書いてあります。(pp.110-111)
 白鞘は刀の寝間着
 時代物の首斬り場面や、現代物のなぐり込みの場面に、よく白鞘の刀が登場する。だれが流行させたかは知らないが、これまた、間違いである。
 生き物はもちろん、巻藁でも、青竹でも、白鞘の柄のまま斬りつければどうなるか? 柄木(つかぎ)は二つに割れて、はみ出した中心(なかご)で手のひらに打撲傷を受けてしまう。白鞘の柄のまま使用するときは、割れないように、籐蔓を巻いて補強しておかなければならない。白鞘というのは“休め鞘”とよばれ、刀身がいたまないように保管するときに使われたもの。
 白鞘の鞘や柄は内部がよごれた場合、二つに割って、掃除をし、あとは米粒を練ったのりで貼るから、もともと割れやすいようになっているのだ。
 なにしろ、柄には、目釘穴の開けてないものさえある。これは大名の家などから出てくるが、これを見ても白鞘が休め鞘であることが証明されるはず。しかし、これとて、ものを知らない人たちによって、「あ、未完成品で、まだ目釘穴が開けてない」と、錐でごりごり穴を開けられてしまう。
 というわけで、白鞘は本来刀の収納ケースであって、実戦に使うものではありません。何でも刀が錆びてしまうと、鞘の内側にも錆が移るので、刀の錆を取っても同じ鞘に入れたらまた錆がついてしまうそうです。そこで白鞘なら二つに割って鞘も綺麗にクリーニングできる、というわけ。また、漆塗りの普通の鞘よりも、白鞘に刀を納めた方が木の通気性のお蔭で傷みにくいんだとか。
 ガンマニアの描いた漫画の刀剣描写にいちゃもんをつける、というのはちと外道な気もしますが、まあこれも間接アプローチという奴ですよ? 結局因縁付けみたいな内容は同じだけど。

 ちなみに、これは全く小生個人の勝手な推測ですが、白鞘の刀がやくざ映画なんかでよく出てきているのは、仕込杖と混同したのではないかと思われます。やくざ映画の時代は廃刀令以後(当たり前だ)なので、実際やくざが仕込杖を使った場合は多かったのかもしれませんが、そのイメージが段々混同されていったのかなあとも思います。
 刀の鍔は手元を守る意味もありますが、何より刀の重量バランスを保つのに重要だそうで、鍔をつけた普通の刀の方が仕込杖よりも扱いやすそうなんですが。

 今日は所用で出かけて帰宅が遅くなりそうなので、早まわしにこれで更新。
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by bokukoui | 2006-04-16 03:48 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

所詮書泉の袋

 四月一日ですが別に確信的嘘情報ではありません。

『麻生太郎はローゼンメイデン愛読者』はデマ

 『ローゼンメイデン』は、第1次のアニメを見てそこそこ面白かったので、原作を読もうかと思ったものの某社に金を払うのも何となく癪だなあと思っていたら、たんび氏がご自身所有のそれを安く譲ってくれるというのでありがたく引き取ったのですが、氏が売ってくれるという時点で警戒すべきでしたな(笑)。要するに、あまり面白くなかったので、4冊纏めてローゼンにはまっている後輩に進呈してしまいました(彼は「布教用」に複数必要だったらしい)。
 リンク先ですが、まあ世の中そんな面白い話ばっかりでもなかろうから、そりゃ疑いを抱くのは当然です。
 ただ、もしかすると、大元の「麻生太郎が『ローゼンメイデン』を読んでいた」というネタを2chに書き込んだ輩が秋葉原しか知らぬ痴れ者であった場合、ネタの真贋は別にしても、神保町の書泉グランデ・書泉ブックマートを知らなかった、なんてことはあるかもしれませんな。

 ・・・なんて呑気なこと書いている場合ではありません。いやほんと。
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by bokukoui | 2006-04-01 21:14 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

漫画を購う

 昨日今日と事務手続きや研究会で大学に行き、ついでに書籍部で散財。手持ちがやや心細いので、単価の安い文庫(ちくま文庫セール中)・新書・マンガを購入。
 文庫といえば、岩波文庫が古典の復刊を目下行っているようです。そして、昔「今週の一冊」で紹介したスウィフトの『奴婢訓』も復刊されていました。メイド趣味者にとってはいわば古典中の古典。是非この機会に押さえておくべきでしょう。
 筆者は、『奴婢訓』は古本で以前買ったので、今回は『雑兵物語・おあむ物語』なぞ購入。戦史関連ということで。

 大学生協の書籍部では、マンガは基本的に新刊しか入荷しないのですが、昨日はもりしげ『花右京メイド隊』13巻が平積みになっていたので早速購入。
 今日も書籍部に行ってみたら、配置替えされていて久米田康治『さよなら絶望先生』3巻が同じ場所で平積みだったため購入。ちなみに筆者の買ったのがその場にあった最後の一冊でした。売れてるんですね。『BLACK LAGOON』5巻も(平積みではないけれど)出ていたのでこれも購入。

 以上のマンガコーナーとは全く無関係に、レジの前に『ハヤテのごとく!』が山積みにされているのは、売れているのか仕入れすぎて始末に困っているのか、どっちなんでしょうね。
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by bokukoui | 2006-03-17 23:58 | 漫画 | Trackback | Comments(3)

大塚英志・杉浦守『オクタゴニアン』

 また一つカテゴリを作ってみました。「書物」はさまざまな書物(漫画や雑誌類、同人誌も含めるつもり)について、購入したものや読んで思ったことなどを綴るという、ごくありきたりな分類です。「書評」と名乗る程のものでもないので、まあこうしようかと思います。
(※追記:その後「漫画」カテゴリの設置に伴い、分類を変更しました)

 さて、その第一号は、大塚英志作・杉浦守画『オクタゴニアン(1)』角川書店(角川コミックス・エース)です。小生は鉄道趣味者なものですから、書店の店頭で「オクタゴニアン」という名前と表紙の客車のイラストを見て、即決で買ったものです。この客車のイラストは河原匡喜『連合軍専用列車の時代』からの転載なのですが、その本も当然持っていたので、何だこれは、と思ったのです。作者大塚英志というのはその後から気が付きました。
 オクタゴニアンというのは、河原氏の著作の表題にある占領時代の連合軍が使っていた専用列車の中でも、第8軍(だから「オクタゴン」)の司令部専用列車のことです。そして、原作者の大塚氏は、
 占領下の日本を「北神伝綺」「木島日記」のような伝奇的手法で書いてみたい、そして、その際、主人公としてコンビを組むのは昭和天皇の影武者だった男と本当の顔を持たないスパイMだという構想は昔からあった。(中略・しかし)「占領軍」や「アメリカ」の側を視覚的に象徴するキャラクターがどうしても思いつかなかったので作品として形にならないでいた。しかし、先に引用した河原匡喜著『連合軍専用列車の時代』、そして同書の収録された黒岩保美氏の筆による占領軍専用列車の美しい見取り図を見た時、イメージは固まった。キャラクターではなく、オクタゴニアン号に占領軍、そしてアメリカを象徴させることを思いついたのである。(「あとがき」より)
 のだそうです。小生は正直な所、「伝奇的な手法」に馴染みもなければそもそも好きでもないのですが、実在の人物や事件、そして噂や伝説を巧みに取り込んで描かれた本書は結構面白く読みました。雑誌廃刊などゴタゴタがあるようですが、続篇が早く出ることを期待しています。

 何で小生が本書を面白いと思ったか、それをちょっと述べさせていただきたいと思います。
 占領下の日本で、大混雑な上にボロボロな列車を横目に走る連合軍専用列車を、占領軍そしてアメリカの象徴として使うというのは面白い発想です。しかし、アメリカの象徴にされたこの列車、正体を明かせば御料車の10号と11号だとか、マイロネ38 1だとか、スイロネフ38 1だとか、要するに純正日本製の車輌な訳で(実は厳密に調べてはいないんですが、この時代の客車ならもう台枠の鋼材なども多分国産でしょう)、それが中を改装して白い帯を入れただけでアメリカの象徴になってしまうところが面白いですね。大塚氏は、オクタゴニアンを同時に「『戦後』の一つの象徴」としても捉えておられる由ですが、オクタゴニアンの車輌が日本製だったということは、占領とその中で作られた戦後日本の体制は、アメリカの一方的な押し付けというよりも日本側との共同作業であった面があるのだ、ということを表しているようですね。これを「スキャパニズム」(SCAP=連合軍司令部とジャパニーズの合成語)と言う人もいます。

 で、ですね、ここまでなら同じことを思った読者もいるかもしれないんですが、さらに鉄道趣味的思考を続けるとまた違うことも言えそうです。
 『オクタゴニアン』の表紙に描かれている車輌(元御料車10号)は、所謂展望車というやつで、表紙の絵でいうと右端に展望デッキがついています。展望車は、戦前の特急『富士』超特急『燕』だとか、戦後の『つばめ』『はと』に使われ、現在も一両保存されていたかと思いますが、この展望車という発想はまったくアメリカの真似をして日本でも作ってみたものだそうです。このことは国鉄の技術者として著名な星晃氏(『連合軍専用列車の時代』の情報提供者の一人でもあります)が述べておられることですのでまず間違いないでしょう。どうも欧州の鉄道にこういうのはないらしいですね。
 ちなみにあの展望デッキ、吹き曝しなので走行中に行く人などいなかった、と宮脇俊三氏が『時刻表昭和史』の中で書いておられ、実際には駅で偉い人の見送りをする時ぐらいしか使われなかったようですが、政治家が駅で停車中に展望デッキに演説するということは間々あったようです。有名な例では1915年の総選挙で大隈重信が行った「車窓演説」がありますが、これもアメリカの・・・えーとセオドア・ルーズベルトがそんなことやったという話をどっかで読んだような気がしますが、誰か知りませんか?
 あとこの車輌が履いているイコライザー式三軸台車も、技術的にはアメリカ系なんじゃないかと思います。

 要するにですね、アメリカの象徴とされたオクタゴニアンの車輌は日本製だけれども、その設計思想はアメリカの例を多分に参照にしたもんじゃないかということです。となれば占領軍とともに戦後日本を作り上げた日本側もまた元々アメリカの影響を受けていたわけで、そもそも日本の近代自体がアメリカへの憧れのようなものをばねに動いてきたんじゃないか、とか思われるのです。そこら辺を無視して、憲法とか何だとかアメリカの押し付けであると批難しても、下手をすると足元を掬われる結果になるんじゃないかと思います。なんてことをうだうだ考えるきっかけになったわけで、その点で大変面白い漫画だった、という次第です。
 ただし、大塚英志氏が以上のような技術史的および鉄道史的論点にお気づきになっておられたかどうかは、小生の存じ上げるところではありません。
 ちなみにこちらの「人気シリーズ既刊本」では何故か『オクタゴニアン』が無視されているんですが・・・人気ないのか、もしかして。

 ここのブログはメイドやら制服やらを扱うサイトの一部門のそのまたおまけコンテンツだった筈なので、当記事を訳も分からず読まれたであろうメイド趣味の皆様に、河原氏の著作から小ネタを提供しておきます。
 オクタゴニアンの主であったアイケルバーガー第8軍司令官、奥さんの名前をエマさんといいます。アイケルバーガー中将は太平洋戦争中、司令部専用機のB17を奥さんにちなんで「ミスEM」と名づけていたそうです。
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by bokukoui | 2006-01-01 22:41 | 漫画 | Trackback | Comments(0)