<   2006年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧

MaIDERiA出版局更新・その他小ネタなど

 昨日の記事で宣言したとおり、MaIDERiA出版局の記事を更新しました。何とか月に一回の更新は維持できました(苦笑)。
 更新した記事は「げんいけん」こと現代文化遺跡研究会の記事です。お題は「豊島界隈そぞろ歩き~早すぎた先駆者ブリジットを悼む・メイド超特急~」で、2003年の大塚にあったメイド喫茶・ブリジットの思い出話と、その他池袋附近の散策の結果をまとまたものです。そこそこ真面目に書いていますが、「超特急」という言葉にピンときた方にはまた別個の面白さがある、かも知れません。
 帝国メイド倶楽部での出展予定については、MaIDERiAの掲示板に書いておきましたが、基本的にペーパー以外の新作は渡辺プロデューサーが今回担当していただけることとなりました。同人誌の在庫状況については、オフセット印刷の『英国絵入諷刺雑誌「パンチ」メイドさん的画像コレクション1891~1900』の在庫がそろそろ尽きる可能性があります。再販については全く未定で、夏コミに向け第2版という案もなくはないのですが、とりあえずご関心のある方は帝国メイド倶楽部でお求めいただけると安心かと(なんかテレビ通販みたいな・・・)。

 以下小ネタ。
 数日前の日経新聞夕刊のコラムで、ヒトラーの誕生日である4月20日前後はネオナチが活発化して外国人を襲撃するため、食糧を買い込んでアパートに篭城していた、という日本人記者(?)の体験談が掲載されていました。なんでもインド人が襲われて重傷を負ったという穏やかならざる事件も報告されていました。今日4月30日は総統閣下の命日ですので、やっぱりネオナチどもが暴れていた公算は高そうです。
 で、これはドイツ・・・の話ではなく、なんとロシアのことなのです。サンクト・ペテルブルクやモスクワで起きている事件なのだそうで。この報告者は、ロシアの資本主義への移行で生み出された社会的不満が、若年層の場合ネオナチという形で外国人(日本人とかインド人とか、要するに非白人の)を襲撃するという事態になっており、弱者が弱者を襲うという哀しい状況であると指摘しており、それは確かにそうだと思いますが、この報告者は筆者がもっとも不審に思ったことの答えを書いてくれていません。
 ナチスは第2次大戦で、ソ連の人民(とは、その少なからぬ部分がロシア人)を2000万人だか2500万人だか死なせた主犯だと思うんですが・・・人数だけならユダヤ人より多いわけで(犠牲者の人口比は別として)。なんでナチスに劣等民族扱いされていたロシア人がネオナチになる?(某東洋の国も当時は同盟を結んでいたけど、それは別問題)
 ロシアの歴史教育がどうなっているのか疑わしいのですが、しかし今20代の連中がこのネオナチの主力とすると、彼らは小学校くらいまでソ連だったのかな? となるとその時点まではソ連万歳・ロシアマンセー・ナチを打破した偉い国、てな教育を受けていたはずなんですけど、社会ががらっと変ったので、教育の説得力が全く消えちゃったのでしょうか。

 そしてもう一つ。
 小生が教育談義に一区切りつけたことにあてつけるように(?)、かの戸塚ヨットスクールの校長が29日釈放された由。相変わらず「体罰は教育」と公言した由で。
 教育談義は一区切りつけたので今更書くのもなんですが、一つだけ。
 『ニートって言うな!』の中で内藤朝雄氏が、最近の教育を巡る言説、殊にニートやひきこもりへの「教育」から、若年層を軍隊や矯正収容所のようなところにぶち込んで「教育」してやりたい、という怨念の存在を指摘しておられました。戸塚校長もまたこの手の「暴力装置=教育」論者の例(もっとも極端な)と見做せるでしょう。
 で、無理やりぶち込んで再教育、ってそれを目的にしている最大手組織は刑務所ですね(笑)。軍隊は戦争に勝つ手段として教育してるのであって、それ自体が目的ではないはずなので(一応は)。しかし刑務所的矯正の限界というものを、戸塚校長は身を以って釈放第一声でお示しになられたのではないかと思うのであります。
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by bokukoui | 2006-04-30 23:46 | 時事漫言 | Trackback | Comments(0)

執事スティーブンスはなぜ桟橋を見に行ったのか

 来る5月3日、MaIDERiAはメイド系同人誌即売会「帝国メイド倶楽部七」に参加致します。小生はなかなか時間が取れず、申し訳ありませんが新刊は作成できません。しかし渡辺プロデューサーが何か製作されるという由で、小生は関っていないので具体的なことは分かりませんが、そちらの方をご期待ください。なお、小生もペーパーは作成する予定です。

 さて、昨日のような硬い長文は書く方だけでなく読者の皆様も草臥れると思いますので、今日からまた長すぎず手ごろな話題をご提供したいと思います。折りしも帝国メイド倶楽部が近いことですし、メイド関連で英国の話題を一つ。
 英国の執事を主人公に据えた文学作品としてブッカー賞を受賞し、映画化もされて話題になったカズオ・イシグロ『日の名残り』があります。ご存知の方も多いでしょう。
 この物語の最後の章、主人公の執事スティーブンスは、「昔から一度は来てみたいと思っていた」海辺のウェイマスという街を訪れます。この街は観光地として著名で、スティーブンスも話を聞いたり、サイモンズ夫人の『イギリスの驚異』シリーズを読んで、その評判を知っていたのでした。そして、「私はこの三十分間ほど、この町の遊歩桟橋の上をぶらぶらと歩いておりましたが、夫人(引用注:サイモンズ夫人)はこの桟橋のことも取り上げ、是非、夕方に訪れてみるようにと勧めておられます。夕方になるとさまざまな色の電球がともり、桟橋全体を飾るのだそうです。」と、桟橋を見に行っています。

 この後、夕方というまさに「日の名残り」の時間の中で、この物語は締めくくられるのですが、さてこの場面の舞台である「遊歩桟橋」とは何なのでしょう。大体、桟橋というのは船を停めるためのものの筈なのに、なんで遊歩場になっているのでしょうか。
 「桟橋」に相当する英語は pier です。ランダムハウスのでっかい英和辞書でこの単語を引いたら、桟橋の意味のあと以下のような補足説明が書いてありました。
係船場としてのほか、遊歩場、娯楽場としても用いられる
 のだそうです。しかし何でそうなったかは辞書には書いてありませんでした。

 以下は聞いた話。
 英国では18世紀から水辺へのレジャーが流行していました。当初温泉地(バースが有名)が中心だったこのレジャー地は、18世紀末から海辺へと転換していきます(『路地裏の大英帝国』の8章などをご参照ください)。英仏海峡に面したブライトンがもっとも著名ですが、ウェイマスもまたそうした土地の一つです。
 さて、19世紀初めのまだ鉄道が普及していない頃、英国では馬車用の有料道路も発達していましたが、大勢の観光客を運ぶには船を利用するということになります。内陸水路もこれまた英国は発達していましたが、海に面した地に行くのなら、沿岸を船で移動するのが合理的となります。観光客向けの豪華船が、ロンドンと海水浴の土地を結びました。
 ところがここで問題が生じます。港として便利なのは、岸の近くでもなるべく水深が深い場所です。一方、海水浴に向いた海岸というのは遠浅の海岸です。海水浴に向いた海岸に船で乗り付けても、岸辺は遥か遠くです。小船に乗り換えて上陸するというのは何とも面倒です。そこで、思い切って長い長い桟橋をこしらえ、遠浅のさらに先まで延ばして船を接舷できるようにしたのでした。これで船でやってくる観光客を迎えやすくなったのです。

 が。
 19世紀中ごろにはイギリスは鉄道時代に突入します。ブライトンに鉄道が開通するのは1841年(のちのロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道)です。鉄道は船より圧倒的に速く、運賃もどんどん安くなっていきました。お客は鉄道に移行し、大衆化も進行します。
 そうなると、折角作った長い長い桟橋は、船着場としてはほとんど無用の長物となってしまいます。これは勿体ない。そこで、再利用策として、娯楽施設を桟橋の上に設け、桟橋自体を観光地に仕立て上げたのです。
 これが当たったのだそうです。そこで真似する海辺の観光地が続出し、船着場としてではなく最初から観光用としてこのような桟橋を作るようになったのでした。 pier という言葉は、それ自体で娯楽場の意味も含むようになったといいます。
 スティーブンスが見に行った遊歩桟橋は、このような経緯で生まれたものなのだそうです。今でも観光地となっているこのような pier はあるそうで、何でもものすごく長い桟橋の上には、移動用に電車が走っているのもあるのだとか。一度見に行きたいですね。
 交通手段の発達が観光地の様相や観光の仕方を変えるという、今日でもよくありそうな状況の古典的な例として興味深いですね。

 あれ? メイドさんと結局関係なかったなこの話。『日の名残り』の書評でもないし。結局鉄道の話になってしまうところがしこのブログらしいといえばそれまでですけど。
 なお、帝国メイド倶楽部に向けて、MaIDERiA出版局コンテンツも更新します。明日30日に「げんいけん」こと現代文化遺跡研究会を更新予定。イベントに向けて盛り上げていくつもりです。
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by bokukoui | 2006-04-29 23:59 | 制服・メイド | Trackback | Comments(0)

当てもなく教育について語ろうとする・ひとまず終了「主体的に行こう」

 なんとなく続いてきてしまった教育の話題もこれで5回目となりました(過去の記事はこちら→1回目2回目3回目4回目)。色々とコメントもいただけてありがたいことこの上ありません。お蔭様でさらに考えることが様々に思い浮かんできましたが、ひとまず教育関連の話題には本記事で一区切りつけようと思います。

 今までのグダグダ述べてきたことを再度振り返ると、Lenazo氏がコメントで寄せてくださった「「教育」という一種の暴力装置」という言葉がちょうど良い手がかりになろうと思いますが、「教育」にそのような危険な側面があることに無頓着であるが故の問題が多々あるのではないか、ということになろうかと思います。
 生じた問題としては、『ニートって言うな!』に従えば、社会政策として解決すべきことが個人の自己責任にすり替えられ、「教育」で解決すべきものと規定されてしまうという問題があります。そして、自己責任にすり替えられ、「教育」が幅を利かせることにより、安易に人の人格に踏み込み他者を自己に都合の良いように変えてしまうことを頓着しないという問題が生じます。
 このような問題を生んでしまう背景を考えれば、「熱血教師」に象徴されるように、教育の暴力装置という側面を考慮せず、「教育」という「善なること」をしているのだという確信が教育を施す立場の人々、そして教育の効果を信じる人々の間で共有されているため、他者を自己に都合よく操作することの問題を認識しないのではないか、そのように考えました。
 そして、そのような「教育」による他者操作への無頓着さは、同時に「教育」が施した側の思い通りの効果を生むものと考えられてしまうという誤謬を招き、結果被教育者を置いてけぼりにした教育論議になってしまうのではないかと、歴史教科書を例に考えてみました。

 ・・・今までの文章から上記の内容は読み取りにくいとお考えの方もおられるでしょうが、一応話のつながりはこうなっているつもり、です。突き詰めれば、「教育」の暴力装置的側面を認識するということに尽きます。ここでフーコーなど引用すれば恰好いいのですが、碌に読んだことがないので、頭をよぎったある書物の一節を引用。
 軍隊ほど教育を重んずるところはない。日本のように日常の治安維持のための軍隊使用をあまり考慮しないでよい場合は、戦争のないときは、軍隊の仕事は、もっぱら兵の訓練と部隊の演習のみであった。ひとたび戦争となると、命を的に戦うのであるから、教育訓練を怠ると命を失う。このようなことから、陸軍においては教育総監部を独立させ、多数の学校を設け、壮大な教育体系を備えていた。平時の軍隊はあたかも一大教育機関であった。
    伊藤隆監修・百瀬孝著
        『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』吉川弘文館
                      p.330 (強調は引用者による)
 この本は、手元においておくと戦前の話を書くときに恥をかかずに済むことが多い、とても便利で面白い一冊です。

 さて、今日の本題は(ああ、やっと本題だ!)は、一応この「教育」というお題に区切りをつけるにあたって、僭越ながら小生が教育のもうちょっとマシそうなやり方、あるいは教師像を一つ考えてみようというものです。まあ、実際バイトで塾講師やっているわけで、結構喫緊の問題でもあるのでして。
 今までの話の流れからすれば、教育者が被教育者に対し人格面などへの、暴力装置的とも言うべき過剰な介入を避けること、になります。言い換えれば、教育される側のチュチェ主体性を尊重すること。しかしこれじゃただのお題目ですね。心がけにしたって、もうちょっと具体的な指針がないと困ってしまいます。

 ここで「主体的」という言葉を持ち出してきたのは、別に「地上の楽園」の思想に敬意を表したわけではなくて、その昔読んだ数学の参考書に書いてあった文言を思い出したから、です。それは確か渡辺次男という人が書いた数学Ⅰの参考書で、小生が高校時代に使ったものでした。
 今現物が手許にないので記憶に頼って書かざるを得ないのですが、この参考書には随分と長めの前書きがついていて、その中でなかなか面白いことが書いてありました。
 この参考書を書いた渡辺先生が予備校で生徒に問題をやらせます。できた生徒は答案を先生に見せ、先生はあっていればマルをし、間違っていればバツをつけてやり直させます。ここまでは普通。ところが、そのうち先生はわざとあっている答案にもバツをつけます。そうすると生徒は十中八九、それを改悪して(間違えた答えにして)持って来るそうです。そのうち生徒が慣れてくると、本当に間違ってバツをつけられても、自分は間違っていないと主張するようになるそうで、そうなるとその生徒の成績は向上する、勉強について主体性を身につけたのだ、という話でした。
 この手法を単純に他の教育の場においても真似られるなんてことは全然ないですし、それはそもそも本稿の趣旨に反します。ここで示唆されることは、教育の目的は生徒が「主体的」に考えられるようになること、教師の言ってることをそのままありがたく押し頂くのではない、ということのように思われます。
 もちろん実際のところ、主体性の確立などとのんきに言ってられない局面が間々あることは確かです。上記の渡辺次男先生もそれを認め、上述の前書きで主体性を節約した参考書も別に作った、短期間にとりあえず効果を挙げるためにそうしたと書いていました。でも主体性を巡る議論はやがて決着する、それは読者のあなたが大学に入って「あんな下らない勉強をさせやがって」と息巻く時につくのである、と書いていたように記憶しています。

 まあこの渡辺先生という人もある意味「熱血教師」なのでしょうけど、ただ、一般的な「熱血教師」「カリスマ講師」(やな言葉ですね、カリスマって)との違いを挙げるとすれば、主体性ということを意識していることは評価していいのではないでしょうか。
 ここで、今まで小生がグダグダ縷説した「熱血教師」であるとか、暴力装置的側面の問題点に行きつくことになろうかと思うのですが、これら被教育者の主体性を考慮しない教育者は、結局自分のコピーを生産しているだけなのだ、と考えられます。自分以外の人間の主体性を認識できていないから、自分が正しいと思う像(往々にして「熱血教師」は自己陶酔している)を他者に押し付け、なおかつそれを被教育者にとっても「良いこと」であると短絡的に考えてしまう、そのような現象が生じるのでしょう。
 そしてこの「良いこと」が世間である程度支持を得たものであるとすると――ニート対策のように――それに従うのが当然であるという風潮を世間にはびこらせることになります。教育基本法を巡る問題もこの一つの表れなのでしょう。世間(の一部)が「良いこと」と認めれば、それを押し付けるのは「良いこと」なのだと。

 ですから、小生が考える望ましい教師像とは、被教育者が主体性を持てるような教師、人格面まで踏み込むようなことをせず、互いに冷静に客観視できる部分を残した関係を築いた上での教育ということになります。しかしこれは、「私の言うことを信じるな」と教えるわけで、極めて困難です。 (なにより高・中等教育でしか通用しません。初等教育に適応するのは困難です。ただ、中等教育が初等教育によって刷り込まれた内容を相対化するきっかけを与え、以って主体性を形成することを助けられるかもしれません。)
 コピーをつくりだすのは教育ではなく、刷り込みとでもいうべきもので、ことによったら洗脳であるとかMCであるとか、そういった厄介なことに近い場合すらあるのだと思います。しかし「熱血教師」的なものは、自己の正当性を確信しているためにコピーの生産を疑わず、コピー生産が失敗した場合(それは主体性の確立に成功したことかもしれないのに)、教育のやり方が悪かったのだとより暴力装置的傾向を強めることになるでしょう。
 極論すれば、教師は生徒によって乗り越えられたことによって成功することになるわけで、ある意味なんと教師とは報われない職業であることかと歎ぜざるを得なくなりますが(そして少なからぬ人々――教師に限らず――がそのことを意識していないように思われることもまた歎ぜざるを得ないのですが)、しかしそれでも、自分のコピーをつくりだして自己の正しさを確認するというトートロジーに陥るということは厳に戒めねばなりません。結局、教育は被教育者が自らの受けた教育を相対化して認識できて初めて成功したと評価できるのだろう、そう考えます。

 なんだか書いているうちに自己否定のようになってきたので、そろそろ潮時でしょう。
 何かとっかかりとなる機会があれば、また書いてみたいと思います。主体性と関係の深そうな「個性」の問題とか。個人的意見では、「個性」とは無前提に素晴らしいものでもなんでもなく、背負わねばならず逃れられない重荷というか原罪というか、そのようなものに感じています。だからこそ、個性はそれを認めて合理的にマネジメントする以外の方法で対処すると、しばしば労力と成果が不釣合いになるのではないかと思っています。
 まあ、人と違うことがよくあったという個人的経験のせいなのでしょうが。

 ちなみに。
 本連続企画の正式名称(?)は、
「墨東公安委員会家庭教師馘首記念企画~さよなら時給X000円」
です。とほほ。子どもとはまあまあそれなりにやってたんですけどね・・・。中学受験は親がするものだと業界最大手の某塾は言うそうですが、子どもの主体性だってちっとはあったっていいんじゃないか、そう思わずにはいられなかったんですね・・・そう思わないと、中学受験経験者は色々とぐるぐるしてしまうのです。しない人もいるでしょうけど。
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by bokukoui | 2006-04-28 23:55 | 思い付き | Trackback(1) | Comments(6)

またも電波が飛ばない・歴史授業案

 またも無線LANの調子が悪いようですが、或いはパソコン本体のせいなのかどうなのか。
 この分では碌にネットも見られませんが、その方がかえっていいのかもしれません。

 祖母が訪れていたせいなのかどうなのか、普段決して見ることのないみのもんたの番組を昼に見てしまいました。人生相談でした。みのもんたが電話をかけてきた人(割と若いようだ)に説教しています。あんた甘いよとか何とか。
 確かに甘いと思います。何が甘いといって、みのもんたに電話をすることが。
 呆然と画面の前に座っていたら、『ザ・ワイド』なる番組に切り替わり、等身大ひとしくん人形が現れました。ホリエモン保釈どうこうと報じています。みのもんたの毒気にあてられた小生にその内容を理解することはできませんでしたが、ただ脳の一角が、BGMが『MADLAX』のサントラであると主張していました。

 教育についての話のまとめは明日にでも書きます。
 今日は世界史の授業を塾でやるという実践活動をせねばならず、理論と実践を結びつけることの困難さをただひたすら実感し、すっかり眠りこけている女子高生を起こす気力も湧きませんでした。

 今日の授業範囲は魏晋南北朝で、『斉民要術』が出てくるので、そこに載っている水引餅という最古の麺料理の話(文献で作り方が判明する最古の事例)でもしようかと思ったのですが、時間が足りず不完全燃焼に終わってしまいました。この水引餅という麺、作り方が変っていて、うどんやそばのように延ばした生地を切るのではなく、そうめんのように引っ張るのでもなく、スパゲティや冷麺のように押し出すのでもないのです。まず細長くひも状に手で整形し、水に漬けて、指で平たくもんで韮の葉のように伸ばすのだそうです。作り方が原始的なんですね。
 詳しくは、石毛直道『文化麺類学ことはじめ』に実際に作った結果が載っているのでご参照ください。この記述もそこからの引き写しです。麺が好きな人なら読んで損はありません。講談社文庫版もあるようですが、どうもどちらも絶版みたいです。残念。
 ところで、この本には「北斉(550~577)の高帝は『好んで水引麺を食す』と記録されているという」とありますが(p.27、「水引麺」は「水引餅」と同じ)北斉に「高帝」という皇帝はいないようです。「皇帝」の誤植かもしれませんが、この王朝の姓は「高」なので(初代文宣帝の名は高洋)、或いはそこがごっちゃになったのかもしれません。
 実はこの箇所に出典注はついているのですが、中国語文献なので確認できそうにないのです。
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by bokukoui | 2006-04-27 23:59 | 食物 | Trackback | Comments(0)

秋葉原に行ったりメイドの本を買ったり・委員長の小ネタなど

 ここんとこ真面目な記事ばかり書いておりましたので、肩が凝って仕方ありません。
 今日はテキトーに(普通に)書くことと致します。

 所用と所用の間に時間があったので、久方ぶりに(今年初めてだと思う)秋葉原に行って少々買物。「18歳以下立ち入りお断り」の地下の書籍売り場に入ったら、最近ごく一部で話題の『図解 メイド』(新紀元社)を見つけたので(18禁じゃないのに)購入。ついでにきお誠児・加賀美ふみをの持っていない作品も購入。さらについでに初見の作家のも一点購入。この店は見本で内容を見られるのはいいけれど、しかしこの手の漫画は、表紙と著者名とレーベルで購入するか否かを決断するバクチが実は楽しさの少なからぬ部分を占めているような気もするのですが。(さて、小生が行ったこの店はどこでしょう?)
 さらに某アニメのEDを求めて彷徨うもどこにもなし。いくらなんでも天下の秋葉原で売ってない筈がない、としばし考え、アニメではなくJ・POPで探して発見。ややこしい。

 久しぶりに秋葉原に行って、総武線高架下の猥雑な雰囲気を醸し出していた一角が取り払われていたのに少々寂しい思いを抱きました。再開発が進み、雰囲気も些か変わってきているのでしょう。そしてメイドコスプレ喫茶系の店が通りごとにあるのではないかというくらい増えているのに驚き浦島太郎気分。そして、秋葉原に行くたびに、PCゲームのコーナーがどこでも縮小して行っているような気がします。なんだかなあ。
 『A列車で行こう7』は買おうかな、列車が作れるらしいので、阪和やら参急やら湘南やらこしらえてやろうかと思いましたが、『レイルロードタイクーン3』を一年以上ほったらかしている現状に鑑み自制。

  『図解 メイド』はまださっと目を通しただけですが、「図解」というからオスプレイみたいに画像資料一杯なのかと期待したらそうでもないみたいです(柏書房の小池滋編『ヴィクトリアン・パンチ』は参考文献になかったですね)。参考書みたいな感じでしたね。巻末の参考文献を見て、この夏に訳出しようかと思っている洋書(大学で発掘した)が挙げられていないので、ニッチ産業はまだいける、とほっとしました(笑)。

 以上のような小生の半日を綴ってもあまり読者の方の興を惹きそうにないので、数日前に見かけた「いいんちょ」関連かもしれない? 話を備忘までに記しておきます。
 数日前、夕刻の下り電車の中で、紺色に黒いライン入り、赤で錨のマークが入ったセーラー服を着た女の子が乗っていました。制服からすると雙葉の冬服のように思いますが、違うかもしれません。
 さて、その子の制服にはバッジが襟元に二つついていたのですが、一つは学校のマークのようで(よく見えなかったが、どうも雙葉の校章と違うような・・・)、それは別にいいのですが、もう一個のバッジには、黄色の地にゴシック体の漢字で太くこう記されていました。
 「保健」
 ・・・保健委員長なのかなあ、やっぱ。保健委員になっただけでバッジが支給されるとも思えない・・・いや私学ならそれもあるのか・・・。
 謎です。情報求む。
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by bokukoui | 2006-04-26 23:58 | 制服・メイド | Trackback | Comments(3)

日本社会と鉄道についてぐだぐだと思う

 連日教育話も疲れるので、本日は鉄道の話を。
 とはいえ今日鉄道の話をするのはそれはそれで重くなりそうですが。

 今日は尼崎の事故から一年ということで、事故の後JR西日本は如何なる対応をしたのか、ダイヤに「ゆとり」は生まれたのかということがマスコミによって検証されていました。どうも必ずしも余裕時間はあまり増えていない箇所もあるようで、それに対する批判の声も上がっているようです。
 一方で関東ではJR東日本が、自社開発の工法に何か問題でもあったのか、山手線の線路を隆起させて運休という不祥事を引き起こし、顰蹙を買っていました。同じような事件は前にも起きていたらしく、それへの批判と共に、列車の遅れの被害を被った乗客の怨嗟の声がマスコミで紹介されていました。

 ここで西では安全のための余裕が足りないといい、東では電車の遅れに敏感に文句をつける、という大衆の行動(やそれを無批判に報じるマスコミ)を、自分勝手なものだと批判するのは容易ですが、それだけでは芸がないので、やはりこの事態は日本社会に厳密に定時で運行する電鉄というシステムが深く深く根付いているということを無意識的にあらわしているのだなあ、と考えるのが適当であろうかと思います。
 考えるに、日本の都市は極めて効率の良い電鉄という輸送機関を中心に発展してきたわけですが、このシステムは満員電車という形で通勤通学者に肉体的・精神的負担を転嫁することで、都市インフラの整備にかけるコストを低下せしめてきたのではないかと思います(しかもその整備コストの少なからぬ部分は電鉄事業者の費用負担で行われました)。このことは、電鉄中心に都市圏が形成されながら、やがて自動車にすっかり取って代わられたアメリカの都市なんかと比較すると、何か日本の特質が見出されるのではないかと妄想しています。もしかすると日本の場合、都市で節約できた公共投資を、その分地方に均霑するという効果さえあったのかもしれません。まあこれ以上は土木に詳しい方にお任せしますが。
 しかしそういった状況も次第に曲がり角に来ているわけで、電鉄界の古豪阪神と、電鉄業の範囲を拡張した阪急の提携という話が出るのもその象徴なのでしょうな。で、村上ファンドは本当に株を売るのかな?

 あまり関係ありませんが、先日夕方から町田にバイトで出かけた折、町田駅の新宿よりの踏切でえらく待たされました。ちょうど下り線の場内信号機(だろう、多分)が見えるので、暇つぶしに観察していたら、停止(赤)と注意(黄)しか点燈しないという状況で、通る電車は皆ノロノロ運転でした(まあほとんどの列車は町田に停車しますが)。あれは何かダイヤに問題があるような。過密ダイヤとかゆとりダイヤとかとは別に、うまいダイヤと下手なダイヤはあるわけで。

 追記。明日は早いのでコメントへの返信は今しばしお待ちを。ありがたく読ませていただいておりますので。
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by bokukoui | 2006-04-25 23:47 | 鉄道(時事関係) | Trackback | Comments(3)

当てもなく教育について語ろうとする・もっと続きで教科書問題など

 昨日の記事はあまりにもグダグダだったので、まず論点の整理を行うことにします。
 教育をめぐる最近の言説に関し、小生が些かの疑問を抱いている点は以下のようにまとめられます。

(1)教育は往々にして、教育者が被教育者に対し自己の信念を押し付けることになるという問題があり、しかもそのような傾向は「熱血」として肯定的に評価される場合が少なくない
(2)上記のような状況を生む原因は、教育というものが素晴らしいことと評価されており、教育に関る者もしばしばそれを信じて自己陶酔・自己絶対の傾向に陥るからではないか
(3)しかし、教育の効果はどれほどのものなのか、慎重に検討する必要があり、その上で冷静な教育への評価を行うのが望ましいのではないか

 グダグダでしたが、一応昨日触れた論点は(1)と(2)の一部のつもりです。
 (2)の方はあまりはっきり触れてはいないのですが、ここで改めて記せば、教育の場で「熱血」のような振る舞いが許容されるのは、教育という営為が素晴らしいことであるという強い確信に裏打ちされているからであろうと思われます。このことも昨日の記事同様、『ニートって言うな!』第2部の第4~5節などで触れられていますが、教育というものの価値が極めて高く評価されているため、それに携わる教育者の中に、被教育者に対し抑圧的な行動に出る自分に疑念を抱かない、そのような状況を惹起せしめているのではないかと思うのです。そして、自分が抑圧している被教育者に対し、「お前のためにやっているのだ」と主張して省みないという事態が生じることになるでしょう。
 もちろんこういった事態は教育界に限られたわけではなく、社会の各分野でまま見られるものですが、特に教育は発生率が高くなりやすいのではないかと思うのです。
(全然余談ですが、時々いる「イタい軍事マニア」というのもこの一類型ですな。自分は軍事・安全保障という世界の重大問題に関心を持っている、だから自分はそこらのDQNよりエラいんだ! みたいな連中。ねえM氏、思い当たる人いるでしょう?) 

 さて、ここからが今日の本題です。論点(3)へと議論を話を進めようと思うのですが、この題材には歴史教科書をめぐる話題なんかが好適だろうと思いますので、これを例にして話を進めて行きましょう。
 歴史教科書問題で、左右どちらの勢力に対しても小生が抱いた疑問点は、教科書というものにどれだけの実効があるのか、ということです。もちろん国際間の政治的な対立争点としての有効性ではなく、その教科書を使って学ぶ生徒に対して、です。
 社会科という科目の哀しい位置付けからして(苦笑)、教科書をめぐって議論する右や左の旦那様方がその議論の中で力説されるほど、みんなそんなに教科書の内容に直接に影響されるのかなあ? もっと言えば、そこまで真面目に聞いている生徒はどこまでいるのか、というのが率直な疑問です。殊に社会科というのは、生徒に意欲があればあるほど、教師に力量があればあるほど、教科書を使わないという傾向が多分にあるように思われます。受験対策という意味合いもありますが。
 結局、生徒が一番真面目に教科書を読むのは受験というインセンティヴがあるときになるわけで(それでも上記のように他の教材に頼る場合も少なくない)、都立の中高一貫高校として話題となった白鴎高校付属中学校で扶桑社の件の教科書が採択された時に反対運動が起こった理由には、受験で使えそうにない教科書を使ったら中高一貫で進学実績を挙げるという大目標に反するのではないか、という懸念があったのではないかと思います。こういう問題を無視して教科書を政治的に論じても、結局それは運動のための運動にしかならないのではないかなあ、と思います(反対派も含めて)。

 扶桑社の件の教科書は中学生向けだったと思いますが、受験の華(?)である高校生向け歴史分野教科書で圧倒的シェアを誇っている(半分以上)のは山川出版社で、小生はある時山川出版社の方に何でそんなシェアを獲得しているのかをお伺いしたことがあります。そのときの答えは、一つには古くから(戦後国定教科書制度がなくなったときから)ずっと作りつづけているという伝統の力、もう一つには様々な副教材などを作成し、教師にも生徒にも山川の関係書籍を使うことで学習しやすいような展開をしているからだ、ということでした。要は需要をしっかりと見据えた企業努力ですな。

 最近新しい歴史教科書を作る会の内紛が伝えられ、西尾幹二氏が追われた(?)ようですが、その原因はといえばどうやら、「保守」といっても色々いて、それを教科書問題を使って幅広く大雑把にまとめた(ここでも「教育」という錦の御旗は大いに効果を発揮したわけです)という点に特徴のあった「作る会」が、「日本会議」みたいな既存の保守の政治勢力に取り込まれてしまい(西尾幹二氏の3月7日付けブログに詳しい。コメントを寄せているいろんな「保守」な人々の声が興味深い)、ついていけなくなった層が分裂した、みたいですね。これって一昔前の「革新」の運動と似た構図の失敗のような。まあ、事の発端の藤岡信勝のやってきたことを考えれば、ある意味なるべくしてなった、そんな気もしますけど・・・

 話がわやくちゃになってきたので再度まとめると、歴史教科書問題では左右どちらも被教育者への教科書(に代表される教育)の効果を自明のものとしているが、果たしてそれは事実なのか、もし効果を発揮するとしたらそれは受験というインセンティヴのなせるものではないか、ということです。
 歴史の話はちと極端な例のようにも思いますが、昨今の教育――ことに『ニートって言うな!』でも触れられているように「ニート」やら「ひきこもり」やらを「再教育」するみたいな話の場合――をめぐる言説については、教育する側の立場の立論ばかり幅を利かせ、それらの「教育」を施せばたちまち事態は解決するような幻想を振りまいているように思われます。しかしそれは教育を受ける側の主体性を無視しているように思われ、しかもそれを無視して「熱血」に被教育者を教え込むことを称える風潮があるように感じられるのです。Lenazo氏ご紹介の事例に出てくるNPO団体などはその最たるものでしょう。
 教育を受ける側の主体性というのは、決して「やる気」の問題ではなく、もっと様々な要因が組み合わさっている問題です。これを「やる気」に一元化してしまうことは、安易な自己責任論同様の誤謬を招くだけでしょう。

 教育には賽の河原の石積みみたいな面があると思うのです。
 そして小生は今日も石を積みに行きます。塾講師バイトという名の。
 この話題、あと一回くらいは書こうと思います。(3)の教育の評価をどうすべきかについて、主体性という方面から。

※追記:その後教科書問題は、横浜を舞台に展開しました。とほほ。
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by bokukoui | 2006-04-24 23:58 | 思い付き | Trackback(1) | Comments(2)

当てもなく教育について語ろうとする・さらに続き「熱血教師」考

 数日来書くといっていた内容です。

 話の取っ掛かりに苦慮していたのですが、渡辺プロデューサーと大学時代のお知り合いであったというLenazo氏が、ブログでこのような記事を書いておられますし、あるいは先日触れた『「ニート」って言うな!』における、佐世保の事件に触発されて製作されたというNHKスペシャル『子どもが見えない』なる番組への批判(pp.147-150、内藤朝雄氏執筆箇所)も手がかりになろうかと思います。少々長くなりますが、後者の記事を一部引用します。
 実際に放映された番組をみて、仰天しました。番組では、相変わらず青少年の凶悪化を自明の前提にし、子どもたちの一般的な傾向と、代表性がゼロに等しい佐世保の殺人事件の衝撃を短絡的に結びつけ、「近頃のおかしくなった子どもたち一般」に対する疑惑と不安を煽っていたからです。
 そして発言者たちの人選というのが、また非常に偏ったもので、犯罪社会学者や統計を知っている人が全く入っていませんでした。
 主要発言者は、一人の作家(重松清氏)を除けば、問題を抱えた青少年に対し「熱血でやっています」という傑出したパフォーマンス(をマス・メディアに売ること)によって「世に出た」著名人たちでした。不安を煽るようなVTRの後で、「それではどうしたらよいか」というトピックに入ると、発言者たちは自分の「いっしょうけんめい」を披露します。製作側は彼らの語りに続けて、美談エピソードをはめ込みます。そして、この傑出した人たちのように「いっしょうけんめい」子どもに接すれば事態はよくなる、というお手本のメッセージが放たれます。もちろん犯罪統計は無視されています。(中略)
 視聴者の側は、傑出人にしかできないことを「こういう風にすればいいのだよ」と示されると、ますます不安感を煽られます。(中略)これはマス・メディアの煽り方の典型的な例だと思います。
 示唆に富む箇所ですが、ここから話を発展させていきましょう。

 今回考えてみたいのは、こういった場面でみられる、いわゆる「熱血」な教育ということについてです。
 「熱血」の定義というのは相当に難しいですが、なるべく最大公約数にまとめれば、自己が正しいことを強く確信し、その自己の抱く理念を他者へ説得するに当たり、論理性よりも感情・情緒を重視した説得行動を行う、ということが、一応の目安にはなろうかと思います。初手から否定的な定義を作っておいてなんですが、このような強い信念を持った人物がその場のイニシアティヴを取り、状況を自らが理想と望む方向へ引っ張っていくことは少なくないように思われますし、ことに「教育」という場においては、教育者はそのような行動を起こしやすい(また引っ張ることが適当だと思われる)立場におかれており、また被教育者は引っ張られやすい(また従っていくべきだと思われる)立場にあるといえ、このような「熱血」状況を惹起させやすい環境であると考えられます。

 「教育」というものが持つ、教育者が被教育者に対し占める地位ゆえの問題点は、前掲『ニートって言うな!』第2部の第4節~第5節辺りで縷説されています。教育という営為については、そのような問題点を認識しつつ、成果を最大化し弊害をなるべく抑えるようにすることが望ましいわけです。しかし、「熱血」的振舞いは、教育の持たざるを得ないそのような問題点を看過してしまうことになります。
 結果として引っ張られたことにより、教育が一定の成果を挙げたように見える状況はありえるでしょう。しかし、このような限界を承知していない「熱血」教育行動は、同時に上掲Lenazo氏ブログに引用されているNPO団体のような弊害(これは流石に極端な例であるとは思われますが)を引き起こす公算もまた大きく、さらに問題なのは、このような弊害を弊害として認識し得なくなってしまう危険性もまた高いということです。それどころか、これが「美談」にすらなってしまうのです。

 このような事態を引き起こす原因として、「熱血」を支える自信(一定はないとそれはそれで困ることはもちろんですが)が自己陶酔・自己絶対化を招くことが考えられ、さらに彼もしくは彼女が場のイニシアティヴを握る能力に長けていると、この自己陶酔・自己絶対にその場にいる他者を巻き込んでしまう、そのようにまとめることができようかと思います。

 相変わらずグダグダで申し訳ない。もうちょっとこのテーマ、続けます。なかなか終わらないな。次はもうちょっとすっきり論理展開させるようにします。
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by bokukoui | 2006-04-23 23:58 | 時事漫言 | Trackback(2) | Comments(3)

今日は法事(でもって余談「委員長の誕生」)

 で多忙だったので、余談だけ短めに。

 一昨日書いたヨタについて、今スペード16氏と電話で密談をしているのですが、そこで一昨日の記事について氏が指摘してくれたコメントに話題が及び、「委員長」は本来「図書委員長」「放送委員長」とか、〇〇委員の長一人をさす言葉で、クラスでまとめ役やらされるのは「クラス委員」であって「委員長」じゃないよなあ~、とか話していたのですが、その時はっと思いついた仮説。
 クラス委員+級長=委員長 
 本来「クラス委員」であるべきところが、「級長」と混交して、クラスの「いいんちょ」になったのではないかと思う次第です。実在しないけど、オタク的萌え世界の中で求められる役回りにぴたりとあてはまった、そんな概念なのでしょうか。
 というわけで、ますます「委員長」の初出が知りたくなったのでした。
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by bokukoui | 2006-04-22 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(0)

電波が飛ばない

 無線LANの話です。あくまでも。

 教育の話はもちろん続けるつもりですが、本日は機材の不調・明日の所用につき予告のみにとどめておきます。ここ数日、当ブログを閲覧される方が急増しているのですが、そんな折に申し訳ありません。
 書きたい教育のテーマは「『熱血教師』を排す」です。
 何をいいたいか、賢明な読者の皆様にはこれだけで大体お分かりであろうと思います。

 コメントの返信も必ず致しますので、もう暫くお待ちください。
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by bokukoui | 2006-04-21 23:59 | 身辺些事 | Trackback | Comments(0)