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「東インド会社」をどうイメージするか

 ちょっとオタク話は中断して横道に逸れます。
 昨日まで三日間、集中的に世界史と地理を教えていました。その授業に対する生徒の感想から思った下らないこと。

 世界史では17世紀~18世紀末のヨーロッパ近代を教えたのですが、その時代のヨーロッパ史だと「東インド会社」というのが幾つも存在します。オランダ、イギリス、フランスの三国のそれが世界史に登場しますが、他にもスウェーデンやデンマークにもあったといいます。世界史の授業では、先に挙げた三国の東インド会社については、設立年代も出てきて、それなりに重要な存在として扱われます。
 で、生徒の感想とは、ある生徒が「東インド会社とはどういうものかよく分かりません」と言うのです。これは教える側としてはまずい話で、やはりきちんとフォローしなければなりません。

 東インド会社関連では、オランダ東インド会社のことを「世界最初の株式会社」と言ったりしますが、しかしその実態は現在イメージされる「会社」とかけ離れているのもまた事実です。会社でありながら同時に軍隊を持って戦争をしたり、植民地の統治機関だったり、また貿易業務に関しては独占的権利を認められているなど、今の会社の活動とは相当に違っています。
 独占ということに関しては、専売公社の存在を辛うじて覚えている世代(笑)にとってはイメージしやすいかもしれませんが、会社が植民地の行政権を持っているというのは、日本の場合それこそ南満洲鉄道を知っていないとイメージしずらいのかもしれません(満鉄初代総裁の後藤新平は、満州の鉄道利権を日本が獲得できるとなった時点ですぐにイギリス東インド会社の調査をしています)。もっともあの会社は軍隊を持ってはいませんでしたが。逆に関東軍が満鉄に介入しようとして、満鉄改組問題という問題を引き起こしていました。

 とそこまで思って、ふと下らないことに思い至りました。
 軍隊(のような暴力装置)を持って、行政を支配して君臨する超巨大企業、と言い換えると、なんだかアニメとかに良く出てきそうな気がしませんか? 具体的には、例えば SoltyRei に出てくるR.U.C.みたいな(微妙に偏った例ですみません)。

 よく漫画・ゲーム・ラノベには「ファンタジー世界」と総称されるような世界設定があります。「剣と魔法の世界」という奴ですね。これも小生小学生の折、太平洋戦争の日本軍の、日本刀を持った斬り込み隊が米軍の火力の前にあえなく斃れる話を読んで、「戦争は火力である」という感想を抱き、また「魔法」に関しては魔女狩りについての本を読んで、「魔法遣いに大切なことは宗教裁判と拷問と火あぶり」という観念を獲得しました(小学生のこととて偏向の程は御寛恕ください)。ので、「剣と魔法の世界」というのにはあまり興味を抱けなくなってしまったのです。
 かかる偏見を持って「ファンタジー世界」を瞥見すると、どうも今ひとつ妙な感じがして、というのも一見ヨーロッパ中世的世界のようでいて、王権は絶対主義的に位置づけられているのではないか、そんなちぐはぐ感を感じたのです(小生はあまり中世には詳しくありませんが)。魔法を除く軍事技術は中世的ですが、一方王権の絶対主義的な強化に近世の軍事技術の発達(イタリア式築城術とか、小銃を持った歩兵とか)が重要な影響をもたらしたというのは、ジェフリー・パーカーの本など読めば明らかな通りですよね。

  『PrincessHoliday』という、人気があったらしいエロゲーがあって、小生はやったことがないのですが、このゲームのキャラクターの抱き枕を、共同出資を募って買って某氏に贈呈したことがあって(この件の顛末は某氏の許可が出ればネット上で公開したい所です。※追記:許可が出たので公開しました。画像資料付きです。こちら)、その際に情報収集の一環としてこのゲームのビジュアルファンブックなるものを借りて読んだことがありました。当の某氏からですが(笑)
 その際、このゲームの世界設定についてスタッフが「ヨーロッパ中世世界を、ゲームの世界をモデルにした」旨が書いてあって、この人たちは「ヨーロッパ中世」をどのように把握したのか極めて疑問に思ったものでした。
 一方で森薫『エマ』の世界を「中世」とか書く人もいて(検索してみよう)、近代の中の近代というべきヴィクトリア朝を捕まえてそりゃないだろう、と苦笑したこともあり、どうも「中世」という言葉は人をひきつけるところでもあるのでしょうか。なら網野善彦の本でも読んでればいいのに。

 話があさっての方向に逸れ始めたので軌道修正すると、物語の舞台設定としてヨーロッパ近世というのは結構使える割に未開拓の分野なのではないか、ということですね。
 軍隊を持った貿易会社、カルト教団が作る植民地、傭兵上がりの白人がアジアに立てた王朝、自分の批判をしたパンフを拵えた印刷業者をぶん殴る首相、ヨーロッパ中から大男を拉致してきて一個連隊編成して悦に入る王様、いろいろおりますな。18世紀ともなれば貴族社会も煮詰まってきていい感じだし、考えてみればサド侯爵もこの時代のお方でした。高山宏の書物など読むと、感興がいろいろと湧いてくるのではないでしょうか。
 でも実際のところは・・・以前評したこんな本みたいになっちゃうのがオチなのでしょうか。中里融司の『北の雷鳴』という三十年戦争ものラノベを、昔戦史研で三十年戦争特集をやった時、誰かが持ち込んだので読んだ覚えがありますが、全く感銘を受ける点がありませんでした。
 しかしまあ、やりようではまだまだ開ける可能性はあると思います。多分。
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by bokukoui | 2006-08-31 23:58 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(4)

先週の話に一区切りつける

 今日こそ何とか、この話題の完結を。
・・・つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々な汚点を見出すよりも、投げ捨てられた襤褸の片にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実がかえって沢山に摘み集められる。
 とりあえず永井荷風を引用して考えの糸口にしようとしてみたり。これは小生のHNに似た言葉が漢字で出せない作品の一節より引用。
 先週の話にコメントをつけると書いてはや一週間。古本屋で買ってきたササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』とか読んで多少考えてみるもそれほど見通しは広がらず。

 ところでもともとのところに立ち返って考えるに、本話題は『ガンダム』を肴に「オタク」文化等と称されるような類のもの(「マニア」とか「サブカル」とか呼ばれるものも大体入りそうな大雑把な意味で)を評価(正当化)するスタンスについて小生が自己の経験に基づいて雑感を述べ、それに何人もの方がコメントをお寄せくださった、特に緒方任意収容所氏はご自身のブログで関連した議論を展開してくださったという経緯を辿ってきました。
 で、結局何が問題かというと、自分の趣味的行動について、それを周囲にいかように説明するか、或いはしないかという問題であろうと思います。そもそもの発端である『ガンダム』について、それが「大人向け」「深い」から、それを見ている自分もまた立派なのである、そのような精神が垣間見えるわけですが、そんな説明をしたがるところに疑問を覚えたわけです。
 その疑問はさらに二つの内容に分析できると考えます。一つは、大人向けである、高尚であるというけれど本当にそうか? という疑問です。これは「軍事」に関しては緒方氏が詳細に論じてくれましたが、一見高度そうな要素(軍事、政治、歴史、哲学、etc.)を取り込んでいるように見えても、その高尚そうな話題に触れていること自体で恰好つけているだけで、その軍事や政治の内容そのものに関心があるわけではないのではないか、ということです。某後輩氏が弟さんの『銀英伝』についてのコメントで脱力されたというのが、大変分かりやすい例だと思います。

 で、一つ目の内容については緒方氏や某後輩氏が触れてくださったので、ここでは二つ目の疑問を中心に考えてみたいと思います。
 二つ目の内容とは、これは22日の記事に spade16氏がコメントしてくださったことと通じるのではないかと思うのですが、自分の趣味について、「大人向け」「高尚」といった根拠で正当化しようということ自体にそもそも意味があるのか? ということです。
 「オタク」といってもいろいろあるわけですが、特撮・怪獣・巨大ロボットだとか、漫画だとかアニメだとかテレビゲームだとかのそれについて考えるに、そもそもそういったものは子供のおもちゃみたいなもので、いい年をした大人が趣味とするにふさわしくないとそもそも見做されていたものでした。鉄道趣味者もやはり「いい年齢をして・・・」といわれるような存在ではありました。
 で、そういった類の趣味を継続している人間が、その趣味にはまっている自分に自信を持つための何らかの理論を構築する際には、自分の趣味を「高尚」であると称する以外にも戦略はあると思うのです。それは、自分の趣味の対象は確かに「子供向け」「荒唐無稽」「悪趣味」である、しかしそういったものを趣味として評価できる自分の価値観というものはスゴイんだぞ! という、いわば選民思想です。この趣味の楽しさは選ばれし者にしか分からないんだ、という考え方ですね。
 選民思想というとどぎつい言い方ですが、もう少し穏健な言い方をすれば「分かる人だけ分かればいい、分からない人は一杯いるだろうがそれは仕方ない」という考え方です。
 第一の内容の方法が、趣味対象への世間のものさしの当てはめ方を批判する方法であるとするならば、この第二の内容の方法は、ものさしの目盛りの振り方を変えてしまうという方法になります。

 最近の「オタク」を好意的に持ち上げて見せる一部の状況や、それを比較的素直に受容してしまうような一部の(あくまで一部のはず)「オタク」と呼ばれるような人々が多少いるように思われ、しかしそういった事態に違和感を感じることがあるのですが、それは自分の趣味を正当化するのに世間の価値観に順応して見せる必要は別に無いのではないかということです。
 もっと言えば、自分の好きなことを追い求めるのが「マニア」やら「オタク」やらの行動原理であって、世間的な評価が欲しければそんなこと最初からやらずに別のことをやった方が合理的ではないかと思うのです。ですから、「オタク」なり「マニア」なりと呼ばれる人々が自己正当化する場合は、第2の内容の方法、つまり選民主義的な発想をするというのが、合理的な説明のように思っていたのです。それは自己を顧みても思い当たるところがあるもので(苦笑)。
 狭義の政治的な運動ではない趣味に関る話ですから、個人的で主観的なこのような解決方法でも構わないと思います。むしろ、世間の承認を求めようとして返って承認しない人々を無闇と批難するようになるよりも、安全な方法かもしれません。

 で、そこら辺から『嫌オタク流』の評価に話を繋げて、Lenazo氏のご意見に小生なりの見解を示したいと思うのですが、流石にもう長すぎるので、以降は次回に回します。
 ああ、結局区切りはつかなかった・・・
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by bokukoui | 2006-08-30 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(0)

忘れていたこと

 本題に入る前に先日書き忘れたことについて。
 猫を食用に供する話を書いた折、種村季弘『食物漫遊記』を引き合いに出したのに、同じ著者の『書物漫遊記』(本としてはこちらの方が古い)にある「猫を食う話」を引き合いに出さなかったのは痛恨の失策であったと自己批判致します。
 にしてもこの2冊、書物について語っていながら食物の話に通じたり、食物をテーマにしながら書物が主役同様に活躍するなど、その作品世界の面白さには改めて感心させられます。(言い訳)

 で、本題は今書いています。
 授業準備に追われ結局書けず。
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by bokukoui | 2006-08-29 23:58 | 身辺些事 | Trackback | Comments(0)

答えの出ない問題

 世界史と地理の授業を連続でするとえらく疲労します。
 そんな授業の合間に、女子高生が世界史の質問があるとの由。彼女が解いてみた問題の答えが納得いかない様子。正誤判定の選択問題で、正解となっている選択肢の内容に疑問を感じたようです。
 それはこんな選択肢でした。

「三十年戦争において、スウェーデン王グスタフ=アドルフはヴァレンシュタイン率いる皇帝軍との戦いに勝利したが、戦死した」

 ああ、リュッツェンの戦い(1632)のことか、と一読して分かりますが、彼女は王様が戦死したのに勝利というのが納得いかない様子です。そこでこの戦いについて簡単に解説し、「王様が戦死したけど、一応戦場に最後まで残っていたのがスウェーデン軍で、ヴァレンシュタイン軍の方が撤退したから、スウェーデン軍の勝利ということになっている」と説明しておきました。
 それで納得はしてくれたようですが、しかしまあ疑問を抱くのも無理はないのであって、これは悪問ということになるのかもしれません。「勝利」の定義次第では、戦略的にはスウェーデンにとって取り返しのつかない痛手だったわけだし(そんなことを言い出せば三十年戦争の「勝利者」はフランスしかいなくなりそうですが)。おまけにそんな細かいところは――戦術的状況に関しても、戦略的状況に関しても――世界史の授業で出てくる範囲をとっくに超えているので、どっちにせよ答えが分からなくても仕方ない、というか、これに疑問を抱いた彼女の感覚の方がまっとうであるとも言えそうです。問題作成者にも、もうちょっと歴史的事件の文脈に沿った出題をして欲しいところではあります(自分で作ったわけじゃないので勝手なこと言ってる)。
 しかし、女子高生に戦況図描いて説明しようとしかけた小生も、この出題者とは別な意味で阿呆でしょうな。「ヴァレンシュタインはテルシオを菱形に配置して、ここが要衝の風車の高地で、スウェーデン軍の騎兵隊には小銃部隊が護衛でついていて・・・」とか説明しなかっただけだいぶ抑えたつもりだったのですが。

 今日はドイツ三十年戦争がちょうど授業範囲で(彼女の質問が重なったのは偶然)、つい余計なことまで話が及びそうになるのをぐっとこらえるのに必死でした(笑)。それでも生徒は「三十年戦争って深いんですね」とか感想書いてくるし。
 しかし基本的な構図を説明しようとすると、補足的な事実をいろいろと並べないと理解してもらえないんじゃないかとつい考えてしまうのでした。

 ところで、Wikipedia日本語版の「リュッツェンの戦い」の項目の参考文献の筆頭には、我が東大戦史研究会OB、というか生涯現役(笑)のサークルなので城郭班最高顧問と申し上げるべき、久保田正志氏執筆の『ハプスブルク家かく戦えり』が挙げられております。読むべき人には読まれて価値も認められているようで、何よりであります。

追記。先日来(加筆予定)で放っておいた8月25日付「続々々地歴教育雑感」を漸く完成させました。これでやっとガンダム系話題の締めくくりに取り掛かれます(苦笑)
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by bokukoui | 2006-08-28 23:58 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(2)

明日から

 世界史と地理の授業につき、準備をせねばならないので本日はあまり書くわけには行きません。
 実際、毎日、昨日のような長い記事を書くほどの気力はありませんので悪しからず。

 ところで昨日の話題を少し引っ張りますと、日経新聞が坂東氏のコラムを載せたことを批判する向きも結構多いようですが、日経新聞のコラムといえば個人的に一番面白いと思っているのは木曜夕刊の東京農大教授・小泉武夫氏の食べ物コラムであります。小泉氏も食べ物に関する書き手として注目に値する人ではありますが、個人的には今ひとつ高く評価しきれない要素があったので、昨日名前を挙げはしなかったのですが。
 とはいえ、小泉氏といえば世界の様々な食べ物や酒を飲み食いした豊富な経験をお持ちで、「鉄の胃袋」の石毛直道氏に対し「ジュラルミンの胃袋」「鋼の胃袋」などと名乗っているようですが(石毛氏の上を行くなら「チタンの胃袋」ぐらいの方がカッコいいと思うけど。デュラルミンはあまり強そうでない)、きっと中国で犬猫の類を食した経験もお持ちではないかと推測されます。
 で、ここで木曜日のコラムで「広東で食った猫はなかなか旨かった。独特の臭みがあるが、その臭みの残る口にアルコール度50度の白酒をコピリンコと流し込むと、これがえもいわれぬ風味に変化し・・・」とか書いたら神だなあとか思ったり。

※その後紆余曲折を経て、墨東公安委員会が白酒を愛飲するようになった経緯は以下の記事を参照→池袋の「中華街」で白酒(中国焼酎)を呑み犬を食う話など

 「個人的には今ひとつ高く評価しきれない要素」とかについてはいつか書きたいとは思いますが、要するに食物を語るにあたって、旨い・栄養が正義という単線的価値観を脱し、なおかつ単純な近代批判・「伝統」文化礼賛的価値観にはまっていないこと、等が判断基準です。割と自国中心的になっちゃったりするんですよね。それを乗り越えた普遍的な面白さに達するのに、単純に健康に良いとか旨いとかの基準に頼らずに書けるかどうか、というところです。

 先日来引っ張っている、ガンダム由来の話題は必ず皆様への返信をつけて記事にしますのでしばしお待ちを。
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by bokukoui | 2006-08-27 23:59 | 食物 | Trackback | Comments(2)

坂東眞砂子氏に提案する猫の「合理的」にして「倫理的」処置法

 今日は当ブログにしては珍しく、世間で最近話題になっている事柄に関連しつつ一筆ものしてみようと思います。表題でお分かりと思いますが、最近話題になっている作家・ 坂東真砂子氏が日経新聞のエッセイで、飼い猫が生んだ子猫を殺していることを書いたことに端を発した話題です。
 ガンダムに端を発した一連の話題は、皆様のありがたいご指摘を多々戴きましたので、もう少し考えて続きを書かせていただきます。

 本件に関しては皆様ご存知とは思いますが、幾つかのニュースサイトにリンクを張っておきましょう。

作家の坂東真砂子氏「猫殺し」に批判殺到
作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る

 拙宅では父親の選択で日経新聞を読んでいるので、小生はこのエッセイは既に読んでおりました。非常に厭味なことを書くようですが、小生が最初に読んだ時の感想は「あ、こんなこと書いたらきっとネットとかで叩かれるだろうな」と思ったのでして、その予想は当たった――いや、想像した以上に祭り状態になっているので、そういう意味では外れたのかもしれませんが――のではあります。坂東氏の行為自体に関しては、そのようなご判断をご自身下されたのでしたらそれは尊重申し上げたいのですが、ただそういったことをメディアで発表されるのは如何なものかとは思います。このメディアリテラシーに関しては重大な問題があるでしょう。
 小生自身、生き物を飼った経験は碌になく、今後もそんなことをしたいとは絶対に思いません。それに伴う責任を負い切れる自信が全くないからです。その点で、自分なりに責任を負う覚悟を示された坂東氏を「尊重申し上げたい」のです。
 で、ネットでも賛否両論・・・というかやはり否定の方がずっと多いようで、中には坂東氏の著作の不買運動を始めたサイトやら、氏の作品を店頭から撤去したと公言する書店員のブログまで出てくる状況です。小生は、作家の作品についてこのような事情でこういった行動をすることが妥当かどうか疑問に思わなくもないのですが、その是非は今は置いておくとします。で、この話題を巡る議論の問題点としては、猫が子を産みまくるという問題に対する解決の処方箋が「不妊手術」という方向で愛猫家業界ではおおむね固まっていらしいので(こちらのブログのコメント欄「あいうえお」氏参照)、それ以外の対応策があまり考えられず(「飼う」では解決にならない)、結局後は倫理的問題を巡る意見のぶつけ合いになって、水掛け論的様相を呈するに至り、うやむやになっていってしまうということではないかと思います。坂東氏は子猫殺しも不妊手術も罪としつつ子猫殺しを選んだ、という立場のようですが、一般的には前者は罪でも後者は違う、という認識の違いがあるので、結局議論に決着はつかないでしょう。
 そこでふと思ったのですが、何か代替的な方法を一つでも提示できれば、もうちょっと実際的な話が出来るかもしれません。

 さてここで、話はがらりと変わります。
 数日前のブログで、石毛直道氏の本を買ったということを書きましたが、小生は石毛氏の書物が好きで、古書店巡りの際に目に付くとよく買っています。石毛氏は、説明するまでもありませんが、著名な民族学者で、特に食文化について多くの著作をものされています。
 衣食住、といいますけど、小生は着る物は nerd 、住んでいる部屋は魔窟、という人間ですが、食う方には人並み程度の関心はあります。そして食べ物に関する本も好きで、古書店で見つけて値段が手ごろならば、石毛氏に限らず結構買っています。
 小生が食物について書いた本に関心を抱くようになったきっかけは、ひとえに種村季弘『食物漫遊記』(小生が持っているのは単行本版)を読んだのがきっかけで(種村季弘の本もこれが初めてだったかも)、これを読んで以降神保町に行くと必ず「いもや」の天どん(小生はこの写真の白山通りの店ではなく、三省堂そば人生劇場裏の店を推奨しますが、その理由をここに述べる紙幅のないのが残念です)を食するようになったというほどの影響を受けましたが(笑)、こうして読んだ食物関連の書物で面白かったといえば『食物漫遊記』の他内田百閒『御馳走帖』、そして石毛氏の書物を挙げたいと思います(その理由をここに述べる紙幅のないのが残念です)。

※追記:人生劇場裏「いもや」のその後については以下の記事をご参照下さい。
 →「神保町の変化 「いもや」グループ再編・中山書店閉店セール」
 →「神保町の「神田天丼家」(旧「天丼いもや」)移転 および天丼の雑談」

 で、数日前に小生は石毛氏の『鉄の胃袋中国漫遊』(平凡社ライブラリー)という本を買って、電車の行き帰りで読んでしまいました。今から20年以上前、文革が終わって四人組が打倒され、改革・開放路線に舵を切り始めた頃の中国を食べ歩いた記録です。頗る面白いので、中華料理の好きな人にとっては一読の価値があるでしょう。
 単行本は1984年に出版されましたが、平凡社ライブラリー版は1996年に再版されたものです。再版に当たって石毛氏は、
 その後の中国の変化はすさまじい。そこで、本書の記述には、現状にそぐわない点もある。わずか十年のうちに、中国の食生活の変動期における一断面をスケッチした、歴史的な記録として、読んでもらわなければならないことになったのである。
 ただし、変化したのは食生活をとりまく制度的側面であり、この本の主人公である食べ物に変わりはない。
(同書p.343)
 と述べておられます。しかしそれからさらに十年、中国はすさまじく変化し続けていますので、或いは食べ物にも変化が生じている可能性もあります。
 そう、少なくとも一つ、はっきりと変化してしまったことが明白なことがあるのです。それは本書で石毛氏が広州の清平路自由市場というところを訪れるくだりです。中国でも「食は広州にあり」といわれる広東人は、「四本足で食べないのはテーブルと椅子だけ」といわれるそうですが、それだけに実に様々な動物がこの市場では売られていたのです。
 野生生物で売られている代表的なものが菓子狸、つまりハクビシンで、結構な高級食材のようでした。一方犬も食用で売られており、そしてなんと猫も売っていたのだそうです。値段が載っていて、1斤(500グラム)あたりハクビシンは8元、牛が3元、豚赤身2.5元、猫2元、犬1.8元だそうで、実は犬猫は庶民向け安食材(昔の日本で言えば馬肉みたいなものか?)だったようです。
 皆様ご承知の通り、数年前SARSが流行した際、ハクビシンを食用にしていてウィルスが伝染したのがその原因とされ、今ではハクビシンの食用は禁止されてしまいました。その状況を伝えたニュースをこちらにご紹介して置きますが、このニュースで気になるのは末尾の市の当局が「市民に対し「文明的な食習慣」を身に付け、ハクビシンなどの野生動物を食さないよう呼びかけている」というくだりです。韓国でもソウルオリンピックをきっかけに犬を食べることが批判されるようになったといいますが(こちら参照)、ならば中国でも北京オリンピックをきっかけに、犬や猫を食わないように当局が圧力をかける、ということはありそうです。うーむ・・・。

 話を戻して、石毛氏の書物には写真が多いのが特徴なのですが(しかも全部カラー)、この清平路自由市場関連でも数葉の写真が掲載されています。同書から猫に関する写真を引用したいと思います(p.272)。スキャナがないのでデジカメで撮っており、お見苦しいのはご容赦を。

(以下猫の死体写真あり)
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by bokukoui | 2006-08-26 23:58 | 食物 | Trackback(1) | Comments(3)

続々々地歴教育雑感

 ようやっとこの話題の続きです。

 書いた当人も忘れかかっているのでこれまで書いたことをまとめなおすと、
1.カマヤン氏は、受験生は近現代史を学んではいるが断片的であるため、理解できていない、と指摘。
2.しかしながら、それは近現代史に限らず歴史教育全般の問題と思われる。
3.その背景には、結局受験対策で教えていることがあるのではないか。
 こんなことを書いていたらしいです。

 いきなり話は横道に逸れますが、本日小生は某予備校(※らくたさんとは関係ないところです)の研修に行く羽目になりました。就業前研修のはずがとっくの昔に仕事は終わっているのに(また引き受けるかもしれないが)、なぜか事後的に研修。
 で、その某予備校のシステムを説明されたのですが(どこか分かっても差し支えるのでわざと曖昧に書きますが)、要するにそのシステムとは、細かく段階を区切ることで、一つづつ段階をクリアするという「成功経験」を積み重ねることで自信にと繋げ、そして自信を得ることで努力を自らするように仕向け、かくてステップを踏むことで合格に達する、となっていました。そして、教務担当者が始終面談して、合格に至るステップの踏み具合を適切に指導してくれるそうです。
 こういうシステムは最近流行りなのでしょうか。電車の中で「教師と教務と先生が二人ついて、55段階制で細かに指導」なんて塾の宣伝を見たこともあるし、また小生がもう一つ主にバイトしている塾のシステムも、様々な段階の教材を作成し生徒の進捗状況に合わせて柔軟かつ多様に対応できる、という点では類似した発想のように思われます。

 今日行った予備校は、そのシステムで合格実績などの面で成果を挙げているようです。確かに、個別の生徒のレベルに合わせて柔軟な対応が出来るというのはよさそうなことです。また、細かなステップに区切って一つ一つ達成させることで自信をつけ、そのステップを積み重ねることで目標に到達する(途中で問題があったらそのステップを反復する)というのもよさげな感じがします。
 ですが、ここで敢えて疑問を呈するならば、そうやって学ぶべき対象の科目をバラバラに細切れにしてしまい、その断片を煉瓦のように積み重ねていけば完成する、という発想自体が、これまで二回の記事で書いてきたような知識の断片化をより促進しているようにも思われるのです。
 さらに言えば、このようなステップをどのように踏んでいくか、つまり断片をいかように集積していくかという過程自体は、このシステムではもっぱら予備校側がお膳立てしているため、生徒が自分で学ぶべき対象全体の構造を把握する機会が損なわれているのではないか、そのようにも感じるのです。

 その予備校の研修では、成功体験を身につけることで(それには細分化したステップを一つ一つクリアすることで成功の喜びが身に付くと言いたいらしい)、「努力」をするようになることが、受験勉強の意味であると主張していました。然るに、どうもどのように「努力」するのかということは慮外に置かれているようです。もう少し丁寧に言えば、自分の持っている資源と状況と、自分の持っている目標とを照合して、もっとも適切な自らの行動を決める、そのような判断のプロセスは、ここでは塾側が受け持ってしまっているようです。
 しかし、受験勉強の意義として、ただ「努力」して成功しましたバンザーイ、なんてのだけではなくて、より高度なマネジメント的なものもまたその成果に含まれるのではないか、むしろその方が大きいのではないか、そのように思います。
 なお、この受験勉強の意義=マネジメント能力養成説は、当ブログコメンテーター・緒方氏のご提唱の説をまんま引き写したものであることを書き添えておきます(笑)

 さらに、教える側からしてもこのようなステップ方式にはある種の問題があるように思われます。それは、結局対象となる学問を細分化してしまっているため、その科目の総合的な体系――歴史教育の場合なら、大雑把な流れや見取り図を示すことが含まれるかと思いますが――を教える機会が少なくなってしまうということです。それは学校の担当だ、受験産業である予備校は断片化した受験知識の蓄積を教えればそれでいいんだ、という開き直りはあるでしょうが、実は大局的な視野なくして断片ばかり学ぶことの効率の悪さは、受験の成功という短期目標に照らしての不合理さすらあるのではないかと小生は疑っています。ついでに、この予備校は、事業の目的は「自立した人材を育成すること」とかなんとか謳っていたようですが、やはり精神的自立にはある程度の一貫性を持った価値観を涵養することも必要なように思われます。
 小生が世界史や地理を教えている塾も、ある程度そのような問題はなくもないでしょうが、幸い? というのか地歴は講師の裁量が大きいので、まあそれなりに好きなようにやらせてもらっています。もっともその分負担は給料の割りに重いですが(苦笑)

 中括を差し挟みます。
 近代史に限らず、そして歴史に限らず、受験の影響で勉強が断片の記憶になってしまっている傾向はあると思われます。特に、全体が大きな流れになっていて個別に切り出すのが難しいという点で、歴史、ことに複雑に諸要素が絡み合って現在の社会状況にまで関っている近現代史は、その弊害が強く現れているということは言えるのではないかと思います。
 そして、断片化した知識ばかり集積されているということは、それを文脈に当てはめて解釈することが出来ず、ただ一問一答形式で切り返すことにしか使えないということです。こういった思考パターンに陥ってしまった人の議論は、ネットでしばしば見られるように、この話題といえばアレ、というお約束のテンプレばかり貼り付けて事足れりとしてしまうものになる危険性があるのではないかと思います。

 そんなことを考えるに至ったのには、以下のような事情も預かっております。 
 そもそもこの話題を始めるきっかけとなったカマヤン氏のブログの記事は、「はてな」というシステムであるため「はてなブックマーク」という機能がついており、こちらのページに見られるように、7人の人がブックマークをつけています。このカマヤン氏の記事を面白いと思ってブックマークをつけた人が、同時にブックマークをつけた記事を芋づる式に手繰って見ていくと、いろいろと興味深い記事に突き当たっていきます。

 一つ、kechackさんという方のつけたブックマークを拝見してみましょう。すると靖国問題など、歴史認識に関する記事が幾つか集積されていてなかなか興味深いです。こういったブックマークを作成される方のヴァイタリティにはいつも感心させられます(小生はズボラなたちなので)。で、カマヤン氏へのブックマークのずっと下に、kechack氏が「おめでたいほど歴史修正史観に洗脳されている」とコメントされたブックマークが見つかります。
 このブックマーク先を辿ると、なるほどkechack氏がそのような感想を抱くのもむべなるかなというブログ記事にぶつかります。しかし小生は、この記事自体の歴史的事実把握の誤りを云々したいのではありません(一つだけ指摘しておくとすれば、「青ヘル」は解放派であって革マル派じゃないよ、という点でしょう)。このブログを書かれたkaede0220さんという方はどうも現役受験生、とは高校生でおられるようです。そして靖国に関し熱弁を振るわれた前後の日記を拝読すると、8月10日には「勉強やっても覚えられねぇ。英語は単語熟語が覚えられないし、数学は基本は出来ても応用になるとからっきしダメ。古典漢文も同じ。世界史なんてもっと酷い。」、8月23日には「世界史も教科書3週+問題集2週したけど、全く分からないよママン。・゚・(ノД`)・゚・。」と書かれております。

 靖国問題について一筆物するほどの気概があるのに世界史が出来ない、このようにkaede0220氏が書いていることに小生は最初疑問を感じました。靖国であれなんであれ、興味を抱くきっかけがあって取り付けば、あとは流れを辿っていくことで世界史や日本史の理解は自然と深まっていくはずで、そうすればもはや歴史の勉強は苦行でもなんでもなく、それこそアニメを見てキャラを覚えるように身につけられると思ったのです。小生自身そうでしたから。
 しかし、これまで考えてきたことを手がかりにすれば、おそらく解答は見えてくるように思います。断片的知識の蓄積=勉強という状況に慣れきってしまったがために、断片知識をただ集積するだけで、それを自分なりに咀嚼して体系化し直し把握する訓練を受けておらず、それが世界史の学習を困難にしているのであろうと。そして恐らくは他の科目も。
 冗語を承知で付記すれば、そのように断片的な知識の取得・活用状況が、kaede0220氏をして靖国問題に関し該当記事のような見解を書かしめたのだ、ということも想定できるでしょう。そしてそのような状況は、ネット上などで比較的広汎に見出されるものであろうと思います。

 あまりに長くなり、しかもあまり上品ではない引用の仕方を多々してしまいましたが、それでも一応何がしかの展望を提示しておきます。
 歴史教育に関する問題は(他の科目については経験・知識が乏しいので、歴史教育に話を限らせていただきますが)、自虐史観云々以前に、知識の断片化というもっと重要な問題があるということです。それではこれを解消するにはどうすればよいでしょうか。大局的視点を養うような優れた著作を読むというのも一案です。しかし受身だけでは自分で咀嚼し直すことは難しいようにも思われます。
 いっそ逆に、一点でいいから具体的な実際の歴史史料に触れ、それを介して歴史というものについて考えるという方法はどうかだろうかと思います。大学でやるような「史学」を、プリミティヴな形であれ体験することで、教科書を暗記するつまらない科目、という生徒の思い込みを打破することが出来るかもしれません。
 もっともそれは学校や、いっそ大学のオープンキャンパスででもするのに適したことで、予備校の講師が云々できる方法ではありませんが。
 やっぱ合宿して "History of the World" をやるのが、最善とはいえぬまでもかなり有効な方法ではないか、と思ってみたりもするのですが、しかしこんなゲームを喜ぶ人間なら最初から苦労はしないわな。
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by bokukoui | 2006-08-25 23:57 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(4)

一昨日の続き

f0030574_2354588.jpg 教育の話の続きを書こうと思いつつも、なかなか重いテーマなので、先にこちらの話題の続きを書かせていただきます。歴史教育問題は明日こそ(←もう何日言ってるんだ)

 で、一昨日書いた記事には随分と多くの反響を戴きまして、まことに有難いことでございます。特に緒方氏がこちらで小生の疑問にお応えくださっているのは欣快の至りであります。
 にしても、何となく自分が『げんしけん』のハラグーロみたいな、えらそうなこと言いたがりの人間のようにも思われてくるのであります。自戒の意を込めて『げんしけん』1巻より左の引用をば。

 さて、上掲緒方氏のご説を、乱暴ではありますが小生が要約させていただきますと、軍事というものに馴染みがないから、ちょっとでも軍事的な要素があるとすぐ「軍オタ」というレッテルを張ってしまう、だから「軍オタ」が多く見えるだけではないか、そのようなことと思われます。
 これは納得できるご指摘で、「一般的」な趣味様の事柄と比べると、ちょっとでも詳しいように見えただけですぐ「軍オタ」認定されてしまうとは言えそうですね。宮崎アニメを全部見たからといって「アニメオタク」「映画マニア」と認定されることはありません。でも、空を飛ぶ飛行機のシルエットを見て「あ、P3C」とでも呟けばかなりの可能性で「軍オタ」認定されるような。

 蛇足を承知で若干の補足を試みます。「アニメオタク」の人々にとって、見慣れたアニメ世界に見慣れない「軍事」という要素が入ってきた時、この見慣れない要素を排除するのではなく、それに彼らが惹かれ、結果として木尾士目をして斑目のごときキャラクター造形(軍事オタクっぽい言動をしたがるガンダムオタク)をするに至らしめたのか、その点はちょっと検討に値するかと思います。
 やはり何か、軍事的なものに彼らを惹きつける要素があったのでしょう。それはある意味、「遠い世界」のものであったが故に、彼らの憧れをそそってしまったのではないか、そう考えられるのではないかと思います。だから、現在の世界を構成している政治的・地政学的・歴史的要素と関連付けて軍事を考える人々とは、そもそも軍事へのアプローチへのスタンスが全く異なってしまっているのでしょう。
 一つ比喩を使っての説明を試みます。ガンダムを一皿の料理に例えると、軍事はそれにかけられたスパイスのようなものだったのでしょう。ちょうど中世ヨーロッパ人にとってスパイスが見知らぬ東洋世界の象徴であったがために高い価値がつけられたように、ガンダムオタクも見知らぬ不思議な要素である軍事に憧れ、それにコミットすることで満足感を得ていたのではないでしょうか。
 そこへインド人(緒方氏)がやってきて、自分が毎日主食にしているカレーのスパイスを、変な具合に崇めたてて、珍妙な(インド人から見て)料理をこしらえているのを見れば、海原雄山の如く「人の食うものではない!」と怒り呆れるという自体も生じるのではないかと思います。
 でもガンダムオタクの方が人数が多かったもので、カレーはいつの間にかイギリス式の方がメインになってしまったのでした。

 かえって分かりにくくなったみたいですみません。
 続きを、一昨日の記事へのコメントの返信も含め、次回の記事で書きますので、しばしお待ちを。

 余談。
 小生のさっきの食事:インド人が経営する食堂でマトンカレー+ナンを食す
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by bokukoui | 2006-08-24 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(10)

本日休業

 地理の臨時授業終了。
 帰途高原書店(現在2割引セール中)に寄り道して散財。お蔭で帰りの電車賃が不足し、本の束を抱えたまま銀行を探してさ迷い歩きました。そんなこんなでえらく草臥れましたので、本日の更新はお休みとさせていただきます。地歴教育の話は明日にでも。
 昨日のバカ記事にも多くのご意見を頂き恐縮です。これもまた、場合によっては別記事を立てて対応させていただきます。

 高原書店セールの戦果。
・R.P.マルソープ『塩の世界史』平凡社
・前田愛『成島柳北』朝日新聞社
・石毛直道『食卓文明論』中央公論新社
・樺山紘一『西洋学事始』日本評論社
・黒岩俊郎編『金属の文化史』アグネ
・大隈三好『切腹の歴史』雄山閣
・勝鹿北星/浦沢直樹『MASTERキートン』
(13巻まで揃った)

 あー、10年ぶりくらいだけども、今読んでもやはりキートンは面白いなー。
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by bokukoui | 2006-08-23 23:59 | 書物 | Trackback | Comments(2)

私はなぜ巨大ロボットを蔑視し電車を愛するようになったか

 昨日の話(といっても実際のところ大部分は今日書いていたのですが)の続きは、教育の実践、つまり急遽入ったバイトの地理の授業の準備で忙しいので小休止。明日にでも。

 今日はその急遽入った地理の授業のために塾に行っていたわけですが、そこで授業時間の間の休憩時間に某講師と生徒がなにやら会話をしていました。講師曰く、
「ガンダムは大人が鑑賞するだけのことのある素晴らしいアニメだ、世界観が濃く、背景設定が深い」とか何とか生徒に向かって教示しています。生徒もそれなりに感心して聞いているようです。その講師は、見た目は頗る現代的な「イケメン」青年なので、小生はほほうとそれなりに面白く思いつつも、また同時に『嫌オタク流』「人生に必要なことを全部『ガンダム』で学ぶバカ」という一節を思い出してみたり。
更科 前に会社勤めをしていた時に、呑みの席で、いい歳をした同僚が新人をつかまえて説教を始めたんですよ。「おまえは一年戦争を知っているのか!」って。で、何を言ってるんだと思ったら『ガンダム』の話なんですよ。「おまえは『ガンダム』の一年戦争を知らないだろう、おまえはどうせ『スーパーロボット大戦』でしかガンダムを知らないだろう」みたいな説教を一時間ぐらいネチネチと。
高橋 そんなこと、どうだっていいじゃん!
中原 一時間もよくネタが続くなあ。
更科 『ガンダム』だったら何時間でも話せるんです。高度経済成長期の日本の会社で、上司が太平洋戦争の思い出話で若手社員をやりこめていたのと一緒ですよ。『ガンダム』がオタクにとっての太平洋戦争みたいなことになっているんです。
                          (同書pp.170-171)
更科 オタクに軍オタが多いのは、『ガンダム』のせいですよ。オタクには『ガンダム』が刷り込まれている。『ガンダム』は第二次世界大戦の対立構造、連合軍対ナチスを下敷きにした作品だからやっぱり一番ウケが良くて、その後、ベトナム戦争をモチーフにした『ボトムズ』という作品もあるんだけど、それだとマニア人気止まりなんですね。(中略)
高橋 でも、それならベトナム戦争とか第二次世界大戦のドキュメンタリーを観た方が絶対面白いんじゃないんですか。
更科 面白いですよ。戦争映画の方がずっと面白い。
                              (同書p.173)
 全く個人的な話で恐縮ですが、小生幼稚園年少の砌、入院して手術を受けたことがありました。その頃から『鉄道』図鑑を愛読していた小生に対し、入院・手術という大事への励ましというのか、父が玩具を買ってくれました。それが「トレインロボ」というタカラの合体変形ロボットもので(こちら参照)、当時それなりに流行っていたようです。
 ところで入院当時の小生の病室は大部屋で、その科の特質上入院患者には老人が多かったのですが、小生の隣もそうでした。そのご老人が、小生にNゲージの貨車を2輌くれたのです。病室で小生はそれを使って遊んでいたものでした。KATO(関水金属)のスニ40とコキ5500であったかと思います。
 さて退院後、貨車だけでは遊べないと小生は親に線路と機関車をねだりました。ここで親が「鉄道模型かファミコンか、どっちかだけ買うよ」と言ったそうで、その時に鉄道模型を選択したのが我が人生の重要な分岐点だったような気もします(笑)。何せ今に至るまで、ゲームボーイ一台といえども、コンシューマーのゲーム機を何一つ所有したことがないので。
 で、買ってもらった模型の機関車がEF65PF、つまりトレインロボのそれと同じのでしたので、当時幼稚園年少の小生は両者をとくと見比べ(トレインロボも縮尺はNゲージに合わせている)、子供向けの手に持って遊ぶことが前提のトレインロボと、鉄道模型とでは製品の精度が著しく異なっている、ということを認識しました。当たり前ですが。
 ある程度大人なら、玩具の性格の違いを踏まえて、精度が違うからどうこうというのではない、それぞれにそれぞれの楽しさがある、と思えるのですが、幼稚園児にそんな理屈は通用しません。それまでにどうもロボットアニメ系の素養よりも小学館の学習図鑑的素養の方がはるかに多かったと思しき幼稚園児の小生は、ここで一つのテーゼを打ち立ててしまったのです。

 鉄道模型=リアル、現実に忠実=高度
 トレインロボ=玩具的、架空=低レベル
 ∴(鉄道模型のような)現実>(トレインロボのような)架空


 この偏見は、中高以降の多くの友人との出会いや知見の積み重ねで大いに修正はされてきているのですが、しかし幼稚園児の信念だけに「三つ子の魂百まで」なので、どこか今でも小生の心の中にそれが巣食っているようなところがあることは、否定できないと言わざるを得ません。
 技術的背景を欠いた「巨大ロボット」に魅力を感じたことが小生は一度もないのです。もっといえば、どうも巨大ロボットを鑑賞する能力自体が欠如しているようです。見分けつかないんだもん。

 ところでここで斎藤環氏(氏を「タマ兄」と呼ぶことを提唱したいのですが賛同者が集まらず残念)の『戦闘美少女の精神分析』をひもとくに、氏の「おたく」の定義の第一項に「虚構コンテクストに親和性が高い人(p.30)」とか書いてあります。
 小生はしたがって、根本的にオタクではありえないということになります。まあ、自明のことですね・・・石を投げないでください。

※コメント返信は次回以降の記事をご参照ください。
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by bokukoui | 2006-08-22 23:58 | 出来事 | Trackback | Comments(6)