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今日の東急デハ5001号の状況(25)

 すっかり翌日更新が定着してしまいつつあるようなこの企画、2月最後の調査です。

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by bokukoui | 2007-02-28 23:59 | [特設]東急デハ5001号問題

池袋点景~エロ方面の雑彙

 今日は所用で池袋に久方ぶりに立ち寄りました。で、帰宅が遅くなったため更新が遅れております。
 所用の方とはある会合なのですが、重要な機密事項なので当分の間は伏せておきます。ですがその一端を明かせば、自衛隊の某小隊に著名な美少女ゲーム『kanon』(※全年齢版)を持ち込んだ徒輩がおり、その結果、該小隊でそのゲームが大流行し、主人公?の美少女キャラクターの口癖「うぐぅ」が隊内で大流行して「うぐぅ小隊」と仇名が付いた、とか。
 ・・・護憲への誓いをまた新たにしました。

 久方ぶりに池袋に行ったので、書店を幾つかはしごしました。
 数日前にブログで書きましたが、ナヲコ先生が挿絵を描かれたJ・さいろー氏の『Sweet Sweet Sister』が再版、さいろー氏の新作が同じレーベルで発売、というので、それを買うのが目的の一つでした。ちなみに新作『クラスメイト』を手に取った第一印象、「薄い」。ってまあ、『SSS』が異常なくらい厚かったという方が正確なのでしょうが。ちょうど半分というところです。
 で、「とらのあな」でレジに並んでいたら、前の客が矢鱈と手間取っています。彼は二次元ドリームノベルズの類を一山買っていましたが、よく見ると『SSS』『クラスメイト』を同時に求めていました。売れているようで結構なことです。
 なお、『SSS』についていた帯は、どうも昔のそれと同じものだったようです。

 本日はその外に、『エロマンガ・スタディーズ』を読んで面白そうだと思った月野定規作品、『LO』誌をたまたま読んで、その画風にナヲコ先生の影響があるんじゃないか?と思った宮内由香作品などを購入。なんかそっち方向に偏ってますね。
 エロスタといえば早くも著者・永山薫氏によるイヴェント第2弾が企画との由。前回は行けなかったので、今回はなんとしても。3月25日だそうです。

 そんなこんなで色々と散財しました。行きがけに車中で読んでいた高橋亀吉『経済学の実際知識』を読み終えてしまったので、帰りは今日買った蛭児神建(元)『出家日記 ある「おたく」の生涯』なぞ読んでおりました(自作の『エロマンガ・スタディーズ』の索引につけた蛭児神氏の名前を間違えていたことに気付いたので、あとで訂正せねば)。まだ半分しか読んでいませんが、なかなかに興味深い本です。ただ、なんと言いますか、おそらくはもっと複雑怪奇な状況であろうことを、敢えて?単純化して書いて、なおかつ道化役を演じて韜晦して見せることでその単純化を巧みに隠蔽しているような、そんな印象(判りにくいな)を受けてしまいます。ついついどんな本でも史料として使えないかと思ってしまう、そんな小生の性癖故のことなのかもしれませんが。
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by bokukoui | 2007-02-28 23:58 | 書物

スタインベック生誕105周年記念企画・自動車と恋愛資本主義

 昨日の続きかも知れない話です。

 小生の母はその昔河出書房の世界文学全集など集めていて、現在それは拙宅に置かれています。小生もパール・バックやポーやスタンダールやディケンズなど、何巻かは読んだものでした。パール・バックの『大地』は母が面白いと一押ししていたものです。個人的感想としては、最初は面白いけれど段々辛くなってくる(特に第3部)のですが、それはともかく、逆にもっともつまらなくて読み通せなかったと母が述懐していたのが、ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』でありました。スタインベックはノーベル文学賞を受賞しているんですけど。
 というわけで小生も読んだことがないのですが、本日はそのスタインベックの生誕105周年に当たります。

 さて、小生は以前永山薫氏の『エロマンガ・スタディーズ』索引を作ったりなんぞしたわけですが、だからといってさほどその手の漫画を読んでいたわけではありません。蔵書も精々百のオーダーに乗っかっている程度です。そんな僅かな知識しかない者が思ったことなので、どれほど通用するのか自分でもよく分からないのですが、とにかくふと思ったことがありまして。
 それは以前小生が、あらきあきら『おとなになりたい』という成年コミックを買いこんで読んだ時のこと、本書に収録されている「どこ行く?」という漫画を読んで思ったことです。この漫画は、高校生カップル(?)が家族の多さゆえに、えっちの場所を求めて色々考えた末に、家で免許を持っているのはお父さんだけだー!ということに気付いて、ガレージの車の中にもぐりこんでなにをどうする、というお話でした。これは結構オチが可笑しくて、本書の中では一番気に入った一編でしたが、そこでハタと思ったのです。
 エロマンガでカーセックスを描いたのって見ないなあ、と。

 こういう企画はきっと『SPA!』がやってそうだと思うのですが(笑)、わが国で行われる全性行為中自動車内にて行われたものの比率、ってどの程度なのでしょう? 決して低いものではないように思います。なるほどエロマンガでは登場人物の年齢設定が低い故に自動車が登場しにくいというのは否めないとは思いますが、あと漫画として描きにくい・描いても映えないという理由もあるのかもしれませんが、それにしたって「自動車内/全行為」の比率と比べれば、おそらくはかなり低そうな気がするのです。
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同書p.164 エロマンガの登場人物の歳からすればそりゃそうだけど

 で、もしエロマンガ読者が自動車内での行為ということに関心を示さないような文化的傾向があるとするのならば、これは結構面白い事かもしれないなあ、なんてことに思い至りました。ここら辺を解明できれば、自動車というものの持つ特徴の一端を解明し、何がしか世間に裨益するところもあるのかもしれない、なんて。
 そんな妄想をふくらましていた時、小生の頭にふっと今日のお題のスタインベックの名が浮かんだのでした。

 文学にとんと疎い(「文学部」卒なんですけどねえ・・・)小生でありますが、時として文学に関連する書物を読むこともあります。そんな本の一冊に、小野清之『アメリカ鉄道物語 アメリカ文学再読の旅』(研究社出版)があります。どうもアマゾンの評価は低いですが、確かに色々集めていながら全体を通した理論付けにあまり熱心な本ではありませんでしたけど、小生は自分で鉄道について考えをめぐらせるための良い手がかりを与えてくれたと思うので、結構好きな一冊です。小池滋先生の名作『英国鉄道物語』と比べると、読み物としての完成度が低いことは否めませんけど、まあどっちかといえば『英国鉄道物語』の完成度が高すぎるというべきでしょうね(去年にまた改版されてる・・・)。
 で、この『アメリカ鉄道物語』には、付録として「自動車とアメリカ文学」という一章が末尾に置かれています。この章がなかなかに興味深いのです。しかし今回はあまり寄り道している暇もないので、直接関係のある「自動車と性道徳」という節から引用しておきましょう。
・・・このような状況(注:ヴィクトリア時代の表面的お上品さに対する反発から、20世紀に入って性的な自由が広まってゆく状況)の中で自動車は普及していったのである。すでに述べたように、車は歓楽、レジャーに用いられ、さらに動く密室でもあった。若い男女はそれをペッティング、ネッキング、さらにはカー・セックスの場として利用したのである。こうして自動車は性解放に一役買うこととなった。(中略)
 このような風潮に対して、スタインベックは『缶詰横町』(1945)の中で、次のように解説している。

 T型フォードがアメリカ国家に対して、道徳的、肉体的、美学的にもたらした影響について、誰かが博学な論文を書くべきだ。二世代にわたるアメリカ人は、クリトリスについてよりもフォード車コイルのことを、星の太陽系よりもギアーの遊星歯車連動装置のほうをよく知っていた。T型車の出現で、私有財産に対する観念の一部分がなくなってしまった。ペンチは個人の所有物とはならず、タイヤの空気入れは最後に手に入れた人のものとなった。この当時、ほとんどの赤ん坊はT型フォードの中で孕まれ、少なからぬ赤ん坊がその中で生まれた。アングロ・サクソンの家庭というものに関する理論は大層歪められてしまって、元に戻ることはなかった。

(同書p.199、強調は引用者による)
 60年前のアメリカで、スタインベックはかように世相を慨嘆しておりました。

 これまで小生は恋愛と消費社会の結びつき(いわゆる「恋愛資本主義」)についていささか当ブログで贅言を費やして参りましたが、その中で「恋愛」をきちんと捉えるには近代家族について認識すること、「資本主義」の面に重点を置くこと、などを提唱してきました(これとかここの「恋愛資本主義三部作」とか)。で、近代家族や恋愛とともども資本主義が浸透してゆく過程を検討するには、「幸福」の象徴としてあるべきライフスタイルに不可欠なものと位置づけられることで売上を伸ばしてきた、個々の商品の様相を追っかけていくというケーススタディを積み重ねるのが正攻法ではないかと思い至りました。文学作品を手がかりとした思想的議論も結構ですが、もっとこういった社会経済的な「モノ」についても考えてみた方が、より具体的に自分自身の身辺に引きつけて考えることもできて、有効なアプローチではないかと思います。
※別に大野左紀子さんの著書のような議論に難癖をつけたいわけではないです。ただ、なぜか小生のいる日本近代史の研究室は、法学部の政治史や経済学部の経済史とは密接な交流があるのに、同じ文学部の日本文学とは絶縁状態という、小生の学問的状況がこのような考え方を惹起せしめた面はあると思います。噂ではこの絶縁は、学生運動のときのいざこざのせいだとかなんだとか・・・。
 で、そのような題材の商品として、「自動車」というのはかなり面白い例じゃないかな、と小生は思いついたわけです。自動車は交通機関ですが、他の交通機関と比べても特異な性格を有しています。なんとなればライフスタイルの形成や男女の関係を演出する道具としての文化的な意味を色々と含んでおり、しかもそれは人々の立場によって幾つものパターンがあります。そして自動車産業はメディアにとって最大の広告主であり、また資本主義の中核的存在です。いろいろと検討できそう。
 この問題に関する先行研究として、ヴォルフガング・ザックス『自動車への愛 二十世紀の願望の歴史』(藤原書店)が参考文献になるんじゃないかと思って、以前古本屋で買って一読したのですが、正直あんまり印象に残っておりません(苦笑)。

 とまあ、ようやっと問題の入口にたどり着いたかな、と思ったのですが、ここで一つ問題が。
 小生は鉄道趣味者なもので、免許こそ持っていても自動車のことはほとんど何も知りません(キャタピラ付いて装甲板張って大砲積んだ奴除く)。自分で課題を設定しておきながら情けない次第ですね。
 どっちにせよすでに大長文なので今夜はここまでで一旦切り、後日ネタを思いついたら自動車の文化について思うところを書きたいと思いますが、その前に何卒読者の皆様のご意見・ご助言を乞う次第です。今回、まったくまとまりがないもんなあ(苦笑)

※後日の関連するかもしれない記事:ケン・パーディ『自動車を愛しなさい』雑感
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by bokukoui | 2007-02-27 23:58 | 思い付き

恋して変っちゃうような 友情じゃない 今までそれが 自慢だった

 さてそろそろ2月も押し詰まり、3月が近づいて参りました。
 3月といえばホワイトデー、というわけで、「革命的非モテ同盟」の古澤書記長が3月11日にまた何か街頭行動を企画しておられる由。なのでそろそろ次回に備えて前回の「バレンタイン粉砕」デモの総括をまとめてみようと思い立ちました(一応直後に総括は書きましたが)。小生は「革非同」の同盟員ではありませんが、まあ毛沢東とスノーみたいなもんだということで。アキバの赤い星。

※「バレンタイン粉砕」デモに関する当ブログの関連記事へのリンク
今日の渋谷駅前~「バレンタイン粉砕闘争」見学記
「バレンタイン」はどこへ行く?~三浦しをん氏のコラムなど読んで思う
「ホワイトデー」粉砕イベントはどうやるべきか

 何でこんなことを書こうかと思ったかといえば、前回の「バレンタイン粉砕」デモに対するネット上の反応に、なかなか興味深いものを見つけて思うところがあったからです。もっともそれは小生が自分で探したのではなく、「革非同」の古澤書記長が「はてな」のブックマーク機能を利用してネット上の反応を収集しておられたので、それを利用させていただいたのですが。

 で、まずこのデモについて面白がってくれた、バレンタインなんてばかばかしいよね、なんて反応をしてくださった方は、まずはこのイベントの趣旨から行けば「受けた」ので万事結構であります。こういった層に引き続き期待を裏切らぬネタを提供できれば、活動としては充分成功を収められるでしょう。ネット上での反応を活発にするためには、ビラ配りの方が良いのではないかというのは以前の記事に書いた通り。
 問題はこのデモを批判している反応に対しどう今後の対応をするのかということです。一例を挙げますと、

 必殺幹事女王@社交倶楽部「バレンタイン粉砕デモ?」

 これは、見た瞬間笑い転げてしまいました。最初の感想「あ、『はあちゅう』みたい」
 ヒルズ族で「# 必殺幹事人:パーティーや交流会といえば草葉の影にその姿あり # 愛のキューピット:マッチメイカーとしての腕前には自信あり」ですからねえ・・・。ここまでコテコテなキャラクターの人が「革非同」に噛み付いちゃったという時点で笑いのネタにしかなりません。
 こういう方々は世間の流行り廃りにとても敏感ですから、もし「革非同」の活動が革命的大成功を収めたなら、あっさり転向することでしょう(笑)。
 ですから、コメント欄で長々と批判をした古澤氏のコメントは正直作戦ミスだったと思います。ネタにマジレスした時点で向こうが負けていたんですから。向こうもそのことに気が付いたのでしょう、コメントはスルーされております。
 ま、ここは生暖かくヲチしつつ、「文化的ハビトゥスの懸隔の大きさを改めて感じました」とメタレベルで流しておくのが良かったと思います。

 それはともかく。
 小生が読んでいてうーん、と唸らざるを得なかった反応は以下の二点。

 A Complexion Alkaloid「早く15日にならないだろうか。わくわくv」
 一般人とオタクの境目に立つ「朝から笑ったよ」

 どこら辺が小生の関心を惹いたかというと、この二つの記事はどちらもオタク的文化に親和性を持っている女性の方が書かれていたからです。
※前者のブログの書き手の方はプロフィールで性別を書かれていませんが、この方の妹さんがやっているというサイトに飛んで、そのリンクでこの方のサイトの説明を見ると「おねぃちゃん」とあるので、女性と推測されます。

 小生は、この「運動」を「成功」させるということは、当たり前の価値観を揺さぶることにあると思いますので、要するに「ウケを取れればそれが勝利」と思います。なるべく多くの人の話題になればそれで良く、文化的ハビトゥスが近縁な人に笑ってもらえばそれでよし。上掲ヒルズ族のごとく懸隔の甚だしい相手には、その戸惑いぶりを見てネタになればそれもなおよし。
 で、「オタク」というのは、以前の記事でも書いたようにこの「革非同」への反応が秋葉原でなかなか良いことから判るように、いわば「客筋」としてもっとも取りこみたい層です。実際、これまで取り込んできたわけだし。
 しかし、それが女性となると、オタク文化への親和性のある層であっても一転してこのような、ぱっと見は上掲ヒルズ族のごとき反応が返ってくるのはなぜなのでしょうか。

 正直、それに答えられるほど小生は女性のそういった趣味の方々との交流や知識もありませんので、どうも理屈を立てることが出来ません。そこで参考文献として、大野左紀子さんの『モテと純愛は両立するか?』の一節をご紹介させていただきます(本書の感想は、現在大野氏がご自身のサイトで連載されている「日本の純愛史」の完結後に書ければと思います。併読した方がきっと良いと思うので)。
 「見る」は能動的な行為で、「見られる」は受動的。女は、基本的に受身側に立たされている。
 従って、少し最初の考え方を改めねばならない。

 モテる男女>普通の男女>モテない男>モテない女

 と前に書いたことは、あくまで表に現れている現象に過ぎない。「見る者」である男と「見られる者」である女の、本質的な性の相違に改めて着目すれば、この不等式は、

 モテる男>普通の男>モテない男>>>モテる女>普通の女>モテない女

 となるはずだ。基本は、「男>女」なのである。男女平等なんかではない。「男>女」の大前提の上に、モテるかモテないかの序列がある。(同書pp.153-154)
 こういった前提があるから、「革非同」の活動も女性をして(たとえある種の文化的な近縁性がありそうに思われても)かかる反応をさせしめてしまうのでしょうか。
 ここら辺については正直判りません。ただ小生は、この「革非同」の活動は、「受ければいい」という性格のものであって狭義の政治運動ではないから、組織化する必要も突き詰めた論理武装も全然必要ないどころかむしろ有害であり、なるべく多くの人に受けるようにすればそれが最も良いことだと考えています。ので、「共闘」というとやけに重々しく聞こえてしまいますが、「おひねりを投げていただく」程度のことであれば、女性の参加も大いに可能であろうし、その方が効果的であろうと考えます。
 なんとなれば、小生は以前「恋愛資本主義」について述べた際に、恋愛が近代家族概念と結びつくことで、規範となって人々を抑圧していることが問題なのである、と書きましたが、この抑圧は男女を問わず降りかかってくるものだからです(降りかかり方に多少の差はあるでしょうが、だからといって男が女を/女が男を批難することは問題解決にはなりません)。

 というわけで、先日の「革命的非モテ同盟」の記事「中絶問題に見る喪男と非モテの差異:利害か、善悪か。」については、いささかの危うさを感じます。自分自身の倫理観を振りかざす人々との不用意な「共闘」は、抑圧に対し抑圧の応報で応える結果にしかならない懸念があります。
 シュミットの友敵論をこの場面で使うことにも小生は疑問を感じます。敵と味方の差をはっきり区切るよりも、なるべく多くの人々に「おひねりを投げてもらえる」ように、なるべく多くの人々をネット上で巻き込めるように、そう行動する方がきっと得策であろうかと思います。つまり、「共闘」関係などと称して同志的連帯を強調する(これってホモソーシャルな集団になりやすい弊があると思われます。当然世界の半分を占める女性の支持は得にくくなるでしょう)よりも、「勝手連」を増やすようにした方がよく、そのためには友敵の境界線は極力ぼかした方が賢明であるということです。

 ちなみに、小生もシュミットは未読です(笑)

 うーん、理屈っぽい話はやはり自分でも書いていてそれほど楽しくはないですね。明日はこの続きとして、お口直しにもっと具体的なモノにまつわる愛と性と道徳? のお話でも書いてみたいと思います。
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by bokukoui | 2007-02-26 23:58 | 思い付き

死刑に関する報道を見ての若干の感慨

 やや旧聞に属することですが、先週の水曜日に放火殺人犯への最高裁の死刑判決があって、これで日本の拘置中の死刑囚が百人に達したという新聞記事がありました。で、その記事にはこのようなグラフが付いていました(日経新聞2月21日付朝刊43面より引用)。
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 これを見ると、明らかに2004年から死刑の確定数が激増しております。新聞記事本文ではこれを「治安悪化への不安や被害者感情を重視する流れから厳罰化傾向が進み・・・」と説明しています。ですが、ある程度こういった問題にご関心のある方でしたらご存知の通り、統計的な調査では実際に治安が悪化しているというわけではなく、ただ「悪化していると皆が思っている」だけだということが夙に指摘されています。
 ご参考までに、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』の編集をされた安原宏美さんのブログへのリンクを張っておきます。こちらにはこのことに関する様々な記事が挙げられておりますが、最新の記事(東京新聞の記事の紹介)がちょうど良いまとめの一つになっているかと思います。
 結局のところ、小生が思うには、このような死刑判決の増加は、いわばこの社会の現今の問題を「治安の悪化」に転化してしまうようなものの見方の一つの表れのように感じられます。人柱を立てても耐震偽装がなくなるわけでもないのに。

 さて、この日経新聞の記事には「識者」からのコメントが二つ載せられていました。一つは「執行慎重すぎる」ともっとせっせと執行すべきいう意見で、もう一つは「終身刑制度化を」とこの状態に疑問を呈し法廷を復讐の場とすることを戒めるものでした。後者の意見は日弁連が出しているので予想の範囲内ですからそれほど目を惹かなかったのが正直なところでしたが、前者の意見を寄せている刑法学者の名前を見て、小生はほうと関心が湧きました。
 それは首都大学東京の前田雅英教授だったのです。

 前田雅英(ウィキペディアはてな)といえば、これまで小生もメディア規制に関する警察当局などの動きについて当ブログで一筆ものしたことがあり、悪い意味でお馴染みの名前となっていました。先ほど上で挙げた安原宏美さんのブログ折々名前が登場しますので、前田氏の名が登場する記事の一つにリンクを張っておきましょう。
 そしてこういった話題を得意とするカマヤン氏のブログでもすっかりお馴染み常連となっています。登場記事が多すぎるので、興味のある人は氏のブログを検索してみてください(「はてな」ブログは検索機能がちゃんとしています。エキサイトはその点駄目で・・・)。
 流石にこれはソースが偏っているかと小生も思ったので、法律に詳しい友人に電話をかけて前田氏について情報を聞き出しました。聞いたところでは、かつては優れた刑法学者として知られ、その著書は司法試験受験の参考書としてよく使われている(但し、「教科書としてよく使われている」からといって、その学説が優れていることにはならない、ということだそうで)が、諸々の委員会に名を連ねている最近の活動振りについてはそうではない、学説についても転向が見られ、メディア規制などの問題については到底学識があるとは言えない、ということだそうです。

 で、そういう経緯でお馴染みだった前田雅英教授の名前をこういった文脈で眼にしたことにいささかの感慨を覚えました。
 メディア規制と死刑推進の両者に共通する点を考えるならば、おそらくは自分が不快でケシカランと認定したものをひたすらこの世から排除していけば世の中がよくなると考えてしまう、そのような思い込みなのであろうと思います。
 それはもちろん、問題解決の手法としてはお呪いを唱えるようなものであって、合理性には乏しいと思うのですが、個人の感情を鎮めるという点でのみ効果があるのでしょう。しかし社会問題の根幹を見据えていないため、このような手法ではまた同じ様な問題が延々と起こってきます。それにまた同じ様に排除排除とやっていくというサイクルの繰り返しは、社会から寛容さを失わせ、問題そのものの解決はより一層遠くなってしまいます。
 それでもなおこのような事態が起きるのは、ケシカランと認定して排除するのが「個人的感情」ではなく、社会的に認められた正統性を有している価値基準であると思っているからだと小生は考えます。そして少なからぬ人々が、そのような正統的価値観を共有しているということで、自分は社会の一員として正統的な地位を得られるような存在である、と自己肯定したい欲求を満たしているのでしょう。まあ以前に書いたことの繰り返しですが。

 メディア規制に関しては、槍玉に挙げられている一つの対象としていわゆる「オタク」的な漫画やアニメやゲームのような諸文化があります。で、こういったメディア規制に対しそういった文化を守るためにどのように行動するかというとき、おそらく二つの対処法があります。一つは正統的価値観を振りかざしてくる側に対し、そのような価値観の一方的な押し付けは不当な抑圧であるということを指摘し、その正統性を打破するという方法です。もう一つは、批判対象とされているもの自体も正統的価値観に含まれるべきものである、と主張する方法です。
 前者こそ正攻法ですがおそらくそれは容易ではありません。後者はより容易でしょうが、しかしこれは排除の論理の矛先をかわすだけなので、また何らかの事件をきっかけに同じ様な事態に襲われることが充分ありえます。なにより、正統的でないことに喜びを見出したはずの「オタク」文化が、正統性を主張して抑圧の側に回ろうということには小生は強い忌避感を覚えます。それは自分自身の文化としての力を失わせることになるでしょう。
 一部の「オタク」文化論には、そのような危うさを感じないでもありません。

 さて、死刑の場合はどうでしょう。
 小生が思うには、死刑の存廃についてを巡る諸議論は、結局のところ正統性を巡る主導権争いになっており、それがこの問題の議論をおそらくは行き詰まらせているのであろうと思います。もちろん問題の性格上、正統性ということが強く前面に出てくるのは当然ではありますが。
 で、どちらの側も当然とはいえ自分の立ち位置を正統的な価値観の側である、としていること自体もまた死刑を巡る議論の問題であると捉えなおすことで、何か多少違った議論が出来ないかと考えたのであります。これは死刑マニアで、そういったことに極めて偏った関心を抱く(過去の当ブログの記事サイトの記事をご参照下さい)小生が、それ故に何か見えることもあるだろうと思ったのですが、そこで「萌え萌え死刑論議」などと怪しい題名を付して一筆書こうと思ったものの、歌謡に前提の説明だけでこれほどの長文になってしまったので、続きはまた稿を改めて書くこととします。

 どうもいつもながら遅筆かついい加減で申し訳ないことです。
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by bokukoui | 2007-02-25 23:58 | 思い付き

お蔵出し写真

 今日はいろいろあって帰宅が遅くなり、また明日も出かけるのが早い予定なので、そのうち公開しようと思ってお蔵入りしていた写真を公開してお茶を濁すとさせていただきます。

(以下クダラナイので注意)
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by bokukoui | 2007-02-24 23:58 | 思い付き

再び眼科に行く~めがねっこの多い(?)眼科医院

 先日眼科に行ったということを書きましたが、お蔭様で一応回復したようです(まだ少し思い感じはありますが)。処方してもらった目薬も切れたので再び眼科を訪れましたが、大体回復している、との見立てでした。
 で、角膜に傷が付いた原因としては、やはりコンタクトレンズに原因がありそうです。何でも酸素透過型のハードコンタクトレンズの寿命は二年半だそうですが、小生のそれは既に十年近く使っておりますので、これは流石にまずかろうということのようです。実際度も合わなくなってきたし(運転免許の書き換えの時の視力試験も怪しかった)、そこで作り変えようかと思ったのですが、そこで眼科医が言うには、コンタクトを装用できる時間というのは限りがあって、一定時間以上コンタクトをつけることは難しく、特に小学生の頃から付けるいた小生のような場合は既にこれ以上つけるのを控えた方が良い場合もある、とのことでした。
 買う気になっている客に早速コンタクトを売りつけるのではなく、こういった説明をしてくれる点は大いにありがたいですが、さてどうしたもんでしょうか。

 で、その眼科医が参考にと、その医師が雑誌に寄せた「コンタクトレンズによる眼のトラブル」という雑誌記事のコピーをくれました。
 何でも角膜内皮細胞というのがあって、これは年とともに減少していくものなのだそうですが、あんまり減少しすぎると黒目が濁って視力が落ちてしまうんだとか。コンタクトレンズは角膜の酸素の供給を阻害するので、この現象を加速してしまう場合があるのだそうです。で、減り方が早い場合は「コンタクトレンズの中止や装用時間の短縮も考えなければなりません」ということだそうです。
 小生の場合も年齢の割には減りが早い、ということだそうです。なので、こちらはいかにもコンタクトレンズを作り換えます、という姿勢が見えているのに、医師の方はあまり積極的でなかったのでした。
 さてどうしたもんかな。

 前回の記事で、この眼科医院のナースに眼鏡の女性が多い、と眼が痛かった割には妙に細かい観察を述べましたが、どうもここの医師自身がコンタクトレンズの処方に対し慎重な方策を採っているようです。何せ医師自身が眼鏡だったもんなあ。
 ずっと昔に小生が通っていた眼科医は、子どもには度が進むから眼鏡よりコンタクトレンズの方がいい、という方針だったので、小生も眼鏡の時代を経ずにいきなりコンタクトになりましたが、医者によって、或いは時代の変化で? 処方の方針は変るようですね。当たり前といえば当たり前ですが。
 ちなみにこの眼科医に貰った雑誌記事のコピーの末尾は以下のようになっています。
  また、最近ではお子さんでもコンタクトレンズを使う人が増えていますが、若い人ほどアレルギー反応が強く出るなどリスクも大きいと言えます。できれば15~16歳くらいになってから使うのが望ましいでしょう。コンタクトレンズは異物ですから、視力を矯正する以外は全ての面でマイナスだという認識で使っていただきたいですね。
 小生に十数年前にコンタクトレンズを処方した医者とはだいぶ方針が違うなあ、という感想を抱きましたが、実のところは中学生まではめがねっこが正しいのだ、という自分の状況とは関係なさそうな感想の方が先に浮かんだのでした。
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by bokukoui | 2007-02-23 23:58 | 出来事

『Sweet Sweet Sister』復刊

 数日前ナヲコ先生のサイトを見に行ったら、玄関のイラストが、ナヲコ先生が挿絵を描いたJ・さいろー氏の小説『Sweet Sweet Sister』の登場人物・早川可奈子に変っていたので、年明け以降あんまり更新なかったけど結構なことだと思っていたら、表題のようなことだそうです。
 大変結構なことと思いますが、正直びっくりしました。

 何でも、『Sweet Sweet Sister』の著者のJ・さいろー氏の新作『クラスメイト』が出るので、それに合わせて復刊、というか正確には再版される由。
 しかしこの手の小説で、2001年10月初版のものが5年半も経って再版されるというのは、全く以ってかなり珍しい事態なのではないかと思います。むしろ別な出版社から復刊という方が、まだありそうな気がします。
 既に持っている身として正直に言えば、別な出版社から装いも新たに復刊だったらもう一冊買い直しても良いけれど、誤植訂正程度では・・・。

 驚きといえば、さいろー氏の新作がコアノベルズNo.002となっていることに驚きました。なんとなればこのレーベルの前作がほかならぬ『Sweet Sweet Sister』なわけで、つまりこのレーベルは第1作が出てから5年半もほったらかしだったわけです。てっきり消えたとばかり思っていました。
 コアマガジンには前科があって、『Sweet Sweet Sister』発行を遡ること一年余前、2000年7月に「HOT MILK NOVELS」と銘打ったレーベルを出し、第一作として雑破業『だいすき!』上下巻を出したものの、小生が知る限りでは後に続きませんでした。確かその後、雑破氏はKSSへと移られたんでしたっけ。
 そんなことがあってから一年ちょっと後に『Sweet Sweet Sister』が出されて、本作自体は古書価格の高騰に示されるように評価が高かったのではありますが、レーベルはやっぱり後に続かなかったのを見て、やはりこういう小説を売るのは難しいのかなと思ったのでした。それが復活というので驚いた次第です。いや、単に新しいレーベルのロゴとかをデザインするのが面倒だっただけなのかもしれませんが。

 とまれ、こうしてコアノベルズはJ・さいろー氏専用レーベル? として甦ったわけで、小生としても新作は購入の予定です。今度は小説の作者は同じでも絵の傾向がだいぶ変っていますが、それが読者にどのような印象を与えるのか、その点に興味が湧きます。(※追記:買った時の話はここ
 この手の小説は読者を興奮させるように持って行こうとするのが普通なのではないかと思いますが、『Sweet Sweet Sister』はむしろ読者を妙に冷静にさせるような、不思議な感覚をもたらします。本書はエロ小説なのだからそういった描写は多いわけで、というか行為の質的な過激さや分量の多さは相当なものだと思うのですが、しかし読み終わるとあんまりエロかったという気がしなくて、厚いのに不思議と読み足りないような印象が残ります。
 これが恐らく本作の古書価を高からしめた理由ではないかと思いますが、それがどこまで挿絵によって影響されているのか、それは是非新作を読んで確かめてみたいところです。

 にしても、そういえば葦原瑞穂(高坂麻衣)の『ファーレンの秘宝』も復刊されてたし、この世界もそれなりの蓄積が生まれて、J・さいろー氏はいうなれば雑破氏の後を襲う存在にあるのでしょうか。いや、そもそもそういう見方自体正しいのかな? そろそろ歴史や系譜を振り返ってみてもいいのかもしれません。
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by bokukoui | 2007-02-22 23:59 | 書物

サントリー学芸賞の鉄道本略論 番外(3) ~鉄道と女性・阪急篇~

 一昨日昨日の記事の続きです。今日で完結のはず。

 というわけで、ここまで二回に渡って原武史氏の鉄道と女性の関連についての所説に批判を加えてきました。その大きな論点ふたつのうち、1点目はこれまでに説明しましたので、今日の記事では2点目の論点、すなわち「小林(一三)は、文化事業では女性を取り込もうとしたが、肝心の輸送事業で女性を積極的に採用することはしなかった」理由を考えてみよう、というものです。

 小生はこれまで、当ブログにおいて阪急に関する記事を幾つか書きました。それをお読みいただければ、これから小生が書こうとしていることはお察しいただけようかと思います。過去の記事を以下にリンク。
 ・近代家族幻想と電鉄会社との日本的関係性
 ・阪急食堂名物10銭ライスカレーの肉はどこから仕入れたのか
 これだけで終わりにすると楽なのですが、それは流石に手抜きなので以下に敷衍して述べます。

 で、上記の記事で書いたことを簡潔にまとめますと、近代社会の発達、つまり資本主義が発展し近代家族像が浸透してくる過程で、それまでの支配層に代わって台頭してきた中産階級の人々は、どのような生活スタイルが良いものとされるのか、ということに関し、新たな価値観を模索します。で、先行研究を徴するには、フランスでボン・マルシェを開いたブーシコーのように、19世紀末において発展した百貨店こそが、このように生活すれば幸福になれますよ、というライフスタイルを作り上げて売り込むことで新たな価値観を作り、そして消費を加速させることで資本主義をも発展させることに寄与したのでした。そのような中産階級的「幸福」像は、近代家族モデルとして今日尚規範としての拘束力を維持しています。
 これに関し、小生は日本におけるこのような価値観の宣伝と消費社会の到来に大きな役割を果たした存在として電鉄業を考え、その代表的経営者として小林一三を挙げるべきではないかと考えています。

 さて、ここで小林一三が広めたようなライフスタイルとは、郊外住宅地に住んで電鉄で一家の主人は都心に通勤し、休日には沿線の行楽地へ家族連れで出かける、というものです。戦前にこのようなスタイルを送ることができた人は決して多くありませんでしたが、しかしこれは戦後の日本人の多くが目指した(そして高度経済成長を通じておおむね達成された)スタイルとなるのでした。まあ戦後は自家用車と家電製品が消費において大きな地位を占めることになりますが。
 余談ですが、戦前の日本では電灯こそ世界最速級の普及率を達成したとはいえ、電化製品の普及は微々たるものでした。しかし関西を中心とした有力電鉄会社の中には、沿線住民への電化製品の売り込みに相当の熱意を傾けた会社がありました。阪急もさることながら、ライバルの阪神は電化製品を並べたモデルルームを電車の中に作り、主要駅の待避線に停めて回って移動する電気博覧会をやっています。電化製品普及の下地がこのようにして作られた面もあるのではないかと思います。もっともこれらの電化製品売り込みの真意は、阪神や阪急が沿線で兼業していた電力供給業の需要を増やすことにあったのでしょう。

 とまれ、今まで拙文で始終書いてきたような、近代家族モデルの普及こそが、小林一三が推し進めた経営戦略と合致する方向だったのだと考えるのです。
 このようなモデルでは、働き手は男に限られ、その働く場は家庭と切り離されます。家庭はもっぱら消費の場となり、女性は主婦としてその消費活動を仕切る役割を担わされます。家庭は子どもを育む団欒の場であると位置づけられ、消費活動もそれに沿ったものが求められます。なので娯楽も、飲む・打つ・買うなんて「不健全」なものはいけません。かくて「清く正しく美し」い宝塚の出番となるわけです。

 というわけで、結論はこうなります。
 男=仕事という公的な場、女=家庭という私的な場、という性別役割分担を前提とする近代家族モデルに乗っ取ったライフスタイルを幸福の形として売り込んでいた阪急が、輸送という公的な労働の現場に女性を採用するはずがない、ということです。
 「女性を対象とする博覧会」や「宝塚少女歌劇団」をやった「のに」女性を採用しなかったのではありません。博覧会や歌劇をやった「から」輸送には女性を採用しなかったのです。
 ついでに、この博覧会も歌劇もそもそもの理念は中産階級的近代家族のための娯楽として作られた、つまり女性は女性でもあくまで一家の主婦としての女性(彼女が養育を任されている子どもがくっついてくる場合多し)がメインターゲットであるということを見落としてはなりません。単純にこれを「女性」一般を取り込もうとした営為と見なすのは早計でしょう。そこら辺についての傍証として、以前も使ったネタ本ですが、阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』から引用しておきます。
・・・(宝塚)新温泉を開業してから三年目、すなわち大正二年に、一三の方針がはっきり変っている。それは客寄せのための催物の変化で判る。大阪南地の芸者の「芦辺踊」と、二年続いた「遊女会」から百八十度切替えて、三年目の大正二年春には「婦人博覧会」となり、京大から上田敏博士を講演に招いたりしているし、次いで大正三年春に婚礼博覧会、四年春には家庭博覧会と続いた。既に紹介した通り、宝塚少女歌劇第一回公演は、婚礼博覧会の余興として、「観覧無料」で見せたのである。(同書単行本版p.146)
 「婚礼」「家庭」とあるように、ここでの女性へのアプローチは(近代家族の)一家の主婦となることに眼目がおかれていたと見えます。それは女性を労働力として活用するという方針と相反するでしょう。

 以上、原武史氏の鉄道と女性との関わりに関する所論への批判を述べました。原氏は小林一三が偉大な経営者であったと繰り返す割には、小生が思うには、何が偉大であるのかよく分かっていないのではないかと思います。
 既存の鉄道史の研究者が、近代家族論に疎かったことは間違いないのですが・・・しかしそれが原氏の論の問題点を惹起したわけではないと思います。先行研究を踏まえていれば、昨日や一昨日の第1点目の論点は見落とさないでしょうから。

※追記:鉄道と女性の「関係については、以下の記事もご参照下さい。
・鉄道と漫画・MATSUDA98篇 19才の「鉄道むすめ」はなぜ死んだか
・もっとも過酷な「鉄道むすめ」の仕事 8メートルの雪を除雪せよ
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by bokukoui | 2007-02-21 23:57 | 鉄道(歴史方面)

サントリー学芸賞の鉄道本略論 番外(2) ~鉄道と女性・阪急篇~

 昨日の記事の続きです。

 というわけで原氏の鉄道と女性の見方について2つの点で疑問を持つ、と昨日書き、そのうち一点目の話すら終わらないで、ハードディスクの棚卸に終始してしまいました。これはいけませんね。改めて二つの疑問について、先に指摘しておきます。
 まず一点目は、「鉄道で女性が働く」ということについて、原氏の見方はあまりに偏ってはいないか、ということです。もう一点は、「阪急の沿線で女性を対象とする博覧会が開かれたり、宝塚少女歌劇が創設された」という阪急=小林一三の女性観が輸送現場に女性を登場させるようなものだったのか、ということです。

 ではまず一点目について、昨日の記事の話題も参考にしつつ述べてみます。
 原氏は戦前の鉄道における女性車掌の存在を無視しておられ(バスの女性車掌は認識しているようですが)、講演会で触れている女性の鉄道での登場については、国鉄の「つばめガール・はとガール」という、当時の看板列車であった東海道本線の特急列車に乗務していたサービス係についてのみ語っておられます。これが意味するところは何なのでしょうか。
 バスが普及した昭和初期から戦後のワンマン化まで、バスの車掌の多くは女性で、また戦前の市電にも女性車掌は結構いたようです。その理由は何なのか、バス車掌について触れた文献は以前に幾つかサイトの題材にしましたが(これこれ)、つまるところは、
 ・給料が安くて済む。
 ・ストライキ対策。

 という労務上の理由が大きいようです。上掲のバス車掌に関する文献では、当初少年を採用していたバスの車掌が女性になった理由として、少年の車掌がしばしば運賃をネコババしていたことへの対策ということを挙げていました。女性は労賃が安く済む、という点については、昨日の記事で挙げた参考史料中で女子を雇いたい理由の筆頭に「第一、女子は給料が安い」とあることも傍証となりましょう。

 要するに、この時代の運輸事業の現場に女性がいた場合、それは「<女性>性の導入」なんて呑気なもんじゃなかったんじゃないか、ということです。

 更にいえば、原氏が挙げている「つばめガール・はとガール」にしても、或いは「バスガールやスチュワーデス」にしたところで、それぞれの世界に「女性に開かれた回路」を導入しうるようなものだったのでしょうか。結局は(主に男性に)見られるためのイロモノ的要素が大きかったんじゃないかと。
 日本の場合バスの車掌はワンマン化でいなくなりましたが、彼女たちが運転手に転身したという例はあまり聞きません。バスの女性の運転手はやはりまだあまり多くはないと思います。タクシーはもうちょっと多くなったような気がしますが(具体的統計が見つからん・・・)。
 或いは、スチュワーデスがキャビンアテンダントと名前を変えようと、コックピットの要員にどれだけ女性がいるのかということをちょっと考えてみましょう。

 以上、原氏の書物について以前「技術的・経営的側面を完全に無視している」と評論しましたが、労働問題的側面も無視しているのではないかと思う次第であります。しかし技術も経営も労働も抜き去った先に残っているのは、ヘタレ鉄道マニアの妄想ぐらいなもんじゃないかと思うのでありました。

 しかしそれだけでは済みません。原氏がもっとも持ち上げている小林一三、その経営戦略の方向性を見据えた時、「もし小林一三が輸送事業で女性を積極的に採用していたら」という設定自体が全く頓珍漢だということになるのです。その二点目の疑問については目も疲れてきたことですし(便利だなこのフレーズ)、明日述べることとさせていただきます。
 まあ、このブログをある程度読んでいただいた方には、もうオチが読めていると思いますけど(苦笑)。
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by bokukoui | 2007-02-20 23:59 | 鉄道(歴史方面)