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妄想の対象としての「メイド」について思うことなど(2)

 十日も前に書いた記事の続き、のようなものです。
 といっても(1)はなんだか纏まらぬまま横道に逸れてしまったので、今日の記事はそうならぬようにしたいと思います。

 というわけで本日の記事は、だいぶ時間が経ってのんびりした話で恐縮ですが、酒井シズエ翁と北庭さんと小生との間の「新春メイドさん放談2007」へお寄せいただいた様々なご意見の一つである、鏡塵さまのブログ「アルクトゥルスの25度下」の以下の記事、

 「『これがWNF(ワールドネコミミフェデレーション)のやり方か――!?』」

 の中で提示されたご意見に関して、小生の思うところを述べたいと思います。
 ここでの論点となる箇所を、少々長くなりますが、上掲リンク先の記事より引用させていただきますと、
「創作のメイドさんが妄想に陥ってしまうのは何故か」という点について若干・・・このことはおそらく、いわゆる「言語論的転回」後に展開された、「歴史叙述」と「フィクション」との関係性を問う問題系へと結びつく(ゲオルク・イッガース『20世紀の歴史学』)。
まず、テクストの紡ぎ手としての「作者」、とりわけ、「歴史」を素材として利用する場合の「作者」側の問題であるが、「物凄く調べてる人でも、創作では妄想の「メイドさん」を書」いてしまうことが、「読者」に何がしかの「ショック」を引き起こすのであるならば、その「読者」が暗黙のうちに前提する価値の一つには、「創作」を行う「歴史小説家」(この場合「メイドさんもの」を創作する創作者)は、その「創作」にあたって可能な限り資史料を蒐集し、「歴史考証」を行う中から何がしかの価値ある<物語>を塑成するべきである、という公準が存在するように思われる。
もしそうだとするならば、ある局面では、その「創作」の価値は、そこで素材とされる「歴史考証」の妥当性、言い換えれば、「歴史叙述」としての価値(「メイド」研究としての価値)へと転換されてしまうことにはならないだろうか・・・
 というところであります。
 これは新春メイドさん放談の中の、以下の箇所を指しているものと思われます。
酒井■SPQRで思い出しましたけど、久我さんの本を読んでて一番ショックだったのは、あんだけ物凄く調べてる人でも、創作では妄想の「メイドさん」を書いちゃうんだなっていう。

墨東■それは私もそう思います。あれだけの考証を必ずしも活かしてないですよね。細部では活かしていても、社会構造的なところには案外そうでもないような。

酒井■で、あれだけ調べて実態がわかってる筈の人でもメイドさんっていう妄想からは逃れられないんだなってちょっと思ったんですよ。

墨東■いやそうだと思います。まったくその通り。
 この頃にはいい感じに酒が廻っていたので(笑)、実はここでの問題意識において酒井翁と小生の間でずれがあったのではないかと今読み返して思わなくもないのですが、ひとまずそれは棚に上げて、ここでの「ショック」の何たるかについて小生が思うところを書いて見たいと思います。

 この「ショック」について鏡塵さまは、ここでショックを受けるということは、歴史に関する創作については「『歴史考証』を行う中から何がしかの価値ある<物語>を塑成するべきである、という公準が存在するように思われる」とご指摘になっておりますが、小生はここの論理的な繫がりが正直なところうまく読み取れません。物語の創作を志す方にとっては、「創作」という営為を行う手段として「考証」が存在するのであり、逆でないことは理解しているつもりです。この鏡塵さまの文章の一節を拝読した折に、小生がまず思い浮かべたのは、最近愛読していた子母澤寛『味覚極楽』(中公文庫BIBLIO版)の、尾崎英樹による解説に書かれていた、子母澤の言葉です。
「『父子鷹』で勝小吉が、割箸をびしっと割いて蕎麦を喰う箇所がある。あれが人にいわせると、どうも歴史的にそぐわないというんですね。むかしはよく蕎麦屋でも、一度使った箸をざるかなんかに入れて乾してあった。夜鷹蕎麦が割箸を使うなんざちと御上品すぎやしないかというんでしょう」
 たしかに『父子鷹』にそんなくだりがある。「お寒いですから一つ如何です」と新しい割箸を添えて鼻先に出された蕎麦を、小吉が黙って受取り、前歯でびしっと箸を割って無言で喰う場面だ。
「あそこはびしっと割箸を割る音がはいらないことにはいけません。静かな夜寒の感じが、その音一つでひき立ってきます。小説では事実の考証は、離れてまずく、いきすぎても具合の悪いものですね」
(p.255)
 というわけで、創作の価値を考証に求めたり、歴史家たらんことを同時に求めるようなことをしているつもりはないので、「新春メイドさん放談」のこの箇所から、鏡塵さまにかようなご指摘をされたことに関しては、些か困惑の感を受けた次第です。(一般論としてのご指摘なのかもしれないけれど、「その『読者』」の支持する先は「ショック」を受けた読者のことで、そのような読者を想定する前提が「新春メイドさん放談」なのだから、以上の抗弁も無意味なものではないと考えます)

 ではここでの「ショック」とは何なのか、といえば、ここで子母澤の言葉を借りれば「考証は、離れてまずく、いきすぎても具合の悪い」というバランスを、メイドさん周辺では失している場合があるように感じられたからです。
 考証家の喜びと創作家の喜びはまた別でありましょうが、先の「新春メイドさん放談」における小生のショックというか違和感というのは、maid に関する考証の部分と創作の部分とが、なんだかうまく噛み合っていないように感じられたことに起因します。
 上に述べたとおり、小生は決して「歴史小説」の価値を考証や歴史研究としての水準と同一視するようなことはしていないつもりですが、仮にその作家が歴史の考証に膨大な精力を投じているのであれば、「『歴史考証』を行う中から何がしかの価値ある<物語>を塑成するべきである」公準をある程度想定せざるを得ません(ですが、出来た作品の評価は、考証の妥当性や歴史叙述としての出来如何とはまた別なのは勿論です)。で、ここの場合は、小生の感想ではどうもあれだけ歴史考証をしても、創作は歴史的考証をあまりしないような多くの「メイド」ものとの差異をそれほど大きくは見出せないように感じており、それが小生をして些か「ショック」だったのでありました。もっとも小生は、その理由を創作物そのものよりも自身の創作物に対する鑑賞能力の低さに帰していました。そらもう酷いもんで(当ブログをある程度お読みの方でしたらお分かりいただけるかと思いますが)。
 ところが「新春メイドさん放談」で、図らずも酒井翁の口からあのようなご指摘があったもので、酔った勢いで思わす激しく同意したのでした。今冷静に思い返せば、ここでの両者の「ショック」の内実は結構違っているのではないかと思わなくもないのですが、ともあれ小生の場合、ここでの「ショック」とは、歴史的なアプローチが「妄想」に対して働きかける力が如何に限られたものに過ぎないか、ということです。

 考証家は細かい事実をどこまでも追及していくことそれ自体に喜びを見出すわけで、それこそ鉄道趣味者や軍事マニアはその代表的なものですから、それはそれで一つの趣味のあり方だと思います。考証家と歴史家の違いは、小生が思うには、考証家は考証する理由は「面白いから」「好きだから」の一言でよく、考証した意義を説明する責任もありませんが、歴史家は理由と意義に関する説明責任があるということではないかと思います。個別の事実の追求を普遍の文脈に載せるとでも申しましょうか。他の事実との繫がりが重要であって、だから場合によっては細かい考証による新事実発掘だけでなく、よく知られているような事実を再評価することでも、歴史としては意義あることになるのではないかと思います。また一方逆に、考証家が優れた考証をした結果、そこで意義を発見するという場合もあろうかと思います(過去のこちらの記事参照)。
 話が逸れましたが、このような考証家の立場と創作者の立場とは、別段矛盾するものでもないし両立可能であると思いますが、創作のために考証を追い求めているのであるとすれば、そのような「歴史作家」の立ち位置の方は考証家よりも歴史家の方がむしろ近いのかな? なんて思います。
 ここで『エマ』の森薫先生を考えるに、既にMaIDERiA出版局の「墨耽キ譚」で縷々述べた如く、『エマ』のストーリー展開がグダグダであって、ただ森先生が魅力的だと感じたヴィクトリア朝の一角の絵が描きだされるところに本作の魅力があるのではないかと思惟されるのでありまして、森先生はかなり「考証家」寄りの立場なのだろうと思います。
 「新春メイドさん放談」中で出てきた久我さまの場合については、むしろ逆に意識的に「創作家」たらんとされていて、それが膨大かつ精緻なその考証と必ずしもうまく接合されていないのではないか、僭越ながらそのように感じたところが、「ショック」の意味であると思っています。そして、それだけ「メイド」というものがかき立てる「妄想」が強固であることの傍証なのであろうと思うのでした。

 そういえば以前、歴史的事実と創作の関係について、吉村昭氏が亡くなった時に一筆ものしたりしましたが、歴史的正確さと文学的面白さを両立しえた吉村氏はやはり例外というべきでしょうね。
 吉村氏の裏返しのような例として、『日露戦争の軍事史的研究』などで著名な歴史学者・大江志乃夫氏が書いた歴史小説『凩の時』があります。本書は大仏次郎賞を受賞しており、小生も大変興味深く読んだ本でしたが、一般受けするかどうかはちょっと分かりません。ただ、優れた歴史研究者が、史実の厳密な実証に注意を払いつつ、敢えてこのような形式で作品をまとめあげたということは、極めて興味深いことです。
 ついでに、この『凩の時』については、この作品が扱っている第1連隊の集団脱営事件当時の連隊長だった宇都宮太郎大佐(のち大将)の日記が最近公刊されました。朝日新聞が大きく報じたのでご存知の方も多いかと思います。で、大江先生はこの日記を早速入手されて一読され、『凩の時』改訂版を書くと意気込んでおられた由。小生も実は両方とも持っているので、照らし合わせて読んでみたいと思います。

 話が逸れまくりました。つうか既に「メイド」はどうでも良くなってるし。
 で、引き続き鏡塵さまの記事の後段についても思うところを述べたいのですが、いい加減馬鹿長いので一旦話を切ります。続きはいつか。
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by bokukoui | 2007-04-30 23:57 | 歴史雑談 | Trackback(2) | Comments(5)

「『エロマンガ・スタディーズVol.1』レポ 完全版」作成

 ようよう懸案の用事が一つ片付きましたが、しかしまた次なる用事が積み重なっていることに変わりはないわけでして。
 まあ明日からはもうちょっとしっかりとブログを更新しておきたいものです。

 表題の通り、以前ブログ上で公開停止処分を食らった記事を、MaIDERiA出版局サイトに復活させました。まだ仮なので、トップページからのリンクは張ってありませんが、とりあえずご案内させていただきます。こちら

※以下2007.4.30.追記

 一通り完成させました。コメントを発言者別に色分けなどして見ましたが、かえって見にくくなったような感もあり・・・。とまれ一応完成したので、MaIDERiA出版局サイトトップからのリンクも張っておきました。
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by bokukoui | 2007-04-29 23:58 | 身辺些事 | Trackback | Comments(2)

渋谷の書店を巡る回顧と展望

 時折拙ブログにトラックバックしてくださる憑かれた大学隠棲氏のブログ「障害報告@webry」経由で知ったニュース。

 大型書店「ブックファースト渋谷店」が閉店へ-旗艦店は新宿へ

 あれれ、あのでかい本屋がなくなってしまうんですか・・・。渋谷という街は書店という文化とはあまり相性が良くなかったのでしょうか。
 小生は中学校に進んで以来十数年、渋谷を定期券による通学経路として来ましたので、渋谷で書店に行くことも多く(「若者の街」といわれる渋谷に十代から二十代の人生の相当部分通ったにもかかわらず、所謂「若者」向けの産業に一円たりとも消費行動をしたことがないだけなのですが)、このニュースを聞いて思うことしばし。

 渋谷を行動範囲内に収めた中高生の頃、よく通っていたのは今は亡き大盛堂書店でした。ビル一棟が書店であるということにいたく感激したものです。中高生の頃はあまり金がなかったもので、買う本といっても文庫本とか参考書が多かったものですが(当時はマンガはあまり読まなかった)、地下に軍装品の店があったせいか軍事関係の本もそこそこあったような気がします。『ミリタリー・バランス』を買い込んで、人員が17名しかいないガイアナ海軍を発見して大笑いしたりしたことを思い出します(政府刊行物の類も扱っていたので、それでミリバラが置いてあったのかも)。
 よく通っていた、といえば、小生は新玉川線(現田園都市線)ユーザーでしたので、地下の渋谷駅からセンター街方向へ上がる所にあった旭屋書店もよく利用したものです。この旭屋書店も数年前に無くなってしまい、跡地はこともあろうにパチンコ屋になっていましたが、なんでもブックファーストはこの旭屋跡地に移転するそうです。ここの旭屋では、確かマクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』を手にしたはずだし、駕籠真太郎作品をはじめて目にしたのもここだったような記憶があります。
 今もある渋谷のそこそこ大きい書店といえば、東急百貨店にある紀伊国屋がありますね。あれは渋谷で新九郎氏と通っていた塾のあった方向でもあったことから、それなりに足を運びました。塾ついでなので、参考書コーナーの印象が強いですが。
 さらに普通の書店とはやや異なりますが、東急ハンズ渋谷店(この店はハンズの「旗艦店」なのかな?)の一番上のフロアに、今はなくなってしまいましたが東急ハンズらしい特異な品揃えの書店コーナーがあって、模型を売っているためか鉄道や軍事の雑誌を置いていました。ここで『世界の艦船』を立ち読みしたり、『鉄道模型趣味』を買ったりしたものです。あ、そういえば宮崎駿の『雑想ノート』を買ったのはここだったな。

 これらの店は紀伊国屋以外は皆なくなってしまいました。
 小生も本郷に拠点が移ってからは、通学系路上にお誂え向きにも神保町があるため、もっぱら書物漁りはそっちに移行したので(さらにバイトで池袋に行っていた頃は、池袋のジュンク堂も立ち寄れたので)、渋谷で書店に行くことは少なくなっており、ブックファーストができてからもあまり立ち寄ってはいませんでした。大盛堂の記憶が強い者にとっては、何となくこの店が大盛堂を潰したような印象もあって・・・。
 とはいえ大型書店が池袋にジュンク堂、新宿に紀伊国屋、渋谷にブックファーストと並び立ったので、なんとなくこれで安定するような気がしたのですが、ブックファーストが旗艦店を渋谷から敢えて競争の激しそうな新宿に移すとは、それだけ渋谷という街と書店の相性が良くなかったということなのでしょうか。近隣に大学も結構あったのにねえ・・・特に東大の駒場キャンパス。渋谷まで歩く経路上ではないか。

 というわけで渋谷と書店は相性が悪い、と思ったのですが、見方を変えればまたちょっと違った印象もあって。
 小生は中高生の時分は大して漫画を買っておりませんでしたが、周辺にそっち系に詳しい人物も多く(笑)、渋谷で漫画を多く置いているそっち系の店に足を運ぶこともないわけではありませんでした。つまりまんだらけとアニメイトですな。殊にアニメイトは上記の塾へ行く経路上という条件もあって、だいぶ色々買い込んだような記憶が・・・『逮捕しちゃうぞ』のアニメ(第1期)やってたからねえ・・・
 で、小生が中学生だった頃のまんだらけは、今の場所と違ったところにあった(もう正確な場所は覚えていませんが)のですが、確か小生が高校生の頃に現在地に移転し規模も拡大したと記憶しています。またアニメイトは、かつては今の店舗の半分の広さしかなかったのですが、小生が大学に進学して以降だったかと思いますが、隣の証券会社があったスペースを吸収して現在の大きさに成長したのでした。
 漫画なら渋谷でも成長可能なのかもしれない?

 いやでも、まんがの森渋谷店(この店はサイン入り『SWEET SWEET SISTER』を入手した、小生にとっては思い出深い店でしたが)は結局撤退しちゃったし、旭屋が109に開いた漫画書店も今はないし・・・やはり渋谷に来る人は、書物を求めて来るということは念頭にない、あるいは渋谷が「売り」にしているものとこういった文化との相性があんまり良くないのでしょうか。
 ちなみに小生が最近渋谷で良く行くのは、雀荘と飲み屋と東急ハンズと・・・
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by bokukoui | 2007-04-28 23:56 | 書物 | Trackback | Comments(7)

いま少し

 更新する余裕がなさそうです。

 メイドさんの話の続きをいい加減10日も放ってありますが、あれはネタにしようと思って出しておいた書物が書籍流に巻き込まれて行方不明になってしまったのがそもそもの遅延の原因でして・・・すみません。
 部屋の状況はもはやどうしようもなくなっていますが、「目前の用事」を先に片付けなければと思っているうちに一年以上経っています。「目前の用事」はいつまで経ってもなくなりません。しかし部屋を片付けないと「目前の用事」にも差し障るようになっており、つまりどうにもならないということです。
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by bokukoui | 2007-04-27 23:57 | 身辺些事 | Trackback | Comments(0)

[資料メモ]女子小中学生制服化大作戦

 昨日の記事に引き続き、学生服大手・瀧本の社史から引用してみたいと思います。

 今日のところは、本筋である学生服に関るところから。昨日の記事同様、引用に当たっては数字を横書きで読みやすいように直しています。
ミットプランの推進
 昭和36年、素材メーカータイアップによる学生衣料の開発第一弾として、伊藤萬、三菱レイヨンとプロジェクトを組み女子中学生の制服化を推進する「MIT計画」を打ち出した。MITとは、三菱レイヨン、伊藤萬、瀧本の頭文字を取ったものである。
 その当時、義務教育の中学生の制服は、男子については詰エリの学生服を着ていたが、女子はほとんど各学校ごとに指定の制服を着ており、その種類はひじょうに多かった。
 同じセーラー型の制服でもライン胸あて、ポケットの型、刺しゅう、スカートのひだの型、ひだ数など千差万別であった。また一部には自由服装の学校も増えつつあった。これは当時の自由主義的社会風潮からくるものであった。
 それらの制服は、小ロットの生産で、合理化がすすまず、しかも高値で消費者に購入されていた。また衣料品がじゅんたくに出回ってくるに従って、オシャレをする女子学生が増え、自由服装の学校は、通学の服装に派手な格好が目立つようになり、教育面で好ましくないという意見が一部の学校によって問題になってきた。
 こうした情勢をいち早く察知した当社は、女子中学生の制服化を推進することも、企業の社会的使命であるという考え方から、東京支店を中心に、真剣に女子中学生の制服化と取組んだ。
 女子中学生の制服化で、第一の問題は安く提供するということである。それには定番品をつくり、レディメード化して安価に提供する必要があるということで、女子中学生服の学校一括納入を提唱した。
 第二の問題は、制服化をすることによって全生徒が着ることが前提となる。とくに中学校は義務教育であるから、この点が重要で、制服の買えない生活困窮者をどうするかが焦点となり、当社は、素材メーカー、商社、小売店の各段階が互いの利益の一部を出し合い、これらの学生に無償で提供することを打ち出した。
 当時生活保護家庭の中学生は、全生徒数の3%に達し、それに近い生活をしている生徒数も3%を数え、これらの人達に制服を無償で提供するという、過去になかった社会奉仕的な意図を持った女子中学生の制服化運動が、MITプランである。
(pp.176-178)
 衣料品が潤沢に出回っておしゃれをする人が増えるということは、衣料品全体の市場は伸びている一方で差異化が激しくなって企業間競争はむしろ激しくなっていくということなのでしょう。そんな時流を逆手にとって「制服化」を推し進め、安定した市場を確保するという作戦とすれば、瀧本の経営戦略は見事という他はありません。にしても「当時の自由主義的社会風潮」って何よ。60年安保か?
 ついでに、この「ミットプランの推進」の項には、女子の制服の話しかありません。男はどうでも良かったのか? あんまりオシャレに関心なさそうだからどうでも良かったのか。

 さらに、この項目の続きには、小学生についての話が載っています。そこを以下に引用。
小学生服  ミットプランで、女子通学服の制服化が緒につき、さらに東レテトロクイーン(注:東レが開発した女子学生服のブランド。瀧本の社史曰く「MITプランの模倣」だが、「学生服素材の高級化の時代要請から積極的に参加」したとのこと。p.179)の出現で、土台ができた。次いでねらいは、小学生の制服化に焦点を当て、東洋レーヨン及び日本毛織と組んで、小学校のスクールユニフォームの開発をはかった。
 これはあくまでも学校でユニフォームを制服として採用してもらうため、当時、大阪の新阪急ビルで大々的に発表会をし、近畿の小学校役200校、千人程度の先生、PTAの役員を招待し発表会を開いた。
 この小学校の制服も、生活保護を受けている生徒には東洋レーヨンとタイアップして、校長や民生委員の証明があれば無償で給付するというミットプラン方式を採用して、積極的に販売努力を行った。
 ブランドは、「東レ通学服スクール」「ニッケエリート」の両立てで、これもひじょうに反響を呼び、2~3年後には、かなりの採用校ができ、大阪では全小学校の約60%が制服化に踏み切るというほど成果が上がった。
 現在全国で、数千校の学校が制服を採用しているが、その普及につとめたのが当社であったのである。
(pp.179-180)
 関西に修学旅行で行った折、奈良県の小学生が制服なのを見て驚いたものでしたが、これも瀧本の営業の成果だったのでしょうか。
 それはともかく、こっちは男女ともに制服化を推し進めていたようです。
 義務教育なだけに、制服化が経済的な問題を引き起こさないように気を使っているのが伺われます。うがった見方をすれば、ある程度無償で給付しても、全校制服化に踏み切れば算盤が立つと計算してのことなのでしょうが。
 学校制服の歴史を振り返ると、明治の女学校のそれなんかにしても、華美なファッションは学校の生徒に相応しくない、またファッションによって家庭の格差が可視化されて教育現場に出現することを嫌う、そんなことが採用理由として大きかったように思われます。瀧本の戦後の経営方針も、これに則ったものであったといえると思います。
 華美なファッション、特に女性のそれが教育の場で忌避されるのは、やはりそれが男の目を惹きつけるものだから、ということがあろうかと思います。ですから制服採用の理由の一つに、異性の目を無闇と惹くようなファッションを禁じることで学業に専念させるというのは、やはりあったと思うのですが、しかしそのような性的な視線をはねつける筈だったファッション自体が、フェティッシュな欲望のまなざしの対象となってしまうのですから、人間とは摩訶不思議で面白いものです。

 社史には他にも、運動着や園児服の話だとか、この社史が編まれた1975年ごろにブレザー制服の導入を始めていること(「いずれ男女ともブレザーの時代が来る」(p.280)、当たりましたね)など、興味深い話は尽きませんが、その辺はまたの機会にして、今宵はこの辺で失礼。
 この資料を紹介してくださった某氏に、心から感謝する次第です。
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by bokukoui | 2007-04-26 23:53 | 制服・メイド | Trackback | Comments(0)

[資料メモ]スクール水着の誕生と傷害保険

 まだ本調子でないので軽い話題を。

 学生服大手の瀧本という会社の社史を、さる方のご好意でコピー1部いただくことができました。「スクールタイガー」という学生服のブランドで有名な会社です。同社は1925(大正14)年の創業で、各種の衣料品を扱っていましたが、戦後学生服関係に絞って現在に至ります。その瀧本が1975年に作った、『瀧本五十年のあゆみ』という非売品の社史なのですが、幸運にもコピーが今手元にある次第です。
 で、小生の関心の戦前の記述はごくあっさりしているのがちょっと残念ですが、しかし学生服大手の会社がどのように発展していったか、特に戦後では化学繊維の開発とどう歩調を合わせていったかがうかがい知れる、結構貴重な文献ではないかと思います。国会図書館にも所蔵されてないみたいだし。

 ざっと一読しただけですが、とりあえず読者の皆さんの興味を惹きそうな箇所を何箇所か引用して見たいと思います。今日はまず、本命の学生服からちょっと外れますが、スクール水着の歴史にまつわるお話を。引用に当たっては数字の表記を横書きで見やすいように変えています。
スクール水着 海水が公害で汚れ、海水泳が思うようにならず、小学校を中心にプールの設置が始まった。
 当社(注:瀧本)は、こうした情勢の仲で水着の需要動向を調査したところ、一般市販の水着はひじょうに派手なものばかりであり、学校の水泳にはやはり統一された学生向けの水着が必要であるということがわかった。そこで、東レ―八木商店―瀧本の共同企画としてスクール水着に取組んだのが昭和41年であった。
 当初の素材はナイロンを使用していたが、ナイロン66(プロミラン)が開発されると、これに転換した。
 スクール水着の販売で、とくに重視したことは水禍である。このため当社は、スクール水着傷害保険をつけ、当時死亡の場合5万円の保険金つきという制度で販売した。
 プールの急速な普及とともに、スクール水着も伸び、現在(引用注:社史発行は1975年)では数百校の指定を得て、30万枚近い水着を納入するという安定商品になっている。
 傷害保険は二、三年続けたが、プールでの事故がほとんどなくあまり意味がないということで、現在は、八木商店サイドで、ベルマークにスクール水着を登録し、学校の設備増強に役立つ方策をとっている。
(同書pp.238-239)
 当初プール授業の導入で、事故がけっこう懸念されていたようですね。その後実際、プールに飛び込んで底で頭を打って障害を負ってしまったという事故が何件か発生しているかと思いますが、それを思えばこの保険をやめてしまったのは早計だったかもしれません。もっとも、死亡で5万円っていくら1966年とはいえ安いような感もありますが。

 で、他にも興味深いところがありますので、機会があればまた紹介引用してみたいと思います。
 ちなみにこの瀧本については、ウィキペディアの記事がどういうわけか編集合戦になっておりますが、それ以前に記事本文に誤りがあります。「同社の商標のスクールタイガーは1929年に登録されている」とありますが、社史によれば戦前には「タイガー」印を商標登録していなかったため、戦後登録しようとしたら他のシャツメーカーが既に使っておりさあ大変。とりあえず特許事務所に相談して、「スクールタイガー」はじめ「タイガー」+〇〇という商標を登録する一方、そのシャツメーカーに対し商標無効を訴えます。これが1952年のことのようで、「スクールタイガー」商標は翌年に認められた由。
 これはそのシャツメーカーから「スクールタイガー」の商標はうちの「タイガー」を侵害すると逆に訴えられたりしながらも、遂に瀧本が戦前から広く「タイガー」印を使っていたことが認められて勝訴となるのですが、それが1971年。19年もかかったのか・・・(以上、社史pp.188-192)
 知財だの商標だの著作権だのかしましい昨今からすれば、悠長なお話でした。

 ところで、ではいつから「タイガー」印を瀧本が使っていたのかというと、社史を丹念に読んでも良く分かりません。瀧本が子供服専業になった1930年に虎のマークを作ったらしい(p.41)のですが、会社の創業者は創業当初から虎のマークを使いたがっていたらしく(p.40)、一方裁判の話では「昭和2年(注:1927年)頃の手帳などタイガー印の入った証拠品」(p.191)を提出して勝訴したとあるし・・・まあとにかく、ウィキペディアの「1929年にスクールタイガーを登録した」というのではなさそうです。
 今の瀧本のサイトを見ると、現在の「スクールタイガーα」のロゴが、社史に載っている30年以上も前の当時(ロゴ作ったのはもっと昔だろうなあ)のそれとほとんど変わらないように見え、それがかえって格好よくも感じられるのでした。

※この記事の続きはこちら
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by bokukoui | 2007-04-25 23:55 | 制服・メイド | Trackback | Comments(5)

風邪につき本日休業

 道理でここんとこ不調だったはずだ。

 明日こそはもちっとマシな記事を・・・
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by bokukoui | 2007-04-24 23:51 | 身辺些事 | Trackback | Comments(0)

眠い

 どうも不調につき本日休業。
 まあ昨日付けで事実上二本記事を書いたということで・・・

 ロシアのエリツィン大統領が亡くなったそうで。
 ゴルビーやエリツィンの時代のロシアは、ある意味「よい」というか、周辺諸国がロシアの進む方向を好意的に見ることが出来たような印象がありましたが、その後すったもんだの末、プーチン時代になって「あるべき」姿に落ち着いたという印象があります。つまり何やらかすか分からない、おっかない国だということで。
 ジョルジュ・ボルトリ『スターリンの死』に、ソ連が自国にやってきた外交官に対し厳しい移動制限を課し、モスクワ近郊の町ですら「宇宙の星のように」行くことが叶わなかった、という一節がありましたが、今のロシアも旅行者が自由に国内を巡るのはかなり難しいそうです。大体帝政ロシア時代の農奴に移動の自由はなかったし、ソ連時代も自国民の国内移動すらパスポートが要ったわけで(まあそういう国は、19世紀頃までは結構あったようですが)、まして外国人においてをや、というわけなんでしょうけど。
 ソルジェニーツィンの作品の舞台になったコーチェトフカ駅を見に行くのは、かなり無理そうですな。

 書きたい話題は多々あれど、どうも色々不具合が多くて・・・
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by bokukoui | 2007-04-23 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(4)

今日の東急デハ5001号の状況(30)

 この調査も30回目となりました。
 なおこの記事は、掲載の時刻を調整してあります。

(続きを読む)
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by bokukoui | 2007-04-22 23:59 | [特設]東急デハ5001号問題 | Trackback | Comments(0)

渋谷・目黒点景

 昨日の言を守れず申し訳ない次第ですが、今日もまだゴタゴタしてるので、小ネタでお茶を濁す次第です。何卒ご寛恕の程。

 今日は統一地方選後半で、といっても神奈川県の横浜市民である小生には直接投票するということはないのですが、渋谷駅頭に東急5000形のデハ5001を切り刻んで転がした渋谷区を注視している身としては、その結果が気になるところです。まあ現職の圧倒的優位は揺るがないと事前に予想されており、そしてまた結果もその通りになったのですが・・・。
 そんなわけで、所用で出かけた今日、渋谷区で選挙ポスターの掲示板を見つけて、しばし見入った次第でした。
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問題の桑原区長

 ちょっと見難いですが、「渋谷みらい推薦」と右下に書いてあります(ポスターにシールで張ってある)。この「渋谷みらい」というのがどういう団体なのか、検索してみても良く分からなかったのですが(保険事務所の名前が矢鱈引っ掛かるばかり)、ここをひらがなにするセンスがかえって駄目な感じがします。あるいは渋谷を自分の都合の良いようにしゃぶり尽くす「味蕾」なのでしょうか。駄洒落はともかく、過去に目を向けない者は未来にも盲目である、とワイツゼッカー大統領の言葉を思い出さずにはいられません。
 もっとも実際には、渋谷区長選は大した波風もなく現職が当選してしまい、話題になったのは精々この人の立候補くらいでした。
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 ウェブ上の反応は(ウェブ上ぐらいでしか反応なさそうだけど)、概して不評だったようですが、それは宅八郎氏それ自身に対する批判なのか、立候補したことへの批判なのか、その辺はあんまり判然としなかったような印象があります。
 ところで、ポスター自体は案外普通のデザイン、とは大して面白くもないわけですが(渋谷を「萌える」街にしたい云々の文言がない)、それは宅八郎氏を公認した「オンブズマン渋谷行革110番」の統一デザインだったからのようです。
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 この「オンブズマン渋谷行革110番」の代表も、兎角噂のある人物だそうで。
 ポスターのデザインを会派で統一していたのは、共産と公明という仲の悪い二党が目立ちました。思うにこの二党は、政党の力で票を集めるため、個人の特徴よりも所属している党派を明示することに重きが置かれたためではないかと推測します。党派が前面に出る分、候補者はその枠からはみ出さないことが求められるわけですな。
 それはそれでいいのですが、この「オンブズマン渋谷行革110番」の場合はプチ政党なのですから、折角宅八郎氏を出馬させたからには、もっとはじけたポスターを作って少しでも話題性を高めた方が良かった気もしますが・・・いやまあ、この党派の名前を売ることが目的なので、あんまり宅八郎氏の個性を強調するような結果になってもしょうがない、ってことなんでしょうかね。

 ところ変わって目黒の話。
 目黒駅周辺をうろうろしていたら、住宅街の中の狭い道に面して、こんな建物がありました。
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 門の左右に公明党のポスターが張られていますが、それを含んでも別にどうってことない建物のようです。
 が、しかし、真ん中の茶色い看板をよく注意して見てみますと。
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「『創価教育学会』発祥の地」

 こんなところが創価学会の原点の地だったとは知りませんでした。
 もっとも目黒界隈が新興宗教に優しい土地なのかといえば、必ずしもそうでもないようです。同じく目黒区近辺の、あるゴミ集積場の風景を。
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 ところで、なぜ小生が所用ついでに渋谷をうろついていたかといえば、それはデハ5001号の取材をしたからであり(こちら)、目黒をうろついていたのはMaIDERiA出版局のコンテンツ作りのためです。このコンテンツについては、再来月かその次か頃には完成させたいと考えております。・・・予定通りにいったためしはないけど(苦笑)
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by bokukoui | 2007-04-22 23:58 | 出来事 | Trackback(1) | Comments(4)