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今日の秋葉原界隈~「6・30アキハバラ解放デモ」見学記

 秋葉原へ機材とネタの仕入れに行ってまいりました。
 憑かれた大学隠棲氏のお蔭で安価に中古のスキャナを手に入れることが出来、これで今後資料とか図面類を取り込んでいろいろと作業を進めることが出来そうです。

 で、ネタの方。
 昨日一昨日と関連記事を書きましたが、「6・30アキハバラ解放デモ」ですね。
 「反白色テロル大連帯」観察が奇縁となり、「革命的非モテ同盟」クリスマスバレンタインデーホワイトデーの三大白色テロル粉砕街頭活動を覗いてきた者としては、やはり今回行かないというのもどうかと思いまして。
 ただ、今回のデモに関しては、あとでもうちょっと詳しく述べますが、参加者のみならず取材者や報道者の数も非常に増えており、既に画像の充実したレポートを挙げておられる方もおられますので、小生は別記事を立てる予定のデモ関係者への取材の方に重点を置き、この記事のデモそのものの写真やレポートはなるべく簡潔に済ませたいと思います。
 なお、迅速かつ詳細なレポートの例として、「アキバblog」で紹介されていた「ジャブローの風の噂」さんの記事にリンクを張っておきます。プラカードなどの詳細が掲載されており、大変よく出来ていると思います。

追記:当ブログの関連記事一覧
「6・30アキハバラ解放デモ」関連雑感
「6・30アキハバラ解放デモ」極私的総括 或いは「井ノ原春陽の憂鬱」
続「アキバ解放デモ」極私的総括 或いは「やらないか(ベルギーを)」
「アキハバラ解放デモ」関連の現況雑感

 スキャナ仕入れやさる友人とちょっと会ったりするために、昼ごろ既に小生は秋葉原に着いておりましたので、ちょっと足を伸ばしてデモのコースを確かめつつ起点の練成公園に行って見ました。
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正午前の練成公園 小さな公園で人影もない

 この時点では、数名のデモ関係者と思しき方々がおられただけでした。

 で、諸般の用事を済ませてデモ開始予定時刻より少し前、14時ごろに練成公園に着いてみますとこの状況。
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14時ごろの練成公園 もう既に人大杉

 この時点で200人前後が居たのではないかと思います。各種コスプレなども散見されました。
 この賑わいに驚きつつ、「革非同」の古澤書記長にご挨拶。そんな中でも続々と人が詰め掛けてきます。このデモ、参加者100人と予定して申請しており、関係者の見込みではもしかすると200人くらい来るかもしれない、300人ももし来たなら奇跡、ぐらいのつもりだったそうです。しかしあっさりとその見込みはオーバーされてしまい、最終的にはデモ参加者450人程度という動員数を記録することになります。デモ主催陣はこの人数をどう裁くのか大いに気を揉んだのでした。
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あまりの参加者の多さに急遽鳩首会議を開くデモ関係者
左の黒ヘルが「革非同」書記長、白ヘルが「革萌同」書記長

 渋谷のデモは十数人、池袋のデモも二十人かそこらでした。三人デモの高円寺ニート組合には及ばずとも、このデモらしからぬ少人数手作り感が愉快であった過去の事例とは大きく異なります。池袋の二十倍に増えたのだから、単に三派聯合になったから人が増えたというのでもないようで、今までの前宣伝が色々とあった(木曜日の読売新聞夕刊に、「オタク」として有名な記者が本件を報じたとか)にしても、一体どこからこんなに人が来たのか、主催者側も把握し切れていない状況のようでした。
 小生は「警護」の警察関係者の中に、渋谷と池袋でお馴染みになった公安? らしき方の姿を探しましたが、今回はこられなかったようで残念。

 この人数の多さにどう対応するかで色々と策を練る必要があったためでしょうか、デモは14時半の集合時刻を過ぎてもすぐには始まりませんでした。3列でデモをする予定が当初予想の倍の人数が集まったため、隊列が長くなってしまうことが問題だったと思われます。こういったことに警察が矢鱈と五月蝿いのは、デモとはお上に逆らう天をも恐れぬ犯罪行為、という発想を引きずっているのでしょう。そう、「お上の事には間違はございますまいから」。
 公園の外にデモ隊の先頭が出たのは14時45分頃だったかと思いますが、その後の行列の調整に手間取って、動き出したのは大体15時ごろだったのではないかと思います。以後の状況は写真でざっくりご紹介。
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デモ隊の先頭が表通りへ

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隊列は練成公園前の道を埋め尽くす

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隊列はなおも続く 水色の『ハルヒ』関連コスの多さに注目

 今回このデモが主催者の予想を大きく上回った参加者があったのは、どうも mixi による宣伝が大きかったのではないかということがデモ関係者から伺ったご意見でした。私見では、その中でもこの『涼宮ハルヒの憂鬱』なる作品シリーズのファンが大勢集合したことが、デモの人数がふくれあがった大きな要因なのではないかと思います。正直、特定の作品のファンばかりがそれを掲げて集まってくるという状況は、いろんな「オタク」がいろんな主張を、という今回のデモの公式目的からしても、そして小生の個人的「オタク」に対する信念からしても、いささか憂鬱な現象のように思われました。これについては後刻の記事でまた詳しく。
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メイド喫茶の前を通り過ぎるデモ隊と
思わず自転車を停めて見入るご老人

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中央通りを横断するデモ隊

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ペデストリアンデッキから見下ろすデモ隊の隊列
(ガラス越しのため人影が写り込んでいるのはご海容の程)

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デモ隊を撮影する人々も大勢(←小生もだけど)
画面中央の旗を立てている一行は「サウンドデモ」のための機材部隊と思われるが、
隊列が長すぎて効果は今ひとつ発揮できず

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線路を越えて行進するデモ隊
手前は「すっごっーい!! 何あれ!?」と携帯電話で撮影していたカップル

 デモは1時間の予定でしたが、行列整理に手間取ったこともあってか、目的地の和泉公園に到着した時には既に15時半をいくらか回っていたと思います。この公園もそれほど広いところではなく、到着したデモ隊によって埋め尽くされてしまいました。
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和泉公園に到着したデモ隊

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終了の挨拶をする古澤書記長

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気勢をあげるデモ参加者

 既に予定時間を超過しているため、迅速な解散が促されます。古澤書記長はこれまたお約束の、「家に帰るまでがデモです!」とトラメガで呼びかけて、参加者の解散を呼びかけていました。それでもやはり人数が多いので、解散には16時ごろまでかかったかと思います。

 デモの顛末は大体以上で、デモ当局としては事故がなく対処者や怪我人を出さずに済んだことで何より安心している様子でした。参加人数は約450人(プラス沿道で撮影していた野次馬も少なからず)、今までのデモに誰一人女性が居なかったのに女性率はかなり高く、また外国人の参加者も見受けられました。コスプレイヤーが何人居たのかは正確な数字は分かりかねますが、50人くらいはいたのではないか、というのが爾後に話し合った時の議論で出た数字でした。
 デモについての小生の感想、これに関連して色々と思ったこと、「中核派の陰謀」説の検証などは次の記事にて。
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by bokukoui | 2007-06-30 23:59 | 出来事 | Trackback | Comments(2)

「反白色テロル大連帯」に関する新情報?

 昨日の記事のおまけというか、派生みたいな内容。

 「6・30アキハバラ解放デモ」に関連してネットをちょいとうろうろしていたら、こんなブログの記事を発見しました。

 誰から解放するのか
 (Je n’avais pas l’intention d’aller à la mer.-en manière de Haruphilie)

 で、この記事の本文はひとまず措くとして、末尾の一節を読んでびっくり。
・・・革命的非モテ同盟のid:furukatsu氏はたしか反白色テロル大連帯の加藤龍男氏と関係があったはず。彼は本物の左翼である。指導してもらえばよかったのになあ。ああ、でも共産党員だから新左翼ではないのか……ややっこしいな。
 何にびっくりしたかというと、

 1.「反白色」と「革非同」は関係がないと古澤書記長からじかに聞いていた。
 2.「加藤龍男氏」って誰?

 1.に関しては、上掲リンク記事のコメント欄に古澤書記長ご自身がコメントをされているので、そこのやり取りを引用しておきます。(一部関係ない箇所は省略してあります)
furukatsu 『いや、私、反白色の知りあいはいませんよー』
y_arim 『>furukatsuさん
む?ヴァレンタイン粉砕の折に加藤氏が応援に駆けつけたと伺っておりますが。まあその一点を以って「関係がある」とは言えませぬか…』
 はて、バレンタイン粉砕デモのときにそんな人いたかな? 東大関係者が結構いたことは事実ですが。
 なお、2.について、小生が記した「反白色テロル大連帯」の記事中に登場する首謀者で民青(共産党系)のK氏のフルネームは、「加藤龍男」ではなかったと記憶しています(似てるけど)。或いは「再建」とか「新」とかの「反白色」の人なのかな?
 上掲リンク先ブログを執筆されている方は「新月お茶の会」の関係の方のようなので、また何かそちら方面の情報をお持ちなのかもしれません。小生はそっちには伝手がないので分かりかねます。また、現在の自治会系(共産党系)の動向もよく存じませんが、これは現在自治会をこよなく愛することで右に出る者も左に出る者も居ないラーゲリ氏がきっとご存知だろうと思いますので、是非氏のコメントをいただきたく存じます。

 なお、「誰から解放するのか」本文の、「現状ですでにオタクカルチェラタンと化している秋葉原を、この上誰の手から解放しようというのか。」という言葉には首肯することしばし。不動産業資本からか? 再開発を強行するファシスト石原都政からか?
 何より、自分の好きなことは自分ですればいいのであって、「みんな」でする必要は別にない(一番大事なことではない)のであります。
 その辺も含め、明日はちょいと見物と買出しに。
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by bokukoui | 2007-06-29 23:58 | 出来事 | Trackback | Comments(6)

「6・30アキハバラ解放デモ」関連雑感

 資料類の整理もだいぶ進んで、この分なら土曜日の「6・30アキハバラ解放デモ」は見に行けるかな、というか、どっちにせよ自分も秋葉原方面に用事があるので行ってこようかなという感じです。
 しかしまあ、ちょっとその前に思うところをチラシの裏的に若干。

・関連リンク
 「6・30アキハバラ解放デモ」公式サイト
 「6・30アキハバラ解放デモを企画した経緯」公式ブログ記事
 「アキハバラを占拠せよ!」オーマイニュース(古澤書記長のご尊顔が)
 「第二の『花オフ』となるのか、それとも」世界の中心で左右をヲチするノケモノ

 そもそも小生は民青系団体・反白色テロル大連帯元ヲチャ(笑)として、その精神を受け継いだ?「革命的非モテ同盟」の活動をそれなりに楽しく見学してきていたわけですが、「ホワイトデー爆砕デモ」を3ヶ月ばかり前に見に行ってレポートを書いたの後、この方面の話題をあんまり書いてきていませんでした。それは、「非モテ」というお題に関して、ネット上で議論が活発な方面と小生がそれについて関心を持った角度とのずれを感じたからです。敢えて言えば「非モテ」というお題の議論はその議論をすること自体に内容よりも意味があるのではないかという感を抱いたため、関心が低下したというところがあります。
 また、「ホワイトデー爆砕デモ」のレポートの末尾に「革非同」で起きた出来事について些か個人的に思うところを述べたところ、若干のゴタゴタが発生し、それ自体は結果的に大したことにはならなかったのですが、当ブログに苦情をつけてこられた方のその後のご様子を伺うに、非常に複雑な思いを抱かずにはいられなかったのです(情報があやふやで、また個人の微妙な問題に関るので、奥歯に物の挟まったような表現であることをご寛恕ください)。
 抱いた思いを簡単に述べれば、「オタク」「二次元」趣味では救われなかったんだなあということです。「オタク」的な生き方というのは、ある種の人々にとって気の世の中を生き易くするための方策であると考えられますが、この方策で「生き易く」なる状況を安定継続させるのにはそれはそれで方向は違えど努力は必要で、メリットも多々ありますがリスクや失われるものも当然あるわけです。万能の解決策じゃありません(というか、むしろかなり特異な方法です)。その辺の付き合い方が難しいのだろうと思います。
 で、以下に小生が思う「オタク」的生き方の安定継続に資する方向性を述べつつ、今回の「6・30アキハバラ解放デモ」について現時点で思うことを簡単に。

 まず最初に、公式サイトの惹句、
あらゆるアキバ系のオタク諸君!エロゲーマーもアニメファンも、鉄オタも軍事ヲタも、VIPPERも共産趣味者も、日本人も外国人も宇宙人もみんな集まれ!もはや時代は好きに生きるか、それとも縛られて生きるかを選択する時だ!
 を一読して、「鉄道趣味者や軍事マニアを安易に『アキバ系のオタク』と並べないで欲しい」と思わずにはいられなかったわけで、「オタク」という名のもとに「秋葉原的なもの」による帝国主義的言動を批判したいとまずは思います(笑)。
 でまあ、もうちょっと真面目に思うところを述べますと、阿呆なことを堂々とやって楽しむというパフォーマンスがこれまでの「革非同」の面白さだったと小生は思うのですが、どうもなんだか今までよりも「真面目」的な印象を文面から受けてしまいます。これは「ホワイトデー粉砕デモ」レポの末尾に敢えて書いたこととも共通するのですが、あくまで政治的要求を掲げること自体が遊びなわけで、あんまり真剣になられてもそれは返って逆効果になってしまうんではないかと。
 で、今までの「革非同」のイベントは、クリスマスとかヴァレンタインデートかホワイトデーとか、普通デモやって批判するなんてことをしないものを対象に敢えてデモをやるということで、パフォーマンスとして面白く芸になっているわけで、しかも可笑しがらせることで(うまく行けば)より多くの人に何がしかの印象を残すことが可能だったと思います。
 それが、今回のデモはその点パフォーマンスの芸としての焦点が(「クリスマス」みたいな具体的な目標がない分)ボケてしまっているというか、「内向き」度が高いというか、そういうところがちょっと心配です。「サウンドデモ」という形式にしても。

 このような点が、上の関連リンクに挙げた「世界の中心で左右をヲチするノケモノ」さんの記事「第二の『花オフ』となるのか、それとも」で、いろいろと政治的背景(中核派との繫がりなど)について勘繰られる原因ともなっているのだろうと思います。面白イベントと見做すにはちょっと、と引っ掛かる点を生んでしまっていると。
 小生の個人的見解では、これが過激派が関与していると見做すのは勘繰りすぎだろうと思います。関係者について中核派との関わりよりももっと重要なファクターがあるというのが今まで見てきた小生の印象です。ただ、小生は「革非同」はともかく他の2団体についてはよく存じませんし、三派聯合となったことで今までと違った傾向が生まれるのかもしれません。
 まあ、「6・30アキハバラ解放デモ」公式ブログの「6・30アキハバラ解放デモを企画した経緯」を読む限りでは、そういった心配は杞憂だろうと思いますが。ただ今までのこのデモの宣伝手法が、こういった印象を与えやすいのは否めません(この公式ブログは複数の筆者によって書かれており、その間で「遊び」なのか「政治活動」なのか、多少スタンスの違いがあるように見受けられます)。

 で、最後に勝手な感想を一つ述べさせていただきます。
 「オタク」が集まって何がしかのイベントを開催すること自体は一向に構わないと思いますが、「オタク」だの「マニア」だのは、まず何よりも個人的な活動ではないかと思います。人と交流することよりも何かを追求することを選んでいるわけで。人と話題を合わせるよりも、自分の世界を築き上げてこそ、と思います。
 例えば鉄道趣味者や軍事マニアのように、実態ある物についての情報集積がメインの場合は、比較的「オタク」相互の話はしやすかろうと思います。「アキバ系」でも、評論活動とかならばまだ話はしやすいでしょう。ですが、そういった情報や表現物に刺激されて自分の中に築き上げてきた妄想のセカイとなりますと、自分以外の人間にとって面白いかどうか、そもそも理解できるのかということさえ埒外になってくるのではないかと思います。自分にとってかけがえなく耽溺した妄想だからこそ、他人に話せるものでもなくなってくるというわけで。
 もちろん、そういった妄想を作品として結晶させて世に問うということもあろうかとは思いますが、その際には世に通じるように表現を推敲することが必要なのではないかと思うのです。
 つまり、「オタク」「マニア」は個人的な活動が根底にあるから、時には集まって盛り上がるのもいいけれど、まず何よりも日々の個人的活動があってこそ、しかもそれは人に話せるようなものでないのではないか、ということです。小生が「萌え」という表現をあまり好まぬのは、そういった他者に通じさせることが困難な自分の妄想を、「萌え」のテンプレートに当てはめることで簡単に他人と共有化したような気分になって盛り上がってしまうからです。共有化できないようなものだから自分にとって価値が大きいのではないかと。ある話題を共有して共感を得るというコミュニケーションがしたいのなら、それこそ「モテる」努力とかした方が合理的ではないかと思ってしまいます。
 そう思いますので、以前にも「団結」より「拡散と浸透」がいいんじゃないかと書いた次第でして。

 てなわけで、デモのついでにここに行ってみるのもいいのではないかと思います。ちょうど今やっているというのも何かの縁でしょう。

原美術館「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語―夢の楽園」

 ヘンリー・ダーガーについてはタマ兄ぃの『戦闘美少女の精神分析』でもお読み下さい(文庫化したそうで)。小生も今仕掛けている論文作業が終わったら見に行きたいと思います。
 展示期間は7月16日(海の日・月)まで。

追記:デモ後の関連記事は以下の通り。
今日の秋葉原界隈~「6・30アキハバラ解放デモ」見学記
「6・30アキハバラ解放デモ」極私的総括 或いは「井ノ原春陽の憂鬱」
続「アキバ解放デモ」極私的総括 或いは「やらないか(ベルギーを)」
「アキハバラ解放デモ」関連の現況雑感
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by bokukoui | 2007-06-28 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(6)

エキサイトブログ当局表示修正 附:人名雑感

 昨日の記事で、「これだけ批判が続けば、エキサイトブログの仕様もそのうち元に戻るだろうと楽観しております」と書いたところ、本当に一日で直っていました(笑)。今度はユーザーから安心の声が続々と寄せられております。あまりにも対比が明確で可笑しいくらいです。
 まあ、根本的に解決したわけではないのですが・・・。

 色々と書きたいことはありますが、またお仕事がちょいと増えたりゴタゴタしているので、今日のところはこれにて失礼。早起きしたので眠いし(健康的だ!)

 というだけなのもつまらないのでちょこっと小ネタ。
 友人のmixiでDQNネームのサイトを知り、またニコニコ動画でこれの動画ヴァージョンを見つけたりして、なかなか面白おかしくはあるわけですが、しばし思うに日本人は苗字からしてそもそも矢鱈と変なのが一杯あり、明治時代に当代きっての教養人であった軍医総監殿が子供らにつけた名前を思い返したりするにつけ、案外「DQNネーム」は我が民族の"伝統"ではないかと思ったりもするわけです。
 その昔苗字について悲惨な話をどこかで読みました。南条範夫(?)の歴史小説の短編集だったかと思いますが正確には覚えていません。でも話の内容は良く覚えています。こんな話。
 時は16世紀末、秀吉は朝鮮征伐を命じ多くの武将が海を渡りました。加藤清正公もその一人として有名であります。某日、その清正公の配下の雑兵が、哀れ虎に攫われてしまいました。雑兵は食い殺されるものと覚悟しておりましたが、巣に雑兵を銜えて戻った虎はそのまま寝てしまいました。どうも保存食のつもりらしいです。勿怪の幸いと雑兵は脱出を図りますが、虎に気づかれて追いかけられたら一巻の終わり。そこで雑兵、そこに生えていた草だったか笹だったか木の枝だったか、それを眠っている虎の陰嚢の根元にそっと括りつけ、しかる後逃げ出します。
 気がついた虎は飛び上がって雑兵を追いかけようとしますが、その途端に陰嚢がぎゅっと締め上げられてショックで倒れ、逆に雑兵に討ち取られてしまいました。
 雑兵はその虎を持ち帰り、清正公に大いに褒められます。で、清正公はその雑兵に苗字を下賜してやったのでした。


 「金玉」氏と。

 そりゃまあ、虎の金玉を締め上げて倒したんですから。
 でもこんな苗字をもらうって、ほとんどイジメではないかと。清正公もまあ出身を考えればDQN・・・いえなんでもありません。でも同じ肥後の大名でも、細川幽斎公であれば絶対にこんな名前にはしなかったと思います、はい。
 で、この歴史小説のオチは、作家氏が「『金玉』さん、苗字変更の訴え認められる」という新聞記事を見つけて、「をを、金玉さんの子孫は今に続いていたのか!」というのだったと思います。DQN苗字に3世紀半付き合わされた一族の悲劇は、こうして幕を閉じましたとさ。

 実は小生自身、結構森鴎外の子供的名前なので、正直DQNネームサイトで「名前は平凡なのが一番」とか言われると何となく微妙な気持ちになります。まあ、正確に読まれないという経験はざらでしたが、しかし他に同姓同名が(多分)いない名前にもメリットが無いわけではありません。小生の大学学部時代の友人で、彼の卒業・就職後縁の切れてしまった人が居たのですが、彼があるとき気紛れで小生の名前を検索してみたところ、たまたま某所に小生が本名で出ているサイトを見つけ、そこから連絡が繋がって再会したということがありましたので。
 ま、程度問題ではありますけどね。
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by bokukoui | 2007-06-27 23:59 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(4)

エキサイトブログ当局の状況について雑感

 今日はあまり調子が良くなく、明日は多忙につき小休止。

 あと最近折角タグをつけたのですが、エキサイト側の仕様変更で大幅に閲覧性が低下しております。
 ユーザーの怒りの声はこちら
 いままでのトラブル報告に対するコメントでは、エキサイト当局批判コメントが数十続くと「まあまあ」と行き過ぎをなだめるコメントも出たものですが、今回は流石に怒りの声しかほとんど出てこないところが、事態の深刻さを物語っております。

 とまあ、人事のように書いておりますが流石に小生も今回の変更には困惑しました。対抗上トップに表示される記事数を12に増やした(今までは7)のですが、このブログはこないだのアメリカ旅行記の如く写真が多かったり重かったりする記事が多いので、読み込みが遅くなっているかもしれません。
 要するにある月の「以前の記事」をクリックしても、トップページに表示されている件数しか記事もタイトルも表示されず、全件表示されないんですね。トップページに表示できる最大記事数は30件ですので、当ブログの如く毎月の記事数が日数を上回っているブログの場合、どうやってもオーバーフローします。
 同じことが「タグ」でも起きているので、タグのついた記事タイトルを全部一同に見ることが出来ません。
 つまりこの過てる「改正」は、記事を沢山書いている人ほど不利になる(情報の閲覧性が悪くなる)という面があり、さてこそユーザーの怒りを買ったものと思われます。

 これだけ批判が続けば、エキサイトブログの仕様もそのうち元に戻るだろうと楽観しておりますが。
 これもまた、ブログやめて本業に専念せよという天の声か(苦笑)
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by bokukoui | 2007-06-26 23:58 | 身辺些事 | Trackback | Comments(0)

中島らも『アマニタ・パンセリナ』そして自衛隊の『悪い習慣』


 昨日の記事で、飲酒・喫煙・薬物・賭博・性的非行・罵りを扱った、翻訳が頗る読みにくいのが難点のJ.C.バーナム『悪い習慣』について述べましたが、今日は大学院の帰りに古本屋で故中島らも氏の著作『アマニタ・パンセリナ』を見つけて買い込み、読み終えました。
 内容は睡眠薬や咳止めシロップ、怪しいキノコにサボテン、シャブ・大麻から仕舞には抗鬱剤まで、そして最後にアルコールと、人間に怪しい作用を引き起こすドラッグ列伝。ドラッグとの中島らも氏(と氏をとりまく人々)の付き合いぶりがおかしくも恐ろしく、何よりそんな自分とその周辺を描き出すらも氏の筆に魅せられます。で、らも氏は「薬」で一括りにされがちなこれら諸々を、体験と美学に基づいて「ドラッグには貴賤がある(p.45)」と、細やかに描き分けていきます。実際、ドラッグ別になっている章ごとに叙述スタイルが変わっているように思うのです(筒井康隆の不条理小説みたいになっている「ハシシュ」の項なんかが、特徴が分かりやすい)。いわばドラッグ各種でラリリ感が違う、ということを、医学的ではなく散文的な方法(ジャンキーなロッカーが歌で伝えるのとはまた違った)で伝えてくれているというところでしょうか。更に、コカインで捕まったことを苦にして自殺してしまったプロレスラー(実は事故で足を痛め、リングに上がるためにコカインをやっていた)の話からステロイド剤にまで話が及ぶその広い視野は読んでいてうーんとうなりました。

 様々なクスリに加えアルコールについても書かれ、まあタバコやバクチの話は出てきませんが(エロはちょい)、扱っているテーマとしては昨日の『悪い習慣』にも通じるように思われます。
 しかし叙述形式が全く違うわけで、それが『悪い習慣』でいまいち隔靴掻痒だったところに微妙にかすって行ったような読後感を覚えました。
 なぜ人はかくもドラッグにひかれるのか。社会学者や心理学者の大部の研究を無視して僕はこう答える。
「それが気持ちいいからだ」
 と。まことに阿呆な答えだが、そうとしか言いようがない(学者はこんなアホな答えはできない)。
 (中略)
 すべてのドラッグは「自失」へのい希求ではないかと僕は考えている。
 公園で、三つか四つくらいの子供たちが、くるくるくるくると廻っている。回り終わって倒れそうになるくらいのあのめまい、血の逆行が「気持ちいい」からだ。
 あれはドラッグの根源だ、と僕は見る。
 人はそうして「自失したい」のである。
 (中略)
 では、人はなぜかくも「自失」を望むのか。
 心理学的にはたくさんの分析ができるだろうが、僕の答えはまた元に戻る。
「それが気持ちいいからだ」
 と。
 人間が快楽原則にのっとって生きている以上、聖者もジャンキーも同じ舟に乗っているといえる。禁を犯さず何十年と修行すること、それははなはだドラッグ的だ。
(pp.211-213)
 左様、しかし時にはアホな答えをアホと切り捨てずに突っつきまわしてみることも必要なんだろうと思います。

 なんてことを思いつつ、電車の中で読了して帰宅後テレビのニュースを見ていたら、こんなニュースが。

 陸自隊員が覚せい剤所持=隊舎に吸引器、陸士を逮捕-習志野駐屯地

 をいをいをい、去年も大規模な麻薬事件が発覚してたじゃないか! おまけに習志野空挺団といえば陸自きっての精鋭の筈。それが、何が悲しゅうて旧軍が戦時中に労働者に長時間作業をさせたり特攻隊などの景気付けに使ったといわれるヒロポンをやるとは・・・。旧軍以来の伝統、ですかね。

 バーナム『悪い習慣』では、飲酒・喫煙・性的非行などの普及には、20世紀前半の2度の戦争でアメリカ人が大勢徴兵され、彼らが軍隊で下層階級的な文化を受け入れてきたからだ(麻薬はヴェトナムの時とか)、と述べていたように思われますが、自衛隊もラリパッパな風習の伝播に貢献しているのでしょうか。
 で、実は中島らも『アマニタ・パンセリナ』にも麻薬と軍隊の話が出てきますのでちょこっとご紹介。
 これは柘植久慶センセイが『月刊imago』なる雑誌の1990年7月号に書いていた「麻薬と政治学」という文章の一節についてらも氏が述べたもの。柘植氏は第4次中東戦争やイライラ戦争で、ハシシュで戦意を高揚させて死ぬまで戦わせたり地雷原に進撃させたりしたのだ、と自説を述べるのですが、それに対しらも氏はこう疑問を呈します。「はて、ハシシュやアヘンを吸ってとろとろに溶けた人間が戦争なんぞできるものだろうか(p.132)」と。
 ハシシュはダウナー系なので、吸うと「とろりとして、実に平和な気分になる」のだとか。柘植氏は文中で、中東はハシシュの本場であり、かつてこれを使った暗殺団があった(イスマイール派のニザリ教団)としています。しかし、その教団によるドラッグの使い方は、若者を山中に作った花咲き乱れる美しい城に拉致し、そこでうまいもん食わせて綺麗なねーちゃんはべらせて、そしてハシシュを吸わせて「地上の楽園」もとい天国を体感させます。しかる後に若者をそこから追っ払い、戻ってきたければ誰それを暗殺せよ、と命じるのです。たとえ失敗して死んでも魂は天国に戻ってこられるのだと説くのです。だから単純に、ハシシュで狂戦士となるわけじゃないんだと。
 そしてもっと重要な指摘は(ここまでの話は別な本で読んだこともあったので)、単純な薬効の問題ではなく文化的背景をらも氏が指摘していることだろうと思います。
・・・死ぬためには本物の天国がいる。もはやニザリ教団の時代ではない。
 あきらかに、ドラッグ抜きの抽象が、宗教による高次元へのまなざしがここに介在している。でなければ、いくら羽化登仙していても人間は地雷原を歩けるものではない。
(p.133)
 なるほど、なるほど。
 ところでこれに関連して、マルタン・モネスティエ『【図説】児童虐待全書』にあった話だと思いますが、イラン・イラク戦争のイランでは、少年兵を麻薬でラリらせて「宗教的体験」のような幻覚を与え、しかるのち地雷原に突っ込ませていたという話があったように記憶しています(確かめていません)。柘植氏のハシシュ観に誤りがあったにせよ、「伝統的」な使われ方はされていたのかもしれませんね。
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by bokukoui | 2007-06-25 23:59 | 書物 | Trackback | Comments(3)

J.C.バーナム『悪い習慣』雑感

 このところ今の研究に関連してアメリカの近代史(あ、アメリカには近代史しかないのか)について興味を持ったりしておりますもので、ちょこっとそれにまつわる本を読んだりしていましたが、今日のお題もその1冊。

J.C.バーナム(森田幸夫訳)
   『悪い習慣』玉川大学出版部

 古本屋で何気なく手に取った一冊ですが、アメリカにおける「悪い習慣」すなわち飲酒・喫煙・薬物・賭博・性的非行・罵り(この章は訳されていない)の広がりと、これらの悪習がどのように関連しあっているのかという様相を述べた本です。
 最初目に留まったとき、性的な問題を扱った章があるので、何がしか表現の自由などに関る問題もあるのかなと思って買い込んで積んでおいたのですが、先月「同人誌と表現を考えるシンポジウム」を見に行ったのをきっかけに読んでみました。実際には性的な表現の問題はこの本の中で比較的傍流の話題に過ぎないようで、やはり飲酒・喫煙などを中心とした悪習の展開に重きを置いているような感じです。
 で、まあ今の日本について考える上でも参考にならないことはない・・・とは読んで思えるのですが、どうも正直なところ大変読みにくい本で、本書の内容を読み取れたという自信が小生にはありませんし、その内容に基づいて議論を発展させることも出来そうにありません。それでも何とか本書の述べている主な内容と思われることを以下に箇条書きで示すと、

・アメリカでは、19世紀以降の資本主義社会の発展に伴って「悪い習慣」が広まった。
・「悪い習慣」は下層社会や知識人(共に反体制的な傾向を持つ)が擁護した。
・企業の宣伝とマスコミの報道が「悪い習慣」の普及を強く後押しした。
・「悪い習慣」は莫大な利潤をもたらすため、多くの事業者が普及に努めた。
・様々な「悪い習慣」は(飲酒を中心に)相互に密接に関りあっている。
・こうして19世紀の個人的な悪習は、20世紀にはアメリカ文化の重要な要素となった。

 こんな感じでしょうか。
 それなりに面白い論点が色々導けそうな感じはするのですが、正直文章が極めて読みにくく、どうもまとまった印象がつかめなかったのは残念です。要するに翻訳が問題だと思います。これが小生が自らの読解力の無さを糊塗せんとするものではないことの傍証として、同様の指摘をされているサイト(小生が検索で見つけた限り、『悪い習慣』の感想は日本語ではこちらしか見つかりませんでした)をリンクしておきます。

 そんな読み方しかできなかったくせに何か意見を述べようというのもおこがましい考えで、おまけに小生が思ったことは本書の中心となる論点から明後日の方向に飛んでいる可能性が高いのですが、それでも一つだけ卑見を述べさせていただきます。
 本書では大きく6つの「悪い習慣」を取り上げているのですが、バーナム氏はこれらの「悪い習慣」は密接に絡まりあって、相互に浸透を促進しあうような状況が、「悪い習慣」に関る企業やマスコミによって作られていたと指摘しているようです。『プレイボーイ』などの雑誌が主に例として取り上げられていますが、例えば飲酒をかっこいいものとして描くそのような雑誌では、喫煙についても広告がいっぱい載せられていたり、或いは麻薬の合法化が誌面で議論されたり、といったことがあった(今もある)のだそうです。もっともそれは日本近代を考えても、確かにそういうことはありそうだと思われますね。
 で、小生がそのように読み取って思ったことは、オタクって「悪い習慣」になるのかな?(笑)ということでした。なるほど世間一般から胡散臭く思われていますが、しかしその胡散臭く思われ方は「呑む・打つ・買う」とはかなりベクトルが違っていそうな気がして。その昔、ビートルズの音楽を聴くと「不良になる」といい、手塚治虫の漫画を焚書にした頃のメンタリティなら同一視していたのかもしれませんけど。

 本書を読んでいて感じた違和感に、「悪い習慣」は企業やマスコミが利潤のために強く宣伝をしたこと(陰謀論的解釈?)、反体制的知識人が強く擁護したこと、下層階級に支持されており、それが社会の広いそうにも受け入れられていったこと、が延々と述べられているのですが、これだけ読んでいると「悪い習慣」の普及は強力で一方なもののように思われてしまいます。「悪い習慣」を「悪い」を糾弾するような、つまり禁酒法を定めたような対抗勢力について充分叙述されていないような印象があって、どうもそれが「そんなに皆が受け入れたのなら、もう『悪い』もへったくれもないじゃん」と思いたくもなるのです。
 で、勝手に小生が思いをめぐらすに、「悪い習慣」への対抗勢力って、家族を大事にする中流階級的価値観なんじゃないかと思ったりするわけで。あ、いつもいつも同じオチで済みません。ここんとこ何でも近代家族論で説明する癖がついてしまっておりますし、まして先日アメリカの郊外住宅地(中流階級の牙城=マイホーム)を見てきたこともありますんで、どうしてもこういう発想になってしまいます。
 そもそも物の本によれば、アメリカで19世紀末(1893年シカゴ万博がきっかけとか)に郊外住宅の発想が広がり始めるのは、新移民の増加によって「アメリカが変わってしまう」という懸念が背景にあったそうで、当然その担い手は当然アングロサクソンの中産階級というわけです。

 ということでバーナム氏の「悪い習慣」の、善悪の構図を勝手に切り分けると、「悪い習慣」を悪いと決め付けているのは中産階級の道徳観念で、一方「悪い習慣」を支持しているのは下層階級とか反体制的な知識人とか、中産階級的価値観と異なる文化的ハビトゥスをもつ人たちです、ということになるんでしょうかね。一応綺麗に分かれますが、綺麗なだけに怪しい気も書いた当人しています。まあ目安ということで。
 で、「オタク」はどっちなんざんしょ、と考えるに、中産階級的価値観に迎え入れられているとは今日尚言いがたく、かといって「悪い習慣」=「呑む・打つ・買う」的な世界との相性はもっともっと悪そうです。どっちかといえば「悪い習慣」とは距離を置き、前者に容認されるような方向に持って行きたがる傾向があるんじゃないかと小生は長年の経験(笑)から感じております。
 まあ、何でそう考えるかというと、ことに最近の「オタク」な人々について(とりわけ「非モテ」関連の話題の周辺をうろつくに)、どうも「オタク」って保守的な(近代家族的な道徳観念を尊重している)な面があるんじゃないかと思わずにはいられないからです。そんなわけなので、今週末の「6・30アキハバラ解放デモ」についてどうかなあ、と思うのは、「オタク」「萌え」は(特に現状では)ちっとも「革命的」ではないんじゃないかと疑問を抱いているからなのです。

 そんじゃオタクはどうすればいいのか、ということに関して、歌に託して私見を述べますと、
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)
 どっちにもならなきゃいいと思います。どっちにも染まらないことを「哀し」と思う人は、違った手法をとられる方が宜しいのではないかと。

 話がバーナム氏をほったらかしてどこぞへ迷走してしまいました。
 しかし、こうなったのもひとえに訳文が読みにくかったせいだと言い訳します。そして小生が、この本の訳文はまずいんじゃないかと思った直接のきっかけ、本書の口絵とそのキャプションを以下に引用させていただきます。
f0030574_125573.jpg
バーナム『悪い習慣』p.144とp.145の間の口絵より

 小生のような英語力皆無の人間がこのようなことを書くのはまことに身の程知らずだということは充分に承知しておるつもりではありますが、しかしこのマンガに描かれている自販機の警告文は、「警告 コイン投入口に手の届く者のみ、この自販機を操作できる」(なのに投入口がえらく低いので、子供でも買えてしまう)とでも訳さないと、諷刺の意味がないような気がするのですが・・・。どうでしょうか。
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by bokukoui | 2007-06-24 23:59 | 書物 | Trackback | Comments(0)

昨日の今日で教育関連の話題

 昨日久しぶりに教育について記事を書きましたが、それを書き上げた途端に以下のニュースに接し腰が砕けました。

 <参院選>自民、大仁田氏引退でヤンキー先生・義家氏を擁立
 自民、ヤンキー先生を擁立 参院選比例代表で

 今日は来週に迫った「6・30アキハバラ解放デモ」に向けて、オタクという世間から歓迎されざる(とされていることが多い)文化について参考になるかもしれなさそうな書籍を読んだのでその感想でも書こうと思ったのですが、このニュースを聞いて予定変更。
 「熱血教師」的なものを教育政策に据えることへの批判は、過去の記事で戦術と戦略を混同していると批判したことがありますのでもう繰り返しません。ただ、日本の政治において教育に対する理解はやはり個人の自主自立(精神的な)を重視する方向ではないということを再確認した次第でした。
 それにしても、アンチ自民の小生にしても思わずにはいられないのは、自民党には他に幾らだって「ヤンキー先生」よかマシな人材を登用することは出来るだろうに、と・・・。まあそれを言い出せば、そもそもあれだけ議員がいるのに何で首相をあんな(以下略)
 とまれ、こうしたいわば「偉大なる自己像」に自らナルシスティックに酔いしれている(「昔は悪かった」というのはその陶酔を強化する技法である)人間を、「いい先生」と持ち上げてしまうような風潮を排除するところから、教育改革は始まるべきであろうと小生は思うものです。
 そして財政改革の名の下に名門公立大であった横浜市立大を荒廃させ、一方でこの「ヤンキー先生」を教育委員に据えた中田横浜市長に落選の鉄槌を。教育は行政からすれば財政と法制度によって運営に大枠を示すものであるはずであって、精神論を上意下達するものではありえないはずです。
 横浜市民として、これでは「荒川は日本のポトマック川だ。あの川の向こうはヤンキーに支配されている」などと心置きなく埼玉県民を馬鹿にして遊ぶことが出来なくなってしまいます。市の将来に懸念を抱かずにはおられないのです。

 今日は急なバイトで肉体労働をしたため、些か疲労しておりますのでこれにて。機械の調子も悪いようで。暑さと湿気のせいなのか。
 なおこれは一昨日の作業ですが、タグに「書籍・漫画等感想」を設けました。本(含漫画)を読んでその内容について何がしか感想や評論めいたことを記した記事につけてあります。今まで歴史に関する本の感想を「書物」カテゴリにしていたのを、このタグをつけて「歴史雑談」カテゴリに改めました。これで閲覧性は向上したはず。
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by bokukoui | 2007-06-23 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(5)

トイレット・カルトから教育について略考

 久しぶりに「虚構の皇国」さんのサイトを見て、ブログを見ていたらこんな記事を発見。

 トイレ掃除の伝道師「大阪便教会」

 小生も以前取り上げたことのある「日本を美しくする会」の運動が広がっているようで。
 で、「虚構の皇国」ブログの早川氏が紹介している「大阪便教会」のサイト、特に「体験記」が感動モノです。一部引用。
「初体験で、素手で便器に触れた時は、とても衝撃的でなぜか笑顔になっていました。」
「今回はまず最初に一番汚いところに真っ先に手を入れさせて頂けたことで、とても心地よく掃除をさせて頂くことができました。」
「便器の奥に手を入れた時の感触、その後に無心に便器を磨いていた時の気持ちよさは忘れられません。」
「汚れの感触を感じるという事も必要なことであると気付けました。」
「一心不乱に便器を磨き続けるを久々に体験させて頂きました。」
 更に『便教会新聞』なるペーパーもpdf形式でネット上に上がっている様子。

 「宗教みたいだ」という感想が一般的なものであろうかとは思いますが、そしてまた小生もやはりそう思うのですが、しかし同時に

「このトイレ掃除で得られる『快感』とは、
スカトロ趣味に他ならないのではないか」

 という考えが、便器の染みの如く脳裏にこびりついて離れません。しかもそれを学校で公然と・・・。変態度高し。
 ヨタはともかく、検索をかけてみると「学校」「教師」にこういった運動がかなり広がっているようです。
 一方、これは以前からかなり話題になっていたことですが、『水からの伝言』なる、水に言葉をかけると「よい」言葉と「わるい」ことばとで結晶の形が変わる、とかいう話が教育現場に持ち込まれたという件があります(元凶とされたTOSSという団体は、かなり以前からこれを引っ込めているそうですが)。ウィキペディアからリンクの無い、『水伝』推薦教師に出会ってしまった親御さんのブログはこちら。
 さらに、これはもっと昔から問題になっていたことですが、アムウェイに代表されるマルチまがい商法にはまってしまった人の中に教師が結構多かった(勝手に副業をやったというので処分された人もいたとか)という話がありまして、これは実際にある先生から同僚がはまっていた体験談を伺ったことがあります。

 で、何でこのようなことが教育現場に起こるのか、ということを考えずにはいられないのですが、まあ今まで思い付きを書き散らしてきたことと重なることが多いので繰り返すのも芸のない話ですが、教師が「聖職」の名の下に、ある意味多くの仕事を背負い込まされ過ぎているということなのではないかと思います。その結果、一般的な労働の範疇を超えた仕事を求められ、まあ適当に受け流すなりサボるなりして対処している人が実際には多いのだと思いますが、時にそれを真正面に受け止めすぎた結果(或いは真正面に受け止めてしまうようなパーソナリティの持ち主だった結果)、便器を磨いて無我の境地に浸ったり、水に真剣に「ありがとう」と呼びかけてみたり、鍋と洗剤を「レッツビギンやで!ポジティブや!!」と売りつけるようなことになってしまうんじゃないかなあ、と思うのであります。
 このように真正面に受け止めてしまった人々については、いわゆる「熱血教師」の問題点と題して、「教育の暴力装置的側面」を等閑に付してしまっているの問題ではないか、そしてそもそもそれが問題だということ自体が認識されておらず、教育を何か聖なるものとして祭り上げるような言動(これは左右を問わぬものです)がまかり通っているのではないか、ということを以前述べました。今も小生はそう考えていますし、この便器崇拝のある程度の浸透も同じ背景に基づいていると思うのです。

 で、最近の教育改革というものが、こういった構造に何がしかの対策を打つものかというと、・・・むしろ強化しているように思われるのであります。小生が思いますのは、以上の如き問題に対処するには、教育を「聖職」のくびきから解き放って、「合理的」な運営とすることをより心がけることなのかなあ、と思います。
 よし、では民間活力導入だ、企業原理だ・・・と昨今の志向から行くとなりそうですが、しかしこれがヘタをすると逆効果なのではないか、そう思わずにはいられないのです。これまた以前書いた、ワタミグループ社長の発言に関して雑感を記した記事をご参照いただければ幸いですが、教育=聖職という建前を逆手にとって労働力をより強力に搾取し、利潤を増加させるというモデルになってしまうのではないかと危惧せざるを得ないわけで。で、そのようなモデルで運営される教育現場の「空気」自体もまた、いわば全身全霊の没入を求める「熱血教師」的方策をよしとするものになってしまうのではないか、と考えてしまうのです。

 少し話は逸れますけど、最近ワタミの介護部門がコムスンの事業を引き取るかどうか、ということがマスコミを賑わせています。介護という事業も、教育同様の「聖職」というか、そういった語りが持ち込まれやすい構造であるように感じます。先日の日経新聞にも本件に関しワタミ社長のインタビューがあり、「利用者第一」を標榜する一方、コムスンの労働組合との交渉には消極的な姿勢をはっきり見せていました。介護も「聖職」であるからして従業員は四の五の言わずに没入せよ、という語りは起こしやすいように思います。
 ついでに、教育の場合は学校―生徒+親、という単純な事業者―消費者という関係よりも複雑な構造がありますが、介護の場合も事業者―被介護者+被介護者の家族、という構造をなす場合がかなり多いのではないか、そこらへんも何がしか経営として類似性があるのかもしれない、などと思います。

 話を戻しまして、しかして昨今の情勢からしますと、教師を「聖職」のくびきから解放するどころか、ワタミがもてはやされる昨今の世の中、むしろ便器崇拝的様相は盛んになっているのではないか、そのように思われる節があります。最近の週刊誌の記事のウェブ版から一つご紹介。

 「感情労働」時代の過酷(『AERA』6月4日号)

 便器崇拝的労働状況をヨリ具体的に説明するとすれば、その職場のテーゼとして掲げられた精神的理念に労働者が「心から」同調することによって労働効率を上げる(ヨリ効果的な搾取を行う)システムであるといえます。これは「効率を上げる」ことと「精神を同調させる」こととが一体不可分のこととして捉えられており、個人の精神を抑圧する問題があると考えられます。
 そりゃ、もちろん不和・派閥抗争・労使対立・連絡不行届・セクショナリズム等々に満ち満ちている職場はろくなもんじゃなかろうと思いますが、それを解決するのに便器崇拝的手法を強いる必然性は何もないわけでして。
 しかも両者があまりに分離不可分のように思われると、効率を上げたいのか精神を同調させたいのか、目的と手段が混同されて、様々な問題(悲喜劇)を引き起こすこととなるでしょう。今日の話題のきっかけ「虚構の皇国」を引き合いに出せば、「国民精神総動員運動」なんてものもあったわけでございまして。

 段々話がずれてきましたね。このブログの仕様ですけど。
 とにかく、学校の先生は今色々大変なことは間違いないのですが、ではその先生の負担を減らす方向に政策が動いているかといえばそうではなく、つい最近成立した教育関連法案が教員免許の更新制を採用するなど、より一層教師に負担を転嫁するという、合理的とは言いがたい対応策を取っているように思われるのであります。天才的熱血教師の人生すべてをかけた奉仕と献身ではなく、普通の先生が普通に仕事してそこそこ廻る、というシステムが望ましいと思うのですが。旧日本軍の航空隊じゃないけど。
 で、この状況が続くとどうなるのか、現今医療訴訟のリスクの高まりが医師の世界に及ぼしている影響を参考例として推測するに、「合理的」に進路を判断するとどう考えても割に合わないこの世界を志望する人が減って優秀な人材が教育界に来なくなり、学校はヨリ状況が悪化して、しかしその際の対策の方針が現在と同じであるとすると、教師の状況悪化→志願者減少→教師の水準低下→世論の教師への圧力の上昇→・・・という悪循環を繰り返す懸念があります。
 少なくとも、「合理的」な進路判断を誤るような、「聖職」のお題目を真に受けるような人々が多く集まってくると、さてこそ便器を磨いたり水に語ったりネズミ講はじめたり、といった「不合理」な行動が教育現場に持ち込まれる恐れは、一層増していくものと思われます。いや、既にそうなりつつあるのかもね。
 ここで急いで付け加えますが、実際にはそれだけのリスクを承知の上で尚、子供が好きだ!という熱意で斯界に飛び込まれる方々もおられ、(確信的推測ですが)そういった人々が他の人よりせっせと働くことで、なんとか現今の教育システムは廻ってるんじゃないかと思います(こういう人が便器崇拝的「熱血教師」になるわけではありません。このような人達は、頭ごなしお題目の愚かさを見抜いてこの手のものにはまらない判断を下せる余地がより大きいからです。便器を磨かなくても教師をやれるだけの「何か」をちゃんと持っているわけで)。でもそういう、一部の人に負担を押し付けるような構造を前提としたシステムは合理性を欠くと思うのです。

 というわけで、日教組も「子供のため」という題目をちょっと横にずらして、「自分たちのため」にきちんと労働組合する必要があるのではないか、それをしたほうがかえって大局的には子供にもいいんじゃないかという気がするのです。
 時々思うのです。社会問題の多くは、個人が公共心を亡くして利己主義に走るから起きる、のではなくて、個々人が自分の利益をどうやったら最大化しかつその状況を持続することが可能なのか、うまく判断することが出来ずにいて、時として「社会のため」などというお題目に絡め取られるから起きているんじゃないかと。
 でもまあ、それをうまく判断することは非常に難しいですね。でも、個々人が自分が利益を得られてかつその状況が持続するような行動をした方が、滅私奉公に励むよりも「社会のため」ではないかと、思わずにはいられなくて。
 そして何が利益か判断することが困難ならば、せめて何が自分にとって「楽しい」のかを、偉い人のお題目ではなく、自分の判断に基づいて決めたいものです。その上で便器磨きスカトロプレイに走るのならば大いに結構だと思います。
 でも小学生巻き込んでスカトロプレイをしたら強制猥褻罪だからね。

 というわけで本日の締め。
 駕籠真太郎先生の新刊、今年は出ないのかな?
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by bokukoui | 2007-06-22 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(7)

タクシーの無い国はあるか

 今日はさる先生にお願いして読書会をしておりましたが、そのお題の本がこちら。

佐藤芳彦
 『空港と鉄道 アクセスの向上をめざして
 成山堂書店「交通ブックス」の一冊です。

 表題の通り、近年世界的に増えているといわれる空港へのアクセスの手段としての鉄道について、日本の事例すべて、海外の主な事例、それぞれを紹介しつつ述べた本です。巻末には世界の空港アクセス鉄道を網羅した膨大な一覧表があって、資料としても使えます(が、空港アクセス鉄道が世界的に色々作られているので、決して古い本ではないですが、載っていないものもある由)。
 公共交通機関という括りに入れられる点では似たような(そしてマニア層も結構かぶっている・笑)鉄道と航空ですが、実はかなり異なったシステムで運営されていて(別に鉄道が線状で飛行機が点と点を結ぶ、みたいな単純なハードの話ではなく、如何にして切符を発行するかというような乗客に輸送サーヴィスを供するまでのシステム)、それは飛行機が最近まで特別な人の特別な時の乗り物であって鉄道ほど身近で日常的ではなかったことに由来するのだろうと思われますが、この異なったシステムを結びつける空港アクセス鉄道の難しさについて察することができ、その点が大変興味深かったです。それだけ小生が航空に疎いということですが。
 もっとも、読書会参加者から色々と出た指摘では、歴史的経緯が碌に触れられていないとか、著者が鉄道関係者であるため航空に関する記述にやや不満が残るとか、そういった問題点が出されました。小生の感想では、そもそも薄い交通ブックスの中に、日本と世界の個別事例(本書の第2章と第3章)を盛り込もうとするのはちょっと無理があったんではないか、個別事例の列挙は巻末の表に任せ、「空港アクセス鉄道とは何か」という一般論に的を絞って、その行論上必要な事例を触れればよかったのではないかと思います。
 更に個別事例紹介の問題点として、著者の方がJR東日本のパリ事務所に勤務されていたためか、第3章の世界の個別事例がヨーロッパ中心で、欧州の他はアジアしかなく、アメリカの事例が一つもないのは流石に問題かと。航空交通は世界一盛んで、自動車社会の進みぶりも世界一で、しかしそこで敢えて空港に鉄道を敷こうというアメリカの例(事例自体は結構数がある)の意味は、ヨーロッパやアジアとは全然異なった性格のものでしょうから。

 という話の本題を途中から逸れて、盛り上がったのがタクシーの話。
 最初は某国の空港で雲助にボッタくられかけたなんてところから、空港アクセスに関してはタクシーも多い(パリのシャルル・ド・ゴールは、鉄道もバスもあるけれど、半分近い旅客はタクシーを利用しているんだとか)よねという話になり、そこでハタと気づいたのは、鉄道について論じる際、比較対象としてバスに航空機、自家用車やトラックなんかはよく思い浮かべるけど、タクシーはあんまり扱われなかった(日本史の近代交通史で出てくるのは昭和初期の「円タク」の話ぐらいか)ということでした。
 タクシーが扱われにくいのは、他の公共交通の補助的な存在と思われがちなこと、零細な事業者(「個人」タクシー)が多く産業として把握しづらいこと、法的規制や公式統計と実態との乖離が大きいこと(他の交通機関よりは)、などの理由が考えられそうです。しかしここで見方を変えてみれば、世界中に鉄道の無い国なんて幾つもあるし、国内に飛行機やバスの便が碌々ないような国も少なくありません。しかしタクシーは、そんな国でも存在する近代的交通機関(つまり馬車だのラクダのキャラバンなんぞは却下)といえ、つまり世界中の交通事情を比較分析する上で最も普遍的な近代的交通機関ではないか、そのようなことが話題に上ったのでした。
 実際、碌にバスもないような中東やアフリカの国では、都市間の移動にもタクシーが使われていたりするらしいとか。

 しかし上に書いたような事情でタクシーの研究というのは難しく、殊に法制度史はまだしも利用者の側から見た国際比較、なんてのはかなり難しそうです。
 なにせ資料が集めにくいからこれはもう現地に行って乗ってみるしかないわけで(ついでに言えばタクシーは一国内でもかなり地域差が大きい交通機関です)、仮に「世界のタクシー」という本を出すとしたら著者の選定にはかなり難航しそうです。鉄道やバスや船や飛行機のマニアは世界中ゴマンといるけど、自動車のマニアも大勢いるけれど、タクシーマニア(それも使われている車ではなく、交通機関としての性格を研究している人)というのはあんまり聞いたことが無いなあ・・・。
 案外『地球の歩き方』のような旅行ガイドの、ありとあらゆるヴァージョンを集めて「タクシー」の項目を読み比べる、なんてのが手っ取り早いかもしれません。

 と、そこまで話をしていて最後に出た疑問。
 おそらく他のどんな交通機関よりも、世界中どんな国でも広く見られるだろうという点で「普遍的」と思われるタクシーですが、そのタクシーが現在存在しない国は存在するのか、という疑問です。
 現時点で唯一出てきた候補は、国内の自由で個人的な移動が最も制約されていそうな国、ということで、やっぱり我らが将軍様の共和国、ということになりました・・・。
 どなたか「北朝鮮のタクシー事情」をご存じないでしょうか。
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by bokukoui | 2007-06-21 23:58 | 鉄道(その他) | Trackback | Comments(4)