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講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・坤

 講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・乾巻の続きです。
 完成まで、イタリア艦の如く時間がかかってしまい済みません。いろいろ忙しかったりなんだかんだしたもので・・・。

 本題に入ります。
 最後の講演である髙木さんの講演「『金剛型』機関部詳解・余談」も、三番目の大塚さん同様『決定版 金剛型戦艦』の内容に基づいており、これは大塚さんのお話以上に図がなくては理解できず、しかもレジュメの図面だけではなく、黒板に自ら図面を描いてのご説明もありました。ところが小生、この時爾後の打ち合わせや看板類の撤収などで席を外していた時間もあり、申し訳ないことですが、ますますメモが取れておりません。講演会後の打ち上げで伺った「なぜドイツの蒸気機関車はダメか」というお話なら、メモがなくても書けそうなんですが(笑)。やはり燃焼室がないと燃 / 萌えませんね。
 というわけで、ますます断片的な形で恐縮ですが、すくなくとも『金剛型戦艦』の髙木さんの記事の訂正箇所は以下に略述しておきたいと思います。詳しくは『金剛型戦艦』や髙木さんのサイトをご参照下さい。

 で、壇上に登場した髙木さん、まずは自著の宣伝。

『日本軍艦写真集』(光人社)

 これは髙木さんの長年のコレクションを本にしたものですね。小生も見たことがありますが、大変綺麗で見応えも資料性もある写真集です。買ったわけじゃないけど・・・

 で、これはいいんですが、もう一冊の宣伝はなぜか軍艦ではなくて鉄道の本。

『幻の国鉄車両』(JTB)

 題名だけ見ると、最近はやりの国鉄懐古で、団塊の世代当たりのノスタルジーに便乗した本みたいですが、著者の面々、石井幸孝・岡田誠一・小野田滋・齋藤晃・沢柳健一・杉田肇・髙木宏之・寺田貞夫・福原俊一・星晃というお名前を見れば、安心してお薦めできる本といえそうです。済みません、そんな本が出たことをこの日まで知りませんでしたが・・・

 そして、もう一冊は壇上で宣伝したのではなく、確か打ち上げの時に伺ったのだと思いますが、鉄道雑誌『Rail Magazine』の300号記念号に、髙木さんが十年ばかり前に書いた記事の増補改訂版「改稿 国鉄蒸気機関車発達史」が載っているそうで、正直RM誌があまり好きではない小生ですが、リアル工房の時分に髙木さんの前稿で日本の蒸気機関車の歴史を理解した(それまでにも断片的な情報やトピック的な通史は読んだことがあったが、髙木さんの記事は practice(手法体系)という概念を持ち込むことで、明快な筋を通した通史を示していた)身としては、買わずばなりますまい。資金の都合でまだ買ってませんが・・・

 話が逸れまくりましたが、本業鉄道趣味者としては、髙木さん=蒸機の人なので、ご勘弁下さい。
 『決定版 金剛型戦艦』の訂正補足としては、
・p.146:タイガーとリナウン級の図面が間違い。正しくは以下の通り(レジュメを取り込むのは控えていましたが、この場合は構わないだろうと考え以下に紹介します。クリックすると図は拡大表示します)。
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 正しくは翼軸が直結タービン中圧(I)、内軸が直結タービン高圧(H)・低圧(L)。
・p.152:タイガーの後部2砲塔は当初背負式の計画であったが、Y砲塔直後に後部魚雷発射管室を設けたことにより、弾薬庫が前に寄り推進軸と干渉するため、第3砲塔を機械室の前に移した。
・p.153:リナウン級の缶圧はタイガーではなく金剛と同一。
・p.156:出力が同じ時は、速力の3乗が排水量の2/3乗に反比例。榛名の第2次改装時期は1933年8月~翌年9月。
 また、練習戦艦化された比叡は、ロンドン条約の制限に従って最大速力18ノット、出力1万3800軸馬力と公表されていたが、実際は缶の性能から3万9700軸馬力程度と推算される。練習戦艦時代の基準排水量は1万9500トンだが、長さと幅の比が近似している英巡戦インディファティガブル排水量1万8750トン、4万3000軸馬力で25.79ノット出していることから、その速力は24.5~25.0ノットと推算される。
・p.157:タービンと減速装置の重量は、1軸当たりではなく4軸合計で439トン。
・p.158:第2次改装後の金剛の過負荷全力(10.5/10)公試の結果は、排水量3万6860トンの時、14万3691軸馬力で30.48ノット。また不明だった第2次改装後の金剛のタービン初圧は、17kg/cm2 と判明。

 盛りだくさんなトピック中から、メモが残っていたものを一つご紹介。それは、「なぜ日本海軍はイギリスに戦艦ではなく装甲巡洋艦(巡洋戦艦)を発注したのか?」という点です。
 黒板に表を書かれて説明されたのですが、かいつまんで言えば、砲の製造技術の導入という点では戦艦でも装甲巡(巡戦)でも同じ、装甲については戦艦の方がより技術を得られるが、機関については戦艦:4万馬力vs.巡戦:7万馬力で巡戦に分があり、お値段は巡戦が安い、ということで、トータルで巡戦が選ばれたのだろう、とのご指摘でした。

 随分時間も押して、髙木さんの講演はまだいろいろ話題を積み残したまま終わらざるを得ませんでした。今回最大の反省点です。

 そして全体の質疑応答に移る前に、平賀文書の整理とデータベース化、そして「平賀譲デジタルアーカイブ」開設の中心となった、そして平賀文書を駆使して『近代日本の軍産学複合体 海軍・重工業界・大学(創文社)をまとめられた畑野勇先生が急遽登壇され、告知をされました。
 それは、呉市海事博物館、といってもピンと来ない方が多いかも知れませんが(笑)、大和ミュージアムの第2回特別展として、「軍艦設計の天才 平賀譲 ―戦艦大和への道をひらいた東大総長―」という展示を来月から明年2月まで行うということ、そしてそれに合わせて、来月19日に『平賀譲 名軍艦デザイナーの足跡をたどるという図録が文春から出るというお話でした。
 畑野先生は図録のゲラまで見本にご持参下さり、来場者に閲覧の機会を下さいました。まこと、感謝の念に堪えません。

 そして質疑応答の時間になります。個別の質疑をはしょらざるを得なかった大塚・髙木講演を中心に、広く質問を募ります。以下に概要を(メモし損ねた質問があり、すべてではありません)。

・大塚氏へ、金剛建造時に主砲用の水圧機が3機しかなかったのはなぜか。斉発する気がなかったのか、予算上の問題か。
→当時はあまり斉発を考えなかった。ライオンも最初は水圧機が少なく、その後改装して積み増した。費用の問題もあった。結局、水圧はやめて空気圧にした。

・大塚氏へ、改装して空気圧にしたというが、ドイツ艦は昔から空気圧を使っていた。その影響はあるのか。
→直接の資料はないが、ドイツの資料が1920年代に入って日本で研究されていることは確か。影響は考えられるが、状況証拠しかない。

・大塚氏へ、金剛級により、それまでより排水量が50%も増えた艦を日本で作ることになったわけだが、それによる問題はなかったのか。
→船体も機関も大幅増強なので、まずヴィッカーズに注文した。主要部品をみな買ってきて、最初に日本で作った比叡は、4隻中最も調子が悪く、艦隊での評判も悪かった。そこで民間造船所(技術が不安)で作る榛名と霧島は、設計を変更して作りやすくした。この2隻は評判が良く、海軍の資料でも「金剛級の榛名型 / 霧島型」という言い方がされることもある。

・小高氏へ、金剛代艦の艦政本部案は主砲の前に副砲塔があり、主砲との間にブラストスクリーンのようなものが描かれている。この辺りはどうなっているのか。副砲は後ろが開放されているのか、ちゃんとした砲塔なのか。
→副砲は、後部も閉鎖したちゃんとした砲塔と考えられる。
(大塚氏より補足)→砲塔の上の装甲は薄いので、実際に作ったら砲塔内の衝撃が激しいと思われる。最上級でそのような例があった。

 と、一通り質問が出たところで、質問ではないのだが一言、と登壇されたのが、軍艦関係の著作も多い斯界のベテラン・阿部安雄さんでした。阿部さんはこの機会に是非、と思いがけない秘話を語られます。

 先程も話題に出た大和ミュージアムには、金剛が建造当時に積んでいたボイラーが展示されています(英国製のヤーロー缶)。これは第1次改装の際に降ろされ、その後重油専燃に改造されて陸上で海軍の技術研究所の暖房用ボイラーとして使われていました。戦後になっても、やはり金属技術研究所や防衛庁施設の暖房に使われ続けました。しかし研究所を移転することになり、目黒区が跡地を公園にするというので、このボイラーも撤去することになりました。
 さてその頃、大和ミュージアムの開設作業が行われていました。その際、「旧海軍関係のものなら何でも集めよう」派と、「呉の施設なんだから呉関係のものだけでいいよ」派との間で、時として意見対立があったそうです。今では大和ミュージアムが好調なもので予算も付き、「何でも集めよう」ということになっているそうですが。そして設立委員の一人であった阿部さんは、貴重な旧海軍の遺産であるこのボイラーを、何とか集めたいと考えておられました。
 そんなある日、朝日新聞の記者がボイラーのことを聞きつけて、取材したいと申し入れてきました。そこで造機屋の阿部さんが、記者についてボイラーを見に行くことになりました。見に行ったところ、改造されていてもこれは金剛建造時のボイラーということはすぐ分かったそうです。金剛のボイラーは2度積み替えられていますが、第2次改造で積まれたものは台湾海峡の海底に眠っているわけですから、区別自体はそれほど難しい話ではないでしょう。
 しかし、阿部さんはここで考えます。建造時のボイラーということはイギリス製で呉とは直接関係ない。とすると、保存の予算が付かないかも知れない。第1次改装後に積まれたボイラーとなれば、呉製だからこれは予算が付くだろう。そこで阿部さんは、新聞記事に「ボイラーの製造時期は不明」と書くよう、新聞記者に頼み込んだそうです。そして記者もそれを受け入れ、朝日新聞にこのボイラーのことが結構な紙面を割いて紹介されたそうですが、そこでは「製造時期不明」と書かれたのだとか。
 かくして、このボイラーはめでたく大和ミュージアムに保存展示されることになりました。もちろん展示の際は、ちゃんと「このボイラーは調査の結果、金剛建造時のものと分かりました」と解説を付けました。
 ところが阿部さん曰く、いくつかの書物で朝日新聞の記事を元に、「大和ミュージアムの金剛のボイラーは製造時期不明」と書いているものがあるそうです。そこで、この機会に本当のいきさつを話し、製造時期不明という間違いを訂正しておきたい、とのことでした。

 この秘話に、会場が大いに感動して、阿部さんに盛大な拍手を送ったことは言うまでもありません。そして、確かこの講演会の案内にも使った金剛の絵を描いて下さった fismajar さんだったと思うのですが、阿部さんにこの話はオフレコなのか公にして良いのかと質問されたところ、間違いを正すために広めて良いという趣旨のお答えだったと思いますので、ここに特に書いた次第です。
 こうして、最後の最後に、まさに運営側もサプライズなイベントが起こり、講演会は終了しました。
 
 運営の一端に関わった者として、このイベントはお陰様で成功裏に終わり、意義も大きかったと思います。
 小生が平賀文書アーカイブの構想や、畑野先生のご研究について知ったのは2年半前の学会がきっかけでしたが、その後アーカイブが一般公開され、駒場キャンパスで「平賀譲とその時代展」と講演会が開かれるなど、その成果が次第に広く知られるようになってきました。そして、今回の講演会がそもそも実現したのも、「平賀譲とその時代展」講演会場で偶然再会したことで、しばらく縁が切れていたじゃむ猫さん髙木さん「三脚檣」の方々との交流が復活したということが伏線にありました。
 いわば、学問的研究の成果が在野の研究者、趣味者、マニアの人々を刺激し、このようなイベントが実現したわけです。そして、在野でも面白い情報や理論を抱えている人々が、今度はその成果を学問的な貢献につなげることも出来るかも知れない、そういう循環が出来れば大変有意義であろうと思います。
 ちなみに東大には、日本史上最大の新聞雑誌マニアが蒐集した、新聞や雑誌のコレクションを、法学部の教授が認めて大学に所蔵したという話が実際にあります。そう、宮武外骨と吉野作造、そして明治新聞雑誌文庫ですね。

 最後の講演をされた髙木さんは、鉄道に関する自著を紹介する時に、「船も鉄道も好きな人を"両棲類"といいますが、自分もその一人で、今日は"両棲類"の大御所である青木栄一先生もお見えで・・・」と言っておられたかと思いますが、この趣味者の研究の厚みが学問的なそれに劣らない場合もある、ということを鉄道史の分野で以前から指摘されていたのが青木先生だったわけで、このことは当ブログでも以前書いたことがありました。で、鉄道がそうなら軍艦だって、と小生は思うわけです。
 今回の講演会が、そういった趣味と研究の循環のサイクルを作る一つのきっかけになれるかは分かりませんが、平賀文書のような膨大な資料群が公開され、多くの人が様々な形でそれにアプローチし、その成果を交換し合うという場が成立すれば、それは社会全般の教養の向上に繋がるのではないか、という希望は持っています。つまり、空幕長が史資料の読み方を全く知らずに「論文」を書いて、国民に国防の危機を憂慮させる、そんな事態が減るんじゃないかとは、期待しているわけで。
 今回は、畑野先生はじめ、他にも平賀文書整理に関係された先生方がお見えになりました。そもそも部屋を取る手続きを取って下さったのは、鈴木淳准教授です。ご協力下さった先生方に心より感謝すると共に、秘話を話して下さった阿部さんはじめ、"両棲類"大御所・青木先生、そして出版社やライターの方々も結構来ていたということで、聴衆の水準も高かった?こともまことに嬉しいことでした。
 実際、今回のイベントが良かったと小生が感じたのは、この手のイベントをすると必ず、質問タイムであんまり講演と関係ない自分語りを滔々と始めるお爺さんとかが現れるものなのですが(苦笑)、そういう「質問に見せかけた自分語り」な人が全くといっていいほどおらず、講演と質問とがよく噛み合っていたのは、良いことであったと感じました。

 とまあ、こんな話をはしょって、散会挨拶として壇上で小生がさせていただきました。せっかくの講演会の印象をぶちこわさなければ良かったと今にして思う次第です。いや、じゃむ猫さんの陰謀でなぜかそんなことになって。
 なお、じゃむ猫さんのブログに、この講演会の際に配布したアンケートの集計結果が載っていますので、ご興味のある方はご参照ください。50~60人程度の来場者で27通というアンケート回収率は、かなり高い方だと思います。

 以上、結局長くなったレポートですが、最後に改めて、講演者の皆さん、運営に携わった皆さん(印刷失敗して済みません)、ご協力下さった鈴木先生、そして聴衆の皆様に、心より御礼申し上げる次第です。

 え、次回の予定?

※2008.11.30.追記:書き間違いや舌足らずな箇所を修正しています。
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by bokukoui | 2008-11-28 22:47 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(1)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・乾

 先日来当ブログでも広報に努めていた講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』が昨日行われました。
 どれくらい来場者があるのか、事前にはあまり反応がなく予想がつかなかったのですが、蓋を開けてみれば60人近い方がご来場下さり、まずは盛況であったと思います。反省点としては、十分な時間配分が出来ず、各講演者の予定した話の内容をすべて伝えることが出来なかったということです。もちろん、各講演者の方がそれだけ濃い内容のお話をして下さったということなのですが。
 というわけで、この講演会の簡単なレポートを綴ってみようと思います。簡単というのは、今回小生は講演会運営の手伝いを少々やっていた関係上、出たり入ったりして完全にメモを取っている訳でもないからです。また、そもそも話の内容から言って図面がなければ理解が難しく、しかし講演者の方の作成したレジュメの図面を勝手にここで公開することも礼儀にかなったことではないと思いますし、講演自体の録音運営団体側でされていたので、詳細なまとめなどはそちらを元にどこかでとりまとめられることもあるでしょう。ので、ごくあっさりしたものですが、以下に総括を。
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会場の案内看板

 写真は何枚か撮ったのですが、どれもこれもこの日のは出来映えがいまいちで、せっかくの看板の画像が不鮮明になってしまいました。案内看板の絵は、「恍惚したいモナカ」のfismajar さんの描かれた金剛(新造時)の絵を使わせていただいております。写真はあれな写りですが、元の画像はfismajar さんのブログに掲載されているので、是非こちらをご覧下さい。
 会場の入りは上にも書いたように、50人を超えていました。教室の定員が88人でしたので、結構埋まった感じでした。
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教室の状況(肖像権を考慮してわざと小さくしております)

 まず最初に、今回の講演会の「首謀者」である「東江戸川工廠」のじゃむ猫さんが開式の挨拶を述べられます。

 最初の講演は小高まさとしさんの「平賀文書に見る金剛代艦の考察」です。ワシントン軍縮条約で主力艦建造が停止されましたが、建造以来20年経った艦については代替艦の建造が認められていたので、当時在籍中の日本の主力艦中一番古い金剛の代艦が構想されたわけです。この金剛代艦について、当時海軍軍艦建造の一線を離れていた平賀譲の案と、海軍の艦政本部の案とを、「平賀文書」はじめとする資料の活用によって比較検討するのが、小高さんの講演の趣旨です。
 その詳細を図面なしで纏めるのは苦しいので、ここではごく荒っぽく小高さんのまとめのみ紹介しておきますと、艦政本部案も平賀の案も運用側の要望や第1次大戦の戦訓を考慮しているが、平賀案はイギリス式設計の延長線上にあるのに対し、艦政本部案はドイツの影響があるのではないか、とのご指摘でした。両者は逆のアプローチをしている(艦本:船殻を溶接や軽金属で軽量化、全体を広くドイツ式に防御vs.平賀:船殻は必要な重量を割り当て、徹底して集中防御)のですが、結果的には同じような性能を達成しています。
 これは、英国式を磨き上げた単純確実な平賀←→ドイツの技術を接ぎ木しようとした革新的な藤本喜久雄、というほど単純な対比ではなく、日英同盟廃棄以後、どこから技術導入を行うのかという戦略的な問題を反映したものであったと解釈すべきことと小高さんは指摘されています。そして当時の日本海軍はどちらにするか決められず、そうこうしているうちにロンドン条約で金剛代艦は廃案になってしまったのでした。

 ついで質疑応答。

・船殻重量と装甲重量の比率から、艦本案をドイツ系と規定していたが(註:35000トン級戦艦の場合、平賀案は船殻に1万トンを必要とし、装甲に1/3程度にするのに対し、艦本案は軽量化で船殻を9000トンに絞って装甲重量に4割程度充てている)、船殻と防御重量とはどう区別するか。
→艦によるが、主力艦の舷側装甲は構造に寄与しない。軽艦艇はそうではない場合もあるが、構造か装甲かは恣意的に変えられるものではない。

・金剛代艦と同時期に、妙高級や最上級を建造している。それと艦本案との影響はないのか。
→高雄級は艦本案に近い性格を持っている。最上級は構想と実現したものとの乖離が大きく評価が難しい。

・艦本案は色々なところから色々な要素を持ってきてはいるが、結局は英国流ではないか。むしろ第1次大戦の戦訓は副砲など違うところにあるのではないか。
→広くヨーロッパ諸国の手法を咀嚼しようとしていたと考える。

・平賀案は喫水線下を軽巡並に極めて絞っているが、これをどう評価するか。
→平賀案が速力に気を使っていることは確か。中速戦艦中では高めを狙っている。しかし、本格的な高速戦艦を目指しているわけではない。

・連装と三連装の異種砲塔混載を平賀はいとわなかったというが、英国の戦艦ではその例はない。これは平賀の独創か、何かから考えたのか。
→平賀の混載案の最初は陸奥変態案。実現しなくても混載案自体は英国はじめ各国にあった。

・小高氏の示した平賀案の各時代の図面を見ると、兵装などは変わっているが、艦首は八八艦隊と同じように見える。これは案なのでラフに慣れた調子で描いたのか、本当に同じように造るつもりだったのか。
→もちろん実際に造る際はブラッシュアップしただろうが、平賀はそもそも艦首波の影響などにはわりと無頓着。藤本は気を使っている。

 小高さんの講演は(他の方もそうだったのですが)、内容盛りだくさんで時間内に収まりきらず、この時点で既に押し気味。

 ついで、新見志郎さんの講演「金剛と英国の姉妹たち」です。
 新見さんのこの講演は、サイト「三脚檣」で以前掲載された「ライバル・他人の空似」をベースとした内容です。金剛のモデルとされる英国の巡洋戦艦ライオン級、その一つ前のインディファティガブル級、金剛の影響を受けたとされる英巡戦タイガーとの関係を検討します。
 これは図や写真の一部は上掲サイトでも見られますので、そちらを参照していただければある程度雰囲気はお分かりいただけようかと思います。12インチ砲塔を梯形配置していたインディファティガブル級から、13.5インチ砲塔を中央線上に並べていたライオン級は大きく飛躍したように見えますが(排水量4割増)、完成当時の姿(前三脚檣を第1煙突の後に立てていたが、排煙でマスト上の指揮所がえらいことになって改装された)や、艦内の構造(なぜか第3砲塔の弾薬庫が右舷に偏っている)を見ると、ライオン級は実はインディファティガブル級の影響を色濃く残していると考えられるということです。建造時期も半年しか違わないのでした。
 金剛は、ライオン級を参考にしつつも、トルコ向けの戦艦レシャディエ(のち英国が接収してエリンとなる)に倣ったところが大きいといわれ、一方タイガーはライオン級の前級を引き継いでいたところを洗練改良したものといえます。ライオン級の第3砲塔に後方射界がないのは、前級の影響によるものと同時に、英国海軍は伝統的に前方射界を重視するものの後方射界はあまり重視していなかった事情もあるようです。タイガーがこの点を改良したのは、金剛の影響ばかりとはいえないようですが、仮に金剛がなければ、第3砲塔後の広いスペースにマストくらい建てたかもしれない、とのご指摘がありました。
 第3砲塔の後に広いスペースがあるのは金剛とタイガーの共通点(この部分の艦内には機関室がある)ですが、これは真似したというより、弾薬庫スペースを軸路で制限されないで済むとか、推進軸の長さが短くて済むなどのメリットからと考えられるとのことです。実際タイガーには当初、後部2砲塔を背負式にする案もあったそうです。また金剛の後部2砲塔は、バーベットが妙に高く、タイガーとその点は異なっているようです。
 まとめれば、当初は装甲巡洋艦として造られた最初の巡洋戦艦インヴィンシブル級からライオン級まではひとつながりの設計思想上にあり、金剛以降が準戦艦的な巡洋戦艦に洗練されたのではないか、ということでした。

 新見さんの講演に寄せられた質疑応答は以下の通り。

・煙突の配置について伺いたい。
→原則、英艦は煙突を一ヶ所にまとめるが、舷側に砲塔を配置している艦はボイラーと機関室を分離した配置となり、煙突も分離して配置される。中央線上に砲塔を揃えた艦は普通煙突を一ヶ所に集めるもので、英艦ではライオン級のみ例外。

・金剛の後部砲塔のバーベットが高いという話だが、それは前後の砲塔の高さを揃えて斉射する際の命中精度を上げようとしたのか?
→それはないと思う。その程度ではさほど精度に影響はない。

・マストの前に煙突を立てて、指揮所が排煙や熱で大変ということはドレッドノートで既にあった事例の筈。それを何でライオン級で繰り返したのか。
→マストをあのようにした直接の理由は、ボートのデリックポストを兼ねるため。それまでの事例では我慢できる程度だったが、ライオン級では遂に耐えられないほど酷かった。

 三番目は大塚好古さんの「金剛型建造ドキュメント余話」です。これは、講演の案内の方に紹介してありますが、学研の『決定版 金剛型戦艦』の記事をベースに行われたものなので、該書なくして説明するのはなかなか難しいところです。大塚さんは今回の講演者の中では一番こういうことにお慣れだったのか? 軽妙な語り口で聴衆に笑いのこぼれる場面もありましたが、こういうのを文字で伝えるのはいよいよ以って難しいですね。レジュメの枚数は多く、大塚さんは最初から「町内会の寄り合いと同じで、時間がかかりそうだったら『あとは読んでおいて下さい』という予定」と仰ってまして、実際にその通りになってましたし。
 というわけで、小生が面白いと思ったトピックを、適当に幾つか紹介させていただきます。

・金剛の試案の資料は英国のものに拠っているが、それは日本側の話があまり信用できないから。
・金剛が当初12インチ砲艦として計画された理由は、14インチ砲が時期尚早という他に、艦形を小さくして経費を安く上げるということもあった。
・14インチにしたのは駐英武官加藤寛治少佐が砲撃試験の結果を手に入れたためといわれるが、ヴィッカーズ社の売り込みもあった。15インチにしなかったのは時間がかかるせいだという。しかしもしかすると、英海軍の15インチは「42口径14インチ砲」の秘匿名で開発されていたが、ヴィッカーズが「42口径よりウチの45口径14インチの方がいいですよ」とだまくらかした?
・金剛の装薬庫と弾薬庫の配置は当時の英艦と逆で、装薬庫が下にある。これは艦の大型化で火薬庫の上部が水線上に露出して注水に不便になったのと、大落角弾への防御による。その後第1次大戦が始まって、機雷による沈没艦が相次いだため、伊勢級ではこれを逆にしたが、ジャットランド海戦の教訓から元に戻った。英艦も逆にした。
・国産化された艦のうち、最初の比叡は細かい不具合が多くて評判が良くなく(のち練習戦艦にされる)、榛名の出来映えが一番良かった。
・兵員区画の一人宛面積を拡大したのは長門級からだと『金剛型戦艦』に書いたが、実際には扶桑級からで、これは間違いだった。伊勢で面積が植民地サイズに戻り、長門でまた大きくなった。
・金剛級の主砲用水圧機は3基しかなく、英艦の5基(含予備)より少ない。そのため主砲の連続斉射が困難であった(当初は交互発射が基本だった)。しかしこれが後に不満の元となり、訓練では過負荷で連続斉射したこともあったが、すると水圧の配管が水漏れを起こす。結局空気圧に改装された。
・斉射を求めたのは、遠距離砲戦時の命中弾が期待できるだけの門数を確保するため。これにより、10門以上装備することにこだわる必要がなくなった。
・改装では防御も強化されたが、その際艦隊側では、上部装甲帯を外して水平装甲を強化して欲しい、「姑息なる薄鋼鈑」はかえって徹甲弾の内部爆発を誘う、非防御の方が当たっても抜けるだけ、と集中防御大万歳。一方造船側は、弾片などでも様々な被害の恐れはあり、排水量制限などの条件がなければ、集中防御はあまり好まなかった。結局は造船側の意見が通る。

 他にも色々あったのですが、紹介しきれないのが残念です。
 講演自体の時間も足りず、質疑応答は最後に回すことにして、引き続きサイト「蒸気推進研究所」「機関車技術研究会」を運営する髙木さんの講演に。

 ですが、記事が長すぎて一つに入りきらないので、以下の続きはレポ・坤巻に。
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by bokukoui | 2008-11-24 23:24 | 歴史雑談 | Trackback(2) | Comments(2)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』開催しました

11月23日(日)13時~、東大本郷キャンパスで講演会

『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』

が開催されます。詳細はこちらの案内をご参照下さい。
案内は随時更新します。


講演会は無事終了しました。
多くの方のご来場、まことにありがとうございました。


講演会のレポートは、近日中に掲載します

レポはこちらです→乾巻坤巻

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by bokukoui | 2008-11-23 18:00 | Trackback | Comments(0)

今日の東急デハ5001号の状況(47)

 用事の合間を縫って、久しぶりにちょいと撮ってきました。

(続きを読む)
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by bokukoui | 2008-11-22 23:10 | [特設]東急デハ5001号問題 | Trackback | Comments(2)

ジュール・ヴェルヌ関連の話 慶応の展示・『文明の帝国』雑感など

 先日のゼミで伺った、大変興味深いお話に関連して、つらつらと思いつくまま。

 今年は慶応大学が創設150周年だとかで、いろいろとイベントをしているらしいですが、その一つにこのようなものがあるそうです。

  異国見聞『八十日間世界一周』
   1872・グローバリゼーション元年、ヴェルヌの見た横濱

 ジュール・ヴェルヌの代表作の一つ『八十日間世界一周』は、1872年に新聞連載され、まさにその同時代が舞台になっています。連載中から大評判で、その後演劇化されそれも好評で、各地でロングランしたそうです。ちなみにヴェルヌの全作品中でも一番の売れ行きだったとか。
 そして作品中、世界一周の途上で主人公・フォッグ氏一行は日本の横浜にも立ち寄ります。もっともヴェルヌは、取材で世界一周をしたわけではない(むしろ家の中にこもって小説を書いていたらしい)ので、ヴェルヌが横浜を「見た」訳ではありません。
 物語の設定上、1872年11月13日にフォッグ氏の従僕・パスパルトゥーが横浜に上陸したと書いてあります(彼とはぐれた主人・フォッグ氏一行の来日は翌日ぐらい)が、そこで描かれる日本は江戸時代です。「江戸」という地名は出てきても、「東京」は出てきませんし、将軍が江戸にいることになっており、ミカドが「ミヤコ」にいることになっています。新橋~横浜間の鉄道開通はこの年10月14日だから、実際にこの日に横浜に上陸すれば、ちゃんと汽車が出迎えてくれた筈なんですが。

 それはともかく、『八十日間世界一周』は日本に紹介されたフランス文学の中でも最も早いものなのだそうです。そしてその版元が慶応大学だったことが、このような企画に繋がったもののようです。
 『八十日間世界一周』は日本でも川上音二郎が劇化し上演したそうですが、それ以後長らく舞台から縁が遠かったそうです。それを先年、久方ぶりに舞台に載せたのがおのまさし氏たちだったそうで、それを一日だけとはいえ無料で再演するというのは、ずいぶん大盤振る舞いなイベントです。汽車や汽船に興味のある身として『八十日間世界一周』は好きな作品なので、見に行ってみようかな。
 「グローバリゼーション元年」として『八十日間世界一周』を捉えるのは、確かに納得できる面があります。何しろフォッグ氏は2万ポンド(現在の数億円程度か)の金力にものをいわせて、80日間で世界を駆けめぐるわけで、その辺がああ資本主義の時代だなあと思わされます。道中フォッグ氏が使った金額で最大のものは船をアメリカ人から買うところですが、ここはアメリカ人から買うのでドル単位で出てきます。しかし他はイギリス人の旅行なので、ポンドで計算されています。中学生頃本書を読んだ小生は、これを差引勘定し、当時は1ポンド=5ドル位なのだと見当を付けましたが、これは結構いい線を行っていました。

 さて、ゼミで伺った話とは、日本で『八十日間世界一周』を最初に訳出した川島忠之助(1853~1938)という人物についてでした。フランス語に通じていたそうですが、実は文学者ではなく(文学者になりたい意図もあったようにも伺えるらしいのですが・・・)、横須賀製鉄所(造船所のこと)や富岡製糸場に勤め、後に横浜正金銀行(戦後の東京銀行)の重役にまでなったそうです。しかし、日本の重工業と軽工業の、それぞれの発祥の地に勤めたにも関わらず(どちらもフランスから技術導入しているのでフランス語は出来たのでしょう)、その事蹟は殆ど知られていない、同時代の資料でも目立たない、そんな人物であったようです。
 で、この川島は、1876年から翌年にかけて、自分もフォッグ氏と類似したルートで世界一周しています。これは蚕の卵を、当時蚕の病気が流行して養蚕業が打撃を受けていたヨーロッパに売り込もうという事業の通訳としてで、事業は渋沢栄一なんかが深く関与し、実際に派遣された中の中心人物は、のちに軽便鉄道を日本各地に展開したことで有名な、雨宮敬次郎だったのでありました。
 そこから更に、養蚕業の話やヴェルヌ翻訳の経緯など、興味深い話は色々とありましたが、人様のご研究を勝手に個人のブログで公開するのも何なので、その一端は上掲展示会でも示されるようですし、やはりここはそれを見に行くのが宜しいかと思います。

 ヴェルヌ繋がりでもう一つおまけに。

f0030574_22565173.jpg杉本淑彦
  『文明の帝国
 ジュール・ヴェルヌと

 このような本をずいぶん前に古本で買い、一年以上前に読了しておりましたが、感想を書く機会を逸したまま時間が経ってしまいましたので、この機会にご紹介。といっても舞えすぎて、本の内容をあらたか忘れてしまっているのですが(苦笑)、本書の読書メモの断片が発掘されたのでそれに基づいてごく簡単に一筆。

 ヴェルヌが活躍した19世紀後半とは、とりもなおさず帝国主義の全盛期でした。その時代のフランス最大の流行作家だったヴェルヌの作品に見られる「帝国」の像、植民地支配や人種問題について、その描かれ方を検討した書物です。全部で400ページを超える浩瀚なものですが、うち100ページ以上はヴェルヌ作品のあらすじ紹介です。文章が敬体なのがちょっと変わっている気もします。
 ヴェルヌ自身は、例えばキプリングのような、植民地活動のイデオローグとして活動した人物ではなく、また『海底二万マイル』のネモ船長の造形からも伺えるようなヒューマニストでもありました。彼の読者もまた、第三共和政下での主流である穏健共和派が中心で、子供向けの本としても当時既に定番だったそうです。だから、当時のフランスの一般的な、「帝国」への見方・考え方というものが見えてくるのではないか、という課題設定でした。
 で、結論を先取りすれば、当時(19世紀後半)においては、ヴェルヌ作品から推し量る限り、国民の間に帝国主義的なイデオロギーは、それほど浸透していなかったそうです。興味深いことに、フランスで植民地の維持拡大を重視する意識が最も盛んになったのは、1930年代以降、ドイツに戦争で敗れて占領され、また解放された1940年代半ばのことというのが、最近の定説なのだとか。ドイツに負け、そのドイツを負かした英米ソに負けてなるものかという意識が、植民地に向かったのだそうです。なるほど、インドシナの事態の説明として大いに説得的ですね。
 また、ヨーロッパの民族自決(当時そういう言葉は広まってませんが)や奴隷解放を支持していたヴェルヌも、植民地独立には全く後ろ向きでした。この両者を矛盾なく繋ぐのは、「文明化」するということで植民地を正当化する考え方を、当時の多くの人と同様にヴェルヌも抱いていたということになります。ヴェルヌはイギリスなどの植民地支配を批判する一方で、フランスの支配をやはり文明化という点で支持していたようです。そして文明化してやる、ということは、主観的には充分人道的なことであったのです。
 そして、帝国主義の時代が終焉し、フランス植民地もあらたか独立した現在でもなお、この帝国意識は清算されることなく抱き続けられており、時としてそれが移民に対し噴出することもある、そういった形で今日にも繋がっているのと考えられます。

 という趣旨の本書で、なかなか興味深く読んだものですが、幾つか感じた疑問を以下に列挙し、感想に代えさせていただきます。
 まず、帝国意識の最盛期が第二次大戦頃であるならば、その時代にどうヴェルヌが読まれていたかを考えるべきではないか、ということです。本書はヴェルヌの作品が書かれている当時に即して読み解いていますので、その後どう読み継がれたかということは触れられていません。
 また、ヴェルヌの内容を社会の標準と見做すより、逆にヴェルヌの作品が社会に影響を与えたという側面はないのか、ということです。ちょっとしたエピソードが幾つか紹介されていますが、なかなか調べるのが難しい点だろうとは思います。しかし彼が流行作家で、作品は子どもに読ませるものでもあったとすると、その影響は広く長く及んだでしょう。翻訳もフランス文学史上もっともされたのですから、フランス内部にその影響はとどまるものではないでしょう。
 ついでに、流行作家であったヴェルヌの作品中に登場する、帝国的な何か(「野蛮人」たちやその住む土地、他の列強の政策など)の描かれ方に、その時々の「流行」を取り入れる商売っ気のようなものがないか、ということも気になります。どういうテーマを目ざとく取り込んだかも興味がありますが、またそのようなことによって起こる偏りも考察に入れるべきではないか、ということです。

 以上、まとまらぬ話ではありましたが、行ければ慶応の展示や企画は覗いてみたいところです。誰か行きたい人はいませんか?
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by bokukoui | 2008-11-20 22:54 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(4)

やっと『月刊COMICリュウ』12月号雑感

 そろそろ次の号の発売日が近づいてきましたので、論文作業が忙しくなる前に片付けておきましょう。今月号は、今夏からといいつつようやっと連載が始まった、鶴田謙二『さすらいエマノン』が表紙でなかなか格好良し。

・ナヲコ「なずなのねいろ」
 引き続き回想篇。前号で示唆された眞さんとなずなの関係について描かれています。そろそろ次当たりからは現在に戻るのかな? なずなが三味線を弾くには、最初のきっかけとなった父、再び弾くきっかけとなった叔父がいたわけですが、今度は年下の他人である伊賀君が関わった時にどんなことになるのでしょうか・・・しかし、マジで伊賀君の名前を忘れかけていて焦りました。
 それはそれとして、幼少なずなのセーラー服姿がとても可愛いのですが、かわいいと単純に言ってしまうには胸の痛む美しさなのでありました。

 多忙で色紙プレゼントに応募できなかったのが無念・・・

・速水螺旋人「螺子の囁き」
 今回はロシアものではありませんでした。オリンパスのペンEEという、昔流行ったハーフサイズ(普通のカメラと較べ半分のフィルムですませるので、画質は粗いが節約になる)のカメラ。速水氏は今でも現用だとか。
 鉄道の写真集を見ていたら、吉川文夫氏が「一頃安いのでハーフサイズを使ったが、今見ると箸にも棒にもかからない」とかこき下ろされていた印象がありましたが、固定焦点で簡単に扱え、セレン電池で消耗品もなく、今でも使える。なるほど、ロシアもの好き速水氏のお眼鏡に適いそうなメカではあります。 

・黄島点心「くままごと」
 今回は二本立て。一本目の「種を蒔くこぐま」は多分、大熊が登場しない初作品では。今回は二本とも「食品安全」関係なのか・・・いやまあ、そういう社会性とこの漫画の面白さは別に関係ないと思いますが。

・とり・みき/唐沢なをき「とりから往復書簡」
 愛猫家の唐沢なをき氏が動物ネタを振ったのに対し、とり氏

「どいつもこいつも あいつもそいつも いしかわじゅんも
 飼ってる犬猫のことになると えんえんえんえん デレデレデレデレ しやがって」


 わりと共感。

・神楽坂淳/伊藤伸平「大正野球娘。」
 前号は一体何をやらかしたのかと思いましたが、やはり途中で落っことしていた模様。本題から外れた大暴投だった前号の、後半が今回載っていましたが、通して読めば結構いい話・・・やっぱ大暴投だ。

・永井朋裕「うちゅんちゅ!」
 なぜか知らねど2ちゃんリュウスレで評判の悪い本作、小生は大好きなんですが。
 で、今号もトンデモ幼稚園シリーズ。肝心の宇宙人はあんまり登場しないし、ひところのホームコメディ的方向からも変わって、さてこの先はどうなるのか? 幼稚園児をこういう風に描くこと自体になにがしか抵抗感を覚える人がいる(2ちゃんのスレでは『園じぇる』を例に挙げていたのがいたけど、???)ようなことには、少し驚きました。本作はそういう視点ではないように思うのですが、どんなものでしょう。

・大野ツトム「ネム×ダン」
 考えてみれば今までこの作品の感想を書いたことがなかったような。
 たまきひさお「トランス・ヴィーナス」と好一対? な作品です。遠く宇宙の向こうからやってきた宇宙人(的存在)が地球人に取り付いて、毎回これまた宇宙の果てからやってくる怪しい連中をやっつける、という枠は両作品とも同じで、取り付くキャラクターと取り付かれるキャラクターの性別が逆になっている(たまたまでしょうが)ためますます一対感があります。本作は取り付くのが男で取り付かれるのが女の子(めがねっこ)。で、どっちも面白いのが嬉しいところです。

・アサミ・マート「木造迷宮」
 ありきたりの材料(シチュエーション)を、ごく正統的な方法(ストーリー)で調理したものであったとしても、丁寧な仕事を積み重ねれば、それは芳醇な味わいをもたらすのであります。
 恰もこのお話中で、ヤイさんが作る肉じゃがの如く。

・安永航一郎「青空にとおく酒浸り」
 新参者にはネタが分からんところが多すぎるけど、もはやそんなことはどうでもいい作品ではあります。単行本は火星人刑事のようなことにはならないといいなあ・・・いや、もう既になっているのか。しかしそれを踏まえて「ぱんつじゃなければありがたくないもん」の台詞を考えると、斯界の先達としての余裕が感じられます。

・安彦良和「麗島夢譚」
 久しぶりにお話の続きが。台湾で暴れ回るオランダ兵、なんてのを読まされた日には、またぞろ Europa Universalis 2 なぞがやりたくなってきますが、時間がありませぬ。
 ところで、宮本武蔵は本作中どう見てもボケキャラのような・・・こういう描き方はあんまりない気がして、それもまたよし。

・いけ「ねこむすめ道草日記」
 巻頭カラー。単行本発売おめでとうございます。しかし正直、カラーでのキャラクターの顔色が、妖(あやかし)の猫娘はともかくも、小学生男子諸君のそれがちょっと不景気な感じが・・・猫娘だけでなく、彼らの可愛らしさも本作の魅力と思うだけにちょっと残念。お話の方は前号編仕立てで、次号が楽しみです。

・梶尾慎治/鶴田謙二「さすらいエマノン」
 巻末カラーでオールカラー。扉絵に出て来る都電の廃車体の魅力的なこと。戦前製ながら都電ほぼ全廃頃まで更新しつつ働いていた古豪1000形(1052とナンバーも描いてある)。塗装の褪色した表現もまた美しい(廃物が美しいというのも変な話ですが)。しかし都電末期の黄色+赤帯の褪色というよりも、緑っぽいので旧塗装だったように見えますね。これのポスターが欲しいので特典に・・・ならんな。
 え? 都電はどうでもいいからエマノンはどうしたのかって? 今回はオールカラーで8ページしかなくて(うち2ページは見開きエマノン)話は全然進んでいないんだから、「これはっ!」という一齣をためつすがめつ鑑賞というのでいいんではないかと。

・京極夏彦/樋口彰彦「ルー=ガルー」
 今号は休載でしたが、いなくなって初めて分かるありがたさ、と申しましょうか、やはりこれが本誌の看板なんだろうと改めて感じ、単行本を買い込みました・・・が、忙しくてまだ読んでいないという次第。

・横尾公敏「ロボット残党兵」
 アクセス解析をしたらここからリンクが張られていたのですが、もちろんご紹介いただいたのは大変有難いことと思っておりますけれど、元の記事からそのような引用のされ方をされるとちょっと微妙な気もします。

・「ちみもりを短篇集 SF編」(別冊付録)
 ゼオライマーのちみもりを氏の、デビュー作も含むらしい80年代の旧作を6本に、あさりよしとお氏との対談を収めるA5の小冊子。
 内容は、嗚呼栄光の80年代って感じです。ロボットが女の子を襲ってどうしたこうしたとか。しかし、これら短編の初出は書いていないのですが、多分『レモンピープル』とか『プチアップルパイ』とかですよね・・・早い話がエロマンガ雑誌に載せていた作品を別冊に付けているわけで、うーん大した編集部。ナヲコ先生の旧作を集めた単行本出したんですから、ついでに『DIFFERENT VIEW』も復刊してください。


 まだ読んで思ったことは幾らもあるのですが、あまり長くなりすぎると書くのも読むのも大変になりますのでこの辺で。
 しかし今回の別冊付録には驚きました。面白く読ませては貰いましたが、『リュウ』編集部はやはりエロへのこだわりがあるのでしょうか。もうこうなったら、年に一回『裏・COMICリュウ』とでも題して、今の連載陣でエロマンガ雑誌を出したらどうかと思います。きっと読者層が大きく拡大・・・しないかね、やっぱ。そっち方面の実績のある方もさりながら、エロというお題を出されたらどう切り返してくるのか、是非読んでみたい作家さんも多い雑誌ではありますが。

※追記:その後『リュウ』が附録で『リュウH』なる別冊を出しました。
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by bokukoui | 2008-11-17 23:53 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

今日の新宿駅・点景

 全くどうでもいいことですが、この記事の一つ前に書いた記事で、当ブログは累計777記事になっていたようです。

 今日はJR新宿駅で、駅改良に伴う跨線橋の架け替え工事のため、大規模な列車の運休が行われていました。JR東日本のページに書いてありますが、中央線の快速線と湘南新宿ライン・埼京線の池袋~大崎は運休で、中央線の特急列車は中野発着、湘南新宿ラインの一部は上野に振り替え、緩行線には1本おきに千葉方面と東京駅行きとが運行されるといったものです。
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 この画像はクリックすると拡大表示し、JRのページに飛びます。

 で、本日小生は所用で都心に出かけ、その途中新宿駅を通りました。大したものではありませんが、その状景をちょこっとご紹介。
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夕刻にもかかわらず人気のない新宿駅中央快速線ホーム

 もちろん運休になっているためですが、ホームに入る所はこのようになっていました。
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跨線橋の降り口

 埼京線が運休の分、山手線ホームは大混雑でした。その情景を撮っておかなかったのはちょっと残念ですが、しかし朝ラッシュを想像すれば済む話と言えばそれまででもあります。
 中央線は快速線が運休ですが、千葉方面行きの緩行線の黄色い帯の電車と、東京駅行きのオレンジの帯の電車が一本おきに緩行線に運行され、ひっきりなしに電車がやってきていました。山手線も増発されていたようです。
 緩行線の電光掲示板は、従ってこんな感じになっていました。
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 ・・・なんだかちょっと混乱しているようですが、状況が状況ゆえにある程度は致し方ないことでしょう。小生がこの写真を撮った頃には、新宿駅では特に大規模な工事が進められている様子はなく、重要な作業は終わっていたように感じられました。今のところ特に混乱の報道もないようで、無事に終わったとすれば結構なことです。
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by bokukoui | 2008-11-15 23:59 | 鉄道(現況実見) | Trackback | Comments(0)

雑感・現在の状況と予定など(コマツ元社長死去・コミケ)

 日曜日に終わった報告を論文に纏めるべく構想中。構想はしているのですが、形になるにはまだいろいろとかかりそうです。年内には論文完成させねばと思い、それ自体はさほど高いハードルでもないとは感じていますが、それまでドタバタしていると、数年来の課題である部屋の片付けはいつになるのかとも思います。こうやって新しい課題を口実に先延ばししてきたような気が・・・。

 その報告と微妙に関係するようなニュースに、今日接しました。
河合良一氏死去
  (コマツ元社長、元経団連〈現日本経団連〉副会長)

 河合 良一氏(かわい・りょういち=コマツ元社長、元経団連〈現日本経団連〉副会長)3日午前8時30分、心不全のため東京都調布市の介護施設で死去、91歳。東京都出身。葬儀は親族のみで済ませた。(中略)
 54年コマツ入社。64年から82年まで社長を務め、同社をグローバル企業に押し上げる礎を築いた。86年から11年間にわたり、日中経済協会会長として日中交流に尽力したほか、経団連副会長も88年から6年間務めた。
(時事ドットコム)
 共同通信のニュースでは、「89年6月の天安門事件後も中国との経済交流を続け、産業協力のパイプ役となった。」と評されています。
 というわけで、コマツの経営者だった方の訃報ですが、小生の報告と関係しているのはその父でやはりコマツの社長を務めた河合良成の方でした。リンク先のウィキペディアに略歴がありますが、官僚から郷誠之助の縁で実業界入りした人ですね。
 で、ウィキペディアの略歴には書かれていないことなのですが、弟の鉄二が川崎財閥(川崎重工や川崎製鉄を作った関西の川崎家ではなく、金融中心で戦後は第百生命を有していた関東の川崎家の方)と縁があったため、河合良成は国華生命保険を中心とした、川崎系生命保険各社の経営に当たっていました。かなりのやり手で、会社の合併などにも相当働いたのですが、やり過ぎて川崎財閥本家に疎まれ、追い出されてしまいました。更に帝人事件に巻き込まれたりとしばらく財界の表面から消えることを余儀なくされましたが、帝人事件はでっち上げで、やがて復活、東京市の助役を一時務め、戦時中は木造船建造の監督という役職にありました。
 戦後はコマツの経営再建に当たり、同社では「中興の祖」と呼ばれているそうです。経営再建とは、つまるところ労組対策で、当時の経済誌で河合が「共産党は追い出した」などと語っているのが、今回報告のために集めた資料の中に見つかりました。
 ちなみに小生の報告の本旨は、河合と共に川崎財閥で腕をふるった挙げ句、やっぱり追い出された電鉄経営者・後藤国彦の話で、その途中で名前を知った次第。ちなみに後藤の項目もウィキペディアにあるけれど、小生の研究の結果に鑑みて、間違いが見られるのでリンクしません(ネタ本は推測つきますが、それをウィキペディアに書き写す時に話が勝手に膨らんでいる)。

 で、何に少々感じるところがあったかというと、経営再建のため外部からコマツに乗り込んできた河合良成は、その地位を息子に受け継がすことができたんだなあ、ということにです。
 河合良成や後藤国彦を追い出した川崎財閥は、一族で経営の首脳を固めたものですが、戦時中の銀行統合で中核の川崎銀行を三菱に合併されて失います。戦後は第百生命を有していたようで、同社の七十年史を見たら、その当時の経営陣には川崎家らしき人名が見つかりました。しかし、その後同社は経営破綻し、今ではマニュライフ生命になって経営陣は横文字の人名ばかり・・・
 河合家と川崎家、有為変転を些か感じたのでありました。


 というわけで、しばらくはやはり締切に追われる日々ではありますが、いろいろ片付けないとどうにもならなくなっているのも事実で、今日は片付けを試みると同時に、コンピュータの中身も整理して、ついでに「よりぬき『筆不精者の雑彙』」も久しぶりに更新しておきました。ブログの項目分類ももうちょっと何とかしたいところですが、それはまたしばらく先。
 で、「よりぬき」を更新したついでに、MaIDERiA出版局のサイトも大変久しぶりに更新、冬コミに当籤したのでその情報を書いておきました。この調子ではどうなるか分かりませんが、論文が上がれば資料は幾つもあるのでなにがしか、という感じです。もっともいい加減、在庫を一掃して撤収した方がいいと言うべきなのでしょうが。
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by bokukoui | 2008-11-13 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(0)

第1次世界大戦停戦90周年 附:近況若干

 先日ドイツ革命90周年を記念した以上、今日はこの話題で・・・と思ったのですが、体調思わしからざるに付き、というかネタもないので、今日は記念するのみにとどめます。

 先日ある方ともちょっとお話ししたことなのですが、第1次大戦の方がイデオロギー的な味付けがない分、「戦争の悲惨さ」をよりストレートに語ることが出来るのではないか、そんな風に思うこともあります。ソンムやパッシェンデールの夥しい死者達に、何か尤もらしい意義を与えようとしても、何の意味もなかったということが最大の意義なのではないか、そう思います。小生が、日本でしばしば行われる「戦没者追悼」などを巡る議論について、いくらかの違和感を覚えるのは、一つにはこの辺りに起因しているのだと自分では思っています。


 ついでに近況など。
 先日来そのためにごたついていた学会報告ですが、先日無事終了しました。当初の構想とは全然違ったものになりましたが、何とか形になってほっとしています。もっとも向後この報告を論文に纏めるために、まだしばらくどたばたしそうです(年内くらいは)。ですが、今日は一日、緊張が一段したせいか、全く身動きが出来なくなって引きこもっておりました。
 ところで、学会報告用のレジュメを書いていたところ、気がついたらA3用紙で本文4枚資料篇7枚の大作になってしまい(普通文学部系はB版で作るのですが、作成中にこれは枚数が増えすぎてまずそうだとA版に切り替えました)、それを80部も作ったものだから、コピー代がえらいことになり、素寒貧になりました。そして残部が30部近く・・・近日中に小生に会う方々は、メモ用紙にも焚き付けにも鍋敷きにも使える紙片を一塊押し付けられることになろうかと思いますので、ご諒解の程。
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by bokukoui | 2008-11-11 23:40 | 思い付き | Trackback | Comments(6)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』ご案内

 来る11月23日(日)、東京大学本郷キャンパスにて、日本海軍の巡洋戦艦・金剛に関する講演会が開催されます。なかなかに濃ゆい方々が集まりそうなイベントです。興味と関心のある方は、連休中の一日、是非お運び下さい。(追記:開催時のレポートはこちら→乾巻坤巻
 このイベントについての案内としては、SNSの mixi 内にコミュニティが設置されており、そちらで質問なども受け付けております。しかし mixi 会員でない方には閲覧できませんので、講演会に関する要旨を以下に同コミュニティから抜粋・編集してご紹介いたします。

【巡洋戦艦「金剛」;技術的視点による再考】

日時:11月23日(日) 13時~17時
場所:東京大学本郷キャンパス 法文1号館1階113号教室
運営団体:金剛艦プロジェクト2008
参加費:無料(寄付金歓迎)

●講演者・内容
小高まさとし
「平賀文書に見る金剛代艦の考察」 (13:05~)
平賀文書公開によって得られた新情報から通説を再検討する。

新見志郎
「金剛と英国の姉妹たち」 (14:15~)
巡洋戦艦「金剛」と、同時代に誕生したイギリス巡洋戦艦「タイガー」とを比較する。

大塚好古
「金剛型建造ドキュメント余話」 (14:50~)
学研「決定版・金剛型戦艦」の「金剛型建造ドキュメント」に対する補足解説を行う。
金剛新造時、第一次改装時、第二次改装時を中心に。

髙木宏之
「『金剛型』機関部詳解・余談」 (15:35~)
学研「決定版・金剛型戦艦」の「『金剛型』機関部詳解」に対する補足解説、その他。
金剛新造時、第二次改装時を中心に。

全体討論(16:20~)
個別の講演後に質疑応答の時間を設けますが、それで足りなかった分や全体に関わるものはこちら。

●参加方法
参加は自由です。当日、会場まで直接お越し下さい。
但し席数に限りがあります。
満席の場合、大変申し訳ありませんが立ち見で我慢して頂くことになります。
 案内に追加事項があれば、この記事も適宜加筆していく予定です。
 また、mixi に加入しておらずこのコミュニティを見ることができないが、しかし運営側に質問がある、という方は、記事のコメント欄若しくは小生のメールアドレスへご連絡いただければ、取り次ぎなどの対応を行います。小生もこの講演会の運営に関わっておりますので。

 なお、大塚氏と髙木氏の講演の参考文献として挙げられているのは、

  歴史群像太平洋戦史シリーズ65
です。いつの間にやらこのシリーズ、65巻も出ていたんですね。確か出始めたのは小生が高校入ったかどうか頃だったような気が。
 小生もいろいろ用事に追われていて、今日買ってきたところで、まだ読んでおりません。講演会までには読んでおかないと。


 というわけで、この講演会は、巡洋戦艦・金剛について「技術的視点」から考えるというもので、戦う話は一つもないという構成になっています。
 特に今回、東大キャンパスでの講演会が実現したのは、「平賀文書」関係の講演があることに起因しております。平賀文書とは、日本海軍の造船技術者として著名な平賀譲が残した文書群で、最近ネット上にアップされて見られるようになっております(→平賀譲デジタルアーカイブ)。平賀は東大の工学部で学び、また教鞭を執り、総長を務めたと東大に縁が深く、文書も東大に寄託されました。それが近年、ネットで見られるようになったわけです。(詳しい経緯は上掲サイトの「平賀文書の受け入れ・整理の経過」参照)
 今回講演される方々は在野の軍艦研究者の方々ですが、こういった資料が一般公開されることで研究の裾野が広がることを期待し、ひとつ平賀と縁の深い東大で開くのも面白かろう、ということで、小生も少々お手伝いし、実現の運びとなりました。・・・いやまあ、軍艦マニアというのは決して昨今の堕落した状況に流される存在ではないはずだ、という個人的な思いが、小生をして本講演会に協力せしめたのでありますが。

 講演自体は巡洋戦艦・金剛を軸に、各時代ごとの様々なトピックを取り上げるという形になります。金剛誕生の系譜(新見講演)、建造と改装(大塚講演、髙木講演)、実現しなかった金剛後の系譜(小高講演)となりましょう。平賀がこれすべてに関わったわけではないですが、このような筋を通す事で、第1次大戦前から1930年代までの日本海軍の軍艦に関する思想や技術の流れがある程度見えてこようかと思います。
 このような大変興味深い企画ですので、ご用とお急ぎでない方は是非、連休の一日、本郷へお運び下さい。

※以下、11月14日追記

 113号教室への行き方を写真でご案内。本郷キャンパスの地図を参照しつつ、ご覧下さい。
 まず、有名で本郷三丁目の駅からも近い赤門ではなくて、安田講堂正面の正門から入ります(赤門からでも行けますが、正門の方が分かりやすいです)。
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東京大学正門

 正門を入って、まっすぐ進みます。左手に「工(学部)列品館」という看板のある建物、右手には「法学部研究室」という看板のある建物を見つつ、その前を通り過ぎます。ちなみに列品館は、安田城攻防戦の折、防衛を任されていた革マル派が組織温存を優先して機動隊突入前日に勝手に撤収してしまい、以後その他の新左翼諸派から忌み嫌われるセクトになったという、現代史上の戦跡です。
 それはともかく、建物の間を抜けて四つ辻のようなところに出ますが、そこで向かって左手の建物が法文一号館です。
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法文一号館

 写真中央の三角屋根の処が入り口です。当日はこの辺に看板を立てられれば、と考えています。
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法文一号館の入り口

 入ってもう一つ扉を通ると正面に階段がありますが、それは上らないで、左に行きます。
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法文一号館の一階 入り口を入ったところ

 左に入った廊下を右に折れると、そこの左手が113号教室です。
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113号教室の前(正面のドアは112号教室)

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113号教室(傾いているのは撮影者の腕のせいです)

 会場はご覧のように割と広い部屋なので、多分席が不足することはないとは思いますが、万一満員の節は立ち見でご容赦下さい。

 なお、講演会の日、東大の総合図書館では、以下のような展示を行っております。
「かわら版・鯰絵に見る江戸・明治の災害情報―石本コレクションから」
 今年度の附属図書館秋の特別展示会は、東京大学地震研究所の所長であった石本巳四(みし)雄(お)先生(1893~1940)のコレクションのうち、 本図書館が所蔵する江戸~明治期の災害かわら版・鯰絵などの出版物を中心に展示します。
・石本先生は関東大震災を挟む3年間フランスに留学、帰国後は地震計測機器を考案するなど、地震学の発展に寄与されました。 留学先で最先端の科学研究に触れた地震学者が自国の一見科学の対極にあるようなかわら版や鯰絵などの出版物に関心を抱いた 理由にはどういうものがあったのでしょうか。近代地震学を担う学者のなかで、早くから災害と社会の関係を文化という次元から捉えてみようとする 懐の深い理解をもった人物のひとりであったのかもしれません。展示品の数々がみなさんを石本先生の興味のおもむくところへいざないます。
 なお、展示で取り上げる災害について最先端の研究成果も併せて紹介いたします。
 土日も開いていて、9時から18時まで展示しているので、ご興味のある方は講演会の前後にでもどうぞ。

※以下、11月19日追記

 講演会終了後、18時より懇親会を予定しております(@炭火焼だん)。事前に関係者で参加者を募りましたが、多少の余裕がありますので、参加ご希望の方はお早めにご連絡ください。

※以下、11月19日追記

 講演会は無事終了しました。レポートはこちらです→乾巻坤巻
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by bokukoui | 2008-11-10 20:09 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(2)