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『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談の評論への西尾氏の批判について

 この記事は、

 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」
 秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き
 「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ


 の続きです。

※追記:以上一連の記事及び本記事が、西尾氏の著書に引用されました。
 「『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩」

 正直、もう続きを書くつもりはなかったのですが、これらの記事で批判した西尾幹二氏が、先日ご自身のブログで小生の記事を取り上げて批判をされ、トラックバックも送られるという思いがけないこと(上掲記事のうち最初のもの参照。ちなみに管理者にだけ見えるコメントの内容は、西尾先生のブログの管理者の方からのご連絡でした。丁寧にありがとうございます)がありまして、小生の如き若輩者の記事に対してもお目通し下さったということ自体は、有難いことと思います。その記事は以下の通りです。

 西尾幹二のインターネット日録「『諸君!』4月号論戦余波(三)」

 (三)があるということは、当然論戦余波(一)論戦余波(二)もあります。

※追記:これらの記事は『西尾幹二のブログ論壇』収録に伴い、削除された模様です。詳細は以下の記事をご参照下さい。
 ・「『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩」

 さて、西尾先生が小生の記事を読んで下さってコメントを下さったこと自体は大変ありがたいと思います。しかしながらそのコメントを拝読いたしますと、残念ながら小生の意図したところをご理解いただけなかったのではなかったかという印象を抱かざるを得ませんでした。ですがそれは、当ブログの記事がやたらと長くて読み取りにくかった(もっとも長くなった最大の理由は『諸君!』対談記事の引用ですから、西尾先生はそこは読み飛ばしていただければ良かったのですが)ことにも一因があるかとも反省し、以下に再度、なるべく簡潔に、ポイントとなる点を挙げておきたいと思います。

 まず一つは、歴史について自由な解釈はもちろん認められるにしても、その基盤として着実な事実の検証は必要不可欠ということです。これは歴史ならずとも、何事についても証拠なしに勝手なことをいうな、という意味では普遍性があると思いますが。
 歴史的事実というのは実験によって再現・検証することが出来ませんので、これは史料という証拠を吟味して「より確からしい」事実を積み上げ、議論を重ねて精度を上げていくことになります。この基盤なくしては、どんな議論をしても砂上の楼閣ということになってしまいます。
 もちろん、歴史の精華というのは、その事実を元により見事な解釈をしてみせるところにあります。事実の確認がしっかりしていても、その研究が直ちに高い評価に結びつくとは限りません(ただし、事実の検証がしっかりしていれば、一定の評価はちゃんとされます)。しかし、その材料があまりにいい加減では、出来上がった建物の見た目が派手でも、とても評価できたものではありません。出来上がりの格好さえ良ければ、それを構成する材料のいい加減さが正当化されるわけではありません。これも歴史に限った話ではない普遍性があると思います。何せ、今回の件のそもそものきっかけである、田母神「論文」を世に送り出したアパホテルは、耐震強度の偽装が発覚して使用停止命令を受けたわけで・・・

 繰り返しますと、「解釈」、事実の「意味」は時代によって論者によって変化するけれど、その拠って立つ基盤となる「事実」というのはそうではない、ということです。もちろん、新史料の発見によって事実が変わることはありますが、それは史料を基に実証を積み重ねる作業の一環です。秦先生が指摘されていることも、自由な解釈をするには拠って立つ基盤が大事、という点で同じと思います。
 つまり、コロンブスのアメリカ大陸到達の意義についてはさまざまな解釈が可能ですが、「新大陸を発見したのは鄭和だ!」(そういうトンデモ本があるそうな)とか言い出されると話にならない、ということです。アメリカ到達を当時のスペイン人は「神の恩寵が世界を広く照らした光栄なこと」と考えたかも知れませんが、今そう考える人は多くないでしょう。でも、コロンブスがアメリカに着いたことは変わりない事実のわけです。

 さて、しかし西尾氏は、「証拠なんてない」「細かいことはどうでもいい」と放言しておられます。また、上掲西尾先生のブログに登場する、西尾支持派の多くの方も同様の見解のようです。
 そこで、小生は以前の記事で、そのような見方に対し、以下のような疑問を提示しておきました。そしてそっちこそが、小生の主張したい批判点の核心だったのですが、西尾先生にしても、上に指摘した事実と解釈の関係についての倒立した見方にこだわって示されただけで、肝心のこちらにお答えいただけなかったことは残念でなりません。
 それは、仮に事実はどうでもよく歴史はストーリーなのだと考えた場合、「正しい」ストーリーとはどのような基準で決められるのでしょうか。西尾氏は、如何なる根拠によって、自己の「歴史」の正統性を保証するのでしょうか、ということです。

 秦先生にしても、歴史について一つのストーリーを最終的には提示しておられるわけです。秦先生の提示されたストーリーが正しいかどうかは、その拠って立つ膨大な検証された事実が支えています。秦先生のストーリーを覆すためには、その事実を再検証するのが一つです。事実に特に大きな問題点がなかった場合でも、同じ事実を基盤に、異なった解釈を示して議論することはできます。再検証と議論を通じて、歴史像は次第に形成されていきます。
 ですが、細かい事実は検証しない、解釈は勝手にやって拠って立つ基盤となる事実はどうでもいい、という場合は、一体そのストーリーの「正しさ」はどう判断できるのでしょうか。それが史料にこれこれの根拠があってこのストーリーは正しい、というのであれば(そして西尾先生も「ヴェノナ文書」などを示していますが)、それでは秦先生の指摘を無下にはできないことになります。

 小生は以前の記事で、「正しさ」の基準は示されていないのではないかと疑問を提示し、西尾氏のブログでの書きぶりを手がかりに、山本七平を引用しつつ、「仲間ぼめ」を繰り返すことでトートロージーとして「正しさ」を作り上げているだけではないか、と批判しました。
 今回の西尾氏が書かれた「論争余波」3件の記事では、合計7件の西尾氏への意見が登場します。うち批判は小生含め2件ですが、小生以外のもう一件というのは、以前の記事でも紹介した「元木昌彦のマスコミ業界回遊日誌」さんの3月3日付記事です。これへの西尾先生の評言がちょっと意味が分からなくて、分からないので以下にそのまま引用しておきますが、
 執筆者の元木昌彦氏は元『週刊現代』の編集長で、『現代』にもいた。もう定年退社している。年末に私は新宿のバーでお目にかかっている。
 偶然隣り合わせに坐り、知り合いの講談社の知友の噂ばなしなどをした。私が昨年『諸君!』12月号に書いた「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」を大変に面白いと言っていた。
 人間はみな心の中にどんな「鬼」を抱えて生きているのか分らない。老齢になるとことにそうである。また、若いときに一度刷り込まれた物の考え方は、どんなことがあっても消えることはないようである。
 意見そのものではなく、人間について語られても、知り合いでも何でもない読者には困るのですが・・・

 で、この元木氏の批判に対しては「年だから」みたいに流してしまい、残る小生の記事については、他に二つの意見をわざわざ引用して批判を加えておられます。もっとも、西尾先生のブログ記事中の文章の長さとしては他人の意見の引用の方が圧倒的に長く(引用の長さ自体も、拙ブログのものよりずっとその二つの意見の方が長い)、西尾先生ご自身の書かれた言葉が少ないのは多少遺憾であります。
 さて、これらの批判は、本記事で挙げた二つのポイントのうち、第一のそれに向けられているようです。それについては上で既に書きましたのでもう措いておきますが、第二の、小生の考える最も重要な点については何ら触れておりません。第二の点で、ストーリーの「正しさ」を史料に拠って証明できない以上、何によってそれを示すのか(「正しさ」が証明できないなら、何を言っても構わないことになり、議論自体成立しない恐れがある)、ということです。
 ですがこの点は無視され、小生が書いた記事があまりに長すぎたため、第二の点まで西尾先生にお読みいただけなかったのではないかと懸念しました。

 小生は、「正しさ」の基準は西尾氏の発言からは読み取れず、ブログの様子から、「支持してくれる人がいるから正しい」としているのではないかと疑問を提示しました。支持者の方は「西尾先生がこう仰ったから正しい」というわけです。これは山本七平の言葉を借りれば「仲間ぼめ」ではないでしょうか。
 西尾先生もさすがに多少気にしておられるのか、「知友だからといって格別に私に贔屓して言っているのではない」「知友だから私を応援している、という文章ではない」などと書かれていますが、こんな言い訳がましいことをつけるのであれば、最初から紹介しないか、違った形で紹介するようにするべきと思います。

 西尾先生は小生の記事に対し
私に対し「歴史を論ずるということ自体を根本から分っていない」とか「歴史でないなにかを論じようとしている」と決めつけていたときの「歴史」が非常に狭い、固定した一つの小さなドグマ、特定の観念にすぎないことがお分りいただけたであろう。
と書かれています。小生はなるほど、史料という証拠に基づいて発言すべきであるという歴史学の手法に則って発言しているつもりですが、では逆に西尾先生は何に基づいて発言されているのでしょう。
 歴史学は学問の手法として一定の認知を受けていますが、西尾先生はそういった学問手法に準拠することを「ドグマ」と呼ばれるようです。その手法は決して密教ではなく、誰にでも利用可能なものに過ぎないし、だからこそ普遍的な有用性を認められているのです。むしろ拠って立つ基盤、構築に参加することになる体系、それを支える定義といったことを「ドグマ」と切って捨てたならば、それはただの根無し草、妄想の集積に過ぎないと考えます。

 は、長いから短く同じ内容をまとめ直すだけのつもりだったのに、随分長くなってしまいました。これでは本来の記事の意図が損なわれてしまいます。この辺が我ながら駄目ですね。まだ補足したいことはいくらでもありますが、充分長すぎるのでこの辺で切ります。もし万が一、まずあり得ないと思いますが、本記事に西尾先生がまた何か反応して発言されたら続きを書くことにします。
 反応といえば、名だたる評論家の西尾先生が直々に小生のブログを取り上げられたからには、アクセス殺到・批判コメント続出で当ブログ初の「炎上」が起きるのではないかと期待・・・もといびびっていたのですが、蓋を開けてみれば特に何事もなし。むしろ西尾批判派の方がコメントを下さったくらいでした。西尾派の人もコメント一つ残していかないなんてなんだかなあ。まあ、ここは当ブログの「A-A基準」ぶりが健在であることを感謝することにします。
 アクセス解析してみれば、西尾先生のブログから来た人はここ二日間で30~40/日 程度にすぎません。西尾ブログの読者のうち何割がクリックして当ブログにお越しになったかは分かりませんが、もし1割としたら、西尾ブログの閲覧者は当ブログ較べても大して多くないということになります。西尾先生が拠り所としているらしい「支持者」の輪も、案外小さいのかも知れませんね。
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by bokukoui | 2009-03-24 22:18 | 歴史雑談

戦前の夢のマイホーム? 平尾善保『最新 住宅読本』(1938)を見る

 当ブログの前回の記事で、アサミ・マート『木造迷宮』を取り上げましたが、この漫画の舞台と思しき昭和初期~戦後間もなく頃の家について、単行本に間取り図が付いているものの、この間取り図がどうにもおかしい、という話をもう一度しておきました。
 では、この時代の家はどのように建てられていたのか、ということの参考になりそうな本について、今回は考えてみたいと思います。

 というわけで、今回のお題は、表題の通り平尾善保『最新 住宅読本』(日本電建株式会社出版部)という本です。最新つったってこの本は、1938年初版となっておりますので、今から七十年も前に出された、住宅の建て方解説書です。出版は住宅を建設している会社自体が行っていて、著者はその社長です。余談ですが、この日本電建株式会社という会社は、創立者にして社長の平尾善保亡き後、紆余曲折を経て田中角栄の手に入り、その金脈の一角を形成することになってしまったのだとか。
 さて、この本は、ざっとA5版で600ページに近く、しかも図版や写真が数百枚も載っているという立派なものです。値段は4円とありますので、今でいえば1万円くらいにはなるのではないかと思います。小生は古本市で割と安く手に入れましたが、本来は多分箱入りだったでしょう。
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 巻頭には序文や揮毫が、賀屋興宣だとか菊池寛だとかやたらいっぱいあって、それ自体なかなか興味深いのですが、それはともかく、本の内容は、まず日本と世界の住宅の歴史を述べ、ついで家を建てるための知識が、敷地の用意、建物の設計・構造、室内の造作、庭の作り方、さらには材料の木材についても、どのような工法や材料、仕上げがあるのか、写真や図をふんだんに使って述べられています。例えばこんな感じです。以下の画像はクリックすると拡大表示します。
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 ここに挙げたのは、ごくごく小さな家で、どちらかといえば設計図を書く練習的に位置づけられているようです。ですが、これを問題の間取り図と見比べれば、基本的な問題点は見えてくるだろうかと思います。
 で、ここまで引っ張っておいて何なのですが、この本には間取り図の具体例は、実はほとんど載っていません。目立つのはこれぐらいかな? これもクリックすると拡大表示します。
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 現在スキャナが故障中のため、デジカメで撮っていて多少お見苦しい点はご容赦ください。
 で、この邸宅、戦前のものとしては、いや現在の基準でも、かなり立派なものではないかと思われます。上の家なんか、建坪でも50坪はあるんじゃないかと。なれば土地は100坪以上は・・・。なるほど、戦前は土地と人件費は現在の感覚より割安だと思われますが、それにしたって、これだけの家がそうそうあったとは考えにくそうです。なお、これだけの豪邸でも、階段の幅は『木造迷宮』の図面よりは狭いように思われます(笑)

 そう、この本の最大の謎だと小生が感じたのは、「豪華」「立派」ってことです。種々の内装の様子が写真版となって収められているのですが、どう考えてもこれは普通のサラリーマンなどの中産階級が建てられる家には立派すぎないか? というしつらえが多々見出されます。本当にみんなこんな家を建てていたのか知らん? かといって、そのセンスは田舎のお金を持っている地主さん向けとも思われず、洋風の意匠も多く取り入れられていて、やはり都市住民を主たるターゲットとして編まれているようです。そもそも序文に「特に大衆の人達に読んで頂いて、多少とも住宅の知識が普及され、家を建てられる参考ともならば結構だと考えて筆を執ることにした」とあるのですが、大衆向けにしてはえらく立派な気がしてなりません。
 更にこの本、どうもよく売れていたようです。初版は1938年7月15日発行とありますが、同じ月のうちに再版されており、小生が手に入れたのは「昭和十五年十二月二十日二十五版(改訂規格判)印刷」とあります。25版! そうそう見ない数字ですね。しかも日中戦争が既に起こっており、あと一年足らずで太平洋戦争という時期です。

 一体どういう人が買っていたのでしょう。限られた上流だけではこれほど売れたとは思われませんし、大体そのような人たちであれば、こんなマニュアル本なんか読んで家を建てたりしないでしょう。となると、半ばは中産階級の憧れを満たすために、実際にどこまでこれに準じた家を建てるかは別にして、読まれていたんだろうなあと推測します。
 時代としては、軍需景気によって小金を手に入れた層が、ちょっと気張って家を建ててみるというシチュエーションも考えられそうですが、時代からして資材統制や職人の手不足は既に始まっていたはずです(詳しくは調べてないけど)。となると、そもそも金があっても思うように建てられない可能性も・・・本書には鉄筋コンクリートの家についても触れた箇所がありますが、本が出た頃には、自由に鉄が手にはいるのか微妙な時代のはずです。なにせ阪神電鉄が梅田にデパートを作ろうとしたら、資材統制で断念せざるを得なかったという頃ですので。

 で、戦時下を反映した内容も確かにあって、「防空室」という一節があります。こんな感じで、図も載っています。これまたクリックすると拡大表示します。
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 これは随分立派な防空壕、いやいや、防空室ですね。平尾はさらりと「こうした防空の建設は、いざという時には、材料が間に合わなかったり、人手が足りなかったりするため、容易に出来ないものであるから、各自が平常から心掛けて、小さいながら我が家に一つの防空室は造って置きたいものである」なんて書いてますが、実際にこんなのを自宅に造れた人はどれだけいたのでしょうか。戦時中の空襲対策として聞くのは、多くは「防空壕」であって、こんな立派な「防空室」というのは、やはりこの本の他の幾つかの箇所と同じように、憧れの理想像を描いたものなのではないか、という気がしています。
※追記:実際にコンクリート製の立派な防空壕を自宅に作った人の話はこちらをご参照ください

 またこの本は、一種の教養書というか雑学本というか、そんな感じの役割もあったのではないかと思います。例えば、世界の建物の歴史の箇所では、さてこそパルテノン神殿やコロッセオや、更にはエンパイアステートビルから胡同(多分)まで、日本で家を建てる人とはおよそ関係なさそうな写真がてんこ盛りだったりします。直接は関係なくても、教養として紹介しておこうという方針だったのか、単に著者がハッタリをかけていたのか。
 とはいえそういった建築物ならまだ分かるのですが、家の材料となる木について説明した章につけられていた写真には、教養にしてもマニアックなものが幾つもありました。以下にざっとご紹介します。写真のうち横長のものはクリックすると拡大表示します。(スキャナが直ったようなのでこっちは取り込んでます)
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熊本県鹿本郡内田村国有林の木馬インクライン

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秋田県北秋田郡羽根山国有林の雪橇インクライン

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長野県南安曇郡島々谷国有林のトロ運搬

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秋田県北秋田郡長木沢国有林の鉄道運搬

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青森県下北郡二叉山国有林のトラクター運搬

 なかなか興味深い写真ですが、家を建てるのには直接関係はなさそうですし、一般教養というわけでもない観がします。家を建てるのはこれだけ大変なんだ、ということを強調したかったのでしょうか。
 小生は鉄道趣味者なもので、森林鉄道についても多少の知識はありましたが、林業にはさほど詳しいわけではないので、「木馬インクライン」の写真なんかは初めて見たもので感心しました。インクラインとは、急勾配を越えるために、ケーブルカーの要領で斜面をワイヤーで引っ張って貨物を上下させるもので、森林鉄道には時折設置されていたようです。更に地形が険しい、あるいは輸送量がそれほど多くない場合には、索道を使うことが多く(というか、インクラインの採用例はそんなに多くないと思います。索道が山岳地域の近代交通手段としてはかなり有力だったはず)、本書にも写真がありましたがそれは省略しました。
 なるほど山中なんだから、鉄のレールを運んでくるよりも、そこらの木材で作ってしまえば合理的ですね。写真をよく見ると、ケーブルカー同様上下列車(?)が交換する場所は、線路の木材が4本に分かれている箇所があることが分かります。他の箇所は3本の材木(というか丸太)を、真ん中の一本を共用する形で台車を動かしているようですね。
 更に冬の降雪地帯では雪ぞりになるのですが、わざわざそんな冬に雪ぞりまで使って搬出するのは、雪の方が抵抗が少なくて運ぶ効率が上がったのだろうと思います。
 これらの木馬や雪橇のインクラインは過去の遺物かと思ったところ、検索してみたら「労働安全衛生規則 第八章 伐木作業等における危険の防止」というのが引っかかって、少なくとも条文の上では現役のようです。

 森林鉄道の写真は見ての通りですが、小生は個々の林鉄に詳しいわけではないので、詳細はまた折を見て物の本でも調べてみたいと思います。
 それにしても、最後の下北半島の二叉山国有林で使っていたというトラクター、これは見るからに自動車の改造で、軌道だけでなく道路も走れるようにしていたものかも知れません。森林鉄道といえば、手押しや可愛い蒸気機関車(戦後なら加藤のちっこい機関車)が通り相場だと思っていたので、これにはびっくり。どなたか詳細をご存じの方がおられましたが是非ご教示ください。
 一つ疑問なのが、自動車の大きさから考えると、この森林鉄道のゲージは一般的な2フィート6インチ(762ミリ)より広いように思われるのですが、どうでしょうか。森林鉄道のレールは低規格で細いので、普通の線路の感覚で見るとゲージが相対的に広く見えることはあると思いますが、それにしたって、という感じです。そういえば最後から二番目の長木沢国有林の軌道も、横の人の大きさから考えると、やはり762ミリより広いゲージのような気がしてきますが・・・

※追記:戦間期~高度成長初期頃の国鉄官舎(宿舎)の間取図を掲げた記事はこちら
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by bokukoui | 2009-03-22 23:25 | 歴史雑談

折々の小ネタ 及びアサミ・マート『木造迷宮』2巻略感 

 なんかこういろいろと所用に追いまくられているのですが、気がつけばもう3月も下旬です。

 先日大学生協の書籍部に足を運んだところ、東大出身のオタク系評論家(でいいのかな?)である有村悠氏のブログで、氏の近業として紹介されていた『現代視覚文化研究3』(三才ムック)が雑誌コーナーに並んでいるのを見つけ、思わず手に取りました。しかし間抜けなことに、有村氏がどこを執筆されたのか失念しておりましたので、ただあてもなくぱらぱらとページを繰っておりましたところ、ちゆ12歳「教科書には載らないエロライトノベル史」なる記事が目に付き、思わず立ち読みしてしまいました。相当詳細で興味深い記事でしたが、ただ途中フランス書院のナポレオン文庫の紹介箇所中、「ナポレオン文庫はロリコンの人には不評だった」的なことが指摘され、その証拠として白夜書房が出していたロリコン雑誌『Alice Club』(正確にはその別冊)の記事をコピーして貼り付けていたところはちょっとどうかと思いまして、といいますのも、小生も以前某研究室所蔵『Alice Club』をネタにしてブログの記事「『ロリコン』の人は何歳が好きなのか、『ショタ』も好きなのか」を書いたことがありましたが、その調査の際目に付いた同誌の記事として、斉田石也先生が連載していた小説紹介コーナー中、ナポレオン文庫から出ていた雑破業『トキメキ☆レッスン』(註:辰巳出版版とは微妙に表題が異なる)が大変好意的に評されていた(1995年9月号)ということがありまして、まあこれも一点だけですけど、ちゆ12歳氏だって論拠は一点しか出してないんだから、逆の結論だって出せるぞ(こっちの方が増刊でなく本誌であるだけ資料としての価値は上にならないかな?)とか思ったのですが、皆様如何お過ごしでしょうか。


 以上の枕には何の関係もなく、今月の当ブログのアクセス解析を見たところ、「木造迷宮」「アサミ・マート」という検索ワードが上位に来ておりまして(「三峯徹」には及ばない、というところが何ですが)、以前1巻の感想を書いたためのようですが、そういえばアサミ・マート『木造迷宮』2巻が出ていたなというわけで、仕事が一つ終わった区切りに手に入れました。雑誌自体買っていたので(ここ数ヶ月、多忙と「なずなのねいろ」休載とで感想書いてませんが・・・)、どうしようかと思ったのですが、書き下ろしあとがき漫画があるようなので結局求めました。ひとむかし前を舞台に、三十代の売れない小説家のダンナさんと、一つ屋根の下で暮らす女中のヤイさんとの、ほのぼのした日常を描いた作品です。
 で、個別の感想は過去の記事でも触れていたりしますが、この巻では裏表紙にダンナさんの従姉妹のサエコさん、ダンナさんの小説の愛読者である文学少女・セッコちゃんが大きく描かれていて、肝心のダンナさんは霞んでしまっています(笑)。女性のサブキャラクターの重みが増えたわけですが、「萌え」漫画にありがちなハーレム的ドタバタ展開にならず、絵柄と相俟ってしっとりとした雰囲気が保たれているのは安心です。

 ところで、これだけ「木造迷宮」「アサミ・マート」で検索する人が増えたようなのは、本作が第12回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品に選ばれたことも一つの理由なのかも知れません。帯にも書いてあったし。正直、小生はこの賞がどのような性質のものでどの程度権威があるのかよく分かりませんが、一緒に推薦された作品審査員の顔ぶれからすると、相当のもののようです。『犬夜叉』や『美味しんぼ』や『のだめ』や『もやしもん』などと並んでいるとは。
 で、この賞では以前、メイド漫画の極北である森薫『エマ』を受賞させており、審査員のどなたかの(文化庁の?)趣味ではないかとも一瞬思わされますが、そして『木造迷宮』2巻の帯にはでかでかと

メイド萌えの新ジャンル 女中さん萌え♪

と謳っていたりしますが、しかしやや考えるに、フリルやレースに象徴されるごてごて感たっぷりなヴィクトリア朝的雰囲気を堪能することに重きを置いた『エマ』と、割烹着のけなげな女中さんと木造の一軒家でちゃぶ台を囲む『木造迷宮』とでは、かなり重点が違っているよなあ、と考え直しました。『エマ』の中で、ウィリアムとエマの恋愛自体は実は結構ぞんざいな扱いだったんじゃないかという気は今でもしていますが、『木造迷宮』の力点はやはりヤイさんとダンナさんとの関係にあるようなので。
 むしろ『エマ』と『木造迷宮』の共通点は、「家事に極めて堪能な女性が主人公」という所にあって、そういう女性像に憧れる、という読者の読みが共通していることはありそうです。男性の場合はそんな女性に尽くして欲しい、女性の場合はそんな優れた技能者になりたい、というところで。女性の場合はもしかすると、更に「そして"王子さま"に尽くしたい」という感情が続く場合もありそうです。そこまでジェンダー規範を内面化しなくたっていいのに、とつい思ってしまうのは、文学部で教育を受けた(うえちづ先生にはちゃんと単位貰いました)故の癖なのか、はたまた「日本を破壊するジェンダーフリーの陰謀」とやらに洗脳されているのか。

 もっとも、「割烹着」「ご奉仕」と来ると、日本近代史専攻の小生はやはり国防婦人会を連想せずにはおられません。タスキをしたヤイさんが日の丸の小旗を振っている姿が心眼で見えてしまいます。もう今では、そう連想する人も少ないのかな? でも、今でも戦時中を舞台にしたドラマや映画を作ると、出征するシーンでは必ずといっていいほど、国防婦人会が日の丸の小旗を打ち振る絵が出てくるように思われます。
 それだけ強烈にイメージとして刷り込まれていると思うのですが、審査員の先生方は連想しなかったのかな。まあ最年長のちばてつや先生でも、物心ついた頃には、国防婦人会は大日本婦人会に統合されていたでしょうけど(もっとも、国婦と大日本婦人会や愛国婦人会との区別は、当時の人の間でも結構曖昧だったようです)。

 例によって話がとっちらかっておりますが、言い訳すればそれだけ「女中さん」のイメージがまだステロタイプとしても確立していない(「メイドさん」と違って)ということでもあるのではないかと思ったりもしますが、そこでふと思い出したのがこの本です。

清水美知子
 女中という存在を通じて見た、日本近代の生活史についての学術書です。帯の文句を引用すると、「〈下婢〉〈下女〉から〈女中〉、そして〈お手伝いさん〉へ ― 〈女中〉をめぐる言説の分析を通してイメージの変遷とその背景を考察する。〈女中〉というプリズムから近・現代日本の家庭生活、とくに主婦を中心とした家庭文化を浮き彫りにする。」というわけで、やはり「女中萌え」などと語る前に本書は読まねばなりますまい。
 ・・・と偉そうなことを書いてからハタとあることに気がついて愕然となったのですが、小生自身5年近く前に本書を購入して以来、積んだままで読んでいないのでした。著者の方が女中についての論文を発表されているということは前から知っていましたので、一冊にまとまったと聞いて早速買ったはずなのですが、何故だろう?
 当時やっていたこととあんまり関係がないから後回しにしたのかな? 家庭生活というのは、それも女中を雇える中産階級のそれは、今の研究にはまんざら縁がない題材でもないので、近日中にちゃんと読まないと。

 ところで、以前『木造迷宮』1巻の感想を書いた時、目次のページに載っている、ダンナさんとヤイさんが暮らす家の間取り図が、どう考えてもあり得ない構造になっている、ということを指摘しましたが、本巻でも全く同じ間取り図が目次のページに載っておりました。この点が全く改められていないのははなはだ遺憾であり、『COMICリュウ』編集部に投書してやろうかと思いましたが、単に抗議するだけでは芸がないので、これならありそうという間取り図を自分で引いてみようと以前から考えていました。ですが、時間がないので、そんな暢気な企画は残念ながら当分先送りです(←こういう企画は、まあ実現しませんね・苦笑)。
 で、自分で図面を引くのは棚上げにしても、『木造迷宮』の二人が暮らす木造家屋は、おそらく作品の雰囲気からして戦前(昭和初期)から戦後間もなくの間に建てられたのではないかと思われます。ので、ちょうどその時代の、かなり売れたらしい一般向けの家の建て方マニュアル本というのを先年古本屋で入手しましたので、一つそれをご紹介したいのですが、もういい加減話がとっちらかってるし、記事自体が「略感」の長さでなくなっているので、ここらで切って次回に回します。

※追記:家の建て方マニュアル本(戦前版)の紹介記事はこちらへどうぞ

※更に追記:『木造迷宮』4巻と別館の感想を書きました→こちら
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by bokukoui | 2009-03-20 23:30 | 漫画

ホワイトデー粉砕デモ@池袋の情報 附:小ネタ・「非モテ」の聖地?

 だいぶ日が経ってしまいましたが、去る14日の土曜日に、毎度お馴染み「革命的非モテ同盟」古澤書記長主催の「ホワイトデー粉砕デモ」が行われたようです。
 もっとも、先日の「バレンタイン粉砕デモ」や、更にその前の月の阿佐ヶ谷ロフトでのイベント同様、書記長の告知が今回も比較的遅かったもので、ネットでの事前盛り上がりが全く欠けておりました(バレンタインデモの時のような不評すらなかった)。おまけに当日は悪天候で、ますますデモに向いていない状況であったようです。

 で、小生も用事に追われておりまして、おまけにこの日は最終運行の「富士・はやぶさ」を見に行っていたりもしたものですから、デモについてはレポできない状況でした。ですが書記長がこの記事執筆現在でまだ自分のブログに総括を書いていないこともありますし、秘密工作員トダ氏から入手した画像のみ張っておきます(ので、今回はいつものような各種の写真はありません)。
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デモの横断幕

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デモ終了後、公園での記念撮影

 トダ氏の情報によると、書記長の悪運尽きずというか、この日大荒れだった午前中にもかかわらず、デモの時刻までに雨は上がったそうです。人の集まりも、当初はいつもと同じ面子が十数人程度、で、やはり書記長の準備不足が痛感された(横断幕もその場で布とガムテープで急造したのだとか)のですが、なんだかんだで最終的には新顔の方も見え、人数も二十人くらいにはなったそうです。バレンタインほどじゃないですが、まずまずですね。

 今回のデモについては以上。これ以上書く情報も画像もありません。

 ・・・これだけで記事が終わるのも寂しいので、以下どうでもいいおまけ小ネタをひとつ、「非モテ」関連で。

(あまりにくだらないネタなので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-03-18 23:59 | 出来事

ダイヤ改正当日 最後の「富士・はやぶさ」到着を迎える

 先日「各人自分の思い出のシーンを心に抱えていてばいいのであって、それを打ち消しかねないような景色は反って見ない方が良かったのではないか」などと書いていたくせに、結局見に行ってしまいました、という話。
 まず、例によってマスコミ報道を幾つかご紹介。

 半世紀の運行に幕 ブルトレ「富士・はやぶさ」
 東京ラスト「富士・はやぶさ」 強風で遅れ、ご苦労様
 「はやぶさ・富士」最終列車が終着、東京駅で最後の熱写

 このところいろいろ追いまくられていて、ブログのコメント返信も思うに任せず申し訳ないのですが、前回の記事を書いてから、14日に用事で出かける途中東京駅に寄り道できそうなことに気がつきました。しかもこの悪天候なので、きっと「富士」「はやぶさ」は遅延しているに違いなく、それもいろいろ好都合でした。
 というわけで、今さらですが写真を幾つかご紹介。といっても、「普通」の写真は、マスコミや鉄道趣味誌などの専門のカメラマンがちゃんとしたものを撮っていることでしょうから、小生が適当に撮ったニッチ的なものを幾つかご紹介したいと思います。
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8番線から9/10番線ホーム(「富士・はやぶさ」は10番線着)の新橋寄りを望む
混乱防止のため緑のロープが張られている

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既に最終「富士・はやぶさ」が発車したため、テープで「大分・熊本」が隠されている

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10番線で列車を待つ人垣
更に後方、東北・上越・長野新幹線のホーム(20番線)から
ブルトレを見下ろそうとする人の群れ

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本来「はやぶさ 東京」となるはずが何故か「熊本」になっている
おまけにずっと前に廃止された「みずほ」が半分見えている

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「富士・はやぶさ」到着後 9/10番線ホームを埋め尽くす人

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回送される客車最後尾 テールマークは「はやぶさ」
マナーを守ってフラッシュを焚かなかったらボけました

 折からの悪天候で、予想以上の90分も遅れておりましたが、文句を言う乗客はいなかったことでしょう。
 人出は多く、それを整理するため駅員のみならず警官まで来ていましたが、さほどの混乱はなかったようで勿怪の幸いでした。個別にはアレな人も目に付きましたが、詳述は避けます。
 なお上掲リンクに挙げた共同通信ニュースで、「列車が、ゆっくり止まると「ありがとう」と声が上がった」というのは厳密には間違いではないかという気がします。小生が聞いた範囲では、「声が上がった」のは、乗客を降ろして車庫へと引き上げていく時のことだったように思います。「声が上がる」ということについても多少思うことはありますが、これも詳述を避けます。

 新幹線ホームから写真を撮ろうとしている人が予想以上に多いのには驚きました。新幹線は本数が多いから、ホームに始終列車が止まっていて、20番線から10番線を見下ろすのは難しいだろうと思ったのですが、あの時間帯の新幹線の編成よりも、寝台特急の編成の方が長いので、うまいこと見えるんですね。それにしても、昨日今日で新幹線入場券の売上げはどれほどになったのでしょう。
 小生も新幹線ホームに行ってみようかと思ったのですが、地下鉄で東京まで来てJRの切符を買って乗ったため、自動販売機で新幹線の入場券が買えないという事態に陥り、窓口が混んでいたので諦めざるを得ませんでした。こんなシステムだったかな? 東京の新幹線ホームへ入場券を買って入ったのは、随分前、山陽新幹線を最後にJR全線完乗を達成された(確かグランドひかりのグリーン車に博多から乗り通して来た)畏友たんび氏を、ホームで万歳三唱して迎えに行った時以来だったので、どうも思い出せません。
 新幹線ホームではないですが、隣の8番線から撮った写真が多いのは、やはり九州行き寝台特急は隣のホームから覗き見るのが伝統・・・あ、『点と線』の時はまだ雑多な客車寄せ集めで、ブルトレじゃなかったっけか。とまれ、これで定期の九州直通旅客列車はなくなったわけで、関門トンネル開通以来の(東海道・山陽本線を直通して全線走破する列車とすれば明治以来の)歴史に終止符が打たれたわけです。

 列車の廃止に至った要因については、東雲氏が分析を試みておられるのでそちらに譲ります。

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父親に肩車してもらって、進入する「富士・はやぶさ」最終列車を見つめる子供
彼はこのことを将来思い出すだろうか?

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by bokukoui | 2009-03-16 23:59 | 鉄道(時事関係)

ダイヤ改正前夜 「富士」「はやぶさ」廃止など夜行列車の思い出

 最近は諸事情によりめっきり旅行に出かけることもなく、ついでにここしばらくテレビも見てはいないのですが、明日のダイヤ改正で東京~九州間の寝台特急列車、俗に言うブルー・トレインが廃止されるというので、それなりに話題になっていたようです。ネットの記事を瞥見しただけでも以下の通り。

 <ブルートレイン>はやぶさ・富士にさよなら…最後の運行 
 <ブルートレイン>「扱った」誇り今も 廃止に万感の思い
 さらばブルトレ、拍手・涙で見送る人の波
 さよなら「富士・はやぶさ」 東京駅ホームに3千人
 ブルトレ、ラストラン 大分・熊本でも「ありがとう」
 「さよなら」ブルトレ 名古屋駅にも多くのファン

 ところで小生は、「引き籠もり系鉄道趣味者」だけあって、九州ブルトレには遂に乗る機会を逸しましたが、一度乗る直前までいったことがありました。中学生の頃、友人一同(=鉄研)と夏に九州に行って、帰りに当時走っていた「あさかぜ」で博多から帰ってこようとしたのですが、台風で運休となってしまい、やむなく「のぞみ」に振り替えて帰ってきた覚えがあります。すると、「あさかぜ」発車後の時間に博多を出る新幹線で、その日の内に東京まで着いてしまい、これはブルトレとは大違いだなと思ったら、数年を経ずして博多行き「あさかぜ」はなくなってしまいました。
 この時は台風でいろいろえらい目に遭い、これも今は亡き高千穂鉄道で高千穂に行って、高森までバスで抜けようとしたら、暫く走ったところで土砂崩れで道が通れず引き返しました。やむなく大分まで戻って豊肥本線で熊本まで行こうとしたら、その特急もまた台風や大雨の影響で大遅延しました。しかしそれでも着いただけマシで、我々の乗った特急を最後に、その後豊肥本線は数年間不通になりました。ズタズタになって一部区間は復旧というより作り直しに近かったのだとか。

 というわけで乗る機会を逸してしまったのですが、まあそれも巡り合わせでしょう。

 今回の改正では東海道本線の夜行電車「ムーンライトながら」が、不定期に格下げになるということで、こちらも鉄道夜行需要の減退を印象づけます。安いビジネスホテル(それこそアパみたいな)や安い高速バス(ツアーバス)の登場に対し、運賃が硬直的である鉄道は対応しきれなかったといえますし、またバスのように小回りが利かないこと、寝台車は昼間に使い道がなくて(国鉄末期に無理矢理使ってた例はありましたが)利益が上がらず、JR化後一部の例を除き新造されなかったことなどを考えれば、なるべくしてなったという感もあります。
 その「ムーンライトながら」がまだ座席指定でなくてただの375M電車だった頃、つまり上に書いた中高生の頃ですが、何度か乗って旅に出たものでした。そういえば当時はまだ421Mという中央本線の夜行電車もあって、それに乗った時の美談(珍談)があるのですが、それは今回割愛します。
 で、当時は指定ではないので、夜行で座ろうと思ったら早めにホームに来て並ぶ必要があったのですが、何せ阿呆盛りの中学生ですから、往々むやみやたらと早く来て待っていたのです。せいぜい1時間かそこらでいいのに、まだ日の出ている頃から。当時は東京駅の10番線(現在は新幹線ホームに改築されています)から夜行列車はすべて(ほとんど?)発車していましたので、その間「さくら」から「銀河」まで、全部のブルートレインを見送るという経験を何度もしました。それでおなかいっぱいになっていたのかもしれません(笑)。

 夜行列車の客車は品川の車庫から回送してきます。しかし品川から来た列車はもう一度品川方向に向かって出発するので、機関車を付け替えなければなりません。当時は夜行列車が結構あったので、確か最初は機関車だけを回送してきて新橋寄りの引き上げ線に留め、次いで別の機関車が客車(1列車「さくら」)を回送してきてホームに客車を据えると、最初の機関車が客車に連結されて出発します。回送してきた機関車は、発車後9番線を通って引き上げ線に入り、今度は次の列車(3列車「富士」)の牽引機になるという仕組みでした。以後、「富士」の客車を回送してきた機関車は次の「はやぶさ」の牽引機になり、次の・・・えーとあの頃まだ「みずほ」はあったっけかな? を回送してきた機関車は「はやぶさ」を牽引し、以下この調子で最後の「銀河」まで続きました。「銀河」の後はないので、「銀河」を回送してきた機関車は手ぶらで品川に帰ります。
 で、印象深かったのは、その最後の回送用機関車に、お召し列車の牽引機として有名だったEF58 61号機が出てくることがあって、あの頃でも現役でEF58が動いているのには結構感動したものでした。今では博物館行きですが。

 例によってまとまらぬ話ですが、まあ各人自分の思い出のシーンを心に抱えていてばいいのであって、それを打ち消しかねないような景色は反って見ない方が良かったのではないか、と負け惜しみ的に締め括ることとします。

※追記:などと言いつつも結局こうなりました
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by bokukoui | 2009-03-13 23:59 | 鉄道(時事関係)

「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ

 この記事は、

 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」
 秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き


 の蛇足的なまとめというか、おまけのようなものです。

※追記:更に続きの記事として、以下のものがあります。
 「『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談の評論への西尾氏の批判について」

※更に追記:以上一連の記事が、西尾氏の著書に引用されました。
 「『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩」

 もっと前に書き足しておく予定だったのですが、諸事多忙且つ体調不良などが相俟って先送りになっているうちに、時機を逸してしまった感もありますが、まあ一応。コメント返信も遅れまして申し訳ありません。

 さて、上掲2記事で、西尾氏のことを延々批判してきましたが、最後に何故このような声が出てきてしまっていて、しかもそれがそれなりの支持を受けているのか、ということについても少し考えてみたいと思います。
 で、西尾氏のブログに寄せられた「歴史というものを年代暗記ではなく、物語として捉える楽しみがある」という声が参考になるのではないかと思うのですが、学校教育における歴史が一般に暗記中心でつまらないと言われ、一方史料の検討というような話は「普通の」人には縁がなく、さてこそパッと見「面白い」方に引かれてしまうことはあるんだろうなと思います(といって、ある程度の暗記はやはり基礎として必要なことも確かですが)。
 別に歴史学に限ったことじゃないでしょうが、学問が発展すればするだけ、外からは分かりにくくなってしまうことはあるでしょう。歴史の場合でも、細かい研究(もちろんそれはきちんとした史料の研究に基づく)を踏まえた通史を示す、それも面白く分かりやすく、というのはたいそう難しいことと思います。秦先生のような「大御所」な先生がそういった仕事をして下さることを期待してしまうのですが、そして実際秦先生はそれに成功された方と思います。ですが、それでも尚影響力はこの程度にとどまっているもので・・・。

 かといって、そういった面白く分かりやすそうなことばかり発表するここばかりが重要とするのは本末転倒です。やはり、事実関係をきちんと検証して積み上げていくことがもっとも根幹となることです。
 話が逸れますが、世間一般で「秦郁彦」といった場合のイメージとしてありそうなのは、「教科書訴訟で国側の証人だった人」「戦史本をいろいろ書いてる人」「南京事件の有名な本を書いてる人」といったところではないかと思われますが、大学で日本近代史をやっていると、秦郁彦といえば『日本陸海軍総合事典』『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』など、多くの人がお世話になる辞典の編纂者としてもっとも親しまれていると思います。みんながみんな盧溝橋事件の研究などをしているわけではありませんので。いや、『諸君!』はまだいいのですが、書店で平積みになっている『正論』『WiLL』とかの題名を見ると、日本近現代史とは南京の死体の数を数えることと誤解している人がいるのではないかという懸念にとらわれることがあるので・・・。
 話が逸れましたが、基本的な事実関係をきちんと抑えてまとめるということが歴史の基盤であるということは、秦先生の仕事からも分かるということです。

 では、その基盤を守りつつ、かつ今回のような不幸な事態を避けるためにはどうすればいいのか、といえば、歴史教育で「史料」(文書に限らなくても)に触れるという経験をして、その扱い方のごくごく基本的なところだけでもちょこっと触れる、という教育を取り入れては・・・というのはもう前にも書きましたね。この対談のきっかけになったアパグループの顕彰(懸賞)「論文」について書いた時も、更に以前、戸井田とおる議員の問題発言から史料について書いた時も、結論としては同じことになっています。しかし、同じことをしつこく言い続けることも大事だろうと思っております。「歴史を大切にする」ことは決して自分の思いを人に押し付けることではないですし、また史料を読んで読み取るという練習自体は、社会のどの局面でもなにがしか役に立たないこともないでしょう。
 で、学校現場でそれのできる先生が足りない、そんな面倒なことをやってる暇は先生にはない、というもっともな問題がありますが、ここは全国の日本史の院生を全国の学校でティーチング・アシスタントとして臨時に働かせればよいのです。こうすることで研究と普及とがつながり、かつ歴史研究者養成の層の厚みも増すということで。
 ・・・こういう政策実現のためのロビイング団体結成は夢ですが。でもその圧力団体が歴史のためになることは、教科書だの南京だの慰安婦だので請願を出してきた如何なる団体とも、全く桁違いのことになるのです。
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by bokukoui | 2009-03-13 23:19 | 歴史雑談

秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き

 『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」の続きです。この度休刊が決まった文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』の2009年4月号の、秦郁彦先生と西尾幹二氏の対談記事「重鎮・直接対決! 捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか 「田母神俊雄=真贋論争」を決着するについて、本文を引用しつつ、西尾氏の歴史を見る方法(それは西尾氏にとどまらず、それなりの人数の人が同様に思っているようですが)の問題点を指摘するというものです。
 前記事でかなりの量を引用をして、一つの記事の許容量に達しそうでしたので、記事を分割しました。で、本記事でも以下に比較的長めの引用を行い、しかる後に全体のまとめをしたいと思います。是非とも前記事から通してお読み下さい。

 それでは、引用部分に入ります。これは前記事の最後の引用部分の続きです。以下の引用は少し長いですが、重要な箇所なので敢えて引用します。
 前記事同様、青=西尾氏黒=秦氏と色分けしてあります。で書いてあるのは小見出しです。強調は引用者が施したもので、「・・・」は省略を、「……」は原文中の3点リーダーそのままを示します。

(引用が長いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-03-07 09:20 | 歴史雑談

『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」

※註(2009.3.24.補足):この記事に続く関係記事は以下の通り。
秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き」
『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ
『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談評への西尾氏のコメントについて

※註(2010.12.31.補足):この一連の記事が西尾氏の著書に引用されました。
『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩

 先日新聞の社会面を見ていて、文藝春秋社の雑誌『諸君!』が休刊するということを知り、驚きました。創刊40年になる保守系のオピニオン誌で、かなり有名な雑誌ですから。更に、昨今の世相からすれば、『諸君!』の論調は世間に対する受けはむしろ良い(少なくとも逆風はない)はずなのでは、という疑問が浮かびました。
 時事ドットコム「雑誌「諸君!」休刊へ=文芸春秋」によると、「最高部数は2006年の8万5000部、最近は6万4000部程度」だそうで、実売はもっと少ないにせよ、40年の歴史で比較的最近に最高記録を立てたにしては、見切りを付けるのが何とも早い感がしますが・・・

 そんなわけで、『諸君!』のことが気になっていた昨日、駅構内の書店で3月1日発売の同誌4月号を見つけて手に取ったのですが、表紙に刷り込まれていた記事の表題に目を剥きました。煽り文句を含めて表題を書くと、

 重鎮・直接対決! 捨て身の問題提起か、ただの目立ちたがりか
「田母神俊雄=真贋論争」を決着する

 というものでありまして、つい先日、田母神氏の「論文」が掲載されたアパグループの冊子『謀略に!翻弄された近現代 誇れる国、日本。』についての記事を書いた身としましては、やはりこれは読まねばと感じたのでした。更にいえば、ネット上ではこの冊子に関する評論は小生の記事の他まとまったものは少なく、小生の記事がネット上では最も重要なものと自負しております。なんとなれば、googleで件の冊子のフルタイトルを入れて検索すると、小生の記事がトップになるので(笑) 以下に証拠画像を掲げておきます。
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 当のアパグループに検索ランキング争いで革命的勝利を収めるとは、コミンテルンの陰謀に違いありません。

 閑話休題、その場で『諸君!』を一読した結果、これはあまりに酷い――もちろん西尾氏が、です――と感じ、日本近代史を学ぶものとしては一言書いておいた方が良いのではないかと思い、ここに記事を立てるに至った次第です。秦先生の著作には、高校時代『第二次大戦航空史話』を読んでソ連の女性飛行士の話で萌・・・もとい、研究の際の参考文献としてお世話になった恩義もありますので、ネット上では数としては多そうな西尾支持の声と違ったものを打ち出していきます。
 え? ではその場で『諸君!』買ったのかって? いや、図書館で該当ページをコピーしまして・・・なるほど、休刊になるわけだ。

 まず、ネット上での、この対談についての反応を、ざっと検索して見つかった範囲で挙げてみます。数的には西尾支持がずっと多いようです。

・西尾幹二のインターネット日録 ↑対談の一方の当事者・西尾氏のブログ。(一)は記事の背景で、(二)(三)が読者からの反応。当然読者の声は西尾支持ばかり。
・書道家ABC版「西尾幹二氏、秦郁彦氏の偽善「歴史家」の素性を看破する」
・syuunのSYUUN的こころ
 ↑タイトルから分かるように、同じ内容の文章が2箇所のブログに。はて?
・TEL QUEL JAPON「『諸君』4月号:重鎮・直接対決(1)」 / 「同(2)」
・#やまさんのブログ「歴史はストーリー」
・Apes! Not Monkeys! はてな別館「「田母神俊雄=真贋論争」を決着する」
 ↑南京事件などの解説で有名な方のブログですね。当然この中で唯一、秦氏支持。

※追記(2009.3.8.)
 検索し直したら、秦氏の方を支持するブログ記事が幾つか見つかりました。西尾支持の方が「ずっと多い」というわけではなかったようです。失礼。
・元木昌彦のマスコミ業界回遊日誌 3月3日付記事
・人生朝露「『田母神塾』(田母神俊雄著 双葉社) 」
追記ここまで
※更に追記(2009.3.24.)
 コメント欄でご指摘いただいた記事へのリンクを追加で張っておきます。
・M.FUKUSHIMAの単刀直入
 これらの意見の多くは、秦・西尾対談の中で挙げられた、個々の歴史的トピックについて触れているものが多いようです。「書道家ABC版」「syuunのSYUUN的こころ」「TEL QUEL JAPON」「Apes! Not Monkeys! はてな別館」などがその傾向が特に強いと言えます。後は全体について大雑把に触れている感じです。

 小生はこれらの切り口とは少し異なった点から、主として西尾氏の言論を批判してみたいと思います。といいますのも、小生のこの対談を一読した際の感想は、議論が全く噛み合ってない、ということでした。西尾氏が「これが正しいのだ!」と叫ぶのを、秦氏は「あー、うざいなあ」という感じでいなしている、そんな印象です。
 曲がりなりにも日本近代史の勉強をしてきた身として、秦氏の発言は至極当たり前に感じられました。それに噛みついている西尾氏の言動は、歴史を論ずるということ自体を根本から分かっていない、と書くのが傲岸であるとするならば、歴史でない何かを論じようとしている、そのようにしか読み取れませんでした。であれば議論が噛み合わないのも当然です。雑誌の煽り文句で、広告にも掲載された秦氏の言葉が「西尾さん、自分の領分に帰りなさい」というのも、歴史でない話をしたいなら歴史でないところでやれ、という謂ということだろうと思います。
 しかし、ネットで見つけた上掲のいくつかのブログを読むと、歴史でないものを「真の」歴史と思い込んでいるブログが少なくないことに気がつきます。小生は、これこそがこの対談の最大の問題であろうと思います。つまり、歴史の「何を」論じているかではなくて、歴史を「いかに」論じているか、そちらが肝心なところだと。

 ので、以下では個別具体的な歴史トピックよりも、方法論の方に焦点を当てて読んでいきたいと思います。まあ、そうする理由はもう一つあって、個別のトピックを検討するにはそれなりに史料に当たるべきですがそんな暇はないし面倒だし、第一個別に突っ込んでいたら、ツッコミどころが多くて対談全文を引用せねばならず、『諸君!』編集部に怒られます。

(引用が長いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-03-05 23:59 | 歴史雑談

文豪でない人の大陸横断鉄道~郡菊之助『旅と交通』(欧州篇)

 前回の記事の続き、郡菊之助『旅と交通』から、引き続きヨーロッパの旅程をご紹介します。
 本来こんな長い記事を書くほどのネタでもないので、今回は出来るだけ短く簡潔に。

(続きを読む)
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by bokukoui | 2009-03-03 19:00 | 鉄道(歴史方面)