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今日の東急デハ5001号の状況(64)

 諸事情により間が空きましたが、いつまでも引き籠もっている訳にもいかず、よんどころない用事で渋谷に降りたついでに見てきました。図らずも年度末となりました。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-03-31 23:59 | [特設]東急デハ5001号問題 | Trackback | Comments(0)

震災の微妙に国際的な影響

 あんまり震災の話題ばかりも何ですが、しかしネット上での情報が氾濫し噂が噂を呼ぶ状況を瞥見すれば、どんなしょうもないことでも「確実な」ことは残しておこうかと思いまして。

 で、先日大学に行った折、本郷近傍の中華料理店(店員などみな中国人の模様)が閉まっていて、こんな張り紙がしてありました。
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地震の影響
なので、閉店1ヶ月
になっております。
ご諒解して下さい。
すみません。
中華料理 大宝
 微妙に日本語が乱れているのに、「諒解」が難しい字だったりする所が中国の方が書かれた文章なのかな、という推測を生みます。
 で、現在本郷界隈で小生の見た限り(といっても体の関係からあんまり行ってないのですが)、営業時間短縮のお店は結構あっても、休業まで行った所はそんなになかったように思います。いつこの掲示がされたか不明ですが(撮影は22日です)、撮影時点では物流や電力の面では、他の店の状況から察するにこの地域は営業を不可能にするほどではなさそうでした。やはり異国で仕事をするということのストレスは、相当大きいものなのだろうかと、この慌ただしさを感じさせる文面を見て思いました。
 「閉店1ヶ月」となってますが、1ヶ月後にはどうなっているでしょう。海外に一旦脱出した人がまた帰ってくるということは、マクロ的な「復興」の指標としては大変象徴的なものと思います。

 更に余談ですが、当ブログでも過去に「注文の少ない料理店・岩男潤子さん篇」などの記事で何度かネタにした、川崎市の中華料理店「中国遼菜府」ですが、神奈川県民の情報提供者によると、同店でも震災後店内に「地震により当面の間休業します」みたいな張り紙がしてあったそうです。
 情報提供者曰く、その理由を店のおばさんに聞いた所、例によって要領を得なかったようですが、何でも店員さんたちが帰国するので、4月から休業するとのことだったそうです。それではいつまで休業か、いつ再開するのか、と問うた所、「長い。ずーっと」との由で、これは地震や原発による日本からの撤退か、と暗然としたそうです。
 で、店のおばさんが「3月中はやってます」との由だったので、この味とももうすぐおさらばかと数日後に「中国遼菜府」を再訪したところ、休業の張り紙がなくなってたそうで、どうも休業は撤回された模様です(笑) 多少なりともパニックが沈静化したとすれば、まことに結構なことであります。
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by bokukoui | 2011-03-27 22:29 | 食物 | Trackback | Comments(2)

鉄道の節電状況点景 及び多少の余談

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東急電鉄の節電時自動改札機封鎖セット

 一月も負傷して引き籠もっていると、流石になすべきことが溜まって、痛む体に鞭打って出かけねばならなくなっているのですが(自業自得)、そんな折に見かけたものを幾つか。

 上に挙げた写真は、ごく最近に東急の駅の改札に掲げられるようになった、プラスチックの板に文字を印刷してマグネットで留める、節電による使用停止のお知らせです。計画停電当初は、如何にも駅員さんがワープロで打ち出したようなお知らせの紙をテープで留めていましたが、事態の長期化を睨んで専用のグッズをこしらえたようです。他の会社もこのようなものを製作したのでしょうか。

 地震の影響で大学のいつも使っている図書館が休館してしまったので、急ぎの用事で社史類を見るべく、いつぞやもちょっと触れた神奈川県立図書館の川崎分館に行きました。JR南武線に乗っていったのですが、川崎駅で下車してふとホームの時刻表を見ると、こうなっていました。
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快速停車駅の表示の上に「しばらくの間、快速運転は行いません」
そのダイヤ改正の日付は地震の翌日
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 そうか、そういえばこの3月のダイヤ改正から南武線に快速が登場(復活)するんでしたっけ・・・でもこの状況では、当分の間南武線快速電車はお蔵入りになりそうです。

 川崎の図書館で目的の資料を閲覧し、さらに慌ただしく国会図書館に向かいます。で、川崎からならJRで行った方が一般論としては便利なのですが、図書館から見るとJRより手前に京浜急行の高架橋がありまして、その上を走っていく赤い電車を見ると急に乗りたくなったので、少しばかり電車賃を奮発して2100形快特に品川まで乗りました。
 来た快特に乗ってみると、本来、ノルウェー仕込みの青地に赤い水玉という派手な模様のシートが目を打つはずの筈の車内が、暗く沈んでいます。見れば、節電のために昼間は車内の明かりを消していたのでした。
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車内の照明が消された京急2100形
デジカメがお節介に補正してるのでそこそこ明るく見えるが実際はもっと暗い

 全部消すとは思い切った節電をするなあ、と小生は感心しました。普段小生が使っている東急電鉄の場合は、車内の蛍光灯を所々間引きするという節電手法でしたので、すぐには気づかないのです。
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蛍光灯を間引きした東急新5000系

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同じく蛍光灯を間引きした東京地下鉄01系(銀座線)

 と、小生はここでやっと気がつきました。京急2100形は蛍光灯をカバーで覆っているから、間引きするのが面倒なだけだったんでしょうね。蛍光灯がむき出しの場合、ちょっと間引きするのは造作もないことですが、いちいちカバーを外して、となると大事です。
 2100形は泉岳寺まで乗り入れますので、地下を走る場合は電灯を点けざるを得ません。夜もまた同様です。ということは、最も問題になるピークロードの時間、今ならば夕方暗くなってきた頃の節電、という意味では、実は2100形の車内灯消灯というのは、あんまり意味がないのでは・・・?

 そんな観察をしながらあっちこっち資料を見て回りましたが、さすがにくたびれました。首や肩や背中の痛みはなかなか引かず、膝に至っては悪化してる気もしますが・・・湯治とか行ってる暇もカネもありません。自爆事故ですからどうしようもないですが。

 なお、前回ブログ記事の鍋焼うどん探求「神保町満留賀めぐり」シリーズ完結篇に、少し加筆しました。満留賀一門の由来について資料が偶然見つかりましたので。

(以下余談)
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by bokukoui | 2011-03-26 23:58 | 鉄道(現況実見) | Trackback(1) | Comments(4)

鍋焼うどんの探求(22) 満留賀@九段下(神保町満留賀めぐり)

 未曾有の災害から間もない時機に悠長な記事を書いているのではない、という発想の方もおられようかと思いますが、被災地から遠く離れた人間が(よしんば意図は善意であるにせよ)そのことに関する十分な知識や見識もなしに適当なことを発信することは好ましいことではなく、どんなしょうもないことでも自信と責任と根拠を持って発信できる情報を送り出すことが大事なことであり、後世にも資するところがあるのだと小生は考えております。これが、ここしばらくのネットを見て得た個人的教訓でした。

 食欲を減らす話はここまでにして、神保町界隈の「満留賀」という名前の蕎麦屋さんを巡る企画、最後は地下鉄の隣の駅である九段下まで足を伸ばします。小川町-神保町-九段下と、都営新宿線の駅では3つ巡ったことになりますが、このあたりは駅間距離が大変短いので、距離としては初回(探求18)から今回まで、靖国通りを1キロ半くらい歩いた勘定になります。この間に5軒の満留賀が存在するわけですね。
 「神保町満留賀めぐり」の締めは、そんなわけで九段下の交差点に面した満留賀で、「なべ焼」(1050円)をいただきます。
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by bokukoui | 2011-03-23 23:59 | [特設]鍋焼うどん探求 | Trackback | Comments(0)

鍋焼うどんの探求(21) 満留賀@専大前(神保町満留賀めぐり)

 神保町界隈の「満留賀」とつく蕎麦屋を巡る企画も4店目となりました。今回は白山通りを越えて更に西へ向かい、専大前交差点に近い満留賀を訪れます。こちらで「いろどり鍋」(1300円)を食しました。
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by bokukoui | 2011-03-23 23:58 | [特設]鍋焼うどん探求 | Trackback | Comments(0)

鍋焼うどんの探求(20) 満留賀 静邨@神保町(神保町満留賀めぐり)

 何か時局に対し眦をつり上げて発言するのは柄でもないし、その結果として何か僅かでも良い結果が生まれる可能性も低そうなので、だんだん平常運転に戻し、溜まっている記事を消化していきます。

 というわけで「鍋焼うどんの探求」コーナーの続きですが、前回前々回に引き続き、神保町附近に何故か矢鱈とある「満留賀」という名前の蕎麦屋さんを順番に廻っていきます。
 今回は靖国通りの南側に入り、書店の建ち並ぶすずらん通りから折れた脇道にある、満留賀 静邨を訪れます。住所としては神田神保町1丁目になります。そこで、「鍋焼きうどん」(1300円)をいただきます。
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by bokukoui | 2011-03-23 23:57 | [特設]鍋焼うどん探求 | Trackback | Comments(0)

謹慎・断酒のお知らせ

 本記事は地震による「自粛」とは関係ありません。地震よりずっと前からの事情で、どさくさ紛れというか。
 至極個人的なことで、小生と不幸にして直接の関係を持ってしまった方々向けの報告です。

(不幸にして墨東公安委員会とリアルで関係ある方のみどうぞ)
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by bokukoui | 2011-03-23 23:45 | 身辺些事 | Trackback | Comments(4)

電気代と市場経済~計画停電の歴史・続篇

 本記事は一応、前回の記事「日本の『計画停電』の歴史を振り返る~真の『無計画停電』とは」の続きです。当ブログの例に漏れず、やや時機を逸した感もありますが、なかなか書くのが思うに任せませんのでご諒承下さい。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-03-17 23:59 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(10)

日本の「計画停電」の歴史を振り返る~真の「無計画停電」とは

 昨日より行われている計画停電に関連して一筆。

 本日病院に行ったところ(何故通院しているかは近日中に書きます)、売店に並んでいた新聞各紙のうち、朝日・神奈川・日経・毎日・読売の各紙は皆1面の大部分を原発問題に割いていたものが、ひとり産経のみ首都圏の停電問題に宛てていました。しかもでかい見出して「無計画停電」とか書いてまして(ネットでは「運行休止に「無計画停電だ!」怒りの女子高生 JR千葉駅 通勤客ら高速バスに行列」とか)、この表現はいかがなものかと首を傾げました。
 で、時事的なことについて敏速に論じるのは小生の得手とするところではありませんが、最近電力の歴史について研究しておりまして、また東大の史料編纂所の所長を務められた保立道久先生が、今時の震災後ご自分のブログで「9世紀の地震史料」と題して地震の歴史について解説しておられるのにいささか感銘を受け、そこで今回の計画停電に関連して、計画停電の歴史についてちょっと書いておこうと思います。最近諸事情によりパソコンでものをろくすっぽ書けなかったので、リハビリということで。
 なお、資料は手元にある『関東の電気事業と東京電力 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』および『関西地方電気事業百年史』です。どちらも、もし前回の記事のように本棚が地震で倒れて頭の上に落ちてきた場合、生命に関わりそうなボリュームの本です。

 さて、小生がこんな記事を書こうと思ったのは、今回計画停電に関して「戦後初」(例えば「「東電は備え甘すぎる」…鉄道大混雑」)とか「戦後混乱期以後初」(例えば「東日本大震災:東電、「輪番停電」実施へ 戦後混乱期以来」)とか「東京電力発足以来初」(例えば「東京電力の計画停電が実施される地域と時間帯リスト」冒頭)などという表現(これら自体相互に矛盾しているともいえる)が各メディアで使われ、それが無批判に伝播している模様に見て取れ、それにちょっと違和感を覚えたからです。計画停電ってもっと後までやっていなかったっけ?
 1951年5月1日、戦時下の電力国家管理によって従来の電力会社を強制出資して設立された日本発送電および各地域の配電会社とが解体され、現在の9電力会社(沖縄復帰後は10電力)が成立しました。東京電力とか東北電力とか関西電力が誕生したのはこの日です。ところが設立早々、電力会社は深刻な電力不足に見舞われます。当時は朝鮮特需で電力需要が伸びる一方、主力だった水力発電が渇水で発電できず、火力用石炭の入手もままならず、需給調整を行わざるを得ませんでした。

 その模様を、『関東の電気事業と東京電力』から拾ってみましょう。
・・・1951年度には、夏に向かうにつれ需給が逼迫するようになった。需要面では、6月以降全需要家に対して1割の節電と昼間負荷の深夜移行を要請し、7月以降は週1日の休電日を実施する一方、供給面でも発電設備補修の繰り延べ、猪苗代系発電所の全出力運転、国鉄・進駐軍火力への委託発電などといった措置を講じた。・・・
 ・・・公益事業委員会は、1951年9月6日に本州全域における電熱器・製塩・ボイラ・広告灯類の使用禁止、電灯・業務用電力の昼間使用禁止小口・大口電力の週1回の休電日実施、500kw以上の大口需要家の使用電力制限・・・などを主な内容とする電力使用制限を告示した。この告示制限は、51年11月と翌52年2月に一部が緩和されたものの、3月後半まで続けられた。・・・
 ・・・53年に入ると1月には異常渇水が生じ、1月9日から本州全域で通商産業省告示による使用制限が発動され、さらに週2日の休電日や輪番緊急停電なども実施された。この告示制限は約2ヵ月間続き、3月2日に解除された。
 1951年度と52年度に危機的局面を迎えた電力需給の逼迫は、53~55年度には改善のきざしを見せた。53年度の場合は供給力がしだいに増加したこともあって、冬季に大口需要家の休日振替やピークカットなどの自主制限、および緊急時対策として一部の負荷遮断を行う程度で事態を乗り切ることが出来た。54年度には・・・年間最大電力が発生する冬季の点灯時間帯に大口需要家に負荷抑制を依頼する程度の制限にとどまった。また、55年度には8月後半と翌年3月半ばにごく短期間の負荷制限が要請されたものの、その内容は、大口工場に対する午後の負荷抑制、9時から12時までの15%負荷抑制、緊急時における一般・大口電力の緊急制限といった軽度の制限にすぎなかった。
(pp.726-727)
 長々と引用しましたが、引用文太字にしている(引用者強調)のが計画停電に類すると思われる使用制限です。今回の計画停電では「輪番停電」という言葉がしばしば登場しましたが、それ以外にも「休電日」を設けたり、緊急時に電気を止めたりといった方法も用いられた(寧ろその方が多かった)のでした。「緊急時における一般・大口電力の緊急制限」というのは、なんだか「馬から落ちて落馬した」みたいな表現ですが、冬の夕方のような需要のピーク時に、地域を決めて短時間送電停止をしたもので、今回の計画停電に一番近いものかもしれません。

 ちなみに、関東より深刻な関西の電力制限事情の中で、停電に至ったと見られるものを簡単にまとめてみますと(『関西地方電気事業百年史』p.616)、

・1951年度
5月~9月:大口に対し休電日振替、一般に対し昼間時間遮断(週3日)
9月~3月:大口に対し休電日(週2日)、一般に対し昼間時間遮断(週3日)
 ※9月~3月は自主制限ではなく電気需給調整規則第14条による告示制限

・1952年度
6月~12月:ストにより一般に対し昼間時間遮断
8月~1月:大口に対し休電日振替
 ※8月~1月は告示制限

・1953年度
10月~3月:大口に対し休電日振替、一般に対し昼間時間遮断(週1日)

・1954年度
2月:大口に対し休電日振替


 というわけで以上をまとめますと、

 ・計画停電は戦後初でも東京電力初でもなく、高度成長期初期までやっていた。

 ということになります。「戦後混乱期」という言葉は定義がよく分からず、ウィキペディアに項目がありますが何だか曖昧で練れていないですね。まあどっちにせよ、独立回復後も計画停電やっていたことは確かです。
 で、東電の関係者も「会社始まって以来」とかテレビで言っていたのを見た記憶がありますが、そうではありません。せいぜい半世紀ちょっと前のことで、まだ当時の記憶を持っておられる方も大勢おられるはずなのですが・・・然し東電の現役にはいないんでしょうね。計画停電のノウハウが継承されなかったのが、もしかすると「無計画停電」などと叩かれた一因なのでしょうか。
 今次の計画停電は停電そのものより、いつどこが停電するのか分かりにくい、ということで大きな不評を買っているもののようです。もっとも、「停電しません、大丈夫です」といっておいて停電されるより、「停電する予定です」だったのが「大丈夫でした」の方が何万倍もマシではあります。何せ急なことですから、最初のドタバタはある程度やむを得ず、最悪のドタバタであるシステムダウンして全滅、が避けられていることは評価すべきと思います。
 然しこの問題は多少の経験で改善されると思われます。寧ろ怖いのは今後で、需要家が「なあんだ計画停電といっても大したことないじゃん」と気が緩んだところで、システムの回復が追いついていないと・・・というのが最悪の想定でしょう。節電節電。

 また、個人的にちょっと気になったのが、今回の停電については当初メディアでは主に「輪番停電」と称していましたが、途中から「計画停電」に変わりました。菅総理が会見で「計画停電」といったあたりからではないかと思いますが、それを反映して、いかにも急ごしらえでウィキペディアに「輪番停電」の項目が設けられ、あとから「計画停電」に変えようという話になっています
 ざっと上掲2冊の書物の、戦後の電力逼迫状況の項を読んだ印象では、電力の逼迫に対し需要側を減らすことで対応すること全般を「電力使用制限」簡単には「電力制限」と呼び、その手段として軽いものとしては「節電のお願い」広告にはじまり、大口の工場の使用量抑制、更に強硬策として停電に至る休電日(「休電日振替」とは、工場の休日を日曜日に揃えず分散させて需要を均衡化することのよう)を設けたり、昼間の電灯への供給を止めたり、更に緊急策として輪番停電したり、という段階のようです。
 図式化するとこんな感じでしょうか。

  ◎電力使用制限
     ◇節電:不要不急なネオンなどの停止
     ◇使用量抑制:供給量を減らすが止めはしない
     ◇計画停電:電気を止める
       ・休電日
       ・時間制限
       ・輪番停電


 ま、小生も使用制限について勉強したことはないので、これが正しいというつもりは全くありませんが、ウィキペディア編集の方のご参考程度にはなるでしょう。

 さて、久しぶりに長文を書いて疲れたので、以下は前に読んだ文献からのうろ覚えのお話を。

 戦後復興期よりも更に前に、大規模な電力使用制限が行われた時期といえば、まず戦時中が挙げられます。
 「新体制」のかけ声と日中戦争の泥沼化の中で、1938年国家総動員法と共に第1次電力国家管理が決定されます。それにより1939年、大規模な発電を業務の中心とする日本発送電が設立されましたが、配電事業は従来の電力会社が行いました。日本発送電は従来の電力会社の大規模火力を強制出資させ、大規模水力を管理下に置きました(この辺ややこしいんですが詳細は面倒なので省略)。ところがその冬は大渇水、でも軍需生産で電力需要はうなぎ登り、石炭も軍需と取り合いで足りず、初手から電力供給制限となってしまいます。「豊富低廉」な電力を売りにしたはずの国管のこのざまに非難の声が上がりますが、それに対して当局はどうしたかというと――第2次電力国管で配電も地域ごとの特殊会社に統合し、民間・公営の電気事業者を消滅させるという更なる統制強化に出たのでした。

 とまあ、朝鮮戦争や日中戦争・太平洋戦争という戦時を背景に電力逼迫→供給制限で計画停電、というパターンが日本には存在しました。そしてこのパターンはもう1回ありました。それは第1次世界大戦の頃です。

 第1次大戦時は日本は戦場にならず、連合国への輸出をきっかけに大戦バブルという経済状況にありました。そしてこの大戦中、工場動力として電力が蒸気力を上回ることになります。
 ところが大戦バブルで電力需要が急に増えても、おいそれと発電所は増設できません。まして当時の日本は、重電機器を自給できず、しかし戦争中だからドイツから輸入は出来ないし英米は自国で手一杯。というわけで、大戦末から直後にかけて、重大な電力危機が生じました。それは特に、当時の日本製造業の中心で、水力発電の発達が遅れていた関西で深刻でした。関東は明治末から山梨や北関東・福島からの送電線があったのですが、関西はせいぜい琵琶湖くらいでした。
 当時関西の有力電力会社といえば、大阪で火力発電中心に電灯・電力とも供給している大阪電灯と、琵琶湖から流れ出す水で発電を行い、大阪電灯などに卸売りをするほか、大口の供給もやっていた宇治川電気が大きなところでした。この両者は協調関係にあり(のち対立に転じますが)、大阪電灯の電線を経由して、宇治電は大阪市内の工場に電気を送っていました。ところが電気が足りない。ではどうしたのでしょうか? 文献はこう述べています。
京阪地方の動力用電力は頻々と停電した。停電したのではない。今だから書いてもよいだろうが、宇治電で停電させたのである。前に一言した様に、宇治電は大阪電灯の架空線を借りて大阪市内に工場動力の供給をしていたが、戦後の工場動力の需要激増のため宇治電では電力が足りなくなった。だから送れない。そこで事故の如くに見せかけて毎日違った所を停電して歩く。架空線を貸している大阪電灯も驚いて其の度に宇治電の技術部にネジ込むが、終いには真相が判って宇治電、大阪電灯狎れ合いで停電ゴッコをする様なことになった。――当時の技術者の話だから与太ではない。大阪電灯でも大正八年の十一月頃には、夜間電力の送電を七十日に亘って停止した程だ。
三宅晴輝『電力コンツェルン読本』春秋社(1937)p.374
 引用に際しては新字体・新仮名遣いに改め、強調は引用者によります。ちなみにこの話は、確か宇治電の社長の回顧録にも載っていたと思います。その日の電力需要を見て、適当に開閉所のスイッチを切ってたんだと。・・・これは確かに、「無計画停電」と呼ぶに値しそうですね。

 さて一体、こんな昔話が何に役に立つのかとお叱りを受けそうですが、頭に血が上っているような時こそ冷静に経緯を振り返ってみる意義はありそうですし、そうすれば無闇と慌てなくても済みそうです。
 そして、気休めのこじつけと百も承知でまとめれば、第1次大戦頃にせよ朝鮮特需の頃にせよ、電気が多少止まったって経済は成長していました。まして日中戦争の頃のように戦争しているわけでもなく(自衛隊は戦時に準じた動員状況ですが)、多少の停電の恐れでびくつくことはない、ということで。
 ちなみに第1次大戦の電力不足は1920年代の旺盛な水力開発に繋がり、1950年代の電力不足は電源開発の創設→佐久間ダム建設、関西電力によるクロ四建設に繋がりました。ピンチの中に将来へのバネがある。東電関係者の奮起を期待します。・・・ただ、木川田一隆太田垣士郎だったら、自ら福島第一に駆けつけて作業員を叱咤激励しただろうなと思うと、もうちょっと何とかしてほしいとは思いますが。

※一応続きに当たる記事はこちら→電気代と市場経済~計画停電の歴史・続篇
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by bokukoui | 2011-03-15 23:00 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(3)

ささやかな地震の教訓・本棚の転倒対策

 長期に亘りブログを休止しておりましたが、そうせざるを得なかった事情は後刻説明します。

 云うまでもなく、昨日の地震で東北太平洋岸を中心に多大な被害が生じました。被災された方々にお見舞い申し上げると共に復興の速やかならんことを祈念しますが(「宮城県栗原市で震度7」と聞いた時は「3年も経ってないのに・・・」と絶句しました)、関東でも結構洒落にならない揺れを感じました。
 その結果、小生の部屋はかかる状況となりました。
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 部屋の都合上、壁沿いではなく壁から直角に並べている本棚が4つあるのですが、そのうち2つが転倒しました。その結果、部屋の入り口をふさがれました。反対側の、部屋の入り口から見るとこうなりました。
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 焦げ茶色の薄型本棚(その1)(本来は文庫本用)と茶色の普通の本棚(その2)とを背中合わせに立てておいた所、どうも「その1」が倒れて「その2」を巻き込んだ模様です。

 最初の写真で、青で示したように、天井に突っ張りのあるタイプの本棚は全く無事で、中身が飛び出すこともありませんでした。
 というわけで、本の多い方は本棚の天井突っ張り棒などの地震対策を忘れずに・・・というのが教訓かというと必ずしもそう言い切れません。同じ部屋・隣の部屋に、同じように突っ張りなしで立てていた本棚6基が、倒れていないのです。思うに倒れなかった本棚は、倒れたそれより高さも奥行きもあり、重量もある高級品でした。倒れなかった理由はその辺にあろうかと思います。本棚「その1」は本来文庫本用で奥行きが17センチ程度と薄く、それが転倒の理由になったのではないかと。倒れなかった本棚は奥行き30センチあり、これが普通とはいえ奥行きがありすぎてかえって使いにくいのですが、転倒しにくい要因にはなるようです。もちろん、もし倒れたら、重い分余計大変そうですので、突っ張りなど転倒対策が無用ということはないはずですが。
 つまり、本棚について大事なことは、やはり良いものを買う、という身も蓋もないことが前提なのかなあ、と・・・。

(以下余談)
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by bokukoui | 2011-03-12 17:12 | 書物 | Trackback | Comments(16)