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恋と革命vs.国と革新 『斜陽』モデルの太田静子と大和田悌二の日記を読む さらに続き

 本記事は

桜桃忌によせて 『斜陽日記』の太田静子と「和田の叔父さま」のモデル・大和田悌二
『斜陽』「かず子」太田静子・「和田の叔父さま」大和田悌二の日記読み比べ 続き


 の続篇です。えらく長くなってしまいましたが、さすがに今回で完結します。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2013-06-24 22:59 | 思い付き

『斜陽』「かず子」太田静子・「和田の叔父さま」大和田悌二の日記読み比べ 続き

 本記事は、

桜桃忌によせて 『斜陽日記』の太田静子と「和田の叔父さま」のモデル・大和田悌二

の続篇ですので、そちらを読んでから本記事をお読みください。長くなりすぎて桜桃忌のうちに書き終わらないどころか、ブログの仕様上ひとつの記事にも収まりきらなくなってしまいましたので、本記事を続篇として立てました。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2013-06-22 23:59 | 歴史雑談

桜桃忌によせて 『斜陽日記』の太田静子と「和田の叔父さま」のモデル・大和田悌二

 6月19日は太宰治の誕生日であり、入水自殺した太宰の遺体が発見された日でもあることから、「桜桃忌」と呼ばれて太宰を偲ぶ日となっています。こういった作家の忌日としては、おそらくもっとも広く知られているものだろうと思われ、没後60年以上を経た現在でも、この日付前後には様々な太宰関連のイベントが行われているようです。というわけで、当ブログでも便乗して? 太宰治関係の話題をひとつ。

 『斜陽』といえば太宰治の代表作として名高く、敗戦後の日本社会を表す代名詞の一つのように位置づけられ、いまさらその内容について喋々する必要はないでしょう。そして、その『斜陽』が、ある女性の手記を基にして書かれているということも、それなりに有名なのではないかと思います。

 その女性の名は、太田静子といいます。詳細はリンク先の Wikipedia でも見ていただければよいのですが、もともと文学に関心のあった彼女は、太宰に手紙を出したことがきっかけで出会い、太宰に日記を書くことを勧められ、その日記が『斜陽』の中で、時にはほとんど書き写されるようにして使われています。そして静子は太宰との交流の中で子供を授かりますが、本妻に他の愛人もいた太宰は生まれた子供を認知したものの、ついに子供の顔を見ることなくこの世を去りました。
 太宰没後、静子は愛人として津島家(太宰の実家)から排斥され、未婚の母として親類からも絶縁されるという苦しい状況の中、『斜陽』のもととなった日記を『斜陽日記』として出版しました。お金の問題もあったのでしょうが、太宰関係者方面からのひどい扱いに対して自分と生まれた子供の名誉を守りたいという思いが強かったと、その子供である太田治子は書いています(『斜陽日記』小学館文庫版に所収の「母の糸巻」)。
 当初、『斜陽日記』については、『斜陽』からでっちあげたのだなどと心ない批難もあったといいます。太宰が『斜陽』の一部にこの日記をほとんどそのまま使っていたので、そんなことを言う徒輩も出たのでしょう。そのせいか、太宰没後に出版されて以来長いこと絶版だったらしいですが、その後小学館文庫から、そして現在でも上に挙げた朝日新聞出版から刊行されているようです。
 そういうわけで現在はその価値を認められている『斜陽日記』ですが、だからといって『斜陽』が太宰の盗作というわけではもちろんありません。読み比べれば一目瞭然ですが、戦中から戦後すぐにかけての疎開生活を描いた『斜陽日記』と、敗戦後の世界で破滅しゆく者たちを描いた『斜陽』とでは、たとえ一部にまったく同じ表現があったとしても、その持つ意味は異なります。むしろ、そんな換骨奪胎を思いついた太宰治の偉大な作家としての感覚に感心し、日記を読んでそんな使い方を考えた太宰はやはり凄い作家だったといえると思います。まあ小生は文学には疎いので、思い付きですが。

 さて、史料は読んでも文学作品にはまったく疎い小生ですが、今回なんで『斜陽』の話をしているのかといいますと、それは『斜陽』に「和田の叔父さま」として、『斜陽日記』では「大和田の叔父さま」として登場する人物(のモデル)に、小生が関心を持っているからです。『斜陽』の登場人物は、主人公かず子(太田静子がモデル)やその母、弟(これは太宰オリジナルで、太宰自身を投影しているといわれる)、上原(太宰がモデル)と、みんな破滅に向かって突き進んでいくような人々ですが、そんな中でかず子母子にお金や疎開先の別荘を世話する、世俗的な力を持った人物が「和田の叔父さま」です。『斜陽日記』でもやはり、静子と母が「大和田の叔父さま」の経済的援助に頼っていたことが書かれています。
 で、この「大和田の叔父さま」とは何者かといいますと、当ブログでも何度か取り上げた、大和田悌二(1888~1987)という人物です。大和田は戦前の逓信省で次官まで勤め上げた官僚で、退官後は日本曹達の社長となって戦中・戦後の長きに亙り同社に君臨しつつ、電電公社の経営委員長などにも就きました。大和田は逓信省時代、当初は海運事業の監督に従事していましたが、昭和10年代に電力国家管理の立役者として活躍、ついに電力国管を実現しました。また退官後は日本曹達のほか、京成電鉄の取締役や監査役を長く務めました。その辺の関係で、当ブログでもこれまで、以下の記事で大和田について書いています。

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by bokukoui | 2013-06-19 23:59 | 書物

「皇国史観」平泉澄 晩年のインタビューのエピソード オーラルヒストリーは大変という話

※記事に追記しました(2013.6.19.)

 つい昨日ですが、ツイッター上で長谷川晴生(@hhasegawa)氏の以下のコメントに接しました。

 ここで紹介されているのは、『「皇国史観」という問題 十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』を著された(小生もどちらも読みたいとかねてから思っているのですが、いまだに果たせていないのは残念でなりません)長谷川亮一氏のブログ「日夜困惑日記@望夢楼」の、以下の記事です。

・平泉澄と仁科芳雄と石井四郎

 こちらの記事では、『東京大学史紀要』第17号の「東京大学旧職員インタビュー(3) 平泉 澄氏インタビュー(6)」の内容を紹介、論評されています。

 これらの記事の主役・平泉澄(1895~1984)といえば、当ブログの読者には説明不要でしょうけれど、戦前・戦中に「皇国史観」(本人がそう称したわけではないですが)のイデオローグとして活躍し、政治家や軍人などにも少なからぬ影響力を振るったといわれる歴史学者です。そのため戦後は一転、激しい批判の対象となりましたが、同時に今でも一定の支持者を持ち続けています。その特異な行動のために評価は今なお難しい人物ですが、最近ミネルヴァ書房のミネルヴァ日本評伝選から、若井敏明氏による評伝が出ています。
 平泉についてのエピソードは以前から様々に語り伝えられてきておりますが、おそらくもっとも有名なのは、門下の学生だった中村吉治が平泉に「百姓の歴史をやりたい」と言ったら、「百姓に歴史がありますか。豚に歴史がありますか」と言われた、というものでしょう。

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by bokukoui | 2013-06-07 23:35 | 歴史雑談