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秋葉原通り魔事件 加藤容疑者起訴へ

 表題の件につきまして、そろそろ留置の期限も迫ってきていることから、動きがあるのではないかと思っておりましたが、いよいよ起訴の運びのようです。

秋葉原事件の加藤容疑者を起訴へ 完全責任能力を認定
<秋葉原殺傷>「責任能力あり」精神鑑定、遺族らに通知


 これまでの報道から鑑みるには、精神鑑定がそれほどこの事件においては重要とは思われませんでしたが(例えば宮崎勤の事件のような例と比べて)、何かしら裁判員制度に向けた対応などから、時間短縮のため先に済ませておいたということもあるのでしょうか。
 いずれにせよ、今後しばらくは裁判関係の報道がそれ相応に出てくるものと思われます。しかし争点自体は、それほど多くはないかもしれません。
 小生としては、事件当日警官の背中越しに見た人間が加藤容疑者だったのか確認のために、可能であるならば傍聴に行きたいところですが・・・。もうしばらく、裁判関係の情報は注視して行くつもりです。

 このニュースに関して、mixiその他ブログなどで見る意見に、少なからず「さっさと死刑にしてしまえ」的な乱暴なものが見いだされるのは、それは当然予期されるものとはいえ、やはりあまり見いだして楽しくなるようなものではありません。あまりこのことについて長々と述べる気は今のところありませんが、そもそもややこしいこの世界の出来事をあまりに単純に割り切ってしまうことが解決だと思う風潮が瀰漫することは、好ましいとは思えません。
 以下は小生のさる畏友の意見で、小生もまた深く同意するところですが、「建前」というのは大事なんだよということです。ネットの普及は、それまで言論を公にするような立場も経験もなかった多くの人々に、世界に向かって意見を発信することを可能にしましたが、それによって「建前」と相互に支え合う関係に本来あるはずの「本音」の暴走が起きているのではないか、という趣旨のことでした。
 しかし、「建前」というのは、社会のシステムを維持する上でかなり重要な役割を果たしているものです。
 法律的な問題解決のシステムというものも、内実と同じように形式的な手続きを積み重ねるということが大事なわけで、そのことを無視した言説ばかりまかり通る世の中になってしまうことは(特に裁判員制度開始も近い昨今)、そういったシステムの維持発展に好ましいこととは考えにくいところです。あまり形式一点張りなことにも問題はありますが、手続きの正統性を無視した単純な解決を求める声が増えすぎることも「盥の水ごと赤ん坊を流す」ようなことと言えるでしょう。

 やや話が逸れるかもしれませんが、最近の中国が行った宇宙遊泳に関して、「水中撮影による捏造だ」という批難をする徒輩に対し、宇宙開発の専門家・松浦晋也氏が、ご自身のブログで「このっ、バカ共がっ!」という記事を書いたところ、コメント欄がえらいことになったということがありました。そのコメント欄たるや、専門家に対し自分の無知を棚に上げて説明を要求し続け、説明を読んでも理解できないとループを繰り返し、旗色が悪くなると「説明が偉そう」などと言い出す、そんな状況になっておりました。
 これもまた、「単純、明快、分かりやすく」あるべきであって、専門家はそのように一般人に対し説明することが当然である、そのような考えが存在するという点で、一脈通じるのではないかと、ふと思いました。物事をやたらと「単純、明快」に求めることは、誰か悪いやつを求める陰謀論的な視野狭窄に陥りやすくなるでしょうし、犯罪の場合でいえば「さっさと吊せ」的言説に通じるのではないかと思います。
 小生のごとき者がかようなことを述べるのも僭越ではありますが、ある分野に詳しくなればなるほど、「単純、明快」には言いにくくなるのではないかと思います。

 例によってまとまらぬので適当にこの辺で締め括りますが、ややこしさを嫌ったり排除したりはすべきではない、なんとなればこの世は結構ややこしく複雑なものなのだから、そしてそのややこしい中になにがしか道筋をつけるには、本音を押し通すのではない、手続きを積み上げることが大事なのだろう、そのように思う次第です。
 秋葉原の事件のような凶悪犯罪の弁護に対し、「あんな犯人を弁護するとは何事だ」という声が、「本音」的座談の席、そしてネットではまま見られます(今回もそうなることでしょう)。しかし、裁判という制度そのものを健全なものに維持するためには、弁護士が被告人の利益を最大化するために全力を尽くすことは当然であります。弁護という手続きを弁護士がきちんと積み上げなければ、制度の意義に関わります。「積み上げ方がおかしい、下手くそだ」という批判を弁護士にすることはかまいませんが、「悪い奴のために手続きなんか積み上げるんじゃない」という批難は全く理不尽です。今回の裁判についても、そのあたりを取り違える声が余り出ないように祈る次第です。
 まあ、松浦氏の記事も、コメント欄が大いに荒れたものの、論点の整理と資料の収集といった着実な手続きを積み重ねることで収束の方向に向かっており、あんまり最初から悲観的になることも賢明ではないですね。

 秋葉原の事件から話がだいぶ逸れましたが、今回はこの辺で。
 裁判についてはまた新しい話題が出れば、追いかけたいと思います。
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by bokukoui | 2008-10-06 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(6)

秋葉原事件と「包摂」につき雑感 或は東浩紀氏に聞きそびれたこと

 グダグダだった「『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』感想」記事の続き(まとめ)、というか、これに関連した諸記事、阿佐ヶ谷ロフトのイベント新宿ロフトプラスワンでのイベントの感想をも含めた一応のまとめとして、最近多少思ったことなど書きたいと思います。

 ところで、いきなり話は逸れるのですが、このブログのアクセス解析を某日ふと辿ってみたところ、ロフトの経営者・平野悠氏のページ掲示板からアクセスがあることが分かり、そして今月1日のロフトプラスワンのイベント「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」について、平野氏の感想が記されていることに気づきました。これが中々興味深い内容で、掲示板の記述というのはリンクもしにくければ消えることも多いので、以下にその大部分を引用紹介させていただきます。同じ文章はこちらの8月5日付け記事にもあります(が、5日付けの記事がえらくいっぱい・・・)。改行は一部改めましたが、その他は原文のままです。
ロフトプラスワン「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」
投稿者:平野悠 投稿日:2008/08/04(Mon) 10:48


一聴衆としての意見を書かして貰います。

・・イライラするだけのライブだったと思ったのは私だけか?

社会学者のおしゃべりになにも持ち帰ることが出来なかったのは私一人か?。

<イベント宣伝コピー>
秋葉原通り魔事件は単なる半狂人による特殊な犯行ではない。宮崎勤幼女殺人事件、オウム事件、酒鬼薔薇事件と続くこの20年の社会の闇の部分── 若者達の不満や怒りを見据えないと、事件の真相は見えてこない。『現実でも一人。ネットでも一人』という絶望的な状況で人は脱社会化するしかないのか?

【出演】宮台真司(社会学者)、東浩紀(哲学者/批評家)、切通理作(評論家)、雨宮処凛(作家)、月乃光司(こわれ者の祭典)、タダフジカ(ギタリスト)、他
【司会】藤井良樹(ルポライター)

一昨日プラスワンに久しぶりに行ってきた。な、なんと場内はソールドアウト。店長の話では200人近い人が入っていると言っていた。

社会問題系、それも夏休みで東京にはドンドン人がいなくなっている、さらには、月初めというのは案外客が入らないのだが・・・テレビの取材が入っていた。

当日私は血圧の調子も悪く、イライラしていたのかも知れないが途中から入って、あまりにもつまらなかったと言うよりひどかったので、途中(休憩中)で帰った。

話は秋葉事件の加藤容疑者の話が中心だった。

宮台慎司、東浩紀と言ったいわゆる社会学者が訳のわからんことしか言っていなかった様に見えた。満員の聴衆の中で私は切れまくっていた。

所詮両学者の自慢話のステージだったなって思った。

なにも私らを説得できていない。学者って私たち頭の悪いものにもちゃんと解るように喋らなければいけないって言うことを解っていないな。

所詮社会学者?なんて、人の個々の弱さとか、苦しさとかはは理解できないらしい。

やたら訳のわからん語彙を使いまくって、さらには「誰々の学説では・・・」と言ってしまう。

秋葉事件を単なるよくある社会現象としてとらえてしまっていた。

やっと社会的に弱い立場の人たちが団結して立ち上がろうとしているのにこの彼らは全くそこに近寄ろうとしない。理解しようとしない。G8の話題すら出てこない。

基本的に現代のグローバリズムな世界を肯定しているのだ。

だから、「ニート問題は解決しません」とか「運動自体は否定しませんが意味がない」「運動では社会は変わらない」と言った発言が出てくることに、私は一人?怒っていた。

赤木論文(希望は戦争)にも「それで赤木君はライターの仕事が成立して良かったじゃないの」には絶句。

東浩紀はなぜかはしゃぎまくっていて実にかっこ悪かった。

まともなのは切通理作さんぐらいだ。

藤井良樹は「この問題は面白いのでもっと続けよう」と場内の空気も読めていないと思った。

さらには憲法改正論者宮台さんの「石原慎太郎のブレーンをやっている。それが私のロビー活動」と言った発言には、もう「こりゃ~ダメだ」と思った。

確かに奴らは学者だから論理ではかなわない。論争を仕掛ける度胸はない。

しかし、彼らが社会学者?の領域に安住しているのを私は見ていた。


だから学者ってダメなんだって35年前の私たちが教授を追求したした事が思い出された。

これならまだ、田原総一朗とか久米宏の方が人間的だ。

ちゃんと両氏を批判するには、当日のテープを聴き直さなければいけないのだが、とにかく私は感情的についていけなかった。

月乃さんが、雨宮さんがどういう反論をするか見ていきたかったが、私はもうこれ以上聞きたくないと思って帰りを急いだ。

せっかくロフトプラスワンに出演していただいたのに、こんな事書くオーナーでした。すみません。出演者のかたがた。
(以下略)
 これを読んで、既に書いたようにこの日のパネルディスカッションを面白いと思っていた小生、当初一読してウムムと唸りましたが(小生もまた、東氏の言う「難しい言葉で救われる人」なのでしょう)、ややあって考えるに、案外これらの発言は繋がっている面もあるのではないかと思うに至りました。

 それは「包摂」と「場」ということです。

 事件について様々な言説があり、更には様々な言説を生んでしまう構造自体を批判するという言説もあったことは、『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』にも明らかな通りです。小生は、元々ある意見を持っている人が、たまたま起こった事件にひきつけて自己の意見を語ることが悪いとは思いません。それを悉く批判しては、何も言えなくなってしまいますので。勿論目に余る場合もあるとは思いますが・・・(上掲書で言えば、リバタリアン蔵氏の書いたものは、アキバの事件がどうあろうと自分の「正論」が正しい、誰が逆らえるのか、などと書いており、いったい誰にどういうつもりで書いているのでしょうか)。
 そう断った上で、このような事件のより少ない世の中になるように、おまじないではない対策としては、やはり宮台真司氏の指摘する「社会的包摂」のある世の中に近づけていく、ということが最も現実的な方法なのだろうと思います。国と個人との間の中間団体というものが、20世紀の日本では解体されていきました。その代わりになるかと思われた企業もバブル崩壊後はそういった余裕をなくしています。そこで、包摂の場を作り直すことが求められるのです。
 と、そこまで考えたときに、小生は阿佐ヶ谷ロフトでの鈴木邦男氏の発言を思い起こしました。宮台氏の示す戦略は有効としても、今すぐ包摂を求める人にとっては十分具体的というわけではありません(他の論者よりは、おおむね具体的ですが。ナイフ規制などおまじない的対策はもちろん除きます)。然るに鈴木氏は、抽象学説抜きで、しかし同じ方向の、極めて具体的な解決策を示しておられました。

 「一水会に入ればいい」

 「包摂」の場を作るということであれば、雨宮処凛氏の運動も、はたまたロフトをこしらえた平野氏も、それほど隔絶したことをやっているわけでもないのではないか、そう感じた次第です。そして戦後日本でのこの最大成功例が、多分創価学会でしょう。
 とまあ、小生とりとめもなく考えているうちに、新宿ロフトプラスワンでのパネルディスカッションの際、最後の質問の時間に言い出そうとしてうまくまとまらなかった、イベント自体は興味深かったけれど引っかかっていた、そんなことがらの全体ではないにせよ切れっぱしを、ようやく掴まえることが出来ました。

 それは、「包摂の場を作るに当たって、ネットの役割果たして如何」ということです。

 新宿ロフトプラスワンの「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」の中で、包摂の場を設けることの重要性については、論者の間で一致が見られています(包摂して「楽しく生きる」事が最重要か、それと社会改革運動とを二正面作戦で行うべきかの点については意見が割れていますが)。ですが、包摂の場とネットの関係については意見が分かれていて、しかも東氏と切通氏との議論が全くかみ合わなかったように思います(レポ(1)末尾参照)。図式的に切り分ければ、ネットで加藤容疑者に救われる可能性があったことを強調するのが東氏、それに疑問を呈するのが切通氏、という構図でしょうか。
 更に図式的なことを続ければ、小生はここでの議論については切通氏の側に近いので、さてこそ表題のように、東氏に包摂の場を作ることとネットとの関係について、より深く聞いてみたいと思うに至った次第です。

 ネットはもっぱら言語によるコミュニケーションツールなので、ただ漠然と「包摂する場」を設けるという点、参加者が「ああ自分はこの場に包摂されているんだなあ」と直接感じるためには、面倒な手段なのではないでしょうか。ネットの場では、ある程度相手を想定して、そちらに繋がる言葉を発しなければなりません。そして発言しなければ場にいると相互に認識できないのですが、これは結構面倒なことです。mixiのコミュニティのように、ただ入るだけで一員になるネットの場もありますが、その程度の場や加入具合で、果たしてどれほどの包摂の効果が生まれるのでしょうか。
 あまりに古典的かもしれませんが、やはり直接会って同じ場所と時間を共有することの方が、場を育てる上では有効だと思います。特に、雨宮氏の活動の中にも「公園呑み」がありましたが、飲み食いを共にするということが一番効果があるんではないかと。なんだか民俗学や人類学みたいな発想ですが。

 話が逸れますが、この点では呑みニュケーション大好きな、「革命的非モテ同盟」の古澤書記長は正しいかも、と思います。何せネット上で書記長が書くことは、しばしば格好つけて理論づけようとしてずっこけているにもかかわらず、書記長が多少の「場」を維持できているのは、デモや呑みなどリアル活動のお蔭に他なりません(このことを本人が一番分かっていそうにないのが笑いのポイントなのですが。書記長は内容証明郵便で探偵事務所に文句をつけたら「はてなブックマーク」がたくさんついたことを未だに自分の活動の最大成果と勘違いしている節があります。テレビにも新聞にもロフトにも出たのに、それよりも! そのことをいくら批判されても全く懲りていないのは、最近になっても「内容証明万歳」などと書いていることからも伺われます。まさに「はてな脳の恐怖」と題して森先生に分析していただく価値があると考えざるを得ません)。場を盛り上げて維持することが大事(「面白くなければ続かない」とは書記長の弁)で、言論の精緻さを上げることは必ずしもそれに優先するものではないのかもしれません。実際、「言論は仲間の結束を高める効果はあっても、反対者を説得する効果は少ない」と、ロフトプラスワンのイベントで論じられていますし。
 ただし、あまりにいい加減では、仲間の団結すら出来なくなってしまいますので、全くどうでもいいというわけではないのは勿論です(ウェルダン穂積氏のデモの失敗は、身内かためすら出来なかったことにあるでしょう)。

 その、イデオロギー闘争は不毛、といった指摘に対し、おそらくこの記事の先頭で引用した文章から察せられるように平野氏は不満と怒りを持っておられるようです。平野氏が政治の季節を乗り越えてこられた方であることを思えばそれもさもありなん、と思いますが、しかし実際のところ、政治運動を起こした諸団体にしたところで、理論ありきで行動していたわけではないのではないかと思います。簡単に言えば、メットかぶってゲバ棒振り回していた人々が、皆マルクス・レーニン思想に通暁していたわけではないだろう、ということです。言論は場を作るための道具として、その効力を発揮するのです(多分、「やまざき」氏が古澤書記長を「ガチ左翼」と勘違いしたのも、言論と場の関係を前者が優先と思っていたからでしょう)。
 結局場を作って人を包摂することが、政治運動においても基本ではないでしょうか。人が集まれば人脈も広がるでしょうし、うまく行けばカネ・モノも集まることもあるでしょう。そうすればロビイングも有効に行えることでしょう。

 例によって長すぎて書いているほうも草臥れてきたのでいいかげん締めにします(いつものことだけど)。折々友人に話していることを文字に起こそうとしただけなのに、何でこんなに面倒なのか。3秒で考えたことを書くのに3時間かかっても終わらないので。質問のある方は電話してください(笑)
 だから、ネットという文字ばかりのメディアによる場の建設は面倒で、多くの人を包摂する場を作るには不適ではないかと、嫌というほど感じたのでした。

 纏めると、場を作って包摂することが大事で、そのアプローチ方法は左右いろいろあるけれど、その際にネットの力は過信しない方がいい(地理的事情などで会いにくい人をフォローする、など使途を明確にすれば便利で有効でしょう)のでは、そんなところです。
 そして付け加えるならば、包摂の際に気をつけるべきことは、何かを排除することによる包摂、ネガティヴ・キャンペーンによる包摂に陥らないようにすることでしょう(言論という面倒な手段に頼らざるを得ないネットでは、最も手軽な言論作成方法であるネガティヴ・キャンペーンがより起こりやすいでしょう)。包摂の境界線はあいまいにしておくに越したことはありません。その方が流動性の高い包摂が可能になります。
 排除やネガティヴ・キャンペーンに陥らない為には、批判よりも自分が幸福になる方法を掲げるべきでしょうが、これはこれで難しいものです。何が幸福かなんて、分かったら苦労しません。それこそ人生かけて考えねばならぬことです。最初から明快なロードマップを示して「幸福」に至る道を示すことはかえって出来ません。だからこそ、先ず場を作ることを重視するべきなのです。
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by bokukoui | 2008-08-25 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(11)

『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』感想

 「人の噂も七十五日」と申しまして、二月半も経てば一時世間を賑わした話題も忘れ去られるのが通例でありますが、今日はいわゆる「秋葉原通り魔事件」から七十五日に当たります(昔の言葉ですから、事件発生日を一日目として数えるはずなので、今日になると思います)。
 今日はその七十五日目に際し、事件後いち早く出された秋葉原通り魔事件に関する書物を読んでみたいと思います。

 目次は以下の通りです(アマゾンのページのデータ利用。上にリンクを張っておいた肝腎の洋泉社のサイトには目次が載っていませんが、大澤真幸氏の特別寄稿「世界の中心で神を呼ぶ 秋葉原事件を巡って」が掲載されています)。

・Introduction アキバ通り魔事件とは何だったのか!?
・資料1 加藤智大25年の半生・・・栄光の幼少期と苦難の青春期(小林拓矢)
・資料2 「アキバBlog」で読む、凶行前夜の秋葉原で起こっていたこと(geek)

・加藤容疑者を嘲笑う資格が私たちにあるのか!?(赤木智弘)
・あまりに普通の若者のグロテスクな置き土産(雨宮処凛)
・新自由主義時代を象徴する自己チュー殺人(吉田司)
・ひ弱な国のひ弱なK(勢古浩爾)
・教条化する「家庭」、徹底した敗者意識、実在感に満ちた「アキバ」(小浜逸郎)
・マルトリートメント(不適切な養育)が自尊感情の低い子どもを生む(佐久間真弓)
・破滅を目前にした子にシカトされる親とは何なの!?(佐藤幹夫)
・なぜ彼はあれほど顔にこだわったのか(三浦展)
・”思い込み”にさいなまれた若者の悲痛な叫び(斎藤環)
・秋葉原事件と「ゲーム的」現実感覚(東浩紀)
・美しくなんかなくて/優しくもできなくて/それでも呼吸が続くことは許されるだろうか
加藤さんの書き込みが文学的すぎる件(神認定)(鈴木ユーリ)
・【特別対談】事件を起こしたこと意外、ほとんど僕と一緒なんです(本田透×柳下毅一郎)
・突きつけられた「大きな現実」、あるいはポスト・モダン思想の死(吉岡忍)
・それでも言う、加藤の出現をもって格差社会批判をするのは正しい振る舞いか!?(蔵研也)
・社会的包摂の崩壊が「孤独な勘違い」を生む!!(宮台真司)
・犯罪学的に見れば、この事件は一級に凶悪とは言えない(河合幹雄)
・ホラーハウス社会の憂鬱(芹沢一也)
・物語の暴走を招くメディア/メディアの暴走をうながす物語(荻上チキ)
・相互監視・密告社会化するネット社会(小池壮彦)
・一連の報道にはなぜ「トヨタ」という言葉が聞かれなかったのか!?(小林拓矢)
・なぜ秋葉原が犯行の舞台に選ばれたのか(森川嘉一郎)
・犯罪テキスト批評の「様々なる意匠」(浅羽通明)
・直接的にか、間接的にか、あるいは何かを迂回して、「かれ」と出会う(平川克美)
・記号的な殺人と喪の儀礼について(内田樹)


 奥付には2008年8月29日発行とありますが、確か8月1日のロフトプラスワンのイベント「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」の時に、出演者にして執筆者のどなたかが現物を壇上で示された覚えがあります。小生は正直なところ、洋泉社という出版社に対して全く良い感情は抱いていない(鉄道史やってるもので)のですが、しかしことこの場合は読むべきであろうと考えて購入したのでした。

 さて、小生はこういった書籍の感想など書くとえらく長くなってしまって、読む方も書く方も草臥れてしまいます。ですからまずはじめに、短い言葉でまとめを先に書いておくことにします。
 それは、薄いということです。

 何しろ厚みの点ではA5版126ページ(奥付除く)しかなく、そこに26人の論者が犇めいているのですから、濃くなりようがありませんね。はじめに20ページばかり事件のまとめと事件前後の秋葉原の状況についての説明があるので、それを除くと実質100ページで25人が意見を開陳していることになり、一人当たりのページが原稿用紙数枚~十数枚程度になってしまっています。ですから、どうもあらすじかイントロのようになってしまっており、「続きは著書を読んでください」的な感じになってしまっています。それこそ読書ガイド?
 そんな断片が二十いくつも重なっていて、全体のまとまりというものはありません。論者によって見解は全く食い違っています。食い違わせることで何かを描き出そうとか、食い違っている様相に何か見通しを与えようという意図もあまりなさそうです。個々の文章について言えば、勿論小生の抱いた感想として、「これは興味深い」というものあれば「この論者は何が言いたいのだろうか」と首を捻るのもありました。ただ、それを以下に二十いくつも並べたところで面倒なだけなので、全体をまとめてこの本について好意的に考えれば、以前阿佐ヶ谷ロフトで行われた秋葉原の事件に関するトークイベントの感想と同じことが言えるかも知れません。つまり、この混沌ぶりが、秋葉原事件の性格そのものなのではないか、ということです。

 上にも書きましたが、個々の文章に関しては面白いとかそうではないとか、そのような感想はもちろんありますが、それをつらつら書いても長さの割りに面白くはなさそうです。
 小生が、この本の中でどなたの書かれたものが面白かったかを振り返った時、苦笑せざるを得なかったのは、要するに、自分がそれまでその論者の言説にある程度馴染んでいた方の論に対し、「面白い」と思う傾向があったということです(もちろん例外もあります。赤木氏とか)。これはひとつには、限られた紙数の中で述べられたものを読む場合、その論者の他の著作や発言などを知っていれば、それが補足材料となってよりよく読めるからでしょう。宮台真司氏の論に納得したのは(限られた紙数の中に内容を濃く詰め込む点で、氏の技量はもともと大変高水準だと思いますが)、やはり先日のロフトプラスワンのイベントで氏の論を聞いていたからに他ならないでしょう。
 しかし一番大きな要因は、これもまた先日のイベントの話と繋がるのですが、結局言論は人の意見を変えるよりも、人が抱いていた考えを強化する方向に働くものだ、ということになるでしょう。
 結局この本がどのような読者を狙っているのか、よくわからないのですが、いろいろ集めれば自分好みの意見が見つかる、自分好みの意見を読んで自分の物の見方の正統性を確認して安心する、そのような使われ方が多いのかもしれません。・・・ということに近いようなことを書いている論者の方もいたように思います。そして小生自身のこの記事もまた、同様なものなのかもしれません。

 自分でも感想を書いていてどんどん詰まらなくなってきて、筆も進みかねるので、いい加減やめることにします。何がどう詰まらないか分析するのはさらに面倒で、楽しくもありません。
 そこでこの記事はこの辺で打ち切って、せいぜいもう少し小生自身にとって意味のありそうなことを別に書くことにします。つまり起こってしまった事件は如何ともしがたく、世がそれで動揺して頓珍漢な(気休めのおまじないのような)政策や言説が飛び交う状況も直接すぐにはどうしようもなく、しかしそこで「自分は」どうするのかということです。まあ社会的包摂について思ったことを書こうということですが、とりあえずこの記事はここまで。

追記:一応続きとなる記事を書きました。こちら。
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by bokukoui | 2008-08-21 23:57 | 書物 | Trackback | Comments(0)

ロフト「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」レポ(2)

 新宿ロフトプラスワンで行われたパネルディスカッション「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」のレポの続きです。(1)はこちら。

(長いので以下はこちら)
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by bokukoui | 2008-08-01 23:59 | 出来事 | Trackback | Comments(0)

ロフト「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」レポ(1)

 新宿ロフトプラスワンにて、秋葉原通り魔事件についてのパネルディスカッションがあるというので、事件の現場に居合わせた者として、先月に同じロフトの阿佐ヶ谷でやはり行われたトークライブにも行きましたし、今回も何とか時間をやりくりして行ってみました。
 今回のイベントの主旨と参加者は、ロフトのサイトから書き写すとこんな感じです。
「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」

秋葉原通り魔事件は単なる半狂人による特殊な犯行ではない。宮崎勤幼女殺人事件、オウム事件、酒鬼薔薇事件と続くこの20年の社会の闇の部分──若者達の不満や怒りを見据えないと、事件の真相は見えてこない。『現実でも一人。ネットでも一人』という絶望的な状況で人は脱社会化するしかないのか?

【出演】宮台真司(社会学者)、東浩紀(哲学者/批評家)、切通理作(評論家)、雨宮処凛(作家)、月乃光司(こわれ者の祭典)、タダフジカ(ギタリスト)、他
【司会】藤井良樹(ルポライター)


(長いので以下に続く)
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by bokukoui | 2008-08-01 23:58 | 出来事 | Trackback(1) | Comments(4)

「ロフトA メディア時評~世界のアキバのいま」@阿佐ヶ谷ロフト 感想

 以前の記事でもちょっと触れましたが、先月8日の秋葉原通り魔事件について考えるトークイベントが阿佐ヶ谷ロフトでありました。で、そこに「革命的非モテ同盟」の古澤書記長が出演するということなので、色々繰り合わせて行ってきました。書記長と小生ともども秋葉原通り魔事件にその場で居合わせた、めかちゅーん氏とヨブ氏も足を運ばれていました。
 今回のイベントは「ロフトA メディア時評~世界のアキバのいま」と題し、パネラーは

  井上トシユキ(ジャーナリスト)
  鈴木邦男(一水会顧問)
  赤木智弘(作家 / フリーター)
  古澤克大(革命的非モテ同盟:書記長)
  ウェルダン穂積(芸人 / 自称革命家)
  スパルタ教育(過激芸人)
  中沢健(歩く雑誌)


 ということで、今回の事件の犯人の抱えていた問題に対応して、ネットに詳しい井上氏、ワーキングプア評論家(?)赤木氏、「非モテ」ということで書記長(事件に遭遇したということは今回の場合あまり関係なかったようです)、この事件に伴う秋葉原の歩行者天国中止ということで、パフォーマンス関係からウェルダン穂積・スパルタ教育・中沢健の芸人三氏、ということのようです。鈴木邦男さんは・・・テロルの専門家?
 というわけでこの7人に、後半は来場者の発言も交えて、4時間近くの議論が交わされました。その内容について、多少のメモも取ったので、以下にかいつまんで皆様にお届けしたいと思うのですが・・・。

 結論から言えば、今日のイベントはグダグダでした。
 いろいろな問題を検討しようといろいろな傾向の人を集めたのはいいのですが、その結果収拾が付かなくなってしまった嫌いがありました。まとめようにもまとめようがないほどなので、一緒に話を聞いていためかちゅーんさんが漏らされた感想を挙げて、まとめに代えておきます。

「この事件に解決なんて存在しない。事件について語ったイベントがグダグダになったということが本質で、グダグダになったということは対策がないということ」

 これは小生も首肯するご指摘です。しかし、グダグダを、つまり解決の付かない問題を、いわば気休めのおまじないを唱えるような解決策で済んだ気分になるのではなく、時々はそういったものが存在しているのだということを認識しておくことは、それほど無意味なことではないであろう、そうも同時に思います。

 これで終わりにしてしまっていいと正直思うのですが、それほどグダグダでメモを取ることも時として断念せざるを得なかったのですが、まあ折角採ったメモなので、グダグダの中で耳朶に残った幾つかの言葉と情景を、挙げておきたいと思います。文脈はさておき。あと発言はそのままではありません。結構まとめてメモしている(それでもメモしきれない)ので。

(グダグダと列記)
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by bokukoui | 2008-07-18 23:59 | 出来事 | Trackback | Comments(6)

秋葉原通り魔事件から一ヶ月

 秋葉原の通り魔事件が6月8日に起こって丁度一ヶ月になります。

 小生は本日アルバイトで帰宅が遅くなったもので、また自宅の新聞が限られているため報道の状況は存じませんが、今ネットのニュースをざっと見たところでは、あまり話題になっていないようです(NHKのニュースではやっていたと家人が言っておりましたが)。まあサミットや「くいだおれ」閉店など他にもいろいろニュースがあるわけで、それもまたそんなものかと思います。
 一つ見つけたNHKのニュースを以下に引用(ニュースのログはすぐに消えるので)しておきます。

(引用など多いので続きはこちら)
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by bokukoui | 2008-07-08 23:58 | 時事漫言 | Trackback(1) | Comments(1)

秋葉原通り魔事件について補綴

 ここ十日あまりに世間を騒がせた二つの大きな事件に思いがけず身近に接することになってしまい、思うところもあり、またこれに関係して所用も幾つか増え、昨日は些か疲労して引き籠っておりました。
 ですが、自分が生きている限りは、どこかで区切りをつけて平常へ(その平常は以前と少し異なっているのかもしれませんが)復帰しなければなりません。葬儀や法事の社会的意義もそこにあるのでしょう。
 なので、まず「新記事を起こすかもしれません」と書いた秋葉原通り魔事件に関して、簡単に補足とまとめを書いておきたいと思います。

 まず、事件を他に目撃された方の記録について。
 拙文「秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録」にコメントを下さった灘雅輝さんのブログ「すごい勢いで~灘雅輝工房」に、事件の体験が綴られています。コメント欄では、「さらに近い現場より」さんもご自分の経験を書き込んでくださいました。また、検索で見つけたのですが、カタ山ペシ郎さんのブログ「カタペシブログ」に、事件の記録があります。以下に主要な記事への直接リンクを張っておきます。

「すごい勢いで~灘雅輝工房」より
  ・秋葉原通り魔事件~12:32事件を目撃した内容 他(6.8.)
  ・秋葉原通り魔事件・・・事件の印象がだいぶ違う 他(6.9.)
  ・秋葉原通り魔事件・・・発砲音がなかったことに・・・(6.12.)
  ・秋葉原通り魔事件~目撃後一週間・・・心になにか・・・(6.14.)

「カタペシブログ」より
  ・秋葉原通り魔殺傷事件でパニック(6.8.)
  ・秋葉原通り魔殺傷事件でパニック(続)(6.9.)
  ・秋葉原通り魔事件:恐怖感と自己嫌悪 他(6.10.)
  ・秋葉原通り魔事件:日本社会の闇と,埋まらない溝(6.12.)

 貴重な証言として読ませていただきました。
 灘雅輝さんのおられた場所は小生たちとは違った場所で、異なった視点からの証言として自分の経験を見直す手がかりとなりました。また、カタ山ペシ郎さんは、交差点南側という小生一行と近い位置におられ、その後の逃げたルートは我々よりも犯人に近い西側だったようです。犯人に近いだけ危険度も高かったわけで、何よりご無事で幸いだったと思います。

 灘雅輝さんは、交差点で警官が刺されたときに、「発砲音が2発ほど聞こえ」たと書かれています。だとすると、小生が聞いた「発砲だ!」との声は、この威嚇射撃のことで、辻褄は合います。しかし、マスコミ報道では威嚇射撃については触れられていません。むしろ、警官が発砲しなかった(犯人を逮捕した警官は確かにそのようです)ことの是非が話題になっているようです。
 銃については、カタ山ペシ郎さんも、「誰かが「銃を持っている」と叫んだ(厳密には叫んだのか,ただそう思って言っただけなのか分からないが)のが聞こえた記憶があります」と書かれ、誰かが何かこれに類することを声に出したことは、確実そうです。

 小生は、灘雅輝さんの仰る「発砲音」を聞いた覚えは無く、誰かの「発砲だ!」との声を聞いて逃げ出しました。しかし逃げつつも内心「でもあの『ドカン!』という音は交通事故のような気がする。発砲音ではないのではないか」などと思っていました。後で古澤書記長たちと無事合流した際、小生は元自衛官の書記長に真っ先に尋ねました。「あれは発砲音か?」書記長は、自分はライフルなら詳しいけど拳銃のことはあまりよく知らない、と断りつつも、「あれは(発砲とは)違う」と答えました。
 もちろん、ここで話していた「音」とは、結果的にはトラックが人をはねた時の音です。つまりそれ以外の発砲音(のような音)を、我々一行は認識していなかったのです。なお、やや話はそれますが、トラックがジグザグ走行して人をはねた、というようには、少なくとも小生のところからは見えませんでした。灘雅輝さんも同様のご指摘をしておられるかと思います。

 また、報道では、犯人が叫び声をあげながら人を刺して回ったといいますが、灘雅輝さんが書かれている通り、小生もそのような音を聞いた覚えはありません。
 音の記憶、というのは視覚以上に曖昧になりやすいものなのでしょうか。

 以上ご紹介させていただきましたお3方は、様々にご自分の行動を省みられ、この事件の衝撃が今なお尾を引いておられるようで、また小生と同道していた古澤書記長がいろいろ書いたりしているのも(書記長は元々気分が乱高下しやすい人だったとは思いますが)、衝撃が影響しているのだと思います。新聞では負傷者・遺族の「心のケア」について警察が積極的に取り組む旨が出ていましたが、こういった方々までは流石に手も回らないでしょうし、ブログなどで書くこと自体が回復の役に立つことを祈るばかりです。
 で、正直に言えば、小生は「心のケア」という言葉が嫌いなのですが、それにしたってフラッシュバックも無ければ夢一つ見ません。もしかして加藤容疑者並みに「心無い」人間なのかと思ったりもしてしまうのですが、或いは防衛機制が強力に働いているだけなのかもしれません。

 さて、小生はこの事件に出遭ってしまって、見たことや思ったことについて幾つか書いてきましたが、一つ書いてなかったことがあります。犯人について、です。

 犯人については、「主観的記録」で書いているように、小生は直接それと認識して見た訳ではありません。ので、直接的に何か感情が湧き上がってくる、という心境には、すぐにはなれません。通り魔の大量殺傷事件でありがちな、「誰でもよかった」という殺人者について考えるとき、そして今回の事件(参照1参照2)でも、小生の頭に真っ先に浮かんだのは、世界の(といっても大部分欧米なのですが)殺人事件の記録を数多集めたサイト「殺人博物館」「マジソンズ博覧会」内コンテンツ)で、カナダの大量殺人犯マルク・レピンについて書かれた記事の冒頭です。
 語りベの立場から云わせていただければ、大量殺人はつまらない。あらすじがいつも同じだからである。ワンパターンなのだ。
 大量殺人者の多くは、己れを「ひとかどの人物」だと信じている。しかし、その実際はちっぽけなゴミなのだ。そのギャップに彼は苦しみ、己れを認めない世間に毒づき、思い知らせてやろうと牙を剥くのだ。それは復讐であり、売名でもある。多くの命と引き換えに彼は歴史に名を残し、己れが「ひとかどの人物」であったことを証明するのだ。だから、彼らについて語ることはそれこそ思う壷なので、出来ることならやめるべきだ。しかし、彼らの惨めな生涯を晒しものにすることで追随者を抑止する効果もあるかと思う。
 これだけは云っておかなければならない。
 殺人者をアイドル視してはならない。彼らはいずれも正視に耐えないほどに惨めな落伍者なのだ。(以下略)
 「誰でもよかった」大量殺人犯どもは、皮肉にも彼ら自身が「誰でもよく」十把一絡げに「大量殺人犯」のタグで括られてしまうのです。

 この例示が不謹慎と思われるのであれば、今さっき検索して見つけたものですが、今回の事件の2月前に、NHKで斉藤環氏が論じた内容をリンクしておきます。

 視点・論点 「誰でもよかった」

 斎藤氏は上掲リンク中で、土浦と岡山の事件を例に引き、
 こうした匿名性という視点からみるとき、「誰でもよかった」という言葉は特別の意味を持つように思います。もちろんそれは、「殺す相手は誰でも良かった」という意味だったでしょう。しかし、本当にそれだけでしょうか。二人の容疑者が偶然にせよ同じ言葉を口にした事実は、この言葉を象徴的なものに変えます。
 私には、この言葉が彼らが自分自身に向けた言葉のようにも聞こえるのです。匿名性の中に埋没しつつあった若者が、「これをするのは自分ではない誰でも良かった」と呟いているように聞こえるのです。
 かつて、若者による動機の不可解な犯罪の多くは、犯罪行為による自分自身の存在証明のように見えました。自分自身の神を作り出したり、犯行声明文を出したりという形で、それは表現されました。
 しかし、今回の二つの犯罪には、もはや殺人によって何ものかであろうとする欲望の気配も感じられません。自分自身の行為すらも、半ばは匿名の社会システムに強いられたものであり、たとえ犯罪を犯しても自分の匿名性は変わらない。そのようなあきらめすら感じられるのです。
 もしかすると、今回の加藤容疑者は、携帯電話の掲示板で犯行予告をしていたということは、「自分自身の存在証明」に対するこだわりはまだ持っていたのかも知れません。
 しかしもちろん、この事件を風化させようというのではないのですが、加藤容疑者の身勝手な存在証明に付き合ってやる謂れはありません。

 この事件に関する社会の対応は、先ず一つが加藤容疑者の不安定な派遣社員とその孤独という方向に関心が向かっており、またもう一つの直接的影響として秋葉原の歩行者天国の中止ということがあります。
 派遣社員の問題、孤独や匿名性の問題、これらは今回の事件があろうとなかろうと問題として存在していたことです(事件2ヶ月前の斎藤氏のコメントは、本件にもある程度適用可能でしょう)。一方、歩行者天国の中止は直接本件に関わることです。歩行者天国の中止自体はパフォーマンスの過激化などで以前から話がなくもなかったのですが、それとこれとは別問題です。興味深いことに、「地元の町会」も、或いは「オタク」の方向の人も、こもごも「近頃の秋葉原の治安悪化」を理由に歩行者天国の中止に賛成している事例を見かけます。思うに「地元」が秋葉原の近況を嘆くのは「オタク」な人の流入による雰囲気の変化にあるようで(NHK番組による)、一方「オタク」は近年の観光地化による非「オタク」の流入を雰囲気の変化を批判しているようです。
 それはともかく、以前からあった問題について、本事件をきっかけに(しかしあくまで「きっかけ」として)考えることに意味はあるだろうと思います。しかし、個別的なこの事件について、その影響を過大にとどめるべきではないと考えます。それこそ、加藤容疑者の「思う壺」になってしまうように思われるのです。

 それほど秋葉原に思い入れがある、というわけでも小生はありませんが、この街の歴史について以前思い付きをちょこっと書いたりしたこともあり、このような経験をしたあとでは、この街に歩行者天国廃止という形で加藤容疑者の爪痕が残ることは、端的に言って腹立たしいことです。この事態の改善のためには、何がしか一臂の力を、とも考えています。そのためもあって書記長の活動は注視しているわけですが。
 これも以前、柴田翔の小説をネタに書いたことがありましたが、秋葉原という街の成り立ちというのはそもそも露天商を鉄道の高架橋の下に押し込んだことに始まったわけで、露天の道路での自主的活動(?)というのはそもそも秋葉原の存在そのものと密接に結びついているのだ、とまあ思ったりもするのです。

 あと一つ、今回報道では比較的「『オタク』の危険な犯罪」というありきたりの図式は少ないように思われたのですが、そんなときにわざわざ宮崎勤の死刑を執行して、90年代初頭のバッシングを想起させるというのは、なんだか陰謀論めいた発想をしたくもなってしまいます。

 ちょこっと書くつもりだったのに、存外長くなりました。時間も掛かって、自分の筆力の低下に憮然とするばかりです。その割にちっともまとまっていません。もともとまとめられるようなことでは、ないのでしょう。
 まだ思うところも、細かい事実関係で書いていないこともありますが、ひとまずこの辺で一区切りとします。最後に、戒めの言葉を引用しておいて。
 私たちの目の前で生じた事件でさえも、私たちがその痕跡からただちにそれらを評価し認識することはほとんど常に不可能である。ましてや未来の事件がどのようなものになるかは、私たちの予想をはるかに絶したことなのである。(ソルジェニーツィン「自伝」)

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by bokukoui | 2008-06-20 18:10 | 時事漫言 | Trackback | Comments(8)

秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録

 既にマスコミ・ネットなどで広く報知されていることですが、本日秋葉原で通り魔事件がありました。今聞いたところでは、7名の方が亡くなられたとのこと。亡くなった方のご冥福と負傷された方のご快復を心よりお祈り申し上げます。

 さて、何の因果か小生、この現場に居合わせておりました。思うに死んだ人に対し生きている人が出来ることというのは、死んだ人のことを記憶にとどめ忘れない(そして後世に伝える)ことだけであろうと思います。そこでその場に居合わせた者として、そこで自分が見聞きして記憶に残っていることを以下に整理し、事件の記憶をとどめる一助としたく思います。なお、どうしてもこのようなものはマスコミによる報道が「印象」を(その場にいた者にさえ)刻み込んでしまうものですので、小生はまだマスコミ報道に敢えて目を通さず、自分と同行の友人諸氏とが経験したことに基づいて、記録をまとめようと思います。ですので報道と矛盾する部分があるかもしれませんが、ご諒承ください。

 本日正午過ぎ、小生は「革命的非モテ同盟」古澤書記長、めかちゅーん氏、ヨブ氏と秋葉原を散策しておりました。コンピュータの新調のため、とりあえずモノを見に来るついでに友人諸氏と歓談するつもりでした。4人で連れ立って、中央通りの歩行者天国をぶらぶらしておりました。
 以下に手書きの拙いものですが、現場と状況を図にまとめてみました。
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第1図

 現場の見取り図です。12時半ごろ、我々は中央通りを南の方へ向いて歩いていました。
 と、背後で「ドカン」と大きな音がしました。反射的に振り返ると、箱型の荷台の、ニッポンレンタカーのロゴをつけたトラックが猛スピードで西から東へと交差点を走り去っていきました。
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第2図

 第2図中(A)のあたりに、二人の人が倒れているのが見えました。(B)の辺り一帯に、傘や何か自動車のバンパーの破片? らしきものが散乱しており、交通事故だと思いました。「轢逃げだ」という声も上がったように思います。交差点の中には、南から東へ向けて濃紺のワゴン車が右折しようと止まっており(古澤書記長いわく、歩行者天国の範囲内に元々いたのが、ホコ天開始前に出損ねて、この時になってあわてて出ようとしていた様子だったとか)、最初はこのワゴンとトラックが事故を起こしたのかと思いましたが、ワゴンは関係なかったようです。トラックはその先の(C)のあたりに止まったようでした。

 我々は第2図中あたりの位置におりましたが、事故の発生に向きを変えて北側の交差点を見ました。元々人通りの多い場所だけにすぐ人垣が出来ましたが、事故現場は歩行者天国の範囲外の道路部分だったので、人垣はそこにははみ出さず、東西の道路に沿ってできました。負傷者にはそばにいた人が駆けつけ、歩行者天国の警備に当たっていたのでしょう、警察官もすぐ姿を現しました。
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第3図

 どのくらいこの状況が続いたのか、小生の記憶ははっきりしません。ヨブ氏は2分程度だと思う、と言ってましたが、そんな程度だったでしょうか。人垣越しなので状況も余りよく見えなかったのですが、人と人の間から、第3図(D)地点附近で警官がころり、と転倒するのが見えました。事故で倒れた人の姿勢を再現しているような感じでした。
 後で考えれば、その時犯人がトラックから降りてここまでやってきて、警官を刺したということだったのですが、犯人の姿を見た覚えは小生はありません。人垣越しでよく視野に入っていなかったのか、想像も出来ないことだったので認識できなかったのか。

 ここで叫び声があがったように思います。ここの経緯は4人の記憶が一致しないのですが、小生は誰かが「発砲だ!」と叫んで、皆が走って逃げ出したように思います。書記長は「キャー!」と叫び声が上がって逃げ出した、といいます。めかちゅーん氏は特に何か悲鳴や声を聞いた覚えは無く、群集が崩れて逃げ出したのを見て自分も走ったそうです。ヨブ氏は女性が「キャー!」と叫んだので交差点を注目したら、警官が倒れるところだった、といいます。ヨブ氏は警官が刺されるところを見た、と言っておられました。

 とまれ、ここで人垣が崩れて、第3図中赤矢印で示したように群集が一斉に逃げ出しました。人垣は左右に割れて、中央通りの真ん中を走った人は余り多くなかった気がしますが、小生も一緒になって走っていたので良く分かりません。なお我々の脱出経路は第3図中の黒点線の矢印の通りで、書記長とヨブ氏は中央通りをひたすら南に、めかちゅーんさんは途中で第1図中の免税店の中に(「店の中へ逃げろ」という声を聞かれたとか)、小生もその店の角を曲がりました。
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第4図

 曲がったところ(第4図附近)で小生は背後を振り返りましたが、その時第4図中(E)の路地で、警棒を構えた警官がじりじりと何かに向かって矢印方向に進んでいくのが見えました。

 同じく店内から振り返っためかちゅーん氏も、路地の入り口のサトームセン(閉店)側にいた男と、路地の入り口の反対側(南側)の警官が対峙しているのを見たそうです。男は後ずさりしながら路地の奥へ入っていったそうです。

 書記長はもっと南まで走ってから、追ってこない様子なので振り返ったところ、やはり(E)の路地入り口で警官と犯人がナイフと警棒で格闘しつつ、犯人は路地の西方へ移動していったとのことです。こわごわと、群集について書記長もその路地を覗いたところ、2人の方が刺されていたらしい、とのことでした。

 ヨブ氏のご記憶はちょっと異なります。やはり南へと中央通りを走ったヨブ氏、さらに前方の第4図(F)の辺り(ラムタラやアソビットの附近)でも刺されたのか倒れている方がいたので、こっちに犯人がいるのかと危険に思って元の方へ引き返したところ、声がしたのでやはり(E)の路地の方を見たそうです。すると、警官が路地から飛び出してきて「こっち来るな!」と言い、その警官は血が飛び散ったナイフ(ヨブ氏曰く、サバイバルナイフのような感じで、M9バヨネット〔銃剣〕に似た感じだったとのこと)を持っていたそうです。
 時系列と場所からすると、他の3人の記憶と矛盾するようにも思われますが、氏の証言のまま書いておきます。

 小生以外の3人の方は、凶器のナイフを持った「犯人」を目撃されたそうで、その服装はベージュ系の色だったそうです。小生はどうも、そのような人間を見た覚えがありません。事件の意味が分かっていないので、「犯人」と認識できなかったせいなのでしょうか。認識できないものは、たとえ網膜に映っていても、「見る」ことができないのかもしれません。
 ただ、(E)の路地で、警官が警棒を構えつつじりじり前進していく、その背中を確かに見たのですが、その先に、笑いながら手を叩いていた人間を見た気がしてなりません。場所と状況から言えば、これは犯人としか思えませんが、しかし服装は白っぽかった気がします。
 人の記憶とは、必ずしもあてにならないものです。

 犯人らしき人間が路地の奥へと去り、そして「捕まった」という情報が口伝に流れて、気が抜けた空気があたりに流れました。
 この間、およそ10分程だったかと思います。

 パトカーが次々とやってきて、警官が立入禁止のテープを張って中央通りの車道から人々を歩道へと誘導します。ややあって救急車やレスキューもやってきました。我々も無事に再合流を果たし、中央通りの西側の歩道(交差点から少し南)から呆然と状況を眺めていました。救急隊が駆け回り、警察や救急の増援がやってきて、そして報道陣も大勢やってきました。
 我々はそういった状況を見、そして遅れてきた友人たちと合流して起こったことを話したりしていました。それは大して長い時間には感じませんでしたが、気がついたら2時間ほど経っていました。時間の流れは、主観的には決して一様ではないようです。

 考えてみれば、逃げる時の路地が東西逆だったら死傷の可能性もあったわけですが、今思い返してみても特に「怖い」と実感したとか、そのようなことはありません。事態の全容がその近くに居過ぎてかえって分からず、変に生々しい断片を見ていると、ただひたすら「わけが分からない」ような、不条理な感覚がするばかりです。
 その不条理感を克服する為に、この記録を綴ったというわけでもあるのですが。

 現場では、さすが秋葉原というべきか少なからぬ人がカメラを持っていて、カメラが無くても今時カメラつき携帯電話くらい皆持っていて、大勢の人が写真を撮っていました。小生は今日はたまたまカメラを持ち合わせませんでしたし、また写真を撮るというのもあまり適切な行為とも思われず(不謹慎云々という小生らしからぬ殊勝な思いもありますが、そもそも下手に写真を撮っても何がどう起こったのかうまく伝えるのは難しそうで、かえって画像に印象を制約されてしまいそうで)、そこで何が起きたのか振り返ってまとめようと思いました。
 上の4枚の図は、この時現場で書記長・めかちゅーん氏・ヨブ氏の話を聞きつつ自分の見たことをまとめたものを、清書したものです。
 図を描いていたところ、入れ替わり立ち代り話を聞きにきたマスコミの方々が関心を示して(話をする側としても便利ですが)、中には図の写真を撮っていった方も居ました。小生の字は元々ド下手な上に、現場でのメモですから、他の人には読めなくて役に立たなかったでしょうけど・・・。

 うまくまとめられるような話ではありませんが、記録としてはひとまずこれで一区切りとします。
 何かあとで思ったことがあれば新記事を起こすかもしれません。思うことはそれなり以上にありそうですので。

追記(9日未明):今ちょっとネットを巡回したところ、マスコミ関係者が本事件取材中オタクバッシング的な言辞をしていた、という怒りの声が2ちゃん方面で上がっていたようです。小生は多くのテレビ局、幾つかの新聞、若干の雑誌の取材を受けましたが、また一緒に居た3人も取材を受けていましたが(特に古澤書記長とヨブ氏)、その範囲内では特段そういった偏向のある取材を受けた覚えはありません。
 この場に居た人々が、犯人逮捕などの画像をやり取りしていたことへも批判の声が上がっており、確かにその指摘ももっともなところがあるとは思いますが、マスコミの取材の方もひとしきり話を聞くとほぼ全員、「何か画像をお持ちではないですか?」と聞いてきました。しかしそれもまた考えるに、マスコミも視聴者・読者の要望に応える必要性があるゆえのことでしょう。
 有体に言って、必死になって逃げている時に振り向いて写真を撮る命知らずは、居るはずが無かったろうとは思います。

更に追記(20日夕刻):思ったことなど新記事を書きました。まとまっていませんが。
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by bokukoui | 2008-06-08 21:07 | 出来事 | Trackback(4) | Comments(47)