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「浦嶋嶺至 画業20周年トークイベント」レポ続き

 急に冷え込んだせいか、先週来調子が思わしくなく、そういう時に限っていろいろ用事が積み重なり、仕舞に寝てるんだか起きてるんだか分からんような状況になっておりましたが(多分風邪を引いていたんだろうと今に思う)、何とか回復してきたので、いい加減放って置きすぎた「『浦嶋嶺至(礼仁) 画業20周年トークイベント』に三峯徹画伯を拝む」の続きを書きたいと思います。
 前回の記事では、浦嶋氏のイベント「全身エロ漫画家宣言!!」の前半部分、エロマンガ雑誌への投稿者として一部筋で著名な三峯(みつみね)徹画伯が登場して、トークを行ったところまで書きました。この記事ではその続きとして、マンガ家のゲストである田中圭一氏・ふくしま政美氏が登場して語られた内容を、かいつまんで述べたいと思います。メモがそれほどきちんとしていないので、トークのレポというより「名言録」みたいな感じになると思いますが・・・。
 なお、諸般の事情により、記事の日付が実際の更新日とずれております。ご諒承下さい。

f0030574_5334676.jpg というわけで、第2部?の三峯氏のコーナーが終わって、今度は第3部?か、田中圭一氏が登場します。浦嶋氏は、田中氏の劇画村塾以来のファンだそうで、一時期は田中氏のアシスタントをしていたこともあったとか。
 全くどうでもいい話ですが、小生は『月刊COMICリュウ』を愛読し、またとり・みき/唐沢なをき『とりから往復書簡』単行本買って読むほどだったもので、田中圭一氏と聞くと同誌2007年11月号(単行本1巻)で唐沢なをき氏が描かれていた田中氏の肖像(←)が浮かんだのですが・・・登場した田中氏は、スーツに身を包んだ、にこやかな感じの方でした。そうそう、永山薫さんを見送って楽屋を覗いた昼間たかし氏が、「楽屋の面子があまりにも濃く、田中さんだけスーツを着ていて一番普通に見えた」なんてことを仰ってましたっけ。でも「普通」なのは見た目だけということがすぐに分かります。

 白夜書房の『トラウママガジン』の内幕話などから始まったトーク、浦嶋氏が「田中さんはまともにサラリーマンやってるのに、描く漫画はいつもひどい」などと振ったあたりからヒートアップしてきます。
田中氏「mixiの日記が最近滞っているが、日記を書いていると、ネタの水準を上げなければと思って書く間隔が開く。もっと下品に!

田中氏「オナニー楽しいじゃないですか」
浦嶋氏「だから嫁と別れた」
田中氏「嫁は飽きるけどオナニーは飽きない。
 でも広井王子は毎日ストーリープレイか」
浦嶋氏「この人、毎日どうカッコいいオナニーするかしか考えてないんじゃないの」
田中氏「オナニーはやめちゃいかん。前立腺もちんちんも萎縮するので、毎日毎日毎日・・・」
 広井王子ネタは別の人だったかも知れません。

「オススメのオカズは」と聞かれたところ、
田中氏「過去の良かったセックスを思い出して、相手を2分おきくらいに変えて。同じ人だと飽きるんで」
ナベ氏「高度な技術ですね」

 そのへんからオナニー話が延々と。あまりに下品に付き(笑)こと細かには記しませんが、
「最高齢でオナニー記録を狙えば」
「いつでも前のめりに、自涜死」←旧漢字がゴシック体で出ないのが残念
「棺桶の中に入る時はナニを握った状態で」
「棺桶の開口部は上下逆で」

 いや、色々ありました。「馬の交尾を見て興奮した男女がことに及ぶ」筈のAVが、馬の交尾の方が遥かに迫力があって、人間のそれがつまらなく見えた話(ビデオ自体、馬の方が時間が長くなってたとか)だとかも。
浦嶋氏「田中さんと家近いので、『呑もうか』とよく話はするが、機会がなくて」
田中氏社交辞令ですから
 とまれかくあれ、田中氏の下品なヒドい話に場が大いに盛り上がり、ここで休憩に。

 そして第4部?の、ふくしま政美先生の登場です。これが今日のメインなのか、浦嶋氏は「ふくしま先生を呼べたことで満足」みたいなことを仰っていたかと。浦嶋氏は一時ふくしま先生の下でアシスタントをしていた由。
 ゲストも入れ替わり、竹熊健太郎氏と宇田川岳夫氏が登場します。小生が生で竹熊氏を見たのは今日が最初でした。宇田川氏については全く知りませんでしたが、サブカル研究家にしてふくしま先生の熱心なファンだそうで、詳しくはウィキペディアはてなキーワード(両方でカバーしている情報が違っているので、両方見ることを推奨)をご参照下さい。
 さて、小生は、ふくしま政美先生についてはそれこそ「お名前はかねがね」という感じで、作品についてはよく知りません。このような徒輩がレポを書くというのもおこがましいことですが、なるべくメモに忠実に書き起こして、ふくしま先生の言葉を皆さんにお伝えできればと思います。知識不足で間違った書き方をしている箇所がありましたら、ご指摘いただければ幸いです。

 まず壇上に竹熊氏と宇田川氏が登場し、竹熊氏が大塚英志や昔話などします。あの、「おたく」という言葉を生み出した『漫画ブリッコ』の中森明夫のコラム(後で大塚編集長と揉めて打ち切り)の後を継いだのが竹熊氏でしたが、氏はそこで大塚氏のロリコン中心路線に対抗してふくしま作品を紹介し、それが縁で宇田川氏と縁が出来たんだとか。当時はオタクもサブカルもシームレスだった、と振り返ります。
 で、この日来ていた観衆の多くもふくしま先生目当てだったのでしょうか。いよいよふくしま先生の登場という場面で、宇田川氏が音頭を取って「人間、自由!!」のコール。ちなみに昼間氏も、わざわざ物販のふくしま政美Tシャツを買ってその場で着込み、絶叫しておりました。
 かくて野球帽をかぶったふくしま政美先生が登場。
 この状況の写真が、阿佐ヶ谷ロフトイベント写真館の2008年11月の所に載ってます。cgiのため上手く直接リンクを張れないのが残念。写真をここに引用したらさすがに問題な気もしますし・・・こっそり写真に直リンしておきますが、この写真では壇上左から夜羽音先生・浦嶋氏・竹熊氏・ふくしま先生・宇田川氏・ナベ氏の順に並んでいます。

竹熊氏「まさかふくしま先生が復活するとは思わなかった。クイックジャパンの大泉実成『消えたマンガ家』(ふくしま政美も登場)が当たった。その当時はふくしま先生の連絡先が分からなかった。その後、ふくしま先生が復活。
 それは、ロフトの夜羽音のイベントで、浦嶋氏が『ふくしま先生が行方不明』という話をしていたら、会場内から『ここにいるぞバカヤロー!!』とふくしま先生が登場し、夜羽音が泣いた」
宇田川氏先生が復活したのではない。先生は常に輝いていて、我々の目が見えなかっただけ
竹熊氏「オタク歴は自分も長いが、宇田川氏ほど趣味の幅が広く濃い人はいない。ふくしま先生復活の直接のきっかけは大泉氏だが、下地を作ったのが宇田川氏」
浦嶋氏「そのお陰でえらい目にあった。パンドラの箱を開けてしまった」
竹熊氏「原作を安請け合いして後悔した。ふくしま先生のパワーにはじかれてしまう(註:竹熊氏のブログ記事参照。面白いので是非ご一読を)」

宇田川氏「雑誌『漫画エロトピア』は、創刊当初にふくしま先生の「女犯坊」を載せ、復活後の作品「暴乳拳」も載せて、連載終了直後休刊した。『エロトピア』は政美に始まり政美に終わった。
 ふくしま先生の無意識は時代の先端のところを突いている。現在『漫画サンデー』での「女犯坊」の連載は一年以上続いていて、奇跡。いつ終わるか終わるかとスリルがあった」
ふくしま先生「まあ最後の挑戦だね、週刊は」
宇田川氏「その辺のベテランで、自分で描いてる人、いるんでしょうか」
夜羽音先生「絶対この人は(自分で描いてる)、という人でも下絵しか描いてないことは多い。やはり週刊のクオリティを維持するのには、一人では無理」
宇田川氏「昔、ふくしま先生はランニングをしていて、『漫画は足腰で描くものだ』と言っていた」
ふくしま先生「おっぱいや尻はきれいな線でないと、抱きたいと感じられなくなる。一本の線で勝負しなきゃいけない(途中で止まったりしてはダメ)」

竹熊氏「ふくしま先生から見て浦嶋氏は?」
浦嶋氏「聞かないで下さいよ」
ふくしま先生「これは大変だ、と思った」
浦嶋氏「まずペンの持ち方から違うと言われた。
 自分は誰の弟子にもなったことがなかったので、誰かにつきたかった。(復活したふくしま先生にアシスタントに行ってから)10年経って、根無し草にならなくて良かったと思う」
ふくしま先生「まあ結局、直らなかったな。でもよく20年やってきた」
浦嶋氏「自分らの世代は、師匠を持たずにプロになったので、自分らの世代は漫画の大きな歴史に属したいという気持ちがあった。それを感じるのがデビューして10年後か20年後か、自分は10年でできて幸運だった。自分はショックが大きすぎ、ふくしま先生の所に行ってからしばらく漫画が描けなかった」

 しばし話が脱線し、アシ話に。山本直樹のアシスタントについて、
浦嶋氏「俺は君(夜羽音先生)がアシに入ったから、(山本直樹が)アシを使うの嫌になったと聞いてるぞ」
夜羽音先生「それは本当。今はマック1台で描いてる。十年前のソフトのまま」
竹熊氏「山本氏は、古いコンピュータで描いて、ドットが出ているようでないと嫌らしい」
宇田川氏「ふくしま先生退屈してます(笑)。先生はアナログにこだわるそうで」
ふくしま先生「ペンはさくら、あと開明墨汁。墨汁の匂いがたまらない。蓋を開けた瞬間、今日もやるぞ、と思う。原稿用紙はすべて画用紙」

 ここでふくしま先生が影響を受けたという劇画家や、弟子筋の方々の話が出たのですが、小生がこの方面に疎いせいであまり上手くメモが出来ていないのですが・・・ふくしま先生は真崎守のアシスタントをされたことがあり、「コマ割りを教えてもらった。死ぬ人は横長のコマ、生きる人は縦長にコマ割する」のだそうです。
 また、ここでいっしょにアシスタントしていた(?)のが宮西計三で、その弟子が松文館の貴志元則だとか、そんな話もあったかと思います。

浦嶋氏「先生はいつから紙とペンをインクで描いたんですか」
ふくしま先生「マイナスゼロだよ。前世から」(台詞のママ)
 実際には2~3歳からだと思う、とのことでした。
 その後虫プロの『COM』に応募して佳作1位に2回なったのに入選しない。変だと思って理由を聞いたところ、手塚は劇画が嫌い、入選者は出来レースだという。後年手塚に会ったのでこの時のことを聞いたところ「そんなこと言ってない」
 また、横山まさみちにも下手と言われたことがあり、これも後年パーティで会ったら「そんなこと言ってない」
宇田川氏「他のマンガ家に警戒される、ふくしま先生はそんなマンガ家だった」
ふくしま先生絵で人を驚かせたい、絵しかない」
 更に続く話では、ふくしま先生は酒と女が好きで、昔は原稿料を貰ったらトルコ(国名に非ず)に行ったとか何とか・・・

夜羽音先生「手塚の話だが、あの人は人間ちっちゃいんでは。何にでも嫉妬した」
竹熊氏「人間ちっちゃかったけど、政治的に新人を潰そうとはしなかった。作品で勝負しようとした。子供っぽい。口癖が『ぼくもこれくらいは描ける』」
ふくしま先生「手塚の1ページ大の絵は耐えられないが、同じような丸っこい絵でも、ちば先生は上手い。
 でも今見れば手塚先生が一番だな」
(壇上の一同、ずっこける)
宇田川氏「考えてみれば、手塚もよく中断していた。(ふくしま先生と手塚は)同じじゃないですか」

ふくしま先生「時代には合わせなきゃいけない」
竹熊氏「そこも手塚と似てますね」
宇田川氏「「女犯坊」、今描いていてどうですか」
ふくしま先生楽しいね。今の編集部なくして「女犯坊」はなかった。このタイトル自体、大手じゃダメ。
 だけどいつまでも「女犯坊」じゃないだろう、連載は今年で終わり。来年は新しいキャラクターで。原点に帰ろうかと。劇画の原点に」

 こうして、ふくしま政美先生のトークは終わりました。
 更にその後、格闘に詳しい方が登場して、オフレコで濃い格闘話を展開したり(○○○の□□□□□が×××に△△△△してるとか)、映像方面のギー藤田・岩崎友彦両氏が登場したりとまだまだイベントは続くのですが、もう小生がフォローできる範囲を超えてますし、実際時間の都合でまもなく帰ってしまいましたので、小生のレポはこの辺で終了させていただきます。
 浦嶋氏が「20年やってればこれだけの人と会えるということを示したかった」と仰っていたかと思いますが、全くその通りで、それぞれのゲスト一人づつでもイベント出来そうな面々でした。それだけ密度が濃いというか、もったいないような気も・・・しかし、これほどコストパフォーマンスの良いロフトのイベントも、そうはなさそうですね。お目当ての三峯画伯以外のゲストの話も面白く、自分の幅も広がった感じでした。
 いやもう、満腹、満腹。
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by bokukoui | 2008-12-09 23:59 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

「浦嶋嶺至(礼仁) 画業20周年トークイベント」に三峯徹画伯を拝む

 エキサイトブログは、ネームカードなるものを貼り付けるとアクセス解析機能がついてくるのですが(あんまり詳しいものではないです)、それには毎月の検索ワードランキング(上位10位までだけど)が表示される機能があります。このブログでは、昨年7月からだったか、この機能によって月々如何なる検索ワードでこのブログに人が来ていたのかというデータが集積されています。
 で、それによると、先月までの一年半近くの期間、ただ一月を除いてことごとく当ブログの検索ワード一位は三峯徹でした。
 このブログで三峯画伯について書いた記事は、多分「エロマンガ界に激震走る~遂にあの論争に終止符しかなかったと思いますが、この記事は大手のサイトに次から次へと引用されたらしくアクセス数がどえらいことになり、今でもその影響が残っているようで、画伯の名声恐るべしであります。もっともあの記事自体は結構適当に書いたものなんだけど・・・タイトルが良かったんでしょうかね。

 さて、三峯画伯が何者かは、上掲の記事及び非公式ファンサイトに詳しいのでそちらに譲りますが、エロマンガ雑誌に十数年にわたって「独特な」画風のイラスト投稿を続けた結果、編集部や読者から尊崇される「業界の座敷童」的存在という、何ともその魅力を表現しづらい偉人です。
 で、その偉人が、なんでもロフトのイベントに登場されるという情報を聞きつけ、これは一度ご尊顔を拝さねばと思い、先週そのイベントに駆けつけた次第でした。三峯画伯は、最近は幾つかの同人誌即売会などにも登場されていると聞き及んでいましたが、そちらに足を運ぶ機会がありませんでしたので。
 そのイベントとは、以下のようなものでした。
「全身エロ漫画家宣言!!」
浦嶋嶺至・画業20周年トークイベントを開催します。
http://justfitweb.com/event/

【日時】
2008年11月27日【木】
開場 18:00/開始 19:00

【場所】
阿佐ヶ谷ロフトA
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/index.html

【Carge (入場料)】
900円 [飲食代別]

【ゲスト】
山本夜羽音(漫画家)
田中圭一(漫画家)
ふくしま政美(劇画家)
永山薫(エロ漫画評論家『エロマンガ・スタディーズ』)
ギー藤田(銭金ビンボー映画監督)
岩崎友彦(『えび天』金監督)
三峯徹(ハガキ投稿神職人)
他、飛び入り有。

【進行補佐】
バッドガイ☆ナベ(面白漫画倶楽部)

◎おみやげあり(当日限定同人誌・予定)
★浦嶋嶺至制作のふくしま政美・三峯徹Tシャツ等、物販あり。
詳細・情報については随時こちらで。
http://blog.livedoor.jp/urashima_area41/archives/cat_50026839.html
 上記データは主に、永山薫さんのブログから拝借しました。永山さんがご出演されるというのも、このイベントを見に行った理由です。
 浦嶋嶺至(礼仁)先生に関して、小生は「お名前はかねがね」という感じで、ご著書も一冊は持っていたと思うのですが・・・部屋が混沌で見つかりません(苦笑)。お名前を最初に見たのは、高校の頃、エロマンガ雑誌の同人誌紹介コーナーで「現在休筆中の浦島礼仁先生の作品が読めるのは同人誌だけ!」とあった時だったと思います。

 永山さんのブログの「席を確保できないと思うので、お早めに」という言葉に従って、小生は会場間もなく18時過ぎに阿佐ヶ谷ロフトに向かいましたが、その時点では10人くらいしかいなかったような。入場料が格安900円の上、同人誌のおみやげ付きとは類のない太っ腹なイベントで、それだけ人が来るだろうなと思ったら、出足は遅かったようです。開始時刻までには40人くらいだったか、更にその後増えて、ほぼ満員近くまで行ったと思います。
 で、ぼちぼち増えてきた人の中に昼間たかし氏を発見。氏とはこれまで何度かお会いする機会があったのですが、ふとしたことで氏と小生の間に思いがけない縁? があったということが判明、お互いびっくりしました。ご挨拶。氏は永山氏と同道して来られた由。リンク先のブログにありますが、児童ポルノ法案に関する動きが、一旦緩んだと思ったらまた急に動いているようです。リンク先の記事にあるように、氏はその前途にかなり悲観的でした。そうならざるを得ない事情は小生もある程度察知しておりましたが・・・。
 また、氏にフィルムセンターで行われている亀井文夫の上映会のことを教えていただきます。戦前の軍隊の報道映画的なものもありますが、個人的には「東京電灯の宣伝映画」が大変気になります。誰か行きませんか?

 それはともかく、おみやげ同人誌はこちら。
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浦嶋嶺至イベントおみやげ同人誌(表紙)

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浦嶋嶺至イベントおみやげ同人誌(裏表紙)

 向かって左が今回発行の、浦嶋氏のデビュー以前の作品を集めたもの(約150ページ)で、右はデビュー後の1992年に出された同人誌(約130ページ)です。小生は浦嶋氏の作品にさほど馴染んでいたわけではないので適切な表現かは自信がありませんが、あれだけの絵を描く人でも、最初はこんなんだったのか――と、思わずにはいられませんでしたが、創作を続ける積み重ねということについて、些かの感慨にふけりました。それにしても、これ2冊だけで900円分の元は取ったのではないかと思わせるほどで、太っ腹な企画なこと。

 開始がちょっと遅れているな、と思ったら、進行役のバッドガイ☆ナベ氏が仕事で遅れているとの由。そのため進行役抜きで、浦嶋氏と夜羽音先生・永山さんが壇上に上がり、15分遅れでイベントは始まりました。(敬称の使い分けに深い意味はありません)
 なお今回は、メモも割と適当ですし、小生の知識の限界からそもそもうまく書き起こせないことも多いので、その辺の限界はご諒承下さい。なにせ自分で自分がメモした字が読めない有様なので(苦笑)

 浦嶋氏はネタとしていろんな画像を仕込んできていて、それを大写しにしながらイベントは進みます。まずは掴みとして、先日麻生首相が秋葉原で演説した際、夜羽音先生が「とっとと解散しる!!!」とプラカードを掲げていた画像を肴に、話は始まりました。振られた夜羽音先生、「話せば短いけど・・・」と語るところに拠れば、前の日に呑んでいて勢いでそういうことになり、その日は15分で秋葉原の喫茶店にて描いた由。で、麻生総理の前で騒いでいた「自称オタク」は自民党青年部なんだとか。
 「ウラ取れてんの?」と突っ込む永山さんに「取れてる」と断言する夜羽音先生。3000円の居酒屋で麻生と呑んだのも青年部と主張します。

 てなあたりから乾杯になり、第1部?に。浦嶋氏がデビューした20年前の話題などが語られます。夜羽音先生が「88年といえばエロ同人誌が大ブレイクした頃」と応えると、浦嶋氏は88年に白夜書房の出した『ホットミルク』のアンソロ本、『熱血!! まんが塾』というのを持参されていました。

浦嶋氏「これを見ると、あまり上手くない。これを見て、自分もデビューしようと画策した。表紙は新貝田鉄也郎さんでクオリティが高い」
夜羽音先生「新貝田さんはあこがれ。いろんな絵が描ける」
永山さん「この頃の人は今でも結構現役。この本では・・・しのざき嶺、もりやねこ、・・・出世頭は唯登詩樹、森山塔も当然ここにいるし、西秋ぐりんも。西秋ぐりんは最近教育関係の仕事をしていて、息子の塾の教材に出ていてびっくりした」

 てなあたりで漸くバッドガイ☆ナベ氏登場。
 浦嶋氏はまた、この当時の同人誌をいろいろと取り出して解説。が、小生には固有名詞がなかなか把握しきれず、昼間さんにお伺いを立て続けました。詳しくはそんな人間のメモよりも、浦嶋氏の回想録「西崎まりのに花束を。-浦嶋嶺至、朋友への手紙-」をご参照下さい。貴重な歴史的証言と思います。
 一つトーク中で印象に残ったところを挙げれば、松原香織氏の作品について浦嶋氏は、「ハードなエロの作品に衝撃を受けた。一時はその絵を真似していた。客に受けるにはどういう絵か、という時のヒントになった」と述べておられました。こうして絵柄を変え、ラムちゃん本『十月革命』でブレイクした経緯は上掲リンク先参照。
 なお、成功の要因の一つとして、浦嶋氏は創作同人の経験から得た編集テクニックをエロ同人に持ち込んだことを挙げておられました。それまでのエロ描いていた野郎共は、そんなところまで気にしなかったのだそうです。女性の同人作家はデザインなど考えていたそうで、これは画期的だったようです。

 とまあ、いろいろ繰り出された同人誌について夜羽音先生が一言。
夜羽音先生「15年前、20年前という同人誌を見せて貰ったが、今の『萌え絵』は当時の絵に一回転して戻ってきているのではないか」
浦嶋氏「元々『ロリコンまんが』から始まったのだから、帰ってくるのはやりここになる」

 そして、同人誌紹介の最後には、「うたたねひろゆきがコミケの新刊を落とし、お詫びとして友人に配った20部限定コピー誌」という驚くべきお宝が。浦嶋氏は一時、ガイナックス方面などとも交友があったそうです。(詳しくは「西崎まりのに花束を」参照)

 更にこの間、ゲストでさだこーじ氏が登場し、そして、いよいよ第2部?「ファンの側から」ということで、三峯徹画伯が登場します。
 ジャンボ鶴田のテーマに乗って三峯画伯登場。以下、画伯のお言葉はなるべく忠実にメモから書き起こすように努めたいと思います。

浦嶋氏「ところで、投稿歴は?」
三峯画伯「19年。来年で20年になる」
浦嶋氏「では来年イベントを(笑)」

※追記(2009.11.10.):ほんとに翌年、そのイベントが開かれていたそうです。

浦嶋氏「『さよなら絶望先生』のアニメに三峯さんの絵が出ていたが、何か話はあったのか」
三峯画伯「何も連絡はなかった」
浦嶋氏三峯徹はパブリックドメインですね。アニメに出ていた初音ミクの絵は贋作らしいが」
三峯画伯「コピー誌のを変えて作ったのかな?」
浦嶋氏「最初あの絵を見て思ったのは、三峯さんはパソコン使わないから、あの塗りはおかしいと」

浦嶋氏「ひところは毎月百通投稿していたと聞きますが」
三峯画伯今は20冊くらい。投稿費より雑誌代が大変」

浦嶋氏「名前の読み方は?」
三峯画伯「関東の人は『みつみね』だが、関西の人は『みみね』と読んでいる傾向があった」
浦嶋氏「名前の由来を。自分は嫁(註:結城らんな=『ホットミルク』の投書欄の偉い人)から聞いているが」
三峯画伯「バイトしてた会社が『三峯(みつみね)産業』というところだったので」
浦嶋氏「だから自分も、三峯Tシャツには『ミツミネ』と書いていた。『みみね』が広まったのは、伊藤剛氏が評論でそう書いたせいではないか」
永山さん「あいつが犯人か」
三峯画伯「まあ、どっちでも・・・」
ナベ氏「すると『みみね』Tシャツが出るかも」
浦嶋氏「大阪版として作るか」
三峯画伯「『三峯(みつみね)』はエロ、『三峰(みみね)』はその他で行こうかと。でも皆、言いたい方で言ってるので」

 うーん、このブログで以前報じた「みつみね」「みみね」の使い分けは、まだあまり世間(?)に浸透していなかったのでしょうか。

永山さん三峯さんの存在は都市伝説ですからね。エロマンガ雑誌が創刊して、三峯さんの投稿が来たら編集部が安心するという」
浦嶋氏「献本してくれればいいのに」
三峯画伯「昔は何冊かありましたよ」
(会場驚く)

永山さん「斉藤O子さんが(三峯画伯について)言われてましたよ、『上手くなるな』
浦嶋氏「嫁と話したんだけど、本人を前に何だけど、『三峯さん最近枯れてきたね』
 しかし違いが分かる俺も何だと(笑)」
三峯画伯「自分もそう感じる。昔の絵を見るとパワーを感じる。今よりちゃんと描いてるなあ、と

三峯画伯「今後も時間のある限り投稿は続けたい」
浦嶋氏「復刊ドットコムで三峯画集の声もあるそうで。(註:発見できませんでした)
 投稿はコピーとか取ってるんですか?」
三峯画伯「いや、取ってないです」
浦嶋氏「では、誰にも三峯さんの投稿の全容は分からない・・・」

浦嶋氏「本人を前に言うといい気にさせちゃうけど、自分はポップ・アーティストとしての三峯徹を高く評価している。僕は、何十年か後には、三峯徹は日本のアウトサイダーアートの第一人者になると思う。誉め過ぎちゃダメだけど。
 ウィキペディアにあった『三峯徹』の項目を削除した奴は正直許せない。分野がハガキ投稿というだけで、やっていることはアート。削除理由で経済効果がないとかいうが、ウィキペディアの項目には(経済効果の少ない人は)いっぱいいる。それに自分は三峯Tシャツを作った。Vipperどもよりよっぽどすごいのに」

 ちなみに、浦嶋氏が削除されたことを怒っているWikipediaの「三峯徹」の項目ですが、そのページを画像に取り込んだものが小生のHDD中から発掘されましたので、以下に掲げます。この画像はクリックすると元の大きさになります。
f0030574_3453620.jpg
 ファイルのプロパティによると、この画像は2007年3月28日に取得されたもののようです。何でわざわざWebページを画像にして取り込んだのかといえば、この記事で「みつみね」という所を強調する細工をしたかったからでしょうね。それが思わぬ文化的遺産?になったわけで。

 この他、三峯画伯に惚れ込んで芸名もそこから一文字取ったらしい?AV女優・峰なゆかが、自分のブログで三峯画伯のことを熱く語っていた(リンク先はアダルトコンテンツに類するものもあるので諒解の上ご利用下さい)という件なども話題に上りました。
 しかしなにぶんゲストが大勢なもので、三峯画伯のトークは大体この辺で終了。その後、田中圭一氏やふくしま政美先生などのさらなる大物ゲストがご登場され、阿佐ヶ谷ロフトは混沌の度を加えるのですが、そのことはもう他日の記事に回させていただきます。この週末中には出来るかな・・・?

※追記:週末とは行きませんでしたが、続篇はこちらへどうぞ。

※更に追記(2010.10.16.):三峯画伯がなんと「タモリ倶楽部」に登場。その番組を見た感想などはこちらへ
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by bokukoui | 2008-12-04 23:57 | 漫画 | Trackback | Comments(4)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・坤

 講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・乾巻の続きです。
 完成まで、イタリア艦の如く時間がかかってしまい済みません。いろいろ忙しかったりなんだかんだしたもので・・・。

 本題に入ります。
 最後の講演である髙木さんの講演「『金剛型』機関部詳解・余談」も、三番目の大塚さん同様『決定版 金剛型戦艦』の内容に基づいており、これは大塚さんのお話以上に図がなくては理解できず、しかもレジュメの図面だけではなく、黒板に自ら図面を描いてのご説明もありました。ところが小生、この時爾後の打ち合わせや看板類の撤収などで席を外していた時間もあり、申し訳ないことですが、ますますメモが取れておりません。講演会後の打ち上げで伺った「なぜドイツの蒸気機関車はダメか」というお話なら、メモがなくても書けそうなんですが(笑)。やはり燃焼室がないと燃 / 萌えませんね。
 というわけで、ますます断片的な形で恐縮ですが、すくなくとも『金剛型戦艦』の髙木さんの記事の訂正箇所は以下に略述しておきたいと思います。詳しくは『金剛型戦艦』や髙木さんのサイトをご参照下さい。

 で、壇上に登場した髙木さん、まずは自著の宣伝。

『日本軍艦写真集』(光人社)

 これは髙木さんの長年のコレクションを本にしたものですね。小生も見たことがありますが、大変綺麗で見応えも資料性もある写真集です。買ったわけじゃないけど・・・

 で、これはいいんですが、もう一冊の宣伝はなぜか軍艦ではなくて鉄道の本。

『幻の国鉄車両』(JTB)

 題名だけ見ると、最近はやりの国鉄懐古で、団塊の世代当たりのノスタルジーに便乗した本みたいですが、著者の面々、石井幸孝・岡田誠一・小野田滋・齋藤晃・沢柳健一・杉田肇・髙木宏之・寺田貞夫・福原俊一・星晃というお名前を見れば、安心してお薦めできる本といえそうです。済みません、そんな本が出たことをこの日まで知りませんでしたが・・・

 そして、もう一冊は壇上で宣伝したのではなく、確か打ち上げの時に伺ったのだと思いますが、鉄道雑誌『Rail Magazine』の300号記念号に、髙木さんが十年ばかり前に書いた記事の増補改訂版「改稿 国鉄蒸気機関車発達史」が載っているそうで、正直RM誌があまり好きではない小生ですが、リアル工房の時分に髙木さんの前稿で日本の蒸気機関車の歴史を理解した(それまでにも断片的な情報やトピック的な通史は読んだことがあったが、髙木さんの記事は practice(手法体系)という概念を持ち込むことで、明快な筋を通した通史を示していた)身としては、買わずばなりますまい。資金の都合でまだ買ってませんが・・・

 話が逸れまくりましたが、本業鉄道趣味者としては、髙木さん=蒸機の人なので、ご勘弁下さい。
 『決定版 金剛型戦艦』の訂正補足としては、
・p.146:タイガーとリナウン級の図面が間違い。正しくは以下の通り(レジュメを取り込むのは控えていましたが、この場合は構わないだろうと考え以下に紹介します。クリックすると図は拡大表示します)。
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 正しくは翼軸が直結タービン中圧(I)、内軸が直結タービン高圧(H)・低圧(L)。
・p.152:タイガーの後部2砲塔は当初背負式の計画であったが、Y砲塔直後に後部魚雷発射管室を設けたことにより、弾薬庫が前に寄り推進軸と干渉するため、第3砲塔を機械室の前に移した。
・p.153:リナウン級の缶圧はタイガーではなく金剛と同一。
・p.156:出力が同じ時は、速力の3乗が排水量の2/3乗に反比例。榛名の第2次改装時期は1933年8月~翌年9月。
 また、練習戦艦化された比叡は、ロンドン条約の制限に従って最大速力18ノット、出力1万3800軸馬力と公表されていたが、実際は缶の性能から3万9700軸馬力程度と推算される。練習戦艦時代の基準排水量は1万9500トンだが、長さと幅の比が近似している英巡戦インディファティガブル排水量1万8750トン、4万3000軸馬力で25.79ノット出していることから、その速力は24.5~25.0ノットと推算される。
・p.157:タービンと減速装置の重量は、1軸当たりではなく4軸合計で439トン。
・p.158:第2次改装後の金剛の過負荷全力(10.5/10)公試の結果は、排水量3万6860トンの時、14万3691軸馬力で30.48ノット。また不明だった第2次改装後の金剛のタービン初圧は、17kg/cm2 と判明。

 盛りだくさんなトピック中から、メモが残っていたものを一つご紹介。それは、「なぜ日本海軍はイギリスに戦艦ではなく装甲巡洋艦(巡洋戦艦)を発注したのか?」という点です。
 黒板に表を書かれて説明されたのですが、かいつまんで言えば、砲の製造技術の導入という点では戦艦でも装甲巡(巡戦)でも同じ、装甲については戦艦の方がより技術を得られるが、機関については戦艦:4万馬力vs.巡戦:7万馬力で巡戦に分があり、お値段は巡戦が安い、ということで、トータルで巡戦が選ばれたのだろう、とのご指摘でした。

 随分時間も押して、髙木さんの講演はまだいろいろ話題を積み残したまま終わらざるを得ませんでした。今回最大の反省点です。

 そして全体の質疑応答に移る前に、平賀文書の整理とデータベース化、そして「平賀譲デジタルアーカイブ」開設の中心となった、そして平賀文書を駆使して『近代日本の軍産学複合体 海軍・重工業界・大学(創文社)をまとめられた畑野勇先生が急遽登壇され、告知をされました。
 それは、呉市海事博物館、といってもピンと来ない方が多いかも知れませんが(笑)、大和ミュージアムの第2回特別展として、「軍艦設計の天才 平賀譲 ―戦艦大和への道をひらいた東大総長―」という展示を来月から明年2月まで行うということ、そしてそれに合わせて、来月19日に『平賀譲 名軍艦デザイナーの足跡をたどるという図録が文春から出るというお話でした。
 畑野先生は図録のゲラまで見本にご持参下さり、来場者に閲覧の機会を下さいました。まこと、感謝の念に堪えません。

 そして質疑応答の時間になります。個別の質疑をはしょらざるを得なかった大塚・髙木講演を中心に、広く質問を募ります。以下に概要を(メモし損ねた質問があり、すべてではありません)。

・大塚氏へ、金剛建造時に主砲用の水圧機が3機しかなかったのはなぜか。斉発する気がなかったのか、予算上の問題か。
→当時はあまり斉発を考えなかった。ライオンも最初は水圧機が少なく、その後改装して積み増した。費用の問題もあった。結局、水圧はやめて空気圧にした。

・大塚氏へ、改装して空気圧にしたというが、ドイツ艦は昔から空気圧を使っていた。その影響はあるのか。
→直接の資料はないが、ドイツの資料が1920年代に入って日本で研究されていることは確か。影響は考えられるが、状況証拠しかない。

・大塚氏へ、金剛級により、それまでより排水量が50%も増えた艦を日本で作ることになったわけだが、それによる問題はなかったのか。
→船体も機関も大幅増強なので、まずヴィッカーズに注文した。主要部品をみな買ってきて、最初に日本で作った比叡は、4隻中最も調子が悪く、艦隊での評判も悪かった。そこで民間造船所(技術が不安)で作る榛名と霧島は、設計を変更して作りやすくした。この2隻は評判が良く、海軍の資料でも「金剛級の榛名型 / 霧島型」という言い方がされることもある。

・小高氏へ、金剛代艦の艦政本部案は主砲の前に副砲塔があり、主砲との間にブラストスクリーンのようなものが描かれている。この辺りはどうなっているのか。副砲は後ろが開放されているのか、ちゃんとした砲塔なのか。
→副砲は、後部も閉鎖したちゃんとした砲塔と考えられる。
(大塚氏より補足)→砲塔の上の装甲は薄いので、実際に作ったら砲塔内の衝撃が激しいと思われる。最上級でそのような例があった。

 と、一通り質問が出たところで、質問ではないのだが一言、と登壇されたのが、軍艦関係の著作も多い斯界のベテラン・阿部安雄さんでした。阿部さんはこの機会に是非、と思いがけない秘話を語られます。

 先程も話題に出た大和ミュージアムには、金剛が建造当時に積んでいたボイラーが展示されています(英国製のヤーロー缶)。これは第1次改装の際に降ろされ、その後重油専燃に改造されて陸上で海軍の技術研究所の暖房用ボイラーとして使われていました。戦後になっても、やはり金属技術研究所や防衛庁施設の暖房に使われ続けました。しかし研究所を移転することになり、目黒区が跡地を公園にするというので、このボイラーも撤去することになりました。
 さてその頃、大和ミュージアムの開設作業が行われていました。その際、「旧海軍関係のものなら何でも集めよう」派と、「呉の施設なんだから呉関係のものだけでいいよ」派との間で、時として意見対立があったそうです。今では大和ミュージアムが好調なもので予算も付き、「何でも集めよう」ということになっているそうですが。そして設立委員の一人であった阿部さんは、貴重な旧海軍の遺産であるこのボイラーを、何とか集めたいと考えておられました。
 そんなある日、朝日新聞の記者がボイラーのことを聞きつけて、取材したいと申し入れてきました。そこで造機屋の阿部さんが、記者についてボイラーを見に行くことになりました。見に行ったところ、改造されていてもこれは金剛建造時のボイラーということはすぐ分かったそうです。金剛のボイラーは2度積み替えられていますが、第2次改造で積まれたものは台湾海峡の海底に眠っているわけですから、区別自体はそれほど難しい話ではないでしょう。
 しかし、阿部さんはここで考えます。建造時のボイラーということはイギリス製で呉とは直接関係ない。とすると、保存の予算が付かないかも知れない。第1次改装後に積まれたボイラーとなれば、呉製だからこれは予算が付くだろう。そこで阿部さんは、新聞記事に「ボイラーの製造時期は不明」と書くよう、新聞記者に頼み込んだそうです。そして記者もそれを受け入れ、朝日新聞にこのボイラーのことが結構な紙面を割いて紹介されたそうですが、そこでは「製造時期不明」と書かれたのだとか。
 かくして、このボイラーはめでたく大和ミュージアムに保存展示されることになりました。もちろん展示の際は、ちゃんと「このボイラーは調査の結果、金剛建造時のものと分かりました」と解説を付けました。
 ところが阿部さん曰く、いくつかの書物で朝日新聞の記事を元に、「大和ミュージアムの金剛のボイラーは製造時期不明」と書いているものがあるそうです。そこで、この機会に本当のいきさつを話し、製造時期不明という間違いを訂正しておきたい、とのことでした。

 この秘話に、会場が大いに感動して、阿部さんに盛大な拍手を送ったことは言うまでもありません。そして、確かこの講演会の案内にも使った金剛の絵を描いて下さった fismajar さんだったと思うのですが、阿部さんにこの話はオフレコなのか公にして良いのかと質問されたところ、間違いを正すために広めて良いという趣旨のお答えだったと思いますので、ここに特に書いた次第です。
 こうして、最後の最後に、まさに運営側もサプライズなイベントが起こり、講演会は終了しました。
 
 運営の一端に関わった者として、このイベントはお陰様で成功裏に終わり、意義も大きかったと思います。
 小生が平賀文書アーカイブの構想や、畑野先生のご研究について知ったのは2年半前の学会がきっかけでしたが、その後アーカイブが一般公開され、駒場キャンパスで「平賀譲とその時代展」と講演会が開かれるなど、その成果が次第に広く知られるようになってきました。そして、今回の講演会がそもそも実現したのも、「平賀譲とその時代展」講演会場で偶然再会したことで、しばらく縁が切れていたじゃむ猫さん髙木さん「三脚檣」の方々との交流が復活したということが伏線にありました。
 いわば、学問的研究の成果が在野の研究者、趣味者、マニアの人々を刺激し、このようなイベントが実現したわけです。そして、在野でも面白い情報や理論を抱えている人々が、今度はその成果を学問的な貢献につなげることも出来るかも知れない、そういう循環が出来れば大変有意義であろうと思います。
 ちなみに東大には、日本史上最大の新聞雑誌マニアが蒐集した、新聞や雑誌のコレクションを、法学部の教授が認めて大学に所蔵したという話が実際にあります。そう、宮武外骨と吉野作造、そして明治新聞雑誌文庫ですね。

 最後の講演をされた髙木さんは、鉄道に関する自著を紹介する時に、「船も鉄道も好きな人を"両棲類"といいますが、自分もその一人で、今日は"両棲類"の大御所である青木栄一先生もお見えで・・・」と言っておられたかと思いますが、この趣味者の研究の厚みが学問的なそれに劣らない場合もある、ということを鉄道史の分野で以前から指摘されていたのが青木先生だったわけで、このことは当ブログでも以前書いたことがありました。で、鉄道がそうなら軍艦だって、と小生は思うわけです。
 今回の講演会が、そういった趣味と研究の循環のサイクルを作る一つのきっかけになれるかは分かりませんが、平賀文書のような膨大な資料群が公開され、多くの人が様々な形でそれにアプローチし、その成果を交換し合うという場が成立すれば、それは社会全般の教養の向上に繋がるのではないか、という希望は持っています。つまり、空幕長が史資料の読み方を全く知らずに「論文」を書いて、国民に国防の危機を憂慮させる、そんな事態が減るんじゃないかとは、期待しているわけで。
 今回は、畑野先生はじめ、他にも平賀文書整理に関係された先生方がお見えになりました。そもそも部屋を取る手続きを取って下さったのは、鈴木淳准教授です。ご協力下さった先生方に心より感謝すると共に、秘話を話して下さった阿部さんはじめ、"両棲類"大御所・青木先生、そして出版社やライターの方々も結構来ていたということで、聴衆の水準も高かった?こともまことに嬉しいことでした。
 実際、今回のイベントが良かったと小生が感じたのは、この手のイベントをすると必ず、質問タイムであんまり講演と関係ない自分語りを滔々と始めるお爺さんとかが現れるものなのですが(苦笑)、そういう「質問に見せかけた自分語り」な人が全くといっていいほどおらず、講演と質問とがよく噛み合っていたのは、良いことであったと感じました。

 とまあ、こんな話をはしょって、散会挨拶として壇上で小生がさせていただきました。せっかくの講演会の印象をぶちこわさなければ良かったと今にして思う次第です。いや、じゃむ猫さんの陰謀でなぜかそんなことになって。
 なお、じゃむ猫さんのブログに、この講演会の際に配布したアンケートの集計結果が載っていますので、ご興味のある方はご参照ください。50~60人程度の来場者で27通というアンケート回収率は、かなり高い方だと思います。

 以上、結局長くなったレポートですが、最後に改めて、講演者の皆さん、運営に携わった皆さん(印刷失敗して済みません)、ご協力下さった鈴木先生、そして聴衆の皆様に、心より御礼申し上げる次第です。

 え、次回の予定?

※2008.11.30.追記:書き間違いや舌足らずな箇所を修正しています。
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by bokukoui | 2008-11-28 22:47 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(1)

講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』レポ・乾

 先日来当ブログでも広報に努めていた講演会『巡洋戦艦「金剛」 技術的視点による再考』が昨日行われました。
 どれくらい来場者があるのか、事前にはあまり反応がなく予想がつかなかったのですが、蓋を開けてみれば60人近い方がご来場下さり、まずは盛況であったと思います。反省点としては、十分な時間配分が出来ず、各講演者の予定した話の内容をすべて伝えることが出来なかったということです。もちろん、各講演者の方がそれだけ濃い内容のお話をして下さったということなのですが。
 というわけで、この講演会の簡単なレポートを綴ってみようと思います。簡単というのは、今回小生は講演会運営の手伝いを少々やっていた関係上、出たり入ったりして完全にメモを取っている訳でもないからです。また、そもそも話の内容から言って図面がなければ理解が難しく、しかし講演者の方の作成したレジュメの図面を勝手にここで公開することも礼儀にかなったことではないと思いますし、講演自体の録音運営団体側でされていたので、詳細なまとめなどはそちらを元にどこかでとりまとめられることもあるでしょう。ので、ごくあっさりしたものですが、以下に総括を。
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会場の案内看板

 写真は何枚か撮ったのですが、どれもこれもこの日のは出来映えがいまいちで、せっかくの看板の画像が不鮮明になってしまいました。案内看板の絵は、「恍惚したいモナカ」のfismajar さんの描かれた金剛(新造時)の絵を使わせていただいております。写真はあれな写りですが、元の画像はfismajar さんのブログに掲載されているので、是非こちらをご覧下さい。
 会場の入りは上にも書いたように、50人を超えていました。教室の定員が88人でしたので、結構埋まった感じでした。
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教室の状況(肖像権を考慮してわざと小さくしております)

 まず最初に、今回の講演会の「首謀者」である「東江戸川工廠」のじゃむ猫さんが開式の挨拶を述べられます。

 最初の講演は小高まさとしさんの「平賀文書に見る金剛代艦の考察」です。ワシントン軍縮条約で主力艦建造が停止されましたが、建造以来20年経った艦については代替艦の建造が認められていたので、当時在籍中の日本の主力艦中一番古い金剛の代艦が構想されたわけです。この金剛代艦について、当時海軍軍艦建造の一線を離れていた平賀譲の案と、海軍の艦政本部の案とを、「平賀文書」はじめとする資料の活用によって比較検討するのが、小高さんの講演の趣旨です。
 その詳細を図面なしで纏めるのは苦しいので、ここではごく荒っぽく小高さんのまとめのみ紹介しておきますと、艦政本部案も平賀の案も運用側の要望や第1次大戦の戦訓を考慮しているが、平賀案はイギリス式設計の延長線上にあるのに対し、艦政本部案はドイツの影響があるのではないか、とのご指摘でした。両者は逆のアプローチをしている(艦本:船殻を溶接や軽金属で軽量化、全体を広くドイツ式に防御vs.平賀:船殻は必要な重量を割り当て、徹底して集中防御)のですが、結果的には同じような性能を達成しています。
 これは、英国式を磨き上げた単純確実な平賀←→ドイツの技術を接ぎ木しようとした革新的な藤本喜久雄、というほど単純な対比ではなく、日英同盟廃棄以後、どこから技術導入を行うのかという戦略的な問題を反映したものであったと解釈すべきことと小高さんは指摘されています。そして当時の日本海軍はどちらにするか決められず、そうこうしているうちにロンドン条約で金剛代艦は廃案になってしまったのでした。

 ついで質疑応答。

・船殻重量と装甲重量の比率から、艦本案をドイツ系と規定していたが(註:35000トン級戦艦の場合、平賀案は船殻に1万トンを必要とし、装甲に1/3程度にするのに対し、艦本案は軽量化で船殻を9000トンに絞って装甲重量に4割程度充てている)、船殻と防御重量とはどう区別するか。
→艦によるが、主力艦の舷側装甲は構造に寄与しない。軽艦艇はそうではない場合もあるが、構造か装甲かは恣意的に変えられるものではない。

・金剛代艦と同時期に、妙高級や最上級を建造している。それと艦本案との影響はないのか。
→高雄級は艦本案に近い性格を持っている。最上級は構想と実現したものとの乖離が大きく評価が難しい。

・艦本案は色々なところから色々な要素を持ってきてはいるが、結局は英国流ではないか。むしろ第1次大戦の戦訓は副砲など違うところにあるのではないか。
→広くヨーロッパ諸国の手法を咀嚼しようとしていたと考える。

・平賀案は喫水線下を軽巡並に極めて絞っているが、これをどう評価するか。
→平賀案が速力に気を使っていることは確か。中速戦艦中では高めを狙っている。しかし、本格的な高速戦艦を目指しているわけではない。

・連装と三連装の異種砲塔混載を平賀はいとわなかったというが、英国の戦艦ではその例はない。これは平賀の独創か、何かから考えたのか。
→平賀の混載案の最初は陸奥変態案。実現しなくても混載案自体は英国はじめ各国にあった。

・小高氏の示した平賀案の各時代の図面を見ると、兵装などは変わっているが、艦首は八八艦隊と同じように見える。これは案なのでラフに慣れた調子で描いたのか、本当に同じように造るつもりだったのか。
→もちろん実際に造る際はブラッシュアップしただろうが、平賀はそもそも艦首波の影響などにはわりと無頓着。藤本は気を使っている。

 小高さんの講演は(他の方もそうだったのですが)、内容盛りだくさんで時間内に収まりきらず、この時点で既に押し気味。

 ついで、新見志郎さんの講演「金剛と英国の姉妹たち」です。
 新見さんのこの講演は、サイト「三脚檣」で以前掲載された「ライバル・他人の空似」をベースとした内容です。金剛のモデルとされる英国の巡洋戦艦ライオン級、その一つ前のインディファティガブル級、金剛の影響を受けたとされる英巡戦タイガーとの関係を検討します。
 これは図や写真の一部は上掲サイトでも見られますので、そちらを参照していただければある程度雰囲気はお分かりいただけようかと思います。12インチ砲塔を梯形配置していたインディファティガブル級から、13.5インチ砲塔を中央線上に並べていたライオン級は大きく飛躍したように見えますが(排水量4割増)、完成当時の姿(前三脚檣を第1煙突の後に立てていたが、排煙でマスト上の指揮所がえらいことになって改装された)や、艦内の構造(なぜか第3砲塔の弾薬庫が右舷に偏っている)を見ると、ライオン級は実はインディファティガブル級の影響を色濃く残していると考えられるということです。建造時期も半年しか違わないのでした。
 金剛は、ライオン級を参考にしつつも、トルコ向けの戦艦レシャディエ(のち英国が接収してエリンとなる)に倣ったところが大きいといわれ、一方タイガーはライオン級の前級を引き継いでいたところを洗練改良したものといえます。ライオン級の第3砲塔に後方射界がないのは、前級の影響によるものと同時に、英国海軍は伝統的に前方射界を重視するものの後方射界はあまり重視していなかった事情もあるようです。タイガーがこの点を改良したのは、金剛の影響ばかりとはいえないようですが、仮に金剛がなければ、第3砲塔後の広いスペースにマストくらい建てたかもしれない、とのご指摘がありました。
 第3砲塔の後に広いスペースがあるのは金剛とタイガーの共通点(この部分の艦内には機関室がある)ですが、これは真似したというより、弾薬庫スペースを軸路で制限されないで済むとか、推進軸の長さが短くて済むなどのメリットからと考えられるとのことです。実際タイガーには当初、後部2砲塔を背負式にする案もあったそうです。また金剛の後部2砲塔は、バーベットが妙に高く、タイガーとその点は異なっているようです。
 まとめれば、当初は装甲巡洋艦として造られた最初の巡洋戦艦インヴィンシブル級からライオン級まではひとつながりの設計思想上にあり、金剛以降が準戦艦的な巡洋戦艦に洗練されたのではないか、ということでした。

 新見さんの講演に寄せられた質疑応答は以下の通り。

・煙突の配置について伺いたい。
→原則、英艦は煙突を一ヶ所にまとめるが、舷側に砲塔を配置している艦はボイラーと機関室を分離した配置となり、煙突も分離して配置される。中央線上に砲塔を揃えた艦は普通煙突を一ヶ所に集めるもので、英艦ではライオン級のみ例外。

・金剛の後部砲塔のバーベットが高いという話だが、それは前後の砲塔の高さを揃えて斉射する際の命中精度を上げようとしたのか?
→それはないと思う。その程度ではさほど精度に影響はない。

・マストの前に煙突を立てて、指揮所が排煙や熱で大変ということはドレッドノートで既にあった事例の筈。それを何でライオン級で繰り返したのか。
→マストをあのようにした直接の理由は、ボートのデリックポストを兼ねるため。それまでの事例では我慢できる程度だったが、ライオン級では遂に耐えられないほど酷かった。

 三番目は大塚好古さんの「金剛型建造ドキュメント余話」です。これは、講演の案内の方に紹介してありますが、学研の『決定版 金剛型戦艦』の記事をベースに行われたものなので、該書なくして説明するのはなかなか難しいところです。大塚さんは今回の講演者の中では一番こういうことにお慣れだったのか? 軽妙な語り口で聴衆に笑いのこぼれる場面もありましたが、こういうのを文字で伝えるのはいよいよ以って難しいですね。レジュメの枚数は多く、大塚さんは最初から「町内会の寄り合いと同じで、時間がかかりそうだったら『あとは読んでおいて下さい』という予定」と仰ってまして、実際にその通りになってましたし。
 というわけで、小生が面白いと思ったトピックを、適当に幾つか紹介させていただきます。

・金剛の試案の資料は英国のものに拠っているが、それは日本側の話があまり信用できないから。
・金剛が当初12インチ砲艦として計画された理由は、14インチ砲が時期尚早という他に、艦形を小さくして経費を安く上げるということもあった。
・14インチにしたのは駐英武官加藤寛治少佐が砲撃試験の結果を手に入れたためといわれるが、ヴィッカーズ社の売り込みもあった。15インチにしなかったのは時間がかかるせいだという。しかしもしかすると、英海軍の15インチは「42口径14インチ砲」の秘匿名で開発されていたが、ヴィッカーズが「42口径よりウチの45口径14インチの方がいいですよ」とだまくらかした?
・金剛の装薬庫と弾薬庫の配置は当時の英艦と逆で、装薬庫が下にある。これは艦の大型化で火薬庫の上部が水線上に露出して注水に不便になったのと、大落角弾への防御による。その後第1次大戦が始まって、機雷による沈没艦が相次いだため、伊勢級ではこれを逆にしたが、ジャットランド海戦の教訓から元に戻った。英艦も逆にした。
・国産化された艦のうち、最初の比叡は細かい不具合が多くて評判が良くなく(のち練習戦艦にされる)、榛名の出来映えが一番良かった。
・兵員区画の一人宛面積を拡大したのは長門級からだと『金剛型戦艦』に書いたが、実際には扶桑級からで、これは間違いだった。伊勢で面積が植民地サイズに戻り、長門でまた大きくなった。
・金剛級の主砲用水圧機は3基しかなく、英艦の5基(含予備)より少ない。そのため主砲の連続斉射が困難であった(当初は交互発射が基本だった)。しかしこれが後に不満の元となり、訓練では過負荷で連続斉射したこともあったが、すると水圧の配管が水漏れを起こす。結局空気圧に改装された。
・斉射を求めたのは、遠距離砲戦時の命中弾が期待できるだけの門数を確保するため。これにより、10門以上装備することにこだわる必要がなくなった。
・改装では防御も強化されたが、その際艦隊側では、上部装甲帯を外して水平装甲を強化して欲しい、「姑息なる薄鋼鈑」はかえって徹甲弾の内部爆発を誘う、非防御の方が当たっても抜けるだけ、と集中防御大万歳。一方造船側は、弾片などでも様々な被害の恐れはあり、排水量制限などの条件がなければ、集中防御はあまり好まなかった。結局は造船側の意見が通る。

 他にも色々あったのですが、紹介しきれないのが残念です。
 講演自体の時間も足りず、質疑応答は最後に回すことにして、引き続きサイト「蒸気推進研究所」「機関車技術研究会」を運営する髙木さんの講演に。

 ですが、記事が長すぎて一つに入りきらないので、以下の続きはレポ・坤巻に。
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by bokukoui | 2008-11-24 23:24 | 歴史雑談 | Trackback(2) | Comments(2)

「象の鼻パーク」の転車台と軌道跡見学記

 先週の記事で紹介した、横浜港の「象の鼻地区」の「港の貨物線の鉄軌道及び転車台」を見てきました。以下にその見学記を(※この記事以外に、続篇もありますのでそちらもどうぞ)。

 この日は畏友たんび氏(氏も鉄道趣味者で、かつ貨物線に少なからぬ関心を抱いておられます)を誘って横浜に赴きました。
 13時からの見学会の前に、まず後述のG氏に教えていただいた、山下公園で開催中のインド関係フェスティバル「ディワリ・イン・ヨコハマ」を覗き、カレーなど食します。一番怪しそうな店にしよう、と二人の意見が一致し、そして同じ店を選定したのは慶賀の至り。
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まだ開場後まもなく、比較的空いている「ディワリ・イン・ヨコハマ」

 早い時間でまだ空いていたのがもっけの幸いでした。昼間からインドビール試飲の誘惑に駆られますが、後のイベントとおのが体型を考慮して踏みとどまります。揚げパンのようなもの(名前失念)がなかなか美味しゅうございました。
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マリンタワーは改修中、天気はやや雲が多く残念

 やがて昼が近くなり、家族連れなどで次第に混み始めました。我々は次なる目的地に向かいますが、その途中山下公園では海中のゴミをダイバーが拾うというイベントをやっておりました。
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氷川丸を背景に集合するダイバーの方々

 我々が次に向かったのは、これは小生が大学に張ってあったポスターで知ったのですが、26日まで開催している横浜開港資料館の展示です。名前が売り飛ばされなくて良かった良かった。
 で、開港資料館の展示は「白船来航」と題し、今からちょうど百年前の1908年10月に、世界一周航海の途中日本に来航したアメリカ艦隊(艦隊を白く塗っていたので「白船」と呼ばれた)に関する資料を展示しています。これはアメリカ海軍力の伸長を世界にアピールする意図があり、日露戦争に勝利した日本への示威も目的ではあったのですが、いざ来航してみれば日本では大歓迎のお祭り騒ぎだった、という件。確かに、「こんなものまで!」という記念品、おみやげの類には目を見張ります。
 鉄道趣味者的には、アメリカ海軍軍人向けの乗車券などが目を惹きますが、これは鉄道国有化から鉄道院発足までのごく短期しか存在しなかった官庁、帝国鉄道庁発行になっているのが珍しいところです。当時のマスコミがアメリカ艦の写真を載せ、また絵はがき(当時の有力広報メディア)になったものも展示されていました。軍艦好きとしては、この頃は弩級艦の由来であるドレッドノートが完成したばかりの頃で、弩級艦以前の味わい深い艦形の戦艦やら装甲巡洋艦やら、それを出迎えた日本艦隊ともども見ていて楽しいものです。

 見ているうちに見学会の時間が迫ってきたので、残念ながらそこそこで打ち切って出ます。会場は既に開いていて、人が入っている様子です(後で聞いた話では、時間前に人が集まってきたので、早めに開けたそうです)。
 たんび氏と小生は「何人ぐらい来ますかね」「30人くらいじゃないですか」「4、50人は来るのでは」などと会話しながら会場に入りましたが、自分たちの見方の甘さを思い知らされました。
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見学会の解説に集まった人々(の、一部)

 100人以上来ていたことは確かに思われます。自分のことは棚に上げて、何でこんなマニアックで渋いものを見にこれだけの人が集まったのかと驚きました。流石にお年を召した男性の方が多かったのですが、女性の姿もあり、あまつさえ若い女性やカップルまでいたのは、やはり観光地である横浜ならでは、なのでしょうか。普通カップルでいきなりこんな所に連れてきたら、別れ話ものと思いますが・・・

 閑話休題、解説は、まず港湾局の方が出てこられ、ついで講師の堀氏と米山氏(この本で星晃氏にインタビューしてた人)が、港湾の歴史および鉄道の歴史の観点から解説を加え、その後かなり活発な質問が出されました。15分の予定とありましたが、30分はかかったと思います。
 この場所で、小生は旧知の軍艦マニアの方々に久しぶりにお会いしました。「三脚檣」のNさんとGさんです。技術と歴史に途方もなく詳しい方々で、この方々と色々お話を伺ったことで、自分一人で見に来たのでは気がつかなかったであろう多くの知見を得ることができました。

 話が先走りました。
 解説の内容を適宜織り交ぜつつ、軍艦マニア両氏の見解を参考にさせていただいて、肝心の物について説明しましょう。以下の写真はクリックすると拡大表示します。
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転車台と軌道跡 写真奥が海側

 これは、横浜港で明治から大正時代にかけて使われていた、港の荷役用の軌道と転車台(当時は旋車盤とか言っていたらしい)です。明治20年代に建設され、今回発掘された軌道と転車台は、税関の海側に面した位置のものでした。これらの施設は関東大震災で被害を受け、震災によって出た瓦礫で埋められてしまいました(転車台や軌道の周りに転がっている煉瓦の欠片は、その瓦礫のようです)。その上に戦後倉庫が建てられ(倉庫の上屋は霞ヶ関の海軍航空隊で格納庫として使っていたものを転用したのだとか)、最近まで倉庫用地となっていました。それが、再開発でこの辺り一帯を公園化することになり、倉庫を撤去して土地を整備していたところ掘り当てた、という経緯になります。以下に見学会で配られていたチラシを載せておきます。
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配付された資料 地図と写真に注目

 この軌道は、ゲージ(レール同士の間隔)が3フィート6インチ、1067ミリあって、JRはじめ日本で一般的な線路と同じ規格です。当初は孤立した港の中の軌道でしたが、後に港が拡張されると貨物線と接続したそうです。
 一方、転車台の直径は8フィート、約2.4メートルほどで、蒸気機関車を方向転換させるものと比べるとごく小さなものです。上のチラシで、トロッコらしきものが写っている写真が載っていますが、このような人力で押す小型の車輌を、荷役用に使っていたのだろう、ということです。ポイントでなく転車台なのは、場所の節約の他、手で押す車輌の場合はカーブがあると抵抗が増して押すのが大変なので、なるべく直線で軌道網を構成しようとしたためではないか、との米山氏の説明でした。この地域には40箇所以上も、このような転車台があったそうです。技術的には、このような貨車用の転車台はイギリスで多く見られるとのこと。
 現在のところ、転車台の天板(正式にはなんと呼べばいいのか分からないのですが、鉄で出来た円盤の部分をこう呼ぶことにします)やレールのメーカーは分からないそうです。工事を発注する広告はあるそうですが、レールなどは今後調査してロールマークがあれば・・・との由。明治20年代ではまだレールの国産化は始まっていませんから、輸入なのは確かでしょうが、一体どこから輸入したんでしょうね。
 ところで、上の地図によれば、この附近にはまだまだ線路も転車台もあるはず。今後さらなる発掘は行われるのでしょうか。これ以上見つかっても困る、というのが当局の本音かも知れませんが・・・

 さて、今日の見学会では、ご丁寧に転車台の天板を載せた状態の、外した状態と、両方の形を見せてくれていました。より細部に迫って見てみましょう。
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転車台(一番海側のもの)

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転車台の天板を外したピット

 転車台の構造は、井戸のような丸いピットを掘って、周りを煉瓦で固め、縁を石で囲っています。真ん中に軸が付き出していて、ピットの中の肩の部分に8つの滑車が置かれています。この上に天板が載っているわけです。縁石には、天板を固定するための金具を差し込む穴が設けられています。
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転車台の天板

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転車台の天板 側面から(腕と軸受に注目)

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天板を支える車輪(やや縁石が崩れた箇所から撮影)

 転車台の天板には車輪を通すための溝が刻まれ、真ん中にはマンホールがあります。横から見ると、天板の下面には斜めに腕が取り付けられ、軸受らしき部品が腕の先に取り付けられています。
 回すためのハンドルなどはなさそうで、載せた貨車そのものを押して回転させたのでしょう。

 軍艦マニアの方々に色々お話を伺いましたが、まず話題になったのが、何で穴なんか掘ってあるのだろう? ということでした。肩の滑車で天板の重量を受け、真ん中の軸は中心を出す役割だけを持っているのだろう、と考えられますが、なぜ穴をこんなに深く掘ったのでしょうか。軸を据え付ける面も、滑車と同じ高さで構わなさそうです。
 ピットは煉瓦が10段は積んであって、かつ縁石がありますので、深さは70~80センチくらいありそうです。この転車台や軌道の水準は、横浜港の満潮時水面から69センチしかなく(この一帯を公園として整備する際は、海面から3メートル以上の高さにするそうです)、台風で高潮の時満潮が来て、海から風が吹いた日にはえらいことになりそうですが(震災以前はもうちょっと高かったのかもしれませんが)、なぜわざわざそうまでして穴を掘ったのでしょう。
 ここでN氏から出た意見としては、マンホールを設けていることからして、軸受や滑車に注油をする必要があり、その際の作業スペース確保のためではないか、ということでした。なるほど、注油の際にいちいち天板を持ち上げるのは、いかにも重くて大変そうです。しかしそれにしてはここまで穴を掘るのも大仰とも言えるかもしれません。

 この重そうな転車台の天板ですが、おそらくは鋳物で一体成形されているようです。勿論腕と軸受けはボルトでつないであるのでしょう。厚みは貨車を支える必要からかなり厚そうで、縁を見ると1インチくらいはあるのかなと思われます。
 これだけのものが当時の日本で国産できたのでしょうか? G氏のご意見では、イギリス辺りでこういった貨車転車台の規格があって、メーカーに注文すれば規格通り製作してくれたのではないか、との見立てでした。腕と軸受、ピットの複雑な構造も、海外の規格に理由があるのでは、とのお説でした。確かに、海外(特にイギリス植民地)との比較検討が、この転車台の意義の解明には必要でしょう。
 
 写真で分かるとおり、転車台に繋がるレールは、縁石から斜めに傾いてずり落ちているような感じになっています。
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縁石とレールの関係(海側から2番目の転車台)

 これは、おそらく元々枕木を敷いてレールを敷設していたのが、長い年月で枕木が朽ちて消滅し、支えがなくなって傾いたのだろう、との意見でした。この上によく無事に倉庫が載っかっていたものです。
 また、たんび氏が疑問として挙げられたのは、関東大震災で地盤が傾くなどしてこの軌道群が放棄され、転車台もろとも瓦礫で埋められたのは分かるが、何でその時レールや天板を外して屑鉄として再利用しなかったのか、ということでした(これはうろ覚えですが、震災直後は復興需要で屑鉄価格が高騰した筈)。確かに奇妙です。頑丈な天板だったから埋められて80余年を経ても大丈夫でしたが、或いは腐食してピットへ崩落して、地上が陥没ということもあり得たかも知れません。転車台をそのまま埋めた理由は、奈辺にあったのでしょう。

 さて、この倉庫跡地、昔の防波堤の形から「象の鼻パーク」と名付けられて公園となるのですが、この転車台跡地はどうするのでしょうか。米山氏曰く、汐留駅跡地でも同じような転車台の遺跡はあったが、天板が載っておらず、また場所から保存も叶わなかったとの由。市の方の説明では、何とか見える形で残したいということで、現在検討しているのは、転車台や軌道の水準が公園の水準より低いことを生かして、上にガラスのようなものを張って、広場として機能させつつ遺跡を見えるようにするということです。この遺跡が、見える形でそのまま保存されるのは大変喜ばしいことですね。来年6月2日は横浜開港150周年ということで、その日を期してここも公園としてグランド・オープンする予定だそうですが、それまでにそういった工事が完成するよう、期待しております。
 もっとも保存は遺跡活用の第一歩ともいうべきで、この正体や歴史的な意義などは、さらなる検証が必要でしょう。米山氏は、この軌道は国鉄の貨物線に繋がっていたことを強調し、「全国にこの軌道は繋がっていた」と説かれていました。しかし写真に写っていたトロッコの台車のようなものの運用では、全国に繋がっていたとは言えなさそうですね。国鉄の貨車は入れたのでしょうか。直径8フィートの天板に載るためには、軸距はそれより短くなければなりませんし、転車台同士がくっつき合っていることからして複線中心間隔は9フィートちょっとくらいしかなさそうです。小生は明治の貨車のことはよく知りませんが、確か阪神間開業時の小型客車の軸距が8フィートだったはず。明治の小型の貨車なら何とか・・・? 大正時代に放棄された理由も、もしかするとその辺にあるのかも知れません。

 とまあ、短い時間の見学で、小生は学会報告(の準備報告)の準備で忙しいためそのまま帰りましたが、なかなか充実した半日でした。特に、わざわざ転車台の天板を外して、ピットの中や天板の様子も分かるように展示してくれた港湾局関係者の皆様の配慮には頭が下がります。
 米山氏はこの転車台群と軌道を「重要文化財もの」と語っておられましたが、正直そこまでの価値が認められるかは疑問なしとしませんが、相応の保存と展示の措置が執られることを望みますし、またその方向にあることは喜ばしいことです。近代史が他の時代より圧倒的に重要な横浜ならではかも知れませんが、近代の遺産に光が当たることを、嬉しく思います。

※追記(2008.10.23.):この記事の補足情報を書きました。是非ご参照下さい。
 また、「転車台」「ターンテーブル」「天板」の使い分けがいい加減だったので、修正しました。

※更に追記:公園として整備・公開された状況は以下の記事をご参照下さい。
 「象の鼻パーク」の現況・転車台の保存状況を見る
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by bokukoui | 2008-10-19 17:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(2)

カレンダーを買いに日比谷公園に行く

 いろいろ忙しいのは当分変わりそうにないのですが、所用の合間を縫って表題のごとき買い出しを。
 とはつまり、この週末日比谷公園で行われている、鉄道フェスティバルを覗いてきた、ということです。

 イベントの内容はリンク先を参照していただければ宜しいのですが、各鉄道会社および関係企業がブースを出してなんぞ即売会などやっている、そんなところです。「鉄道の日(10月14日)」に近い週末に行われています。
 過去には何度か通った小生ですが、ここ数年は気力体力の低下に伴い足が遠のいておりました。しかし今日は他にも所用があって出かけたことから、事のついでと最近の「鉄道ブーム」の状況観察も兼ねて寄り道した次第。
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日比谷公園「鉄道フェスティバル」の模様

 午前中は雨も降ったあいにくの天気でしたが、かなり人出は出ているようです。客層は、おなじみ鉄道趣味者の他、ご老人・家族連れなどが多く、つまり例年と同じということですね。
 販売ブースだけでなく、例えば鉄建公団(名前変わったんだっけ)などの展示もありましたが、これも例年と同じです。今年は、英国に輸出した高速電車を中心に、海外に輸出した車両を紹介した「世界で活躍する日本の主な鉄道車両」というのが目立ちました。
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「世界で活躍する日本の主な鉄道車両」パネル

 いろいろ載っていて興味が湧きます。アメリカの通勤電車は日本製が多いんだなあなどと感慨にふけりますが、中国における「解放形」がないのが残念(古すぎ)
 一角のステージでは、「鉄道アイドル」木村裕子氏と、横見浩彦氏がトークショーをやっていました。横見氏は結構でかい人でした。
 大日本印刷、凸版印刷などのブースもあります。子供が群がっていたので覗きませんでしたが、どういう関係だったのでしょう。これらの企業は社史編集支援事業を行っており、鉄道会社の社史も手がけておりますが、それとは関係なさそうだし。

 数年ぶりに来たとはいえ、小生特に鉄道グッズの類には関心なく、地元の路線を取り上げたトレインシミュレーターはコンシューマー機専用で如何ともなしがたく、ただ実用的な目的から来年度のカレンダーを求めます。私鉄各社のブースが並ぶ一角はどこも賑わっていましたが、その中でもなぜか営団改め東京地下鉄が大行列でした。副都心線開通効果なのか、単に手際が悪かったのか。
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東京地下鉄ブースの大行列

 結局京急の卓上カレンダーを買いましたが、これは数年前にやはり買った覚えがあります。そのカレンダーを使っていた年は、論文にせよ報告にせよ割とうまく行った年のような気がしたので、まあ下らぬ縁起担ぎとは思いつつ。後で買った卓上カレンダーを見てみると、写真の出来やレパートリーに文句はないのですが、かつてのに記載されていた撮影地の情報がなくなったのがちょっと残念。

 結局他に買い物はしませんでした。
 この鉄道フェスティバルが、毎年定番行事となって賑わっていることは大変結構なことですが、やや毎年変わり映えしない感もちょっと抱いたので、私的改善案を思いつきました。まだまだ日比谷公園に場所はありそうなので、要するにブースをもっと広い範囲から募ればよいのではないかと。で、鉄道会社に関係団体、鉄道関係のコンテンツを扱う企業(今回はスカパー!のブースが目立った。木村裕子氏を呼んだのもここか?)、というこれまでの範疇と異なった主体を呼び込みましょう。
 というわけで、是非労働組合を。私鉄労連、JR総連、何はなくとも動労千葉。「闘争貫徹」鉢巻とかの公式グッズをそろえましょう。もちろんカンパ箱をでんと据え、釣銭はそこへ(笑)・・・なんてことを思いついたのは、なぜかその場にいたラーゲリ氏が「日比谷公園といえばデモ隊しか思いつきません」とのたもうていたから、でしょうか。労組の強力さは十分鉄道の特徴であると思いますが(除西武)。

 ヨタはともかく、阪神と阪急のブースが並んでいるのを見て、阪急阪神の百貨店と高島屋が経営統合で合意したという昨日のニュースを思い出しもしました。呉服店系の百貨店と電鉄系の百貨店が本格的経営統合、というのに時代を感じ・・・いや、東急百貨店が白木屋を乗っ取ったのは半世紀も前でしたっけ。そういえば昔、高島屋が難波駅ビルに入居した際、南海が高島屋の株を持ったという話をどこかで読んだ覚えがありますが、あれは今はどうなったのかな。
 昨今の経済の急展開の中で、私鉄各社も合従連衡の時代にまた入るかもしれません。アメリカの鉄道が大手4社(+カナダ2社)のほぼ独占体制になったほど、過激なことになるかは分かりませんが。
 ・・・話は更に逸れますが、アメリカの鉄道といえば、以前扱った、ファンドと揉めていた大手鉄道CSXの件はどうなったのでしょう。もはやファンド側もそれどころではないのかもしれません。こうなると日銭の入る鉄道業の方が強く確実?・・・アメリカの大手私鉄は1960年代頃から80年代頃まで、しょっちゅう倒産していたような気もしますが、まあ今なら多分。

 話が千々に乱れた割に、肝心のフェスティバルの紹介が不十分で申し訳ありません。
 このフェスティバルへの小生への関心がその程度だったということですが、しかし来週の日曜日に横浜港で行われるという鉄道の遺跡見学イベントの方は、諸事多忙とはいえ鉄道史やっている横浜市民としては万障繰り合わせて行く所存です。ご興味のある方々も是非。港が舞台なので、船に興味のある方にも向いているかもしれません。
 詳細は以下のリンク参照。(リンク先はpdf)

 象の鼻パークで発見された鉄軌道及び転車台見学会を実施します!

※追記:この見学会に行ってきました。記事はこちら
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by bokukoui | 2008-10-11 23:07 | 鉄道(その他) | Trackback | Comments(3)

「没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」&小池滋トーク@世田谷文学館

 所用の合間を縫って、世田谷文学館で今週末(連休明け)まで行われている展示没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」に先日行って来ました。で、この日行われていた、ヴィクトリア朝文学研究の日本の第一人者にして稀代の鉄道趣味者である小池滋先生のギャラリートークも聞いてきた次第。
 実のところ、ひねくれ鉄道趣味者の小生はあまり熱心な宮脇読者ではない(鉄道は乗るものだと思っていない)のですが、多少の興味は惹かれましたし、小池先生のトークもあるというので、時間をやりくりして出かけた次第。

 世田谷文学館に行ったのは初めてでした。なかなか立派な建物です。
 入場券を購入して企画展を見ますが、入場券がマルス発行の切符を模していて、なかなか愉快な工夫。凝っています。でも折角なら、国鉄時代の常備券風にした方が趣旨としては・・・? そういえばこの展示会のポスターも、交通公社の時刻表の表紙を意識したデザインでした。関係者に趣味の方がおられるのでしょうか。
 展示は、宮脇氏の編集者時代の業績から、鉄道紀行を執筆した際の諸々の資料・ノート類などがありまして、なかなか面白いものでした。初めての作品であった『時刻表2万キロ』で使われた(作品中でも記されている)、乗り潰した区間を赤でなぞった白地図があったのですが、これが驚いたことに、全線完乗後もずっと使われていたようでした。新線が開業するたびに書き足されて、累計の乗車済キロ数も増えていったのですが、国鉄末期の改革でローカル線廃止が始まってからは累計キロの計算をやめて、新線開通時にプラスの距離だけ書くようになっていました。時代の変化がわかりますね。
 で、この白地図、新線はJR東西線あたりまで書き込まれているのが驚きでした。物持ちがいいというか、最後まで原点を大事にしていたというべきなのか。

 総じて、緻密に物事を整理していくこと自体、宮脇氏は結構好きだったのかもしれません。時刻表を読み解くことを楽しみとしたり、編集者として活躍したりしたのも、その性向の表れ方の異なった側面だったのかもしれませんね。
 もっとも、鉄道趣味者が皆緻密で整理な人ばかりではありませんけど(自省)

 ギャラリートークにはおよそ100人もの来場者がありました。平均年齢は結構高く(国鉄黄金期に青春だったような・・・?)、女性は10人いたかどうか。
 小池滋先生のお話の内容をかいつまんで以下に述べますと、

・宮脇作品についてもっともよく言われることは、「一般の鉄道文学とどう違うのか」ということであるが、自分(小池先生)の答えとしては、紀行文学が空間移動の記録であるのに対し、宮脇文学は時間をも移動する、時間が主人公であるということ。

・自分がもっとも好きなのは『時刻表昭和史』。同書は「時刻表自分史」でもあるが、これは歴史の本である。しかし、それだけではなく、紀行文においても時間的移動がある。
 『時刻表2万キロ』でも、終戦の時の今泉駅の画出てきて、エピソードが出てきて、時間への「垂直の旅」へとのめり込んでいく。同書で全線乗り終えた足尾線の章でも、乗り終えてからタクシーで鉱山へ行き、坑夫の無縁仏の墓のことが出てくる。他の本でも、海外紀行でも同じ。
 過去へと遡る、時間の逆行が起きている。

・なぜ宮脇作品がそうなのか、直接聞いたことはない。宮脇は西洋史学科の出身だが、それは過去への関心の理由ではなく結果であろう。彼の中に、記憶の奥へと「垂直の旅」をしたいという欲求があったのではないか。
 ここから先は自分の勝手な想像であるが、宮脇は大正15(1926)年生まれで、数え年と昭和の年数が一致している。これがどこかに引っかかっているのではないか。昭和とともにある、自分の過去は同時に日本の過去である、という。

・20世紀の世界の文学の特徴は、主人公が人間から時間へと変わったこと。有名な例としてはプルーストの『失われた時を求めて』。(ここで立って、ホワイトボードに temps perdu と書く)
 これが20世紀文学の特徴。イギリス文学では、ウルフ『ダロウェイ夫人』を例にすれば、これは夫人が買い物に出かけながら次々と過去の追憶にふけるのだが、同時にビッグベンの鐘が鳴ることで現実の時間を表している。今動いている時間(現実、日常)と失われた時(過去、頭の中)とをどう接合するのか、それが20世紀の文学である。
 宮脇はこれを意識的に行っていた。時刻表が現実の時間を表す、『ダロウェイ夫人』の鐘の役割を担っていたのである。


 これも実に面白い視角と感じました。宮脇文学を評するのに、「鉄道紀行の代表」扱いして、内田百間・阿川弘之と並べておけばよし、というのが一般的な傾向で、この展示会の内容もその線に沿ったものでした(ちなみに展示によれば、阿川氏の鉄道エッセイ本が、宮脇氏の編集者としての最初の仕事だったとか)。しかるに小池先生は、宮脇文学を「20世紀の世界の文学」の中に位置づけて見せたわけで、その広い視角は、これまでに聞いた覚えのないものでした。世界の鉄道を乗っていた宮脇氏の作品を評するにも、そして「鉄道」という近代の重要な装置の意味を考える上でも、有意義な指摘と思います。

 その後、常設展も見ておきました。北杜夫作品に子供の頃なじんでいた(ので、宮脇氏のことを最初に読んだのは、『どくとるマンボウ途中下車』で、北氏を新幹線に乗せる編集者M氏として、ということになりますね)、そのあたりに特に注目して。
 一つ驚いたのは、大藪春彦が本名だと知ったことでした(パスポートが展示されていた)。何となく、特に「藪」の旧字のあたりに勝手にハードボイルドを感じていたもので。

※補足記事があります。こちらへ
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by bokukoui | 2008-09-08 15:49 | 鉄道(その他) | Trackback | Comments(6)

ロフト「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」レポ(2)

 新宿ロフトプラスワンで行われたパネルディスカッション「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」のレポの続きです。(1)はこちら。

(長いので以下はこちら)
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by bokukoui | 2008-08-01 23:59 | 出来事 | Trackback | Comments(0)

ロフト「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」レポ(1)

 新宿ロフトプラスワンにて、秋葉原通り魔事件についてのパネルディスカッションがあるというので、事件の現場に居合わせた者として、先月に同じロフトの阿佐ヶ谷でやはり行われたトークライブにも行きましたし、今回も何とか時間をやりくりして行ってみました。
 今回のイベントの主旨と参加者は、ロフトのサイトから書き写すとこんな感じです。
「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」

秋葉原通り魔事件は単なる半狂人による特殊な犯行ではない。宮崎勤幼女殺人事件、オウム事件、酒鬼薔薇事件と続くこの20年の社会の闇の部分──若者達の不満や怒りを見据えないと、事件の真相は見えてこない。『現実でも一人。ネットでも一人』という絶望的な状況で人は脱社会化するしかないのか?

【出演】宮台真司(社会学者)、東浩紀(哲学者/批評家)、切通理作(評論家)、雨宮処凛(作家)、月乃光司(こわれ者の祭典)、タダフジカ(ギタリスト)、他
【司会】藤井良樹(ルポライター)


(長いので以下に続く)
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by bokukoui | 2008-08-01 23:58 | 出来事 | Trackback(1) | Comments(4)

ウェルダン穂積氏主催アキバデモ見物記 及び「やまざき」氏との邂逅

 昨年とかく話題を呼んだ(『さよなら絶望先生』でもネタにされた)「秋葉原解放デモ」の続篇(もっとも聞いたところでは前回のデモの主催者側に話は通していないようですが)的な位置づけで、前回のデモ参加者であり先日の阿佐ヶ谷ロフトのイベントでもご活躍だったウェルダン穂積氏が、去る27日に秋葉原でデモを行いました。またこのデモに際し、当ブログコメント欄でもおなじみ・労働収容所組合氏が中心になって、前回デモのネット上での「ヲチャ」の一人としてご活躍だった「やまざき」氏(neodada 氏)を、今回のデモ視察と前回デモ主催の一人である革命的非モテ同盟・古澤克大書記長との会談(宴会)のために北海道から招いておりました。そんな関係で、小生も多少の見聞をしましたので、以下に簡単に写真など挙げて感想を述べたいと思います。

(写真などあって長いので以下はこちら)
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by bokukoui | 2008-07-30 23:57 | 出来事 | Trackback | Comments(3)