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お気楽アメリカ紀行(8)~プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I

 間が開きましたが、アメリカ旅行記の続きです。他の記事は以下を参照。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I(この記事です)
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 少し話は前後しますが、運転をK氏に交代して助手席でミシュランの地図を見ていた小生、グランドキャニオンからウィリアムズに至る沿道に思いがけない名前を見つけて吃驚します。Planes of Fame です。多少なりとも旧軍の飛行機に通じている方でしたら名前を聞いたことがあるかと思いますが、飛行可能な零式艦上戦闘機をはじめとする日本軍の飛行機を保有していることで有名な博物館です。行く途中にあるなら、ぜひとも見に行きたいところです。というわけで小生は、グランドキャニオンからの帰りにここに寄ることを急遽主張した次第でした。どうも後になってついてきた割に、一番好き勝手に行程を決めているような(苦笑)
 しかし、ふと思い返すと、飛行可能なゼロ戦の写真なぞが載っている本には、確か「カリフォルニア州チノにあるプレーンズ・オブ・フェイム」と書いてあったような気が・・・。もしかして引っ越したのかな、などとその時は思いました。

 というわけでグランドキャニオン観光を終えた我々は、一路国道180号線を南下します。180号線は途中で方向を南東に変えてフラッグスタッフに戻りますが、180号線から分岐した州道64号線がそのまま南下してウィリアムズに向かいます(道なりに南へ走っていると、180号線がそのまま64号線に変わる感じです)。プレーンズ・オブ・フェイムはこの2本の道が分岐した交差点のちょっと南、道路の西側にあります。
 航空写真をリンクしておきますが、この写真の真ん中に見える4発機が展示物のロッキード・コンステレーションで、その横の四角い大きな建物が博物館です。この博物館は小さな空港の一角を利用して建てられていました。
 道路からも、コンステレーションがあるのですぐにどこか分かりました。
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道路からも目立つロッキード・コンステレーション

 コンステレーションの手前の駐車場に車を止め、博物館に入ります。おばちゃんに料金(確か5,6ドルくらいだったような)を払うと、我々が日本人であると察したためか、「この博物館にはジャングルから回収してきた日本軍の爆撃機がある」と説明してくれました。他にこの博物館の名物としては、2次大戦のドイツの主力戦闘機・Bf109があるようです。
 で、この辺で小生は察したのですが、つまりプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館は、カリフォルニアのチノの本館とアリゾナの Valle の分館と、2ヶ所あるというわけだったのです。で、ゼロ戦なんかはカリフォルニアにあって、アリゾナにはまた別なものが納められていたのでした。
 今「プレーンズ・オブ・フェイム アリゾナ」で検索してみたところ、このプレーンズ・オブ・フェイムのアリゾナ分館について日本語でレポートしたものはネット上に発見できませんでしたので、以下のレポ(写真は例によってクリックすると拡大表示します)は結構貴重なものかもしれません? しかしグランドキャニオン観光に車で行けば結構立ち寄れそうなものだけど・・・カリフォルニアに飛行機を見に行くようなマニアな観光客は、グランドキャニオンみたいな月並みな観光地には目を向けない、ということなのでしょうか。

 中に入ると、入ったところにいきなり艦上爆撃機・彗星の残骸と、特攻機・桜花が展示されています。彗星艦爆は当初水冷エンジン(ドイツのエンジンを元にしたもの)装備で開発されましたが、当時の日本の技術力では水冷エンジンを量産できず、結局空冷エンジンに換装されるという経緯を辿っています。ここの彗星の残骸はニューギニアのジャングルから回収してきたという水冷エンジン仕様の機体で、貴重なものと思われます。
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彗星艦爆の機体と水冷式「アツタ」発動機の残骸

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特攻機 桜花

 館内には所狭しと飛行機が並べられており、さらには飛行機だけではなく昔の自動車や装甲車なんかまで置かれていました。一角は区切られて工場のようになっており、飛行機などの整備やレストアを行っているようでした。あんまりみっちりと飛行機が並んでいるので、後ろに下がって全景を撮るだけでも結構苦労します。
 で、全部で30機以上の飛行機と、さらにはミサイルやエンジン、車輌などが展示されていますので、いちいち撮った写真を挙げていたらきりがありません。ここは有名な飛行機や印象に残っているものに的を絞って紹介して行きたいと思います。
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ダグラスAD-4 スカイレイダー

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スカイレイダー 後ろから

 第2次大戦末期に開発され、朝鮮戦争とヴェトナム戦争でその能力を発揮した攻撃機です。強力なエンジンのお蔭で、単発単座機の癖に2次大戦の重爆撃機並みの搭載力を持ち、機動力も高くヴェトナム戦争ではミグ17を撃墜したとか。レシプロの軍用機としては最後の名作ですね。空母に載せるため、写真のように翼を折りたためます。
 で、本機は搭載力が高かったので、爆弾のみならず人員も後部胴体に乗せられるようになっていました。後ろからの写真で、人を乗せるところのドアが開いているのがお分かりいただけようかと思います。その中はこんな感じ。
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スカイレイダーの乗客(?)席 2名搭乗可

 強力なエンジンがあると、使い道の広い飛行機が出来るというわけでしょうか。
 エンジンといえば、こんなのもありました。
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プラット&ホイットニー R-4360 ワスプ・メジャー
レシプロエンジンとしては最大級の星型空冷エンジン

 これはB-36爆撃機やC-124グローブマスター輸送機などに使われたエンジンで、28気筒(7気筒のエンジンを4段重ねにしている)あり、シリーズ最強のものは4300馬力も出たんだとか。

 博物館のコレクションには軍用機や練習機が多いのですが、民間機もあります。
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イースタン航空の飛行機(?)

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同機の操縦席 木目パネルが時代を感じさせる

 ちなみに乗客の席は、操縦席の後ろに3人がけの革張りのソファが設置されていました。

 米軍の練習機(飛行可能)や第1次大戦の戦闘機のレプリカを眺めつつ奥に進むと、そこにこれまた日本軍の塗装の飛行機がありました。お、99式艦上爆撃機なんか持ってたのかと感心してよく見るとちょっと変。これは米軍の練習機BT-15をベースに、映画『トラ! トラ! トラ!』撮影のために改造した、99艦爆"風"の飛行機でした。
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映画用99艦爆もどき(BT-15改造)

 結構良くできていると思います。『トラ!~』は40年近くも前の映画ですが、CGなんぞ無い時代のハリウッド大作だったので、潤沢に予算を使ってこんなのをつくったのでしょう。『パールハーバー』とはえらい違いですな(苦笑)。
 ホンモノの第2次大戦の軍用機(練習機以外)としては、他にダグラスB-26インヴェーダー(A-26とも。時代によって形式が変わる)があります。博物館の所蔵機は、正確には偵察仕様のようです。
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ダグラスRB-26Cインヴェーダー

 この飛行機は第2次大戦中に登場しましたが、これもAD-4同様朝鮮戦争やヴェトナム戦争などでも長く使われた飛行機です。で、これも飛行可能の機体だそうで。

 さらっと紹介するつもりがやはり長くなってしまいました。博物館の続きは明日。Bf109にご期待下さい。
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by bokukoui | 2007-06-14 23:54 | 出来事

お気楽アメリカ紀行(7)~フラッグスタッフからグランドキャニオンへ

 まだゴタゴタ中で、ついでに首まで寝違えてますが、いい加減間が開いたアメリカ旅行記の続きです。他の記事は以下を参照。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ(この記事です)
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 今日はアメリカ随一の観光地、アメリカ中からおのぼりさんが集まることでも有名な、グランドキャニオンに向かいます。そして今日の宿泊地はラスヴェガス。盛りだくさんな一日です。

 朝は早い目に出発すべく起きだしますが、どうもH氏が体調不良のご様子。昨日はK氏と小生が夕食後部屋に引き上げたのに対し、H氏はモーテルの向かいにあった書店(確か夜10時くらいまで営業していたと思う)に更なる遠征を試みられたほどでしたが(この際入手したカリフォルニア州周辺道路地図がその後大活躍)、その反動だったのでしょうか。
 とりあえず朝食を済ませ(同じチェーンだったのに、昨日のパームスプリングスの方が良かった・・・)、H氏が風邪薬を飲んで多少落ち着いたところで出発。しかし風邪薬にはありがちなことですが、飲んだら運転は控えるべきことが使用上の注意事項として記されていましたので、運転はK氏と小生がもっぱら担当することとなります。

 まずは小生がハンドルを握り、給油を済ませ、グランドキャニオンめざし出発です。例によってこちらの地図をご参照いただければ分かりやすいかと思いますが、出発地フラッグスタッフ Flagstaff から国道89号線を北上し、Cameron から州道64号線に入ってグランドキャニオンを見学、しかる後国道180号と州道64号線を南下し、ウィリアムズ Williams から州際高速道路40号線で東へ向かうというのが今日の予定です。
 本来このルートを立案したH氏が後部座席で休憩中だったため、そしてやはり午前中の小生がボケているためか(苦笑)、フラッグスタッフの街中で早速道を間違える始末。しかし怪我の功名というべきか、これでたまたまフラッグスタッフ駅を見つけることになります。しかも駅前の踏切で、ディーゼル機関車三重連がおよそ70両の貨車を牽引する貨物列車の通過を待つこととなりました。この路線はバーリントンノーザンサンタフェ鉄道、昔のアチソン・トピーカ&サンタフェ鉄道の幹線で、ユニオンパシフィックとセントラルパシフィックに次ぐ第2の大陸横断鉄道として建設されました。最終的にはシカゴからロサンゼルスまで繋がった路線です。
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 ・・・とまあ、さんざ Railroad Tycoon 2 を遊んで(RT2については、日本語ではこちらのサイトが一番詳しいと思います)名前に馴染んでいただけに、まことに嬉しい出来事でした。
 折角なので駅にも立ち寄ってみます。写真はクリックすると拡大表示します(以下も基本的に同じ)。
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フラッグスタッフ駅構内

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フラッグスタッフ駅駅舎

 この駅にはアムトラックのビジター・センターもあって、昨日のフェニックスと違いちゃんと機能しているようです。グランドキャニオンへの観光拠点でもあるからでしょうね。軌道は重量級の貨物列車の通過に備えて随分ごついレールが敷かれていましたが、枕木は木でした。ただ枕木の間隔は結構密で、レールはクリップのような金具(日本ではJR東日本などがコンクリート枕木と組み合わせて使用しているタイプ)を使ってしっかりと留められていました。
 先が長いので、後ろ髪を惹かれる思いを断ち切って出発。ちなみにフラッグスタッフ駅前を通っている道は、これまた有名なルート66の成れの果てだったりします。

 89号線を快調に北上します。緩やかな起伏があり、地平線には山並みも見えるものの、ほとんど平らな道でした。交通量も少なく快調に飛ばします。沿道にはほとんど人家もありません。ざっと100キロほど北上して、キャメロン Cameron の街で左折します。街といってもガソリンスタンドがあったくらいでしたが。
 キャメロンからの道は、流石にグランドキャニオンが近くなったせいか、上り下りやカーヴも多くなりますが、それでも道幅は広く、日本の山道と比べ運転しやすさは雲泥の差です。H氏曰くこのグランドキャニオン手前も大きな谷地形になっている由で、運転しつつ横目で風景を楽しみます。

 そんなこんなで40キロくらい走ったでしょうか、次第に山道も険しくなってきて、これまで同様草原から潅木そして森林へと植生が変わってきたところで、グランドキャニオン国立公園に到着します。入口のゲートで入場料を支払い、幾つかのポイントを見て廻ります。
 まずはゲートを入って間もないデザート・ヴュー Desert View というポイントから。
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デザート・ヴューより

 その昔、「アメリカは自己責任の国、グランドキャニオンにも柵はない」などという話がそれなりに流布しておりましたが、柵がないわけではありません。
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同じくデザート・ヴューより 柵の設置状況に注目

 ・・・んー、でも結構自己責任かも。まあ状況に応じて柔軟に判断しているということですね、要は。
 このデザート・ヴューというポイントには、石造りの展望台が建てられており、中は土産物屋を兼ねています。名前は Watch Tower というそうですが、最初名前を見て某キリスト教系カルト教団の機関誌の名前を思い浮かべてしまいました。「ものみの塔」と。
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ものみの塔 デザート・ヴューの展望台

 ・・・って冗談のつもりだったけど、今ふと調べたらホントに Watch Tower でいいらしい・・・。連中の公式サイトのURL、まんま http://www.watchtower.org/。まさかグランドキャニオンにまで彼奴らの魔手が及び、塔を建てたのではあるまいな?←わけない
 嗚呼宗教国家亜米利加。

 グランドキャニオンまで来て何を見ているんでしょうか全く。と思われた読者の方も少なくないかもしれませんが、グランドキャニオンの自然の壮大さは拙文や安物デジカメ画像で到底伝えきれるものではありません。
 自動車で順次グランドキャニオン南側の展望拠点を廻っていきます。途中、運転をK氏が代わってくれました。或いは小生が脇見運転するのを恐れたのか(苦笑)。ありがたく沿道の景色を楽しみます。展望拠点をつなぐ道は、グランドキャニオンと聞いて思い浮かべがちな赤茶けた谷間のイメージとは裏腹に、むしろ緑なす木々に囲まれた気持ちよいドライブコースでありました。
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いかにも「グランドキャニオンらしい」風景
右手前から突き出した岩は形状から Battleship と呼ばれている

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緑も案外多いグランドキャニオン

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グランドキャニオンの絶壁

 コロラド川が浸食して形成した谷間の深さは1000メートル以上にもなり、それだけに昨日まで見てきたのと同様、2000メートル以上の上層部では木が生い茂り、一方谷を下るに連れて植生が変化して、赤茶けた景色を形作っているのでしょう。地理の授業をアルバイトでするときのネタに使えるかな(幼年期地形の代表例)という下心も手伝っていろいろ写真を撮りますが、後で見ると日光が強すぎて今ひとつのものばかりでした。

 そんなこんなでスポットを廻っていくうちに、グランドキャニオン観光の南側拠点であるサウスリム・ヴィレッジにやってきました。ここから各地へバスによるツアーなども出ていますが、まあ時間もあまりないのでその辺はパスして(本格的にグランドキャニオン観光をしようと思ったら、一泊や二泊では足りない)、ただグランドキャニオンの駅だけは見ていこうかということになりました。
 グランドキャニオンに至る鉄道は、その昔ウィリアムズから分岐してグランドキャニオンの南側まで作られたもので、のちサンタフェ鉄道の一部となって観光輸送に活躍しましたが、一時自動車に押されて休止していたところ、最近になって観光鉄道として復活したそうです。蒸気機関車による運行もあるとガイドブックにありました。
 グランドキャニオンの軌道交通としては、車の移入があまりに多いため環境破壊が懸念され、グランドキャニオンの手前に駐車場を作って観光客を下車させ、そこからサウスリム・ヴィレッジまで電車(LRT)で運ぶという構想があるそうです。ところがイラク戦争などの関係で予算がつかず、実現の見込みは立っていないのだとか。
 というわけでグランドキャニオン駅に。折りよく列車が停まっていました。駅周辺は駐車場になっていたので、ちょっと車を停めて撮影。
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グランドキャニオン駅に停まる観光列車

 客車はコルゲートの目立つステンレス車体のものが大部分でしたが、1両だけ緑色に塗られたリベットごつごつの古いやつがつながれていました。客車の台車は(確か)みなイコライザー式でしたが、ステンレス車の台車にはボルスタアンカがついているのが日本と違った行き方で面白いところです。やはり軌道が頑丈な国なので、客車の台車の軽量化なんぞあんまり考えなかったのでしょうか。
 編成中には2階建ての展望車も組み込まれていました。その昔アメリカの旅客鉄道最後の繁栄の時代に流行った、2階部分が上に突き出している「ドームカー」と呼ばれるものです。
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ドームカー
背景の三角屋根は駅舎らしく、妻面に旧サンタフェ鉄道の社紋が掲示されている

 これを見ると、近鉄特急の旧ビスタ(こちらのサイトの写真が素晴らしく詳しい)の元ネタがアメリカの客車だということが良く分かります。しかしアメリカンサイズの建築限界あってこそのドームカーだったのでしょう、このスタイルを電車化した近鉄技術陣の熱意には頭が下がりますが、旧ビスタが13年しか持たなかったのもやむを得ざるところだったのかもしれません。
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編成を後部より見渡す 最後尾の車輌は展望車?

 一通り列車を見たので車に戻ります。その途中、手前の開いている線路のレールを眺めていたら、そこに刻まれていた刻印からレールがコロラド石油鉄鋼会社の1929年10月製だということが分かりました(毎度お馴染みこちらのページのお世話になっております)。ちょうど大恐慌が起こった頃のレールだったんですね。
 メーカーのコロラド石油鉄鋼会社 Colorado Fuel and Iron はプエブロに拠点を置いていたらしいので、サンタフェ鉄道(系列)とも縁があったのでしょう。

 車に戻り、一路南下してウィリアムズを目指しますが、その途中で思わぬスポットを発見。
 以下、プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)篇に続く。
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by bokukoui | 2007-06-04 23:58 | 出来事

お気楽アメリカ紀行(6)~フェニックスからセドナを経て

 アメリカ旅行記の続きです。他の記事は以下を参照。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て(この記事です)
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 パットン将軍記念博物館を出た我々は、K氏の運転でフェニックスに向かいます。存外時間を取ったのでモニュメントヴァレー行きは断念し、フェニックスで観光する方針に。なんと言っても全米で人口6番目の大都市らしいので、何がしか見るところはあるでしょう。
 沿道はおおむね沙漠でしたが、カリフォルニア州とアリゾナ州の境目であるコロラド川の谷間は流石に緑豊かでした。もっともコロラド川はそんなに大きな川ではなく、日本の川とも大差ない程度で、車で渡った時にはこれがグランドキャニオンを浸食したコロラド川か?と思ったのですが、そもそも外来河川ですし、あまつさえ上流に大規模なダムが幾つもあったりロサンゼルスに用水路で水を持っていかれたりしたならば、そんなものかもしれません。

 昨今石油価格の高騰が頻々と伝えられており、カリフォルニア州でのガソリン価格は1ガロン当たり3ドル半かそこら(正確な数字は忘れましたが)して、日本のそれと大差ないくらいでした。ところが面白いことに、コロラド川を渡るとガソリン価格は1割くらい下がって3ドルそこそこ/ガロンになっていました。カリフォルニアは環境問題にやかましい州だけあって、ガソリンへの課税も高めに設定されていたようです。
 そういえば、昔サザンパシフィック鉄道は、自社が使うための石油をロサンゼルス近郊の製油所で精製してからわざわざタンク車でアリゾナ州まで運ばせて購入していたという話があります。それは税金対策だった由。(この話や昨日のパットン将軍の父親の話などの出典は、機芸出版社『トラクションブック』の宮野忠晴「PACIFIC ELECTLIC 南カリフォルニアに展開された巨大電気鉄道網」)

 アリゾナに入ると少し植生が変化し、電信柱のように立つサボテンが目に付くようになりました。カリフォルニアよりは植物が少し多いような気がしました。そんな『エル・カザド』みたいな(笑)風景の中をひた走り(この辺は米墨戦争までメキシコ領だったわけで)、昼すぎフェニックスに到着します。
 フェニックスもまた延々と数十キロに及ぶ郊外が広がっており、それをつなぐ巨大な環状高速道路(南北約50キロ・東西30キロの巨大な長方形の左下隅が欠けたような形)が整備されています。それだけフェニックス都市圏が広がっているということなのでしょう。
 どこを観光するかということで、とりあえずフェニックスの駅に行ってみることにしました。流石に百万都市らしく、中心部に入ると巨大なビルが幾つも聳え立っていますが、土地の使い方が鷹揚なので、ビルが並んでひしめいているという感じはあまりしません。
 というわけでパーキングメーターに車を止め、駅の前に行って見ますが、なんだか柵で閉ざされています。近づくと柵が開きましたが、それはこの中で何か仕事があるらしい黒人のあんちゃんがたまたま通りかかって開けたのでした。で、その黒人男性氏曰く、この駅はもう使っていないのだとのこと。全米第6位の人口の大都市の中心駅だったのに、今はアムトラックにも無視されていたのでした。
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アムトラックの「rail passenger station」の表示も空しい旧フェニックス合同駅

 なお、写真は一部を除きクリックすると拡大表示します。
 以上の次第で駅には入れませんでしたので、次なる目的地としてフェニックス美術館 Phoenix Art Museum に行くこととしました。その途中、市街地で路面電車の工事が行われているのを発見。
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フェニックス市内の路面電車の工事状況
架線は未設置だが軌道は整備済

 長距離旅客鉄道の方は滅びたらしいフェニックスですが、市内交通機関としては復活するようですね。ちなみに物の本によると、その昔フェニックスには延長10マイルのささやかな路面電車があったそうで、フェニックスの中心部から北西のグレンデール Glendale まで走っていたそうです。1910年に建設され、1927年廃止とのこと。80年ぶりの復活ですが、前回のように20年持たずに廃止、なんてことのないように祈っております。

 そんなこんなでフェニックス美術館へ。入ってみると常設展に加えて特別展二つが行われており、一つはレンブラントなどのオランダ絵画展、もう一つが戦前を中心にした流線型の自動車展でした。常設展+自動車展の切符を買って中に入ります(つまりケチってレンブラントは見なかった)。
 自動車は実に見応えがあり、朝見たごつごつの戦車どもと対照的な、1930年代欧州車を中心とした流麗なラインを堪能しました。世界で一番速かった頃のアルファ・ロメオや、世界一輝いていた頃のフランス車、或いはチェコの名車、コッポラの映画で有名な悲運のアメリカ車タッカーと、これだけで充分楽しかったのですが、常設展もまたえらく見応えがありました。なにせアメリカ、展示スペースは広い広い。しかも一角に「拡張してカフェテリア大きくします」みたいな掲示もあり、まだまだ広げるつもりのようです。
 常設展は芸術作品いろいろで、H氏のような教養人では小生はありませんので良く分かっているわけではないのですが(掲示も英語だし)、日本の浮世絵があったり、また渡辺崋山の鶏の絵があって感心して見入りました。また西洋絵画も植民地時代から現代に至るまで揃っており、まあ鑑賞眼のない小生ですが、肉付きも血色もよく見ている方も明るい気持ちになるような女性の絵画は18世紀や19世紀初頭の作品で、一方幽霊のようにしか見えない夜中見たらちびりそうな女性の絵は19世紀後半の作品で、ああやはり『倒錯の偶像』が述べていた通りだなと、アリゾナまで来て妙な感慨に耽りました。
 さらにはご当地の芸術家の作品や現代美術作品もいろいろと充実しており、たっぷり2時間以上見て廻ったかと思います。実に大規模な美術館でした。これでレンブラント展まで見ようと欲張ったらもう1時間はかかりましたね。

 フェニックスからは北上して、今日の宿であるフラッグスタッフを目指します。
 その途中、フェニックス市内の鉄道公園? みたいなところにちょいと立ち寄り。ミシュランの道路地図にマコーミック・スティルマン鉄道公園 McCormic-Stillman Railroad Park と書いてあったので見てみましたが、ここはどっちかといえば子供向けの公園みたいなところでした。まあ入場無料でしたのでそれはそれでよし。
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マコーミック・スティルマン鉄道公園の機関車と信号機

 上の写真に、3月に行ったくりはら田園鉄道の話でも出てきた腕木式信号機の、ちょっと変わった形のが写っています。これは上りと下りの信号機を一つにまとめ、ランプを一つで済ませたタイプのものと思われます。日本でも明治時代には広く使われていたらしく、軽便鉄道では戦後まで残っていたとか。
 この公園の最大の眼目の展示物は、次の貨車でしょう。
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フランスから来た貨車

 柵で囲まれているので分かりにくいのですが、よく見るとアメリカの車輌ではないことが察せられるかと思います。ネジ式連結器を装備しているので。展示を斜め読みしたうろ覚えなのであやふやですが、この貨車はアメリカ軍がフランスを解放した感謝の意を表す親善列車として運行されたものの一両なのだそうです。

 そんなこんなでフェニックスを離れ、州際高速道路でフラッグスタッフに向かいます。フェニックスを抜けるときに、事故があった関係から少し渋滞しましたが、抜けてしまえば交通量も減って快適なドライブで、インターステート17号をひたすら北上します。沿道は標高が上がっていくためなのでしょうか、カリフォルニアより緑が多く、サボテンと潅木と草に覆われた山並みを越えて走ります。起伏があるのでそれほど単調な感じはしませんでした。交通量も多くなく快適なドライブで、運転していたK氏はオートドライブ機能を活用して、足を使わずに運転していました。
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インターステートハイウェイ17号の景色
緑の緩やかな山並みを縫って北上する道路と送電線(烏帽子形鉄塔)

 途中で運転はH氏に交代しますが、そのH氏の発案で、このまま州際高速道路でまっすぐフラッグスタッフに行くのではなく、途中で州道(179号と89号)に降りて、セドナ Sedona を経由して行こうということになります。セドナは赤い山の特異な地形で景勝地として名高いらしく、道路も山越えのなかなかドライブし応えのあるルートのようでした。この辺の道路の関係についてはこの地図参照。
 というわけで片側2車線の高速道路を降りて、片側1車線の州道に入ります。速度も時速80マイルから50マイルへスローダウン。日本の基準ではまだ充分速いですが。
 やがてセドナの山並みが見えてきました。赤く、また切り立った形をしています。モニュメントヴァレーには行けませんでしたが、これはこれで趣のある風景です。
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セドナの街の手前(多分)から山並みを望む

 セドナの街にはなにやら立派なリゾートホテルなどが立ち並び、保養・観光の拠点としてかなり賑わっているようです。もっとも今「セドナ」と日本語で検索したら、こんなサイトが見つかったり、他にも「癒し」「瞑想」「スピリチュアル」「地中のエネルギー」「ヴォルテックス(渦巻き:「エネルギー」が地上に出てくるポイントらしい)」・・・といった、如何にもなフレーズが次々と芋蔓式に出てきます。人様が感動しておられるのにとやかく言うのは無粋であるかもしれません。
 でも思います。セドナの景色は美しい。それで充分じゃないかと。
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夕日を受けて黄金色に輝くセドナの赤い山

 この山並みは水平な地層がはっきり読み取れ、地質学的にもかなり面白そうです。なんか「精神的」なものを無理に持ち込むことはないんじゃないか、と。

 その後、州道で山越えをしてフラッグスタッフに至ります。この峠附近は別荘地として人気があるようですが、これまで見てきた乾燥した土地と異なり木々が豊かな地域でしたので、それも頷けます。もっとも日本人からすれば、木々が多いということは見慣れた山道に近いので、そんなに感動はしませんでしたが。道はアメリカにしては狭く、センターラインこそあるものの路肩は無きに等しい箇所も多く、カーブも急でした。それだけ地形の険しい谷でしたので、インターステートはこの谷筋を避けてもっと東を通ったのでしょう。ちなみにこの附近を南北に結ぶ鉄道はもっと西を通っています。
 そんなこんなですっかり日が暮れた頃にフラッグスタッフ到着。ロードサイド型店舗が各種立ち並び、そこそこの規模の街です。今日も昨日と同じチェーンの「高級モーテル」フラッグスタッフ店に投宿。もっとも保養地の店舗とビジネス客向けとでは方針が異なるのか、昨日の部屋より狭めで敷地一杯に建物を詰め込んでいるような感じでしたが。
 夕食はデニーズ(笑)へ。店の内装が学食みたいに安っぽかったです。
 それにしても、日本のデニーズって考えてみれば凄いですね。洋食のみならず、和食に中華にイタリアン、時には韓国その他各国の料理も提供しているわけで。その点アメリカは・・・。

 以下、グランドキャニオン篇に続きます。
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by bokukoui | 2007-05-30 23:56 | 出来事

お気楽アメリカ紀行(5)~パットン将軍記念博物館

 アメリカ旅行記の続きです。他の記事は以下を参照。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館(この記事です)
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 パームスプリングスに一泊し、翌朝宿の朝食のビュッフェをしこたま食して出かけます。この旅行中、我々は基本的に朝を多めに摂って昼を抜くという強行軍で通しました。まあ、大体朝の食事が一番マシだったりするわけで・・・。実際、ここの宿の朝は種類も多く場所も広く、なかなか結構でした。
 今日はアリゾナ州のフラッグスタッフに向かいます。道中の予定はあまり決めていませんで、早く行ければモニュメントヴァレーまで行って戻ってくるという案もありましたが、とりあえずアリゾナへと東へ向けて出発します。その沿道にパットン将軍記念博物館なるものがある、とガイドブックに載っていましたので、休憩がてら寄ってみようということになりました。

 州際高速道路を東へ向かい、相変わらずの荒涼とした景色の中を走ります。人気がほとんどなく、僅かに送電線が平行して走っているくらいです。日本の送電鉄塔は上に行けば細くなる、四角錐を縦長に伸ばしたような形のものが圧倒的に多いですが、アメリカの送電線は日本では珍しい上が二股に分かれた鉄塔(「烏帽子形鉄塔」という名前がある)が断然多い印象を受けました。電気工学科に在籍しておられたK氏曰く、烏帽子形は用地を多く要するので日本では積雪の多い山間部(雪に強い)などにしか使われないが、アメリカは土地が安いからこれが多いのだろうとのことでした。
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アリゾナの荒野に立つ烏帽子形鉄塔(この日の夕刻にアリゾナ州で撮影)

 これ以上写りの良い写真が残念ながらありませんので、どんな鉄塔か詳細を見たい人は「烏帽子 鉄塔」で検索してください。
 なお、例によって写真はクリックすると拡大表示します。

 そんな風景の中に、第2次大戦で活躍した軍人の名を冠した、パットン将軍記念博物館 General Patton Memorial Museum はありました。道路からも戦車が屋外に展示してあるのが見えます。例によって航空写真を。真ん中の白い建物が博物館本体で、その左手に戦車が置いてあります。
 ちなみにパットン将軍の名を冠した博物館はもう一つ、パットン騎兵機甲兵博物館 Patton Museum of Cavalry and Armor というのがケンタッキー州にあり、どうもそちらの方がずっと大規模で有名なようです。機会があればそちらも行きたいですね。
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パットン将軍記念博物館の正面
将軍の大きな銅像が立つ

 博物館の向かって右手には、ヴェトナム戦争にカリフォルニアから参加した人々の名前を刻んだ記念碑(壁)が建てられていました。
 また左手に立っていた記念碑の内容から察するに、この地にアメリカ軍の訓練施設があり、それがもとでこのような博物館が出来たそうです。パットンとの縁はそんなに濃くないみたいですが(訓練施設に4ヶ月しかパットンはいなかったそうな)、やはりアメリカで戦車といえばパットンなのでしょう。またパットン将軍はカリフォルニア州出身なので、それもまたこの名がついた理由なのかもしれません。
 余談を付け加えれば、パットン将軍の父親は、オレンジエンパイア鉄道博物館にもその車輌が数多く所蔵されていた、ロサンゼルスの電鉄パシフィック・エレクトリック初期の経営陣の一人でした。PEを設立し、南カリフォルニア開発の立役者だったヘンリー・ハンティントン(サザンパシフィックの経営者だったコリス・ハンティントンの甥)の信頼厚い部下だったといいます。

 さて、我々がこの地に着いたのは午前9時過ぎでした。ガイドブックには午前9時に開くようなことが書いてありましたが、まだ開いていません。博物館の掲示を見たら午前9時半でした。しかし我々が博物館の前をうろうろしていることを察した職員の方が、囲いを開けて屋外展示の場所に入れてくれました。あとで正式営業時間になったら建物の方に来て入場料を払えば宜しいとのこと。ありがたく入れていただいて、屋外展示を見学します。
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博物館の名に相応しくM47パットン中戦車

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もう1輌パットン戦車 この戦車は冷戦前半の米軍主力

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パットンの軍がWW2の実戦で使っていたのと同形のM4シャーマン戦車
標的として使われていたのか弾痕だらけ

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第2次大戦末期から朝鮮戦争にかけて使われたM26パーシング戦車
後ろに見えるのは冷戦時代の主役・M60戦車(多分)

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日章旗の紙が張ってある対戦車砲
日本軍の一式47mm機動砲か

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戦車回収車の一種か?

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ソ連戦車の足回りをベースにしたチェコの除雪車(?)

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水陸両用車?

 他にもトラックやジープ、それに消防車など色々あり、面白く見て廻りました。どうもM5スチュワート軽戦車(太平洋戦争での日本軍の主敵。軽戦車のくせに日本軍の中戦車より強かった・・・)があったらしいのですが、この時は見落としてしまったようで残念でした。
 ヴェトナム戦争の参加者の記念碑(参加者の名前が刻んである)が博物館入口にありましたが、この屋外展示場にも集会場のような一角がありました。
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屋外展示場のセレモニースペース

 記念日の折にはここで式典を行うのでしょう。写真に見えるベンチには、それを寄贈した個人や部隊の名前が刻まれたプレートが取り付けられていました。

 写真が既に充分多くなってしまったので後の記事は端折りますが、博物館に戻って入場料(確か4ドル)を支払い、館内展示を足早に。ジープ、銃火器の類、戦闘に使われた地図(ウォーゲーマー必見)、パットン将軍の蝋人形といろいろあります。やけに赤の大きい日の丸に中文で東条英機と山下奉文を非難する言辞が記された謎の展示物がありましたが、こんなところで東条に並べられるとはマイク水野山下将軍も苦笑するかもしれません。
 軍事関係の他には、この周辺の巨大な立体地図があって、これはロサンゼルスに必要な水を確保するためのダム・水道事業に当たって作られたものだそうです。これについては何故か日本語のパンフレットまでありました。お土産コーナーもまずまずの品揃え(オレンジエンパイア鉄道博物館ほどではありませんが)。4ドルでこのラインナップならば、ミリオタ諸君には充分楽しめるものと思います。

 先があるので足早に見終わり、しかし当初の予想よりはだいぶ時間を消費して(これは多分に一行でおそらく唯一の戦史マニアであった小生のせい。お付き合い下さったH氏とK氏に多謝)、更に東へと向かいます。
 以下、フェニックス・セドナ篇に続く。
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by bokukoui | 2007-05-29 23:51 | 歴史雑談

お気楽アメリカ紀行(4)~パームスプリングスのロープウェイ

 アメリカ旅行記の続きです。他の記事は以下を参照。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ(この記事です)
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 オレンジエンパイア鉄道博物館を後にし、本日の宿泊地であるパームスプリングス Palm Springs へと向かいます。ここからはH氏がハンドルを握り、元来た道を北に少し戻って(その途中沿道に航空博物館らしきものを発見)、州際高速道路の10号線を東に向かいます。ペリスとの位置関係はこの地図参照。
 道中は乾燥した土地が続き、沿道から見る山並みにも緑は碌に見られません。そんな山の谷間を高速道路は通っていますが、荒涼とした土地に相応しく(?)風が強いのか、風力発電の風車が集団で立っている土地も見られました。
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林立する風車 これでもほんの一部
手前はBNSFの支線か

 ちなみに本日の記事の写真は拡大表示しません。資料的なものでもないので。
 道中おおむね無事にパームスプリングス近傍にまで至ります。ここでインターステートを降りて、ロードサイドのショッピングモールというのか、要するにファーストフード的なレストランやスーパーの類が駐車場の周りに配置されている、日本でも近年増加した「ファスト風土(by三浦展)」的場所に立ち寄ります。暑い土地に備えて飲料水を仕入れ、機内から何も食べていないのでここで食事を、という算段。
 アメリカに来たら、天下に名高きウォルマートに行ってみたいと思ったものでしたが、ここで目に付いたのは「オーガニック」と看板に掲げたこじんまりとしたスーパーでした。日本で言えばマザーズみたいなもんでしょうかね。もっとも後ですぐ近所にウォルマートがあったことに気がついたのですが。
 食事は安直にマクドナルド。ビッグマックだのクォーターパウンダーだのに恐れをなしてチーズバーガーのセットを注文するも、実はそれはチーズバーガーが2個デフォルトでついてくるのでした。嗚呼肥満之国亜米利加。

 宿は Embassy Suites という、H氏曰く「高級モーテル」という定義矛盾のようなところです。宿の位置を正確に記した地図を持ってこなかったためラ・キンタの街をだいぶうろうろする羽目になりますが、遂に小学校の隣で表通りから分かりにくいところにあった宿を発見、チェックイン。でかい吹き抜けがあり、部屋も広くて快適です。但し宿代を安く上げるため、ベッドは二つで1名はソファー就寝でしたけど。
 さて、サマータイムのおかげか、時間が遅くなっても周囲は明るく、折角なのでパームスプリングスの名物であるという Palm Springs Aerial Tramway に乗りに行くことにします。これはパームスプリングスを一望できる山の上に通じるロープウェイ(「トラムウェイ」とあるので電車みたいな感じがしますが、そして日本語版ウィキペディアも「ケーブルカー」と書いてますが、ロープウェイです)で、しかも山頂のレストランの夕食付き往復切符なるものがあるそうです。これで観光と食事と両方済ませようと出かけます。
 今度は小生がハンドルを握ります。車がでかいので車線をいつもはみだしそうな感に襲われますが、結局この旅行中の印象では、概してアメリカは道が広くてマナーもよく運転しやすかったですね。右に左に車線変更して暴走するDQNはロサンゼルス市内のハイウェイで1、2台見たくらいでした。車社会のいい面なのでしょう。ただ携帯電話しながら運転してる人は結構多かったような・・・。

 30分ほど西に戻って、ロープウェイ乗り場に繋がる急な山道を登ります。山道といってもちゃんとセンターラインがあるので運転は頗る容易。日本の山道と違って、ほとんど樹木のない乾いた山肌を、アメ車のエンジンを唸らせて登ります。
 かなり登ったところにロープウェイ乗り場があって、そこで往復の切符代と夕食の一緒になったチケットを購います。34ドル也。切符売りのおばちゃんは我々に日本語の案内をくれました。日本人観光客も来ると見えます。もっとも最初台湾人かと聞かれたので、台湾人はもっと多いのかもしれません。
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回転式ロープウェイのゴンドラ

 このロープウェイは「回転式」だそうで、360度の眺望が楽しめるのが売りだそうです。この手のものでは世界最大だとか。最初ゴンドラが丸ごと回転するのかと思いましたがそうではなく、床だけが回転するというものでした。
 このロープウェイは標高約800メートルの麓の駅から、約2600メートルの山頂まで登るという大掛かりなものです。で、感心したのが、このロープウェイの速力がかなりのものだということです。アメリカのPCCカーの加速は凄かったといいますが、このロープウェイも日本のそれよりかなり気合の入った飛ばしぶりでした。日本が遅いというのが正確なのかもしれませんが。ゴンドラがケーブルを支柱が支えている箇所を通り過ぎる時、一瞬ふわっと浮かぶ感覚がして、ジェットコースターみたいです。なかなか爽快。
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ロープウェイからの展望

 展望は自慢するだけあって素晴らしいものです。興味深いのが、標高が上がるにつれ植生が豊かになっていくということ。麓の駅では山肌は碌に何も生えていないのに、次第に草や潅木が山肌を覆うようになり、山頂駅では大きな松の木が出迎えてくれます。日本の山とは逆ですね。松の木もアメリカンサイズで、まつぼっくりを拾ってみたら人の顔ほどもありました。
 ちょうど夕暮れの時刻に我々はロープウェイに乗りましたので、夕日に照らされた風景を満喫し、山頂の駅に附属した展示施設など一通り見て廻ります。そして日も暮れたところでレストランへ。ビュッフェみたいなスタイルで、トレーを持っていくと店のあんちゃんが色々盛り付けてくれます。要領が良く分かっていないので適当に頼んだら、なんか結構な量と種類になりました。
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山頂のレストランの夕食

 右の皿の内容は、鶏肉(かかってるソースがやけに甘い)、トラウト(塩辛い)、豆の煮たの(犯罪的に甘い)、コーン(まあ普通)でございます。アメリカの食事に対して事前に抱いていた偏見を実証する良い機会となってしまいましたが、我々は「もったいない精神」(笑)を発動して悉く平らげました。帰ろうかという段になって他の卓に残っている皿の状況を観察したところ、どこの卓も残飯がしこたまあり、我々の卓は例外的状況だということが判明しました。嗚呼大量消費大量廃棄之国亜米利加。

 降りのロープウェイの最終は午後9時45分ということでしたが、我々が帰途乗ったのは確かその一本前、21時発のだったかと思います。15分ヘッドが基本のようですが、遅い時間は30分ヘッドになっていたような・・・ちょっと記憶が曖昧。
 とまれ、すっかり暗くなった中を降りるロープウェイからの、パームスプリングスの夜景もまたひとしおでした。そして、空気が澄んでいるのか乾燥して湿気が少ないのか、星空もまた美しいものでした。こんな星空を長いこと見た覚えがありませんでした。

 そんなわけで、このロープウェイはよっぽど高所恐怖症の人でない限りお勧めできます。ただ食事については自己責任でどうぞ。
 夜道の運転もさほど難点はありませんでした。ただ、幾らロープウェイに向けて登ってくる車がもうないとはいえ、真っ暗でカーブだらけで急勾配の山道を50マイルですっ飛ばして人の車を抜いていくのは、些かびびりましたが。

 以下、翌日のパットン将軍記念博物館篇に続きます。
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by bokukoui | 2007-05-25 23:58 | 出来事

お気楽アメリカ紀行(3)~オレンジエンパイア鉄道博物館・その2

 昨日に引き続きオレンジエンパイア鉄道博物館の話をしようと思ったのですが、なんと近代海事史上屈指の遺産であったカティ・サークが炎上とのこと。保存体制が整っていたからといって安心することは出来ません。
 修理中だったそうなので、船内の品物は陸上げられていたらしく、何とか復旧されることを祈るばかりです。
 それにしても、こういったものを後世に伝えることの難しさを改めて感じさせられる事件でした。

 話を戻して、「お気楽アメリカ紀行」のその3です。他の記事はこちら。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2(この記事です)
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 博物館でその他目に付いたものを簡単にご紹介します(写真は特記なき場合クリックすると拡大表示します)。といっても車庫の中は見ていないわけですが。
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サクラメントノーザン鉄道の機関車
機関車の後ろはサザンパシフィックの客車

 サクラメントノーザン鉄道もインターアーバン(都市間連絡電車)の一つで、サンフランシスコ対岸のオークランドからカリフォルニア州州都のサクラメントを経て、その北方のチコまで走っていました。オークランド発チコ行きの列車が運行されており、その走行距離は177マイル(285キロ)に達し、全米の電鉄中最長距離の運転だったそうです。
 ちなみにこの距離は、東海道本線に当てはめると、東京から豊橋のちょっと手前になります。日本で1950年に国鉄による東京~沼津間長距離電車の運転、所謂「湘南電車」の開始時に、占領軍がそんな長距離の電車の運行に難色を示したので、当初は適当に横須賀線同様の郊外電車です、と誤魔化しておいて、うやむやのうちに沼津まで伸ばしたという話を古い鉄道雑誌で読んだことがあります。しかしアメリカ本国でこんな長距離電車が走っていたのだとすれば、この話はちょっと怪しいなと思います。もっとも、高速道路が出来たせいでサクラメントノーザンは1940年に旅客営業をやめて貨物専業になっていたらしいので、占領軍当局も長距離電車の時代じゃないと思った・・・ってこともないだろうなあ、当時の日本の道は「国道は酷道、県道は険道」という状態だったことは占領軍だって充分分かってたでしょうから。
 更に余談ですが、湘南電車のことを「日本最初の長距離電車」と書いていることが良くありますが、戦前に開通していた飯田線の方が距離は長かったんじゃないかとか思うのであります。あとやはり戦前で言えば大阪電気軌道+参宮急行電鉄、のち関西急行鉄道を経て現近畿日本鉄道の上本町~宇治山田間も、東京~沼津よりちょこっと長かったはず。しかも飯田線や参急は勾配にも厳しい条件がついていたので、技術的にはこっちの方が難しそうな・・・。

 話をアメリカに戻します。
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プルマンの重厚な客車たち

 寝台車で有名なプルマンの、二重屋根で金属製車体という見るからに重厚な客車です。履いている台車もごっつい3軸ボギー台車。プルマンについては、WUREさまのサイトこちらの記事をご参照下さい。客車は他にもいろいろあり、あるプルマン車のデッキに上ってみたところ、その車輌を最初に鉄道会社から取得した人がこの博物館に車輌を寄付した旨を記したプレートがありました。こういうところにアメリカの鉄道趣味の深みを感じさせられます。まあ土地が広いということも大きいと思いますけど。
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モハヴェノーザン鉄道の機関車と貨車いろいろ

 蒸気機関車もあります。これはモハヴェノーザン鉄道 Mojave Northern Railroad の機関車で、水タンクがボイラーの上に乗っかった(サドルタンク)タイプ。
 機関車のすぐ後ろの、妙に腰が高い無蓋貨車は銅山で使われていたものらしく、銅鉱石を積むのであろう無蓋の荷台の下に、空気圧で荷台を横倒しにする機構が備えられています。エアーシリンダーや配管など色々ついていて壮観でした。

 敷地を横切って北側へ移動。途中でグッズを扱うお店に寄ります。ここは幸い平日でもやっていました。中には鉄道関連の書物やDVD、記念品の類やTシャツ、帽子などが並んでいます。小生がここで書籍漁りをはじめたのは勿論ですが、こと書物を買うことに関しては実家の庭に書庫が建っているH氏の勢いには敵いません。なんだかんだで二人ともドルで三桁の書物を買い込んだ(でも小生はH氏の半分くらい。買った本についてはまたの機会に)のですが、異国から来て貿易赤字解消に協力した我々を多としたのか、いや単に荷物が多かったからだと思いますが、レジのおばちゃんは本来売っているグッズの一つであるバッグをおまけにくれました。色を選べというので、小生は迷わず"Red!"といいました。で、「やっぱレッドカーの色ですよね」と言ったけど通じなかった・・・(泣)
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おまけでもらった博物館ロゴ入りバッグ(この写真は拡大表示しません)

 店を出て、博物館北西部の、貨物線からの引込み線附近に置かれている車輌群を見に行きます。
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機関車・貨車がいろいろ
真ん中の線路は3フィート(914ミリ)のナローゲージ

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放置?されているモーター付き輪軸
後ろに見えるのはユニオンパシフィックのミカド形蒸気機関車

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アメリカ陸軍の給食(?)車

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アメリカ海軍の貨車

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アメリカ空軍の機関車

 流石アメリカ軍。補給体制に抜かりなし、三軍の車輌が揃い踏みです。あと海兵隊があれば完璧だなあ、なんて思ったら、なんと数日後に思わぬ出来事が・・・。

 その他、立入禁止とされた広い区域に、まだまだ未整備の車輌が多数転がっており、コレクションはえらい数でした。
 電車も、昨日紹介したもの以外にも更にいろいろとあります。今日は見られませんでしたが、京都市電もある由。
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PEの荷物電車・電車、その他カブース(車掌車)もたくさん

 手前の丸窓三つの正面の電車はPEの荷電で、荷電の後ろに見えているのは「ブリンプ」の車体(台車はなくて自動車のトレーラーみたいな足回りの上に仮置きされている)ですが、この辺は流石に傷みが激しいようです。カブースは他の場所にも何両も置かれており、かなりの数がコレクションされているようです。貰って来やすかったのでしょうか。またこの陰にはかなりボロボロながら路面電車もありました。
 この手前の荷物電車の台車は、日本でもお馴染みのボールドウィンのものでした。
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荷物電車の台車(この写真は拡大表示しません)

 さて、昨年小生が北陸を巡った際、えちぜん鉄道で戦前ごろ製と見られる古い台車を履いた電車を見た話を書きましたが、その台車はこんなでした(車内から撮影したのでややボケている点はご容赦を)。
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えちぜん鉄道の電車の台車(元南海)(この写真は拡大表示しません)

 同系列の台車であることがお分かりいただけようかと思います。アメリカの電鉄技術が日本に移植されていたことを示す、分かり易い例ですね。

 更にこの博物館は、鉄道のみならずバスまで保有していました。
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トロリーバスたち

 屋根の上にポールがあることから、これらはトロリーバスのようです。トロリーバスのことを日本語で「無軌条電車」というくらいですので、電車の兄弟分としてここに置かれているのでしょう。

 以上、かなり長くなってしまいましたが、車庫が閉ざされていてさえここまで挙げた車輌以外にもまだまだ数多くの車輌を見ることが出来ましたし、また信号の類も保存展示されていました。2、3時間程充実した見学を楽しみましたが、やはり週末に再訪したいと思った次第です。この日の見学も結構駈足でしたので。
 あと土産物についても、その後訪ねた所ではそれほど心惹かれるものが多くなく、最初のここで買物は全部してしまった方が良かったのではないかというのが、今となっては正直な感想です。率直に言うと、土産を配るという風習は嫌ですね。実質のない儀礼であることが多いし、実質あるものを買おうとすると選択に苦しむし、そもそも荷物が増えるし。
 それはともかく、オレンジエンパイア鉄道博物館の見学を終え、次なる目的地(今日の宿泊地)に向かいます。ということで続きは次回
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by bokukoui | 2007-05-22 23:59 | 鉄道(その他)

お気楽アメリカ紀行(2)~オレンジエンパイア鉄道博物館・その1

 「お気楽アメリカ紀行」のその2です。他の記事はこちら。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1(この記事です)
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 目的のオレンジエンパイア鉄道博物館 Orange Empire Railway Museum に無事到着したのですが、実は入ってから大きな問題に気がつきました。つまり週末にならないと車輌を実際に動かす展示はやっていないんですね。ボランティア要員などの都合かと思われますが。そのため見ることの出来る展示が一部に限られてしまったのは残念なことで、再度の来訪を強く決意した次第です。いつか誰か一緒に行きませんか? 英語が得意な方歓迎(苦笑)
 とはいえ、静態保存で置かれている車輌群だけでも見て廻るのに相当な時間を要しましたので、それはそれでけっこう満足できました。以下に写真を幾つか挙げますが、ただ、カリフォルニアの強い日光の下、安いデジカメの性能では綺麗に写っていない(細部が飛んでしまっている)点は何卒ご海容下さい。なお写真は原則としてクリックすると拡大します。
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博物館の名前入り機関車

 博物館に入って最初に出会った車輌。博物館の名前が入っており、保存されている車輌の移動に使うのでしょうか。

 博物館の敷地内には線路が引かれ、一部には架線も張られています。またゲージも1435ミリの国際標準軌の他、1067ミリや914ミリのナローゲージもありました。個人的なお目当ては電車でしたので、架線の張っているあたりへとまず足を向けました。
 そしていました、以前に書いた記事で名前を出した、ロサンゼルスで「世界最大の電鉄」を称したパシフィック・エレクトリックの電車です。
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PEの電車たち
手前は「ハリウッドカー」、後ろは「ブリンプ」

 PEの電車は赤く塗られており(時代によって多少違うそうですが)、一説には京浜急行の電車が赤いのはこれを真似たものであるとか。上の写真の電車は、手前のは路面電車スタイルをしていますが、近郊路線用の電車だったそうで、ロサンゼルスからハリウッドへの路線などで活躍していたため「ハリウッドカー」と呼ばれたそうです。後ろの大きな電車は、車体が大きいため「ブリンプ(太っちょ)」と呼ばれ、PE末期の主力となりましたが、元々はサンフランシスコのインターアーバン路線で活躍していた電車でした。ところがその電鉄はPEよりもひとあし早く1941年に廃止されてしまい、その電車がロサンゼルスにやってきたものです。
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上掲写真の反対側から撮影

 上の二枚の写真に、トタン張りの車庫が一部写っていますが、この中にPEの走行可能な保存車輌が収納されているようで、PEの社紋が妻にありました。しかし残念ながら閉まっていて中は見られず。
 それでも、車庫のそばの線路には、様々な車輌が置かれていました。
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ヤキマ・ヴァレー鉄道 Yakima Valley Transportation の機関車

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PEの機関車

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バンベーガー鉄道 Bamberger Railroad の電車
最高時速75マイル(120キロ)

 目を惹いたものとして、アメリカで1930年代に、当時の自動車の伸張振りに対抗するため作られた新型路面電車・PCCカーがあります。日本ではあまり普及しませんでしたが、欧米では相当広まり、軽量流線形の車体、優れた高加減速性能が特徴でした。そのPCCカーを発見。
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サンディエゴで使われていたPCCカー

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PCCカーの台車(この写真は拡大表示しません)

 PCCカーの台車は、騒音や振動を防ぐためにゴムを挟んだ弾性車輪を使っており、またこの車輌ではレールブレーキを採用していたようです。空制を使わず、急な減速に対応するものなのでしょうが、日本では広まらなかった手法だけにかえって興味を惹かれます。

 こんな調子でやっていてはキリがありません。なるべくはしょって、小生が見つけて嬉しかった電車の話を先にします。この電車が置かれていたのは、今まで紹介した車輌があった場所とはやや離れた一角でした。
 それは、サンフランシスコのキーシステム Key System がベイブリッジを渡ってオークランドからサンフランシスコへ乗り入れるために作った、連接車体の通称「ブリッジユニット」です。
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キーシステム「ブリッジユニット」

 小生がそもそもアメリカの電車、それもインターアーバンのことをはじめて知ったのは、雑誌『地理』1997年11月号(特集「鉄道をつなぐ」)に掲載された、石川浩稔「サンフランシスコを目指した鉄道とフェリー」という記事でした(読んだのは発行から何年も経ってからのことです)。これを読んで小生はアメリカの電鉄の盛衰についてはじめて知ったのですが、その中でサンフランシスコのベイブリッジは1939年から電車が走っていたこと(橋の完成自体は1936年)、キーシステムが最終的な鉄道廃止(1958年)までもっとも長くベイブリッジを走っていたこと、ベイブリッジの鉄道は霧に備えたキャブシグナルと自動減速機構を装備し最短63.5秒間隔運転が可能であったこと、などを知りました。
 そしてこの雑誌のカラーページに、筆者の石川氏がオレンジエンパイア鉄道博物館で撮影した保存車輌の写真が載っていました。つまりこの博物館の名前もこの雑誌ではじめて目にしたわけです。載せられた写真には先に挙げたPEのブリンプの写真もありましたが、キーシステムのブリッジユニットの写真もあって、その軽快なスタイルはなかなか魅力的に感じられました。
 その、いわば小生のアメリカ電鉄原体験?のブリッジユニットに出会えたのは、とても嬉しいことでした。ただ残念だったのは、石川氏の写真ではパンタグラフを高々と掲げて博物館内を走行していたこのブリッジユニットが、どうも静態保存状態になってしまっていたことでした。後で買ったキーシステムの本によると、何でもモーターにトラブルがあって現在は走れないそうです。修理されることを願いますが、ブリッジユニットの走行可能なものは Western Railway Museum に存在するそうです。こっちの博物館もいつか行かねば。
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ちょっと大きめの写真

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反対側の表情

 これらの写真を拡大していただけると台車の様子が分かるかと思いますが、よく見ると第3軌条集電に対応したコレクターシューが見つけられるかと思います(イコライザーの真ん中あたりについています)。これは、ベイブリッジを渡る区間では瀬戸大橋同様電車は橋桁の中を走っていた(但し鉄道だけではなく下段にも道路があった。上段の道路は乗用車用、下段の道路はバス・トラックと区別されていた。鉄道は下段の南側に沿って走っていたとか)ため、橋の中で高さを抑えるためなのか第3軌条方式を採用していたので、ついているものです。
 ちなみにキーシステムは、当初の社名はサンフランシスコ・オークランド&サンノゼ鉄道 San Francisco, Oakland, and San Jose Railway だったのが、路線が鍵の形に似ていることからこの名になったのだとか。

 博物館の残りは駈足で、・・・と思いましたが、既に随分長いので、続きは明日に。
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by bokukoui | 2007-05-21 23:57 | 鉄道(その他)

お気楽アメリカ紀行(1)~オレンジエンパイア鉄道博物館への道

 先週のアメリカ旅行の顛末をなるべく簡単に、写真を取り混ぜて述べてみようと思います。
 それなりに回数を費やしそうな企画。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道(この記事です)
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 この度はH氏のお誘いで割りと急遽、という感じでアメリカに行くことと相成りました。そもそもは氏が鉄研の同級生であるK氏とレンタカーでアメリカを廻ろうと計画しておられ、かかる経費を安くするためもう一人誘おう(人数が一人増えてもレンタカー代やホテル代はあまり増えないので、一人当たりの負担はかなり減る)ということで小生が参加させていただくことになった、そんな次第です。
 で、H氏は航空会社のマイルを貯めて自在に使いこなす海外旅行の練達者であり、K氏はK氏でバックパッカー歴を相当にお持ちの方で、要するに旅馴れた人二人にくっついていけばいいということで、この旅行記を「お気楽アメリカ紀行」と題した次第です。

 アメリカまで乗った飛行機は、格安航空券の都合で往復とも大韓航空でした。成田空港ではマイルを貯めているH氏の手引きにてノースウェスト系列のラウンジに入り込み、酒を飲みつつ出発を待ちます。塩味のプレッツェル(ブッシュ大統領が喉に詰らせた?類の菓子)がなかなか旨かったのですが、この旅行中出会ったアメリカ製の食品の中ではこれがもっとも旨いものだったのかもしれません。
 大韓航空のボーイング777にてロサンゼルスまで太平洋を横断します。機内は時差の調整のためにもなるべく寝て過ごします(日本を午後出発し、日本時間の深夜=現地の朝到着になるので)。
 最初に目にしたアメリカ大陸の土地は、サンフランシスコよりやや南方、おそらくモンテレー附近でした。山並みが茶色っぽく、乾燥した土地であることをうかがわせます。
 やがてロサンゼルスに近づくと、流石にアメリカ最大の郊外住宅地らしく、どこまでも続く家々が眼下に広がります。機内からその様子を観察しているうちに、飛行機は無事にロサンゼルスに着きました。
 最近のアメリカは入国審査が厳しく、指紋と写真をとられますが、前世紀末に台湾に行ったきりの小生のパスポートは特に入国審査官の関心を惹かなかったようで、すぐに解放されました。パスポートのページが足りなくなって補充ページをつけたほど世界を廻り、シリアなど中東諸国のスタンプが押してあったK氏は少し手間取ったようでしたが。

 頻繁に巡回しているレンタカー会社の送迎バスに乗り込みます。H氏が日本から手配してあった自動車はこちら。
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 アメ車です。小生は自動車にはあまり詳しくないのですが、それなりに高級車であるらしいリンカーンでございます。車内は広く、排気量は4リッター以上ある由。手配したH氏曰く、トヨタのカムリなんぞは人気車種で費用などの問題があり、これにしたそうです。広いアメリカを廻るのには、大きなアメリカ車のよさを生かせる点で好判断であったと思います。結果的には燃費も結構悪くなかったし。ただ幅が広いので、運転時には多少気を使いました。あと前後も結構突き出しているので、駐車の際も要注意。

 さて、H氏もK氏も旅馴れた方で、アメリカにも過去何度も来ていたそうですが、お二人ともアメリカでの運転ははじめてだったようです。結局最初にハンドルを握るのは、アメリカでのドライブを楽しみにしていたK氏となり、いざ出発。
 最初の目的地は、小生が行きたいと思っていた、オレンジエンパイア鉄道博物館 Orange Empire Railway Museum です。この博物館は公共交通機関で行くには極めて不便で、結局ロサンゼルスから車で行くのが手っ取り早いようです。そこでH氏はレンタカーによる今回の旅行を発案され、ついでに自動車の方が廻るのに便利なグランドキャニオンなどの観光地を組み合わせて、今回の旅程を立てたとのこと。
 で、その博物館ですが、ロサンゼルス中心部から東に百キロ余り行った、ペリス Perris という街にあります。街の位置はこちらのGoogleマップ参照。
 Googleマップにはけしからんことにこの博物館が載っておりませんが、抜かりのないH氏はミシュランの北米道路地図を事前に用意しており、これを手がかりに博物館に向かいます。このミシュランの地図は、博物館や史跡の類をかなり数多く載せてくれており、のちのち大いに役立つことになります。

 さて、ちょっと検索してみた限りでは、この博物館に行った日本人の鉄道趣味者の方は少ないようなので(最初レポが見つからないと書いたのは誤報。失礼しました)、今後同博物館に行ってみたいという奇特な邦人の方のために、自動車でここに行く方法を以下に書いておきます。

1.州際高速道路215号でペリスに行く。街の近くでは右手に鉄道が併走しているので、脇見運転に注意。
2.ペリスで州際高速道路を降りると、そのまま道なりに行けばペリスの街に入る。(※北から来た場合)
3.そのうち青地に白字で"Railway Museum"と書かれた案内看板が出てくるので、それに従う。

 いい加減だなあ(笑)。でも、こういってはなんですが、ペリスの最大の名所が同博物館らしいので、これで充分です。

 ペリスに至るインターステートハイウェイは鉄道と平行しており、沿線は工場用地として開発されているらしく、ところどころに引込み線があったり、貨車やディーゼル機関車が停まっていたりして、否が応にも気分が高まります。走っていたのは確かバーリントンノーザンサンタフェ鉄道の機関車だったと思いますが、貨車は塗り替えをまめにしていないのか、合併前の名前のままのものが幾らも見つかりました。線路沿いの空地には看板が立っており、「工場用地販売中 引込線つき」みたいな意味のことが書いてあり、アメリカでの鉄道貨物輸送の重要さをうかがわせます。
 後部座席でそんなことを小生がお気楽にも観察してるうちに、州際高速道路を降りてペリスの街に入りました。引込線は相変わらず右手に見えていますが、ふと気がつくと線路に架線が張られています。都市の地下鉄や路面電車の類ならいざ知らず、今や電化路線なんてあろう筈もないアメリカの田舎町で架線、ということはこれは電車を所蔵するオレンジエンパイア鉄道博物館に至る引込線では? と博物館が近いことが察せられました。そして案内看板に従って無事到着。もっとも最初は自動車でどこに入れば良いのか分からず(自動車で入れそうな門が閉ざされていたため)ちょこっと迷いましたが、入口附近の広大な空地に車を停めておけば良いようです。
 この博物館は先述のようにGoogleマップには載っておりません(博物館に至る引込線も記載なし)が、航空写真で様子が分かるのでご紹介しておきます。地図に切替えれば厳密な位置も分かります。
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 入口はこんな感じです。人の出入りに関しては改札の類もなく入場無料。
 で、いよいよ博物館に入るのですが、博物館紹介篇はそれなりに長くなりそうなので以下次回。
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by bokukoui | 2007-05-18 23:57 | 鉄道(その他)

鹿島鉄道・栗原電鉄を惜しむ駆け足紀行 終篇 附:日経のコラム

 三日前昨日の続きです。
 若柳駅までという中途半端なところで切りましたが、記事が長すぎて制限を越えてしまっていたためです。今日の部分はなるべく手短に。

 さて、小生は若柳駅の見物を一通り終えたので、次の石越行きに乗って戻ろうと思いました。しかしまだその列車まではだいぶ時間があります。そこでふと気付いたのは、次の石越行きはさっき小生が沢辺駅ですれ違った列車が細倉マインパーク前まで行って戻ってくる列車であり、その列車もまた沢辺で細倉行きとすれ違うのだということです。ならば石越行きまで待つよりも、細倉方面行きに乗って石越行きを迎えに行こう、と思い立ちました。といって沢辺の駅で折り返すのは時間的に危なそうなので、一つ手前の大岡駅まで行こうと決め、出札口で切符を求めました。これも今となっては珍しい厚紙の、硬券の切符でした。
 ところがそこで、駅の手伝いの案内の人(くりはら田園鉄道の存続運動をしていた団体の方だと思われます)が言うには、このところ廃止前に乗っておこうという人々が押し寄せてダイヤが混乱しており、相当に遅延したり途中駅から乗れない場合もある、という話が。これは困った(って自分もその混乱を発生させている一人ですが)。ただ今日は、天気が天気なのであまり人出は多くないようなので、そんなことにはならないかもしれない、とのことでした。確かに駅舎には、急遽パソコンで打ち出したと思しきこんな張り紙がありました(この張り紙自体は細倉マインパーク前で撮ったものですが、同じのが若柳にもありました)。クリックすると拡大表示しますので、是非ご一読下さい。
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 「『お祭り』というより『災害』」という言い回しが印象に残りました。「それそうなりの覚悟」というのもなんだかかえって哀愁を感じさせます。
 とはいえ40分も遅れると確かに乗り継ぎに支障をきたします。JRの石越駅にもこんな張り紙がありました。
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 まあこれだけでしたら、栗原の最後を彩るエピソードというだけのことですが、遺憾ながらこのような事態も生じているのだ、ということを、各駅に張ってあった新聞記事のコピーの写真を載せることで記憶にとどめ、将来への戒めとしたいと思います。この写真もクリックすると拡大します。
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 やがて石越駅から連絡があって、幸い列車はあまり遅れることなくやってくるようだとのことでした。乗車を効率よくするために、列を作ってホームに並ぶよう要請されます。それは一向に構わないのですが、なにしろ大雨の上に暴風で、ホームの屋根も用をなしません。
 寒い思いをして待つことしばし、定刻から数分遅れて、2両編成のディーゼルカーがやってきたのでした。列車は小生が先ほど乗ったときよりは混んでいましたが、そう列車の運行に支障をきたしそうなほど酷くはありませんでした。積み残しなんてことは全くなく、列車は走り出します。

 小生が降りようと思っていた大岡までは、それほど時間はかかりませんでした。列車が東北新幹線の高架橋をくぐると、もうすぐに大岡駅でした。この駅から乗った人は(確か)なく、下りた人は4人いました。先ほど書いた、薬局に行ったおばあさんと、それを取材していたNHKのリポーターとカメラマン、そして小生です。
 おばあさんが列車から降りるところを撮影したNHK一行は、携帯電話で別働隊を呼び出して車で迎えに来てもらっていました。それまでは待合室で待機の様子です。一方小生も降りてはみたものの、この駅は周囲に店の類もなく(街道からちょっと外れたところにある模様)、一面の田圃とそばの製材所くらいが目に付くだけです。風は一層激しく、田圃を渡って吹き募ってくるので、小生もたまらず待合室に逃げ込みました。この待合室も小さいながら昔のままらしき木造で、ちょっと趣がありました。
 待合室でNHKの人と話をしつつ列車を待ちます。NHKでは最終日まで色々と取材をして、4月3日に放送する予定だということですが、残念ながら宮城県ローカルだとの由。カメラマンはもちろん大きなカメラを担いでいて、防水のカバーはしてあるのですが、こういう雨で寒い日は部屋に入ったりすると温度変化で結露したりして大変とのことで、まったく運の悪いことです。NHKの人曰く、地元の人も最終日は混むだろうからと避けて今日までに乗っている人が結構いるという話でした。

 そんな話をしているうちに、列車がやってきました。予備車になっていた名鉄から来たレールバスが、2両編成でやってきます。この車輌が取り持った縁なのでしょう、栗原電鉄の駅の飾りつけなどに「名鉄友の会」の名前の入ったものが幾つか見られました。風雨の中、ずぶぬれになりつつ撮影しましたが、出来はいまいち。
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 背景に写っている高架橋は東北自動車道です。つまりこの大岡駅は、新幹線と高速道路という新たな交通機関に挟まれた谷間のような場所にあるのです。そんな新たな交通機関の時代についてくことができなくなって、栗原電鉄改めくりはら田園鉄道は消え去ったのでした。

※追記
廃止後のくりでんの状況やくりでんの遺産を生かす試みについては、以下の記事をご参照下さい。
くりでん(くりはら田園鉄道・栗原電鉄)の現況を見る 前篇 / 中篇 / 後篇


 さて、小生はこの後は基本的に帰るだけなのですが、折角だから幾つか寄り道して行こうと思い立ち、まず最近線路が付け替えられて一駅延長した、仙石線の仙台口に乗ろうと思いました。仙石線は東北線と松島や塩釜周辺で線路が近接していますが、連絡駅はありません。まあ現地に行けば分かるだろうと楽観的に考えていました。時刻表を調べると、東北線松島駅に下りてから二十数分後に仙石線松島海岸駅を仙台方面行きの快速列車が出ます。これに乗れれば至極都合が良い。幸い雨も止んできたことだし、と小生は松島駅に降り立ちました。
 後で地図を調べて分かったのですが、駅名からすると近そうな松島海岸駅より、一駅隣の高城町の方が松島駅に近かったようで、また乗り換えるのなら塩釜→西塩釜が近かったようです。そんなことも知らぬ小生は、早足で山を越え(なにせリアス式海岸ですから、海岸近くも起伏が激しい地形です)、15分ばかり歩いて松島を望む海岸道路に出て、あと5分余りだけどもう着くかと、やれやれと思ったら、土産物屋の看板に「松島海岸駅 徒歩10分」とあってぎょっとした(もっとも隣に「松島駅 徒歩20分」とあってちょっと安心しました)りしましたが、まあ何とか乗れました。結果的には、トンネルに次ぐトンネルの合間から海が見える車窓を楽しむことが出来て結構でした。
 あおば通駅まで延長されるずっと前に仙石線は乗っていたはずなのですが、全く記憶がありません。初めて乗るような感覚であおば通りまで乗り通し、仙台駅で腹ごしらえをして、東北線の福島行きで一路南下します。
 ああそうそう、仙台駅の地下街で見つけたロワイヤル・テラッセという洋菓子屋さんの制服はなかなかのものでした。スカートがちょっと短くてタイトな感はありますが、エプロンがなかなか可愛くて良し。後で調べてみて、このお店が仙台銘菓「萩の月」を作っている会社と同じだと知ってちょっと驚きました。急いでいたし帰宅まで時間があるので、買えなかったのが残念です。

 話を戻して。
 福島行きは運悪くロングシートの車輌に当たってしまいましたが、空いていたので快適といえば快適でした。しかもくりはら田園鉄道でのみぞれや暴風雨が嘘のように空は晴れ渡ってきました。一部に不気味な雲を残してはいましたが。
 県境を越える頃には列車はますます空き、小生の乗っていた車輌には3人しか乗っておらず、しかも車内改札時に様子を見ると小生を含む2名は青春18切符使用者でした。小生は空いているのをいいことに、栗原でずぶぬれになって手にぶら下げていた折畳傘を車内で広げて干していました(笑)。福島が近づいて他のお客が乗って来るまでにちゃんと乾きました。

 というわけで福島に着きます。ここで今まで乗ったことがなかった、飯坂温泉へ延びている福島交通線に乗ることとします。阿武隈急行と共用のホームに向かい、東急かの中古車を譲り受けて中間車に運転台をくっつけた車輌に乗り込みます。
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 この東急から来た車輌によって追い出された車輌が、先ほど栗原電鉄の沢柳駅に転がっていた(そして土産物屋になっていた)車輌でした。妙な縁をちょっと感じます。
 福島交通はそこそこ乗客も乗っており、路線は大体道路沿いをずっと走って飯坂温泉に着きます。30分弱、車窓は特に目立つものはありません。線路は見ていると大体コンクリート枕木になっているようで、乗り心地も平穏です。しかしこれをつまらないと評するのは趣味者の戯言であり、交通機関としてはきちんと機能していることを正当に評価すべきなのでしょう。

 さて、小生は飯坂温泉では乗ってきた電車ですぐ折り返すつもりでした。というのも、この後の東北線の乗り継ぎが大変よく、とはつまり夕刻の福島から夜更けの渋谷まで、食事を摂る時間が碌にないということです。飯坂温泉ですぐ折り返せば福島で約30分の余裕があり、何か買物をする暇もあるでしょう。
 というわけで飯坂温泉に着いた小生は、さっさと改札を抜けて帰りの切符を買い、さて折り返しの電車は何分に出るのかと振り返ると・・・あれ、もう電車は動き出しています。えらく折り返し時間の短いダイヤだったのでした。これで福島駅の乗り換え時間は10分に満たないものとなってしまいました。予定の電車に乗り遅れないだけマシというべきなのかもしれませんが。
 仕方ないので、次の電車まで駅周辺をぶらぶらします。芭蕉の銅像の由来記を読み、駅前に架かっている十綱橋という大正時代製のアーチ橋を眺め、駅の壁に掲げられていた病院廃止反対の看板を写真に収めました。
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 しかし、確か福島県って、警察が強引に医者を医療ミスとして告発したせいで、抗議運動が起こっている有名な土地ではありませんでしたっけ。

 さて、福島で食糧調達が出来るか不透明になったので、飯坂温泉で何か手に入らないかと思って駅周辺をうろうろしていたら(駅の隣にコンビニがありましたが、ここまできてコンビニというのもつまらないと思って)、「作りたてのお弁当 くりむら」というお店がありました。覗くと、弁当の他にお惣菜の単品が色々とあるようです。そして値段が、コロッケ52円メンチカツ73円と安かったので、店に入って誂えました。そこでえらいことに気がついたのですが、このお店は親切にも注文してからコロッケもメンチカツも揚げてくれたのです。それは良いのですが、またもや電車に乗り遅れるかと思いました(笑)。幸い間に合いましたが。
 福島駅に戻り、駅ビルでヴィ・ド・フランスを見つけたので、フランスパンを一本買いこみました。あとは黒磯行に乗り、黒磯で宇都宮行に、宇都宮で湘南新宿ラインに乗り継いで帰宅しました。車中でフランスパンを齧りつつ藤田省三を読んでいるうちに、渋谷へ列車は到着したのでした。

 旅行記はこれでお仕舞ですが、本日付の日本経済新聞の夕刊を読んでいたら、出久根達郎氏のコラム「レターの三枚目」に、「ディーゼル車の匂い」と題して、前篇で取り上げた鹿島鉄道が取り上げられています。参考までに、該当部分を引用しておきます。
 ・・・茨城県の鹿島鉄道が、八十三年の歴史を閉じた、とある。私の故郷の鉄道である。今は珍しいディーゼル車が、霞ケ浦の湖岸を走る。新聞には、「国内現役最古のディーゼル車」とある。
 私が生まれたのは鹿島鉄道沿線の町で、母は幼児の私を背負って父の実家によく出かけたらしい。ところが、必ずといってよいほど、私が車中でひきつけを起す。原因が分からない。医師は、ディーゼル車の匂いではないか、と言ったそうだが、私は単純に列車に興奮したのだと思う。
 私が四つか五つの頃、母は勧工場(かんこうば、デパートのようなもの)に勤めていて、私は母が上がるまで、その建物の横でおとなしく座ったまま、鹿島鉄道の列車を眺めていた。列車は一時間に一本しか走らない。来た、と思うと、すぐに過ぎる。バンザイを叫んだら、また長く待たなければならない。
 その時間を、幼い私は何を考えていたのだろう。それとも、ただ、ぼんやりと過ごしていたのだろうか。
 戦争が終わって三年か四年たった頃である。今気がついたが、当時もディーゼル車だったのだろうか?調べてみなければ。・・・
 小生の手元には、鹿島参宮鉄道の良い資料がとっさには見つかりません(筑波鉄道の昔の車輌の資料ならあったけど)。1963年まで蒸気機関車が走っていたことは間違いなさそうなので、蒸気機関車の公算は高そうですが、ディーゼルカーの初入線がいつかがよく分からないのです。
 それはそれとして、この出久根氏のコラムを読んで、戦後でも「勧工場」があって、しかも鹿島鉄道の沿線にあったのだということに、小生はもっとも驚きました。
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by bokukoui | 2007-04-04 23:56 | 鉄道(現況実見)

鹿島鉄道・栗原電鉄を惜しむ駆け足紀行 後篇

 一昨日の記事の続きです。
 この日は廃止を翌日に控えたくりはら田園鉄道(旧栗原電鉄)に乗ることが主な目的です。

 早朝5時台に起き出して宿を出ます。と、道路のアスファルトが雨に濡れています。この段階では小降りでしたが、生憎の天気だなあと思いつつ6時発の東北線始発に乗って、栗原電鉄改めくりはら田園鉄道の始発駅である石越に向かいます。混雑を見越して早いうちに訪れ、ついでに帰途に福島交通でも乗ろうという算段で、思い切って早く出てきたのです。
 始発の下り東北線の車内はやはり空いていましたが、ちらほら見える乗客の中にはやはり同好の士と見受けられる方々が。

 一時間ほどで石越駅に到着。前篇にも書きましたが、小生は東北地方に来たのは中学生の時以来で、この区間の東北本線に乗ったのは中2の夏から十数年ぶりということになります。その時、車内から栗原電鉄(当時)の電車を見た覚えはありますが、残念ながら乗ってはいませんでした。まあその代り、というわけでもないですが、今は旅客輸送を廃止した小坂精錬の旅客列車にその時は乗ったのですが。
 というわけで石越の駅に初めて降り立ち、駅舎を出てすぐ目の前にあるくりはら田園鉄道の石越駅に向かいます。雨は一層激しくなってきました。下の写真はクリックすると拡大します。
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くりはら田園鉄道石越駅 右手の看板は今でも「栗原電鉄沿線観光案内図」
(この写真は帰途に撮影したものです)

 始発駅でも石越は駅員無配置になっており、駅舎内部の告知を見ると、近所の床屋が一部業務の委託を引き受けていたようでした。次の写真もクリックすると拡大表示します。
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 駅には既に列車が到着していました。ディーゼルカーです。
 元々この鉄道は軽便鉄道として作られ、細倉鉱山の功績搬出に活躍しましたが、敗戦直後の石炭不足の時期に電化され(当時日本の電力は大部分水力発電だったので、地域によっては石炭より動力が得やすかった)ました。ところが鉱山が閉山になって経営が悪化し、地元の自治体が出資する第3セクターに移管されて社名もくりはら田園鉄道に変わります。この時に経費削減のため、電化をやめてディーゼルカーを導入するという、日本では比較的珍しい(名鉄のローカル区間などに例があり、また最近は他にもあるが)改革を行いました。アメリカの鉄道では、蒸気機関車から20世紀初頭に電気にしたものの、二次大戦後安い軽油を使ったディーゼルに切替えた、なんて例は結構あるようですが。
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架線を撤去されて空しく立つ架線柱(クリックすると拡大表示)

 話を戻して、その単行のディーゼルカーに乗り込みます。以下の写真はクリックすると拡大します。
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 まだ時間が早いので、車内は座席が一通り埋まって立ち客も出ていますが、それほど大混雑と言うほどではない状況です。もっともその乗客の大部分は鉄道趣味者と見受けられましたが。
 上の写真をクリックして見ていただくと、車体側面に掲げられた惜別の横断幕に半ば隠れていますが、何やら児童画が張ってあるのが見えるかと思います。拡大した写真を以下に示します。クリックするとこれも大きく表示します。
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 列車は間もなく発車しましたが、車内放送を聴いているとこの絵の事情が大体分かりました。なんでも宮城県ローカルの「OH! バンデス」なる番組があり、その番組の企画でくりはら田園鉄道の応援をやっていたということのようです。ので、この車輌は「OH! バンデス」号と名乗って車内外に色々とイベント的な趣向を凝らしていたのでした。で、この「OH! バンデス」のメイン司会者が、『青葉城恋唄』で(のみ)有名なさとう宗幸氏だったのでありました。車内放送も氏の声でした(確か)。車内にはさとう宗幸氏が寄せたメッセージも。
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 走行中の撮影につき、揺れでぶれていることをご諒承下さい。
 それにしても、さとう宗幸氏って『青葉城恋唄』の一発屋だとばっかり思っていたら、実は宮城県では今でも充分有名人だったんですね。ご当地ソングのメリットはこんなところにも。ウィキペディアの「OH! バンデス」の項目を見ると、「宮城県のローカル番組ではかなりの人気番組であり、常に高視聴率をキープしつづけている」のだそうで、さとう氏に関する見識を改めました。

 話を戻します。
 先ほど揺れのため車内で撮った写真がぶれた旨を記しましたが、くりはら田園鉄道の線路の状態はあまり良くはありませんでした。今までに小生も幾つかローカル路線に乗り、相当に酷い揺れも経験してきましたが、その中で最悪ではないにせよかなり良くない方のように感じます。少なくとも昨日の鹿島鉄道よりはよく揺れました。
 列車は揺れながら進み、若柳駅に到着します。この駅は栗原電鉄の本社があった駅で(くりはら田園鉄道になっても同じと思いますが)、電化時代の電車がそのままに転がされています。この駅は駅員がいて、タブレット交換を行います。タブレットとはなんぞやの説明は面倒なので、ご存じない方はお手近の鉄道趣味者にお問い合わせ下さい。要するに列車が一区間に一本しか走らないようにする保安装置で、昔は広く使われていましたが、最近は自動化が進んでほとんど目にしなくなりました。この方式は人間が操作する必要があるため、列車交換をする駅では必ず駅員を配置しなければならない(切符売るだけなら委託でいいけど、信号やポイントの操作では許されない)のが、近年急速に消えていった理由です。小生も以前幾つかの鉄道で目にしてきましたが、久しぶりに見た風景でした。

 若柳の駅では結構な乗車がありました。鉄道趣味者ではない利用者、つまり高校生らしき姿も見えます。春休み中でなければ学生が大勢乗ってきたのかもしれません。
 この列車にはNHKのクルーが乗り込んでいて、取材に当たっていました。取材陣もやはり取材をするなら元々の利用者の声を拾いたいのでしょう、早速高校生にインタビューをしていました。
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通学する高校生に取材するNHKクルー

 ちなみに同じ車内に、やはり高校生か、或いは中学生かもしれないと思うのですが、女の子も乗っていました。NHKクルーはそちらは取材していなかったようですが、どうしてだったんでしょうね。やはり彼女がジャージ姿だったから? でもこの日の天候を考えれば、それは賢明な選択だったと思います。

 列車は田畑が広がるのどかな風景の中を通り過ぎ、大岡駅の手前で新幹線の高架橋をくぐり、沢辺駅で上り列車と交換します。更に列車は栗駒駅を経て、山の中へと曲がりながら登っていく感じです。トンネルもありましたが、中は素掘りだったのをあとでコンクリートの柱を入れて補強したような感じでした。地元の方や鉄道マニアが途中でそれなりに乗り降りしますが、やはり小生含め多くの人は終点の細倉マインパーク前まで乗り通したようです。
 ディーゼルカーは、かつての細倉駅構内跡を通り過ぎて、新しく作られた細倉マインパーク前駅に到着します。一時間弱ほどの行程でした。天気は一層悪くなり、雨は標高が上がったせいなのかみぞれ交じりの雪に変わっています。
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 上の写真はクリックすると拡大表示します。
 折り返しの時間は余りありませんでしたが、できるだけ周囲を見て回ります。
 細倉マインパーク前駅は、元々鉛や亜鉛の鉱山だった細倉鉱山が閉山した跡地に作られた観光施設である細倉マインパークに連絡するためにできた駅です。鉱山があった頃は、旅客輸送は細倉駅までで、そこから鉱山まで貨物線が延びていました。その細倉駅の跡地を写真に撮ります。この写真もクリックすると拡大。
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 複線の線路やホーム、駅舎が残されていることが分かりますが、それ以上に雪の降る状況もお分かりいただけるかと思います。
 同じ地点から反対を向いて、細倉マインパーク前駅の方を一枚。これもクリックすると大きくなります。
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 旧細倉駅と細倉マインパーク前駅の位置関係が大体了承されようかと思いますが、それ以上に寒さの伝わる一枚になりました。
 駅の反対側は、当然終点なので車止めで線路が途切れているのですが、そこに電気機関車と貨車、そして腕木式信号機が保存されています。この写真もクリックすると拡大します。
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 腕木式信号機とは、これまた昔はよく使われていた信号機でしたが、タブレット閉塞同様人間の作業によって操作するものであるため、保安上の理由及び人件費節減、そしてこの栗原のようにそんなものを後生大事に使っていた鉄道自体が消滅し、現役で残っているものは日本ではもはやほとんどありません。旅客鉄道で残っているのは津軽鉄道とここくりはら田園鉄道だけでしたが、くりはらの廃止によってとうとう津軽のみになりました。

 慌しく駅周辺を観察して、折り返しの列車に乗ります。前篇の鹿島の時同様、今度も前方の見晴らしの良い場所に陣取ることができました。もっとも、雪の降る寒さに窓は曇ってしまい、外の様子はあまりよく見えませんでしたが。ワイパーの付いていない貫通扉の窓は、雪がくっついて前方がほとんど見えなくなっていました。
 同じ様な場所で前方を見ていた一人のおばあさんがおりました。こういった路線では、高校生とご老人以外は鉄道趣味者と相場が決まっており、また昨日の鹿島鉄道同様別れを惜しむ地元の爺さん婆さんが乗りにきている場合が多いのですが、このおばあさんは小生が仙台から石越まで乗ってきた東北線の車中でも隣の席でした。NHKのクルーもてっきり地元の人だと思って往路で取材を試みたりしていたのですが、つまり、このおばあさんは地元の人ではないのに、くりはら田園鉄道に乗りに来ていたのです。
 で、この時にちょっとそのおばあさんと話をしたのですが、はるばる東京からやってきたとのこと(人のこといえませんが)。もしかして、酒井順子氏のような鉄道好き女性は高齢者層に潜在的な人口があったのかと内心驚きました。ご当人曰くは「古いものがなくなりそうだと聞くと見に行く」ということで、これだけ聞くと鉄道とは必ずしも限らないようですが、最初にそういったなくなるものを追いかけたのは? と伺うと、1997年に廃止になった信越本線の碓氷峠との由。廃線以外では何か? と尋ねますと、旧国鉄本社ビル(現在は再開発されて丸の内オアゾ)が解体前に一般公開した時に行ったとの由。うーむ、やっぱ鉄道ネタだ。
 栗原に来たのはしかし、ほんの数日前に旦那さんがラジオを聞いていて、「くりはら田園鉄道とやらが今月いっぱいでなくなるらしいから、行ったらどうだ」と教えてくれたからだそうです。つまり鉄道趣味的情報に通暁しておられるというわけではないようですね。それはそれとして、しかし小生が思ったのは、このおばあさんの旦那さんは、良い方だなあということでした。こういうところが夫婦長続きの秘訣か!?
 とまれ、酒井順子氏のような人がこれから増えるかどうかは分かりませんけど、なくなりそうなものを通じてでも近代の歴史に関心を持つ人が増えるとすれば、まあ結構なことだと思います。少なくとも、「モノ」と結びついた歴史への関心は、思弁的なものから入る関心よりも、不毛な妄想に至る危険性が少なくて済みそうに思われるからです。

 おばあさんは栗駒の駅で降りていきました。この駅周辺は見るところも食べるところもありそうだから、とのこと。小生も折角なので、それほど時間に余裕はありませんが、どこか途中の駅で降りようと考え、有人駅で昔の電車の廃車がそのまま残っている若柳で下りようと考えました。
 この線の有人駅は若柳・沢辺・栗駒の三駅で、真ん中の沢辺駅で上下の列車が交換するというダイヤに大体なっています。その沢辺駅で、先ほど触れたタブレットや腕木式信号機が現役で稼動する様を見ることができました。
 曇ったガラス越しに撮ったので非常に分かりにくい画像ですが、以下に示します。沢辺駅手前の信号(多分駅構内に列車が入って良いかを表示する場内信号機)の動作です。
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「停止」を表示している(腕木が上がっている)信号機

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対向列車が沢辺駅に到着し、「進行」を表示した(腕木が下がった)信号機

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沢辺駅でのタブレット交換

 今となっては貴重な光景を見届けることができました。

 電化をやめて、栗原電鉄からくりはら田園鉄道に衣替えしたこの路線(略称は「くりでん」のようですが、これは以前の「栗電」と、改称後の「くり田」と、どっちでも通じるようにしてあるのでしょうか。最初「田園鉄道」というセンスに正直疑問を覚えたのですが、こういう理由だったとすればなかなか面白いことと思います)ですが、上の写真に示したように架線を剥がしても架線柱はそのままで、電化の時代の雰囲気をとどめていました。しかも段々と細倉へ近づくにつれ、架線のうちトロリー線は剥がしてあってもカテナリー線は残されていて、ますます電化路線ぽくなり、終点の細倉附近では架線は全くそのままのようで、電気さえ流したら今でも電車が走れそうな様子でした。(注:トロリー線とはパンタグラフと接触して電気を供給する線、カテナリー線はトロリー線を吊り下げている線。ちなみに「架線」は、正しくは電車線路という)
 で、そのような中途半端な撤去跡が、他にもあったのです。これも車内から撮ったものであまり綺麗ではありませんが、ご参考までに。
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 ポイントが撤去されているようなのですが、ポイント全部ではなく一部分(トングレールとリードレール)だけ取り除かれているようです。これは何箇所か目にしました。貨物もやめてポイントを使わなくなると、通過時に乗り心地も悪いし保線も面倒だし、あとうろ覚えなのですがポイントには固定資産税がかかる(?)だかなんだかで、使わないポイントは撤去することが、特に近年は多い(JR化後はそれが推し進められ、ために事故の際に一部区間の折返し運転に支障をきたしているとか)ようで、栗原もそうしようとしたけれど、費用の都合か何かで中途半端に済ませた、のでしょうか。

 そんなこんなで沢辺を過ぎ、若柳駅に列車は着きました。小生はここで下車し、駅構内に放置されている車輌を見て回ります。くりはら田園鉄道は、沿線風景や駅の施設は長閑さ満点ですが、車輌の方は近年電化をやめてディーゼルにした関係であまり見るものはありません。そこで折角なので、古い電車が保存(というより放置というべきか)されているのを見ておこうと思ったのです。小生、ディーゼルカーより電車の方が好きなものですし。もっとも栗原電鉄自体、戦前は軽便鉄道だったのを戦後国鉄と直通できるように改軌しているため、そうえらく古い車輌があるわけではないのですが。
 拙いものですが何枚か。
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栗原電鉄生え抜きのM153 後ろに顔を覗かせているのは西武から来たM181

 M153とかいうとなんだか米軍の兵器の名前みたいですが、Mというのはモーター付の車輌を意味し、15とか18というのは車体の長さを示すそうです。最後の数字が製造番号で、随分大雑把な番号の付け方ですが、まあ車輌の少ない地方私鉄ならそれで充分だったのでしょう。
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福島交通から来たM183 その後方はM181・M153

 駅の反対側から撮った写真です。今日帰途に寄る予定の福島交通から来た電車が見えますが、この電車は同形がもう一両あって、その車輌がなんと最後のお勤め(?)に駆り出されているのです。その模様を写したのが以下の写真、これはクリックすると拡大します。
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 一部分だけですが塗り直され、ドアが開いていますね。これは、車内を臨時のくりはら田園鉄道関連グッズ販売所とし、同時に写真やパネルでちょっとした展示を行っていたのです。降りしきる雨を逃れて車内で展示を見、ついでにグッズ――といっても一般的なお土産品のようなものに小生は全く関心が湧かないので、栗原電鉄に関する書物と、M15形電車が導入された時の仕様書を復刻したものを購入しました。
 仕様書の話が出たついでに書いておきますが、この鉄道の廃止に伴って会社に保存されていた書類の散逸を防ごうという事業が既に行われており、近代史の研究者が何人かちょくちょく本社まで調査や整理に来ているそうです。(※追記:その関係で、この遺産を地域活用に生かそうという事業のために栗駒市を訪れて、奇禍に遭われたのが岸由一郎さんでした
 その本社も若柳の駅のそばにありました。
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 写真をクリックして拡大していただければ、建物には未だ改称前の「栗原電鉄」の文字が残っていることがお分かりいただけようかと思います。

 雨のみならず風も結構強くなって春の嵐の様相となり、大変寒く感じられたので、駅舎の中に逃げ込みます。待合室ではストーブが焚かれています。この駅舎は創業当時とあまり変わっていない由で、確かに壁に作りつけられた木のベンチや、木製のままの窓枠など、なかなか良い雰囲気です。沢辺などの駅舎も全く同じ設計図で作られていたのだとか。
 駅舎の中は多くの人で賑わっていました。鉄道趣味者が多いのは勿論ですが、家族で乗りに来た地元の方も多いようです。孫を連れたご老人の姿も見受けられ、この状況は鹿島鉄道と似ていました。中には本当に用事で(薬局に行くのだとか)乗ってきたお婆さんもいて、NHK取材班(彼らは自動車を併用して沿線を回っている模様)がこれまた取材を申し込んでいました。
 そんな駅舎の様子を。クリックすると拡大します。
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若柳駅の様子 「出札口」の札が良い雰囲気

 この写真でも、「ありがとうくりでん」と地元の子どもたちによると思われる飾り付けがありますが、駅舎の中になかなか興味深い、子どもの手による作品がありましたのでちょっとご紹介。
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 これは地元ではなくて、仙台の小学生が作った展示のようでした。事情はちょっと分かりませんが、多分夏休みの自由研究とか文化行事の展示のような目的で作ったものなのでしょう。小生も昔中学の鉄研で似たような展示を拵えていたこともあり、またこの展示は「タブレット閉塞」や「腕木式信号機」なんかもちゃんと説明を書いていたので、将来が楽しみな少年(笑)と思った次第です。
 子どもついでに、若柳駅にあった「くりでん文庫」という、乗客などが持ち寄ったのであろう本のコーナーがあったのでこれも撮影。この写真はクリックすると拡大します。
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 以前立ち寄った猪谷駅のそれよりは充実したラインナップかと思います。

 さて、ここら辺で記事が長すぎて一回に投稿できる長さを超えてしまったので、若柳駅を出発してからの話と、鹿島鉄道関連のおまけの話は終篇に廻します。
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by bokukoui | 2007-04-03 23:58 | 鉄道(現況実見)