タグ:電気事業史関係 ( 39 ) タグの人気記事

ウェイトレスが袴なファミレス「馬車道」が特定規模電気事業者(PPS)になっていた

 このブログ、元々制服やらメイドやらを扱う同人サークルのサイトのコンテンツだったはずなのに、同人を休業してサイト本体も消滅して、すっかり鉄道史と電力業史と鍋焼うどんのブログになっておりましたが、久しぶりに制服系ファミレスの話題・・・なのか?

 で、タイトルそのまんまなのですが、ウェイトレスさんが袴に矢絣の「はいからさん」スタイルで有名な、埼玉を衷心に展開しているファミレス「馬車道」グループが、なんと電力会社になっていた!? という、まあそれだけのことなのですが、驚きました。

 昨年の原発事故以来、発送電分離やら電力自由化やらが一時世間を賑わせましたが、実のところ90年代末以降着実に電力業の自由化は進められており、一般に「電力会社」といって思いつく、いわゆる10電力以外に、いくつもの電気事業者が新たに誕生しました(10電力以外にも電源開発とか原電とか公営発電事業とかもありましたが)。
 かくて登場したのが、特定規模電気事業者(PPS)と呼ばれるものです。従来の10電力は一般電気事業者といい、定められた営業区域内のすべての需用家に供給できる(需要家から要求があったら供給義務がある)のに対し、PPSとは一定規模以上の需用家(今は50kW以上)に限って供給する事業者です。一般事業者に対し競争相手を導入することで、電気料金低下につなげようという狙いですが、戦前の「電力戦」みたいに一つの工場へ2社が送電線を引き合う、というような愚行はせず、PPSは一般電気事業者が従来持っていた送電線で電気を託送することで供給するのが原則です。電気は自社で発電所を作る場合もありますし、市場で仕入れることもあります。
 で、市場で電気を売る方を専門にやっているのが、卸売の電気事業者で、昔から電発と原電という超大手がありましたが、特に最近話題になっているのが独立発電事業者(IPP)です。これも電力自由化で登場した業態で、こんな感じで小売部門と卸売部門とで、従来の一般事業者による独占を崩す仕組みは生まれています。

 さて、PPS最大手のエネットを挙げるまでもなく、PPSとかに進出する企業として多いのは、やはりガスや石油など元々エネルギー関係の会社です。そして製鉄や製紙のような、電力をたくさん消費し自家発電を大規模に行っているような製造業もあります。商社もいろいろ取り組んでいるようで、外国で燃料を買い付けるのは得意そうですね。
 というわけで、なんやかんやで現在PPSは54社もあるそうです。こちらの資源エネルギー庁のサイトの一覧表をご覧下さい。自由化で新たに事業を興した会社も多いですが、だいたい上に挙げたようなエネルギー系・製造業・商社の関係企業が目につきますね。

 しかし。
 この一覧表の41番は。
41  事業者名:株式会社馬車道

   所在地:埼玉県熊谷市万吉2950番地1

   事業開始予定日:平成23年4月1日
 同名の会社かと一瞬思いましたが、検索したら所在地にはファミレスの馬車道の本社と工場がありました。うーん、意外な業務展開ですね。

 馬車道のPPS進出についてはネット上にも情報が乏しく、何しろ馬車道の公式サイトにすら記述が見当たらないのですが、一つだけ、エネルギー情報局というサイトに記述があるのを見つけました。
株式会社馬車道

2011年1月11日PPS登録。馬車道は関東地域で160店舗(09年9月現在)を展開しており、自社関連施設への供給が中心となるも模様。

しかしながら、震災によりJEPX価格が上昇しており、事業開始を見送り。
 ということなのだそうです。なお、JEPXというのは電力の卸売市場のことです。
 うーん、それにしても間の悪いことですね。PPSに登録されたものの、直後に震災で事業開始先送り。だから、馬車道の公式サイトを見ても関係する記事が発見できなかったのだと思います。

 ところで、このエネルギー情報局さんの記述からすると、馬車道はファミレスの店舗で使う電気を安く供給しようとPPSに進出したもののようですが、外食産業のコストで電力がそこまで大きいのかなとちょっと不思議に思いました。それならもっと先に、より大きな外食チェーンが進出しても良さそうなものです。外食産業のコストはやはり、原材料費と人件費で、店舗の維持費(家賃とか償却とか)や什器の費用も大きそうですが、電気は更にその下ぐらいで・・・いやもちろん、安くできればそれに越したことはありませんが、それこそグループ全体でどこかのPPSと契約して電気をまとめ買いすれば、それなりに安くできそうな気もします。結局どこにPPS進出のインセンティヴがあったのでしょうか。
 先ほど事業者所在地を紹介しましたが、その住所でぐぐってみると、馬車道の本社工場以外にも周辺はたくさんの工場が立地しているので、もしかしたら店舗以外にもそういった工場向けに何かやろうという構想があったのかも知れません。この辺、ビジネスモデルについてご存じの方がおられましたら、是非ご教示いただければと思います。
 とはいえ震災による電力事情の激変からすると、このままお蔵入り事業になってしまいそうな気もしますが・・・。

 というわけで、制服マニアには周知のファミレス・馬車道が、意外な新業態に進出しようとしていたというお話でした。
 このことに気づいた時、小生の脳裏には、紫の矢絣と袴を身にまとい、ブーツを履いた「はいからさんが行く」スタイルのすみれ女史が、給電司令所でモニターを監視しながら電話を握りしめ、「今日の寒さではきっと、現在フェア中の『あつあつビーフシチューハンバーグセット』が出るに違いない! オーブンのフル稼働に備え、全ボイラーを点火せよ!」などと指令を出している場面が、浮かばずにはいられませんでした。

※2012.4.19.追記
 この話をツイッター上でもさわりを紹介したところ、予想外に多くの方の関心を惹いたようで、ありがたい限りです。その反響のうち、流れ去るには惜しいものを一つ記録させていただきます。当ブログでも以前、著書『速水螺旋人の馬車馬大作戦』『靴ずれ戦線』を紹介した、速水螺旋人先生のツイッターです。
Хаями Расэндзин@東京練馬@RASENJIN
馬車道の発電所は意味もなく湯気を噴出するスチームパンクマシンであって欲しい。それに群がるはいからさんスタイルの娘さんたち。飛び交う号令と復唱。急を告げるベル。よくわからないクランクやカム。
2012年4月19日 - 1:24
 螺旋人先生には是非、このスチームパンクなイラストを・・・!

※2012.9.26.追記
 何とこの、「はいからさん発電所」ネタをイラストにして下さった方が!

 「證詞の百合花」より:「馬車道発電所」

 ありがたい限りです。ぜひご覧下さい。
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by bokukoui | 2012-04-18 23:59 | 制服・メイド | Trackback(1) | Comments(0)

橘川武郎『東京電力 失敗の本質 「解体と再生」のシナリオ』『原子力発電をどうするか』略感

 2011年はなんといっても、震災と原発事故の年でした。そこから電気事業のあり方について議論が盛り上がった・・・ようなそうでもないような世相となり、電力業史を一応学んでいる者にとっては考えさせられる、もっと言えばインフラ事業という歴史的な積み重ねが事業の性格を大きく左右せざるを得ない産業について、多くの人々があまりに無関心であることに衝撃を受けざるを得ませんでした。
 当ブログでは少しでもその関心を喚起する一助になればと、震災以降幾つか電力業史の記事を書いてきました。その効果は大してあったとは思えませんが、しかし何もしないというのもあまりに寂しく思えたのです。

 さて、そんな今年を締めくくるために、日本電力業史について現在第一人者とされている経営史学者・橘川武郎先生が、今年震災を受けて発表された本について、簡単にでも(本格的にやるとものすごく大変なので)取り上げてみようと思います。

 取り上げる本は、

 『東京電力 失敗の本質
(東洋経済)

 『原子力発電をどうするか』
(名古屋大学出版会)
 の2冊です。

 このうち、『東京電力 失敗の本質』の方は本年11月の発行で、『原子力発電をどうするか』は8月に出版されています。またタイトルの通り、後者が原発の今後の政策のあるべき姿についてに話題を絞っているのに対し、前者はより広く、日本電力業発展の歴史を踏まえつつ、今後の電気産業全体の方向性について論じています。ですので、後者の内容はおおむね前者に含まれているともいえますから、本稿は基本的に前者について書きますが、後者の内容にも触れることになると考えます。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-12-31 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(0)

総括原価方式の誕生(3) 公益規制と私企業精神の両立

 本記事は、

 日本の電気料金の歴史 総括原価方式の誕生(1)
 総括原価方式の誕生(2) 逓信官僚・平沢要の電気行政構想

 の続きです。
 前回の記事が中途半端なところで終わってしまいましたが、(2)に引き続き、区域独占と総括原価方式の構想を立てたと考えられる逓信官僚・平沢要の電気事業観を検討し、現在諸悪の根源視される総括原価方式の意義を考え、現在にくみ取れる教訓を得たいと思います。特に今回は、平沢が電気事業者の利潤やインセンティヴについて、また監督行政のあるべき姿について、どう考えていたか、を中心に見ていきたいと思います。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-11-15 23:59 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(2)

総括原価方式の誕生(2) 逓信官僚・平沢要の電気行政構想

 本記事は「日本の電気料金の歴史 総括原価方式の誕生(1) 」の続篇です。
 (1)では、日本の電気料金に総括原価方式がどのような経緯で導入されたかを概観し、それが区域独占と同時に、公益規制と事業者のインセンティヴを両立させる一環としての施策であったことを指摘しました。今回は、このような電気行政のシステムを構想したのが誰であったか、ということについて小生の見解を述べてみたいと思います。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-11-13 23:59 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(0)

日本の電気料金の歴史 総括原価方式の誕生(1)

 当ブログでは以前、「日本の「計画停電」の歴史を振り返る~真の「無計画停電」とは」及び「電気代と市場経済~計画停電の歴史・続篇」などという電気事業史関係の記事を書きましたが、その続きとして表題の件について一筆しておきたいと思います。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-11-11 23:59 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(0)

江戸東京博物館「東京の交通100年博」 ササラ電車・甦った6000形

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元東京市電気局・現函館市電の除雪用「ササラ電車」

 今年は9月半ばになっても暑い日が続いたと思ったら、今週は一転涼しくなり、台風の襲来を迎えましたが、これで漸く秋になるのでしょう。
 で、個人的に今年の夏を振り返ってみると何をする気力も湧かず全く沈滞しておりましたが、先月半ば頃から少しは動けるようになり、低効率ながらも停頓はしないで済んでいましたが、今月に入ってまた暑さが戻ったりまた涼しくなる天候に再度消耗している感じです。概して目前のことをこなすのが精一杯で、マンガ一冊読む気力すら失われていたていたらくでしたから、夏休みらしくどこかへ出かけるなんてことにもほとんど縁はなかったのですが、ただ夏休みのはじめの頃にお誘いがあって一つ、そして最近もう一つ、鉄道関係の展示に出かけていまして、まあ折角なので撮った写真でも挙げておこうと思います。

(写真が多いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-09-21 23:04 | 鉄道(歴史方面) | Trackback(1) | Comments(0)

『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』瞥見

f0030574_035173.jpg 当ブログでは昨年、「近鉄創業百周年記念雑文 近鉄が日本最大の私鉄になれたのは?」という一文を物しましたが、そんなわけで近鉄は昨年度、創業百周年を迎えていました。この「百周年」とは、近鉄を形成する中心となった会社・大阪電気軌道が設立された年を指しまして、その開業は1914年のことで、また現在の近鉄線の中でも、南大阪線の母体となった会社は更に古い開業です。ですが、近鉄としては1910年を創業年と位置づけ、それに合わせて社史を編纂しておりました。
 で、ちょっと遅くなりましたが、百周年の年度末には社史も完成しまして、憑かれた大学隠棲氏経由でそのことを知った小生、早速注文した次第。一般頒布限定1000部のことでしたが、幸い入手することが出来、先日近鉄百貨店から我が家に送られて参りました。
 で、当ブログでは過去に阪神の百年史西鉄の百年史を手に入れて紹介しておりましたので、今回も一筆。といっても、いろいろ忙しかったりくたびれていたりして、ろくすっぽ読めておりませんが・・・まあ瞥見ということで。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-04-18 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)

鉄道の節電状況点景 及び多少の余談

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東急電鉄の節電時自動改札機封鎖セット

 一月も負傷して引き籠もっていると、流石になすべきことが溜まって、痛む体に鞭打って出かけねばならなくなっているのですが(自業自得)、そんな折に見かけたものを幾つか。

 上に挙げた写真は、ごく最近に東急の駅の改札に掲げられるようになった、プラスチックの板に文字を印刷してマグネットで留める、節電による使用停止のお知らせです。計画停電当初は、如何にも駅員さんがワープロで打ち出したようなお知らせの紙をテープで留めていましたが、事態の長期化を睨んで専用のグッズをこしらえたようです。他の会社もこのようなものを製作したのでしょうか。

 地震の影響で大学のいつも使っている図書館が休館してしまったので、急ぎの用事で社史類を見るべく、いつぞやもちょっと触れた神奈川県立図書館の川崎分館に行きました。JR南武線に乗っていったのですが、川崎駅で下車してふとホームの時刻表を見ると、こうなっていました。
f0030574_22522950.jpg
快速停車駅の表示の上に「しばらくの間、快速運転は行いません」
そのダイヤ改正の日付は地震の翌日
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 そうか、そういえばこの3月のダイヤ改正から南武線に快速が登場(復活)するんでしたっけ・・・でもこの状況では、当分の間南武線快速電車はお蔵入りになりそうです。

 川崎の図書館で目的の資料を閲覧し、さらに慌ただしく国会図書館に向かいます。で、川崎からならJRで行った方が一般論としては便利なのですが、図書館から見るとJRより手前に京浜急行の高架橋がありまして、その上を走っていく赤い電車を見ると急に乗りたくなったので、少しばかり電車賃を奮発して2100形快特に品川まで乗りました。
 来た快特に乗ってみると、本来、ノルウェー仕込みの青地に赤い水玉という派手な模様のシートが目を打つはずの筈の車内が、暗く沈んでいます。見れば、節電のために昼間は車内の明かりを消していたのでした。
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車内の照明が消された京急2100形
デジカメがお節介に補正してるのでそこそこ明るく見えるが実際はもっと暗い

 全部消すとは思い切った節電をするなあ、と小生は感心しました。普段小生が使っている東急電鉄の場合は、車内の蛍光灯を所々間引きするという節電手法でしたので、すぐには気づかないのです。
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蛍光灯を間引きした東急新5000系

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同じく蛍光灯を間引きした東京地下鉄01系(銀座線)

 と、小生はここでやっと気がつきました。京急2100形は蛍光灯をカバーで覆っているから、間引きするのが面倒なだけだったんでしょうね。蛍光灯がむき出しの場合、ちょっと間引きするのは造作もないことですが、いちいちカバーを外して、となると大事です。
 2100形は泉岳寺まで乗り入れますので、地下を走る場合は電灯を点けざるを得ません。夜もまた同様です。ということは、最も問題になるピークロードの時間、今ならば夕方暗くなってきた頃の節電、という意味では、実は2100形の車内灯消灯というのは、あんまり意味がないのでは・・・?

 そんな観察をしながらあっちこっち資料を見て回りましたが、さすがにくたびれました。首や肩や背中の痛みはなかなか引かず、膝に至っては悪化してる気もしますが・・・湯治とか行ってる暇もカネもありません。自爆事故ですからどうしようもないですが。

 なお、前回ブログ記事の鍋焼うどん探求「神保町満留賀めぐり」シリーズ完結篇に、少し加筆しました。満留賀一門の由来について資料が偶然見つかりましたので。

(以下余談)
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by bokukoui | 2011-03-26 23:58 | 鉄道(現況実見) | Trackback(1) | Comments(4)

電気代と市場経済~計画停電の歴史・続篇

 本記事は一応、前回の記事「日本の『計画停電』の歴史を振り返る~真の『無計画停電』とは」の続きです。当ブログの例に漏れず、やや時機を逸した感もありますが、なかなか書くのが思うに任せませんのでご諒承下さい。

(続きは以下に)
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by bokukoui | 2011-03-17 23:59 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(10)

日本の「計画停電」の歴史を振り返る~真の「無計画停電」とは

 昨日より行われている計画停電に関連して一筆。

 本日病院に行ったところ(何故通院しているかは近日中に書きます)、売店に並んでいた新聞各紙のうち、朝日・神奈川・日経・毎日・読売の各紙は皆1面の大部分を原発問題に割いていたものが、ひとり産経のみ首都圏の停電問題に宛てていました。しかもでかい見出して「無計画停電」とか書いてまして(ネットでは「運行休止に「無計画停電だ!」怒りの女子高生 JR千葉駅 通勤客ら高速バスに行列」とか)、この表現はいかがなものかと首を傾げました。
 で、時事的なことについて敏速に論じるのは小生の得手とするところではありませんが、最近電力の歴史について研究しておりまして、また東大の史料編纂所の所長を務められた保立道久先生が、今時の震災後ご自分のブログで「9世紀の地震史料」と題して地震の歴史について解説しておられるのにいささか感銘を受け、そこで今回の計画停電に関連して、計画停電の歴史についてちょっと書いておこうと思います。最近諸事情によりパソコンでものをろくすっぽ書けなかったので、リハビリということで。
 なお、資料は手元にある『関東の電気事業と東京電力 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』および『関西地方電気事業百年史』です。どちらも、もし前回の記事のように本棚が地震で倒れて頭の上に落ちてきた場合、生命に関わりそうなボリュームの本です。

 さて、小生がこんな記事を書こうと思ったのは、今回計画停電に関して「戦後初」(例えば「「東電は備え甘すぎる」…鉄道大混雑」)とか「戦後混乱期以後初」(例えば「東日本大震災:東電、「輪番停電」実施へ 戦後混乱期以来」)とか「東京電力発足以来初」(例えば「東京電力の計画停電が実施される地域と時間帯リスト」冒頭)などという表現(これら自体相互に矛盾しているともいえる)が各メディアで使われ、それが無批判に伝播している模様に見て取れ、それにちょっと違和感を覚えたからです。計画停電ってもっと後までやっていなかったっけ?
 1951年5月1日、戦時下の電力国家管理によって従来の電力会社を強制出資して設立された日本発送電および各地域の配電会社とが解体され、現在の9電力会社(沖縄復帰後は10電力)が成立しました。東京電力とか東北電力とか関西電力が誕生したのはこの日です。ところが設立早々、電力会社は深刻な電力不足に見舞われます。当時は朝鮮特需で電力需要が伸びる一方、主力だった水力発電が渇水で発電できず、火力用石炭の入手もままならず、需給調整を行わざるを得ませんでした。

 その模様を、『関東の電気事業と東京電力』から拾ってみましょう。
・・・1951年度には、夏に向かうにつれ需給が逼迫するようになった。需要面では、6月以降全需要家に対して1割の節電と昼間負荷の深夜移行を要請し、7月以降は週1日の休電日を実施する一方、供給面でも発電設備補修の繰り延べ、猪苗代系発電所の全出力運転、国鉄・進駐軍火力への委託発電などといった措置を講じた。・・・
 ・・・公益事業委員会は、1951年9月6日に本州全域における電熱器・製塩・ボイラ・広告灯類の使用禁止、電灯・業務用電力の昼間使用禁止小口・大口電力の週1回の休電日実施、500kw以上の大口需要家の使用電力制限・・・などを主な内容とする電力使用制限を告示した。この告示制限は、51年11月と翌52年2月に一部が緩和されたものの、3月後半まで続けられた。・・・
 ・・・53年に入ると1月には異常渇水が生じ、1月9日から本州全域で通商産業省告示による使用制限が発動され、さらに週2日の休電日や輪番緊急停電なども実施された。この告示制限は約2ヵ月間続き、3月2日に解除された。
 1951年度と52年度に危機的局面を迎えた電力需給の逼迫は、53~55年度には改善のきざしを見せた。53年度の場合は供給力がしだいに増加したこともあって、冬季に大口需要家の休日振替やピークカットなどの自主制限、および緊急時対策として一部の負荷遮断を行う程度で事態を乗り切ることが出来た。54年度には・・・年間最大電力が発生する冬季の点灯時間帯に大口需要家に負荷抑制を依頼する程度の制限にとどまった。また、55年度には8月後半と翌年3月半ばにごく短期間の負荷制限が要請されたものの、その内容は、大口工場に対する午後の負荷抑制、9時から12時までの15%負荷抑制、緊急時における一般・大口電力の緊急制限といった軽度の制限にすぎなかった。
(pp.726-727)
 長々と引用しましたが、引用文太字にしている(引用者強調)のが計画停電に類すると思われる使用制限です。今回の計画停電では「輪番停電」という言葉がしばしば登場しましたが、それ以外にも「休電日」を設けたり、緊急時に電気を止めたりといった方法も用いられた(寧ろその方が多かった)のでした。「緊急時における一般・大口電力の緊急制限」というのは、なんだか「馬から落ちて落馬した」みたいな表現ですが、冬の夕方のような需要のピーク時に、地域を決めて短時間送電停止をしたもので、今回の計画停電に一番近いものかもしれません。

 ちなみに、関東より深刻な関西の電力制限事情の中で、停電に至ったと見られるものを簡単にまとめてみますと(『関西地方電気事業百年史』p.616)、

・1951年度
5月~9月:大口に対し休電日振替、一般に対し昼間時間遮断(週3日)
9月~3月:大口に対し休電日(週2日)、一般に対し昼間時間遮断(週3日)
 ※9月~3月は自主制限ではなく電気需給調整規則第14条による告示制限

・1952年度
6月~12月:ストにより一般に対し昼間時間遮断
8月~1月:大口に対し休電日振替
 ※8月~1月は告示制限

・1953年度
10月~3月:大口に対し休電日振替、一般に対し昼間時間遮断(週1日)

・1954年度
2月:大口に対し休電日振替


 というわけで以上をまとめますと、

 ・計画停電は戦後初でも東京電力初でもなく、高度成長期初期までやっていた。

 ということになります。「戦後混乱期」という言葉は定義がよく分からず、ウィキペディアに項目がありますが何だか曖昧で練れていないですね。まあどっちにせよ、独立回復後も計画停電やっていたことは確かです。
 で、東電の関係者も「会社始まって以来」とかテレビで言っていたのを見た記憶がありますが、そうではありません。せいぜい半世紀ちょっと前のことで、まだ当時の記憶を持っておられる方も大勢おられるはずなのですが・・・然し東電の現役にはいないんでしょうね。計画停電のノウハウが継承されなかったのが、もしかすると「無計画停電」などと叩かれた一因なのでしょうか。
 今次の計画停電は停電そのものより、いつどこが停電するのか分かりにくい、ということで大きな不評を買っているもののようです。もっとも、「停電しません、大丈夫です」といっておいて停電されるより、「停電する予定です」だったのが「大丈夫でした」の方が何万倍もマシではあります。何せ急なことですから、最初のドタバタはある程度やむを得ず、最悪のドタバタであるシステムダウンして全滅、が避けられていることは評価すべきと思います。
 然しこの問題は多少の経験で改善されると思われます。寧ろ怖いのは今後で、需要家が「なあんだ計画停電といっても大したことないじゃん」と気が緩んだところで、システムの回復が追いついていないと・・・というのが最悪の想定でしょう。節電節電。

 また、個人的にちょっと気になったのが、今回の停電については当初メディアでは主に「輪番停電」と称していましたが、途中から「計画停電」に変わりました。菅総理が会見で「計画停電」といったあたりからではないかと思いますが、それを反映して、いかにも急ごしらえでウィキペディアに「輪番停電」の項目が設けられ、あとから「計画停電」に変えようという話になっています
 ざっと上掲2冊の書物の、戦後の電力逼迫状況の項を読んだ印象では、電力の逼迫に対し需要側を減らすことで対応すること全般を「電力使用制限」簡単には「電力制限」と呼び、その手段として軽いものとしては「節電のお願い」広告にはじまり、大口の工場の使用量抑制、更に強硬策として停電に至る休電日(「休電日振替」とは、工場の休日を日曜日に揃えず分散させて需要を均衡化することのよう)を設けたり、昼間の電灯への供給を止めたり、更に緊急策として輪番停電したり、という段階のようです。
 図式化するとこんな感じでしょうか。

  ◎電力使用制限
     ◇節電:不要不急なネオンなどの停止
     ◇使用量抑制:供給量を減らすが止めはしない
     ◇計画停電:電気を止める
       ・休電日
       ・時間制限
       ・輪番停電


 ま、小生も使用制限について勉強したことはないので、これが正しいというつもりは全くありませんが、ウィキペディア編集の方のご参考程度にはなるでしょう。

 さて、久しぶりに長文を書いて疲れたので、以下は前に読んだ文献からのうろ覚えのお話を。

 戦後復興期よりも更に前に、大規模な電力使用制限が行われた時期といえば、まず戦時中が挙げられます。
 「新体制」のかけ声と日中戦争の泥沼化の中で、1938年国家総動員法と共に第1次電力国家管理が決定されます。それにより1939年、大規模な発電を業務の中心とする日本発送電が設立されましたが、配電事業は従来の電力会社が行いました。日本発送電は従来の電力会社の大規模火力を強制出資させ、大規模水力を管理下に置きました(この辺ややこしいんですが詳細は面倒なので省略)。ところがその冬は大渇水、でも軍需生産で電力需要はうなぎ登り、石炭も軍需と取り合いで足りず、初手から電力供給制限となってしまいます。「豊富低廉」な電力を売りにしたはずの国管のこのざまに非難の声が上がりますが、それに対して当局はどうしたかというと――第2次電力国管で配電も地域ごとの特殊会社に統合し、民間・公営の電気事業者を消滅させるという更なる統制強化に出たのでした。

 とまあ、朝鮮戦争や日中戦争・太平洋戦争という戦時を背景に電力逼迫→供給制限で計画停電、というパターンが日本には存在しました。そしてこのパターンはもう1回ありました。それは第1次世界大戦の頃です。

 第1次大戦時は日本は戦場にならず、連合国への輸出をきっかけに大戦バブルという経済状況にありました。そしてこの大戦中、工場動力として電力が蒸気力を上回ることになります。
 ところが大戦バブルで電力需要が急に増えても、おいそれと発電所は増設できません。まして当時の日本は、重電機器を自給できず、しかし戦争中だからドイツから輸入は出来ないし英米は自国で手一杯。というわけで、大戦末から直後にかけて、重大な電力危機が生じました。それは特に、当時の日本製造業の中心で、水力発電の発達が遅れていた関西で深刻でした。関東は明治末から山梨や北関東・福島からの送電線があったのですが、関西はせいぜい琵琶湖くらいでした。
 当時関西の有力電力会社といえば、大阪で火力発電中心に電灯・電力とも供給している大阪電灯と、琵琶湖から流れ出す水で発電を行い、大阪電灯などに卸売りをするほか、大口の供給もやっていた宇治川電気が大きなところでした。この両者は協調関係にあり(のち対立に転じますが)、大阪電灯の電線を経由して、宇治電は大阪市内の工場に電気を送っていました。ところが電気が足りない。ではどうしたのでしょうか? 文献はこう述べています。
京阪地方の動力用電力は頻々と停電した。停電したのではない。今だから書いてもよいだろうが、宇治電で停電させたのである。前に一言した様に、宇治電は大阪電灯の架空線を借りて大阪市内に工場動力の供給をしていたが、戦後の工場動力の需要激増のため宇治電では電力が足りなくなった。だから送れない。そこで事故の如くに見せかけて毎日違った所を停電して歩く。架空線を貸している大阪電灯も驚いて其の度に宇治電の技術部にネジ込むが、終いには真相が判って宇治電、大阪電灯狎れ合いで停電ゴッコをする様なことになった。――当時の技術者の話だから与太ではない。大阪電灯でも大正八年の十一月頃には、夜間電力の送電を七十日に亘って停止した程だ。
三宅晴輝『電力コンツェルン読本』春秋社(1937)p.374
 引用に際しては新字体・新仮名遣いに改め、強調は引用者によります。ちなみにこの話は、確か宇治電の社長の回顧録にも載っていたと思います。その日の電力需要を見て、適当に開閉所のスイッチを切ってたんだと。・・・これは確かに、「無計画停電」と呼ぶに値しそうですね。

 さて一体、こんな昔話が何に役に立つのかとお叱りを受けそうですが、頭に血が上っているような時こそ冷静に経緯を振り返ってみる意義はありそうですし、そうすれば無闇と慌てなくても済みそうです。
 そして、気休めのこじつけと百も承知でまとめれば、第1次大戦頃にせよ朝鮮特需の頃にせよ、電気が多少止まったって経済は成長していました。まして日中戦争の頃のように戦争しているわけでもなく(自衛隊は戦時に準じた動員状況ですが)、多少の停電の恐れでびくつくことはない、ということで。
 ちなみに第1次大戦の電力不足は1920年代の旺盛な水力開発に繋がり、1950年代の電力不足は電源開発の創設→佐久間ダム建設、関西電力によるクロ四建設に繋がりました。ピンチの中に将来へのバネがある。東電関係者の奮起を期待します。・・・ただ、木川田一隆太田垣士郎だったら、自ら福島第一に駆けつけて作業員を叱咤激励しただろうなと思うと、もうちょっと何とかしてほしいとは思いますが。

※一応続きに当たる記事はこちら→電気代と市場経済~計画停電の歴史・続篇
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by bokukoui | 2011-03-15 23:00 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(3)