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鉄道とエロの微妙なお話~京浜急行電鉄社内報『けいひん』より

 前回の記事に書きましたとおり、お陰様で当ブログの記事も1000件に到達しました。
 で、折角なら1000件達成後の記事は何か特別なもの、とも思うのですが、今だ本調子とは言いかねる(という状態が半年以上続いている気もしますが)ので、あまり重厚長大なものは書けそうにありません。そこで、当ブログのアクセス解析による来訪者の方の検索ワードの傾向に基づき、表題のごときお題を掲げてみました。つまり当ブログは、書いている当人は鉄道関係の話題中心のつもりが、来訪してくる方はエロ漫画関係のワードの検索によるものが多いようで・・・ま、「(エロ)マンガと鉄道」という企画も当ブログでやってましたし、そのネタもあるのですが、とまれ、エロと鉄道に関する微妙なネタを最近見つけましたので、備忘として一筆。

(有り体に言ってシモネタ(艶ネタ?)なので気になさらない方のみどうぞ)
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by bokukoui | 2010-12-22 23:57 | 鉄道(その他)

松田裕之『ドレスを着た電信士 マ・カイリー』略感

 所用に追いまくられたりくたばって寝たりしていて、あんまり本を読んだり、その話をここに書いたりも思うに任せぬのですが、繰り言ばかりも何ですし、今日は頗る面白く、とっても読みやすい本をご紹介。



松田裕之
 本書は、アイルランド系でテキサス出身の女性電信士、マ・カイリーことマッティ・コリンズ・クーン(1880~1971、カイリーは一時結婚していた相手の姓)の伝記を柱に、著者がIT革命の元祖と位置づける電信の歴史(アメリカ限定ですが)を紹介し、19世紀後半から20世紀前半の電信と鉄道の時代のアメリカを描くと同時に、女性と労働のあり方にも話は及んでいます。本書の目次を以下に挙げておきます。なお本書は、振り仮名の使い方にいささかの特徴があるので、必要に応じて振り仮名を括弧でくくって後ろに書いておきます。

まえがき

第I部 女性電信士(テレグラファー)誕生~歴史(ヒストリー)が忘れた物語(ストーリー)
 電信アメリカをめぐる
 電信士はジェンダー・フリー
 鉄道がもたらす自由な天地

第II部 『バグ電鍵と私(バグ・アンド・アイ)』を読む~タフレディの奮戦記
 結婚生活の破綻「あたしゃ奴隷みたいなものだった」
 電信技能の習得「自分と子どもが生きていくために」
 辺鄙な停車場での日常「あんたが50フィートもある化け物に見えたよ」
 一級電信士への道のり険し「あたしゃこれっぽっちの金じゃあ働かない」
 誇りを守るための労働運動「争議中につき電信はいっさいお断り」
 電線でむすぶ絆「そのひととは電信で知り合った」
 放浪のはてにつかんだもの「自分のキャリアに一片の悔いもないね」

第III部 電信の時代と女性たち~IT革命の裏面史
 荒野のバラと電鍵
 失われた女性の声を求めて
 《マ・カイリー》からのメッセージ

あとがき


 小生が本書を知ったのは、速水螺旋人先生のブログで絶賛されていたためですが、同様の経緯を経て本書に辿り着いた人も多いらしいのは、アマゾンで本書と一緒に買われた本や「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見れば明らかです。
 ぱっと検索して見つけた他のネット上の書評も挙げておきます。

日経コンピュータ「ドレスを着た電信士 マ・カイリー」(selfup)
真道哲「『ドレスを着た通信士 マ・カイリー』の感想」(JanJan 今週の本棚)
Fukuma's Daily Record「書評:ドレスを着た通信士 マ・カイリー」

 上に挙げた書評記事のうち下二つの表題が「電信士」でなく「通信士」になっているのは原文のママです。なるほど、電信士の時代は遠くなりにけり。

 で、本書は速水先生が書かれているように滅法面白い本です。男尊女卑の厳しかった時代(19世紀の欧米文化の男女差別は、それ以前の時代と比べても厳しかったといわれます)、身につけた電信技術によって渡り歩いてゆくマ・カイリーの人生は、19世紀のヴィクトリアンな価値観とは全く逆の、男とも対等に渡り合う誇りと強さに満ちています。この時代のアメリカで、電信技術によって身を立てた女性は決して少なくなかったのでした。
 同時に、電信と鉄道によって結びつけられていた時代のアメリカ西部(カナダとメキシコ含む)の様子も、いろいろとうかがい知ることが出来ます。当時は鉄道の運行に電信が必須で、そのため駅毎に電信局が設けられていて、電信の技倆を身につけた者は鉄道伝いに新たな職場を求めて渡り歩いていたのでした。いわば近代の職人であり、それだけに職人同士の連帯も強かったのですが、その内部でも男女平等とはいきません。そこでマ・カイリーの毅然とした生き方が光ってきます。

 速水先生は本書から、「他の作品で使いたくなるネタ」をいろいろ見出されたようですが、アメリカの鉄道好きとしては是非、このような世界を速水先生に漫画化していただきたいところです。所謂「西部劇」と違って、電信と鉄道というテクノロジーがキーとなるだけに、余人ではなかなかネタにしづらいでしょうし。
 営業上の理由から、女性電信士だけでは華やかさ、有り体に言えば「萌え」が足りないと編集部が文句を言えば、ここはアメリカ大陸横断鉄道だけに、駅のレストランのウェイトレス=ハーヴェイ・ガールズを足せば美少女成分(メイド服)も充足、ヒット間違い無しです(笑)。しかし見方を変えれば、西部における女性電信士とウェイトレスって、まさに女性の労働におけるキャリア志向と腰掛け寿退社志向の対立そのまんまですね。ここをうまく盛り込めば、広く一般の鑑賞に堪える作品にも化けられます。

 それはさておき、小生のような鉄道趣味者にとっては、鉄道と電信の密接な関係を確認できたことは大いに収穫でした。マ・カイリーの自伝自体、アメリカの鉄道趣味誌上に連載されたものだったとか。
 上にも書きましたが、鉄道の運行管理には電信が必須でしたので、駅毎に電信局が置かれていましたが、同時にいわゆる商用の電報を扱う電信局、日本なら電電公社のような電信会社も存在しました。既に発展した都市部では電信会社の電信局が商用電報を扱い、一方地方では鉄道の駅の電信局が運行管理の片手間に商用電報も扱っていたようです。
 電信士もこれに応じて、電信会社に所属して比較的一カ所で長期に務める人(本書では「守宮(ホームガード)」と書いています)と、鉄道会社の駅の電信局を渡り歩く人(同じく「流れ者(ブーマー)」)とに分かれていたそうで、マ・カイリーは後者でした。もちろん個々の電信士が時に守宮となり時に流れ者となることもあるわけですが、同じ電信士でも両者の間には対立があり、労働組合も別だったりしたそうです。マ・カイリーが属していたのは鉄道電信士友愛組合(オーダー・オブ・レイルロード・テレグラファーズ、ORT)でした。

 組合の話が出てきたのでちょっと脇道に逸れますが、本書で著者の松田氏は、電信士をドットとダッシュのデジタルな信号によって情報を扱う、IT技術者の先駆的存在と位置づけています。なるほどネットワークを巧みに利用して情報交換を行っている、時には電信士同士がネットならぬワイヤー上で知り合って結婚に至るなど、現在のIT技術者の先駆と思わせる面白い事例には事欠きません。
 ですが、小生が本書を読んで思うには、電信士によって組合の存在はかなり大きいもののようで、マ・カイリーもそれに助けられて仕事を得たり、怪我の治療費を得たりしています。一方ではストライキに参加して電報の送信を断って解雇されたこともありました。業界を横断する大規模な組合が存在し、時にストも辞さないところは、現代のIT技術者とのかなり大きな違いのように思われます。何故そのような差異が出来たのかは、小生のよく知るところではありませんが。
 ちなみに先ほど、電信士とウェイトレスを労働者の二極に見立てましたが、本書の第III部では、女性作家のローズ・ワイルダー・レイン(『大草原の小さな家』原作者のローラ・インガルス・ワイルダーの娘。ローラは娘の勧めで『小さな家』シリーズを書いた)を取り上げ、マ・カイリーと対比させています。ローズも電信士をしていましたが、組合の闘争には距離を置き、それによって会社で一定の出世をすると、電信士を辞めてジャーナリストに転じています。電信一筋のいわば職人肌技術者と、業界にこだわらないキャリア志向。これもまた面白いところです。
 
 話を戻して、鉄道と電信がこのように密接に関係しているため、電信士は鉄道の無賃乗車証を手に入れることができ、そのため鉄道に乗って新たな職場を探しに行くことも出来たのでした。
 で、日本ではこのような現象はなかったと思いますし、そもそも女性の電信士がいたかどうか寡聞にして存じません(電話交換手は有名ですが)。※追記:日本の逓信省にも女性の電信士はいたそうです。何で日本ではそうならなかったのかと考えれば、やはり明治以来電信が官営で、それこそ“軍事警察機構”の一端を担っていた、からなんでしょうか。日本では鉄道も明治末年には国有化されて、全国的な国鉄(帝国鉄道庁→鉄道院→鉄道省)となっており、国鉄は国鉄で独自の電信電話網を持ち、郵便局の電信とは全く別個となっていたと思います。
 余談ですが、しかし日本の私鉄では似たような話があって、日本の電鉄会社の多くは戦前電力供給業を兼業していた(電力会社が電車も動かしていた)ため、電鉄と電力の労働者同志は「電気事業」ということでお互いに連帯感を持っていました。そのため電鉄の労働者は電力会社の労働者と家族をタダで電車に乗せてやる代わりに、電力労働者は電鉄労働者の家の電灯代を半額に負けてやっていたそうです。これを止めさせたのが、阪急社長から関西電力初代社長に転じた太田垣士郎でした。

 閑話休題、このように国営では電信士の組合も出来ず、どこ行っても国営なのですから流れていく先もなく、マ・カイリーのような話は日本では生まれくかった・・・いや、鉄道でも満州に流れるケースがあったので、植民地まで広げれば似た例はあり得るかな?
 で、どうも台湾に行った電信士の話を扱った本があったような、どっか目録で見たような気がしたのですが、先日某所で偶然見つけました。それはこんな本です。

『通信技手の歩いた近代』
 オチはお分かりと思いますが、この本を書かれたのも、本書と同じ松田裕之氏でした。
 で、ぱらぱらとめくってみたところ、なるほどこの本も『マ・カイリー』と似ている、何が似ているといって著者のノリの良さ(笑)です。『マ・カイリー』は、既に上で「守宮(ホームガード)」や「流れ者(ブーマー)」のような、英語の俗語をうまく訳して振り仮名に原語をつけるという、特徴ある振り仮名の使い方をしていますが、それだけでなく、振り仮名をいろいろ遊び心ある使い方をしています。
 例を挙げれば、「新米(かけだし)」「相棒(パートナー)」「将来(これから)」「高等技能(かみわざ)」「閑話休題(それはさておき)」「筆者(わたし)」等々。これが、マ・カイリーの自伝の、如何にも姉御肌を連想させる語り口の翻訳と相俟って、本書を読む読者に躍動感を与えています。小生は、これはてっきりマ・カイリーの自伝に合わせたものと思っていましたが、『通信技手の歩いた近代』もまた同様のようでした。松田氏のセンスだったようで、だとすればマ・カイリーの自伝も実に幸福なことに、まこと適任の方を訳者・紹介者として得ることができたのだなあと思います。
 『通信技手の歩いた近代』も買って読みたいところでしたが、見つけた某所は書店ではなく、持ち合わせもなかったので、残念ながらまだ手に入れていません。そのうちに、と思っています。最近逓信省のこともにわか勉強中で、電信のことももうちょっと知らねば、というところです。

 以上長くなりましたが、本書は読みやすく小説のように面白く、それでいて様々な読者にいろいろな角度で興味を惹くであろう豊かさを持っています。小説顔負けに面白くて、しかし研究者の著作なので、文献目録や索引まできちんとついているのが有り難い限りです。
 ただ、附属の地図はあまりにも雑駁で、中学校の地図帳みたいです。本書中に数多く登場する、マ・カイリーが勤めた鉄道会社の簡単な路線図くらい載せられればよかったのに、と残念に思われます。あと本書143頁で、引退したマ・カイリーが年金を貰う際、勤務した記録が消滅して「消えた年金記録」状態になっていた鉄道会社があったことが述べられていますが、そこで「シカゴ・ミルウォーキー鉄道、セントポール・アンド・パシフィック鉄道」とあるのは、シカゴ・ミルウォーキー・セントポール・アンド・パシフィック鉄道(通称:ミルウォーキー鉄道)の一社の名前の誤植と思います。同社はマ・カイリーの生きていた時代だけでも、三、四度は破産していたと思うので、勤務記録も消滅しちゃったんでしょうか。

 記事の完成が大幅に遅れ、読者の皆様には大変失礼しましたことをお詫び申し上げます。
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by bokukoui | 2010-03-18 23:59 | 書物

回想・閉館後2年余の交通博物館館内

 季節の変わり目に毎度の如く体調を崩し、ここ十日程全く外出できずに引きこもるという惨憺たる状況で、先に掲げた裁判の傍聴も果たせぬままに終わりましたが、いつまでもそうもしておられませんので、昨日あたりからようやく動き出したような次第です。
 そんなわけで、当ブログも一週間放置し、最近定点観測を試みている交通博物館の最期の模様も調査していないのですが、最近当ブログに該記事を検索で探し当てて来訪される方も少なくない様子に鑑み、更新再開に際して表題の如き過去の画像を発掘してみた次第です。なお、関連する記事の増加に伴い、「[特設]さよなら交通博物館」カテゴリを設けました。

 神田にあった交通博物館が閉館したのは2006年5月のことで、建物の解体は昨年秋頃から本格的に始まった(別館は早くに撤去されていましたが)ようですが、その間の2008年7月、思いがけない機会で当時の交通博物館館内に立ち入らせていただく機会がありました。その際は館内を見て回れるとは思っておらず、カメラも持っておりませんでしたので、はなはだ画質の低い携帯電話附属機能のカメラによるものでしかありませんが、在りし日を偲ぶよすがとして、以下に掲げます。

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 これは1階のホール、蒸気機関車2輌が展示されていたところです。注目すべきは、閉館後2年を経たこの時点でなお、天井からヘリコプターがぶら下げられていることです。結局どこへ引き取られたのか・・・

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 この写真は、1枚目と同じ場所を反対側から撮影したものです。画面奥に受付(売店)だったところが見えますが、その右手が入口でした。

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 これは、交通博物館の発祥でもある、中央線の高架下の様子です(だったと思います)。周知の通り元々交通博物館は、鉄道博物館として旧万世橋駅の跡地を利用して設けられました。

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 これも旧万世橋駅の一部である倉庫だったと思います。今でも万世橋の上から、神田川に沿った旧万世橋駅跡にして交通博物館に使われていた煉瓦の構造物が見えます。その建物は川に面して窓が並んでいますが、交通博物館時代はその窓のある箇所は倉庫に使われていました。ところが、川沿いに窓があるもので湿気が入りやすく、展示資料の保存場所としては悪条件でした。そこで年中無休で除湿器をかけ通しだったそうですが、そのための電気は中央線から分けて貰っていたので、博物館としては電気代無料だったそうです。

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 これは閉館前に見に行かれた方も多かったかと思いますが、旧万世橋駅のホームに上がるための階段です。写真に見える戸を開けると中央線の電車が見えるはずです。

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 最後に、これは3階のかつての航空関係の展示フロアの様子です。壁のパネルがまだ残っており、展示品は箱詰めされた状態で積まれています。なかなか引取先が決まらなかったのでしょうか。閉館から2年経ってもこの様子だったのには、いささか驚きました。解体工事が始まるまで3年もかかったわけですね。

 以上、写真のお見苦しい点はご海容の程。
 交通博物館の建物の解体状況に関しては、今後も折に触れて見ていきたいと考えております。
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by bokukoui | 2010-03-12 10:40 | [特設]さよなら交通博物館

「宇治電ビル」(近日解体予定)を見に大阪へ行く

 初手からなんですが、本記事の表題には誇張があります。小生は目下、某学会の大会で大阪に来ておりますが、そのついでに表題の宇治電ビルを見に行ったまでです。某学会も大変面白く、今後の研究にいろいろ参考になりましたが、それを詳細に書いている暇はありませんで、代わりに宇治電ビルのご紹介などをしてみようかと思います。
 ところで宇治電とは、戦前の日本の五大電力の一つ・宇治川電気のことで、社名のように宇治川の水力発電に端を発し、関西地区を地盤とした会社で、一時は現在の山陽電鉄を支配下に収めていたりもしました。もっとも関西では、大阪・京都・神戸は電気事業が市営化されており、郊外は電鉄会社が電力供給区域を有していて、関東の東京電灯・中部の東邦電力ほどの圧倒的支配力を発揮することは出来ませんでした。五大電力の三番手といったところです。
 そんな宇治電が1937年に建てた9階建ての本社ビルがこの宇治電ビルで、電力国家管理が行われて宇治電が解散に追い込まれてのち、関西電力が発足するとその所有になりました。現在は関電の関係の不動産会社が所有しているようです。宇治電が消えてもその名を現在に伝える存在でしたが、残念ながら取り壊して再開発することが決定したそうです。昭和初期の鉄筋コンクリート建築なんてまだまだ頑丈そうなのですが、今時地上9階では駄目ということでしょうか。

 というわけで、現在電鉄業から電力業に研究の手を広げつつある小生、開業した京阪中之島新線や阪神なんば線はいつでも乗れると無視して、学会開始前のひとときに急いで見に行って、写真を撮ってきました。以下にご紹介。今回の記事の写真は、基本的にクリックすると拡大表示します。
 ビルの所在地は上掲リンクにありますが、大阪駅から南東方向に徒歩15分くらいの所にあります。曽根先警察署の先を右に折れ、太融寺の前を通って南下すると、大通りの向こうに宇治電ビルが見えてきます。
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新御堂筋のランプの向こうに姿を見せる宇治電ビル

 正面の白っぽいタイル張りのビルが宇治電ビルです。この写真でも、宇治電ビルにはなにやらレリーフが取り付けられていることがお分かりいただけようかと思います。

(写真が多いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-11-14 23:59 | 歴史雑談

近況・資料本購入状況&【捜してます】大和田悌二『神性の発掘』

 当ブログもずいぶん間が開きましたが、先月の僅かな記事の中でも愚痴っていたように、不調を極めていたことと所用が重なったこと、さらに機器のトラブルにも見舞われたこと、などの悪条件が重なっておりましたためでした。
 これら悪条件が今になって緩和されたかというと疑問で、健康上の問題には消化器の不調と目の腫れを加え、さらに寝ぼけていたのか食事中に舌を思いっきり噛み、ところが所用は相変わらず重なっているし睡眠は変だし、などの悪条件のせいか傷がいっかな治りません。そのため飲食には差し障るし喋りにくいし矢鱈と唾液を分泌して気持ち悪いしとQOLの低下が著しい今日この頃です。
 ですがまあ、今月に入って少しは復調したのも事実で、論文の作業などを進めておりました。で、以前の仕事で多少金が入ったので、資料となる本をいろいろと買い込みましたが、これは研究の一助であると同時に、幾分か以上に買い物による楽しみ、ストレス発散の側面があったことは否定できません。そんなこんなでここしばらくに買った本はこんな感じです。
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 とまあ、電気事業史関係の本が多いわけですが。大体は、割と値段がお手頃でした。特に『中部地方電気事業史』A4上下巻箱入り美品で3000円といくらかというのはお値打ち。もっとも欲しいのは『関西地方電気事業史』と『関東の電気事業と東京電力』の方であって、中部は個人的には割とどうでもいいのですが(苦笑)、つい買ってしまいました。
 ですが、今回買った中で一番の収穫は、上掲写真右端の吉田啓『電力管理案の側面史』交通経済社出版部(1938)でした。この本は1938年の第1次電力国家管理実現に至る過程を詳細に書いており、小生が史料と付き合わせてみた感想では、当事者によく取材しているようで、面白いし資料としても有り難い一冊です。ただ、小生が買ったこの本は背表紙が本体から外れかかっていて、古本としては問題ありなのですが、その代わり表見返しにこんなタグが張ってありました。
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 なんと、逓信省の蔵書でした。どういう次第で流出したのか、やはり鉄道省と合併した時だったのか? 自分が調べている、電力国家管理を推し進めた逓信官僚の当人たちが手に取ったかも知れないと思うと感慨も一入・・・いや、そういう人たちには「著者献呈」でしょうかね。

 というわけで、当ブログの京成百周年企画などでも紹介しました逓信官僚・大和田悌二のことなどを現在調べているもので、関係する書籍を集めています。
 上に挙げた写真の本のうち、清水啓『アルミニウム外史』カロス出版(2002)は、ネットで「大和田悌二」で検索して引っかかったものです。どうもその名を冠した節があるらしい。アルミは電気と関係深いですからね。そこで一応確認しておこうと思い、まあうちの大学の工学部なら、どっかでアルミの冶金を研究してる研究室くらいあるだろうから所蔵があるだろう、と思ったらなし。では、と国会図書館を探してもなし。どうも版元のカロス出版は、アルミニウム関係に特化した出版社らしく(鉄のアグネ出版と同じようなものでしょうか)、おまけに流通ルートも特殊らしいです。
 では仕方ない、というわけで買ってしまいました。まあ2500円くらいなら・・・え、上下二巻なの? まあ片一方だけ買うという法はないわな。揃えて注文。かくて5000円散財となりまして・・・一読・・・読みづらい。専門性が高すぎて判らないというより、全体の構成が可成り錯綜しているからです。やはり、「アルミニウム正史」を知ってから読むべき本ではあったようで。ちなみに大和田の話はあんまりありませんでした。

 で、やっとこさ表題の後半の話になります。
 大和田本人の著作も小生は勿論集められればと考えておりまして、戦前には『電力国家管理論集』、戦後には『電力国管の裏話し』などがあります。これらは図書館で既に閲覧しましたし、ネットの古書店のキャッシュにもあったので、手に入れる機会もありそうです。
 ところで、大和田の日記を読んでいると、講演など行ったことを記した日の記述に、あとから「神性の発掘〇〇頁に収む」などと書き足している箇所がいくつも見つかります。どうやら、大和田は『神性の発掘』という本を出しているものと考えられます。ページ数からするとそれなりの厚みのあるもののようです。
 しかし、この『神性の発掘』、どこの図書館にも所蔵が見当たりません。ネットで検索しても何も出てきません。もしかすると私家版で身内にしか配らなかったのでしょうか。現時点のところでは不明です。
 どなたか発見された方がおられましたら、是非とも小生までご一報下さいますようお願い申し上げます。何卒。

 ちなみに「神性の発掘」とは、大和田曰く、神国である日本ではあらゆるものに神性があり、その神性を発掘活用することが日本人の務めである、ということのようです。これが、水の神性を発揮しなければならない→そのためには大規模な水力発電を行わなければならない→だから電力事業は国家管理すべきである、という論理に繋がっていくようです。
 小生些か思うのは、神性が宿るというのは八百万の神の国として自然な発想といえばいえますが、だからそれを活用しなければならない、となるのは日本の伝統的な自然観よりむしろ西洋的価値観に近いんじゃないかな、という気がします。もっとも、日本神話と西洋思想のこのようなアマルガムこそが、明治生まれの統制官僚らしい思想形成ではないか、とも思え、思想的一貫性で批判するのは必ずしも建設的ではないと思う次第です。
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by bokukoui | 2009-10-11 23:49 | 書物

もっとも過酷な「鉄道むすめ」の仕事 8メートルの雪を除雪せよ

 前回の記事「鉄道と漫画・MATSUDA98篇 19才の『鉄道むすめ』はなぜ死んだか」の続篇です。というか、もはやマンガはあんまり関係なくなってきていて(苦笑)、当ブログでは以前にも戦前の鉄道業の従事する女性に関する記事を掲載し、原武史氏の謬見を正しておきましたが(サントリー学芸賞の鉄道本略論 番外(1) ~鉄道と女性・阪急篇~ / 同(2) / 同(3))、どちらかといえばその続きになるかも知れません。
 で、小生先日仕事であちこちの地方史をめくり倒しては鉄道関連の記述を集めるということをやっていたのですが、その中で大変よくできた地方史と鉄道関連の記述にぶつかり、大変興味深いので以下に簡単にご紹介する次第です。

 それは新潟県津南町が作った、津南町史編さん委員会編『津南町史 通史編 下巻』(津南町)というものです。津南町というのは新潟県の南西の端、長野県と県境を接する、信濃川沿いの地域です。そしてここは日本屈指の豪雪地帯として知られています。
 ここを走る鉄道はJR飯山線で、長野のちょっと北の豊野から、小千谷のちょっと南の越後川口まで、信濃川沿いに走っています。この路線は、豊野~十日町間が元々飯山鉄道という私鉄で、十日町~越後川口間は国鉄によって建設されました。
 建設に至るまでのさまざまな鉄道構想も興味深いのですが、本題から外れるので省略。このルートは東京~新潟ルートの候補だったことがありまして、それについては興味のある方は『津南町史』の記述が良くできているので読むといいでしょう。新潟連絡の鉄道構想全般については、今年交通図書賞を取った老川慶喜『近代日本の鉄道構想』(日本経済評論社)を参照のこと。

 では本題。
 このような豪雪地帯を走る鉄道にとって、冬期の除雪作業をどうするかは重要な問題です。除雪といえばラッセル車だのキマロキだのというのが有名ですが、結局最後は人海戦術です。これは豪雪地帯ではどこでもみられる話で、大体は地域の青年団とか消防団などが中心になって人を集め、除雪作業を請け負います。これはその昔では、豪雪地帯の住民にとっても、農業のできない冬に出稼ぎに行かなくても地元で現金収入が得られるメリットがありました。豪雪でどうにもならなくなると軍隊が出動します。旧日本軍の豪雪などの災害出動については、吉田律人さんの諸論文をご参照下さい(CiNii とかで調べてね)。
 で、これまで幾つかの文献で読んできたところでは、こういう作業は皆男がやっていたものでしたが、津南町の場合では女性も作業に参加していたという、これまでにあまり聞いたことのないことが記されていました。昭和初期の話です。

 飯山鉄道沿線の村では除雪組合を組織して、人夫の供給を請け負っていたのですが、その請負契約書では、人夫は身体強壮の18~45歳の男子、勤務時間7時~17時で賃金1日1円(当時の1円は現在なら3000円くらいかと思います)、時間外手当1時間10銭等々ということが定められていたそうです。ここでは「男子のみ」となっていますね。ところが実際には、1927~28年の冬の巻下集落(外丸村→現津南町)の場合、
・・・男子のみという契約にもかかわらず女子労働も認められ、80銭の日当が支給された。この年、巻下と外丸本村で男842人5分(賃金842円50銭)女111人(賃金88円80銭)計953人5分(賃金931円30銭)の実績になっている。
 
(註:除雪)組合は、(註:飯山鉄道)会社の支給する賃金から男子は1日15銭、女子は20銭を天引きして経費にあてた。この冬は総額148円57銭5厘の収入となり、交際費・監督の日当・事務費を控除したあと86円87銭5厘の残金が出たので、その半分を出動人夫に配当している。女子の賃金が一般に男子の半額といわれた時代だけに、天引き率も男子より高率に定められたのである。
(『津南町史 通史編 下巻』p.354)
 と、女性が除雪に動員されていたことが分かります。

 この後の推移を『津南町史』の記述を拾ってみていくと、1930~31年の冬には女子賃金の記載がなく、1933~34年の冬は豪雪で男子1704.1人・女子410.8人が出動し(端数は途中で帰った人などがいたのでしょう)、1936~37年の冬には少雪のため女子の出動はなかったようですが、1937~38年の冬には男子1873人、女子212人が出動したそうです。『津南町史』の資料編には詳しい資料が載っているそうですが、残念ながらそちらは未見です。
 出動人数に占める女子の比率からして、炊き出しみたいな補助作業ではなく、除雪本体の作業に従事していたのだろうと考えます。除雪作業は危険度も高く、これは近隣の『飯山市誌』に載っていた話ですが、橇に雪を載せて鉄橋から川に雪を捨てる際、雪が橇に凍り付いて橇ごと落っこちてしまい、それに巻き込まれて転落死したとか、除雪しているところに列車がやってきて、逃げ場がなく轢かれたといった事例があったそうです。
 戦時中車掌や運転士になった女性には、颯爽とした制服姿の乗務員の仕事に憧れをもってなった方もかなりいたようですが、全然颯爽としていない、危険で大変な、縁の下の力持ち的な仕事の従事していた女性もいたのだ、というお話でありました。
 いろいろ勘案すると、やはり雪が酷かったり(日本最大級の豪雪地帯ですから。もっとも、本当に雪が酷くなると除雪を諦め運休しますが)、発電所工事や戦争で人手が取られると、元々人口の多くないこういった地域では、女性の労働力も活用せざるを得なかったということでしょう。1935、6年頃は鉄道省に加え東京電灯の発電所工事も始まり、そして間もなく日中戦争となって、人手不足はますます深刻化したようです。

 ですが、折角なのでこれも、実際に若い娘がいたかどうかは別にして(やはり長野の製糸工場に出稼ぎに行ったんじゃ・・・)、フィギュアの「鉄道むすめ」シリーズを続ける際の案の一つに入れては如何でしょうか。
 「むすめ」の名前は「森宮のはら」を提案しておきます。何といっても飯山線の森宮野原駅は、1945年に7.85mという、日本の鉄道での積雪最高記録を樹立したところですので。ちなみにこの駅名は、最初新潟県の上郷村(現・津南町)羽倉に予定したところ、地形的に厳しいため長野県側の水内村(現・栄村)の森に変更したので、「森」に上郷村の地名「宮野原」も付け足して「森宮野原」になったそうですので(『津南町史』p.349)、この切り方はちょっとおかしいんですが、しかし何となく人名ぽくはあります。
 飯山線も経営状態がいいはずはありませんので、グッズでも何でも作って、除雪経費の足しにでもなれば、それはそれでいいのではないかと。

 ああそうそう、「森宮のはら」ちゃんの衣装ですが、これはもうもんぺしか。時節柄としても。で、藁靴にかんじきとかでどうでしょうか。

 ヨタ話は置いておいて、この『津南町史』の鉄道の記述は、この除雪組合の件のように、地元に残された史料をよく活用しており、興味が尽きません。全体の記述も、より広域の鉄道構想に目配りしつつ、飯山線と深い関係を持った東京電灯や鉄道省の発電所(鉄道省の発電所はJR東日本に引き継がれましたが、先日取水量を誤魔化していたことが発覚して水利権を没収されました)の建設とも関連づけ、地域にとっての意義を良く描き出しています。
 地方史の鉄道に関する記述については、以前当ブログでも青木栄一『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』(吉川弘文館)を紹介し、地方史にはあんまり検証もせず、「地元の反対で鉄道が来なかった」という、実際の史料上では発見できない話を書いてしまう、という問題点が指摘されていることを紹介しました。近年の地方史では、そのような記述はだいぶ影を潜めてきています。
 『津南町史』は1985年と結構以前の発行ですが、鉄道忌避伝説については、まず史料をあげて地域の鉄道誘致の熱意を示したのち、
・・・この時代は鉄道建設は総論賛成・各論反対(鉄道が自分の町を通るのは賛成だが自分の土地をつぶすのは反対)が一般的で、忌避伝説では「鉄道が通れば火事になったり風儀が乱れたりするから反対」という俗説が多いが、明治二十五年という早い時期に総論、各論とも賛成というのは見事であり、交通機関に恵まれていない津南郷住民の鉄道への協力が十分に察知される。
(『津南町史 通史編 下巻』p.343)
 と述べており、時期的にはかなり早い「忌避伝説」打破をした地方史ではないかと思います。

 『津南町史』でもっとも興味深いのは、飯山鉄道の寄付金強要問題です。
 ローカル私鉄の建設時は、株式を沿線の人に割り当て、あたかも「村祭りの寄付」のようにして資本を集めたというのはよく知られていることです。そして、株式応募以外にも、鉄道のために補助金を出したり、用地を寄付したりという話も全国各地に伝わっています。沿線住民の、「自分たちの鉄道」が欲しいという熱意で、この意識の残滓が、今になってローカル線廃止反対につながることもあるのではないかと思います。
 飯山鉄道もその例に漏れず、信濃浅野駅なんかについて用地を寄付したという話があります。ところが飯山鉄道はそれでもさらに金がなく、結局沿線の信濃川流域で水力発電所を計画していた電力会社に、建設資材の輸送を担うことを条件に出資して貰うことになりました。すると、
・・・信越電力の資本参加後、工事が信濃川・中津川の電源地帯に向かって進むにつれ、住民の考えも大分変わってきた。株式募集に応じたり、用地買収に協力するなどの通常の経済関係はみられたが、用地の寄附は少なくなり、また新潟県も南魚沼郡も補助金は支出していない。
 そこで飯山鉄道は、駅用地を寄附した地元とそうでないところとの間に公平を期するという理由で、停車場(駅)を設定する地域の地元から寄附金を徴収することにした。寄附に徴収とはそぐわない言葉だが、少なくともこの寄附金の実態は、自発的な寄附というよりは賦課金に近い・・・。
(『津南町史 通史編 下巻』pp.350-351)
 寄付金を徴収。確かにこれは、そぐわない言葉です。しかも会社が公然と要求したというのは、日本ではあまり例を聞いた覚えがありません。アメリカでは、「金払わないと線路つけないぞ」と鉄道会社が金を要求した例はよくあったようですが。
 実際、飯山鉄道は当初駅建設予定だった平滝を、寄附に熱がないからと横倉に変えてしまったのでした(のちに平滝駅もできますが)。そこで地元が払わされることになった寄附金、越後外丸駅6500円、越後鹿渡駅3500円。今のお金で外丸が二千数百万、鹿渡が一千数百万というところでしょうか。

 この資金調達と支払については、『津南町史』のこの部分の資料編を作成された瀬古龍雄氏が、「飯山鉄道と地元寄附金問題 不況期に金策に苦しむ零細山村の実態」という論文を『鉄道史学』1号(1984)に発表されています。

 それによれば、この寄附金は貧しい山村にとっては大金で、仕方なく当座は村が銀行から借りて払い、その後分割払いで鉄道におさめることになったのですが、折からの世界恐慌に農村不況でどうにもならず、すると鉄道会社の支配人から「はよ払え」と督促状が届きます。その督促状には、「払わないと鉄道省とかうちの社長が怒るよ」という趣旨のことが書かれていました。飯山鉄道の社長は、最大株主の東京電灯=当時日本最大の電力会社、というか当時日本最大の株式会社、の社長が兼務していました。
 これが多摩あたりで同じことをやれば、住民が逆ギレして鉄道本社が火の手に包まれたと思いますが(笑)、山村の住民はそれだけの力もなく、泣く泣く払ったようです。さらに金を借りていた銀行からも返済を迫られ、こっちは何とか利子を負けてもらって解決したとか。
 
 東京電灯の威光まで使って金を要求するとは、なんだかやってることがヤクザじみてますね。東京電灯はアメリカから電灯技術を導入して創業しましたが、アメリカから余計なビジネスモデルも学んできたんでしょうか。
 アメリカといえば、世界鉄道史上最悪の雪害は、アメリカの大陸横断鉄道の一つであるグレート・ノーザン鉄道が、カスケード山脈で雪崩に巻き込まれて96名の死者を出した事故だと物の本にあります。「ラッセル車」というのも、アメリカのラッセル社から買った車輌が最初だったのでそういう名前になったらしいです。
 で、アメリカ大陸横断鉄道といえば、太平洋岸では人手が少なかったので、中国人労働者を連れてきて働かせたことがよく知られていますが、飯山線の建設工事では、人夫の約8割が朝鮮人労働者だったそうです。
 ある意味飯山線は、「アメリカン」な鉄道だったのかと・・・


 というわけで、2回にわたって鉄道と女性関係の話をお届けしましたが、どちらの記事も実は後半にこそ小生の書きたいことがあったわけで、「鉄道むすめ」というワードに引っかかってここまで読んできてくださった方には期待はずれだったかも知れませんが、当ブログの仕様なのでご海容の程。枕にしてしまったMATSUDA98さんや読者の方には失礼いたしました。
 最後に一応話を元に戻してくるならば、「鉄道むすめ」的な話をもっとふくらますのだったら、観光案内的なものから地域に根ざしたものになることで、鉄道全体への好感度がもっと上がれば、そして交通体系への関心が高まれば良いと思います。それは物語作りの上でも手がかりになろうかと。
 それにつけても、鉄道の労働組合が暴走した挙げ句住民が怒る、という話を作った速水螺旋人先生のセンスにはほとほと脱帽する次第です。荒唐無稽なお話でも、ツボを押さえているから読者を唸らせるわけで、車輌の絵同様、知識に裏打ちされた速水先生のディフォルメの上手さだろうと思います。作品数が増えることで、こういった知識やツボの抑え方も、マンガの世界で広まっていけばと願います。

 「鉄道+女の子」もので、世界で一番流行ったのは、おそらくアメリカのMGM映画『ハーヴェイ・ガールズ』(1946)だと思います。ハーヴェイ・ガールズの話は当ブログでも何回かしましたが、この映画は、なんてったってアカデミー賞を取っているのです(ジュディ・ガーランドの歌による音楽賞ですが)。
 というわけで、「鉄道むすめ」も目指せオスカー! として、本稿をひとまず締め括ります。
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by bokukoui | 2009-05-13 23:59 | 鉄道(歴史方面)

高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』を読んで余計なことばかり考える

 今月は何度かナヲコ先生の作品の展開について記事を書きましたが、最新のナヲコ先生のサイト情報に拠りますと、挿絵のお仕事の本が出たそうです。

f0030574_0151839.jpg早見裕司 作/ナヲコ 画

 表紙とか題名だけ見るとライトノベルそのものという感じですが、理論社といえばフォア文庫の一角を担っているくらいで、そこが出すからには「児童書」なのだそうです。ナヲコ先生も児童書の挿絵とは、実にお仕事の幅が広がって喜ばしきことかなと思うのですが、しかしどうして児童書に描くことになったのか、それは興味深くもあります。
 ところで、文章の方を書いている人の名前はさっぱり見覚えがなかったのですが、検索してみたところライトノベルというかジュヴナイルというか、そっちで多くの実績のある方のようでした。してみると、狭義の「児童書」を出していたところも、昨今の時勢に応じてライトノベル的な方向へ寄って行っているということなのでしょうか。
 今月発売の百合アンソロジー『つぼみ』に載る予定だったナヲコ先生の作品は3ヶ月延期のやむなきに至った模様ですが、このような形でナヲコ先生の新作が見られるのでしたら、それはそれで有難いことです。もっとも3ヶ月といえば、今月19日発売の『月刊COMICリュウ』でも3ヶ月続けて「なずなのねいろ」はお休みだったりするわけで、そろそろこちらの再開の方も気になって来ます。
 ので、実はここまでは枕であって、以下に津軽三味線を奏でる少女・なずなを主人公(伊賀君が主人公だったっけ? あれ?)にした「なずなのねいろ」の、連載再開までの暇潰し的話題を以下に。


 小生は大体に於いて極めて偏った知識の持ち主ですが、芸能・芸術方面は特に疎く、その中でも更に音楽についてはろくすっぽ知識がありません。それは小生が稀に見る音痴であるということも大きく影響しておろうかと思います。現在在籍している大学院の研究室が、飲み会こそ好きでもカラオケに行くことがあまりない、稀に行っても軍歌を流しては背景画像の兵器の鑑定ばかりしている(さすがにその部屋から女子学生は姿を消しましたが・・・)、そんな所だったのは勿怪の幸いというべきでした。
 というわけで、小生は三味線のこともちっとも知識がなかったのですが、「なずなのねいろ」連載開始後暫くして、古書店の(確か)安売りの棚で以下の本を見つけ、これはなにがしか津軽三味線についての知識を与えてくれるのではないかと思って買い込んだのでした。

高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』(中公文庫)

 三味線や民謡にまるで教養のない小生でしたので、高橋竹山という名前も全く知りませんでした。
 高橋竹山(1910~98)は青森県の東津軽郡に生まれ、幼児に麻疹で半ば失明(後完全に失明)、三味線を習って、門付け芸人として東北や北海道を回って生計を立てていたそうです。戦後になって津軽民謡の名人・成田雲竹の伴奏者となって竹山の名を貰い、次第に三味線奏者としての評価を得、ついにはその名は全国に、更には世界に知られるにいたったのでした。まあ詳しくはリンク先のウィキペディアでも読んで下さい。
 本書は1975年に出された高橋竹山の自伝です(正確には竹山が語った言葉を佐藤貞樹という人が書き留めた聞き書き)。これを元に映画化もされたんだとか。小生が買ったのは1991年の文庫版です。
 で、この本は大変に面白い本なのです。それはもう。面白さに魅せられた人は既に大勢おられまして、ネット上でも力のこもった感想を幾つも拾うことが出来ます。目に付いたものを幾つか以下に挙げてみましょう。

松岡正剛の千夜千冊 第八百八十四夜
マーレルソサエティの読書
BOOKS昭和堂「それ、読みたい!」 追記:サイト消滅につき web archve へリンク
誰か昭和を想わざる「風雪ながれ旅」 追記:サイト消滅につき web archve へリンク

 一番下は本書の感想というより演歌を巡るエピソードですが、本書の影響を知る上では大変ありがたい情報です。
 三味線奏者としての竹山については、それを語る資格も能力も教養も欠如している小生としては、芸についての本書の記述を云々することは出来ません。竹山も「耳がわるい人はまちがっても、それがいい音だと思っている」(p.177)と言ってるし。にもかかわらず小生が本書を頗る面白いと思ったのは、その史料としての価値なのです。本書は、なかなかその生活を後世に伝えることのない、盲目の門付け芸人の生活を一端なりとも教えてくれる点で、まことに珍しいものと思います。しかも竹山の観察は鋭く、記憶も値段などの細部に及んでおり、この人本当に目が見えなかったのか? と思うほどです。
 以下、もうちょっと具体的に見ていきましょう。

(引用が長いので続きは以下に)
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by bokukoui | 2009-02-21 21:41 | 書物

大学出版局2割引セール

 このところ当ブログで紹介した書物、『日本の軍事革命』『西日本鉄道百年史』『鉄道の地理学』・『交通地理学の方法と展開』は、実はすべていろいろな事情があっていただいた本で、さてこそ恩義に一端なりとも報いるべく、ブログ上に記事を物した次第でした。宣伝になったかは微妙ですが・・・。
 しかし、もらってばかりというわけには参りません。そこで今日は買った話。

 昨日、大学の書籍部に久しぶりに行ってみたところ、来月5日まで「~大学出版会(出版局)」の出した書物は2割引という、結構なセールをやっておりました。同じ期間中、岩波の単行本も15%引きだそうです(文庫や新書は対象外)。これ幸いと何点か購入しました。

前田裕子『水洗トイレの産業史
 去年出た本ですが、小生の指導教官が面白いと紹介してくれたこともあって以前買いに行った際、お値段4600円の表示を見て断念していたもので、ここぞとばかり購入。目次と最初の部分しか見ていませんが、TOTOを中心とする経営史にしてかつ生活に与えた影響をも論じているようですね。
 ちなみに指導教官はその時同時に村瀬敬子『冷たいおいしさの誕生 日本冷蔵庫100年(論創社)の名も挙げていたので、そっちは以前に買って読みました(2000円しない安さだったので)。なかなか面白かったものですが、期待が大きすぎたのかちょっとあっさりした読後感もありました(ブログには感想書いてませんね)。

橋本寿朗(武田晴人解題)
『戦間期の産業発展と産業組織 I 戦間期の造船工業
『戦間期の産業発展と産業組織 II 重化学工業化と独占
(東京大学出版会)

 五十代で亡くなられた故橋本寿朗教授の論文を、武田晴人先生が解題を付して編集されたもの。これも出た当初から買おう買おうと思っていたのですが、これまた何となく踏ん切りが付かずに手に入れないでいた本でした。書影は2巻、『重化学工業化と独占』の方です(1巻は紺色)。
 この『II 重化学工業化と独占』の方に、「『五大電力』体制の成立と電力市場の展開」という章がありますが、これは元々1976年に発表された論文でした。
 小生は以前、この2冊の解題を務められた武田先生のゼミに出ていたことがありましたが、その時は学生一人がある産業の分野を担当し、その分野の論文を調べて研究史を報告する、というものでした。小生は何となく(どういう経緯か覚えていない)電力業を担当することになり、電力業史に関する論文や書物のリストを作り、すべてではありませんが主なものを読みました(確か全部で百点近くあった)。その詳細ははしょりますが、めちゃくちゃ大雑把に言えば、金融資本と電力業の関係について、松島春海による金融資本の電力業支配説が1960年代に唱えられ、それを批判して研究史の方向を変えた一つのきっかけがこの橋本論文でした。その路線を引き継いで、電力業は金融資本から自立していた、という現在の通説を確立したのが、こないだ紹介した『西日本鉄道百年史』の執筆もされていた橘川武郎先生です(ちなみにこのブログで過去に日本電力業の歴史に関する話を書いた際、戦時中の電力業の国家管理について「長い回り道」と指摘した出典元は橘川説です。橘川説は電力業について、国家権力や金融資本からの自律性を高く評価するところに眼目があります)。
 といった話をゼミでしたところ、武田先生の講評は、橋本論文の評価が君の説明では今一つ弱いから、きちんと読み直すように、とのことでした。その時は、小生は橋本論文の意義がよく分かっていなかったんですね。

 ですが、この時に電力業の歴史を勉強したことがきっかけで、それまで迷走していた修論の題目が決まって、何とか博士課程に進むことが出来たもので、個人的に思い出深い論文でした。そして鈍い小生もさすがに、今となってみると武田先生のご指摘の意味が、いくらかは分かってきた気がします。

武田晴人『仕事と日本人』(ちくま新書)

 そこで武田先生の新刊を買った、というわけではなく、これは院生仲間が絶賛していたので、本書の前身ともいえるかも知れない『日本人の経済観念』を以前面白く読んだことでもあるし(岩波現代文庫に入ってたんですね。小生が持っているのは古い単行本版)、と購入した次第。
 いま筑摩書房のサイトを探すべく検索してみましたが、既にかなり書評も多く、新聞にも取り上げられているようです。しかし産経新聞のこのネット書評は・・・いや、本文自体は何の問題もないと思うのですが、たまたま、小生が見た際の広告が、大変皮肉なことになっていて。


 あと、こんなんも買いました。岩波が15%引きだったので。

大澤真幸編『アキハバラ発 〈00年代〉への問い

 洋泉社のアキバ事件本は以前買って読み、ブログに感想を記しました。また、先日の古澤克大書記長プロデュースのイベントに出演されていた増山麗奈さんが発行の中心のお一人である雑誌『ロスジェネ』の、秋葉原通り魔事件別冊は、随分前にこれまた買って読んだのですが、感想を記しておりませんね。
 いろいろ忙しいのですが、自分が出くわした秋葉原通り魔事件についての書物は、なるべく読んで感想を書くようにしたいと思います。

 さて、まだまだ欲しい本はあったのですが、例え2割引でも大学出版会の本というのはそもそも値付けが高いので、結局3冊だけで予算に達してしまいました。セールは来月頭までやっているそうなので、何とか資金繰りをつけて、もう少し本を集められればと思っています。
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by bokukoui | 2009-02-10 22:34 | 書物

戦前の映画を見た話(亀井文夫作品2点)

 少し旧聞に属する件ですが、前月の浦嶋嶺至(礼仁) 画業20周年トークイベントに行った際、たまたま出会った昼間たかし氏に教えていただいた昔の映画の上映を見に行ったので、そのことを忘れる前に書いておこうと思います。といっても、既に充分時間が経ってしまっているので、結構あやふやなのですが・・・何しろ映画というのは、メモを取るのがなかなか難しいもので。

 見に行った映画とは、上のリンクにある通り、亀井文夫監督作品の「姿なき姿」(1935年・29分)と「支那事変後方記録 上海」(1938年・77分)の二本立てです。映画館に映画を見に行ったなんて何年ぶりだろう。酒井翁メイド系映画(?)を見に行って以来かも。
 場所は京橋のフィルムセンターです。そういや中島らも『なにわのアホぢから』の中のひさうちみちおの漫画で、「京橋で映画を見る」というと、東京ならフィルムセンターに行くことだけど、大阪ではポルノ映画を見る意味になるというネタがありましたな。

 閑話休題、先に結論を書けば、二本とも非常に面白く鑑賞し、時間があっという間に過ぎました。もっともそれは、映画としての出来の善し悪しを云々するというよりも、「歴史の史料として」非常に面白かったということなので、映画ファンの方からすれば邪道な感想かも知れません。ただ、史料として見るならば、コマ送りでじっくり見たい所で、映画館で一通り見るだけではかえって欲求不満が溜まる感もないではありません。
 以下うろ覚えですが、個々の映画について印象に残っていることをつらつらと。

 まず、戦前の日本最大の電力会社であった(最大の民間企業でもある)東京電灯のPR映画「姿なき姿」について。小生は電力業の歴史にも少なからず関心がありますので、この日見に来た最大の理由でもあります。
 昭和初期の日本の電力は水主火従(特に東京電灯は水力依存傾向が強かった)でしたので、大規模な水力発電所の映像が続々と流れ、インフラ好きにはたまりません(フーヴァーダムの迫力には残念ながら負けますが)。火力発電所も紹介され、確か「お化け煙突」の千住火力も出てきましたっけ。
 このような大規模な水力発電所を建設するには、まず山を切り開いて資材運搬手段を講じねばなりません。今なら道路でトラックですが、戦前のことですから軽便鉄道を敷設して建設資材を輸送します。その模様が数多く出てくるので、画面から目が離せません。そもそもこの映画自体、軽便の機関車が大写しになって始まっています(文脈がちょっと分かりにくいのですが)。
 その中で、確か大井川の開発だったかと思いますが、橋を架けて川を渡る軽便鉄道の背後に、もう一本川を渡らない別な線路があって、二本の列車が同時に走っているという、模型のレイアウトのような情景がありました。あれはどこなんだろう。
 映画の最後は、冬の送電線を守る作業の大変さを写しています。新潟県や長野県から山を越えて東京まで延びる送電線を、雪をスキーで乗り越えて保守するのですが、ナレーションでは、食料を運び上げておいた山小屋に冬の間中こもって保線員は作業をするとのことでした。大変な作業であることはもちろんですが、この地域の住民にしてみれば、降雪で農作業が出来ない時期の間じゅう衣食住東京電灯持ちの賃金仕事というのは、合理的なものだったのかも知れないとも思われました。
 映画では、電気が産業や生活に不可欠になっていると強調するシーンがあり、そこで流線型の電気機関車・EF55が疾走しているのはよく分かるのですが、電気の使用例として「劇場照明」が挙げられているのが、何だか突飛な例に思えました。しかもその劇場、羽根をつけたおねいさんたちが階段で隊列をなしてダンス・・・ヅカか。いや、東京電灯だから東京宝塚劇場? というところでやっと気づいたのですが、1935年当時の東京電灯社長は小林一三だったのでした。成程。

 「支那事変後方記録 上海」の方は、日中戦争初期に占領された上海の模様を撮影した宣伝映画です。しかし一見しては声高なプロパガンダ映画ではなく、むしろ淡々と戦闘が終わった上海の情景を描写しています(そのように作られています)。
 これは盛りだくさんで、市街戦の跡であるとか、揚子江(の支流)に浮かぶ各国軍艦、航空機の出撃前状況や防空戦闘の説明など、陸海空すべての状況が盛り込まれています。市街戦では、共同租界との境界線にあったことを利用して、国府軍が最後まで抵抗した有名な倉庫の状況が分かります。市外だけでなく、郊外で激戦が展開されたクリークの様子も映し出されます(この戦闘に関しては、以前紹介した『第百一師団長日誌』が良い史料になります)。軍艦関係では、連装砲塔を4基備えたイタリア巡洋艦(多分。連装砲塔の二門の砲の間隔が狭いので。実は仏艦の見間違い?)や連装砲塔3基備えたイギリス巡洋艦(多分)が大写しになりますが、艦名が分からない辺りが我ながらヘタレでありました(ご存じの方がおられましたらご教示下さい)。

 雑駁な感想ですが、「聖戦完遂」的なスローガンの単純な連呼ではなく、むしろ戦闘の過酷さを示唆させるような、そんな印象を受けます(そのため現在でも尚鑑賞に堪える作品となっているのでしょう)。兵士の戦死した地点に、木柱に「誰それ戦死之地」と記した慰霊碑を建てた情景が、随所に織り込まれています。市街戦に関して、「世界に類例のない激戦」といったようなナレーションもあったかと思います。
 実際、第1次大戦の陣地戦の経験を積んだドイツから導入した技術を活用し、中国軍としてはもっとも装備も練度も高い部隊が投入された上海戦は、大変な激戦であり、日本軍もその突破には様々な工夫と大きな犠牲を必要としました(詳しくは上掲リンクの『百一師団長日誌』参照)。その直後の第2次世界大戦の奔流の中で霞んでしまいましたが、当時としては確かに、一時代を画した戦場であったのでしょう。そして、その激戦という背景があったからこそ、その直後の南京事件へと繋がっていくのです。
 で、あからさまな戦意高揚でない、むしろ犠牲の大きさや激戦を強調する、一歩間違えば厭戦機運にも繋がりかねない、この映画が当時の軍に許されたのは、一時代を画した戦場ということを軍も感じていたからなのかも知れません。これは全くの思いつきですが。

 ところで、やはりプロパガンダ映画といえば、子供の扱いが大事ですね。この映画でも例に漏れず、子供が登場します。それもご丁寧にも、在上海在留邦人の子供と、中国人の子供と、両方を写しています。
 また、動物も同じような、プロパガンダの道具として使われるものでしょう。平和の演出に有効ですから、犬猫もこの映画に何度も登場したかと思います。ですがその中で、海軍陸戦隊の水兵さんが犬を連れて出かけるシーンがあったのですが、どういうわけかその犬、四本の足を全力で踏ん張って、首輪につけた縄を引っ張る水兵さんにちっとも従わないのです。映画だということで無理に引っ張り出されて不機嫌だったのか、はたまた抗日精神旺盛な愛国犬だったのか。

 さて、この「支那事変後方記録 上海」はDVD化されているようです。小生、この映画もできればコマ送りで見たい、さっき書いた巡洋艦の他にも、鉄道に関するシーンで復旧した駅に列車が入ってくる、その機関車がどうも大陸に送られた1435ミリゲージ改造9600形のような気がして、他にも確認したい所は多々ありましたから。で、アマゾンで見つけてちょっと覗いてみたのですが・・・
 同じシリーズで「南京 戦線後方記録映画」というのもあります。これにアマゾンでつけられたカスタマーレビューの酷いこと酷いこと。日本軍公認の映画を根拠に「虐殺事件はなかった」と言い切るというその神経は信じがたいものです。当然その映画に何を写すかは、軍の意向が反映されないはずはないですから(完全に意嚮そのまま、ではないにしても)。史料批判ということを知らないのでしょう。
 興味深いのは、「南京」については8件のレビューがあるのに比し、「上海」には一つもないということです。これは虐殺まぼろし説を批判している側にも言えそうな問題点ですが、上海があったからこそ南京もあったわけで(映画も上海・北京・南京と三部作になっているそうで)、その関係は念頭に置かねばならないでしょう。南京だけが歴史の中に漂っているわけではないのですから。そして、映画やその制作者の評価はまた別でしょう。

 で、その「上海」をアマゾンのページを改めて見ると、驚くべき発見がありました。これは経時的に変わるかもしれませんので、画像の形で取り込んで示します。以下の画像をご参照下さい。
f0030574_4134914.jpg
 ・・・・・・。

 「類似した商品から提示されたタグ パンツじゃないから恥ずかしくないもん

 もう詳しく解説する気はありませんので、意味の分からない方はご自分で検索してください。
 結局、「南京」は南京事件ということでしか興味を抱かれず、「上海」は趣味の偏ったミリヲタのみが関心を示したということになります(「南京」の「類似した商品から提示されたタグ」には、「チャンネル桜」が出てくる)。
 ・・・なるべく本はアマゾンではなく、神保町で買いたいと思います。

 嗚呼、昔の映画を見て面白かった、ということを書きたかっただけなのに、何でこんなハナシになってしまうのでしょうか。亀山監督、申し訳ありません。
 最後ぐらい真面目にまとめれば、映像資料の活用については、歴史学の研究はまだあまり多くを蓄積していない、現状のごたごたはそれ故の一時的な(将来解決せられるであろう)問題である、そう信じたいものです。
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by bokukoui | 2008-12-27 23:55 | 歴史雑談

ミニシンポ@地下鉄博物館「東京の地下鉄の歴史と都市交通」聴講記

 今日は新幹線の初代車輌・0系が記念運行も終わって完全に引退した日だから(参考ニュースリンク:こちらこちら)なのか、Googleのトップ画像が↓
f0030574_2334164.jpg
なんて風になってまして驚きましたが、それなりに鉄道の歴史が世間の人々の耳目を惹くようになってきているのでしょうか。0系の車輌は確か鉄道博物館に収められると聞いていますが(現在あるのはカットボディのみ)、何せ走行できる路線が限られている以上、動態保存や復活運転は多分不可能でしょうね。蒸気機関車なら、とりあえずレールさえちょこっと引けば、「動かす」だけは出来ますが、電車(しかも交流25000ボルト)ではそうも行きません。可能な限り鉄道車輌は動く形で保存するのが望ましいのですが・・・。

 というわけで、新幹線やグーグルとは何の関係もありませんけれど、鉄道への広い関心?ということで、表題の如きシンポジウムというか講演会が地下鉄博物館という公開の場で先月開かれました。小生それを聞きに行っておりましたのですが、諸事に追われて2週間も経ってしまいましたので、いい加減忘れたり資料を亡くす前に記録を記しておきたく。
 このミニシンポとは、交通史学会が例会を兼ねて企画したもので、詳細はリンク先を参照していただくとして、要点を抜粋すれば以下の通りです。
テーマ:「東京の地下鉄の歴史と都市交通」

鈴木勇一郎 氏
「戦前東京の地下鉄計画」 

久多羅木吉治 氏(東亜建設工業株式会社 技術部長) 
「東京圏における高速鉄道の歩みと未来」
 鈴木勇一郎さんは、以前歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」にて、「近代日本のおみやげと鉄道」という、とても楽しい講演をされた方です。
 さて、小生は交通史学会の会員ではありませんが、たまたま研究室に告知のハガキが貼ってあってこれを知り、、地下鉄博物館にて公開で行う、というのであれば、そして鈴木さんの講演であれば、これはと思って聞きに行った次第です。幾人かの友人にも本件のことを伝えておいたところ、2名の同道者も集まり、子供の頃以来行ったことがなかった地下鉄博物館に足を運びました。
 交通史研究会の会員は、申し出れば無料で入館できたそうですが、我々は非会員なので210円払って入館します。で、講演開始までに博物館を見学・・・というほど時間がなかったので、とっとと講演会場に。
 交通史学会がどれほど会員がいてどの程度活動しているのか、小生は全く存じませんが、例会となればそれなりの人数が来ているだろうと思ったところ、案外少なくて30人ほどでした。ということは我々が1割・・・来場者はやはり年齢層の高い男性が多かった気がしますが、趣味者なのか若めの方もおられましたし、またどういうわけか、こういう場所ではあまり見かけないうら若き女性3人連れがいました。

 閑話休題、講演の内容をかいつまんでご紹介しましょう。

 まずは鈴木勇一郎さんの講演「戦前東京の地下鉄計画」です。
 この講演の概要は、日本最初の地下鉄を実現したとして名高い早川徳次の東京地下鉄道は、東京市を含めた様々な地下鉄計画の中の一部を担っていた存在であるということ、結果的に東京地下鉄道は東急を築いた五島慶太の傘下に入りますが、それは五島の私利私欲だけではない五島なりの交通調整(様々な交通機関や事業者が入り乱れると、混乱して効率が低下し利用者の不便にもなるので、政策的にそれを調整すること)の考えがあったこと(しかし結局東京の交通調整は営団が出来たのみ)、といった辺りにあります。以下箇条書き。

・戦前東京の地下鉄は、早川徳次を中心とする東京地下鉄同の物語としてもっぱら語られ、五島慶太の東京高速鉄道と新橋で争い、遂に乗っ取られる経緯はかなりよく流布した話である。しかしこれは、東京の地下鉄の中では一部の話に過ぎない。相対化の必要がある。
・この講演では、地下鉄だけでなく、明治から蓄積されてきた様々な都市交通を語る。その際、市内・郊外交通の関係と、経営体のあり方という二つの視点から俯瞰する。問題提起的な話。

・東京史における市街電車の成立は、1903年の東京馬車鉄道・東京市街鉄道・東京電気鉄道の三社が誕生したことによる。この三社がまもなく合併して東京鉄道になり、1911年に市有化される。
・これらの市街電車はしかし、市内交通機関にとどまらない性格を有していた。東京電気鉄道は当初川崎電気鉄道と称し、信濃町から渋谷、中目黒、池上を経て川崎に至る路線を構想していた。市内と郊外の直通連絡を志向していたのである。しかし、結局それは実現せず、当初の構想は忘れられて旧市内に閉じこめられ、市電に取り込まれて市内交通になってゆく。
・東京の郊外私鉄については、東京市の市営主義で郊外私鉄が山手線より内側に入れなかった・・・と良く云われるが、東京市に鉄道の免許権限はない。許認可権を持っているのは国で、市は牽制はするが、国は時として免許を与えた。しかし国の方針は揺れ動き、都市交通も振り回される。

・川崎→東京電気鉄道の計画を実質的に引き継いだのが渋谷~横浜の武蔵電気鉄道(1906計画:後の東急へ繋がる)。しかしこの電鉄は高速鉄道(路面電車ではない、専用軌道を有する電車)を志向したため、路面電車と規格が異なり、そのままでは市内直通が困難に。
・1914年に武蔵電気鉄道は市内有楽町への支線を出願し、それは地下式か高架式として、明確に高速鉄道による乗り入れを志向。
・1919年には利光鶴松らの東京高速鉄道(後の五島による地下鉄とは別)が、市内・郊外の半環状線・新宿~小田原の路線を出願。これは市内の計画が却下されて、残りが現在の小田急になる。従来、市内の出願はダミーともいわれてきたが、市内と郊外を一体化した交通ネットワークを志向していたのでは。
・同年、ロンドンを調査した早川徳次等による地下鉄出願。

・一方、1917年には鉄道院主導で東京市内外交通調査会が作られて、東京における高速鉄道計画を策定、私鉄に地下鉄免許が下りる。
・しかし、1923年の関東大震災後、国の政策が転換し、計画が進んでいた東京地下鉄道以外の私営地下鉄の免許を失効させる。代わって市が1926年に免許を獲得。その翌年に、最初の地下鉄・東京地下鉄道が上野~浅草を開業。
・ところが、東京市は起債の許可が政府から得られず、建設資金調達の目処が立たなくなった。そのため、民間から再び参入の動きが出、東京高速鉄道が東京市の免許路線の一部を肩代わりして建設することを要望し、1932年に一部免許を譲受。

・東京高速鉄道の経営を五島慶太が実質的に掌握し、巷間よく知られる東京地下鉄道との対立へ。新橋でぶつかった両線が、乗り入れを巡り衝突。
・割り込まれた東京地下鉄道は、明治時代から市内直通を画策していた京浜電気鉄道(現京急)と共同し、京浜地下鉄道を設立。品川~新橋~浅草の相互直通を構想する。このため、当時の京浜の電車は、第三軌条集電方式である地下鉄用の、コレクターシューが取り付け可能の構造になっていたといわれる。
・そこで五島は「強盗慶太」として東京地下鉄道・京浜電鉄とその関連会社を乗っ取り。これは市内・郊外の統合的運用を意図した、事実上の交通調整となっていった。同じ頃、イギリスではロンドン交通営団が組織され、都市交通が一元管理されていた。

・1932年、東京市の市域拡張(大東京:現在の23区の範囲に)。これにより、広がった市に相応しい交通が必要に。
・大東京の交通調整では省線が重要な要素であったが、その参加が交通調整のネックになった。
・1938年、各地の交通調整を進めるために陸上交通事業調整法成立。交通事業調整委員会を設置。
・その委員会の検討では当初、帝都交通株式会社という半官半民の経営体による統一が検討されたが、結局郊外は地域ブロックごと、旧市内は地上交通を東京市、地下鉄を特殊法人に統合することとなる。帝都高速度交通営団が設立され、私営の地下鉄(計画)も市の計画も、全てを継承した。

・戦後、郊外と市内交通の関係は、相互乗り入れの促進によって改良された。一方経営体の問題は、東京都が戦後、地下鉄を営団へ渡したのは戦時中でやむを得なかったからだと主張しだし、複雑な関係が続くことになる。


 引き続き、久多羅木さんの講演です。久多羅木さんは元々営団地下鉄で長年建設に従事され、交通計画やトンネルなどがご専門なのだそうです。そして営団を辞めて、今は建設会社に勤めておられる由。
 さて、久多羅木さんの講演は、理系だからというのか、パワーポイントによる上映画像が多く、しかしそれはレジュメの形では配布されませんで、またお話全体も多岐に渡って、こういった「講演」の形式にあまりお慣れではなかったのか、話を一本の線でまとめて以下に述べることが難しいので、小生が取ったメモの中から興味深いトピックを箇条書きで列挙していきたいと思います。

・地下鉄の定義はややこしい。ここでは主として地下を運行している事業者の路線、くらいの意味とする。世界最大はロンドンとされるが、地下区間だけを取り上げれば東京は約270キロで世界最大。ちなみに地下第2位はソウル(約260キロ)で、ほとんどの区間が地下。

・東京の地下鉄ネットワークは、世界に例のない特徴を幾つも持っている。相互直通はその一つで、適切な英語の訳語がない。これは日本人の緻密な性格やソフト面のきめ細やかさによるものか?
・また、地下鉄を地上の電車と同じ、20メートル級10両編成の大規模な列車が走るのも割と珍しい。東京では、都営12号線の車輌が他の路線よりも小ぶりだが、あれくらいが地下鉄車輌の世界標準。

・東京の高速鉄道網の整備には、震災と戦災が大きな転機になった。また、1962年の都市交通審議会6号では、地下鉄計画が大幅に郊外に延伸され、郊外との連絡が図られた。

・地下鉄を作る上では、特に建設規格が重要である。(具体的に、トンネルをの掘り方がどのように変わってきたか、図を出して詳しい解説があったのですが、それは残念ながらここでは述べられません。建設中の面白い写真も色々あったのですが・・・)
・地下鉄は排水などの都合上、水平な線路を造ることが出来ない。最緩勾配は2パーミル。
・地下鉄の経費は高い。在来線を東京から下関まで作る費用で、新幹線は名古屋までしかできないが、地下鉄は横浜までしかできない。

・昔、「牛の乳の出が悪くなる」と鉄道建設反対運動があったというが、地下鉄でも反対があった。麻布付近で反対があり、その地域は都電廃止後鉄道がなく「陸の孤島」となった。その後南北線を作ることになって地元に行ったら「反対したのは親爺の代だから、宜しく」といわれた。
・地下鉄建設の問題は、開削工法の場合周辺への影響が大きいこと。そこで周辺への影響が少ないシールド工法が採用されるように。千代田線は20%をシールド工法で作ったが、有楽町線は66%。その後の路線は大部分シールド工法。

・今年開通した副都心線について。副都心線は従来と異なるコンセプトであり、千代田区付近を通らず、副都心の大ターミナルを貫通している。
・郊外から地下鉄に直通した電車が、地下鉄に乗り入れると遅くなるというのを解消するため、副都心線では速達制を重視し、東西線程度の表定速度を確保した。これには平行線の存在もある。
・また、他線との乗り換えを便利に、なるべく歩かずに済むよう工夫した。

 他にも色々あったのですが、図なしでは上手くお伝えできず残念です。余談ですが、昔の鉄道反対云々は怪しいという話(鉄道忌避伝説)はこの本で説明されておりますが、大体その伝説では「宿場が衰退する」「火の粉で火事になり、蚕に悪影響」なのであって、「牛の乳の出が悪くなる」というのは新説な気が。日本では牧畜が盛んではないし、大体コールドチェーンがなかった昔は、牛乳用の牛は町中かせいぜい郊外で飼っていたのではなかったかしらん。
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質疑応答時の会場の様子

 閑話休題、質疑応答の要点は以下の通り。

 まず、司会の早稲田の山根講師が問題提起的な指摘を幾つか。
・早川徳次への影響、震災復興など、後藤新平の存在が大きいのではないか。20世紀の初頭は世界的な都市論ブームで、留学した官僚が欧米の情報を持ち帰っている。後藤もそれに関係。
・地下鉄に於いては、土木技術と同時に電気技術が深く関与している。長距離送電技術の実用化が地下鉄を可能にしたのではないか。現在でも電気技術は重要。

 これらについき、講演者の回答。

久多羅木さん:地下鉄の技術は安全性を重視し、戦前の打子式ATSにはじまり、新幹線より早く日比谷線でATCを導入している。そういった先進性がある。

鈴木さん:後藤の話をしなかったのは、東京の都市計画の中でその話は既に語られており、それとは違う話を今回したかったため。地下鉄については早川の話も以前から有名であるが、五島や早川や東京市を並列的なプレーヤーとして扱ってみた。
 震災以降の、国の地下鉄政策の方針転換(私営容認→市営)は、後藤の影響の可能性はある。
→(山根):後藤はアメリカと縁があり、ニューヨークを真似て市政調査会を作った。都市の拡大を問題視せず、大都市でいいんだ、という開き直りの都市行政となっていくのではないか。それを主導するのが技術官僚で、彼らを支えた一人が後藤。

 続いて、会場から出た質問。

・90年代に営団民営化の話が出てから、副都心線の構造が変わったようだが、その辺りの背景は。
→(久多羅木):営団の民営化は営業状態と関係なく、特殊法人改革の一環として行われた。営団民営化という決定自体は、閣議決定では4、5回されている。民営化の結果、白金付近は複線になった。

・帝都交通株式会社とはどのような構想か。
→(鈴木):各私鉄と省線を含めて会社を作ろうとしたが、省線参加が大きな問題になった。

・東京市としても地下鉄の位置づけが不明確。
→(鈴木):地上の交通(路面電車)から高速鉄道に移行すべきとは認識していた。だから経営も引き続き市が行う、という発想を持っていた。

・地震の際、地下鉄にいたらどうすればよいか。
→(久多羅木):地下鉄の構造物は、大地と共に揺れるので、地上より相対的に安全。自分なら地下鉄に避難したいくらい。但し怖いのはパニック。

・東京の地下鉄建設が終わったら、技術者集団はどうなるのか。トンネルの多い新幹線などに転身するのか、海外に打って出るのか。
→(久多羅木):今後も大深度地下は活用されるだろう。

 この辺で、時間いっぱいになりました。
 なかなか面白い話でした。個人的には、やはり歴史的な方向に関心が向いてしまいますが、久多羅木さんの建設秘話的な麻布地区住民の声は興味深く、こういう話をもっとたくさんしていただければ、と思わずにはいられませんでした。
 歴史方面でいえば、山根さんの「長距離送電技術の実用化が地下鉄を可能にしたのではないか」というご指摘はなかなか面白いと思いました。ただ、長距離送電の実用化それ自体がもたらすのは、端的に言って電力の価格が低下するということですが(供給量が増えるから。また、大規模な水力発電は、将来の需要増を見込んで作られるため、建設当初はどうしても余剰電力が生まれる。そのため電力会社は余剰分を安売りして電力需要を開拓しようとするので、電力の活用が進む)、電力が安くなるだけでは地下鉄建設の強いインセンティヴになるのかどうか。地下鉄の運営に際し、電気代が直接的にどこまで重要かは検討が必要です。むしろ、社会での電力の活用が進むことで、電気産業全体が栄えるという間接的な形で関与しているのではないかと思います。電力会社と鉄道会社は、資本・技術・経営の各面で関係が深いので、この方向はもっと追求されるべきと小生は考えています。
 東京の交通調整について、鈴木さんの講演では鉄道省の行動の経緯がやや弱いと感じました(と、ご本人に後で言いました)。なかなか分かりにくいのは確かなのですが。しかし、当時の交通調整委員会の議事録など読んでも、省線は都市交通で重要な存在なのに、交通調整への参加を渋り、「線路が繋がっていて駅も共用しているから、新法人には出資できない」と主張したり、出資するにしても運営は鉄道省が委託という形で行う、と主張したり、揉めています。結局委託では見目の前を通り過ぎただけで意味がない、と委員会で一番文句を言っていたのは堤康次郎でした(衆議院議員の資格で参加)。
 鉄道省は巨大な現業部門と、交通事業の監督部門とを同時に抱えており、しかも都市交通上重要な存在なのに、現業部門の中では「全国の交通体系が国鉄の任務であって、都市交通はおまけに過ぎない」と軽んじられ、その捻れが、おそらくは戦後に至るまで様々な問題を引き起こした(反って良かった面もあるかも知れませんが・・・)といえます。そして東京市(→東京都)は、自分こそが中心と自負してみても、結局自分の力では出来ずじまいで他の当事者から経営能力を疑われたり。実際東京の都市交通は、市や都の範囲を超えているわけですが。
 となると、世界に比類なき相互直通運転の発達も、こういった戦略レベルでの当事者のごたごたを、現場の作戦レベルで解決しちゃった・・・という、ある意味「日本的」なことだったのかも知れません。そしてそれに協力的だった、満員電車の乗客の存在と。 
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by bokukoui | 2008-12-14 23:36 | 鉄道(その他)