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赤木氏の「戦争」~希望は、ガンダム? 附:『日中戦争下の日本』略感

 いろいろ忙しく、お陰で疲労も積もり、続きを書くのが遅くなりました。
 で、もうずいぶん前のお花見の時の件、「三十三年の孤独~革非同花見に「希望は戦争」赤木智弘氏来駕」の続きです。

 赤木智弘氏の所説が話題を呼んだのは、ひとえに「戦争」という言葉の使い方が刺激的だったからであろうと思います。で、近代史を学んでいる者として、というよりは戦史マニアの端くれとして、という方がいいのかも知れませんが、赤木氏の戦争観について是非とも伺ってみたかったのです。極端な例として、スペイン継承戦争時のフランスでヴィラール元帥が「われわれがおおぜいの新兵をみつけられるのは、諸州の民が困窮にあえいでいるおかげだからである。・・・民の苦難がわが王国を救う、といってさしつかえない」といったように、生活が苦しい時「希望は、戦争」というケースは歴史上まま見られました。生まれた社会に見切りを付け、傭兵として一旗揚げるという例は、近世のスイスや古代のギリシャなど枚挙に暇がありません。今だってフランスには外人部隊というものがありますし、更に最近横須賀市民を震撼させたタクシー運転手殺人事件の犯人であるアメリカ水兵はナイジェリア出身でした。これらの例が突飛とするならば、別な視点では満州事変後の日本も戦時体制強化に社会改革の希望を託していた事例とも言えますし、独伊のファシズムなども思い起こされます。

 この日の宴席には、書記長以下元・予備自衛官が4人も出席されており、自衛隊は「非モテ」な組織だとの感を深くしましたが、それはそれとして、つまり戦争の(元)専門家が4人もいるわけですし、また小生の他にもこういった話題に興味のある方もおられ、戦争で一旗揚げる話題は大いに盛り上がりました。フランス外人部隊の入り方だの、ヴァレンシュタインの話だの、はてさてチベットの状況に至るまで、話は多岐に渡りました。
 が、赤木氏、この話にちっとも乗ってこないのです。唯一氏がこれら戦争の話題の中で口を差し挟んできたのは、どなたかが話の序でにネタとしてカテジナとかいうガンダムのキャラクターの名前を出したときでした。小生はガンダムのことを何も知らないので(小生が巨大ロボットに関心がなく実物の機会にしか関心がない理由は以前書きました)どういうキャラクターか存じません。フランスのカチナ元帥(上掲ヴィラール元帥と同時代の人)というのなら聞いたことがありますが。
 で、そこで赤木氏に対しこう思わずにはいられませんでした。

 「あなたの仰る『戦争』って、ガンダムですか!?」

 社会の閉塞状況を打破するために「戦争」に賭ける、というシチュエーションで、まず多くの日本人に思い浮かぶであろう歴史的先例としては、我が国の満州事変やそれに続く日中戦争での総動員体制が挙げられます。赤木氏の著書をざっと読んだ限りでは、氏がこれらの歴史的状況の参考文献とされているのは井上寿一『日中戦争下の日本』だけのようでした。
 そこで同書をざっと一瞥しますに、日中戦争に諸勢力がかけた社会改革の希望を描いた、なかなか面白い本で、結論にも共感するところがありました。しかし、いくつか疑問点も浮かびました。タイトル通り日中戦争から話が始まり、その後の太平洋戦争のことも触れてはいるのですが、その前の満州事変の事が殆ど出てきません(協和会関係で数カ所ちょこっと出てきた位でしょうか)。「日中戦争とは何か」が本書の主題であるからだとしても、「戦争から国家を改造する」というのであれば、満州事変はまさにその事例として日中戦争当時の日本人にも想起される存在であったと思うのでありました。

 小生が修論で扱ったのが電鉄業と電力業だったもので、戦時下の改革(統制)について日中戦争下のみ取り上げて論じられることには違和感を覚えてしまいます。どちらの業界も、1920年代末以降過当競争と不況の対策として統制が叫ばれ、業界が自主統制を進めるも、日中戦争~太平洋戦争によって強力な国家統制がかけられ(電力業に至っては国家管理されてしまいます)、戦後再び改革が行われてその後は安定期に至る、という展開を辿っています。戦後の再改革は、特に電力業の場合、戦時中の行き過ぎを是正して戦前の自主統制に近い線に戻るというものであったため、戦時下の統制については「長い回り道」という評価が現在の通説となっております。
 だからもうちょっと前から見ておかないといかんのではないか、そう思いました。井上氏の著作では帰還兵の役割を重視していて、それは興味深いのですが、彼らに敵視される資本家もまた戦時に自分たちの業界の統制(それは日中戦争以前からずっと問題だった)をうまく進めるため、戦争に賭けた面もあるのでして。戦争が起こってしまってやめられない以上、全ての勢力が戦争を所与の条件として、自分の有利に活用する方向を探らざるを得ないわけですが。

 あと、史料として新聞と『兵隊』という当時の雑誌が多く使われていますが、ちょっと新聞などが描いた構図をそのまんま受け取りすぎているのではないか、という気もしました。また「社会システムの不調」というワードもいまいち有効に使われていないような。

 ま、このように小生が本書にやたらいちゃもんをつけてしまうのは、一箇所あれれっ!?という間違いを見つけてしまったために、小生が本書に不信感を抱いてしまったこともあるかと思います。
 本書45ページで、1940年5月の新聞記事が紹介されています。前線から帰還した兵士が倫理的に振る舞おうと努力していたのに、軍需景気の銃後では毎月一日の「興亜奉公日(戦場の労苦を偲んで簡素な生活に徹しましょう、というキャンペーン日。太平洋戦争開戦後は毎月八日が「大詔奉戴日」となった)」であるにも関わらず物見遊山に繰り出す連中が多い、という話です。その物見遊山ぶりを報じる記事について、井上氏は「ところが実際には、この新聞記事によると、東京電車鉄道管内のこの日の乗客数は約115万人で・・・」と書いています。
 はて「東京電車鉄道管内」とはなんじゃいな、と画像が掲げられている元の記事をよーく見ると、「東鉄の調査によると・・・」と書かれていることが分かりました。

 これは、鉄道省の東京鉄道局のことですね。戦後の国鉄では東京鉄道管理局(のち三つに分割された)になります。
 東京電車鉄道とは、東京の路面電車の会社です。東京馬車鉄道が電化して電車になったんですね。同じ頃東京の路面電車には東京市街鉄道と東京電気鉄道というのがあり、当時の東京市民はそれぞれ「東鉄」「街鉄」「外濠線」と呼んでおりました。これらの会社は合併して東京鉄道となり、その後市有化されます。これは全部明治末年の話なので、日中戦争と時代が三十年ほど違っております。
 ことのついでに、ウィキペディアでは東京電車鉄道の略称を「東電」と書いていますがこれは間違い。当時東電といえば、電力会社の東京電灯に決まっております。嗚呼、最近の若い鉄ヲタは物を知らぬ。
 更に余談を付け加えれば、戦前に一時期存在した「東京電力」という会社は、東京電灯との混同を避けるために「東力」と略されていました。

 ま、鉄道史の認知度なんて業界内部でもこんなもんか、と凹んだ次第です。

 話を戻します。
 本書の巻末あとがきには、なんと赤木智弘氏の「『丸山真男』をひっぱたきたい」が取り上げられており、井上氏の本書の執筆に赤木氏の影響が多少あったもののようです(赤木氏の文章は2007年1月号の『論座』に載り、井上書は2007年7月10日発行。赤木氏の単著は同年11月1日発行)。赤木氏が著作の中でそのことに全く触れていないのは不親切ではないかと思います。マッチポンプというか。
 で、井上氏はあとがきでこう書いています。
 格差拡大社会の今日の日本において、戦争という手段に訴えてでも、下流階層から脱出し、平準化をめざす「31歳フリーター」は、昭和戦中期の日本国民の末裔に違いない。
 しかもインターネットの空間で、中国や韓国、北朝鮮などの隣国とバーチャルな戦争を戦っているこの人たちにとって、今はまさしく戦中期である。(p.216)
 ・・・そりゃないでしょ。
 井上氏は本書第II章で、中国の戦場に行った日本兵が実際の中国人を見ることで、中国への他者理解が芽生えていたと書かれています。日中韓のネトウヨ(的な連中)どもは、ネットに引き籠もって他者理解を拒んでいるのが問題じゃないでしょうか。ましてネットの罵倒合戦を日中戦争に例えられてもねえ・・・。

 話を赤木氏の所論にさらに戻しますと、結局氏の「戦争」イメージはかなり偏頗なものではないかと思います。『論座』でその後展開された様々な論客との応報がいまいち噛み合わないのも、多くはその論客諸氏が赤木氏の抱える問題への理解不足にあるのは否めないにせよ、「戦争」のイメージが隔たりすぎていたのもあるんじゃないかと。あと、戦争や戦争を介した社会改革となると、軍の果たす役割は極めて大きいわけですが、赤木氏の「軍」に関するイメージは「戦争」のそれ以上に稀薄に感じられます。
 ただ、だからといって赤木氏に歴史学の授業を受けてもらえば事態が改善するんじゃない、というところに問題があるのだと思います。

 二回に渡って小生、延々と赤木氏の所論およびお話を伺った結果思うところについて長々と述べてきましたが、それだけ現在の日本社会のある問題点について考える糸口には、事実関係の問題などあろうとも、赤木氏の所論はなったということです。氏の所論はそれなりに雑誌や単行本やネットを経て広まったと思われますので、より多くの人が赤木氏のような人たちの存在に気がつき、問題として捉えるようになれば、この問題の解決に世論が向かうことにもなるかもしれません。
 ただ、このような目的で赤木氏の所論を読むとなると、いわば一段高いところから赤木氏の所論を分析し、このようなことを言うに至ったのは何故か、と読み解くことになります。何しろその内容自体は如上述べたるように問題がありますので、こと「論壇」のような場ではそういった瑕疵を突かれるか、その瑕疵を認めつつも一段高いところから(メタレベルとでも言うんでしょうか)論評するという形になるしかないでしょう。この拙文もまたその例に漏れるものではありません。で、そうなると、前回の記事で想定したような赤木氏(のような人々)の抱えている問題の根幹、コミュニケーションと承認欲求の問題の解決には、実は繋がっていないんじゃないか、そのように思い至りました。メタレベルでの分析対象にされたところで、承認欲求が満たされるとは言えなさそうなので。

 ではどうすれば良いのか、という対策については、小生に確たる答えはありません。ただ、お花見の会での小生の振舞は、いささかピントがずれていたのかも知れない、そう今では思います。赤木氏とは「戦争」について議論をするよりも、ガンダムについてお喋りすることの方が重要だったのかも知れない、その方が、直接的に氏が求めていたものであったのかも知れない、と。なれば処方箋もまたおぼろげには見えてくるでしょう。

 まだいろいろと思うところはありますが、ひとまずこれにて。

※2008.4.25.追記:赤木氏の単行本の支援広報ブログで、鮭缶氏が『日中戦争下の日本』に触れておられます。見解を異にするところもありますが、しかし本稿の内容に手を入れるのも今更なので、とりあえず読者の方のご参考にリンクしておきます。
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by bokukoui | 2008-04-17 23:44 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(9)

お気楽アメリカ紀行(10)~フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ

 もう随分と長くなっていますが、アメリカ旅行記の続きです。旅行記の他の記事は以下を参照。

 (1)オレンジエンパイア鉄道博物館への道
 (2)オレンジエンパイア鉄道博物館・その1
 (3)オレンジエンパイア鉄道博物館・その2
 (4)パームスプリングスのロープウェイ
 (5)パットン将軍記念博物館
 (6)フェニックスからセドナを経て
 (7)フラッグスタッフからグランドキャニオンへ
 (8)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)I
 (9)プレーンズ・オブ・フェイム(アリゾナ分館)II
 (10)フーヴァーダムを経てラスヴェガスへ(この記事です)
 (11)デス・ヴァレー国立公園
 (12)ヴェニス これが本当のネオ・ヴェネツィア

 プレーンズ・オブ・フェイムを出た我々は(確か運転をここで小生が代わったような気が)、一路州道64号線を南下し、ウィリアムズからは州際高速道路40号線を西へ進みます。キングマン Kingman で高速道路を降りて国道93号線を北西へ進み、フーヴァーダムを経由してネヴァダ州に入り、今日の目的地ラスヴェガスに達するという予定です。ここらへんの地理はこちらの地図をご参照下さい。
 朝フラッグスタッフを出発する時に給油はしたのですが、既にだいぶ長距離を走って燃料が減ってきているし、また明日はデス・ヴァレーを訪れる予定ですが、同地は酷暑で知られるだけに水などを買い整えておきたい、ということでどこかで給油と買物に立ち寄ろうということになりました。しかしこの附近のインターステートハイウェイ40号沿いの集落はガソリンスタンドと若干の民家がある程度の小規模なところしかなく、結局キングマンの街まで行くこととなりました。
 キングマンはそこそこの規模の街でした。高速道路を降りて旧ルート66号に当たる地道に入り、横手にサンタフェ鉄道の線路を眺めつつガソリンスタンドを探します。給油を済ませて(確か運転をK氏に代わって)、この程度の街なら何か買物をするところぐらいあるだろうと、街中をうろうろします。と、お誂え向きに、アメリカに来たのならできれば行ってみたいと思っていたスポットが見つかりました。
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 かの世界最大の小売業者・ウォルマートでございます。ウォルマートといえば "EveryDay LowPrice"(従業員の給料も)のディスカウントで有名ですが、店の正面にも "Always Low Price" と大書されていました。
 広大な駐車場に車を停めて店内に入ります。最近は日本にもこのようなロードサイド大型スーパーが増えましたが、本場のそれは(この程度の地方都市でも)流石に大きく、なかなか面白い見ものでした。広い店内を身障者や老人でも廻りやすいように電動カートが備え付けられており、これで駐車場から行き来できるようになっています。これはなかなかバリアフリーで結構。

 目的の水を探しに飲料売場と思しきあたりをうろうろします。でかいのは何も店ばかりではなく、商品も皆でかく、我々は色々検討した結果2.5ガロン(約9.5リットル)入りの水をふたパック購入しました。万が一の車のラジエーター用も考えたためです。
 それにしても、アメリカは日本と基準が違うのか、飲料売場のはずなのに絵の具売場かと思わせる色とりどりの清涼飲料水の巨大なペットボトルが並んでおり、なんだかなあと思わざるを得ませんでした。さらに、恐ろしく太って身動きも億劫なのか電動カートに乗ったおばちゃんが、のっそりとその前で品定めをしている光景は、まさに「病めるアメリカ」という言葉が即座に脳裏に浮かび、写真を撮ってピュリッツァー賞に挑んでみようかなどとやくたいもないことを考えてしまいました。嗚呼肥満大国亜米利加。
 その他に菓子やアルコール飲料の類も買い込みます。小生は本場のジャンクなスナック菓子を試食せんとポテトチップスを一袋誂えます。一番小さい袋を探したつもりですが、日本のスーパーで普通置いている一番でかいサイズよりもさらにでかいものしかありませんでした。また、体調の思わしくないH氏は、夕食に出かけることができないかもしれないと考えて、長いパンにハムや野菜の類を挟んだサンドイッチを買い求めていました。一番小さい一人前のを氏が求めたのですが、パンの大きさが日本でいえばバゲットぐらいありました。ましてファミリーサイズとなると・・・。こういうサブウェイで売っているみたいなサンドイッチのことを、確かサブマリンサンドといったかと思いますが、日本のとアメリカのとでは甲標的と戦略原潜くらいの迫力の違いがありました。

 食品売り場のほか、雑貨類も数多く扱っており、またアメリカらしくタイヤなど自動車用品も広く扱っていて、スーパーとホームセンターが一体になったようなところが日本との違いでしょうか。玩具類で日本の友人の眼鏡にかなうものはないかと探してみましたが良く分からず。ボードゲームが棚の一角を占めてかなり売られていたのにはちょっと驚きましたが、やはり家庭向けのものばかりで小生の食指が動くものはありません。ただ、その巨大さゆえの独占的性格がしばしば批判されるウォルマートの玩具売場に『モノポリー』が山積みになっていたのは、ちょっと皮肉で面白い気もしました。
 他にも、家庭用組立式プールで一番でかいのが直径10メートル以上深さ1メートル以上あって、日本なら保育園の施設になりそうだと感心したり、色々と印象に残ったウォルマートのひと時でした。

 寄り道が長くなりました。車は国道93号線をひた走り、フーヴァーダムへと向かいます。
 この国道93号線、地図をご覧いただければお分かりになるかと思いますが、なんと約50キロにわたって全くの一直線なのです。ただし全くの平原ではなく、ゆるやかに上下にうねって道は伸びています。あまりの素晴らしい条件に、K氏のアクセルを踏む足にも力が・・・と思ったら、反対車線でパトカーがネズミ捕りをやっているのを発見。傾斜の陰に隠れて見えないところで待ち伏せしていたのです。これは危ないと注意するように。
 敵から見えない斜面の陰で待ち伏せする、というのは陸軍戦術の一つですが、警察もその辺抜かりないようです。

 そんな道もフーヴァーダムのあるコロラド川の谷に差し掛かって次第に険しくなり、カーブや勾配の多い道になります。沿道は荒涼として植物も少なく、ただ送電線が目に付きます。その送電線も丸太を2本立てて横木を渡し、電線を3本下げているだけの簡単なものです。電気工学科卒のK氏にお伺いしたところ、日本ではもう木の電柱は作っておらず、また古いものも17年で取り替える定めなので姿を消しつつある、という話でした。一方アメリカでは結構木の電柱を見かけたのですが、これは乾燥した気候なので木でも充分長持ちするからなのでしょうか。
 いよいよ道が狭くなり、カーヴも勾配もきつくなり、さらに検問所みたいなのがあって大型車の通行を規制しています。どうも現在フーヴァーダムを大型車が通るのを禁止しているようで、代わりにダム周辺の急勾配と急カーヴの区間をすべてバイパスして高架橋で超える新道を作っています。その工事現場を横目に峠を越え、ヘアピンカーヴで急勾配を降ると、そこがフーヴァーダムでした。国道93号線はダムの堤体の上を走ってネヴァダ州に至ります。
 見学用に駐車場が何箇所にも作られています。車を停めてちょいと撮影。時刻は夕暮れごろでした。以下の写真はクリックすると拡大します。
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フーヴァーダムをアリゾナ州側から望む 湖に4つ立つのは取水塔

 フーヴァーダムは1931年着工1936年完成、これ一つで日本のダムを全部あわせたよりも多い貯水量を誇りますが、そんなダムを5年で完成させた当時のアメリカの技術力は驚嘆に値します。以前読んだコンクリートの本にフーヴァーダムの話が載っていましたが、当時の最新の技術が投入され高度な品質で作られていたそうで、完成から70年、補修はしているのでしょうが、コンクリート建築物はとても綺麗で70年も経っているとは信じがたいほどです。
 時刻は18時ごろだったかと思いますが、ダムのネヴァダ側にある見学者用施設は既に閉まっていました。まあ時間的余裕から開いていても寄るのは難しかったと思いますが、少しでも見て廻ろうと体調不良のH氏が車内で休憩している間にK氏と小生は慌しくダムを見て廻ります。
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フーヴァーダムの洪水吐き

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洪水吐きの排水口とその上を越える国道93号線のコンクリートアーチ橋

 洪水吐きとは万が一ダムが溢れた時に水を下流に逃がす設備です。ぽっかりと底知れぬ真っ暗な口をあけている排水口が印象的でした。
 で、そこからコンクリートアーチ橋を渡って、高さ200メートルを超えるダム堤体に行ったのですが、既にここまでグランドキャニオンやプレーンズ・オブ・フェイムで酷使を重ねてきたデジカメの電池が遂に消耗し尽くしてしまいました。ダムの絶景と、さらにダムに付随した水力発電所、そこから伸びるほとんど芸術的な送電線、といったものは残念ながら撮影できませんでした。しかし幸い同行のK氏が撮影されてましたので、氏のご好意を得て写真を頂戴しております。以下、K氏撮影のお写真をご紹介させていただきます。
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ダム堤体から下流を望む(K氏撮影)

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アリゾナ州側の送電線群 左手の白い部分がダム堤体(K氏撮影)

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ネヴァダ州側の風景(K氏撮影)
手前の建物はダムの見学施設、後景のコンクリート柱は建設中のバイパスのもの

 ダムのはるか下を覗き込むと、水力発電所の設備がアリゾナ側とネヴァダ側に同数ずつ並んでいるのが見えます。取水口で取水され、ダムの高さ分落ちてきた水はそこで発電しますが、こうしてダムの底で発電した電気を送電線で真上に立上げ(三相交流なので、発電ユニットごとに3本一組で上へ上がってくる)、それを受け止めるために川へ向かって斜めに突き出した鉄塔が設置されているようです。
 傾斜鉄塔が受け止めた送電線は、両岸の崖の上に設けられた開閉所につながり、更に各地へと送られているようです。両岸で発送電設備が同じような構造になっているのは水利権の関係ではないかというのがK氏の見立てでした。両岸にはこのように様々な鉄塔が立ち並び、またダムの底の発電施設に貨物を下すため? の索道(上の3枚の写真で、両岸を水平に近く結んでいる太いケーブル。ネヴァダ側は鉄塔で、アリゾナ側は崖に掘られた穴の中に繋がっている)、トロッコらしきものもあって、鉄塔マニアやインフラ好きはアメリカまで見に来る価値があります。
 電気に詳しいK氏と同道したお蔭で、設備の意味をよく理解することが出来、時間は短いながらも充実した見学だったと思います。感謝。出来ればまた時間をかけて見学したいものです。その時は河川土木工学に詳しい人と一緒に来るとまた勉強になりそう。

 あまりH氏を待たせるのも悪いので手短に見学して車に戻り、ラスヴェガスに向かいます。国道93号線は道なりに走ると高速道路につながり、いよいよラスヴェガスの町が見えてきました。ちょうど日没頃だったので、けばけばしいカジノホテルのネオンサインが点燈しているのが見え、しかしまだ日があるので巨大なホテルのスカイラインもはっきり見て取ることが出来ました。砂漠の真ん中に巨大な街が出現したのも先程のフーヴァーダムの賜物です。しかし第一印象は何となく、日本のパチンコ屋とラブホテルをくっつけて百倍派手にしたみたいだなあ、という感じでした。まあカジノはいうに及ばず、ラスヴェガスは結婚や離婚も簡単な街らしいので、それほど見当違いな見立てでもないか・・・。
 高速道路を走って市街地に入り、日も暮れた頃に今日の宿泊地 Hilton Grand Vacations Club に到着。ヒルトンといいつつ普通のヒルトンホテルではなく、本来は滞在型リゾートみたいなもので、空いている部屋はホテルみたいに貸してくれるというもののようです。なので部屋もかなり立派な台所(コンロや流し、でかい冷蔵庫などが完備)や、バスと別に独立したシャワールームがあるなどかなり広いものでした。

 H氏の体調もほぼ回復したようなので、夕食を食べに出かけます。凱旋門やエッフェル塔などパリの建築物を模したテーマホテル Hotel Paris に行ってみます。フランス料理のビュッフェレストランがあるというので。ガイドブックには15ドルとあったけど、実際に行ってみると確か24ドルかなんかになっていて、ラスヴェガスがカジノ中心から総合的観光地(だからカジノの上がりでレストランの経費を賄わないで独立採算的になる)に移行しつつあるのだなあという感を抱きました。料理はなかなか旨かったように感じましたが、ここ数日の食生活があれだった反動なのかもしれません。思い返せばがぶがぶアイスティーを飲んでいた記憶があるので、味付けはかなり濃かったんじゃないかと思います。
 バクチはしませんでしたが、カジノの中を通ってちょこっと周辺観光。カジノで飲み物を運ぶお姉さんの衣裳がバニーガール的露出度でした。イタリアや古典古代をテーマにしたという周辺のホテルをちょこっと覗き、噴水のショーを(タダなので)見ます。フーヴァーダムの水と電気はこんな風に使われているのだなあと感慨些か。あとどっかのカジノに日本料理店が併設されていましたが、その店名が「しんたろう」だったのでラスヴェガスまで来てこれかよ、となんとなくぐったりしましたが、これはしんたろうはしんたろうでも勝新の方じゃないかとはH氏の言。
 しかしまあなんですね、ラスヴェガスでこういった「〇〇風」のアミューズメントを大金を投じてやっているその規模はやはり目を見張るもので、日本の「メイド喫茶」も誰か物好きな資産家がマナーハウス一軒秋葉原におったてるくらいのことをして欲しいですね。もっとも小生が100億ドルくらいカネの余っている資産家だったら、ラスヴェガスに「北朝鮮」を題材にしたテーマホテルを建てます。つまり史上最大の廃墟と化した柳京ホテルをそのまんま実現させてやろうというわけで。 Hotel Paris の凱旋門のごとく金日成の銅像や主体思想塔も完全再現。名物は喜び組ショー。
 ・・・流石にだいぶ草臥れていたのか、ラスヴェガスまで来てやくたいも無いことしか思いつきません。夜の10時を廻っても、大通りは人でごった返しています。遅いのでホテルに戻ろうとしますが、ストリップと呼ばれるラスヴェガスの目抜き通りはこの時間でも大渋滞で埒があきません。そこで高速道路を迂回していったところ、すぐにホテルに戻ることが出来ました。無料の高速道路はこういう時に便利ですね。

 以下、デス・ヴァレー篇に続く。
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by bokukoui | 2007-06-17 23:53 | 出来事 | Trackback | Comments(4)

二つ繋ぐならついでにもう一つ

 今日は五・一五事件から四半世紀、先日の長崎市長暗殺を思い起こして、再び世間のきな臭ささを感じてしまったりもするのですが、もしかするとそれよりはマシかもしれない国際ニュース。

 南北朝鮮、56年ぶりの直通列車=17日に試験運行実施

 朝鮮半島の東側の海岸線も連結するとは、迂闊にも存じませんでした。

 ところで、リンク先の地図に「金剛山」という場所が出ていますが、金剛山には日本統治時代に金剛山電気鉄道という電鉄が走っていました。小生も昔の写真を見たことがありますが、戦前の日本の代表的な高速電車であった新京阪などを髣髴とさせる、なかなかどうして立派な電車でした。今でも平壌に保存されているとか(リンク先参照)。
 この電鉄は戦時中に一部休止され、恐らくは、その後の朝鮮戦争で起点の鉄原などが激戦地となったために消滅したものと思われます。ですが、観光路線として戦前それなりに名前が高かったらしいので、南北の鉄道を繋ぐのであれば、是非いつか金剛山電鉄も復活して欲しいものです。現状では電力不足の北朝鮮が拒否しそうですが・・・。

 ところで以上の話とあまり関係ないのですが、リンク先を読んだら朝鮮半島の日本統治時代の電力事業は、最後は四地区のブロックになって金剛山電鉄も京城電気に合併されてその電鉄部門になったとあります。日本では戦時中の電力国家管理においては、電力会社が副業でやっていた電鉄事業は切り離され(京都電灯と京福など)、また電鉄会社の副業の電力業は国策会社に召し上げられた(阪神など)のですが、朝鮮の電力統制は違ったようですね。
 日本の電力国家管理の研究で、朝鮮との比較について述べたのはそういえば今まで読んだ中では思い当たりません。欧米の事例を元に当時の人が日本の電力統制をどうするのかを議論した、それに関する研究は記憶にありますが、案外植民地の事例は盲点になっていて、しかも本国とは結構異なっていたのかもしれません。今度機会があったらちょっと調べてみよう。
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by bokukoui | 2007-05-15 23:59 | 鉄道(時事関係) | Trackback | Comments(0)

サントリー学芸賞の鉄道本略論 番外(3) ~鉄道と女性・阪急篇~

 一昨日昨日の記事の続きです。今日で完結のはず。

 というわけで、ここまで二回に渡って原武史氏の鉄道と女性の関連についての所説に批判を加えてきました。その大きな論点ふたつのうち、1点目はこれまでに説明しましたので、今日の記事では2点目の論点、すなわち「小林(一三)は、文化事業では女性を取り込もうとしたが、肝心の輸送事業で女性を積極的に採用することはしなかった」理由を考えてみよう、というものです。

 小生はこれまで、当ブログにおいて阪急に関する記事を幾つか書きました。それをお読みいただければ、これから小生が書こうとしていることはお察しいただけようかと思います。過去の記事を以下にリンク。
 ・近代家族幻想と電鉄会社との日本的関係性
 ・阪急食堂名物10銭ライスカレーの肉はどこから仕入れたのか
 これだけで終わりにすると楽なのですが、それは流石に手抜きなので以下に敷衍して述べます。

 で、上記の記事で書いたことを簡潔にまとめますと、近代社会の発達、つまり資本主義が発展し近代家族像が浸透してくる過程で、それまでの支配層に代わって台頭してきた中産階級の人々は、どのような生活スタイルが良いものとされるのか、ということに関し、新たな価値観を模索します。で、先行研究を徴するには、フランスでボン・マルシェを開いたブーシコーのように、19世紀末において発展した百貨店こそが、このように生活すれば幸福になれますよ、というライフスタイルを作り上げて売り込むことで新たな価値観を作り、そして消費を加速させることで資本主義をも発展させることに寄与したのでした。そのような中産階級的「幸福」像は、近代家族モデルとして今日尚規範としての拘束力を維持しています。
 これに関し、小生は日本におけるこのような価値観の宣伝と消費社会の到来に大きな役割を果たした存在として電鉄業を考え、その代表的経営者として小林一三を挙げるべきではないかと考えています。

 さて、ここで小林一三が広めたようなライフスタイルとは、郊外住宅地に住んで電鉄で一家の主人は都心に通勤し、休日には沿線の行楽地へ家族連れで出かける、というものです。戦前にこのようなスタイルを送ることができた人は決して多くありませんでしたが、しかしこれは戦後の日本人の多くが目指した(そして高度経済成長を通じておおむね達成された)スタイルとなるのでした。まあ戦後は自家用車と家電製品が消費において大きな地位を占めることになりますが。
 余談ですが、戦前の日本では電灯こそ世界最速級の普及率を達成したとはいえ、電化製品の普及は微々たるものでした。しかし関西を中心とした有力電鉄会社の中には、沿線住民への電化製品の売り込みに相当の熱意を傾けた会社がありました。阪急もさることながら、ライバルの阪神は電化製品を並べたモデルルームを電車の中に作り、主要駅の待避線に停めて回って移動する電気博覧会をやっています。電化製品普及の下地がこのようにして作られた面もあるのではないかと思います。もっともこれらの電化製品売り込みの真意は、阪神や阪急が沿線で兼業していた電力供給業の需要を増やすことにあったのでしょう。

 とまれ、今まで拙文で始終書いてきたような、近代家族モデルの普及こそが、小林一三が推し進めた経営戦略と合致する方向だったのだと考えるのです。
 このようなモデルでは、働き手は男に限られ、その働く場は家庭と切り離されます。家庭はもっぱら消費の場となり、女性は主婦としてその消費活動を仕切る役割を担わされます。家庭は子どもを育む団欒の場であると位置づけられ、消費活動もそれに沿ったものが求められます。なので娯楽も、飲む・打つ・買うなんて「不健全」なものはいけません。かくて「清く正しく美し」い宝塚の出番となるわけです。

 というわけで、結論はこうなります。
 男=仕事という公的な場、女=家庭という私的な場、という性別役割分担を前提とする近代家族モデルに乗っ取ったライフスタイルを幸福の形として売り込んでいた阪急が、輸送という公的な労働の現場に女性を採用するはずがない、ということです。
 「女性を対象とする博覧会」や「宝塚少女歌劇団」をやった「のに」女性を採用しなかったのではありません。博覧会や歌劇をやった「から」輸送には女性を採用しなかったのです。
 ついでに、この博覧会も歌劇もそもそもの理念は中産階級的近代家族のための娯楽として作られた、つまり女性は女性でもあくまで一家の主婦としての女性(彼女が養育を任されている子どもがくっついてくる場合多し)がメインターゲットであるということを見落としてはなりません。単純にこれを「女性」一般を取り込もうとした営為と見なすのは早計でしょう。そこら辺についての傍証として、以前も使ったネタ本ですが、阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』から引用しておきます。
・・・(宝塚)新温泉を開業してから三年目、すなわち大正二年に、一三の方針がはっきり変っている。それは客寄せのための催物の変化で判る。大阪南地の芸者の「芦辺踊」と、二年続いた「遊女会」から百八十度切替えて、三年目の大正二年春には「婦人博覧会」となり、京大から上田敏博士を講演に招いたりしているし、次いで大正三年春に婚礼博覧会、四年春には家庭博覧会と続いた。既に紹介した通り、宝塚少女歌劇第一回公演は、婚礼博覧会の余興として、「観覧無料」で見せたのである。(同書単行本版p.146)
 「婚礼」「家庭」とあるように、ここでの女性へのアプローチは(近代家族の)一家の主婦となることに眼目がおかれていたと見えます。それは女性を労働力として活用するという方針と相反するでしょう。

 以上、原武史氏の鉄道と女性との関わりに関する所論への批判を述べました。原氏は小林一三が偉大な経営者であったと繰り返す割には、小生が思うには、何が偉大であるのかよく分かっていないのではないかと思います。
 既存の鉄道史の研究者が、近代家族論に疎かったことは間違いないのですが・・・しかしそれが原氏の論の問題点を惹起したわけではないと思います。先行研究を踏まえていれば、昨日や一昨日の第1点目の論点は見落とさないでしょうから。

※追記:鉄道と女性の「関係については、以下の記事もご参照下さい。
・鉄道と漫画・MATSUDA98篇 19才の「鉄道むすめ」はなぜ死んだか
・もっとも過酷な「鉄道むすめ」の仕事 8メートルの雪を除雪せよ
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by bokukoui | 2007-02-21 23:57 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(0)

電鉄資本と近代家族的ライフスタイルについて

 季節柄、というには既に時期を逸した感もある話題ではあるのですが。

 今から2週間ほど前、とはつまり昨年末の30日、日本経済新聞の土曜版に「意外に短い初詣での歴史」という記事が掲載されました。その内容は、江戸時代末期の都市で「恵方参り」と呼ばれるその年の恵方の寺社に正月参拝することが流行り始め、明治以降鉄道の普及によってこの習慣が広まり、そして鉄道会社は恵方に当たらない年でも自社沿線の寺社に乗ってもらうため「初詣」という言葉を作り出し、明治~大正期に広まった、というものです。
 この初詣の研究をされた平山昇さんの業績は、小生は以前サイトのネタに使った覚えがありますがありますが(これとかこれとか)、それは以前平山さんの報告を聞いたり論文を読んだりしたことがあったりしたからであります。氏の業績が世に広く知れ渡るに至ったことを、心より嬉しく思います。ええまあ、今まで知る人ぞ知るだったネタが使いにくくなるのが残念でなくもないですが・・・(苦笑)。
 とまれ、この平山さんの話を中心とした日経の記事の末尾は、「鉄道が百貨店や遊園地の発展に大きな役割を果たしたことは知られているが、初詣でにも深くかかわっていたようだ」と結ばれています。鉄道関係の歴史を漁っている小生としてはこのような鉄道、ことに都市部の電鉄企業が現在の社会の文化的側面に及ぼした影響というのは非常に興味のあるところで、昨日のまとまらぬ記事にも触れたように、それらを包括的にまとめるのは「近代家族的ライフスタイルの形成」ということにあるのではないかと考えています。その中に「伝統」の装束を纏ったこのようなイベントもあるということは誠に興味深いことであります。
 ただその後、平山さんのご研究は、「明治の文明開化により知識人層からは『迷信である』として一旦は見捨てられた寺社参拝が、如何にして『初詣』などの形で再生したのか」といった方向に向かわれたようで、電鉄業の影響力という面からはやや離れられたように感じます(といっても、一昨年の学会報告で聞いた報告の内容なのですが)。ので電鉄マニアとしては幸いにも考えを深める場所が残された、という状況なので、この機会に思いついたことをちょっと書いてみたいと思います。
 なお平山さんのご研究では、寺社参拝のいわば「復活」には、これもいつぞやネタにしたように、明治神宮と登場がかなり重要なファクターのようです(レジュメが見つからん・・・)。

 一つまず小生が思っていることは、誰もが現在ありがちな年中行事と思っているものの誕生に、鉄道が如何に関ったのかということです。

 昨晩小生は、新番組である『ひだまりスケッチ』というアニメを見ていました。4コマ原作というところから『せんせいのお時間』みたいな感じかなと思い、そして『せんせいのお時間』は(1巻を仙地面太郎氏に譲っていただいたというきっかけもあって)単行本をそろえてしまったりしていたので、一つ見てみたのです。見てから小生は『ひだまりスケッチ』と『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』を混同していたことに気が付きました。
 でまあ感想はといいますと、・・・ももせたまみ先生は偉いなあ、ということで。
 で、この話が本題にどう関係するかといいますと、『ひだまりスケッチ』アニメ第1話は「1月11日 冬のコラージュ」という題名で、第2話がなぜか「8月12日 ニッポンの夏」という題だと次回予告で見て、そういえばアニメの学園モノでは正月の初詣と同じくらい、夏のイベントというのが出てくるなあと思ったのであります。・・・話の繋げ方が無理やりですね。

 で、夏のイベントといえば海水浴ですね。初詣イベントが美少女キャラクターの振袖姿を見せるために必要なイベントであるのと同じ様に(或いはそれ以上の重要性を持って)、水着シーンを登場させるという重大な使命を持っています(笑)。
 それはともかく、海水浴と鉄道に関しては、ヴィクトリア朝の英国でのブライトン海水浴場とブライトン&サウスコースト鉄道の話などが有名ですが、日本でも同様の事例があったのではないかと思います。電鉄沿線の娯楽・観光地というと何よりもまず阪急の宝塚が思い浮かべられ、或いは幾つもの電鉄が手がけた遊園地が(先ほどの新聞記事にもあったように)真っ先に思い出されるところですが、海水浴もまた決して馬鹿に出来ないウエイトを占めていたのではないかと思われます。
 小生の手元に昨年買い込んだ『阪神電気鉄道百年史』がありますので、今これを紐解くと、
 阪神電鉄でもっとも早く手がけられた娯楽施設は海水浴場である。最初の娯楽施設となった打出海水浴場は、1905年(明治38)年7月に開設された。
 当時、海水浴はすでに行楽として一般大衆の間に広まりつつあり、1899年7月には伊予鉄道が梅津寺海水浴場で温浴場・休憩所を開設し、私鉄業界の先鞭を切っていた。阪神電鉄の打出海水浴場には、休憩所、食堂、脱衣場などが設置され、貸ボートも用意された。開設当初はチンドン屋を雇って宣伝する一方、仕掛け花火や軍楽隊の演奏を行ったり、社章入りの団扇を配布したりするなど、客寄せのための知恵をしぼった結果、かなりの人出で賑わった。
(同書p.95)
 というわけで、結構力を入れていた様子が伺えます。阪神はその後も海水浴場開発を行い、現在では球場のみ有名な甲子園を開発するに当たっても海水浴場を設けています。
 あるいはこちらの湘南の海水浴場に関するサイトを参照しても、神奈川県で有名な大磯海水浴場よりも古かったらしい富岡の衰退理由として「もうひとつ、富岡が衰退していった条件を指摘することができる。鉄道の開通である。富岡が交通の便の悪さから、次第に海水浴場としても保養地としても衰退していった」と、これまた鉄道と海水浴との関係が指摘されておりますな。

 小生の感覚的な印象ですが、これまでの日本の鉄道史の研究の中で、沿線の海水浴場に関するものはあまり見た覚えがありません。それはなぜか、小生が思うには、その原因は地図を見ればある程度説明がつくのではないかと思います。海水浴場の開発をしようと思ったら、沿線に海がなければなりません。現在の大手私鉄中、関東と関西の鉄道で海岸沿いをもっぱら走っているのは関東の京浜・京成、関西の南海・阪神です。これらの会社は創業が早く、沿線の人口の比較的多い土地を結ぶことができたため、副業にあまり熱心ではありませんでした。
 それに対しやや後発の阪急が、もっぱら様々な副業の展開に乗り出すことになったわけで、研究もやはりそういった会社のものが多いからではないかと思います。ここに挙げた四社は創業が早かったため沿線に電気供給事業の区域を獲得することが出来、一般に他の副業よりも規模も大きく儲かる電力業を営めたことも、その他の副業に熱心でなかった原因ではないかと思われます(京浜はのち電力業を売却しちゃいますが)。
 そしてまた、戦後電鉄業と海水浴との関係が薄れていったことも、あまり顧みられない原因かもしれません。

 関係が薄れていったとは、娯楽の多様化により海水浴の地位が低下したというのが一つ、主たる電鉄会社の沿線は埋立が進んでそもそも海水浴場がなくなったということがもう一つ、そして海水浴が鉄道で行くものから自動車で行くことが中心になったということが、おそらくより重要な要因ではないかと思います。
 小生は以前当ブログの記事で、「恋愛資本主義」とは近代家族観念の元での消費の口実として「恋愛」が持ち出されたものであって、先行する存在としてこれも近代家族の観念の元「子供」を消費の口実として持ち出していたのではないかということを書きました。海水浴の場合も、海水浴もまた子供を含んだ「家族」の娯楽から、「恋人」と出かけるレジャーという色彩が混じって来たのではないかと思います。海水浴について調べていないのでいつの頃なのかははっきり分かりませんが。やっぱ若大将?
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久米田康治『かってに改蔵 2』(p.59)

 で、そのような傾向と相前後して、海水浴への交通機関が自動車へと移行していくのではないかと思います。「恋愛資本主義」に関して、流通業と広告業・マスコミ以外で恐らく最も重要な影響を及ぼした産業は自動車産業だと小生は考えます。ラブホテルなどという零細な産業を糾弾している場合ではありません。
 長く海水浴に対応して夏場に特別ダイヤを組んでいた京浜電気鉄道→現京浜急行電鉄が、夏ダイヤを廃止したのは、今から十年以上前の1996年のことだったそうです。海水浴の誕生に深い縁のあった鉄道も、現在ではその関係はごく薄くなってしまってきたのであり、それに応じて海水浴のイメージも変化してきたのではないでしょうか。

 例によって話がわやくちゃになってきたので適当かつ強引にまとめると、鉄道(それも主に電鉄)はその発達に伴い初詣や海水浴などの文化的側面でも大きな影響を与えてきたと考えられるが、鉄道が得意とした文化的分野は近代家族的なものの中でも初期からあった「子供」を中心とするような家族全体に関るようなものであり、一方近代家族的理念を利用した消費形態でもカップルによって行われる「恋愛」を中心としたもの(これを便宜的に「恋愛資本主義」と定義しておきます)は自動車との関連性が高いのでないか、そして海水浴の場合は娯楽におけるイメージの変化が、海水浴における交通機関での自動車の優位性を進める一因になったのではないか、ということです。
 初詣の場合はまだ恋愛色よりも家族行事色が(相対的には)強いですね。その分鉄道の活躍する比率も高そうです。
 ・・・まあどっちの交通機関を利用するかは、普通に交通における利便性でも説明できるけど(笑)、イメージについてはまあまあ使えそうな理屈かな?

 さて、「一つまず小生が思っていることは」と書いたからにはもう一つ思ったことがあるのですが、もう充分長いので今日はお仕舞。明日に続きを書きます。

※追記:初詣についての平山昇さんの研究が一書にまとまりました。
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by bokukoui | 2007-01-12 23:54 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(0)

創価とエジソンと名鉄電車

 昨日に引き続き、このブログを更新しようとする23時50分過ぎになると途端に機械の調子が悪くなり、以後約1時間は回復しないという奇妙な現象が発生しており、当ブログの更新も遅れがちとなっております。誰かが毒電波でも飛ばしているのでしょうか(苦笑)。

 さて、昨日の話と、そして数日前にやっていたような話の双方に関係するような思い出。

 今を遡ること数年前、小生は現在廃線となった名鉄の岐阜県内のローカル線に乗っておりました。終点まで(厳密には更に奥へ分け入る路線に乗り換える駅まで)乗るつもりだったのですが、乗った電車は途中折り返しでしたので、そこで時間つぶしに美濃北方という駅で降りてみました。
 駅の待合室にはふたりの人が電車を待っていました。一人は制服姿の女子高生で、もう一人は新聞を読んでいる中年男性でした。女子高生の制服が小生の印象に残っていないところからするとセーラーではなかったような気もしますが、やや記憶が曖昧です。
 中年男性は赤ペン片手に熱心に新聞に印をつけています。この週末に大規模なお馬さんの駈けっこ大会でもあるのかと(笠松?)最初は思いましたが、よく見ると様子が変です。それはスポーツ新聞ではありません。・・・もうお分かりと思いますが、その男性は聖教新聞の池田先生のお言葉にいちいち赤線を引きながら読んでいたのです。

 そこまで観察したところで、つとその男性が新聞から目線を上げたため、小生はもろにその人と眼が合ってしまいました。
 で、結局は勧誘、というか折伏というか、ありがたいお話を伺うことになってしまったのでした。どうもその時聖教新聞はエジソン特集? をしていたのか、エジソンが如何に努力で偉業を成し遂げたか、という話をその中年男性は小生に対して解説してくださったのでした。今にして思えばそれが創価学会の教えとどのような関係にあるのかが謎なのですが、恐らくあの「天才とは1%のひらめきと99%の汗である」という、極めてよく誤解される台詞を元に、営々と努力して教えを広め、信仰に励むべし、という風なことだったのでしょうか。

 当時小生もまだ若造で、というかリアル工房だったような気もしますが、今ならもっと対応の仕方もあったでしょうに、カチンときてマルタン・モネスティエ『死刑全書』あたりから仕込んだ知識で言い返しました。

「エジソンは自分の作った直流システムが交流に負けそうになったから、交流のネガティヴ・キャンペーンをするために電気椅子を拵えた、稀代の悪漢である」

 当時はまだリチャード・モラン『処刑電流』(みすず書房)は出ておりませんでした。
 その場にいた女子高生(けっこう美人だったような記憶あり)が、何か気持ち悪いものを見るような様子でいたのがいたたまれませんでしたが、今にして思えば小生もまたイタい行動をしていたことには変らなかったわけでして。

 最近古本屋で買い込んだT.P.ヒューズ『電力の歴史』(平凡社)を読了し、この時の記憶がふと蘇ってきました。ヒューズの本はアメリカ・イギリス・ドイツの三ヶ国を比較しつつ、各国における電力業の発展と、それと政治家や技術者、経営者たちの係わり合いを描き出したもので、実に読み応えのある本でした(昔図書館で借りて読もうとして挫折しました・苦笑)。これはこれでちゃんと書評を書くだけの本ですが、今余力がないので省略します。
 で、この本を読むと、エジソンの偉大さはただ単に電球を発明したことなんかではなく、発電・配電・照明(エジソンは遠距離送電の時代には電力業に関っていません)という、総合的なシステムを開発したことにあるということが分かります。エジソンはそのシステムの中で欠陥となる部分(ヒューズはこれを「逆突出部」と呼ぶ)を見抜いて、その解決策を考えるという面に優れた才能を発揮しました。彼はただ発明家であるだけではなく、優れた経営者的な側面も持っていたわけです。まあ、その経営の才が暴走すると電気椅子を拵えてしまったりもするわけですが・・・。
 しかしこれは世間一般の、つまり聖教新聞が広宣流布の教訓話に使ったり、或いは子供向けの簡単な読み物類に見られるような、そのようなエジソンのイメージとは異なります(ややうがって考えると、「メンローパークの魔術師」と呼ばれ、ひたすら発明に打ち込むという一般的イメージ自体も、経営上の有利さから演出された面があると考えることもできそうに思います)。

 往々にしてこういったことはあります。
 つまり、複雑で他の事象と様々な関係を持っている歴史的事象や人物の事跡を断片化して取り上げ、極めて卑近な道徳というか教訓話的なものにして解釈して見せる、そのようなことです。そしてこれは歴史に限ったことではないように思われます。
 で、どういったときにこういった単純化が行われるかといえば、やはりこれは「教育」という局面に際して行われることが多いのではないかと思うのです。
 エジソンは教育や訓話の場面に引き出されることが多く、また事実人口に膾炙するだけのことを成し遂げた人ではありますが、しかしそれだけ偉大なために、皮肉にもその偉大さをきちんと説明すること自体が結構ややこしく複雑なことになってしまっている、ということではないかと思います。
 複雑なことを複雑であるが故に楽しむというのは、確かになかなか難しいことではありますし、短期的な教育効果を求める場合には必ずしも適合的ではないでしょう。しかしだからといって、このような言説の世間での氾濫を見過ごしてしまうことに対して、小生は抵抗感を拭い去ることができません。

 以上、何事も文脈ということを考えようというお話でした。あと歴史を教育するということの難しさ、かな。
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by bokukoui | 2006-12-14 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(6)

阪急食堂名物10銭ライスカレーの肉はどこから仕入れたのか

 最近また、アメリカ産輸入牛肉の箱のふたを開けたら胸腺が入っていたとかで多少もめていますが、それに関連しているようなしていないような話。

 最近電鉄系デパートの話を色々漁っているのですが、その中で最も有名な阪急デパートの昔の紹介本を読んでいたら、有名な大食堂で使っている材料の話が出ていて、何でも戦前の阪急デパートの大食堂で使っていた牛肉は「青島」産だったとか。輸入品だったんですね。
 ちなみにグループのホテルで使う牛肉は国産品だったそうで。
 ・・・あ、でもカレーは何カレーだったんだろう? ポークカレーだったらタイトルは誤報ということになりますね。まあ、関西だから多分牛だろうとは思うんですけど。

 で、以上の話は枕で、以下本題。
 以前「近代家族幻想と電鉄会社との日本的関係性」という記事で書いたような話の続きのようなことです。

 小生の所説として、現在もなお「家族」の通念として根強い拘束規範を持っている近代家族理念の普及に、日本の場合電鉄企業が少なからぬ影響を及ぼしていたのではないかというのがあります。で、この手の規範では一般的に、男は外で仕事・女は家で家事という性的な役割分担を所与のものとします。以前に読んだ本に書いてあった話なのでうろ覚えですが、ドイツなんかの場合はその結果働く女性の地位が社会的に低く見られる傾向が強かったとかなんとか。
 で、小生が考えるに、阪急は日本に中産階級的な生活スタイルを普及させ、それと密接な関係にある近代家族理念の普及にも結果として少なからぬ影響を与えたのではないか、そのように考えています。郊外住宅地を開発し、電気を供給して「文化」的生活を広め、昭和に入れば百貨店を開業して消費生活にも深く関与してきたわけで。
 さて、その阪急梅田駅ビル名物の大食堂には洋装のウェイトレスさんが大勢働いていたのですが(1936=昭和11年時点で600人)、そして百貨店の店員にも大勢の女性がいたのですが、ここでちと微妙な問題が生じます。阪急的ライフスタイルと密接な関係が関係がある近代家族的理念からすれば女性は家庭にいるものですが、かといって大勢の女性を雇用しているのが百貨店です。なるほどそういった理念と抵触しにくい女性の職場も大正時代には生まれましたが、食堂のウェイトレスはそうではないですよね。「女給」と言い換えると途端に微妙なニュアンスになるし(笑)。

 そこら辺をどういう風に説明するのかというと、庶務課長曰く、店員養成の理念は「結婚第一主義」なんだそうな。つまり花嫁修業ということで。
 まあ女性の就職を結婚までとする風潮は今尚あるわけですが、そういった形の雇用が広まるという面でも阪急は貢献していたのかもしれない、そんなこともちょっと思ったのでした。
 ちなみに彼女たちの待遇は「勤務は十時間三部制で手当は初任給日給八十銭」だったそうです。昔のこととはいえ安いですね。この当時(1936年)の物価を今のそれに換算するとなると、2000~3000倍くらいではないかと思いますが(食堂の客単価を「35銭」としているし)、これに基づいて時給を計算すると160~240円・・・。しかも阪急食堂はチップ類を一切受け取らないことに特徴があったのであります。嫁入り修行とすることで、労賃の安さとチップの排除(これは一種の正札販売ということで、これも中産階級の消費性向に合致したものではないかと思います)を両立したのだとすれば、流石は小林一三、見事な戦略家ぶりですな。
 こういった外食産業の人件費切り詰めは、今日的にも結構関心を持たれる様な話題ではないかと思います。

 全く余談ですが、「駅の食堂」というビジネスモデルはどこから来たんでしょうね。成る程欧米の駅の食堂は19世紀に数多存在したといいますが、これは長距離旅客の旅行中の空腹を満たすもので、その後列車の牽引力向上等により食堂車に取って代わられるようなものですから、阪急の駅の食堂とは理念が異なりますね。そういえば日本の場合、駅弁の歴史は云々されるのに、駅そばの歴史はあまり聞かないわけで。
 まあ、考え出すと分からないことは結構あります。

 今日のお話のネタ本は、狩野弘一編『大阪急』(百貨店新聞社1936)でした。写真も結構多くて面白い本です。残念ながら食堂の給仕さんの写真はありませんが、家具調度・美術品、そして電化製品を扱う阪急百貨店6階の課長として太田垣士郎の肖像写真が掲載されているのは、その筋のマニアには受けそうです(意味の分からない人はクロヨン建設の『プロジェクトX』でも見よう)。

 以上、某外食・流通グループMBO決定の報道に接した日に相応しい? 話題でした。
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by bokukoui | 2006-11-10 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(2)

神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その6

 その1その2その3その4その5の続きです。

 金沢で一泊し、今日は福井県の私鉄を回ります。当初は福井で泊まる案でしたが、福井の宿泊事情が良くないことから、金沢で泊まって早めに福井に移動することとしました。
 午前6時台に起きだし、7時前の電車で金沢駅を立ちます。早すぎて駅の売店は開いていません。通学する学生で混雑した国鉄時代の急行形電車に乗って福井に向かいます。道々、北陸本線を輻輳する特急列車に追い抜かれますが、加賀温泉駅で退避時間中に駅弁を購入して食事を摂ります。確か最近評判の新名物らしい焼き鯖すしと、あとは鯛稲荷だったか、まずまずは結構な食事でした。値段もですが。
 全く余談ですが、「鉄道で旅する」というとすぐ駅弁を連想するのがテレビ東京に毒された一般人の通念のようでありますが(『たびてつ友の会』とかもそういった通念に乗っかったものといえましょう)、強行軍で予算に制約のある鉄道趣味者の旅行は、食料費を節約するために駅弁より駅蕎麦・駅前コンビニを重視する場合が少なくないのであります。

 車中からかつて北陸鉄道や京福電鉄の支線のあった駅などを確認したりしつつ、1時間半ほどで福井に着きます。工事中の駅に降り立ち、京福電鉄改めえちぜん鉄道に乗り換えます。
 ご存知の方も多いと思いますが、えちぜん鉄道とは、地方私鉄の京福電鉄が経営悪化していたところに事故を連発して運行差し止めになり、県が出資した第3セクターに改組して鉄道を再生させたものです。その際に支線の永平寺線は廃止になりましたが、越前本線改め勝山永平寺線と三国芦原線の2路線を有しています。これもまた昔はもっと支線がいっぱいあったのは北陸鉄道と同じ。
 そもそも京福電鉄とは、京都と福井に別個に路線を有していたのでその名がありますが、元々は戦前の京都電灯という大手電力会社(戦前の電力会社は「五大電力」と呼ばれる最大手五社が中心で、それに次ぐ存在として「地方大電力」と呼ばれた会社(これを入れて九電力)があり、京都電灯はその筆頭格でした)が、安定した電力供給先兼営事業として営んでいた電鉄事業にその源流があります。京都電灯は京都と北陸(水源)で電力事業と共に電鉄業を営んでいましたが、日中戦争以降の経済統制の中で進められた電力国家統制により本体の電力事業が国の手に移ってしまい、その際残った鉄道事業をまとめて会社を作ったので、京都と福井にバラバラに路線を持つ電鉄会社ができたのでした。
 戦時中の交通統制により、京福は福井の小私鉄を併合して路線を増やしますが、戦後はご多分に漏れずモータリゼーションで経営が悪化し、福井の路線は縮小され、京都の路線の半分は叡山電鉄という別会社に分社したりし、この度えちぜん鉄道に福井の路線を委譲したことで、京福は完全に解体されてしまったといえるでしょう。

 更に余談ですが、戦前は電力会社が電鉄業を兼営したり、逆に電鉄会社が電力事業を沿線で展開したりすることは良くあったことでした。江ノ電や箱根登山鉄道も電力会社の一部門や子会社だったことがあり、京王や京成、京阪や阪神や南海などは大規模な電力兼業(電力業界で言えば中堅程度の規模)を行っていました。
 以下は小生が現在持っている仮説ですが、電鉄会社の経営に占める電力兼業の比重は、大正から昭和初期の不況の時期にかけて高まっています(京王の昭和10年ごろの収入は電車より電力の方が多かった)。一方、これと同じ時期に、電力会社が持っていた兼営電鉄業を別会社にして切り離す例が幾つかみられます(東京電灯の群馬軌道線とか)。つまり電鉄業にとって電力兼業の重要性が増す一方で、電力業経営からは電鉄兼業の意味が薄くなるような、捩れ現象が起きていたのではないかと思うのです。この現象を解決したという意味では、電力の国家統制や陸運統制を、企業経営を国家が介入して捻じ曲げたものとばかりはいえない側面もあるのではないか――とも考えられますが、実証的な調査はまだしていません(苦笑)。それに京都電灯はこの例として都合が悪いな・・・(藁)。

 余談が長くなりすぎました。話を戻して、えちぜん鉄道に乗り込みましょう。
 この日は土曜日でしたが、折りよく週末に限り全線乗り放題800円のフリー切符があることが判明しました。これはありがたい。更に400円足して1200円出せば福井電鉄も乗り放題になる切符がありましたが、福井鉄道は片道を乗り通すだけなので普通に切符を買う方が安いため、この週末限定えちぜん鉄道フリー切符を求めました。福井から勝山永平寺線の終点・勝山まで750円、三国芦原線の終点・三国港まで750円ですから、頗るお値ごろです。

 まずは旧越前本線、勝山永平寺線に乗って勝山を目指します。待っていた電車は案外現代風の車輌でした。何でも愛知環状鉄道から譲り受けたものだそうで、101系から流用したモーター類はともかく、車体は20年経っていないのでそう古くはないようです。もっとも、えちぜん鉄道発足時にけっこうきちんと手を入れたらしく、車内外とも割りと綺麗でした。転用した古い部品を見るとお里が知れますが、第一印象はなかなか良い感じでした。
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 例によって写真はクリックすると拡大します。以下も基本的に同じ。

 えちぜん鉄道は県の肝煎りで経営の効率化や利用促進に色々と力を注いでいますが、その一つに女性のアテンダントを乗り込ませて(車掌ではない)接客をしているということが挙げられます。この列車にも、勝山永平寺線と三国芦原線が分岐する福井口駅だったかと思いますが、途中駅でアテンダントが乗車し、切符の発行や回収、アナウンスなどをこなしていました。いでたちは・・・制服趣味者としての琴線に触れなかったのか覚えていません。ただ、旅行者がよく使うようなカートを引っ張って乗ってきたのは覚えています。普通の鞄ではないものを持ち込んでいたのが面白かったので。
 折角アテンダントが乗り込んでも仕事がなかったら残念ですが、割合駅ごとに乗降客はあり、現時点ではそこそこ利用されているようです。

 天気の良い日でした。明るい秋の日差しを浴びて、沿線はなんとも長閑に見えます。かつて永平寺線を分岐していた永平寺口(旧東古市)駅の辺りから路線は山間部に入り、沿線に占める緑の割合が多くなります。路線は九頭竜川に沿って蛇行を繰り返しながら、高度を上げていっているようです。感心するくらいカーヴの多い路線でした。
 線路に立つ架線柱は、古色蒼然たる木製から、如何にも地方私鉄らしい鋼材を組んだ物、そして近代的でありふれたコンクリート柱まで入り混じっており、この路線の歴史と懐具合と、それでも投資の意欲があることとを伺わせ、なかなか興味深いものでした。
 ちょうど1時間ほどで終点の勝山に着きました。九頭竜川と山とに挟まれ、工場の手前といったところにある駅ですが、木造の駅舎に地方私鉄としては比較的ゆったりした構内の醸し出す雰囲気は、天候とも相俟って何とも爽やかな印象でした。
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 折り返しの列車まで30分ほどあるので、その間周囲を散策します。

 この路線は、かつては更に九頭竜川の上流である大野まで延びていましたが、その区間は1974年に廃止されました。その痕跡がないかと探してみましたが、工場が拡張して産業廃棄物でも埋めたのか、廃線跡は駅のすぐ北で見失われ、九頭竜川沿いまで出てみましたが判然としません。探索は諦めて駅に戻り、駅舎のたたずまいなど観察します。
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時代を感じさせる看板(たんび氏撮影)

 10時過ぎの電車で勝山を離れます。当初は空いていた車内ですが、次第に乗客が増えていきます。
 途中「轟」という駅を過ぎます。「とどろき」と読む駅は難読として知られ、東急の「等々力」、青森県は五能線の「驫木」、今はもうありませんが和歌山県の野上電鉄の「動木」と、どれも一筋縄では読めそうにもない駅ばかりです。ところがこのえちぜん鉄道の「轟」は、「どめき」と読みます。なんとまあ。
 下志比の駅で、灰色のカラーに白いラインが入った、なかなか瀟洒なセーラー服を着た、永平寺中学のネームプレートを付けた女の子が乗ってきて、次の永平寺口で降りていきました。アテンダントの制服よりずっと印象に残っています。
 永平寺口を過ぎて平野部になる頃には、例のフリー切符のお蔭なのか、乗客はどんどん増え、しまいには立ち客だらけになります。これだけの利用があるとは、えちぜん鉄道当局の努力は一定の成果を挙げているようで、はなはだ結構なことです。

 我々は終点まで乗らず、分岐点の福井口で下車して、三国芦原線に乗り換えます。

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-25 23:58 | 鉄道(現況実見) | Trackback | Comments(0)

停電の日に仕事も停滞

 停電は寝ている間に終わっていました。
 そして腕はまだ上がりません。疲労が残るとはだいぶ年食ったな。

 ところで停電といって思い出したのですが、戦前の日本に「帝国電灯」という電力会社がありました。もともとガスエンジンを利用した小規模な発電システムではじまり、小規模な電力会社が幾つも合併して出来た会社で、最盛期は日本で確か三番目くらいの大電力会社になりました。ところが、小会社が矢鱈とくっついて出来た会社だったため、営業地域がバラバラでスケールメリットを生かせず、合併の連続で財務内容が水増し状態になって、結局経営が行き詰まり、日本最大の電力会社であった東京電灯に吸収されてしまいます。東京電灯は吸収後、北海道やら京都やらの飛び地を各地方の電力会社に譲渡し、大整理をしました。つまりそれだけバラバラだったというわけで。
 さて、現在の「東京電力」のことを「東電」と略しますね(戦前なら「東京電灯」ですが)。また、昔「帝国人絹」という会社がありましたが、この会社は略称を正式名称にして、今は「テイジン」になっています。
 では、この理屈で「帝国電灯」を略称で呼ぶと・・・「帝電」、つまり「ていでん」になります(笑) そんな社名が祟ったから潰れた、というわけでもないだろうけど。「帝電」の略称は当時の経済誌などを見ていると出てくるので、実際そう呼んでいたようです。

 ヨタはともかく、一応MaIDERiA出版局サイトの更新はしました、といっても同人誌の在庫情報を少し直した程度です。
 コミケの詳細報告や同人誌の感想なども書きたいところですが、まだもう少し先になりそうです。すみません。大体同人誌でなくても買って読んでいない本の山が50冊の危険水域に達しつつあるというのに・・・やはりコミケは魔の空間ですな。

 最後に、一応メイド系サイトのブログらしい当ブログに相応しそうな話題を一つ。

 リアルなメイドさんを中国で雇ってみた

 雇う方が面倒なところも多いのです。それはメイドの歴史をある程度知れば分かることですが。
 ところで、これを読んで、使用人に遠慮がないのは社会主義的教育の悪影響だ! とか電波を飛ばす奴がいたらやだなあとか思いつつ、そもそも根本的に、「使用人」のいる「社会主義」とは何なのだと小一時間問い詰めたいところです。使用人なんて連中は剰余価値を生まないんだから(以下略)
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by bokukoui | 2006-08-14 23:58 | 出来事 | Trackback | Comments(3)