タグ:革非同・古澤克大(フルカツ=furukatsu)書記長観察記 ( 66 ) タグの人気記事

教えてあげる 嘘じゃない “愛”のこと

 一昨日の記事の続きです。
 いきなり話が逸れますが、小生がこれから長々と書くであろうことの要約は、既に以前当ブログでマンガの感想を書いた中で書いてしまっております。ので、それをお読みいただけると以下の話が分かりやすくなる、というか読まずに済んでしまうかも(笑)しれません。
 それを踏まえて前回の続き、すなわち「革命的非モテ同盟」さんの「自由恋愛は自由ではない」で示された方針についての違和感について述べたいと思います。

 まず断っておかなければならないのは、小生はアイザイア・バーリンについて「E.H.カーの『歴史とは何か』に出てきた人」というくらいの認識しか持っておりませんし、「~からの自由」「~による自由」はそういえば昔高校の世界史のフランス革命の授業で習ったなあ、という程度のことしか知りません。ので何か用語の使い方や概念の理解で誤った箇所があるかもしれません。

 さて、一昨日の記事で話題に載せた加藤秀一『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』を読んで思ったことなのですが、同書では「恋愛」「結婚」「幸福」が分かちがたく結びついてしまっている現状を再検討しています。恋愛して→結婚して→幸福な家庭を築く、というのがあるべきライフスタイルとして深く浸透してしまっている、ということです。同書ではこのような考え方がどのようにして(優性思想と絡み合いつつ)普及していくかを検討しています。
 で、明治から戦後にかけて日本で「恋愛」が普及してゆく過程には、確かに「革非同」の古澤氏がご指摘の通りに、イエ制度などの「封建遺制」からの自由という意味が含まれていたでしょうし、今日尚そのような意味が全く力を失ったとまではいえないでしょう。しかし現在のところでは、おおむねそういった前近代のままのイエ制度的な規範(ってこれ自体もどこまで「前近代」なのか怪しいところですが)によって「恋愛」を抑圧する、という事態は決して多いとは思えません。それだけ「恋愛」が社会に普及したのであり、その結果として愛情によって結びついた夫婦及び親子関係を基軸とした「近代家族」が定着したのです。

 かかる状況下において、今現在「恋愛」が何がしかの抑圧をもたらすとすればなんでしょうか。
 それは、旧来の規範を打ち破る自由をもたらした筈の「恋愛」が、新たな規範となって抑圧する原理になってしまっている、ということになろうかと思います。
 「恋愛」がそれだけ規範としての力を持ちえたのは、加藤秀一氏の説を踏まえれば、それが「結婚」を介して「幸福」と分かちがたく結びついているからでしょう。さらにそれが、近代的国民国家とも相性が良かったことが、新たな規範となるだけの根拠を与えたことも考えられます。
 となれば、結局「恋愛」を巡る諸状況の下で抑圧されている人々に求められるのは、「消極的自由」、つまりこの場合は「恋愛からの自由」ということになるでしょう。
 「恋愛」が「幸福」と密接に結びつくことによって、恋愛していない人は不幸である、さらには恋愛できない人間は落伍者である、といったような規範となって人々を縛るところに問題があるわけです。それに対し、新たな規範を設けてそれを押し付けるようなことは、何ら解決になりません。より正確に言えば、ここで小生が考えた「恋愛」の抑圧からの解決法は、「恋愛<という規範>からの自由」ということになります。「恋愛」そのものを否定するのではなく、「恋愛」ばかりが「幸福」を得る道ではない、という相対化を図ることが、可能な解決方法なのだと当面考えています。

 規範の良し悪しが問題ではないのです。幸福は自分で決めるべきことで、外部から規範として拘束されるべきものではない。これが基本原則です。外部からそれを押し付けることが(たとえそれが如何なる「善意」に基づいていようとも)問題です。「恋愛」という規範に対抗して別な規範を拵えてそちらへの乗換を迫ったところで、結局規範を押し付けて抑圧しているという構図に違いはありません。一部の「非モテ」関連の言説にはそういった疑問を感じます。なぜ中絶の話をそんなにしたがるのでしょうか。道徳的な優位を持ち出すことは事態の解決にはなりません。
 「恋愛」もまた極めて個人的な心情の問題が基本であって、自分自身ですら把握することが容易ではない、矛盾に満ちた、強くて弱く熱く冷たい人の心の問題であります。
 古澤氏もこの点には気付いておいでのようで、恋愛は個人の間の問題です、個人の気持ちを権力は規制出来ません。愛国心を示す態度を強制は出来ても、愛国心は強制出来ません。そう見ると平等な権利の獲得は与えられず、平等な権利の剥奪しかとりえないと考えてしまうのです。とコメント欄で吐露しておられます。前段については全く賛成です。しかしそこでなぜ、後段(「そう」以下)のような単純かつ乱暴な結論に飛躍されるか、正直謎であります。 

 とはいえ規範の相対化を図るといっても、それはなかなか大変なことで、というのもそれだけ「恋愛」と「幸福」との関係が密接だからです。その過程を歴史的に追っかけていくと、多分そこでは近代家族との関連や、資本主義の発展との共同関係が見出せるでしょう。この規範を遵守することは、それなりに合理的な生き方であったからです。
 ただ、その構造をよりよく知って再検討を加えることにより、ある程度は抑圧的な規範として降りかかってくる「恋愛」に対処することが出来るかと思います。
 というわけで、以下に現時点で小生がこれらの問題について考えている視角を提示し、「恋愛」と資本主義がいかように結びつく関係にあるか、近代家族との関り、等について書こうと思いますが、随分長くなったので一旦ここでおしまい。
 さらに続きはまた次回(明日と書かないあたりが筆不精者)。
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by bokukoui | 2007-01-16 23:58 | 思い付き | Trackback | Comments(16)

愛という形無いもの とらわれている

 昨日一昨日といろいろ書いてきた内容は、もちろん小生が以前から考えてきた内容でもあるのですが、このところこういった問題について考えるきっかけとなったのはやはり、昨年末以来ちょっと関心を持って「クリスマス粉砕闘争」というイベントを見に行ったりもした「革命的非モテ同盟」の活動にあろうかと思います。

 で、年が明けてから古本屋に立ち寄って『発掘カラー写真 1950・1960年代鉄道原風景 海外編』を衝動買いした際、目に留まった加藤秀一『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』(ちくま新書)もついでに買い込んでしまったのも、その影響だったろうと思います。そして部屋の整理が一向に進んでおりませんもので、積読本を発掘して読む気力が湧かず、買ってきたばかりの本書をかえって先に読んでしまいました。
 本を好きだと称している人間にとって「筑摩書房」という名は格調高く響くものですが、どうもちくま新書はその名に相応しくないアレな本が散見されるような気がちょっとします(立派な本も勿論ありますけれど)。で、本書もどうもところどころ適当に書き飛ばしたような感(戦前戦後の連続性について、野口悠紀雄の1940年体制論をまんま出している(p.216)ところなど)を受けはしましたが、小生の問題意識と重なる箇所も少なからずあり、結構面白く読めました。
 本書の内容は、明治時代に導入され、日本社会に浸透していった「恋愛」という観念は、一見極めて個人的な問題に関るもののようでいて、その受容の過程においては優生学などと結びつき、お国のために立派な子孫を残すべきであるという観念と一体となっていた、ということが骨子です。「恋愛」を近代家族的価値観の一環として考えたい小生にとっては、恋愛と子孫を残すという子供に関することが強い結びつきを持っている、ということの傍証が得られ、その点で面白く読めたのです。ただ本書の構成上、恋愛の受容と優生学の浸透との二つのテーマの比重が時代によってやや偏りがあるような印象で、それがちと残念です。
 とはいえ、本来きわめて個人的なものであるはずの事柄が国民国家を支える論理となって個人の中に内面化されてしまっているという指摘は、小生としても納得の行くところではあります。これに対しどう個々人が対処するかという処方箋は本書には示されていませんが(現代の話はあくまでつけたしであると著者は断っています)、あてがいぶちの「幸福」という概念を疑い、個々人のものである幸福を国民国家の論理から一方的に規定されてしまうことに対し異議を唱え続けること、そういうことではないかと小生は思います。
 小生の周辺には「変な人」がかなり多かったので、割と「これが当たり前の『しあわせ』というものだろう」という通念に対し、子供の頃から疑問を持つことが多かった、ということも、こういった話に小生が共感を覚える理由なのかもしれません。

 さて、以上のようなことを考えている小生は、「革命的非モテ同盟」の活動に個人的に関心を持ち、見に行った感想としてまあこの活動は多分に「ネタ」的なものであろうという感を抱きました(こちらの記事のコメント欄参照)。なぜそう思ったか(それは小生なりの好意的解釈のつもりだったのですが)、それはまた後で再度説明します。
 ところが年末に肝心の「革命的非モテ同盟」の方が、「革非同はネタかベタか」という記事を書かれ、なんかどうも小生の見立てが間違っていたらしく、ハテああ書いちゃったコメントをどうしたものかと頭を抱えたりしたのでした。小生は、「革非同」の活動とはその唱えている論理もその新左翼的スタイル同様のネタであり、しかし多くの人が当たり前だと思っている「恋愛」に対してネタをぶつけることで、その当たり前を相対化してみせるものだと思っていたのですが、どうもそうではなかったようです。
 この点については「烏蛇ノート」さんのこちらの記事の追記も参照。

 小生が「革非同」はネタであると思い込んだ理由の一つは、これはそもそもの記事で書いたことまで遡りますが、「革非同」の古澤氏が撒いていたビラの文面が「反白色テロル大連帯」の強い影響下にあり、しかし小生が「東京大学オタク物語」の記事中で書いたように、これは民青が学友会の主導権を握る工作としてばら撒いたビラだということです。つまりこれ自体、内容の意味を訴えかけるものではなく、ネタとして耳目を集めるためのものであったわけです。
 古澤氏は新左翼的なレトリックやコスチュームというのはネタである。しかしながら、そのレトリックに仮託している内容というのはベタである。と述べておられますが、ではあのビラに書かれている内容自体は「ベタ」のつもりだったのでしょうか。その文面は元々、あくまでも「ネタ」として作られ、その修辞の面白さで人を笑わせるものであったはずです。
 ビラを配るという行動自体、配ったビラの内容まで含めて「ネタ」ということなのでしょうか。それでは結局、問題を訴えかける効果があるのかどうか疑問です。

 で、なんだかなーと思っていたところに、「革非同」の最新の記事を読んでますます違和感が募ったのですが、『恋愛結婚は何をもたらしたか』を読んだことがきっかけでその違和感が部分的には説明できそうに感じました。なのでこれからその違和感と、そして小生自身が「恋愛資本主義」と呼ばれるものをどのようなものであるかと考え、それに対し如何なる姿勢を取っているのか(取ろうとしているのか)ということを述べるのが順序かと思いますが、既に充分長いし夜も更けたので、続きは明日
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by bokukoui | 2007-01-14 23:58 | 思い付き | Trackback | Comments(4)

今日の秋葉原駅前~「クリスマス粉砕闘争」見学記

 こちらの記事の続き。
 この中に出てくる「革命的非モテ同盟」12月24日クリスマス粉砕闘争を見てきました。
 我ながら物好きとは思いましたが、「反白色テロル大連帯」に関する記録を書いた者としては、その影響を受けた活動家が現れたとなれば状況を実見しておきたいものです。

 で、何とか時間をやりくりして、開始時間の12時ちょうどごろに秋葉原駅前に到着しました。さすがに年末の日曜日だけあって多くの人出で賑わっています。
 以下、撮影した写真を掲載します。

(続きを読む)
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by bokukoui | 2006-12-24 23:58 | 出来事 | Trackback | Comments(5)

「オタク」が「恋愛資本主義」と「近代」をもっと楽しく語るための一提言

 バイトで帰りが遅くなったため更新が遅れております。

 で、数日前の記事その続きのような記事に関し、「革命的非モテ同盟」のfurukatsu氏よりコメントをいただきましたので、そのコメント中で氏が示されていた記事「近代批判としての非モテ」などを読んで、若干の意見を述べさせていただこうかと思います。

 とはいえ、この記事だけ一読してもどう評価すべきかいまいち小生は判断しかねたため、furukatsu氏のブログのほぼ全文を読むと共に、氏がコメント欄で積極的な論争を展開しておられたイカフライ氏のブログ「今宵,バーボンハウスで」ならびにナツ氏のブログ「★電脳ポトラッチ」を拝読した結果、小生が上掲「近代批判としての非モテ」を読んだ時に感じた違和感について、既に充分以上の議論が展開されていることが分かりました。もっとも端的な箇所を以下に引用させていただきます。出典は「★電脳ポトラッチ」さんの「それってポストモダンなの?」のコメント欄です。引用に際し一部を省略しています。
投稿者 : furukatsu at 2006年12月09日 02:48

とりあえず、近代批判としてポストモダンな考えを用いるというテクニックが使えるんじゃないかなぁ? 程度に考えていました。
いや、正直、私はポストモダンの思想がまったくわからないんで、そんな気がする程度の話しなんですが。

うーん、よくよく考えてみると、恋愛を否定するという部分に関して、恋愛を脱構築するとかでポストモダンな部分を援用しようとしているのかな。
いや、ポストモダンは良くわからないんですが。

投稿者 : lablues at 2006年12月12日 17:25

 私は単なる傍観者なわけですが、この手の議論が繰り返されるたび、とくに抱いてもいなかったいわゆる非モテな人に対する冷たい憎悪というか、悪感情がどんどん育ってしまって、困ります。

 furukatsuさんはポストモダンって言葉を使ってみたかっただけという事でいいんでしょうか? 「まったくわからないが、そんな気がする」って、すごすぎます。いったいなんなんだこの人は。
 もうちょっと補足すれば、議論がいささか唐突で、挙げられているここの議論の連関や、議論の前提が良く分からないということです。
 更に言えば、この「近代批判としての非モテ」において小生が奇異に思ったのは、「経済と政治という分野に加えて、男女関係という分野について恋愛至上主義という思想を踏まえ論じる」とfurukatsu氏は論を提起され、経済についてはマルクスとか、政治についてはウェーバーの名前を挙げておられます。しかるに男女関係については先学の名を挙げておられない。そして「政治、経済については、多くの思想家や学者がその問題を指摘してきた。しかし、男女関係、つまり非モテについては言及されてこなかった」と論を結ばれています。

 そりゃないよ。

 男女関係について、そしてこれを基盤として成立した近代家族について、社会史が如何に多くの豊富な成果を挙げてきたかは、今更喋々するほどのことでもないと思います。小生がまず思いつくのは、フィリップ・アリエスとかフランスのアナール派あたりですが(この以前の記事で名前を挙げた福井憲彦『「新しい歴史学」とは何か』は、アナール派の日本への紹介の代表的な文献です。絶版だけど)、日本でも研究はゴマンと(ちと大袈裟か)あります。
 以前コメント欄でも書きましたが、近代家族の研究は近年とみに盛んですし、これこそが家族とは愛情によって形成されるという「恋愛至上主義」の大元であって、しかもその発展は資本主義の発展と深い相関関係にあります。
 これ以上具体的な解説は小生の知識の底の浅さが発覚するから敢えてしません。是非ご自分で研究されることをお勧めします。
※余談ですが、「非モテ」論壇で近代家族論の援用をあまり見ないのはなぜなのでしょうか。

 小生にはfurukatsu氏のこれら言論活動がネタなのかマジなのか分かりません。その点は上に引用したブログのコメント欄でも指摘されています。しかしどちらであろうとも、仕込みにひと手間かけることで、ネタは切れ味を増し、議論の真剣さは深まるでしょう。
 で、ネタだろうとベタだろうと、という観点でfurukatsu氏にご提案したい方法論がもう一つあり、議論に際しては文献を引用すると味わいが増します。失礼ながら「革命的非モテ同盟」がネット上のリンク以外の引用をされているのは、クラウゼヴィッツ一行の他はギャルゲー(台詞と作者のインタビュー)しかないように見受けられます。これでは革命的衝撃を読者に与えることはできません。ネタをやるなら大仰であればあるほど面白いし、マジでやるなら典拠をはっきりさせることは大切。どっちにしてもやって損はないと思います。
 furukatsu氏のブログ中登場する思想家? でもっとも名前が多いのが本田透、というのもやはり「ネタ」にせよ「ベタ」にせよいただけません(出現回数6、ちなみにマルクスは3)。折角「ほんだ」を登場させるなら、中核派の方ともご交流がおありのようですし、ここは「ほんだ」は「ほんだ」でも本多延嘉書記長を登場させるというのも一案ではないかと思います。

 本多書記長は1975年に革マル派のテロにより非業の最期を遂げられましたが、その日はなんということか、かの三大白色テロルのひとつ・ホワイトデーである3月14日だったのです。
 で、製菓資本がホワイトデーという白色テロルに訴えたのは、諸説あるみたいですが、このテロルの数年後だったようです。
 というわけで、3月14日に
3.14に集え同志よ!
 今を遡ること30年前、反動勢力の白色テロルはまず卑劣なる反革命カクマルの手を用いて同志本多を虐殺した。
 カクマルが反動独占資本と結託していることは明らかである。
 なんとなれば、このテロルから数年を経ずして反動資本家どもは3.14を「ホワイトデー」などと称して白色テロルの記念日に仕立て上げたではないか!
 同志諸君、今こそ決起の時。反動どもの白けた脳髄に革命の鉄槌を下すのだ!!!
 なんてビラはどうでしょうか。革マル派が襲ってきても責任は取りませんけど。
 それにしても、嫌な偶然です。

 最後に、furukatsu氏が拙文に寄せてくださったコメントによりますと「秋葉原にオタクが多く、オタクには非モテが多いという予測の下」闘争ないし街頭パフォーマンスの舞台として秋葉原を選ばれたということに関して。
 氏はご自身が「オタク」であるかどうかについて明確な断言をされておられないように見受けられますが、オタク=秋葉原という発想を抱かれたということ、美少女ゲームの引用をされておられるということなどからして、やはりご自身が「オタク」なのではないかと察せられます。
 小生は以前「オタク」「マニア」について駄弁を弄したことはありましたが、大雑把に言えば情報を集積することを楽しむという点では似たようなものなのだろうと思っています。
 で、ここ数日二冊の本について延々と冗長極まりない書評めいたものを記したことから思ったのですが、「マニア」とか「オタク」という類の人間には物事をなすのに向いた手法があり、それはやはり多くの事例をコレクションして楽しむ帰納法的な方法論なのではないかと思うのです。その手法は、まず理論ありきで単純明快に割り切ってしまう方法よりも一見あやふやで分かりにくく見えますが、そもそも「オタ」「マニア」のように少数派とされがちな存在にとっては自己の立場を有利ならしめるという観点からも有効なように思われます。あんまり理論先行で単純な割りきりばかりしていると、こと「オタク」「マニア」にとっては自分の首を絞めることになるのではないかと。

 ま、とにかく、いろいろネタを仕込んでおくと楽しいし便利なんじゃないかと思う次第です。
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by bokukoui | 2006-12-21 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(2)

12月16日・クリスマス商戦の悲劇&「恋愛資本主義」一仮説

 昨日の続きのようなこと、を書くつもりです。

 さて、本日12月16日というのは、日本史上有名なある悲劇的な事件が起こった日であります。
 それは今から74年前の1932(昭和7)年の12月16日のことでした。

 その日の午前9時15分、東京は日本橋の百貨店・白木屋4階玩具売場より出火、4階以上を焼き尽くすという大火災が発生し、14名の犠牲者が出ました。うち13名は店員で、1名が問屋関係者でした。店員のうち8人が女性(名前を見る限りでは)で、5人は十代でした。彼女たちは7階大食堂で働いていたのでした。
 この火災の時に、女性の店員が逃げ遅れて亡くなったのは、下穿きをつけていなかったので逃げる際に下から見られることを恥じたからであった、だからその後日本の女性にズロースが普及した、という俗説がありますが、これが都市伝説であることは、井上章一『パンツが見える。』によって解明されています。
 おそらくこの火災が当時の日本に直ちにもたらしたことは――勿論長期的には高層建築の防火対策がこの火災の教訓から色々進められたであろうとは思いますが――セルロイド玩具の評判が急降下したことだろうと思います。白木屋はこの火事以後、しばらくセルロイド製品の販売を中止したと当時の資料に見えます(『日本百貨店総覧 昭和十二年版』p.42)。なぜそうなったかといえば、この火事の原因にあります。この火事の起こった原因については、
(12月)十六日午前九時ごろ、四階の玩具売場に数日前取りつけたクリスマス・ツリーの装飾用の豆電球に故障を生じたため、踏台に上って修理をはじめたところ、突然豆電球がスパークして、クリスマス・ツリーにかかった金モールをつたわって、かたわらに陳列してあったセルロイド玩具に引火爆発したため、一面に火がひろがった、というのであった。
 と、白木屋の社史『白木屋三百年史』に書いてあります(pp.463-464)。ちなみにこの本には、ズロースの話は載っていません。

 つまり何がいいたいかというと、クリスマスだというのでツリーを飾って電飾をして一大大売出しをする、というのは、戦前からもうやっとった、ということです。

 ついでにズロース話のような都市伝説ではない本物のトリビアを付け加えるならば、クリスマスツリーの電飾のような小型の電球は、既に戦前の日本が安さを武器に欧米に輸出しており、それがイギリスなんかと貿易摩擦問題を引き起こしたりしておりました。白木屋火災の頃、イギリスの20ボルト以下の小型電球の7割は輸入に頼っており、さらにその約95%は日本製でした。小型電球とはフラッシュ・ランプや自動車用が代表的なものですが、クリスマス・ツリーの電飾もその一つで、何でも英国製クリスマス・セットは20~30シリングしたのに日本製は2.9~10.5シリングだったとか。(出典:平沢照雄『大恐慌期日本の経済統制』

  話を戻しまして。
 で、これを昨日の話にどうつなげるのかということですが、小生はこれまでウェブ上で「恋愛資本主義」に関して意見を述べられた方の文章を多少読んだり、本田透『電波男』なども読んだのですが、どうもいまいち納得行かないところがあって、それは「恋愛資本主義」を批判しているのにその資本主義そのものの分析は碌に行われていないということでした。
 例えばキリスト教徒の比率の極めて少ない日本に、どうして「三大白色テロル」の中でも随一の大物・クリスマスが入り込んできたかという過程は結構興味を惹かれるところですが、例えば百貨店が昔から(それこそ戦前から)クリスマス・セールを行っていたことは一つの契機とも考えられます。そして、この火事を起こしたクリスマス・ツリーが玩具売場だったように、当初は子供向けイベントの色彩が強かったのでしょう。百貨店の歴史に関する研究は最近とても多くなっていますが、こういった諸研究によると、日本の百貨店はしばしば展示会などのイベントを開催し、集客を狙ったのは勿論のこと、文化的にも様々な影響力を社会に及ぼしていたといいます。三越の「こども博覧会」はその早いものでかつ代表的な事例ですが、「子供」を看板に据えて家族連れを呼び寄せようとした経営戦略があったということは注目すべきことでしょうね。(初田享『百貨店の誕生』とかを参照)

 百貨店のような大規模小売業の主たる客層は、現在はやはり若い女性ということになるのでしょうけれど(小生は現在のことは良く知りませんが・苦笑)、19世紀中盤以降に欧米で百貨店が成立し、大規模な小売業が生まれて大々的な宣伝を行う「商業主義的」な流通業が展開されるようになった時の主たるターゲットの客層は、一家の主婦であったと思われます。そして当時の百貨店が一家の家計を切り盛りする主婦により一層の(必要以上の)消費活動をさせるために、「子供」を看板にした展示会などをやっていたということは、それが消費の口実になりうるものだと考えていたからだと考えられます。
 さてここで「恋愛資本主義」というものとは何ぞやと考えるに、これは「恋愛=男女(一般的には)の愛情」を口実に消費活動を煽るものとなるのでしょう。とすれば、これはそれ以前にあった「子供=親子の愛情」を口実に消費活動を煽るものと同じ方向性の作戦だという風に考えられます。

 で、今は「家族」というのは、「愛情」によって結ばれた「夫と妻(父と母)と子どもというトリアーデ(三者の関係)」(福井憲彦『「新しい歴史学」とは何か』p.175)と考えられていますが、これはあくまでも近代になって(19世紀以降)成立してきた家族のあり方に過ぎないことから、「近代家族」と呼ばれます。
 ここで上に挙げたような商業資本の宣伝戦略を考えれば、戦前の百貨店がやっていた子供連れ主婦向け戦略も、現在の「恋愛資本主義」的単身女性・カップル向け戦略も、拠って立つ基盤は近代家族イデオロギーということが言えるのではないかと思います。そして近代家族イデオロギーを支えるのが、「愛情」というものを高く評価しする発想です(この「愛情」は、カップルと親子とどちらにもあることに注意)。これはルソーのような啓蒙思想から広まったものだとか(前掲書pp.177-178)。

 このように小生は考えたので、『電波男』の中で本田透氏が「恋愛資本主義」を批判すると同時に「純愛」を唱えることに矛盾と違和感を感じずにいられなかったのです。それは結局、近代家族イデオロギーそのものの呪縛を認識しえていないのではないかと。あるいは、こんなのなんかもその例として挙げられるかと思います。
 しかし子供への愛も男女の愛も近代家族イデオロギーを支えたものであるという点では同じ機能を果たしてきたのであり、そして近代家族の浸透と現在の消費社会の発展とは、百貨店に関する先行研究が示したように密接な関連があります。ですから「恋愛資本主義」を批判する際に子供や家族への愛を持ち出しても、結局は壁に突き当たるのではないかと思います。
 こういった「恋愛資本主義」批判者の論の多くは、論拠に乏しい道徳論的な主張になって仕舞うように思われます(彼らが持ち出す統計はなぜ商工省経産省の商業統計ではなく内務省厚労省の医療統計なのでしょうか?)。それよりも、例えば歳末大売出しの百貨店の広告を半世紀分集めて、「おこさま資本主義」から「恋愛資本主義」への移行はいつ頃であり、それには如何なる要因(晩婚化、女性の学歴・就業率向上など)の影響が強いか、といった社会経済的分析をした方が、より広い範囲に説得力を持つと思うのです。

 で、ものすごく遠回りした話を最後に締めくくると、なぜ昨日の記事で小生が「革命的非モテ同盟」のビラを「反白色テロル大連帯」のそれと比べて「楽しみにくい」と書いたのかといえば、この「三大白色テロル」批判からは様々な議論やネタの可能性があるのに(上に小生が書いたものはそのごくいい加減な一例)、「オタク」や「非モテ」といった言葉と結びつけたことがそういった可能性を減殺してしまったように思われるからです。つまり、「ネタ」としては面白く思う客層をより限定してしまい、「マジ」な活動としては賛同者の範疇をより狭く限定してしまうのではないかと思うからです。これは「反白色テロル大連帯」を解説した拙稿で、最近の「新反白色テロル大連帯」を批判したのと基本的には同じ構図です。
 つまりもっと楽しく色々できるはずなのに、それを狭い範囲に限定するようなことはどうなのか、ってことです。

※この記事の続きはこちら
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by bokukoui | 2006-12-16 23:58 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(4)

東大名物「反白色テロル大連帯」のエピゴーネン登場?

 年末商戦も酣という感のあるこの頃に相応しいかもしれない話題。
 で、最近こんなページを見つけました。

 革命的非モテ同盟「12・24クリスマス爆砕大衆行動」

 はてなブログではとりわけ盛んな、オタクによる「非モテ」問題関連活動の一つのようです。新左翼のパロディをやっているあたりが面白いですね。
 で、クリスマスに配布するというビラがこちらのページに載せられています。

 ・・・・・・。ものすごい既視感。
 そう、このビラの文面は、当ブログやMaIDERiA出版局サイトでこれまで取り上げていた、「反白色テロル大連帯」の撒いていたビラとそっくりなのです。
 こうなりますと、自称「日本で一番『反白色テロル大連帯』について詳しいページ」を作った(笑)者としては、この「革命的非モテ同盟」の運動とどういう関係があるのか、大いに気になるところです。
 「反白色テロル大連帯」のビラは、MaIDERiA出版局サイト

 「東京大学オタク物語その三 反白色テロル大連帯とは何だったか」

 に掲載してあるので、比較してみてください。
 「革命的非モテ同盟」(以下「革非同」と略させていただきます)のビラの表面の煽り文句、
 「つぶせクリスマス! なくせバレンタイン!」
 これは「反白色テロル大連帯」(以下「反白色」と略す)のビラと全く同じです。
 さらに、それに続く「革非同」のビラの見出し、
 「クリスマス迎合「カップル」集団に怒りの階級的鉄槌を!」
は、「反白色」のビラの
 「クリスマス迎合のニセ「カップル」盲従集団の延命許さず、武装蜂起せよ!」
と、ちょっと似てますね。
 そして、
 「ベンチを奪取せよ! レストランを占拠せよ! ホテルを爆破せよ!」
という文句も全く同じですね。
 これ以上いちいち例示はしませんが、どう考えても「革非同」のビラは「反白色」の強い影響下にある、というか、早い話がパクリではないかと考えざるを得ません。

 「反白色」については上掲記事に書いてありますのでご参照いただければ分かりますが、これは元々共産党系学生組織・民主青年同盟、通称民青の一員であった人物が、学友会での影響力拡大のために作った団体ではありましたが、そのビラはネタとしてあまりにも秀逸であったため(共産党が新左翼風のビラを作ること自体が既にネタ)、相当広く人口に膾炙するに至りました。時々学内でこれを見つけた東大生の中にマジに反応してネットなどにそう書いてしまい、他の連中に突っ込まれる、なんてこともありましたっけ。
 で、「革非同」の方もこれをネタとして楽しまれているのでしょうか。

 ただ率直に言って、仮にこれがネタであろうがなかろうが、元ネタである「反白色テロル大連帯」について一言も触れていないのは如何なものかと思います。そして続けて考えるに、

1.「革非同」がネタの場合・・・ネタとしては元の「反白色」よりも楽しみにくい。
2.「革非同」がマジの場合・・・それは痛い。

 というわけで、どっちに転んでもあまり好意的に評価できません。せめて元ネタへの敬意くらいは表していただければ、もうちょっと連帯する意欲も沸いたのですが。
 革命的非モテ同盟に対し、本件に関する釈明を求めたいと思います。さもないと、彼らこそ反革命的であると糾弾・・・なんてことやってたから新左翼は内ゲバで衰退したんでしょうね(苦笑)。つうか元が民青だから共産党に踊らされて「ニセ左翼暴力集団」とかレッテルを貼られてしまいそう。
 なお、このほかの可能性として、

3.「革非同」=「反白色」の中の人

 という場合もありえます。この場合はメットと角材もって駆けつけます。

 さて、本来はこの後になぜ「革非同」は「元の「反白色」よりも楽しみにくい」のかをきちんと説明しなければなりませんし、更に「恋愛資本主義」という言葉についても少々思うところがあるのでこれを機会に少し書いてみたい気もするのですが、日曜日だとばっかり思っていた某学会の報告が実は土曜日だったということにさっき気がついて青くなってレジュメを作成している途中ですので、この続きはまた明日にでも。
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by bokukoui | 2006-12-15 23:58 | 思い付き | Trackback | Comments(9)