「新春メイドさん放談2006」にいただいたコメントについて
なお、本稿は「新春メイドさん放談2006」に関するものではありますが、鼎談の他の話者、酒井シズエ翁・北庭さんとは全く関係なく、墨東公安委員会が独断で執筆しており、本稿が酒井・北庭両氏のご意見をなんらかの形で代弁しているものではありません。
いただいたコメントですが、まず昨日の記事でトラックバックだけさせていただいたLuv-Paradeさんの2月27日付記事では、
あンたらがクダ巻いてどうすンのよ――ッ!!というコメントをいただき、一方MaIDERiA掲示板2月28日付書き込みでは小手鞠萌さんから、
あンたらのような証人が、もっと率先して発奮していかないと、どンどンダメな方向に流れて行っちゃうでしょ――ッ!! わぁぁぁ――ッ!!
何かもう、ものすごい勢いでグダまいてますねwというコメントを戴きました。
つまり「くだを巻いている」放談である、という感想を複数の方から寄せられたわけなのですが、うーんそんなふうに見られてしまったのか、というのが率直な感想です。
まあ入っていた酒の影響もあって多少は管巻いているのは事実ですが(苦笑)、言っていること自体は以前と継続しているつもりですし、その上で現状にどう対応するか、全くの懐古趣味には陥らないような視点も一応は盛り込んだつもりでした。つまり小生なりに(そしておそらく他のお二方も)「発奮」はしているのです。ただそれを分かりやすい形で語ってはおらず、断片的であったため分かりにくかった点は反省すべきですね。小生の考えている範囲の詳細は、今後自分のサイトでおいおい論じていく予定です。あくまで予定。
先日少し書きましたが、『電波男』を読もうとしてどうにもひっかかって読みきれず、近代家族やらコンクリートやら大塚英志やらの本を折々読んで気力を回復させては、続きを読もうと努力しつつもまだ道半ば、です。結局のところ、「考えるな、萌えるんだ」とか言われても、趣味的活動が考えることと常に一体であった人間からすればそのような「萌え」は思考停止以外の何者でもなく、思考停止してしまってはもはや趣味の楽しみが深まることは無いように思われてなりません。
しかし「メイドさん」ブームが「萌え」と分かちがたく結びついた以上、「考える」ということに拘泥していると、それ自体がくだを巻いているように見られてしまうのかもしれませんね。でも考え続けますけど。それ以外の方法を知らないので。
というわけで、管巻き以上のことはこれからも考えていく所存です。近代家族や世紀末文化論とかに関連づけて思うところを述べていく予定ですので、気長にお待ちください、と結局はいつもと同じオチなのでした。
コメントありがとうございました。今後とも宜しくお願いします。
もう歳かもしれませんね。
我がオタク師匠に相応しい熱いコメントありがとうございます。
「何気ない一言に反応して延々と知識を披露」というのは(身勝手な自己顕示欲のことも少なくないとはいえ)、自分の趣味が他人と違うことを前提とした上で、何気ない一言をきっかけに自分と他者の間に架橋しようという文化的営為であったとも思われるのです。そして、その営為を通じて自らの趣味を再検討することもできるのではないでしょうか。然るに「萌え」とばかり言って自他の区別なく馴れ合っているのは、けしからんことと思います。
オタクは「何を対象としているか」よりも「対象とどのように向き合っているか」の方がより重要ではないかとも考えるのです。
>ラーゲリ緒方氏
まあ、情熱があれば知識や見識なんてものは後からついてくると思いたいのですが。ただ、「披露する」ことが目的になってしまっていると、流石に片腹痛い(古文の意味で)という感を抱いてしまいますが。