古澤書記長「火力の歴史的発展と現代のRMA」合評会 補遺と解説
ここでは、合評会終了後寄せられた意見と、労働収容所組合氏による解説を収録します。
○補遺
合評会の記録に補足したいという参加者の方から寄せられた補足事項です。
M:書記長の構想と特殊部隊との親和性が何度も指摘されていた事、また終了後の雑談で、書記長が論文を執筆した動機の一つとして、既存の特殊部隊への批判(とりわけ彼らのエリート主義的側面と、後方支援兵科に対する態度の悪さに関して)とでも言うべきものを口にしていた事、この二つの組み合わせが気になった。
労:「まったく同じ条件のRMA化軍隊が対峙した場合、最初の一撃を加えた者が勝利する」の学術的根拠です。
これは「ランダム・ウォーク」と呼ばれる現象について述べたものであり、最初に発表されたのは投票に関するものでしたが、ランダム・ウォークに該当する現象なら等しく扱えます。参考文献は以下の通りです。
「銅貨投げを何回もひき続いてやれば, 普通, ピーターはそのほぼ半分の回数をリードし, 相手のポールがまたほぼ半分の回数をリードすると思われるだろう. しかし, これは完全に間違いである. 20,000回の銅貨投げでピーターがその全部, つまり20.000回リードをとる方が, 両方が半分, すなわち10,000回ずつリードをとる場合よりほぼ88倍も起こりやすいのである. 一般にいってリードが変化するのは, きわめて稀で直観が信じられないほどである. 銅貨投げの回数をいくら長く続けてみても, リードが変る一番確からしい回数はゼロである.(W.フェラー著、河田龍夫監訳、卜部舜一・矢部眞・池守昌・大平坦・阿部俊一訳『確率論とその応用 上』紀伊国屋書店 1960年 98-99pp.)」
これは第1逆正弦定理によって基礎付けられていますが、この定理の前提としては勝敗の確率が変わらない(つまり理想的なコインを投げ続けるような)ことがあります。一方で、実際の軍隊は一旦敗勢に陥れば勝敗の確率自体が一方に傾くので、一層「ピーター」が有利であると考えられます。以上から、「幸運にも1/2の確率で最初の一撃を加えられた側」が一方的に有利になる可能性が高くなります。不運にも一撃を加えられた側は、撤退時の損害などを勘案しながら速やかに後退し、次は自分が逆の立場になることを夢見るしかないのです。
もちろん、これは実際の戦場のミニチュアモデルとして甚だ不適当です。しかしながら、書記長の夢見る「完全情報の戦場」においては、このようなモデルさえ成立しかねないでしょう。書記長の主張には組織がなく、単位もなく、ただ情報ネットワークによって全世界の同胞と繋がった孤独な兵士が1人佇んでいるだけなのです。
しかし、とりもなおさずこの数学的結果は示唆的です。それは戦場という混乱した場においてさえ、同等の戦力なのだから偶然わずかに傾いた戦況を容易に捻り返せると考えてはならないということを意味しています。指揮官が為すべきは、また偶然自分の側に戦況が傾くのを期待することではなく、状況を利用しながら自分の側に確率を傾けることです。それこそが唯一指揮官ができる努力なのです。
○解説にかえて(労働収容所組合氏による)
この論文の要旨は第一に「分散と集中」にあるだろう。プラットフォームの分散と戦力の集中は、今後最もありそうな方向の一つに相違ない。
とはいえ、高度の情報化によって火力等のプラットフォームの分散を可能としても、なお決勝点が存在しないわけではない。近代戦は常に「組織上の集中点」を決勝点としてきた。時には寸土を争い、時には物質や人命の消耗を争い、時には「継戦能力」を争ったのは確かである。しかし、それらは(しばしば誤った)技術的判断に過ぎなかったものが大半である。
もし決勝点そのものを分散することが出来たなら、そのときにRMAは真に現代における軍事上の革命として意味を為すのではないだろうか。そしてまた論文で述べられているように、RMAが単なる戦闘の効率化をもたらすのみならば「エボリューション」に過ぎず、むしろ決勝点の組織的集中を意味しているのみである。
技術的側面に関して苦言を呈するならば、それは古澤氏独自の主張だけに見られるものではないのだが、ややもすると「防御側」の視点が抜け落ちているように感じられた。一般に「防御側有利」と言われるのは(先手必勝とも言うが…)、攻撃側の方がより早い段階で意図や姿を暴露しなくてはならないという事情にも依るのだから、RMA化された時代においても「防御側」は、増大する「攻撃側」の通信の傍受を始めとして、より高度な情報技術による素早い「攻勢準備」の察知が可能になるはずだ。もちろん、その中における戦闘様式がどう変化するかはまた別の話である。
また、そういった問題とは別に純粋に技術的な意味での妨害・阻止も発達するはずだし、特定の兵器(航空機のことだが)がいつまでも都合の良い位置を占められるはずもないという疑念もある。しかし、そういった技術的な問題は些末に過ぎず、やはりこの論文は幾つもの示唆的な内容を含んでいる。
また、この示唆的な論文をより実際の軍隊の様相に近づけることを望むならば、コスト概念を避けて通ることは出来ないだろう。特に軍事組織では顕著だが、コストとは一般に金銭のことではなく、むしろ何がコストだと考えるかこそがドクトリンであり、組織の形を決定付ける一因となる。
そしてまた、古澤氏の考える戦場を実現させない最大の要因があるとすればコストである。氏は屈託なく長距離精密打撃について述べるが、未だ学術レベルですら非誘導弾を長距離で精密に弾着させることは困難であり、弾数を増やすか誘導弾を利用するかの二択が現実的となっている。そしてそれはまたコスト(この場合は単純に金銭的な意味)を著しく押し上げる要因となる。この問題が解決しない限りは、歩兵が1個連隊相当の火力を持つというのは比喩としても成立しえない。
さらに夢の無いことを言えば、軍隊の装備は四半世紀程度では一周しない。従って、この論文で描かれた戦場が、古澤氏が言うように四半世紀後に実現されることは、現状を勘案した上ではないだろう。これもまたコスト(というよりは予算)の問題である。
批判的なことばかり述べる様相になってしまったが、最後に僭越ながらこの論文で最も私が注目した点を挙げたい。また、ここから古澤氏への期待を感じて頂ければと思う。
その最も注目した点とは、火力の抽象化という概念である。論文中でも指摘がある通り、兵器システムや現場においては火力プラットフォームの種類は本質的でない。一方で、組織においては何が抽象化されるかこそ本質的である。抽象化されるということは、対象に決定権がないことを意味し、従ってそこに組織の専任権のあり方が映し出される。つまり、火力を抽象化することにより、戦場の対象化のみならず、組織のあり方そのものを記述することを容易ならしめる。
また、将来戦闘を完璧に予測しようとするほど、却って予測可能性は減じられるだろう。だとすれば、時代を超えてなお幾つもの組織や戦闘の中に潜む「不変性」や「対称性」に着目することによって、新しい戦場のあり得る姿を垣間見ることが出来るはずだ。非対称戦もまた既に経験された現象の延長にあると信じられるならば。
そのために「火力の抽象化」の導入は極めて有効であると感じる。戦域に投射される火力の源泉が射石砲であるか自走榴弾砲であるかを、あるいは兵士が手にしている火器が先込め式か元込め式かを気にしなくて良いとき、初めて私たちは戦場を抽象化し普遍的に見通すことが出来るのではなかろうか。そこにはきっと四半世紀、あるいは百年後の戦場の姿も描かれているに違いない。
合評会の記録と補遺、解説は以上です。
軍事や戦史に興味を持たれる方になにがしかの参考になりましたら、合評介意をした我々としましても、そしておそらく書記長自身にとっても、嬉しいことです。ご意見はお気軽にコメント欄まで。