戦前の夢のマイホーム? 平尾善保『最新 住宅読本』(1938)を見る
では、この時代の家はどのように建てられていたのか、ということの参考になりそうな本について、今回は考えてみたいと思います。
というわけで、今回のお題は、表題の通り平尾善保『最新 住宅読本』(日本電建株式会社出版部)という本です。最新つったってこの本は、1938年初版となっておりますので、今から七十年も前に出された、住宅の建て方解説書です。出版は住宅を建設している会社自体が行っていて、著者はその社長です。余談ですが、この日本電建株式会社という会社は、創立者にして社長の平尾善保亡き後、紆余曲折を経て田中角栄の手に入り、その金脈の一角を形成することになってしまったのだとか。
さて、この本は、ざっとA5版で600ページに近く、しかも図版や写真が数百枚も載っているという立派なものです。値段は4円とありますので、今でいえば1万円くらいにはなるのではないかと思います。小生は古本市で割と安く手に入れましたが、本来は多分箱入りだったでしょう。
で、ここまで引っ張っておいて何なのですが、この本には間取り図の具体例は、実はほとんど載っていません。目立つのはこれぐらいかな? これもクリックすると拡大表示します。
で、この邸宅、戦前のものとしては、いや現在の基準でも、かなり立派なものではないかと思われます。上の家なんか、建坪でも50坪はあるんじゃないかと。なれば土地は100坪以上は・・・。なるほど、戦前は土地と人件費は現在の感覚より割安だと思われますが、それにしたって、これだけの家がそうそうあったとは考えにくそうです。なお、これだけの豪邸でも、階段の幅は『木造迷宮』の図面よりは狭いように思われます(笑)
そう、この本の最大の謎だと小生が感じたのは、「豪華」「立派」ってことです。種々の内装の様子が写真版となって収められているのですが、どう考えてもこれは普通のサラリーマンなどの中産階級が建てられる家には立派すぎないか? というしつらえが多々見出されます。本当にみんなこんな家を建てていたのか知らん? かといって、そのセンスは田舎のお金を持っている地主さん向けとも思われず、洋風の意匠も多く取り入れられていて、やはり都市住民を主たるターゲットとして編まれているようです。そもそも序文に「特に大衆の人達に読んで頂いて、多少とも住宅の知識が普及され、家を建てられる参考ともならば結構だと考えて筆を執ることにした」とあるのですが、大衆向けにしてはえらく立派な気がしてなりません。
更にこの本、どうもよく売れていたようです。初版は1938年7月15日発行とありますが、同じ月のうちに再版されており、小生が手に入れたのは「昭和十五年十二月二十日二十五版(改訂規格判)印刷」とあります。25版! そうそう見ない数字ですね。しかも日中戦争が既に起こっており、あと一年足らずで太平洋戦争という時期です。
一体どういう人が買っていたのでしょう。限られた上流だけではこれほど売れたとは思われませんし、大体そのような人たちであれば、こんなマニュアル本なんか読んで家を建てたりしないでしょう。となると、半ばは中産階級の憧れを満たすために、実際にどこまでこれに準じた家を建てるかは別にして、読まれていたんだろうなあと推測します。
時代としては、軍需景気によって小金を手に入れた層が、ちょっと気張って家を建ててみるというシチュエーションも考えられそうですが、時代からして資材統制や職人の手不足は既に始まっていたはずです(詳しくは調べてないけど)。となると、そもそも金があっても思うように建てられない可能性も・・・本書には鉄筋コンクリートの家についても触れた箇所がありますが、本が出た頃には、自由に鉄が手にはいるのか微妙な時代のはずです。なにせ阪神電鉄が梅田にデパートを作ろうとしたら、資材統制で断念せざるを得なかったという頃ですので。
で、戦時下を反映した内容も確かにあって、「防空室」という一節があります。こんな感じで、図も載っています。これまたクリックすると拡大表示します。
※追記:実際にコンクリート製の立派な防空壕を自宅に作った人の話はこちらをご参照ください。
またこの本は、一種の教養書というか雑学本というか、そんな感じの役割もあったのではないかと思います。例えば、世界の建物の歴史の箇所では、さてこそパルテノン神殿やコロッセオや、更にはエンパイアステートビルから胡同(多分)まで、日本で家を建てる人とはおよそ関係なさそうな写真がてんこ盛りだったりします。直接は関係なくても、教養として紹介しておこうという方針だったのか、単に著者がハッタリをかけていたのか。
とはいえそういった建築物ならまだ分かるのですが、家の材料となる木について説明した章につけられていた写真には、教養にしてもマニアックなものが幾つもありました。以下にざっとご紹介します。写真のうち横長のものはクリックすると拡大表示します。(スキャナが直ったようなのでこっちは取り込んでます)
なかなか興味深い写真ですが、家を建てるのには直接関係はなさそうですし、一般教養というわけでもない観がします。家を建てるのはこれだけ大変なんだ、ということを強調したかったのでしょうか。
小生は鉄道趣味者なもので、森林鉄道についても多少の知識はありましたが、林業にはさほど詳しいわけではないので、「木馬インクライン」の写真なんかは初めて見たもので感心しました。インクラインとは、急勾配を越えるために、ケーブルカーの要領で斜面をワイヤーで引っ張って貨物を上下させるもので、森林鉄道には時折設置されていたようです。更に地形が険しい、あるいは輸送量がそれほど多くない場合には、索道を使うことが多く(というか、インクラインの採用例はそんなに多くないと思います。索道が山岳地域の近代交通手段としてはかなり有力だったはず)、本書にも写真がありましたがそれは省略しました。
なるほど山中なんだから、鉄のレールを運んでくるよりも、そこらの木材で作ってしまえば合理的ですね。写真をよく見ると、ケーブルカー同様上下列車(?)が交換する場所は、線路の木材が4本に分かれている箇所があることが分かります。他の箇所は3本の材木(というか丸太)を、真ん中の一本を共用する形で台車を動かしているようですね。
更に冬の降雪地帯では雪ぞりになるのですが、わざわざそんな冬に雪ぞりまで使って搬出するのは、雪の方が抵抗が少なくて運ぶ効率が上がったのだろうと思います。
これらの木馬や雪橇のインクラインは過去の遺物かと思ったところ、検索してみたら「労働安全衛生規則 第八章 伐木作業等における危険の防止」というのが引っかかって、少なくとも条文の上では現役のようです。
森林鉄道の写真は見ての通りですが、小生は個々の林鉄に詳しいわけではないので、詳細はまた折を見て物の本でも調べてみたいと思います。
それにしても、最後の下北半島の二叉山国有林で使っていたというトラクター、これは見るからに自動車の改造で、軌道だけでなく道路も走れるようにしていたものかも知れません。森林鉄道といえば、手押しや可愛い蒸気機関車(戦後なら加藤のちっこい機関車)が通り相場だと思っていたので、これにはびっくり。どなたか詳細をご存じの方がおられましたが是非ご教示ください。
一つ疑問なのが、自動車の大きさから考えると、この森林鉄道のゲージは一般的な2フィート(609ミリ)や2フィート6インチ(762ミリ)より広いように思われるのですが、どうでしょうか。森林鉄道のレールは低規格で細いので、普通の線路の感覚で見るとゲージが相対的に広く見えることはあると思いますが、それにしたって、という感じです。そういえば最後から二番目の長木沢国有林の軌道も、横の人の大きさから考えると、やはり609ミリや762ミリより広いゲージのような気がしてきますが・・・
※追記:戦間期~高度成長初期頃の国鉄官舎(宿舎)の間取図を掲げた記事はこちら
この間取り、江戸東京たてもの園に保存されている高橋是清邸ぐらいの大きさはあるようです。かなり大きな家と言っていいですね。たとえば1935年から分譲された東上線の常盤台の、サラリーマン層を対象にした住宅とは全くスケールが違うようです。
さて、防空室ですが、本書刊行の前年、1932年に防空法が成立しています。1928年に大阪で日本初の防空訓練が大阪で行われているのですが、第一次大戦で航空機による空襲が行われたので、防空宣伝はかなり行われていたようです。もっとも、B29のような巨大な爆撃機が来て焼夷弾をあんなに落としていくような想像は誰もしておらず、巨大な複葉機が毒ガス弾を落としていく、というのが主な想定であったようで、そうするとあの程度の防空室の提案は当時の防空知識に照らせば妥当な範囲であったようです。
私は「毒ガス対応に防空室を!」という当時のパンフレットで、日本家屋の一室を目張りして、そこに隠れて毒ガスに備えるというものを見たことがあります。そりゃ、ふすまや障子に目張りしたって、スカスカでしょう。
1938年といえば、国家総動員法が成立し、本格的な戦時体制に突入する年です。現実のところ、そうした理想の住宅建築はもう無理なものとなっていたと思われます。
売れた本のようですので、古書店を探せばまだ手にはいるかも知れません。
江戸東京たてもの園は行こう行こうと思っていて実はまだ行ってないのですが、是清邸と同じ位ですか? ますます行ってみたくなりました。
小生の現在の専門は電鉄業なので、郊外住宅地についての本は幾つか読みました。ご指摘の常盤台も読みましたが、当時の家が今の感覚でいうと広めの敷地があるとはいえ、割にゆったり建てる(平屋が多い)ということからしても、こんな豪邸はそうはないと思います。
そうそう、防空法がありましたね。本来触れるべきだったのですが、そこまで手が回りませんでした(苦笑)。ご指摘ありがとうございます。
にしても、和式建築に目張りって・・・ゴータ爆撃機にも対抗できそうにないですね。
やたらと高い理想像、えらく貧弱な現実策、と並べると、要は多くの人はあんまり本気に思っていなかったんじゃないか、という気がしてきます。
だいたい月収100円以上ないと中産階級と呼べないのではなかろうか?
(といって農水省の局長を辞めた三島由紀夫の父親が天下り先で年収1万円を要求したら、交際費込みで何とかするということだった。今のアメリカみたいに無制限に高収入だったわけではない)
だからモデルハウスの移築というお得な販売がありますが、大抵はけっこう敷地が広くないと使えないというのが殆どのようです。
バブル期の独身OLの住んでいるマンションなんて、家賃で月給が飛んでいるだろうという突っ込みのあるものも多かった。
貸家だったのですが、昭和30年代に撚糸関係で成功し、昭和50年代に没落した方が建てさせた家でした。
撚糸などの地場産業で成功し、且つ都会に対し憧れを持つような人種をターゲットとした造りのような気がします。
ご指摘ありがとうございます。家族の人数の想定からすればそんなところでしょうか。
もっとも小生は、女中部屋を一人一畳で割り当てて、上の家では4人・下の家では3人という想定をしておりました。紡績工場の寄宿舎とかからすると、そんなもんかなあと。
>無名さま
考えてみれば、こういった軽便路線で使う機関車自体、フォードなんかの自動車エンジンを転用していましたので、整備する側からすれば軌陸車も同じように扱えたでしょうね。
これだけの間取りとは、いい家にお住まいでしたね(それとも掃除が大変とか?)。
地方の富裕層というのは、読者の想定として相当有力ですね、「大衆」とは言えませんが・・・
>東雲氏
女中の雇用層については、前に挙げた『〈女中〉イメージの家庭文化史』をご参照下さい。
モデルハウスの話は納得です。ちょっと上の、手がなんとか届きそうな像を示すことが、消費欲を煽るのにもっとも効果的なんでしょう。確か、中島らもが小説の中で、広告マンの台詞で「視聴者が住んでいる部屋より一間だけ部屋が多く、視聴者の食卓より一皿だけ料理が多い」のを描くのだとか。