京成電鉄創立百周年記念企画(1) 幻の京成第3代社長・河野通
京成のサイトでも、百周年記念のページを設け、今日を百周年記念としています。
で、最近の大手私鉄では阪神や西鉄が百年史を出しており、京阪や阪急も出すそうですので、京成もここで一つ、と思うのですが、今のところ社史発行のアナウンスはないようです。京成は過去に五十年史ではなく『五十五年史』を発行し、八十年史ではなく『八十五年史』を発行しておりますので、今度も『百五年史』で発行するのでしょうか。実際、成田高速新線開通が来年度ということですので、それで一区切りにしたい、というのならそれはそれで妥当と思います。
こんなわけで京成のサイトにも歴史を記した年表がアップされております。その中に、次のような一項があります。
(昭和)21年1月19日これは正確には、前年の1945年10月末に亡くなった京成第2代社長・後藤国彦の後継社長が、年明けの1月になって正式に決定した、ということです。そして第3代社長が吉田秀彌、第4代が大山秀雄、第5代が20年以上の長期政権を敷いた川崎千春になるのですが、実はこの間、重役会で内定まで出ていながら、第3代京成社長になり損ねた人物がいたというのが今回の記事のお話です。
後藤圀彦社長辞任、取締役吉田秀彌、取締役社長に就任
これは小生の知る限り、社史などにも今まで出ていない話ですが、小生がたまたま今書いている戦前期電鉄経営史に関する論文の史料調査中に見つけたエピソードでした。しかし指導教官曰く、「論文が冗長だから本題に関係が少ないところは削るべし」とのことで削りまして、その後教官に「エピソードとしては面白いので、本件は何か使い道はないでしょうか」と問うたところ、「うーん、論文にはならんね」とのことでしたので、そして京成の社史もいつ出るか分からんし、『鉄道ピクトリアル』の京成特集号も2007年にやったばっかりだし、京成創業百年を祝して、ここで取り上げようと思った次第です。
・・・祝うのに相応しいエピソードかは疑問なしとしませんが。
今回のお話の出典は、前にも当ブログで書いた野依秀市の話で使いましたが、逓信省官僚で次官まで務め、その後日本曹達社長を務めた大和田悌二の日記です。これは東大法学部が1945年分までをマイクロフィルムに撮影して所蔵しております。このうち、大和田が逓信官僚として第1次電力国家管理実現に務めていた時期については復刻が企図され、1935年の一年分は、1999年に『東京都立大学法学会雑誌』で復刻されています。復刻したのは、かの御厨貴ゼミの方々だそうで、1938年分まで復刻するとその雑誌論文の中で述べられているものの、残念ながら十年経った今でも続きが出ておりません。
で、この大和田悌二は電力事業の監督(戦前の京成は沿線で電力供給業を営んでおり、また戦前は電気事業の監督官庁は逓信省だった)から京成電軌の第2代社長・後藤国彦と縁が出来たようです。大和田と後藤は大分の同郷出身ということで親しくなり、大和田は退官後京成の取締役に就任、戦後は監査役に代わって長くその地位にありました。大和田と後藤の関係は良好だったようで、旅先で後藤の死去を知った大和田は、日記に新聞の死亡記事を貼って長文の追悼記事を書き、その死を悼んでいます。大和田は旅先から戻ってすぐ後藤邸に弔問に訪れ、遺族と生活について秘かに話をするなど、親密な関係が伺えます。
社長が死んだ以上、京成としては重役会を開いて後任を決めねばなりません。しかし大和田は日本曹達社長でもあり、その所用で京成の重役会に欠席することになり、事前に連絡に京成に行ったことが、大和田の日記に書いてあります。
(昭和20年)11月1日原文の傍点を太字に変えてあります。その他、日記の引用に当たっては新字体に直し、仮名遣いや句読点などを一部修正しています。
○京成本社に赴き、明日の重役会は二本木行きの為欠席につき議事の内容を尋ぬ。重役不在、川崎総務部長在り、社長急死に伴う懇談にて別に議事無き模様とのことにつき辞去す。
日記中、二本木は日本曹達の工場所在地です。そしてここに出てくる「川崎総務部長」こそ、のちに20年にわたって京成社長を務め、沿線と関係ない東北地方なんぞの土地を買い漁るなどの放漫経営で80年代の京成を危機に陥れた、しかしオリエンタルランド実現に強力なイニシアチブを発揮しディズニーランドを日本に招いた、経営史上評価の難しい人物・川崎千春であろうと思います。
で、特に重要な議題はないと聞いて二本木に行った大和田でしたが、しばらくして今度は京成の大山専務(のちに第4代社長となる)が大和田のところにやってきます。
11月7日赤による強調は引用者が加えたものです。
○京成電鉄大山専務来社。
昨日の重役会にて、社長に河野通監査役を推すこととなれり。後藤社長の遺思(原文ママ)を継ぐと河野氏は称す。陰険、圭角多く、運輸省の評判よからずと、反対説ありしも、他に適当の人も無しとて、結局決定せり。
重要な議事無しといっていたわりに、次期社長という極めて重要なことが大和田不在のうちに決定されてしまいます(重役会は二回やったのかも知れませんが)。
しかし、社長が急死したので後継を取締役から選ぶというのなら普通ですが、監査役というのはあまり聞きません。専務がいるなら彼が昇格するのが普通でしょう。京成は初代社長・本多貞次郎も、第2代社長・後藤国彦も、専務から社長になりました(創業当初の京成には、専務はいても社長はいませんでした)。「陰険、圭角多く、運輸省の評判よからず」とはひどい言われようですが、どうしてこの河野通という人物が社長に決定してしまったのでしょうか。
そして、運輸省の評判良からずという評価に間違いはなく、京成のこの決定に対し運輸省から苦情が持ち込まれてしまいます。大和田の日記を引き続き見ていきましょう。
11月20日11月7日に大和田のところへ「河野社長内定」を伝えに来た大山専務は、鉄道省監督局長から京成に天下ってきていた人で、この人こそ後藤国彦社長の後継候補だったようです。少なくとも、役所方面はそう考えていたようです。
○平山孝運輸次官より、京成電鉄は、後藤社長死去、後任河野通氏に内定の由なるが、長崎前次官の引次(原文ママ)は、大山監督局長京成入りの際、後藤社長と行々社長とする約束なりし趣きなるにつき、省として河野氏の来省を求め、省の意嚮を伝うる考なり。前田米蔵氏相談役につき、了解を得たりとて、趣旨貫徹につき協力を求めらる。余も河野氏が、後藤社長の遺思なりとて社長就任を主張するには同意し難き故協力を約す。
11月24日
平山運輸次官の依頼にて、前田、高梨二氏と会話す。二氏が河野社長に賛成せしは誤りなりと釈明。余は、右重役会に欠席なりしを理由に、尽力捲返すこととす。
で、どういう訳か自分の社長就任を強く主張せず、河野の社長就任を大人しく大和田に伝えに来ていた大山専務でしたが、役所からは大和田を通じて河野の社長就任を阻止せんとしたようです。大和田の日記しか史料が今のところありませんので、大和田中心になってしまうのはやむを得ませんが、大山は何をしていたのでしょうか。
陰険だ何だと役所から不信感を抱かれていながら、監査役なのに他の専務や取締役を差し置いて、一時は京成社長就任を社内で認めさせてしまった河野通。彼は何者なのか、何でそんなことが出来たのか。
その理由を探っていくと、戦前の電鉄界で後藤国彦と並んで「電鉄界の両ゴトー」「電鉄界の二人ゴトウ」と呼ばれていた、でも現在の知名度は圧倒的に京成の後藤国彦をしのぐ、東急の事実上の創業者・五島慶太の存在が浮かび上がってきます。その驚くべき関係とは、刮目して次回を待て。
※この記事の続きは以下の通り。
・京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男
・京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった
・京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成