京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった
・京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男
の、続きです。今回で完結・・・と思ったら終わりませんでした(苦笑)
ここまでのお話を振り返ると、池上電鉄で「強盗慶太」こと五島慶太に破れた後藤国彦は、京成を自らの支配下に置くために、京成子会社の成田鉄道を京成の筆頭株主とする持ち合い体制を築きます。その成田鉄道の専務、のちには社長に任じられた河野通は、かつて田園都市会社の支配人を務め、五島慶太も一枚噛んでいたらしい復興局疑獄の疑惑を一人でかぶって、逮捕され職を失っていました。
敗戦直後に後藤が急死し、おそらくは成田鉄道の有する京成の株を背景に、河野は京成第3代社長の地位をうかがい、一度は重役会を通ります。しかしそこで、運輸省から待ったがかかり、元逓信官僚で後藤と親しかった京成の取締役・大和田悌二らが巻き返しを図ります。
では、河野の野望はどのように挫かれたのでしょうか。大和田の日記(本記事(1)を参照)を手がかりに、その経緯を辿ってみましょう。これらの経緯は日記にかなり詳しく記されていますが、あんまり長々引用するのも何なので、なるべく簡潔に。
11月27日傍点の強調を太字に変えているのは前と同じです。後藤が没して一月、「河野下ろし」の本格始動です。
後藤国彦故人の法会、成田山新勝寺の由縁(ゆかり)の寺にて営む。
法会後、余より大山専務、北条、橋口両常務に対し、後任社長の選任は社運に関し、軽々に定むべからず。先般河野氏と定めし由、右は故人の遺志なる趣旨が理由とのことなるが、運輸省より異議あり、後藤家親戚よりも反対申入あり、余も重役会に格別の議題なきことを予め承会したる上、工場に赴き欠席せる、かかる重大案件については承服し難き故、改めて重役会を開き、余をして理解せしめよと要望し、前田、高梨、吉(註:「田」脱落カ)三氏同意し、左様取運ぶこととなる。
そして、12月の始めに重役会が開かれ、ここで河野の社長就任は否決されます。
12月1日この重役懇談会に河野は呼ばれていません。欠席裁判で河野が社長就任の根拠とした「故人の意志」は否定され、河野の社長就任も打ち消されます。ただしここで、いったん重役会で社長と決めたことをすぐ取り消すのも問題ということで、この場ですぐ後任社長を選ぶことは避け、河野に経緯を説明することとします。高梨には恫喝的だった河野も、大山には素直に辞退した・・・ようですが、河野はそう大人しい人物なのでしょうか。
京成本社重役懇談会に臨む。(中略)余本日懇談会要求の趣旨を述べ、先ず前回河野氏を社長と決定せる前提は、これが故人の遺志なりというにある所、自分の見る所は之に反するを以て、再検討を要望せる事実を述ぶ。(中略)故人の遺志が少くとも河野氏の上に無きことは、大勢を支配す。遂に余の主張の如く、大山専務の昇格、北条、橋口二常務の陣容にて進むことに満場一致す。
高梨氏は、昨日河野氏を訪い、自発的辞退を勧告せるも応ぜず、若し重役会の新決議が自分を退けなば、必らず社内に動揺生ずるを覚悟せよと恫喝せり。(後略)
12月2日
○大山君報告。――河野氏と会談の結果、後藤の遺志自分に無しと全員一致の上は、潔く辞退すと、高梨氏に対するとは反対に了解せりと。然らばよし。
因みにこの高梨博司取締役の経歴も興味深いのですが、ここで述べる紙幅がないのは残念です。
12月3日、今度は河野も交えて重役懇談会が行われます。
12月3日大和田の台詞のカギカッコの締めが原文ではありませんが、文意から補足しておきました。何だかこれを読んでいると、吉田取締役は形無しで、大和田の仕切りぶりが目立ちます。大和田の日記と言うことを考慮して、多少は割り引いた方がいいかもしれません。
○京成重役懇談会続行。河野氏も出席せり。
同君は、監査役より取締役に選任方要望す。之に対し吉田取締役より、今回は社長互選に踏切らず、大山専務、北条橋口常務にて進み度しとの申し入れあり・・・
(中略)
席上先ず、大山専務より、河野氏より、無条件社長決議を辞退するの言明ありし旨報告、河野氏より、前田氏に無条件一任すと述ぶ。余、大山報告は無条件辞退とありしに、今前田氏に一任とは其意如何と反問し、答えず、更に吉田氏より、暫く現状にて進み度しとの提案あり、これに付、余、「吉田氏も出席の懇談会にて、河野社長取止め、大山昇格、二常務輔弼を決定し、一人々々確認せるに、今この提案ある理由如何」と詰問せるが、答ゆる能わず、依って、右提案は察する所、今直に大山昇格は前回取締役会にて河野社長を決定せることを変更すること故、暫定的に大山昇格を河野の面子を立てる意味にて延期する意味と解するが如何と助け舟を出し、吉田、井手全く左様の意味なりと答う。結果前田座長左の如く決定を宣す。
「京成は、当分大山専務、北条、橋口常務にて取運ぶ。大山専務を代表取締役とす、河野氏取締役への変更申入は拒絶す。当分は極めて短期間なること。」
とまれ、河野は取締役にもなれませんでした。そして、故・後藤国彦が後継者として鉄道省から招いたらしい大山専務が「極めて短期間」の「当分」ののち、社長になることが決定しました。これにて一件落着、でしょうか。
実際には、京成がネットに公開している年表にあるように、1946年1月に社長に就任したのは吉田秀彌で、大山秀雄が社長になるのは1955年のことでした。全然「当分」ではないですね。ちなみに大山の社長就任後間もなく吉田会長は亡くなっており、健康上支障が出るまで吉田はその地位にいたようです。
何故こんなことになってしまったのか、その模様は大和田の日記に直接は述べられていませんが、多少の手がかりは記されております。その辺りは次回に。
※この記事の続きは以下。
・京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成