京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成
・京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男
・京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった
の、続きです。今回こそ完結。
ここまでのあらすじを繰り返すと、田園都市会社を追われた後、京成子会社の成田鉄道に入った河野通は、1945年10月の京成社長・後藤国彦の急死後、後藤の遺志と称して後任社長の座を狙いますが、運輸省の意向とそれを受けた京成取締役・大和田悌二らの運動によって阻止され、鉄道省から京成に入った大山秀雄が「当分」専務をつとめた後社長に昇格することとなりました。ところが実際に、1946年1月に社長に就任したのは吉田秀彌で、大山の社長就任は「当分」先どころか1955年になりました。
今回は締めくくりとして、河野の社長就任却下後の動きを見てみましょう。
まずは、河野の社長就任却下と大山の社長昇格(「当分」は専務)が決まった1945年12月3日の重役懇談会翌日の大和田の日記を読んでみましょう。
12月4日傍系の成田鉄道(現・千葉交通)の社長の地位は確保していた河野、そちらに引っ込むようです。なお、「小湊鉄道の坂西社長」とは、京成から小湊鉄道に入った坂齋梅三郎のことと思われます(京成関係の人名のこのような誤りは、大和田の日記にまま見られます)。
(前略)
○河野通氏来り、大山社長では本社は兎も角、傍系社長は自分でないと納まらず(小湊鉄道の坂西社長を指す如し)、佐原に引込むから後はよろしくと捨台詞を残し去る。
かくて社長の座を伺った河野が去り、京成は落ち着いたかといえばそうではなく、この12月には労働組合が結成され、給料五倍増などの要求を掲げて激しい争議を始めます。もっともこのような労働攻勢自体は、当時どこの電鉄会社でも起こっていたことですから、京成特有の事態というわけではありません。
ところが、その労使紛争中の京成で、なおも河野は何らかの策謀を巡らしていた可能性があるようです。年末の大和田の日記を見てみましょう。
12月30日赤での強調は引用者によるものです。
京成大山君来訪。
二十八日、二十九日、津田沼にて団体交渉の処、組合の暴行を受け、眼鏡を破壊せられしが、昨夜妥結せり。
次の如し、暴力に屈せる如し。
一、団体協約締結
一、本給五倍賃上
一、経営協議会設置
一、八時間労働
一、争議費会社支給
河野に使嗾されし吉田本人の社長色気等、重役間に統一を欠く所禍根たり。断乎、引締めの要ありと警告す。阿爺(をやじ)を失い迷える羊の姿の如く、京成の現状聊か心配なり。
残念ながら、これ以降の大和田の日記は公開されておりませんので、1946年1月の吉田社長就任の経緯は分かりません。ですが、12月3日に決まったように大山社長就任、とはならずに、吉田が社長に就任した背景には、やはり河野の「使嗾」がなにがしかの影響を与えているのであろうと思われます。
さて、強力なリーダーシップと多角化路線を執っていたといわれる第2代社長・後藤国彦の急死がこのような騒動を引き起こしたとは間違いなさそうで、後藤国彦は実は「両ゴトー」の五島慶太より年下でしたから、五島慶太と同じ年まで生きれば、後藤国彦体制は1960年代後半まで続いていたことになります。
ちなみに、『京成電鉄五十五年史』は1967年に発行されましたが、社史の通例に則って巻頭には歴代の社長・会長や主要役員、現役の重役の肖像写真が載っています。今回の一連の騒動で名前が出てきた人たちの多くはこの社史の頃まで生きていて、当時会長が大山、社長が川崎、そして河野通は顧問として掲載されていました。今現物が手許にないのでうろ覚えですが、当時の京成には顧問がもう一人いて、それが高梨博司でした。河野と高梨の写真は並べて掲載されていますが、「恫喝」したとかされたという二人が並んでいるのもなにかの因縁でしょうか。ちなみに大和田は監査役として掲載されていました。
この一連の騒動が京成の経営に如何なる影響を及ぼしたかについては、今のところ小生にはそれを語るだけの知識がありません。戦後の京成は、電鉄経営の常道とされる兼業部門がオリエンタルランドという極めて特異な例外を除いてあまり振るわず、第5代社長・川崎千春の長期にわたる経営の結果、1980年代には経営危機に陥っています。その分、東急や西武のようにバブルに踊らずに済んだという見方もできますが・・・。空港新線を作ってみたら空港開業が延期したり、概して何となく間の悪いことが多かったような印象があります。
もしかすると、内紛の反動として川崎千春長期政権が生まれ、またそれが経営の間の悪さに関連しているのかもしれませんが、その辺は今後の課題ということで、皆様のご意見もいただければと思います。
本記事は、書いた当人としてはそれなりに新発見のつもりでしたが、いまいち反響がなかったので、ひとしお嬉しく思います。ご関心を持っていただけましたら、これに勝る喜びはありません。
もっともお言葉を返すようですが、本記事が成立したのは「大和田日記」という優れた一次史料に出会ったためです。史学の場合、大胆な仮説といえど、仮説が成立するにはその起点となる史料があってこそです。そして打ち出した仮説を、他の史料で裏付けていくというのは、割とオーソドックスな手法と思います。
ちなみにこの京成と河野通の件では、河野は1930年前後にも一時京成の株をそれなりに買っており、ここから別な「大胆な仮説」を打ち出すことも出来るかも知れません。まだまだ検討が要りそうです。
ただ、同じ会社の社史であっても、昭和30年代に学者が執筆したものと、平成になってから経済出版社が請け負って作ったものとでは圧倒的に前者の史料価値が高くかつ公平であるように思います。当然ですが。節度を守りつつ冒険もしてみたいと思うのです。
小生も社史の時代的傾向に通じているわけではありませんが、概して古いものになればなるほど、会社内で作って外部の研究者はお呼びでない場合が多いと思います。しかし今では散逸しているような当時の資料をそのまま載せていて、今になって有難いものとなることもあります。