くりでん(くりはら田園鉄道・栗原電鉄)の現況を見る 後篇
・くりでん(くりはら田園鉄道・栗原電鉄)の現況を見る 中篇
の、続きです。今回は、くりでんの引き込み線があった細倉鉱山の精錬所改め細倉金属鉱業の見学内容です。今回で完結。
細倉金属工業は、亜鉛などの鉱山であった細倉鉱山が、採掘中止に伴い精錬業専門に転換した企業です。かつて細倉鉱山は、栗原電鉄を支える輸送需要をもたらす存在で(もっとも栗原軌道創業時には、鉱山はあまり関係なく、太平洋戦争中に鉱山の輸送力増強のために路線延伸して細倉鉱山と結ばれたのですが)、そのための引き込み線がありました。
今回は特別に工場内に立ち入り、その廃線跡のほか、幾つかの施設を見学させていただきました。現役稼働中の工場です(見学は日曜日だったけど)。鉱山閉山後は、輸入鉱石の製錬などを行っていましたが、その後自動車のバッテリーの廃棄されたものから鉛などを回収する事業に取り組み、現在では100%廃バッテリーを原料にして操業しているそうです。
背後左手の山にかつての鉱山施設の廃墟が見える
事務所もなかなか風情のある建物です。
まず最初に見学したのはかつての鉱山の坑道。今は内部に入れませんのであくまでも入り口だけですが、入り口に立つと坑内から猛烈な冷風が吹き出して寒いほどで、鉱山の深さを伺わせます。閉山になった時、掘った坑道の総延長はおよそ600kmに達していたそうです。
上の写真の看板にあるように、地中観測のためには現在も坑道を1kmほど使用しているとの由で、岩手・宮城内陸地震の時には地震発生を十数秒程度前には掴んだそうです。その関係で、今でも坑道にレールが敷かれています(ゲージは600ミリくらい?)。
今では坑内から湧き出る水を汲み出し、含まれている金属などを除去して浄化した水を、川に放水しているそうです。
それでは本題の、廃線跡の倉庫を見に行きましょう。
(この写真はクリックすると拡大表示します)
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ここだけ見ているとまるで今でも貨車が入ってきそうな感じですが、倉庫のはしっこで線路はぶっつりと切れています。
(この写真はクリックすると拡大表示します)
この箇所以外は残念ながら鉄道関係の遺構は残っていません。配線がかつてどうなっていたかもあまり明確ではありませんが、上の写真の右手に伸びている築堤は引き上げ線で、上の写真で言えば築堤の背後に細倉からの引き込み線が伸びていたもののようです。
この上の写真の、真ん中に立っている電柱の向かって左手が、細倉駅から来た貨物線のルートらしいのですが・・・正確なところはその場ではよく分かりませんでした。地形も多少変わっているようです。
で、検索したところ、この貨物線現役当時の貴重な写真を掲載しているブログを発見しましたので、以下に紹介させていただきます。
・線路巡礼♪さん「線路巡礼:細倉鉱山駅」
こちらのブログの3枚目の写真が、当ブログの「引き上げ線の築堤と、細倉駅に至る線路跡?」の写真に近いアングルではないかと思います。「引き込み線跡の終端部」の写真の背後の建物と、線路巡礼♪さんの3枚目の写真の左手の建物(2枚目の写真の右手の建物)が、同じもののようにも見えるのですが、いかがでしょうか。
さて、廃線跡以外にも、この工場には戦時中に受けた空襲のために鉄骨の梁が曲がった建物などもあるそうですが、日曜のこととて建物内部は見学できませんでした。その代わり、というわけでもないのかも知れませんが、工場を見下ろす背後の丘に登りました。その前に一枚。
(この写真はクリックすると拡大表示します)
配電用の電柱ではなく、工場の中の送電線で木造なのも味わいがあります。以前聞いた話では、木造の電柱の耐用年数は17年と決められており、そのため電力会社の管理下の木造電柱はほぼ全滅しているそうですが(幾つかの電力会社では完全消滅しているようです)、工場内の電線なら物理的に機能していれば構わないのかも知れません。古い工場なら結構あるのかも。
閑話休題、バスで裏山の急坂を登ります。途中から未舗装になった山道を走って、精錬所を見下ろす山腹に到着。周囲は木が生えていて一見何ということのない山ですが、かつては鉱毒によって一面はげ山だったところを植林したそうです。ここの植林ではさまざまな高さになる植物を混ぜて植え、どれかは育って山を覆うようにしているそうです。
(この写真はクリックすると拡大表示します)
爽やかな気候の中、工場を見下ろします。引き込み線の場所は写真中の矢印であってると思いますが、もし間違ってたら済みません。
ちなみに、工場の方から撮影した場所を見上げるとこうなります。
(この写真はクリックすると拡大表示します)
緑の山腹の上に白っぽい柵のようなものが見えますが、ここが道路のようになっていて、そこから撮影しています。このあたりには鉱山の稼働時には坑道の出口(先程紹介したもの)と選鉱場などがあり、廃墟が残っています。選鉱場の廃墟は、上の写真の赤矢印の左側に見えていますし、この記事先頭の写真の、事務所の左上にも見えています。
これらの写真を撮影した道路のような箇所は、山が崩れないように監視するために設けられているそうです。鉱毒で荒れた山に順次植林し、また鉱滓を捨てたところは土を運んできて上を覆い、ここまで緑が回復したそうです。また、この工場を見下ろす風景は、『東京タワー』『フラガール』などの映画の撮影にも使われた由。因みにここまで上ってくる道路は、あくまで山の整備用なので未舗装で急勾配・急カーブ、観光バスで走るのはなかなかスリルがありましたが、翻って考えれば、鉱山盛業当時の山越えのバス道路なんてみんなこんなもんじゃなかったろうかと・・・バスはハイデッカーではなかったでしょうが。この山道の途中には煉瓦アーチの橋梁などもあり、細かく見ればまだまだ見所がありそうです。
鉱山の見学を終えてから、時間がなかったので駆け足でしたが、鉱山資料館の前に置かれているガソリン機関車やトロッコ、かつての鉱山住宅、細倉マインパークの駅などを見ましたが、小生はデジカメのメモリーがいっぱいだったのでろくすっぽ写真はありません。機関車についてはRM誌の名取編集長のブログに詳細な記事があるのでそちらをご参照下さい。鉱山住宅は旧佐野住宅といい、細倉鉱山の社宅だった古い家屋がいくつも残っています。で、ここは『東京タワー』の映画のロケに使われたので、それを含めて観光スポットなっていましたが、映画のためにレストアしたところと原型のところとの違いが分からないのは些か残念です。
見学ツアーはこれで終了し、くりこま高原駅に戻って解散となりましたが、佐野住宅の写真は如上の理由でありませんので、その代わりに、というわけでもないですが、栗原市の市役所がある旧築館町の情景をおまけにご紹介。
家の造り(特に窓周り)もさることながら、石塀に開けられたアーチの出入り口が可愛いですね。
ちなみに何で築館町の写真があるのかといえば、遠方からこのシンポジウムに参加した人のほとんどは会場のくりこま高原駅前にあるエポカ21に投宿したのでしょうが、自分の停まることこの手配をすっかり忘れていた小生は、一番近そうな宿泊施設ということで、旧築館町の駅前旅館的商人宿(駅は今はないけど)に泊まったためです。安くて良かった。しかし、くりこま高原駅と旧築館町を結ぶバスは本数が少なく、ことに土日は一日3往復しかなく、土曜日はやむなく小生は5キロ歩きました。翌日は朝のバスに乗って旧築館町からくりこま高原駅に向かいましたが、乗客は小生一人でした。降車時に「平日は乗客がいますか」と尋ねたところ、「小学生などが乗っている」との由でした。公共交通はかなり危殆に瀕しているようです。
おおむね以上です。
くりでん保存に地元がこれほど関心を持っているとは素晴らしいことで、岸さんの関わった事業の一つが末永く継続されればと思います。またこれが観光資源としても成功し、震災復興の一助となるのみならず、他の先例ともなればなお一層意義多いことと思います。
・・・と書けばそれまでですが、小生はここで意地悪くも思い出したのは、旧築館町は十数年ばかり前、「原人のまち」で町おこしをしようとしていたことでした。旧石器捏造事件の上高森遺跡は、築館町にあったのです。近年こそ産業遺産が脚光を浴びるようになりましたが、広く話題になっている度合いとしては原人ブームほどとも思われないもので、これは歴史に対する人の姿勢についてなにがしかの問題を示唆しているようにも思います。
とまれ、機会があればまたこの地を訪れてみたいと思います。このような事業でもっとも懸念されることは、当初の熱意が段々と尻すぼみになっていってしまうことです。それを防ぐには、地元でもそうでなくても、少しでも多くの人が関心を持ち続けることが前提となるでしょうから。
そういえば村おこしブームのころ、「葛生原人まつり」というのもあったな。アクセス列車が浅草から東武5700形で走ったものです。原人にふさわしい車輌だということでしょう。それも例の事件の検証で「室町時代の人骨らしい」ということでチョン。
秩父原人というのは当時聞きましたが、葛生もやってたとは・・・鉱山でも街並みでも、身近にあるものの価値には反って気づかないものなのかも知れません。成功した「村おこし」「町おこし」は、外部の人が加わって外からの目を入れることで成功したことが多いとも聞きますし。