新年度に当たり塾講師を廃業す
そんな有様ですが、引き籠もって半年以上を棒に振った過去の先例に鑑みて、家に閉じこもることのないよう無理にでも出掛けつつ、論文を書き進める所存で、今のところは大学図書館に日参して何とかやっております。先月もくたばっていた日々が多かったのですが、ここしばらくはまあそれなりに。半日ぐらいひっくり返っていることはままありますが。
で、今年度は博士論文完成を目標として、それに専念すべく、先週末を以てアルバイトの塾講師業を退職しました。もっと早く辞めるつもりだったのですが、後任の国語の講師の都合がつかないとかで、春期講習期間まで講座を担当する羽目になり、やや中途半端な時期の廃業となりました。そもそもは昨年度自体、勤務先の予備校が縮小均衡状態だったので自然仕事がなくなりそうだと思っていたところ、意外と持ち直し、おまけに秋以降は思いがけず受験生向け講座までやる羽目になりました。引退の花道といったところで。
思えば結構長く勤めたもので、思い返せば多少の述懐なきにしもあらずですが、あまりいろいろ書いている余裕もありません。ただ、小生は当初勤めていた校舎が閉鎖になって別の校舎に転属したのですが、最初にいた所ほどのちにいた所では上手く出来なかったような、そんな感があります。それは生徒への対応というより、教室のスタッフとの関係において特に感じたことですが。別段そのことを悔やんでいるということもありませんが、何となくそのあたりの関係がよそよそしかったことが、多少自分の業務の能率にも良からぬ影響を受けたのかも知れません(結局はその関係を改善しようという努力を全く払うつもりがなかった小生の方に責任がありますが)。
のちにいた教室は、小生転属当時の室長が途中で何の説明もなくいなくなり(他の講師には説明があったのかも知れませんが、小生は全く聞いた覚えがない)、その後しばらく室長不在で、誰が中心なのかよく分からない時代がありました。何だかその頃は、誰が偉いのかよく分からず、何となくやりにくかったおぼろげな記憶があります。しばらくしてやっと室長が登場し、それで事態は改善され、やはり何事も指揮官はいるものですな。
塾講師を廃業するといえば、漫画家にして表現規制反対運動の一翼を担っておられるカマヤン先生も、奇しくも小生と同じ先週限りで塾講師業を廃業されたそうです。
で、カマヤン先生が廃業直前に、「塾講師業、残り4日。『子供は純粋でいてほしい』」と題して、同僚のカマヤン先生から見て困った講師の話を書かれています。なかなか感じさせるところのある記事ですので、ご関心のある方はご一読下さい。「子供は純粋でいてほしい」という発想自体の持つ危険性、むしろそれが児童虐待に繋がりかねない、「地獄への道は善意で敷き詰められている」状況を招きかねないということについては、いつか一筆物したいところですが、今はその余裕がありません。
それは措いて、小生がカマヤン先生の如上の記事を紹介したいのは、小学生向けの塾と高校生向け受験予備校という極めて大きな相違があるにしても、子供に対し「純粋でいてほしい」という危険性をはらんだ発言をしてしまう問題講師(眼前の子供を直視できず、自分の「純粋」という勝手な像を押しつける)についてカマヤン先生が評した「子供の気持ちを想像する能力・共感能力が乏しい」という所に結構ドキリとしたものだからです。その講師の「一人っ子で、地方の名門女子校を卒業し、東京の大学に入学した」という経歴も似てるような(小生は東京の名門中高一貫男子校ですが)。
そこで思い返せば、小生は基本的に「受験予備校とは受験のための知識やテクニックを教えることが第一の業務である」と割り切って、その注入にもっぱら意を注ぎました。面白く、多様な角度から注入することについては一定の成果を挙げたつもりですが、共感どうこうということはあまり意に介さなかった、というか、小生自身もともと「共感」ということがどうにも苦手で、他人に「共感」を期待しないという習性を身につけていた以上、そのようなこと自体出来るわけがなかったのです。
で、その結果、生徒が予備校に「様々な知識を面白く教えてほしい」というような期待を抱いている場合、小生は比較的受けが良かったと思います。しかし、よりメンタルなところにコミットしたサポートを求めていた場合は、その期待に応えられなかったことでしょう。
以下のようなまとめはあまりに乱暴ですが、如上のことからして小生の指導は、概して男子生徒に受けが良く、女子にはいまいちだっただろうなあ、と思う次第です。なついた生徒も男ばっかりだった気がするし(笑)。世の中には、女子生徒のメンタルなところに求めているサポートを巧みに提供し、或いは提供されているのだと女子生徒に思わせることによって、放課後も深い関係になった塾講師もままいるということを小生は身近に聞き及んでいますが、そんなことは当然のことながら小生には一度だってありはしませんでした。別にそれが残念だとも思いませんが。人には向き不向きがあるので。
まあそれでも、高校生ぐらいになれば知識重点型でもある程度やっていけると思いますが、これが小学生だったりすると話は全く異なってくるでしょう。中学生ですとその中間で、やはり高校生以上の配慮は求められただろうと思います。で、小生がバイトしていた予備校は近年業務を拡張して、中学生も広く受け入れを図っているのですが、そうなると小生にとってはなかなか難しいこともありました。
うっかりやらかしてしまった最後の例として思い出されるのは、フィリピン人とハーフの女子中学生がいて(見た目も名前も言語も日本人としか見えませんでしたが)、なるほど日本の国際化もこんな形でも進んでいるのだなあという感銘をいささか受けたもので、その生徒が授業とは別に何かの時、自分はハーフだと思っていたが実はフィリピン側の親(確か母)の先祖は更にややこしく、もっといろいろ混じっているらしい、ということを言い出しました。ちなみにその時、彼女の同級生の女子中学生が真顔で「ハーフとニューハーフってどう違うの?」と言い出したので、その場の一同崩れ落ちました。
それはともかく、そこから話がどう及んだのか、国籍の話になりまして、「よく分かんないけど将来国籍を選ばないといけないらしい」と彼女が言ったので、そこで小生は感銘の続きでついうっかり、延々と国籍における血統主義と出生地主義の違いを説明してしまいました(笑)。オランダのマーガレット王女の逸話まで織り込んで。
考えてみれば彼女がそのような話題で求めているであろう反応からすれば、右ななめ上なことをしてしまったわけで、彼女はニコニコ小生の話を聞いて「なんかややこしくてよく分かんないけど、熱心にしゃべってる先生の様子が面白い」とのたまいました。優しい子で良かったですね(苦笑)。ニューハーフの解説はしなかっただけ抑えたつもりだったのですが。
カマヤン先生の挙げた問題講師氏と比べると、小生はその問題講師氏と全く逆方向に間違っていることになります。問題講師氏は「子供=純粋無垢」というルソー的近代の構図にずっぽり嵌りこんでいるのに対し、小生は「子供=小さな大人」という近世(以前)的な対応をしてしまっているのであります(苦笑)。「小さな大人」というのは、前近代に於いては大人と対立する「子供」という概念は存在しなかったというフィリップ・アリエスの『<子供>の誕生』の所論で、今はいろいろ批判もあるようですが、みすず書房の邦訳は値段が高いのでまだ買ってませんね。昔から買おうと思ってはいるのですが。
そんなわけで別段嫌われてもいなかったと思うけど、生徒受け(特に女子)からの受けが良かったわけではない、というのが正直な反省です。カマヤン先生のようにはなれません。
それはともかく、仕事も辞めて今年度は「働いたら負けだと思っている」くらいの勢いで論文に専念したく、テーマも方向もだいたい見えているのですが、例によって例の如く、段取りの悪さで片付いていない仕事がわんさと残っているのが現状です。大体このブログからして、新年度になってからも昨年度の情報のアップを先日までやっていたくらいです。ここしばらく、自分の研究をろくすっぽした覚えがありません。
で、研究と別に引き受けた仕事が何かの具合で躓いて、それで心身共にドツボに嵌ってしまって、そのまま半年あまり引き籠もり状態になったこともあり、その先例に続かぬよう、残った仕事を急ぎ片付けようとして、寒さに縮こまって動けなくなったりしている今日この頃なのであります。そんなわけでブログの更新頻度も低下するやもと思われます(と、書いた途端に三日続けて更新したりするかも知れません)。もっとも本当どうしようもなくなっていると、ネットに繋ぐことすらなくなりますので、それはそれで碌でもない状況ではあります。
いろんなことがありましたが、ともかくもお疲れ様でした。論文がんばって下さい。
特に教職志望者に・・・。
それは別として、小生の経験上、子供はきわめて打算的です。
人間とは、高度な訓練、経験の末に他者に対する友愛を持てると考えています。
コメントありがとうございます。
別の教室に異動して、らくた室長の偉大さを身に沁みて感じました。「教える」ことについて室長の下で学んだことは、きっと今後の糧になると思っております。
教室の場を離れて、また一献傾ける機会でもあれば幸いです。
>無名さま
教育業界こそ、エミールに感化されたような人が多そうですね。それ自体は否定すべきでないのかも知れませんが。
友愛は訓練(教育)と経験の末に得られるというご指摘は重要と思います。現実と理想の落差をきちんと認識してこそ、教育は成果を挙げるのでしょうね。