秋葉原通り魔事件から2年にふと思う わたしの「ミケロバ」
で、ようやく少しましになったので、日を三日ほど過ぎてしまいましたが、表題の件について何か書こうと思います。いよいよ秋葉原では歩行者天国も復活が決定したそうですし。このことに関連して、当ブログを「秋葉原協定」で検索して訪れて下さった方も少なくないようで、周知のお役に立てたとすれば、結構なことと思います。
とはいえ、これまでにもいろいろ書いてきたので、改まって何事か書くのも案外容易ではないということに、今過去の記事を読み直して気がつきました。特に、昨年事件から一周年に際し物した二つの記事(「秋葉原通り魔事件から1年」と「岩手・宮城内陸地震から一年 そして人を悼むことについて若干」)については、今もなおそこに書かれたとおりのことを思っています。
改めて一部引用しますと。
とりとめないついでに、全く個人的にこの事件を振り返ることをお許しいただけるなら、小生自身はこの事件で何か人生に於いて重大な影響があったのか、思い出して恐怖に駆られたりするような心的外傷の類があるのか(ごく稀にメールなどで当ブログの本事件記事に関しコンタクトを取って下さる方々は、おしなべてそういった懸念を示されます。社交辞令なのかも知れませんが)、というと、全然ないんですね。(中略)やっぱり今もそんな感じです。かといって、記憶が単に風化した、というわけでもないつもりです。それは、まず事件の記憶を自分で文字化することで再認識し、その後も関連する出来事に一定の注意を払ってきたから、なのかも知れませんが。
ただ、本当に全然何も感じないと(以前、秋葉原事件に関する宮台・東その他諸氏のイベントに行った際、「事件に出会おうと出会わなかろうと、自分は同じようにこの議論を聞いただろう」と思って苦笑したことがありましたが)、かえってそれ自体が「ひとでなし」みたいで、何となく居心地の悪いような、そんな気分もします。或いは、関係者というには辺境で、部外者的立場を取るには直接的経験に富みすぎている、そんな自分の宙ぶらりんさを反映した居心地の悪さなのかも知れません。
で、加藤被告の裁判が始まっていることは周知のことで、小生も傍聴を志しつつも諸事情によりいまだその機会に恵まれてはいません。裁判については一般的な報道には多少眼を通しましたが、その中で一つ気になったのがありまして、裁判で事件の目撃者が加藤被告に対し「極刑を望む」旨発言していたことです。
これには小生いささかの違和感を感じまして、その違和感を上手く言語化できる自信がないのですが、つまりそれは"目撃者"の発言として妥当なものかどうなのか、そのようなことをわざわざ述べる意味は何なのか、そこに違和感を感じたということです。もしかすると、それは"目撃者"たる者のある種当然なすべきことと"世論"に期待されたことであり、よき"目撃者"たる者は当然その期待に応えた、ということなのかもしれません。
であるならば、決してよき"目撃者"たりえない小生は、そのような立場で公的な発言をすることをしなかったことは、まったく"正当"な判断だったのだと、今にして思います。
なぜ小生が、よき"目撃者"たりえないと自己規定するかというと、それは上に挙げた一年前の記事の箇所に、一つだけ付け加えるべきことがあるからです。
秋葉原通り魔事件のような事件に遭遇された方の中には、いわゆるトラウマを負って、人ごみに出かけることが怖くてたまらなくなる、という症状に悩まれている方がいると仄聞します。そのような方への何らかの対応や治療が奏功することを祈念してやみませんが、しかし上掲引用文に述べたように、小生はさようなことはまったくありません。その代わり、別な「症状」が起こっているかもしれません。
それは、小生は人ごみを目にすると、「ここにトラックで突っ込んだら秋葉原事件を越える死傷者を出せるだろうなあ」とついつい考えてしまうのです。
表題の「ミケロバ」とは、「挫折禁止」で有名な「げんれい工房」の、一コーナー「言霊参上」の中にある、「新日本語表現」の一つです。以下引用させていただきますと、
「ミケロバ」というわけで、それなりかどうかは疑問なしとしませんが、「ネコロバ」でなく「ミケロバ」にするところに並々ならぬセンスを感じ、ここで使わせていただいた次第です。
「トラウマ」とまでは行かないまでも、それなりのダメージを受けた心のかすり傷。漢字で書くと「三毛驢馬」。
しかし、かかる不埒なことを考えずにはいられない徒輩がいるにもかかわらず、そして秋葉原の事件後景気は一段と悪化したにもかかわらず、この事件を拡大コピーしたような事件は、幸いにして起こりませんでした。それは、この事件がやはりあまりにも特異すぎたのか、事件の与えた影響がかえって模倣犯を生まなかったのか、この事件に関する諸言説が模倣犯を防いだのか、ただ単に景気が底を打ったのか、そのあたりは今後検討されるべき課題だろうと思います。
実は先日、大澤真幸編『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』を部屋の片づけ中に発掘し、未読のまま一年半以上放っておいたことに気づいて、急遽読了しました。事件に関する諸言説の一つとして、近日中に本書の感想をものし、あわせて思い出したことなど書ければと思いますが、この調子ではいつになるかは分かりません。
いつも大変興味深く拝読しております、ありがとうございます。
「よき"目撃者"たりえない」との表現に引き寄せられコメント欄への記入をしてみました(けしてご紹介の「げんれい工房」で笑いころげて勢いづいたわけではありません)。
(都合)よき"目撃者"たりえない立場から、模倣犯の件を課題とされていらっしゃいますが、
本件の特異性・影響力・論評・景気の回復傾向それぞれ複合的な要因に足り得ると肯定しつつ、直感で付け加えるなら、秋葉原というのもキーワードかもしれないと思いました。
私は秋葉原を訪れることはあまりないのですが、あの街のイメージのひとつとして想像力の豊かさを感じています。もすこし敷衍すれば懐の深さ、愛にもつながるかもしれません。
そういう秋葉原の街が、模倣しようとする人の負の部分を浄化してしまって犯罪の実行には至らないのかも知れないと感じるのです。
思いつきで恐縮なのですが、このブログやげんれいの面白さはそういう場所の力を直感させました。
だからモテな・・・はともかく、大総統閣下におかれましては、ご自分の問題としてお考えいただきたく。
当ブログを読みいただき、こちらこそありがとうございます。「げんれい工房」さんと並べられるとは恐れ多い限りですが、当ブログがなにがしかご関心にかないましたら嬉しく思います。
ご指摘の通り、秋葉原には様々な想像力を喚起する、懐の深さがあると思います。それは比較的よく足を運ぶ小生にも感じられることです。
ただそうすると、加藤被告がなんであそこで犯行を行ったかということで・・・これも当ブログの秋葉原関係の記事でいつも書いていることですが、秋葉原は様々な性格を持っているにもかかわらず、それら要素間の繋がりが呆れる程薄いところがあります。
比喩的な表現ですが、加藤被告はその繋がりの欠けた隙間に落ち込んでしまったのかもしれません。彼が自分を社会に留める「繋がり」を持てなかったことが事件の要因とは、多くの識者が指摘するところで、小生もまた同感です。小生が妄想を実行しないのもそういうことですし。
コメントありがとうございました。今後ともご愛顧の程お願いします