渡道顛末記拾遺の補遺(川部駅と黒石駅の古レール)及び近況など
ところで、前回の記事「渡道顛末記拾遺 川部駅の跨線橋は19世紀生まれの古レール」は存外反響があったようで、ここ一週間ブログを放置しているにもかかわらず来訪者がさほど減っていないのはそれも一因のようです。アクセス解析を見直したところ、速水螺旋人先生のツイッターに捕捉されていたようで、ありがたい限りです。古レールは対戦車障害物にも使えそうですし。
で、速水螺旋人先生といえば今月発売の『月刊COMICリュウ』で漫画「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」の連載が始まるそうで(「螺子の囁き」は発展的解消)、あまつさえ表紙に速水先生がT34/76を描いているという始末で、元々どっか「特異」な戦記漫画を複数掲載している雑誌でしたが、まさに魔女の大釜状態です。しかし気力が萎えていると漫画すら読む気力が起こらず、表紙だけ見て未だ読んでいないのは情けない限り。ちなみに、速水先生が表紙について「鎌とハンマーはロゴで隠れちゃってるぞ」と仰ってますが、アマゾンの画像でも分かるように、ロゴが半透明になっていて、一応鎌トンカチが分かるように配慮はされています。もっとも過去の号を調べると、表紙イラストがロゴと干渉する場合、ロゴを枠だけにした例(今年7月号など)もあり、また半透明にした場合はもっと透過率が高い(昨年3月号など)事例が多いようで、この中途半端な鎌トンカチの隠蔽ぶりに『リュウ』編集部の反動的日和見主義が露呈しているなどと、批判キャンペーンをする気力はもとよりあろう筈もありません。
冗談の分からない人がいると困るので念のために書いておきますが、以上の文章は速水螺旋人新連載万歳記事を書こうとしたものの、心身の不調により挫折しただけで、もとより赤旗でも振って喜ぶべき事態であります。
閑話休題、「川部駅の跨線橋」記事について、あとで写真を見返していて補足すべきことがあることに気がつきましたので、以下に補遺を書いておきます。
(この写真はクリックすると拡大表示します)
で、前の記事にも載せたこの跨線橋の写真ですが、後で見ていて違和感を覚えたのが、右側の赤で囲ったあたり、跨線橋の駅舎に続く階段(駅舎はこの写真右側にあります)と、線路をまたぐ橋の部分との、妙なずれです。そういえば斜めに階段と橋を支えている部材も古レールの中で浮いているような。
このようなトラスを組んだ跨線橋については、たとえばこちらの「轍のあった道」さんの記事「跨線橋におけるトラス構造」には7つの事例の写真が掲載されていますが(前の記事を書く時に見つけました)、こんなズレはどれもありません。
そこでホームへ降りる階段と橋梁との接合箇所(左手の赤で囲ったあたり)を見ますと、こっちはこっちで妙に高いコンクリートの基礎がホーム上に立っています。
つまりこれは、電化に際して跨線橋を嵩上げしたのだろうと考えられます。奥羽本線は交流20000ボルト電化ですので、安全のために架線と地上の距離を取る必要があり、蒸気機関車に合わせた規格の跨線橋は嵩上げの必要があったのでしょう。その際、駅舎に繋がる階段はそのまま、線路をまたぐ橋部分を、ホームに降りる階段もろとも持ち上げ、基礎にコンクリートを継ぎ足し、駅舎に通じる階段とのズレは適当に繕った、ということでしょうね。
川部駅を含む区間の電化は1971年8月だそうなので、嵩上げ工事はその直前に行われたことになります。小生は前記事で、この跨線橋の建設年代は大正時代ではないか、と推測しましたが、それが正しければ電化当時でも既に半世紀以上経った代物だったということになります。壊して建て替えても良さそうなものですが・・・予算が乏しかったのでしょうか。
なお、この跨線橋は階段部分が新しくなっており、電化と同時に改築されたとすれば自然ですが、嵩上げ工事の際に改築する必要のない駅舎に通じる階段も同じ仕様であることからすると、或いは時期が別かもしれません。
てのが補遺ですが、それだけでは寂しいので、周辺の情景を何点か。
これの刻印は気がつかずに調べていませんでした。篤志の方あらば。
川部駅には、弘南鉄道の黒石駅へ行くバス(かつてはこの区間を鉄道が結んでいた)への乗り換えで下車したのですが、跨線橋以外に時間つぶしにあたりを見て回れば、駅の真ん前に風情のある駅前旅館があり、営業しているなら一度泊まってみたいものだと思われもしましたが、駅前すぐだというのに空き地があって「46坪230万円」なんて立て札があったり、街の案内看板がボロボロに錆びていて、消え残った記述を辿ると国鉄黒石線を「弘南黒石線」に書き改めていたものの廃止は反映されていなかったり、衰微の風は否めません。それでも、バスが出る頃になると乗客らしき人が三々五々・・・ん、高校生ばっかりですね。そういえばバスも「黒石商業高校行き」らしいし(全国版の時刻表では川部~黒石駅となっていますが、朝の1便だけは黒石商業高校行きのようです)。鉄道で来た人もいましたが、多くは保護者が自動車で駅まで送っていました。それほど山坂もないようなので、自転車で通っても良い距離のような気もしますが、冬期の積雪も考えると、自転車通学は歓迎されないのでしょうか。
で、来たバスがマイクロバスだったもので、計ったように定員と乗客がほぼ同じ。かくして高校のスクールバスに不審者が闖入した格好となり、居心地の悪いこと夥しい限りでした。同じルートで乗りつぶしを志す同好の士の方にご注意申し上げます。
ちなみに乗っていた生徒の8割方は黒石商業高校の生徒のようで(制服にそう書いてあった)、私服の数名は途中の黒石高校前で下車したので、そちらの生徒なのでしょう。どちらも男女比が著しく女子に偏っていたので、居心地の悪さが更に増し。あれは、用事で日本女子大に行く際、うっかり目白駅から女子大直通の都バスに乗ってしまった時以来の居心地の悪い経験でした。そして生徒諸姉は闖入者を好奇の目で見もしなかった代わりに、生徒同士の雑談一つもない静かな車内で、それもまた微妙に居心地を悪くしました。それにしても、日曜日なのに何であんなに乗ってたんだろう。
そしてたどり着いた弘南鉄道黒石駅では、線路とロータリーを隔てる柵が古レール製でした。
(この写真はクリックすると拡大表示します)
これは昭和初期製のレールですね。Sの字を丸で囲んだような八幡製鉄所マーク入りの鉄材は、レールに限らず古い鉄骨構造物にもよく見受けられます。「60」という数字はレールの規格を表します。最初「60」という数字を見て、1メートルあたりの重量が60キロの「60キロレール」とかと一瞬思いましたが、新幹線など高規格の線路用のそんなものが戦前の日本にあったとは思われず(確か50キロレールが最高だったはず)、やはりこれはメートル法以前のフィートポンド法の規格で、1ヤードあたり60ポンド(≒1メートルあたり30キロ、現在はローカル線や側線用だが昔は主流)のことでしょう。前記事でも参考にさせていただいた「古レールのページ」に、同様の年代の60ポンドレールの事例が挙げられています。
というわけで、普段ならこれでも「戦前のレールだ~」と喜んだところですが、ついさっき19世紀の舶来モノを見たばかりなので、「なあんだ八幡か」と一枚しか写真を撮りませんでした(苦笑)。
ちなみに当ブログの過去の記事に、新日鉄製の60キロレールの刻印の写真があります。刻印や書式が結構変わっていますね。マークは似ていますが、厳密にはちょっと異なるそうです。
以上、古レールにまつわる補遺と余談でした。
気力が萎えていると、どうも書く記事が揚げ足取りっぽくなっちゃいますね。しかしこればかりは如何とも。
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