『西尾幹二のブログ論壇』をご恵贈いただく~ぜんざいの塩
それは少し前の記事でちょっと触れましたが、当ブログの過去の西尾幹二氏に関する記事の一部が、西尾氏がブログなどをまとめた本『西尾幹二のブログ論壇』(総和社)に掲載され、そのため発売日直前に同書を一部ご恵贈いただいた、というものです。
まずは何より、ご恵贈いただいたことに感謝申し上げます。小生は、以下に再度述べますように、西尾氏とその取り巻き連のご意見には全く賛同できませんし、そのことをブログでも明記しておきましたが、そのような意見についてもブログを本にする際に収録し、そのネット上の文章の執筆者にもご恵贈下さるというご丁寧な姿勢は、まことにご立派なことです。
ただし、本書巻末の「執筆者一覧」の「編集部からお知らせ」には、連絡の付かなかったブログ筆者に宛てて「献本と薄謝を差し上げたい」からご連絡乞う、とあり、当初小生が編集部からいただいたメールにも同様の旨記述がありましたが、編集部から送っていただいた封筒には本と手紙しか入っておりませんでしたが・・・まあ、かえって気まずいので、これでいいのでしょう。
※追記:その後、「薄謝」は送っていただきました。
なお、本書にご収録いただいた拙ブログの記事は、以下の一連の記事の一部です。
・『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」
・秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 続き」
・『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」評 蛇足的まとめ
・『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談評への西尾氏のコメントについて
また、以下の記事も関連する内容を含んでおりますので、ご参照いただけましたら幸いです。
・アパグループ『謀略に!翻弄された近現代 誇れる国、日本。』瞥見
・「建国記念の日」に思う 「条件付き愛情」的な「愛国心」
さて、小生の、西尾氏の歴史に対する見方については、上掲記事に既述してあり、大きく付け加えることはありません。西尾氏の本書も、基本的には西尾氏のブログの文章を、トピックごとに引用部も含め再録したものですので、これも付け加えることはあまりありません。
ですのでこれでご紹介を終わってしまっても構わないですし、率直に言えば小生の考えとは氷炭相容れぬ書物について喋々するのは読む方も書く方も楽しいとも思えませんが、しかし多少胸に閊えているものもあり、一筆しておきます。
といっても、胸のもやもやを愚痴っているだけのことなので、以下はお暇で物好きな方のみどうぞ。
先に小生の結論を書いておきますと、本書は「ブログ論壇」と銘打っているものの、西尾氏の意見について声援を送っている人が殆どで、小生が山本七平を引用して批判したように、西尾氏はファンの賛辞を集めてご自分の「正しさ」の証拠とされる一方、ファンの方々は西尾氏が自分の意見を代弁してくれている、ファンの自分(と同じような意見のファン)の声を採り上げてくれることで自分の「正しさ」を確信するという、「仲間ぼめ」の一環でしかないのではないか、ということです。
であれば、そんな本書における、西尾氏を真っ向から批判している小生の記事の存在意義とは、賛辞と声援ばっかりでは飽きてしまうので、ちょっと目先を変えて、それを批難することで更なる賛辞や声援を楽しむための、まさにぜんざいやお汁粉に入れる塩のごとき存在なのだろうなあ、と思わずにはいられませんでした。
私事に渡りますが、本書『西尾幹二のブログ論壇』の発売は今月18日で、小生はその2、3日前に受け取ったと思います。同封の編集部の手紙には「ご一読いただき、ブログ等で宣伝をぜひともよろしくお願いします。12月18日が発売日となりますので、慌ただしくて申し訳ありませんがなるべくその前日にUPしていただけると助かります」等とありましたが、ちょうどその頃不調の波の深い底に沈殿していた小生は、包みをほどく気力さえありませんでした。
一週間ぐらい経って何とか波がマシになった小生、ご恵贈いただいたからにはせめて自分が関わっている箇所くらい読んで紹介記事を書かねばなるない、と思って少し目を通したものの、いろいろ思うところが多くてどうも気力が湧きませんでした。
かくして小生、申し訳ありませんが一旦本書を投げ出して、楽しみにしていた今月発売のマンガを読み出しました。
それは、百合アンソロジー『つぼみ』(感想は vol.6 / vol.7 / vol.8)に掲載された、きぎたつみさんの作品をまとめた『共鳴するエコー』です。もっとも収録作品の大半は『つぼみ』で読んでいましたが、一つだけ「ランナーズハイ」という作品は未読でしたので、楽しみにしていました。
ところがそこに思わぬ罠が。
・・・登場人物の名前が「西尾」だったので、西尾先生のお顔がちらついて入り込めません(苦笑)。
てなわけで、気を取り直して西尾氏の本に取り組みます。
まず、ブログ掲載当時の文章が本に載る際、どう加筆修正などがあったか、小生は調べようと思いました。そうすれば、西尾氏の狙いがはっきりしてこようと思ったのです。
ところが。
なんと、「西尾幹二のインターネット日録」の、小生のブログを取り上げた「『諸君!』4月号論戦余波(三)」が、削除されていたのです。
というか、「論戦余波」の(一)も(二)もありません。他のブログ記事まで調べてませんが、『ブログ論壇』に収録したということで削除してしまったのでしょうか。
とりあえず、Google のキャッシュを拾っておきました。これを魚拓に取ることは出来ないようですし、Internet Archive にも収録されていないようです。
とりあえず、元記事の引用部分はリンクで代用し、西尾氏ご自身の手になる箇所だけ以下に再録しておきます。
『諸君!』4月号論戦余波(三)(2009年3月21日)と、何だか西尾氏のために史料編纂をしてしまった気分ですが(苦笑)、本書は「ブログ論壇」を謳い、西尾氏の著述物に反応した人々のブログもふんだんに引用しています。で、上掲「論戦余波」のように、ネット上の反応に西尾氏も応えた、それでこその「ブログ論壇」の筈なのに、その一翼の西尾氏のブログを削除してしまっては、台無しです。
今日は対論をめぐる三つの観点をとりあげてみたい。私の所論への批判の最も典型的と思われるものが次に挙げる第一番目の例である。これはほんとうに典型的である。
※ここで当ブログ「『諸君!』秦郁彦・西尾幹二「『田母神俊雄=真贋論争』を決着する」のごく一部(「小生はこれらの切り口とは少し異なった点から~そちらが肝心なところだと」の3パラグラフ)が引用される
私に対して「歴史を論ずるということ自体を分っていない」といい、「歴史でないなにかを論じようとしている」という言い方からしてすでに秦氏流の歴史がすべてだと思い込んでいる人の典型的きめつけといえる。この人は彼の考える「歴史」というものを信仰している。
しかし『諸君!』3月号拙論のほうで私が「パラダイム」の変換ということを言ったのを覚えておられる人もいよう。歴史は動く、とも言ったし、歴史は時間とともに違ってみえる光景だとも私は言った。秦氏自身がこのことをまったく理解していなかった。
二番目にあげる例文が一番目の人の迷妄を完膚なきまでに料理している。一番目の人の「歴史」はたくさんの歴史の中の一つの歴史にすぎない。パラダイムが安定している枠内ではじめて可能になる歴史である。
※ここでブログ「セレブな奥様は今日もつらつら考える」2009年3月11日付記事「ネットサーフィン」のコメント欄の、N.W(うさねこ)氏のコメントを大部分引用
二番目の方は渡辺望さんといい、私の若い知友の一人である。知友だからといって格別に私に贔屓して言っているのではない。私と秦さんの両方を公平に見ている。
渡辺さんはよく勉強し、しかも洞察力のある人である。私が先に言った「歴史は光景だ」は実際メルロ・ポンティから採っていたのである。
秦さんと彼に基く一番目の人の歴史は19世紀型の歴史である。外枠(パラダイム)が安定していた時代の歴史主義の歴史で、実証らしいことができるのはそういうときの歴史に限られる。
しかも秦さんの歴史意識は日本の軍部は悪者だとつねに決め付けている敗戦国文化に色どられている。だから実証的にしているつもりでも、実証にならない。立場の違う人には逆の意味に読まれてしまうからである。
この点で次にとり上げる三番目の人は、歴史と政治の関係をしっかり踏まえて、秦さんの実証が成り立ったケースと成り立たないケースとの両方があることを見て、これを区別して論じている。以下を読めば、歴史と政治の関係をみないならば、彼のことばでいえば木を見るだけで森を見ないならば、どんなに緻密な実証も見当外れに終ることがはっきり分るであろう。
※ここでブログ「えんだんじのブログ」2009年3月15日付記事「西尾幹二氏 対 秦郁彦氏」を全文引用
この文章を書いた人は鈴木敏明さんといい、幾冊も著作のある私の知友である。知友だから私を応援している、という文章ではない。人間はそんな風には決して生きていないのである。ご自身の価値観に関わる問題だから一生懸命書くのである。
とくにインターネットに書く場合には、頼まれて書くのではないのだから、無私である。私もこれを書いたのは誰かはじめのうちは分らなかった。
一番目の人が私に対し「歴史を論ずるということ自体を根本から分っていない」とか「歴史でないなにかを論じようとしている」と決めつけていたときの「歴史」が非常に狭い、固定した一つの小さなドグマ、特定の観念にすぎないことがお分りいただけたであろう。
これは出版対策かも知れませんが、それなら+αの加筆をすれば良いことですし(この節の末尾には加筆があります)、そも西尾先生のファンであればネットと同じ文章であっても購買意欲を大して削がれはしないでしょう。
これが本書についてがっかりした一つですが、気を取り直してキャッシュと書物を比較してみましょう。すると、小生のブログに関わる範囲で一番大きな違いは、西尾氏のブログ上では取り上げられなかった「『諸君!』秦郁彦・西尾幹二対談評への西尾氏のコメントについて」の記事について、「さて、後日気がついたのだが、・・・さらに私に対する長文の反論をえんえんと書き記していることが分かった。細密な実証こそ歴史だとする秦氏擁護の弁論である。余りにも長いので全文紹介はできないが、その熱意に敬意を表し、以下にポイントの各数行を引用し、残りはブログで読んでいただきたいと読者にお願いする」(p.174)として、その相当部分を引用紹介下さっています(「論戦余波(三)」の他の二方の引用は、書籍版でも同じままでした)。
斯様に小生の記事にお目を留め、ご紹介下さったことには御礼申し上げます。元の記事の主張がかなりの程度伝わるくらいの長さの引用をして下さったのは有り難い限りです。しかし、だからこそ、この記事の内容について何も反論や反批判をして下さっていないのは遺憾です。
前の記事の繰り返しですが、小生の西尾氏への批判は、結局二点に集約されます。
一つは、個別の史実の検証は大事だということ。西尾氏は例えば、張作霖爆殺事件がソ連の陰謀だと主張しますが、その根拠は史料的価値の低い少数の論拠のみです。一方、河本大作以下の工作という通説は、遙かに豊富な、多くの検討を経た史料に拠っています。西尾氏らは自説を支える史料を過大評価し、反するものに難癖を付ける一方、そのような史料の粗雑な扱いを批判されると「細かいことはどうでもいいんでね」というわけです。史料ちゃんと読め、ってことです。
この批判自体は西尾氏にもご理解いただけた、というか、小生の批判をもっぱらこの点に帰しておられるようです。上に挙げた引用でも「細密な実証こそ歴史だとする秦氏擁護の弁論」と小生の記事を要約されています。それに対しては「秦さんと彼に基く一番目の人の歴史は19世紀型の歴史である。外枠(パラダイム)が安定していた時代の歴史主義の歴史で、実証らしいことができるのはそういうときの歴史に限られる」など、「パラダイムの変換」を本書中各所で連呼され、事実の解釈は変わると主張しておられます。小生が申し上げたいのは、文脈を意義づける以前の、史料の信憑性や読解の時点でいい加減になってやしないか、ということですが・・・。
さらに二点目は、これは一点目とも繋がってくるのですが、そしてこれこそ小生がブログで延々と繰り返し、西尾氏も書籍に引用して下さった筈なのにお答えいただけなかった論点、西尾氏の主張する「パラダイム」がいかなるものであり、その正しさは何によって論拠づけられているのか、ということです。
なお、小生のブログからの追加引用は、「論争余波(三)」記事の「秦氏自身が~理解していなかった。」と「二番目にあげる例文が~」の間に挿入されており、新規引用部分に対する西尾氏の直接的言及はありません。
この第二の点は第一の点よりも重要であろう、なぜなら史料解釈の恣意性も「パラダイムの変換」によって正当化されているから、と小生は考えますが、これに対する西尾氏からの返答は読み取れません。そもそも西尾氏の主張する「パラダイム」の中身もよく分からないのです。例えば本書の147~148頁では「歴史の『認識の枠組み』(パラダイム)が変わるとき」と題するなど、各所で秦先生のような今までの歴史、特に「昭和史」は「パラダイムの変換」によって打倒されるべきと主張しておられます。
小生もその昔、科学哲学の講義でクーンのパラダイムシフトなど習った覚えがありますが、この言葉は割と一般的になって科学史以外でも濫用されるようになり、まあ歴史も「人文科学」なら濫用とまではいかないのかも知れませんが、西尾氏は「パラダイム」という言葉の説明に『ランダムハウス英和大辞典』を引くばかりで(104頁)、クーンの名前は出てこないようです。
さて、パラダイムシフトが起こるには、従来のパラダイムで説明しきれない問題をよりよく説明するパラダイムが提示され、それが従来のより有効と認められることが必要なはずです。しかし西尾氏の「パラダイム」変換の論拠は、冷戦が終わったから(147頁)程度しか見いだせず、しかも肝腎の西尾氏の主張する新たな「パラダイム」がどのようなものか、よく分かりません。それでいて、その「パラダイム」を受け入れないと認定された秦先生は、「実証的にしているつもりでも、実証にならない」(180頁)と切り捨てられてしまいます。
一応、114~116頁あたりが新たな「パラダイム」の説明のようですが、それも「仮説めいた骨(スケルトン)」に過ぎないということを西尾氏ご自身書いておられます。新たなパラダイムの明確な提示もなく、旧来のパラダイムは破綻したと叫ばれても、到底同意は出来ません。一体西尾氏の「パラダイム」とは何なのでしょう。新たなパラダイム像も、その正しさの論拠も碌になくして、パラダイムシフトは起きるのでしょうか。通説から見ればお笑いの陰謀論的史料解釈を正当化している西尾氏のパラダイムシフトは、何なのでしょうか。
考えても分かるはずがないので思わずようつべを張ってしまいましたが、個人的には『BALDRSKY』関係の片霧烈火嬢の歌としては「Nano Universe」の方が好きです。ゲームやったこと無いけど。
結局、小生が出した結論は、何度も書きましたように、西尾氏は「こんなに支持と声援があるから自分は正しい」、支持者の方々は「西尾先生がこう仰ってるんだから自分は正しい」という「仲間ぼめ」ではないかということです。そして、自分たちは日本を愛している=正しい、という開き直りが、このサイクルを支えているのでしょう。
「仲間ぼめ」システムは、『西尾幹二のブログ論壇』発売後の「西尾幹二のインターネット日録」の記事が、3件も続けて著書へのファンの賞賛の声だということ(「『西尾幹二のブログ論壇』(二)」 / 「同(三)」 / 「同(四)」)からも明らかでしょう。
あと、細かい点をいくつか指摘しておきます。
まず、以下に本書173頁の一部を掲げます。
で、もっと酷い事例が同じ節内にありまして。これは177頁です。
で、失礼といえば、174頁はこうです。
180頁はこうです。
細かいことをあげつらうことは品の良いことではありませんし、このブログだって誤変換なんぞはいくらでもあるでしょう。しかし、URLやタイトルといった重要なところにこうも間違いを連発されますと、「だから史料解釈以前にちゃんと読め」と、ぼやきの一つも言いたくなるものです。
さて、いい加減書いている人間も疲れてきましたので、胸にわだかまるものはまだまだいくらでもありますが、というか書けば書くほど後から湧いてくる気もしますが、そろそろまとめてみることにします。
小生は西尾氏の「パラダイム」の曖昧さを指摘し、結局「仲間ぼめ」ではないかと何度も指摘していますが、考えてみれば本書自体、西尾氏への支持の声をもっぱら集めて作られた、「仲間ぼめ」を強化するものなのではないでしょうか。であれば、その中で「ぜんざいの塩」の役割を担わされた小生が、今更批判の声を上げたところで、かえって「仲間ぼめ」を強化してしまうかも知れません。
率直な印象を記せば、西尾氏がもっぱら自分の意見への支持・賞賛・声援を集めて本書を編んだ(ざっと見た範囲では、本書に引用紹介された数多の読者の声の中で西尾氏を批判しているのは、元木昌彦氏のブログと小生のだけのようです)というのは、スターリン重戦車の装甲並みの面の皮の厚さと思います。
しかし、西尾氏とファンの関係はそれで良いのでしょう。例えば先ほどちょっと紹介した、「セレブな奥様は今日もつらつら考える」の「ネットサーフィン」はこう述べています。
私は二三日前から、朝からもやもや、ぷりぷりしていた。これは「論壇」としては論外ですが、ファンの行動としては自然なものです。実際小生も、ナヲコ先生のこととなれば、キャラクターの名前を間違えていようが、トーン張りが間に合わなかろうが、全面的に決死擁護してきたことは、当ブログの長年の読者の方でしたらご存じと思います(笑)。しかしその評価軸を以て、例えば竹熊健太郎氏や伊藤剛氏や永山薫さんのような、マンガ評論家の方々に挑もうなどとは、もちろん毛頭考えていません。
というのは、西尾先生への批判文を
否応無く目にさせられたからだ。
私は普通そういうのは、絶対に読みたくない。
だから、あえて2チャンネルのそういった西尾批判のスレッドや、
西尾批判をしているだろうと思われるサイトには近づかない。
「マンセー」だって言われたっていい、批判は読みたくない。
まるで、自分への攻撃にように感じるから気分が悪くなるのだ。
(こういうのをダチョウの平和っていうのかな・・・と思うけど)
ですから本書のようなものも、思想や学問とは異なったエンタテインメントと思えば、身辺に具体的な迷惑が及んでこない限りは静観しているのがあるべき態度なのかも知れません。
そう思った時、上で引用した「ランナーズハイ」の、引用部の続きの台詞がふっと頭をよぎりました。
そう、西尾氏の読者の方々も、「私はいつもの キリッと(自説を主張)してて ツンツン(異論を排撃)してる ニシオが好きだよ」ということなのでしょう。
ただしそれは、決して「ブログ“論壇”」などと呼べるものではありません。上の引用に登場した N.W(うさねこ)氏こと渡辺望氏は、本書冒頭で「二十一世紀のコーヒーハウス」と題して、「ブログ論壇」の意義について論じておられますが、本書は「仲間ぼめ」であり、畢竟酒場の雑談でしかなかろうと思います。その限界を承知して「楽しむ」分には良いのかも知れませんが、それと学問をごっちゃにすべきではない、ということです。
一応念のために書いておきますが、幾らブログでこんなことを書いたって、西尾氏が敵視する既存の歴史学の世界で、小生の評価が向上することは全くなく、むしろ何無駄なことやってるんだと呆れられるのがオチです。それでも書いているのは、なにがしかの責任感では恐らくなく、碌なことがなかった今年(特に後半)の厄払いであり、思ったことを文章にまとめるリハビリといったところです。
西尾氏も渡辺氏も、ネット上で頼まれもしないのに言論を繰り広げることを、「無私」の表れと評価しておられますが、そういうことをする動機は別に崇高な「無私」の精神だけではなく、暇人、狂信、物好き、いちびり、浮き世のしがらみ、現実逃避(苦笑)、いろいろあるってことです。
繰り言を長々と書きすぎました。胸に閊えているもやもやはまだごまんとありますが、流石にもう止めます。止めるべきと小生の目を覚まさせてくれた、畏友 Im_Weltkriege 氏の言葉を引用して――西尾氏もさんざんお友達の声援を引用したんだから、こっちもこれくらいはいいでしょう――締めくくります。
それは、小生が以上の一端を氏にぶつぶつと愚痴っていた時のことでした。コンビニの天丼を食いながら発泡酒で晩酌していた氏は、小生の繰り言にあっさりこう指摘されました。