D・G・ファウスト『戦死とアメリカ 南北戦争62万人の死の意味』
8月といえば戦争と死者の話題が多いのは我が国の通例ながら、今年は震災ゆえにやや異なった展開を見せたようにも思われますが、どっちにせよ引きこもってメディアとの接触を欠いていた小生には実のところよく分かりません。
で、折角なので、そんな季節に合わせた記事を一つ。15日に合わせようかと思っていたけれど、暑さなどがあってなかなか思うようにもいかないのはいつもの通りです。

『戦死とアメリカ 南北戦争62万人の死の意味』
よく知られているように(でもないかもしれませんが)、アメリカ史上最大の死者を出した戦争は南北戦争で、独立戦争以来両大戦や最近のイラク戦争等までのその他の戦争の死者すべてを足しても、南北戦争の62万人には及びません。アメリカ人が1日でもっとも大勢死んだのは、1862年9月17日のアンティータムの戦いと言われています。本書はそんな南北戦争で生じた、未曾有の多数の死がどのようなもので、どのような影響を人々に与えたか、様々な角度から検討しています。
で、小生は先日偶々さる読書会に顔を出した際、本書が課題図書となっていたというだけの理由で読んだのですが、なかなか興味深い本でもありましたし、またその読書会の席で出たいくつもの指摘は大変貴重なもので、どこかに記録しておく価値もあろうかと思いましたので、メモ代わりに書いておこうと思います。
まず、章立てを紹介しておきます。
日本語版序文
序
第1章 死ぬこと 「己の命を捧げる」
第2章 殺すこと 「よりつらい勇気」
第3章 埋葬すること 「死者をケアする新たな経験」
第4章 名前をつけること 「無名という意味ある言葉」
第5章 実感すること 民間人の喪の努め
第6章 信じることと疑うこと 「この大量殺戮にはどのような意味があるのか?」
第7章 説明すること 「死者に対するわれわれの責任」
第8章 数を数えること 「何人? 何人?」
エピローグ 生き残ること
注
訳者あとがき
索引
各章の内容は、簡単に説明すれば、第1章ではどちらの陣営も予期しえなかった膨大な死者が生まれたことに対し、その死と従来のあるべき死の姿の差をどう埋めようとしたか、第2章では「人を殺すなかれ」の戒律に反する行為をどう正当化していったか、第3章では膨大な戦死者の遺体をどう埋葬するか(それは勝利した軍隊にとっても困難)、ボランティア団体やエンバーミング(遺体を生前の姿のまま化学処理して保存すること)業者、政府がどう対応したかが「写真付きで」述べられています。第4章は誰がどう死んだか正確な情報を家族に届ける(これは個人の権利擁護という北部の戦争の大義に関わる)ためにどのような試みが為されていたか、第5章では親しい者をを失った非戦闘員(彼らも戦争による死に巻き込まれることは多かったが)が、その死とどのように向き合ったのか、第6章では死後の世界を考えることから宗教への懐疑、さらには理性や言語への懐疑がどのように広がっていったか、第7章では死者に対する責任として身元を明らかにして埋葬することが求められ、戦後北軍兵士の再埋葬と国立墓地建設が行われた一方、南部では自主的な再埋葬や墓地建設が行われたことが述べられ、第8章では死者の集計がどのように行われ、それがどう受け取られまたどんな問題を生んだかが、述べられています。
と、内容は多岐に亘り、多くの事実に圧倒されます。やや細かいところで幾つか関心を惹かれたところを思いつくまま挙げれば、軍事技術の進歩が「殺すこと」をそれまでの時代より(もしかするとその後の時代よりも)兵士にとって重い課題になった(第2章)という指摘で、南北戦争はそれ以前の戦列歩兵やそれ以降のより兵器が進歩した兵士と比べても、自分の意志で特定の敵兵士の顔を見ながら撃つ、という重圧が強かったといいます。ちなみに、南北戦争の戦死者の圧倒的多数(9割方)は銃弾によるものだったそうです(うろ覚えですが、第1次大戦では半分以上が砲撃による死者だったと思います。2次大戦はよく知りませんが、爆撃が増えた分、より歩兵のライフルの地位は下がったでしょう)。
また第5章では、重要人物の葬儀が大規模に行われることが、葬儀を行えなかった数多くの戦死者の葬儀の、代行の役割を担ったことが指摘されていました。南部ではストーンウォール・ジャクソン、そして北部ではリンカーン。
また第6章では、伝統的な振興が揺らぐ一方でスピリチュアリズム(心霊主義)が大流行し、こっくりさんの道具がよく売れたという話が載っています。このような商魂たくましい話は、第3章での遺体捜索やエンバーミングを行う業者の話だとか、第5章で喪服を売りさばく百貨店の話などもあり、また異なった死の一面を見せます。
もっとも第1章では既存の宗教の「良き死」が救済の枠組みとなったと指摘されているのに、第6章では戦争による信仰の揺らぎが指摘されており、このあたりの宗教を巡る状況は、キリスト教の素養に乏しい日本人には分かりづらいところです。
さて、読書会の折に指摘されたことを以下に簡単にご紹介しておきます。
本書は数多くの事実を積み上げ、それらの多様性を読者に伝えつつ、その死の総体が最終的に国家統合へとつながっていく過程を描き出した優れた研究です。しかし報告者の方によりますと、これはアメリカの社会史にはしばしば見られる傾向だそうですが、先行研究はあまり重視しないきらいがあるそうです。これは、普遍性を求める政治学や経済学に比べ、歴史学は個別性・多様性を重視する傾向にあるからのようですが・・・。
先行研究でいえば、本書の第7章では、戦後北軍兵士の再埋葬は行われるのに南軍は無視され、南部の自主的な取り組みによって行われていたのが、やがてどちらも等しく戦死者と扱われていくことが簡単に述べられています。しかし内戦後の国家統合という極めて重大な問題からすれば、そこはもっと大事ではないかと小生も読んでいて気になりました。で、実際、南軍墓地が国立墓地に編入されて分裂していたアメリカが一つに再統合されていく、その過程を追った研究があるのだそうです。報告者の方にご教示いただいたところによりますと、J.R.Neff の Honoring The Civil War Dead: Commemoration And The Problem Of Reconciliation という研究だそうですが、本書では特に参照された形跡はないそうです。
数多くの事実といえば、膨大な当時の手紙を初めとする史料の引用が本書の最大の特徴なのは間違いないところで、多様な個人の物語を紹介しつつ、それが国家に収斂していく過程を描き出しているといえます。ただしその中で、かけがえのない多様な個人の悲劇が、国家レベルに飲み込まれていく、そのパラドクスについての言及は弱いのではないか、と報告者の方は指摘されていました。第8章やエピローグで一応触れられてはいますが、それが現在にも続く重大な問題とエピローグの末尾で指摘している割には、確かに扱いは軽いと思われます。
また、数多くの事実を扱うに当たって、敢えてでしょうが個別事例の背景はほとんど書かれず、数多い事例を統計的に数値化してみることもないのですが、そのような書き方をすることで一般化を図っているのだろうか、という指摘も出ました。それは同感で、事例が多ければ時期別や地域別などに分類するなどのことを小生でもやりたくなりますが、そういうことはされていないのがアメリカ社会史の特徴なのかも知れません。
また先程もちょっと述べた南北の差についても、やはり戦争で生み出された分裂を再統合するところが眼目と思われるのに、本文の記述は薄いという指摘が出ました。小生もそれは強く感じたところで、数多くの事例を取り上げる中で南北間の差というものはほとんど描かれず、むしろ同じようなものとして描かれていることが多いように感じました。しかし第7章の再埋葬のよな勝者と敗者の差は歴然とあったはずで、しかも負けた南部の死亡率は北部よりずっと高く、それだけ死を受け止める重みも大きかったのではないか(もちろん北部だって軽くはないですが)、やはり現代のアメリカ人としてそこは強調できなかったのか、本書はアメリカの9.11以降の戦時に呼応したものだと報告者の方が指摘されていましたが(だから本書はアメリカで大きな話題を呼んだのでしょう)、そうなるとやはり国内の差異の存在は少ないように描かれたのでしょうか。
そこにも関連しますが、南北戦争後の記述が少ないのではないか(確かに、死を受け止める作業は戦後も長く続きます)という指摘もされました。
更に、南北戦争後は考えてみれば対外戦争ばかりで、先に挙げた J.R.Neff の研究でも、南北戦争後の戦争は対外戦争で、南部からも兵士を集めていたことが、南北戦争の死者を共に葬る姿勢につながった旨が指摘されているそうですが、であれば内戦としての特異性ももうちょっと知りたかった感があります。
報告者の方からは、このような戦死者と国家統合に関して他国の研究との比較についてもちょっとお話がありましたが、ヨーロッパでは死者と国家統合という研究はかなり行われているそうです。しかし南北戦争ではあまりこれまでなかったということは、やはり内戦であることが国家統合と結びつけて論じることを難しくしていたのではないか、ということでした。研究自体が内戦としての特異性を反映していたのかも知れません。
日本の場合は、戦死者慰霊研究はかなりの厚みがあります。ただし、靖国問題がそのきっかけであったため、それほど新たな視点が登場することは近年まであまりなかった(どうしても靖国批判につながってしまうため)そうですが、今世紀に入ってから靖国神社に収斂されない、戦死者慰霊の多様性が解明されるようになり、研究がかなり進展していると報告者の方のご指摘でした。個別の死者を国家に回収してしまう装置が靖国だ、ということはあるにしても、研究まで収斂してはいかんですね。
具体的な研究をレジュメからメモ代わりに書き写しておくと、
『国立歴史民族博物館研究報告』第102集(2003)
岩田重則『戦死者霊魂のゆくえ』吉川弘文館(2003)
西村明『戦後日本と戦争死者慰霊』有志舎(2006)
白川哲夫「招魂社の役割と構造」『日本史研究503』(2004)
同「地域における近代日本の『戦没者慰霊』行事」『史林87巻6号』(2004)
同「大正・昭和期における戦死者追弔行事」『ヒストリア209』(2008)
などが紹介されました。また日本の戦死者慰霊研究自体の総括としては、藤田大誠「日本における慰霊・追悼・顕彰研究の現状と課題」(國學院大學研究開発推進センター編『慰霊と顕彰の間』錦正社(2008)所収)がある由です。
これらの共通点を大雑把にまとめれば、靖国という国家レベルとは別の、家や村など地域でそれぞれの慰霊の姿勢があったことを究明していると言えそうです。このように、近年の日本の戦争の死者慰霊についての研究は、国家と地域との関係に着目しているのですが、そこから翻って本書について考えてみた場合、小生が思ったのは、家庭や連邦政府の対応は書かれているが、州レベルの話がないなあということでした。しかし、アメリカの州はそれ自体が軍隊を持っていることもあり(本書に登場する部隊名を見ても、例えば「インディアナ第11連隊」のように、州単位で部隊が編成されていたことは確かだと思います)、慰霊の必要性の高さは日本の道府県の比ではないと思うのです。
さて、その他に読書会参加者から指摘の出た点としては、一般市民が直面した問題を描き出していることに本書の眼目があると評価する意見や、1860年代であっても写真が多いところに日本との違いを指摘する声などもありました。
そしてもう一つ、これは報告者の方の指摘でしたが、南北戦争をきっかけに死を巡る状況に変化が生じた。と説明するのは、魅力的ではあるけれども、何でも戦争で一気に説明してしまう弊に陥る危険もあり、留意が必要だという指摘がありました(日本なら「1940年体制論」みたいな)。本書第6章での宗教への懐疑などは、必ずしも戦争だけではないのではと。
そこから敷衍して小生が思ったのは、なるほど南北戦争によって、国家が戦死者に対して責任を持つという、現在世界各国でおおむね一般的であろう慣習が確立したことはそうであろうと思われるが、それでは何故他の戦争、他の国ではなく、南北戦争のアメリカがその先駆けとなったのかについては、より考えるべきところがあるだろうということでした。そして更にそこから考えざるを得なかったのは、アメリカが世界に先駆けて開発した、国による戦死者追悼システムは恐らく現在も世界の規範となって機能しているであろう、だからこそアメリカは今もなお、比較的容易に外交に於いて軍事行動に訴えているのではないか、ということなのでありました。
読書会で出た話は大体以上のようなところでしたが、最後にあとで小生が思ったことを蛇足ながら書き加えて、本書についての記述のまとめに代えさせていただきます。
本書では、戦死者遺族からの強い働きかけによって、政府が戦死者に対する責任を果たすようになったことが書かれている他、家族の悲しみということが繰り返し描かれてます。ところで、しかしアメリカは当時も今も移民国家ですから、家族と離れて移住してきた人(それはアメリカ国内であっても東部から西部へとか、相当あったと思われます)であったり、そもそも諸事情により家族と離れて(離れたくて軍に入った人もいたかも知れない)いるような戦死者も決していなくはなかったと思われます。そのような人は慰霊追悼される機会がないわけで、それこそ政府による「無名兵士」追悼は彼らにとってこそ意義あるものなのかも知れませんが、さてそういう人はどうすればいいんだろう、ということです。
そこから更に敷衍すれば、そもそも遺族というのはある個人を追悼する際の特権的地位を、常に、普遍的に、認められるべき存在となっていますが、個別具体的にはそうでない事例が相当数――おそらくは無視し得ないほど――あるのではないかと思わざるを得ません。普遍的にそうである、と仮定しなければ、そもそも社会や国家のシステムの運営が円滑にならないことは理論として理解は出来ますが、そして近代国家の基盤としてその必要性が高いことは間違いないと思いますが、同時にそこからはみ出す可能性のある個々人のことも、どこか頭の片隅には置いておくべきだと思うのです。
言い換えれば、小生は、戦争でも天災でも事故でも事件でもいいですが、何らかの理由で家族を失って嘆いている遺族について聞く度に、一定の同情と弔意を持つにしても、同時にこう思ってしまうのです。それだけ家族を失って悲しく思えるということは、それだけあなた方は「幸運」だったのではないか、そう思うことが出来ない「不運」な人もこの世には存在するのだから――と。
いささか小生の人間性を疑われそうな、疑われても仕方ないし自分でも自分の「人間性」に確信が持てない今日この頃ですが、とりあえずこんなところで。まあこれだけ話が広がる本書は、やはり優れた研究であることは間違いありません。興味のある方のご一読を勧めます。実際、本書は既に3刷くらいまで売り上げを伸ばしているもののようです。
ただ、個人的にはそれもちょっと不思議で、例えばキリスト教の素養の乏しい多くの日本人(含小生)には、本書には理解しづらいところがいろいろとあるし、そもそも南北戦争は日本人にとってあまり関心を惹くトピックではなさそうなのに、何を求めてそれだけ読まれているのか、とは思います。まさか、戦場の死体写真を見たい読者が大勢いたとも思えません。
南北戦争が日本人の関心を惹かないのは、戦史が好きなミリオタの方々でも同様であり、多くの日本人読者は戦況や地名が分からないことが多かろうと思うので、その辺はもうちょっと訳注などで補足した方が良かったのではないかと思います。小生とてさほど知っているわけでもないですが、まあ主要会戦名くらいは知っていましたけれど、ところが本書では「シロの戦い」なる聞いたことのない会戦名が登場して当初戸惑いました。これは一般的には「シャイローの戦い Battle of Shiloh」だと思いますが、現地の発音はどうなのでしょうか。
そういえば本書は、「ブリーチローダー式射撃銃」という用語が出てきて、検索してみたら「大航海時代 Online」関係ばっかり引っかかるんですが、ちょっと違和感を覚えました。小さなミスとしては、ジェシー・ジェイムズを「窃盗団」と書いていますが、これは「強盗団」とすべきでしょう。あとミードが一ヶ所少尉になってたり、折角索引があるのにマクレラン将軍が出ている箇所が一つ索引から漏れていたりという、些少な問題点がありましたが、小生が読んだのは初版でしたので、今は直っているかも知れません。そもそも索引でマクレラン将軍を引いた読者が他に誰一人日本にいなくても驚きませんし(それにしてもマクレランの評価低いな・・・)。
長々と書いてきましたが、流石にこれで終わりにします。ご関心のある方は是非。
末筆ながら、本書を読む機会を作り、一人で読んでいてはたどり着けない数多くの指摘を下さった、読書会の皆様に、心から御礼申し上げます。
by bokukoui | 2011-08-19 23:59 | 歴史雑談 | Comments(0)