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筆不精者の雑彙

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江戸東京博物館「東京の交通100年博」 ササラ電車・甦った6000形

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元東京市電気局・現函館市電の除雪用「ササラ電車」

 今年は9月半ばになっても暑い日が続いたと思ったら、今週は一転涼しくなり、台風の襲来を迎えましたが、これで漸く秋になるのでしょう。
 で、個人的に今年の夏を振り返ってみると何をする気力も湧かず全く沈滞しておりましたが、先月半ば頃から少しは動けるようになり、低効率ながらも停頓はしないで済んでいましたが、今月に入ってまた暑さが戻ったりまた涼しくなる天候に再度消耗している感じです。概して目前のことをこなすのが精一杯で、マンガ一冊読む気力すら失われていたていたらくでしたから、夏休みらしくどこかへ出かけるなんてことにもほとんど縁はなかったのですが、ただ夏休みのはじめの頃にお誘いがあって一つ、そして最近もう一つ、鉄道関係の展示に出かけていまして、まあ折角なので撮った写真でも挙げておこうと思います。




 で、最近行ったのが、上に掲げた「ササラ電車」を展示していた、江戸東京博物館の特別展「東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”」でした。憑かれた大学隠棲氏からお誘いがあってその存在を会期終了間際に思い出したのですが、よんどころない事情があって同道できず、何とか会期最終日の午前中に、時間をやりくりして行ってきました。
 今回の展示企画は、東京の路面電車が市営化されて東京市電気局となってから百年ということを記念してのものということです。考えてみれば当たり前なのですが、「戦前の日本で、鉄道省・満鉄などを除いて運輸収入第1位の鉄軌道事業者は?」というと東京市電気局で、第2位は大阪市電気局です。今の東京都交通局のイメージがあるととっさには思いつかなかったりしますが。

 ちなみに戦前の東京市電気局は、市営化した会社の中に電車と共に沿線での電力供給事業を営んでいた会社があった関係から、電気供給事業も営んでいました。ですので、電車と電気供給の二つの事業を営むことから「電気局」という名称になり(戦前の電気事業法では、「電気事業」の定義が現在と異なり、電気供給事業と電気鉄道業の二つとされていました)、戦時中の配電統制によって電気供給事業事業が分離されてから、現在の「交通局」になりました。
 なお電車・電力合計の電気局収入全体では、1930年代中盤に東京市を大阪市が上回ります。東京市電気局の収入の過半は路面電車でしたが、大阪市電気局の収入は電気供給の方が多い(昭和以降は)傾向にありました。路面電車では東京に及ばなかった大阪ですが、電気供給は市内の中心部をカバーしており、1930年代バスや国電・地下鉄の発達などで市電収益が停滞する一方、電気の消費が大きく伸びたためで、電気の収入では大阪は東京の2~3倍程度あり、全国の電気事業者中でも五大電力に次ぐ存在でした。
 一方、東京市電気局の電気供給区域は東京市の一部だけでしたが、それでも天下の東京ですから、電気事業の規模は全国の電気事業者の中でも十数位くらいでした・・・といってもイメージしにくいでしょうから、1930年代半ばの統計を眺めてみると、東京市電気局の電気事業収入は、中国地方の有力会社だった中国合同電気(播州など山陽地方東部)や北海道の半分を占めた北海道電灯なんかと同じくらいですね。

 余談ですが、北海道電灯はもともと富士製紙という製紙会社の自家発電部門が独立したもので、北海道で事業を拡張し、函館水電などを傘下に収めます。そして北海道だけにあきたらず、秋田の電力会社を吸収し、さらには福島の東部電力も合併して「大日本電力」というでっかい社名に改称、東京市を抜き去る事業規模になりました。さらに大日本電力の拡大は止まらず、1937年京王電気軌道(現・京王電鉄)の株式を買収して経営権を掌握します。当時の京王は多摩地域の電気供給事業もやってた(大日電が買収した頃は電車より電気の方が収入多かった)ので、つまり大日電は北海道→秋田→福島→東京多摩と、天下取り目指して上京? していたのでした。
 この大日電の経営者は甲州財閥の系譜に連なる穴水熊雄で、彼は京王のほか東京地下鉄道の株主にもなりますが、結局最後は地下鉄や京王の株を、東急を築いた五島慶太に売ってしまいます。それで五島は早川徳次を追い出して地下鉄を乗っ取ったり、「大東急」を形成したのですが、買収した五島の側から見た話は巷間多いにもかかわらず、支配していたものを売った側の穴水の話はあまり聞きません。個人的にはそのうち調べてみたいと思っています。

 話が北海道にそれかけましたが、一応東京に戻ってきたところで本筋に戻します。
 小生は近年、戦前の電鉄会社の兼営電気事業(まさに東京市電気局のような)をきっかけに電気事業の歴史について考えているので、多少は研究に資するところはないかなと思って見に行ったのですが、その意味では残念ながら収穫はほとんどありませんでした。なにせ、電気供給事業の話はほとんど触れられていませんでしたし、そもそも電気局がどのような政策意図を持ってどのような経営判断を下したのか、というような視点は展示にはないようでした(そんなの求める観覧者がそもそもいなさそうですが)。
 東京都は戦後、奥多摩などのダムによる水力発電事業を再度手がけ、今でも交通と電力の両方の事業をやっています。そのためか戦前の事業についての簡単な説明でも、発電所がどうこうとか書いてあったように思いますが、戦前の東京市電気局の事業はもっぱら市民に密着した小口の配電事業であって、必要な電気は当初こそ自家火力だったものの、水力開発が進むと買電に切り替えています。
 東京市電気局の大口買電先に鬼怒川水力という会社があり、経営者の利光鶴松は東京市会を牛耳っていた旧自由党系の人脈とつながりがあって、そのため鬼怒水は有利な条件で東京市に電気を卸売していました。ところがその契約も切れる日がやってきます。すると日本電力など新手の会社が安値で売り込みをかけるわけで、利光は新たな事業、そして鬼怒水の新たな電力売り込み先として東京の地下鉄建設を計画しますが、これは諸般の事情により実現しませんでした。そこで代わりに、郊外に電車を建設しましたが、それが現在の小田急になります。
 またも余談になりましたが、そういうわけで東京の公営電気事業といっても、配電中心の戦前と、発電中心の現在とでは性格が異なります。その辺は留意して欲しかったのでちょっと残念でした。あと確か、展示のキャプションで立川勇次郎の名前が誤植だったような・・・最終日だったのに・・・

 ただ、集められていたモノそのものはなかなか面白く、よくもこんなのが残っていたなあと感心するものや、昔交通博物館で見たような気がする大型模型と再会できたり、それなりに楽しめました。で、モノとしては電車・バスの本物という大物が展示にありまして、やはりこれは見応えがありました。バスは震災後の円太郎バスで、シャーシの構造もサスペンションもまことシンプルであり、これで当時の東京の悪路だったろう道を走ったらさぞかし揺れただろうなと『大正野球娘。』読者(ただしコミックス版)としては思いましたが、残念ながら撮影禁止だったので写真はありません。
 しかし、屋外の別の場所に、電車が2両特別展示されており、そちらは撮り放題でした。のでその写真を何枚かご紹介。

 今回展示されていた電車は、もともと明治時代の東京の路面電車だった車両を、改造を重ねて除雪用車両として函館市電で現在もなお現役で使っているものを里帰りさせたものと、戦後の代表的な都電の電車を個人が引き取って保存していたのがスクラップになりかかったところをレストアした、その2両でした。
 まずは本記事冒頭に前掲を掲げた函館の除雪電車、所謂「ササラ電車」です。これは1934年の函館大火で電車が焼失した際、東京市電気局から購入した電車を改造したものだそうで、東京市電気局時代の現存する最古の車輌だそうです。ちなみに購入時の函館の路面電車は函館水電の経営でした。先述の北海道電灯→大日本電力が傘下に収めていた会社ですね。つまり、函館市電と京王電鉄は同一資本系列だった時代があった、ということで。そういえば軌間も1372ミリ(4フィート6インチ)という特殊な同じ規格ですね。
 で、今回久しぶりに里帰りしたこの電車が、屋外の特設会場で展示されていて撮影できましたので、他にも何枚か。
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「ササラ電車」を横から見る

 日本の電車は今やボギー台車をはいたものばかりで、貨車すらコンテナ化で、四輪車は珍しくなりました。
 車体は本来、前後に乗降用のデッキと運転台がついていましたが、それを撤去して除雪用のササラを設置したそうで、残った車体自体は昔のままらしいです。車内には東京市時代の壁紙が残っているということでしたが、後世のペンキなどが塗り重ねられ、なんとなくそうかな? と思われる程度でした。とはいえ現用車輌なのですから、痕跡をとどめているだけでも大したことで、貴重なことには変わりありません。むしろ何十年も手を入れつつ使われてきたことにも価値があるでしょう。
 というわけで、むしろ目を惹いたのは除雪用に改造された箇所でした。以下に掲げていきます。
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除雪用の竹のササラ この部分が回転して除雪する
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ササラに動力を伝えるチェーン
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 ササラ電車は車内に積んだモーターの動力をチェーンで前後のササラを取り付けた軸に伝え回転させるようです。で、その車内の様子が、側面の扉が開けられて、踏み台が置かれ見られるようになっていました。ササラもそうですが、これがなかなか、いかにも「メカ」という感じで趣深かったので、更に何枚かご紹介。
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側面扉からササラを駆動するモーターとそれを制御するコントローラーを見る
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モーターと駆動軸、チェーンへの伝達部
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車体の床に開けられた穴からササラへ伸びるチェーン
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 重量感あふれる機械たちで、幾つもつけられた給油装置も目を惹きます。それにしても床に穴を開けてチェーンを通すとはワイルドな改造で、まあ他にやりようもないといえばそうですが、本当にただの穴のようなので、雪の降り積もった酷寒の北海道で走らせた時、車内はどれほど寒いだろうか、雪も舞い込んでくるのではないか、などと9月にしてはかんかん照りの日の下で思いを馳せました。
 以上観察したところからすると、ササラの軸に巻かれたチェーンはを床に開けた穴を通して車内のモーターとつながり、モーターは傍らのコントローラー(白く細長い箱、上にハンドルがついている)で制御するのでしょう。一つのモーターで長い軸を回し、その両端にチェーンを取り付けて前後のササラを回転させているのですが、後方のササラは回転させる必要がないので、その場合クラッチを切るような仕組みがあるものと思います。多分、「モーターと駆動軸、チェーンへの伝達部」の写真に見える、チェーンが巻き付いているツメのついた部分がそのクラッチで、駆動軸から垂直に上へ突き出ている棒で操作するんじゃないかと想像しましたが、小生は全くの文系なのであてにしないで下さい。詳しい方のご教示をお願いします。
 ところで、このササラ駆動モーターのコントローラーは、電車自体を走らせるコントローラーと同じようなものに見えました。そこでふと思って床下をのぞき込み、この電車の駆動用モーターを撮ってみました。
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ササラ電車の駆動用モーター

 床下なので分かりにくいですが、どうやらササラ駆動用のモーターと同じようなタイプのものと見えます。車内に置かれたモーターも、もとは他の電車から外してきたモーターで、駆動軸のところには車軸が入っていたのでしょうね。部品調達や整備のことを考えれば当たり前ですが。ササラ電車への改造自体戦前のことらしいですが、その当時据え付けられたモーターのままなんでしょうね。
 
 ササラ電車の話が長くなりましたが、もう一両の都電6000形の方も。
江戸東京博物館「東京の交通100年博」 ササラ電車・甦った6000形_f0030574_221988.jpg
 これは戦後大量生産された都電の主力車輌で、割と近年まで1両が保存されて荒川線に残っていましたので、小生も乗ったことがあります。貸し切り出来たので、中学の鉄道研究部で貸し切り運行しました。うろ覚えですが、貸し切りにも学割があってえらく安く、中学生でも何人かで共同出資すれば払える程度の額だったと記憶しています。
 そんなわけで小生にとっても懐かしい電車なのですが、同様に懐かしさを覚えた人も多かったらしく、人だかりがしてササラ電車のように自由に撮影するわけにも行きません。人の流れが一方通行で規制され、立ち止まってじっくり観察・撮影出来ないのは残念でした。『三丁目の夕日』のセット(?)か何かを周りに配置して時代風にしようとしていますが、そんなのはむしろ取っ払った方が見やすかったんじゃないかという気もします。ですので他に大した写真はありません。
 ただ、この電車の保存経緯について述べた看板は、是非紹介しておこうと思います。
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都電6000形・6086号の車歴と保存経緯を述べた表示
(この写真はクリックすると拡大表示します)

 故・岸由一郎さんについては当ブログでも何度か記事にしましたが(これなど)、岸さんが奇禍に遭われる一週間前、たまたま都電のイベントに行ってお姿を見かけたのが最後だったので、都電の前で改めてそのお名前を見ると、鈍い小生でもいささかの感傷を抱かずにはおられません。願わくばその遺志が、より多くの人に共有され、今後も受け継がれていきますように。

 以上、思ったより長くなりましたが、いろいろ展示方針にいちゃもんをつけては見たものの、入場料分以上は楽しんだことは間違いないわけで、モノを残しておくのは大事だなあと改めて実感しました。特に6000形だけでなく(これだって持ってくるの大変だったはずですが)、函館からササラ電車を里帰りさせた関係者の熱意には、深く敬意を表し感謝する次第です。
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江戸東京博物館で目撃した謎の着ぐるみ

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by bokukoui | 2011-09-21 23:04 | 鉄道(歴史方面) | Comments(0)