船の科学館休止~Study Hard氏の偉業を偲び笹川会長に万歳半唱

「・・・笹川氏の『世界は一家、人類みな兄弟』の理念をしっかりと見つめ・・・」
云々と、傍らの看板にある
先月いっぱいで、東京お台場にあった船の科学館が、建物の老朽化などを理由に、展示の大部分を休止しました。今のところ再開の予定は明らかではなく、保存されていた元青函連絡船・羊蹄丸は他へ譲渡されるとのことです。日本は造船や海運が国の発展に大いに関わっており、構造不況業種だ何だとといわれながらも、なお一定のプレゼンスがあるわけで、そんな国でこのような施設が閉館になることは大変遺憾です。
個人的にも、小生はもっぱら鉄道が専門ですが、他の交通手段にも関心がないわけではなく、一応戦史マニアの端くれでもありますので、船もけっこう好きだったりします。そんなわけで、船の科学館は子供の頃から何度か来たことがありましただけに、そして近年も何度か来たことがありまして――近年来た際のことは後述します――残念に思います。
そんなわけで、小生周辺でも今夏、船の科学館を訪れた向きは少なくありませんでしたが、小生は例によって心身の不調で所用が片付かず引き籠もってばかりおり、そのような方々と同道することなど到底かなわず、このまま休館を迎えるかと思われましたが、なんとかない時間を無理に捻出して、展示休止前日の先週木曜日に行ってきました。最終日はさすがに混雑が予想されましたので、少しは余裕を持って展示を見たいと思ったためです。


展示の内容を今更ここで繰り返してもあまり意味はないでしょうから、ごくごく大雑把な感想を述べます。
まず人の入りですが、平日のためか休館前日の割にはそれほどでもなく、展示を見る上で不自由はありませんでした。
また展示は、以前の印象では何となく、開館当時のものは立派だったがその後の更新は今ひとつ、のような漠然とした印象を持っていましたが、今回つぶさに見ると、結構統計データや航路の運行状況など、アップ・トゥー・デートなものに改められており、科学館当局も相当の努力をしていたことが感じられ、ますます休館が残念でならなくなりました。とはいえそのような新しめの展示は、やはり以前のと比べると簡便な印象を受けるものが散見されるのは、競艇のあがりが減っているということなのでしょうか。あと、軍艦の写真の一部に大和ミュージアム提供とあるものがありましたが、これは以前から展示されていた写真の原版が大和ミュージアムに引き取られたのか、新たに大和ミュージアムが出来てから提供を受けたのかは、ちょっと分かりません。
船の展示は、なにせものが大きいだけに模型に頼らざるを得ない訳で、ここの模型自体は興味深く一隻一隻見て回りましたが、見せ方にはもう少し工夫があっても良かったかなとは思います。その船の特徴や歴史的位置づけなどは、それほど分かりやすくはなかったのではないかと。
入館した直後だったかと思いますが、館内放送で、戦艦「大和」の模型の前でボランティアによる日本海軍についての解説があるというので、折角だからと聞きに行きました。

ここでお話をして下さった方(すみません、お名前を伺った記憶がありません)は、戦争末期に海員養成所を出たそうで、しかしその頃にはもはや乗る船もなかったのか特攻兵器「伏龍」の訓練ばかりしているうちに戦争が終わったそうです。実際に呉で「大和」を見たことが何度かあるそうで、考えてみれば「大和」は竣工して70年ですから、乗員はおろか目撃者もご健在の方は少なくなっているのですね。
特攻隊について、戦死するとき「天皇陛下万歳」と言うものなどいない、最後に呼ぶ名前は母の名である――と、元特攻隊員のこの方は仰っていました。末期の言葉が「天皇陛下万歳」というのが軍国主義の時代の神話ならば、「お母さん」も平和のための神話なのかも知れないと、ひねくれた小生は考えてしまいます。しかし、特攻の訓練を受けていた方が語り伝える神話としてそちらを選んだ、ということには計り知れない重みがあると感じました。
今日でこのボランティアも最後とのこと、まさに「心余りて詞足らず」というお話しでしたが、今後もご健勝であることを祈念します――出来うれば再度の解説の機会が巡ってくるまでに、展示が再開されますように。
軍艦関係では、日露戦争の主力艦である戦艦「敷島」の模型が、同艦を建造したイギリスのテムズ社が建造当時に拵えたものだと、今回初めて気がつき、模型そのものが歴史的遺物だと感心しました。この模型は48分の1だそうですが、その縮尺もフィートポンド法っぽいですね。

この調子でやっていてはきりがないので、なるべく大雑把な話に戻しますが、常設展以外にいくつかの特別展がされていました。その一つが、船の科学館そのものの歴史でしたが、それによると建設時、館内の常設展示で最大のものである船舶用ディーゼルエンジンは、建物より先にまず設置してから、後で建物を建てたそうです。

このディーゼルエンジンは確かに、実物展示中でも圧倒される巨大さで、その設置のエピソード自体が巨大さを表していますが、折角ならばそのエピソードも含め、船舶ディーゼルエンジンの大きさについての解説とかがあれば良かったのになあ、とも思いました。
それから特設展には、1912年に沈没したタイタニック関係のものもあり、備品の数々に豪華な定期客船時代を偲ぶ思いでした。銀食器とか陶器とか、特製のものが作られていたのですね。それだけに1等運賃は極めて高いものでしたが、一方移民向けの3等運賃は今日の航空運賃を考えても案外安いものだったようです。

が、それにしても閉館前の最後の特別企画がタイタニックとは、何かの当てつけだろうかとは多少思ってしまいました。
また、羊蹄丸が譲渡されるということで、それ関連の特別展示もありました。最後の航海日誌など興味深いものもあり、また貨車航送の模様を伝えるため、連絡船に入換機関車が貨車を押し込んで(もしくは引き出して)いる情景の模型も展示されていました。

ただこの模型を仔細に見ますと、蒸気機関車が9600形なのは実際の通りだと思いますが、模型のナンバーが「9678」となっているにもかかわらず、キャブ裾のランボードがS字型の初期型(9600~9617号機まで)となっているようで、やや残念でした。別に細かいこと自体はいいといえばいいのですが、鉄道連絡船展示に鉄道に詳しい側からの関与がなかったとすれば、それが残念だということです。
その羊蹄丸に向かいましょう。



さて、小生が羊蹄丸をきちんと見るのは、随分と久しぶりか、さもなければ初めてかも知れません。昔来ていた頃の記憶は曖昧で、今ひとつ印象がありませんでした。また2、3年前に訪れた前回は、軍艦の歴史の方面でとても有名なある先生からタダ券をいただいたので来たのですが、確かその時は営業終了予定のプールで泳いでいたもので羊蹄丸まで見に来なかった気がします。
そしてその前、前々回の訪問は例の北朝鮮工作船を見るため戦史研一同で、新入生歓迎遠足の一環として見に来たのでした。この時は羊蹄丸の中で、工作船が搭載していた武器などが展示されていたため、羊蹄丸に足を踏み入れたことは確かです。しかし、この時は羊蹄丸の隅々まで見届けることはかないませんでした。何となれば、その時の歓迎せられた新入生こそ、労働収容所組合氏――というHNで当ブログのコメント欄に以前しばしば登場されていましたが、最近はネット上の活動をもっぱらツイッターに移されましたので、Study Hard 氏もしくは @Im_Weltkriege 氏とお呼びするのが妥当と思いますが、とにかく同氏のある行動によって我々は羊蹄丸の細部を見て回る機会を逸したのでした。
その特異な発言の数々で、今ではすっかりツイッター界(の一部)で「悪質クラスタ」の大御所として尊崇を集めている? らしい氏ですが、当時は現在と比べてもなお先鋭的? な言動・行動が見られたのです。
で、戦史研一同が、工作船というホットな展示物のため賑わっている羊蹄丸のロビーで、群衆と共に不審船の武器なぞ眺めていた時のことでした。多くの他の参観者の存在など全く意に介さず、Study Hard 氏は突如展示室の真ん中でこう叫んだのです。ものすごい大声で。
さすがにいたたまれなくなった戦史研員一同は、ウォーゲーム的にいえば士気チェックに失敗し、潰走してしまいました。ので羊蹄丸の他の部分を見損ねたのでした。
Study Hard 氏は事前に、「自分は工作船の前で『マンセー』を唱える」と仰っておりましたが、これは誰も本気にしておりませんでした。しかるに氏は有言実行の人でありました。今もそうです。
これ以降、当時の戦史研の人間は当分、Study Hard 氏を狂人と見なして遠ざけておりましたが、だいぶ経ってからようやく氏は真の偉人であると悟るようになり、今ではご覧のようにツイッター界で広く尊崇を集めるに至ったわけです。思い返せば本学にはかつて、「私は天才であり超人である」と呼ばれた人もおりましたが、Im_Weltkriege 氏はさしずめ天才であり狂人である、ということが、当時の小生の浅薄な視野では理解できなかったのです(他の人もそうだったのでしょうが)。
話を戻しまして、羊蹄丸の入り口のあるフロアでは、青函連絡船時代の展示や講演が行われていました。そこでの展示は洞爺丸台風についてで、これまた最後の企画が洞爺丸とは、と本館のタイタニックと併せ多少考え込んでしまいました。
もっとも、羊蹄丸は青函連絡船退役後、海外の博覧会で海上パビリオンに使われていたこともあるため、船内はほとんど改装されており、現役当時の面影がないのは残念でした。昔の青森などの情景を再現したりしている一角があり、実物のDE10とスハフ44が置かれていましたが、やはりあまり作り物めくよりは、当時のままの姿をなるべく見たかった気がします。ちなみに連絡船は貨車を積んでも客車を積むことは羊蹄丸の時代にはなく、それ以前の時代でも航送する客車は1等寝台車などであって、スハフ44のような3等座席車を積むことは、配置転換で移送するような場合以外はなかったと思われます。
当時の備品の本物はそれなりにやはり面白く、土瓶のお茶セットを見ては先ほどのタイタニックのティーポットとの違いにうち興じたりもしました。そして、当時の船員の方々などが展示終了に寄せて送ってきた手紙などは、貴重な史料でもあると思いますので、また形を改めて保存されることを祈念します。
さて、展示を瞥見してから、かつて Study Hard 氏が大喝を衆生どもに食らわせた場を探します。おぼろげな記憶からすると、入り口のあるフロアの一つ上の階だったように思われます。

今はひとけも少なく、静寂の中帆船模型がいくつも展示されているばかりでした。
それから羊蹄丸のブリッジなどを見学し、そこで当時を知る方のお話に少し耳を傾けたりしましたが、思ったよりも見学に時間を要し、閉館時間となって「宗谷」は見ることができませんでした。もっとも同船は今後も展示を継続するそうで(なので後回しにした)、また機会を改めて来訪できればと思います。


さて、船の科学館を語るならば、その創設者であり、右翼の大ボスとも言われ、一時はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンにも収監された、競艇の大親分(日本船舶振興会会長)笹川良一について触れないわけにはいきません。館内には初代館長として笹川良一についての簡単な説明がありましたが、むろん細かいことは書かれておりません。

(この写真はクリックすると文字が読めるくらい拡大表示します)
小生の年代ですと、笹川良一といえばまず何より、テレビのコマーシャルで「火の用心」とか「人類皆兄弟」などと拍子木を叩いて言っていた爺さん、という印象があります。今さっき探してみたら、今の世の中は便利なもので、You tube に日本船舶振興会のCMがアップされていました。
小生は、「♪戸じまり用心 火の用心~」のメロディーには聞き覚えがあるのですが、「一日一善」の台詞は記憶がなく、一方「人類皆兄弟」と笹川良一が言っていたCMがあったような気がするのですが、You tube にはないようです。何かと記憶が混同しているのかもしれません。アフリカ編の方は冒頭のアフリカの歌も、BGMもナレーションも記憶通りでしたが。子供の頃は一体何を宣伝しているのかさっぱり意味が分かりませんでした。
で、今の小生は笹川良一について一般的なことは知っておりますが、やはりこういった「右翼」的な思想について、小生はあまり好感を持っていないことは率直に表明しておきます。しかし先日、渋谷駅頭のデハ5001を見に行った際に出くわしたような「草莽」な人々、つまり今時の「保守」「愛国」を自称する連中の多くと引き比べると、このような博物館施設を作ったり、また日記を後世に伝えたという辺り、笹川は「歴史」とどう向き合うべきかという基本は、ちゃんとわきまえていたのでしょう。
そういえば、今の船の科学館には、日本周囲の海上での国境紛争、つまり北方領土や竹島、尖閣諸島や排他的経済水域についての特別展示コーナーがありました。ところがそれができたのは10年足らず前のことで、つまり笹川初代館長の没後だったということです。考えてみれば、展示物そのものに「思想的」「政治的」な傾向はなく、あくまでその名の通り科学的、あるいは技術的なスタンスを踏み外していません。戦艦「大和」の巨大な模型を据えていても(かつては二式大艇の実物もありました)、展示や解説は淡々としていて、靖国の遊就館や知覧の特攻平和会館のような臭味はありません。これは創設者のプロフィールを考えると、まことに興味深いことです。
おおざっぱな言い方ですが、笹川良一は評価するしないは別として、「大物」であったことは確かであろうと、自称左翼の小生でも、この博物館を見て思います。毀誉褒貶ある人物ですが、このような施設を作ったことについては、やはり敬意を表さざるを得ません。まずはE.M.フォースターをもじって言えば、笹川会長に万歳三唱をする気にはなれないですが、半唱の意義は認めるべきであろうと思うのです。

とはいえ、先の Study Hard 氏の騒動を思い起こすにつけ、入り口前の名物・笹川会長の銅像に向かって万歳を唱えようとしても、つい「マンセー!」と言ってしまいそうですが。
ともあれ、一日も早い本館の展示再開を祈念します。曲がりなりにも海運や造船で一時代を築いた、そして今後ともそのプレゼンスをある程度は維持しなければならない国が、このようなていたらくであってはなりません。

さらに言えば、我々が笹川を見て「今の連中よりまだマシ」とか「良くも悪くも大物」という評価を下しえる理由の一つとして、彼が歴史上の存在と化しつつあり、現在に直接影響力を及ぼし得ない(それこそ物理的に)から、というのは間違いなくあるんじゃないでしょうか。
と、また歴史学徒らしからぬ妄言を書き散らかしてしまったかと、戦々恐々としつつ投稿いたします。
拙文でご不快の念を与えてしまいましたとしたらまことに申し訳なく、お詫び申し上げます。
一点目ですが、小生の意図としましては集団と個人を対比させるというよりは、各時代における活発な活動を行っている「右翼」的とされる集団であっても、その姿勢に差があることを感じたまでですが、余り明確ではなかったようで失礼致しました。
二点目についてですが、小生は「今時の「保守」「愛国」を自称する連中」については、率直に申し上げてその影響力を過大評価することには反対です。更に言えば、笹川の残した日本財団系の影響力をそれと比べれば、今なお後者の方が大きいと考えております。
そして、毛沢東の言葉ではないですが、評価する面のある「敵」(乱暴に言えば)の方が、相手とするにしても研究するにしても意味があることと思います。
それにしても、このような記事を書いた時によくご批判のコメントを頂戴する気がするのですが、何か小生の姿勢に問題のある点を感じておられるのではないかと、むしろこちらの方が戦々恐々としております。


>何か小生の姿勢に問題のある点を感じておられるのではないか
某後輩氏が仰っているように、相変わらず文脈の読めずに枝葉末節に絡んでいるだけですので、全くお気になさる必要はないかと思います(自分で書いてて悲しくなりますが…)。
果たして院生としての残り時間がどれだけあるかは疑問ですが、次回があるとすれば今少し本質を見据えたコメントができればと思います。