東大工学部を支えていた巨大コンクリート杭と平賀譲?
(この写真はクリックすると拡大表示します)
今週に入ってまた不調に陥り、いろいろと連絡が滞り済みません。何とか論文作業も大詰めということもあり、近日中に返信すべき方には返信をする所存ですので、何卒もう少しお待ち下さるようお願い申し上げます(と、何ヶ月も言い続けているのですが・・・)
そんな事情なので、手元の写真から小ネタ一つ更新でご勘弁下さい。
先日の「東大の巨大ブロッコリー? 的なものについて」同様の本郷関係の話題で、取材元? も同じです。
東大の本郷キャンパスは、東京駅ばりにいつもどこかで工事をしている感があるのですが(特に近年は耐震補強が重要なので)、ここも建て替え中の一コマです。上の写真は、工学部が昭和初期に立てた建物を取り壊し、新た建物を建てる工事中の風景を撮影したものです。
で、上の写真をクリックして拡大表示していただきますと、パイプの柵に隠れてちょっと見にくいのですが、土の中から巨大なコンクリートの柱が何本も突き出しているのがお分かり戴けようかと思います。
この柱が、先に挙げた総合図書館に近い時期に建てられたらしい建物、とは相当重厚な作りだったわけですが、それを支えていたものだそうです。
小生は最初この柱を見て、本郷キャンパスは台地の上面の筈なのに、なんで湿地帯に建設するみたいに、どらく巨大な柱を基礎に据えたのだろうかと思いましたが、何でも実はここら辺は、三四郎池から水が流れ出す経路に当たっており、むしろ湿地に近い土地なのだそうです。なるほど、だからこんな巨大な柱を地下の岩盤に打ち込んで、建物を支えていたのですね。
・・・と思ったら、実はそうでもないようなのだそうです。
この巨大な柱、見るからに重量感にあふれ、中にもみっしりコンクリートが充填されていそうな気がしますが、これは実は中空なんだそうです。どちらかといえば、水分を含んだ土壌の中に突き刺さって、中空の自らの浮力で浮いているような、そんな形態だったようなのです。
現在復元工事中の東京駅の赤レンガ駅舎も、元は海だった弱い地盤の上に立っていますが、明治末期の東京駅の場合は、湿地の地盤に松丸太を何万本単位で打ち込み、その上に駅が載っかっているといいます。NHKの好番組「ブラタモリ」で丸の内界隈が紹介された時、この基礎の丸太(と同じ材木?)をADご一行が抱えて登場したのには感銘を受けました。それはともかく、明治時代の松丸太が、昭和になるとコンクリートの巨大パイプという新たな工法に変わって試されたのではないか、というようなことだそうです。
以上の話をして下さった先生は、以降はヨタ話として、「中空のモノを浮かべてその上にモノを載っけるって、造船屋さんの発想じゃない? ほれ、工学部長があの人になる頃だし」と仰ったので、小生も「なるほど、この成果が戦時中のコンクリート船に生かされたんですね」と混ぜっ返しましたが、それは冗談としても、このような建築法がどのような系譜で登場し、どの程度使われたのかは建築に疎いもので全く小生は存じません。詳しい方がおられましたら是非ご教示下さい。
学内の工学専門家がどの程度関わったのかもよく分かりませんが、しかし技術の専門家たるもの自分の研究室が入る建物のこととなればいろいろ口出ししたくもあるでしょうし、新技術を実験したくもなるのではないか、小生は何となくそう思いました。それはまあ、この場の風景がこんなだったことも影響していようかと。
古い建物の「上に」既に増築された工学部2号館の情景
この写真で、焦茶色の建物が戦前のだと思います。で、その上に巨大な円柱を脚にしてそびえ立つ白い建物・・・なかなかサイバーな風景です。合体変形とかするんじゃないかと思いたくなるような。いろいろと変わった試みをするという気風が、昔からあってもおかしくないと思わせる情景ではあります。
本稿は、全くの聞き書きで文献などを調べておりませんので、詳細を知りたい方は然るべき書物でお調べ下さるようお願い申し上げます。
いやはや上で暮らしていても気がつきませんでしたね。
旧3号館は斜面のきついところに立っていましたので一旦削ってから杭を打って基礎にしたんでしょうね。
その場でコンクリートを打ったとすると中実になるので、おそらくプレキャストの杭と思うんですが。
中空だという話からすると、やはりどこかで作って持ってきたのでしょうか。もっとも、あの巨大な柱を丸ごとというわけはないので、輪切りにして少しづつ・・・どうやって運んだのでしょうね。