追悼 北杜夫 「パンツだけは持ち帰った男、ここに眠る」
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謹んで哀悼の意を表します。
小生が「子供向け」でない本を読み始めた最初が、北杜夫の本でした。小学校4年生のことでしたが、最初に読んだのは『さびしい王様』だったと思います。親が持っていたもので、それから中学生頃までに「どくとるマンボウ」シリーズなども一通り読み、『楡家の人々』も読みました。『高みの見物』『奇病連盟』なんかが結構好きで繰り返し読んでいた覚えもあります。もっとも高校生以降は疎遠になってしまい、比較的近年の斎藤茂吉についての本なども読む機会を逸してしまいました。読んでいない作品も結構あったのですが。
今にして思い返せば、小生にとって北杜夫作品はいわば、児童文学というかジュブナイルというか、今風にいえばライトノベルのような存在だったのかな、と思います。同様に小生は小学校5年生の頃『坂の上の雲』なんぞ読み、講談社X文庫ティーンズハートなど読んでいたクラスメイトの女の子を内心馬鹿にしておりました。まあ「厨二病」のようなものとご寛恕ください(苦笑)。
実は小生がマンガを読むようになったのは中学生~高校生頃で、高校生ごろはハヤカワ文庫なんぞ主に読んでいたかな(司馬ではなく吉村昭など読むようにもなりましたが)。いわば年齢相応に読むようになったともいえますな。
子供の頃一番好きだった北杜夫作品は、やはり『どくとるマンボウ昆虫記』で、当時既にマニア的な心理を抱いていた小生の心を鷲掴みにしました。また年齢から、自分の少し上の年齢の人々を描いている『どくとるマンボウ青春記』なんかも繰り返し読みました(なもんで『新世紀エヴァンゲリオン』は主題歌を聴いて笑いがこみ上げてしまい、見る機を逸しました)。
小生は鉄道マニアですが、宮脇俊三の名は北作品の中で初めて知ったように思います。それは、北杜夫の結婚式の司会を頼まれたけど、喋り方がぼそぼそしているので適任でなく、得意の皮肉も結婚式では発揮できず、なだいなだに替えられてしまった人として、だったような(笑)。それ以前に『どくとるマンボウ途中下車』の中で北杜夫を新幹線に無理矢理乗せる編集者M氏としても登場していたことには、あとで気がつきました。
そんなこんなで、結構北杜夫作品には馴染みましたし、読書の楽しさを教えられたのは間違いなく北杜夫のおかげであったと思います。そして、はっきりこうだとはいえませんが、何がなし今でも影響を受けていると思います。国語の素養であるとか、ものの見方であるとか、今後とも小生のどこかに残り続けていると思います。分かりやすいのでは、最近の記事の巻頭で「憤慨のあまり」ではなく「フンガイのあまり」と書いたのは、その影響です。
一時期、阿川弘之や遠藤周作にも手を出したのも影響でしたが、そっちは実はあんまり読み広がりませんでした。特に阿川作品については、一応小生も戦史マニアで鉄道趣味者なんですがね・・・しかしそれだけ、北杜夫作品と小生の相性がよかったのかもしれません。
※以下2011.10.30.加筆
ところで今回の北氏の訃報に、上に挙げたように大学の後輩のなだいなだ氏、作家仲間の佐藤愛子氏などからコメントがあるのはまず順当ですが、数日待ってもまだご存命のはずの阿川弘之氏のコメントがネットで見つかりません。ここで考えられるのは、(1)阿川大尉は御年90を越えてコメントを出せる状態でない、(2)もう文筆活動は一切お断りだ、(3)文春以外のメディアにコメントする気がない、(4)コメントする際にネット転載不可を条件にした、などがありますが、どういうことなのか、続報を待ちたいところです。
さらに余談ではありますが、上で名前が出たついでに故宮脇俊三氏のことを考えてみると、最近よく「三大鉄道文学者」みたいな感じで「内田百閒・阿川弘之・宮脇俊三」みたいに列挙する風潮がありますが、個人的には違和感を覚えます。作家としてそれぞれ作風はかなり異なるように思われますし、何より宮脇俊三は創作というより紀行作家で、だいぶスタンスが異なるように思うのです。
こう言ってしまえば何ですが、百閒はたとえ鉄道のことを一行も書かなくたって日本文学史に名を残したでしょうし、阿川弘之の作品はどちらかとえいば海軍の方がモチーフとして重要でしょう。しかし宮脇俊三文学マイナス鉄道はほとんどゼロでしょう。念のために書いておきますが、モチーフの幅の広さが作家としてのいい悪いじゃないですよ。でも実態としてそうなるわけで、むしろ「鉄道文学」なる看板を掲げるなら、百閒や阿川氏は「純度」が低いという評価も可能です。
で、今回訃報を機に北杜夫作品を多少読み返してみて、やはり宮脇文学への影響を語るなら、阿川よりは北杜夫を考えた方がいいんじゃないか、という気が何となくします。もうちょっとちゃんと、宮脇や阿川を含めて読み返す必要はあるのですが(同じ旅を北・阿川両者がそれぞれ旅行記として書いているものがあるので、その相違と宮脇とを比較すればよいでしょう)、そもそも年齢的にも阿川氏より北の方が宮脇に近い(阿川大尉は戦争に行かされた世代ですが、北・宮脇は行き遅れた世代)ですし、何より地方出身の阿川氏に対し、北と宮脇は昭和初期の東京山の手育ちで、これって結構重要なことではないかと思います。
宮脇も編集者時代、阿川氏の乗り物本を作ったりしていたと思いますが、やはり北杜夫に「どくとるマンボウ」シリーズを世に送り出させた方が編集者の仕事として重要で、かつ私的なつきあいも相当あった(家が隣だし)ようですし、ユーモアのなどのセンスはやはり北杜夫に近いのではないかと思うのです。
ですが結局、年が年でしたし、小生はライトノベルとして北杜夫を読むばかりで、読み方を切り替えるべき時にふさわしく読み替えていくことはできませんでした。大学に入ってから読み返すことはほとんどなく、それはそれでもったいないことにも思われますが、しかしまた、同じ作品をもう一度、違う角度から読み返せる機会が残っているということは、幸いなことかもしれません。優れた作品であれば、読むときによってまた新たなる衝撃を読者に与えてくれるでしょうし、それだけの優れた作品群であることはまちがいありません。
また作品をひもとき、新たな読書の経験を積みたいと思います。実のところ小生、このところ心身の疲労のせいか、文学どころか専門書も、マンガですらもろくに読めていない有様です。わくわくしながら北杜夫の本を読み返していた、そんな頃の心の元気を、一部なりとも取り戻したいと、痛感します。
最後に、そんな心情にかなう北作品の一節を引用し、締めくくりに代えさせていただきます。
・・・そして私は、読書についてある信念を、ほとんど妄想に近いものを持っている。それは、自分が必要とする書物は、自分が必要とするときに、必ず自分がよむであろうという確信である。それゆえ私は、どんなにすばらしいといわれる古典をまだよんでいなくても、わざわざ急いで読もうとは思わない。それが私にとって必読の書物であるならば、ある偶然――たとえば時間しのぎにはいった古本屋で目につくとか、そういったふうに必ず私の手にはいり、ある日気がむいて私がそれを読みだすことは必然であり確実であるという信念を抱いている。そうして、自分にとってかりそめならぬ本との出会い、それは早すぎても遅すぎてもいけない。それは恋愛にも似ている。運命そのものといってよい。この言葉を信じ、読むべき運命の時を待つことにします。なお本記事の表題は、この引用元の『どくとるマンボウ途中下車』の中で、著者がいろいろと墓碑銘を考えるくだりがあり、巻末に記していた墓碑銘案からとりました。『さびしい王様』の次に小学生の小生が読んだのが、本書だったように思います。
『どくとるマンボウ途中下車』中央公論社(1966)50-51頁
改めて、北杜夫先生の恩恵に感謝し、ご冥福をお祈りします。