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筆不精者の雑彙

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日本の電気料金の歴史 総括原価方式の誕生(1)

 当ブログでは以前、「日本の「計画停電」の歴史を振り返る~真の「無計画停電」とは」及び「電気代と市場経済~計画停電の歴史・続篇」などという電気事業史関係の記事を書きましたが、その続きとして表題の件について一筆しておきたいと思います。




 小生はここしばらく、日本電力業史の研究にも足を踏み入れているのですが、そんなわけでこの度の震災に伴う原発事故をきっかけににわかに盛り上がったと見える日本の電気事業のあり方を巡る議論の中で、その歴史的教訓にも関心が高まるものと思い、それだけに自分の研究の意義もいくらかは増そうかと前向きに考えておりました。それが先に、「日本の「計画停電」の歴史を振り返る」「電気代と市場経済」といった記事を書いた原動力にもなったわけです。
 然るに、その後半年あまりを経過して、その間電気事業について語られた言説は、その歴史的背景に言及するものは殆どありませんで、些か困惑しております。それでいて、東京電力や当局をとにかく批判すればそれでよし、それを打破する電力自由化は善であり、発送電分離をして地域独占や総括原価方式を廃止すれば、自由化で原発は廃止されて電気代は安くなる、そんな言説がまかり通っているように思われます。小生は時々、ツイッターで「発送電分離」や「総括原価方式」を検索してみて、いささかめまいがする思いをしておりますが、ことに先日、いわゆる2ちゃんねるのまとめサイトでも「総括原価方式とか発送電分離とかの話」なんて記事が掲載されて、コメント欄を見てもどっちかというと記事に好意的な反応が多そうで、2ちゃんねるとか好きそうな層でもこういう反応なのかと興味深く思いつつも、歴史的背景への言及が皆無なことには後ろ向きな思いを抱かざるを得ませんでした。
日本の電気料金の歴史 総括原価方式の誕生(1) _f0030574_3332860.jpg
Twitter で「総括原価方式 歴史」を検索してもツイートは皆無
「総括原価方式」ならいくらでもある(ほとんどが原発反対の文脈)のだが・・・
(2011年11月11日深夜検索)


 そんなわけで、今いろいろと考えて手をつけている論文の作業のついでに、自分向けの問題意識のまとめもかねて、小生がこれまで調べ今考えていることをまとめてみようかと思います。それが直接今の電気事業を巡る議論に役に立つかは分かりませんが、こと電気のような過去の遺産が良くも悪くも重要な役割を果たすインフラの場合、歴史を知っておくことは、議論に有意義な巾と深みを与え、同じ話を蒸し返さないで済むくらいの意義はあろうと思います。
 そこで今回のお題は「総括原価方式の誕生」と題し、なんだか現在諸悪の根源視されている電気料金の総括原価方式がどのような経緯で、どのような目的を持って、誰の主な発案と行動で導入されたのか、その歴史的経緯を追っかけてみようと思います。


◆年表

 まず大雑把に、事態の経緯の超簡単な年表を掲げておきます。

・1883年 東京電灯創立(日本の電気事業の誕生)
・1911年 電気事業法制定
・1931年 電気事業法が改正され、料金認可制が導入(翌年公布)
・1933年 電気委員会で総括原価方式が料金認可の基準とされる
・1937年 総括原価方式による新料金体制への移行
・1938年 第1次電力国家管理決定
・1939年 日本発送電発足、第1次電力国家管理実施
・1942年 第2次電力国家管理実施(これにより従来の電気事業者は消滅)
・1951年 電気事業再編成により民営9電力体制が発足


◆日本電力業の自由競争時代

 日本の電気料金に総括原価方式が導入されたのはいつのことかといいますと、それは1931年に改正された電気事業法によってでした。
 電気事業法という法律は現在でもあり、電気事業を営む上で当局の許可を取るなどの義務を定め、一方公益事業として一定の権利を認めているわけですが、この法律が最初にできたのは1911年でした。日本の電気事業は1883年創立の東京電灯に始まるので、それまで30年近くは、個別の会社が設立されるごとに個別の条件を付した許可を与えていたのだったと思います。
 で、この電気事業の監督は、当初保安目的の取締として警察が担当していましたが、1891年逓信省の所管となりました。これは今の感覚からするとなぜ農商務省(これが農林省と商工省に分離し、商工省が戦後通産省となり、今の経産省になります)でないのかと思われますが、当時、役所で電気を扱っていたのが電信を管轄する逓信省だけだったことによるといいます。
 ちなみに鉄道も信号などに電信を使いますが、当時は鉄道の監督も逓信省で、ついでにいえば船に関する監督も逓信省の管船局というところが担当し、灯台も同省灯台局が担当していました。当時の逓信省はいわば、郵便・電信・電話・鉄道・海運(のち航空も)という、情報と人・モノの総合的コミュニケーションを先端テクノロジーで担当するという、そういう役所でした。郵便は先端かって? 郵便配達の自転車導入は、それまで金持ちの道楽グッズだった自転車を、本格的な実用に供した最初だという話ですよ。※追記・訂正:実用の最初はよりスピードの要求される電信配達でした。うろ覚えですみません。とはいえ郵便にも先端的な技術は導入されてますと言い訳しておきます(苦笑)

 話を戻して、当初、都市に小さな発電所を設けて周辺に給電するだけだった電気事業は、明治末期に水力発電と遠距離送電が実用化されたことで大きく飛躍します。監督する逓信省もそれに対応して、1909年電気局を設けました。そして1911年には電気事業法公布を迎えるわけですが、この時、電気料金は届出制とされました。当初から認可制にしてはどうかという話はありましたが、電気事業の発展のためには認可制でない方がいいだろうとの声が議会でも多数を占め、結局届出制になったといいます。
 その後、第1次世界大戦は電力需要を激増させたため、1919年卸売電力会社の設立と大口需要家への重複供給が認められました。卸売電力とは需要家に供給する小売を行っている電力会社に電気を販売する、発送電専門の会社です。電源開発を促進する方法として発送電専門会社の設立が認められたのですが、さらにそれに加え、工場などある程度の規模以上の需要家に対しては、卸売電力が直接供給することも認められたわけです。
 当然、新しく大規模な水力発電所を作れば電気の値段は安くなりますから、既存の小売電気事業者が得意先を守ろうと思ったら、卸売電力から然るべき量の電気を買う代わりに重複供給権を行使しないという契約を結ぶことになります。これがちゃんといけばいいのですが、ここがこじれると同じ地域に2本の送電線が並んで競争するという事態になります。
 なおまずいことに、第1次大戦のバブル期に立てられた発電計画が、大戦終結によりバブルもはじけた頃に続々完成したため、需要が目論み通りに得られず、新しい会社は施設を遊ばせるくらいなら、とダンピングも辞さない態度をとります。このような、大規模な水力発電所を擁する卸売電力会社が重複供給権を行使して既存の電気事業者から需要家を奪う事態を、当時「電力戦」といいました。この辺の話は以前の記事にも書いたとおりです。

 このような競争の結果、1920年代には日本の相当の地域に電気が普及し、料金も基本的には低下傾向にありました。マクロ的には、1920年代の日本経済というのは、大戦バブルがはじける→関東大震災→金融恐慌→世界恐慌と慢性的不況状態にありましたが、そんな中で電気業はもっとも活発な投資を展開し、この時代の日本資本主義を牽引する役割を果たしたと言われております。
 しかし一方、激しい競争は過剰投資による電力会社の内容悪化をももたらし、過剰な電力の消費に各社とも悩むことになります。また電力戦を背景に、有名な「日本史上最大の喧嘩」鶴見騒擾事件なども発生する一方、不況を背景に生活に密着した電灯料金の値下げを求める市民運動も各地で発生しました。この辺の話も当ブログでも前にしましたね
 で、電気事業は公益事業なんだから国有化・公営化すべし、などという声も高まります。この時期には都市部で市が市内の配電事業の市営化を図る例がいくつもあり、大阪市が大阪電灯を市営化した(1923)のが代表的ですかね。また地方では、その県の水力資源を生かして安い電気を起こし、県の工業化推進を図る例もありました。代表的なのは富山県や高知県でしょうか。
 県営電気と同じ背景にある動きとしては、自県の水力資源で発電した電気を県外に送電されるのはいやだと、県会と電力会社がもめるケースもままありました。こういった場合、県内には電力消費の当てもなく、県内の需要に合わせて水力開発をしたならば小規模で不経済なものになってしまい、一方で電力が不足気味の地域もあるということで、利害調整でもめることになります。例としては宮崎県についての研究などがありますのでご関心のある方はご一読を。


梅本哲世『戦前日本資本主義と電力』八朔社(2000)
 本書で宮崎県の県外送電問題が扱われている
 なお、本書は1931年改正電気事業法について、国家管理の前提となったとの評価をしているが、小生は本記事に書いたようにそれとは異なる見解を有している




◆1931年の電気事業法改正

 そんなこんなで、電気事業に対する公益規制の声が高まったことを受け、国も対策を講じることになります。1927年逓信省内に臨時電気調査部が、1929年には臨時電気事業調査会が内閣に設けられ、その答申を経て1931年4月、電気事業法が大きく改正されます。これを以後、改正電気事業法と呼ぶことにします。で、本稿の本題である総括原価方式ですが、これはこの時の改正電気事業法に基づく電気行政に際し、導入されたものなのです。
 改正電気事業法の骨子を述べれば、供給義務の明確化・料金認可制・事業の合併や譲渡の認可制・会計処理規則の規定・諮問機関としての電気委員会の設置などからなり、また供給区域独占の原則が確立されました。独占を認める代わりに公益規制が強化されたわけですが、ここで今現在、電気事業に関して諸悪の根源扱いされている、区域独占と総括原価方式のセットの導入の端緒となったことに留意して下さい。この体制は、戦後の1951年に成立した現行の9電力体制によるものではなく、それ以前に設計されていたのです。

 また電力業界も、競争による問題に対応して自主的な統制を打ち出しました。その構想には様々なものがありましたが、結局有力な五大電力間でカルテルを結んで競争を抑制することとなりました。今まで揉めまくっていた電気事業者が協調に転じたのは、1931年の金輸出再禁止で円の対ドル相場が暴落した(おおざっぱに言って、1ドル=2円だったのが1ドル=4円くらいになった)ことを受け、1920年代の積極的な投資を支えるために英米で発行していた外債の利払いがざっと倍に増えてしまったという事態が背景にあります。競争どころではなくなっていたんですね。
 特に、甲州財閥による経営が放漫に流れた東京電灯は、電力戦でしばしば他社の攻撃を受けて守勢に回り、地盤である関東を守るために重ねた合併が資産水増し評価になってしまったこともあって、会社の経営状況が大きく悪化しました。
 ところで東京電灯は、当時日本最大の民間企業でしたから、その経営悪化の影響は大きく、特にメインバンクであった三井銀行の危機感は強いものでした。そこで三井銀行の重鎮・池田成彬は、東電立て直しのため、阪急の経営者として名を挙げていた小林一三に東電入りを要請します。これによって、いくら「今太閤」と渾名されていたとはいえ、関西の名物シャッチョサンでしかなかったであろう小林が、いわば日本資本主義の代表選手となり、その後商工大臣ともなる道が開かれたと小生は思うのですが、それはまた別の機会に考えてみたいと思います。


◆電気委員会における総括原価方式の導入

 さて、改正電気事業法では電気料金の認可制が導入されましたが、法律の条文にはその認可する料金をどうやって決めるかということは書かれていません。また、法律で料金認可制となったからといって、その日からいきなり日本中の電気料金を変更するのも現実には不可能です。実際にはどうやったかというと、改正電気事業法の施行に際しては、その時点での料金を認可されたものと見なして当面維持し、施行から5年後の1937年までに新たな認可基準に基づいた料金に切り替える、ということになりました。
 で、具体的な料金認可基準はどうやって決めたかというと、先に挙げた諮問機関・電気委員会によって決められました。電気委員会とは、逓信大臣を会長に、各省次官や財界・学界の有識者を委員としたもので、電気事業に関する重要事項を諮問するものとされました。ちなみに先の池田成彬も財界の重鎮として委員に名を連ねています。

 問題の、総括原価方式に基づく電気料金認可基準は、この委員会の第3回(1933年7月10日)・第4回(同7月19日)委員会によって定められました。2回に委員会が亘ったのは、料金の基準を決めるという大問題に、委員の間でも様々な議論が出ていたからです。ただここで留意すべきは、別に委員会は白紙から議論して総括原価方式に辿り着いたわけではなく、逓信省電気局が委員会に提出した原案が総括原価方式であって、いろいろ委員会の議論は紛糾したけれど、結局委員会は逓信省の原案を認めて総括原価方式が導入されたということです。原案の肝腎な部分を抜粋しておきます。
電気料金は、当該電気供給事業の総括原価額を決定し、之を其の事業の総合負荷に基き各種需用間に配分し、其の需用を負ふべき料率を算定することに依り、定められるべきものとす
逓信省電気局編『電気委員会(第三回)議事録』1933年、4頁
(原文の旧字体を新字体、カタカナ書きをひらがなに修正、以下同様)
 委員会の議論はいろいろありましたが、つまるところ実際にやってみないと分からない、ということで、この基準の導入は現状のドラスティックな変化をもたらすものではない、との附帯条項をつけることで財界の不安を抑え、総括原価方式が導入されたのです。

 以上の経緯から、総括原価方式は、自由競争に基づく電気事業の問題点を是正するために導入されたことが明らかとなります。これは、電気事業の区域独占とセットで導入されることで、過当競争による過剰な投資(これが結局無駄となって電気の原価を押し上げる)を避け、電気事業を合理的な方向に導くことで、結果として電気料金も適切な水準に落ち着くことを目指したわけです。同時に、区域独占によって懸念される独占料金の弊害を、総括原価方式に基づく料金認可制度で防ごうとしたものだったのです。
 現在、ちょっと検索してみても、先に挙げた2ちゃんまとめサイトなどのように、「区域独占と総括原価方式が諸悪の根源! 原発導入の陰謀! 発送電分離による自由化こそがすべての解決!」みたいな言説がネット上にあふれておりますが、またちゃんと確認はしていませんが、おそらく既存マスメディアでも同様であろうと察せられますが、実は電気事業の区域独占と総括原価方式は、行き過ぎた自由経済の反省によって設けられたものだ、という歴史的経緯は、きちんと確認しておくべきことと考えます。


◆1931年改正電気事業法の二面性・公益規制と私企業精神の尊重

 さらに留意すべきことには、1931年改正電気事業法は公益規制を強化すると同時に、電気事業者の経営インセンティヴを損なわないようにすることにも意を払っていました。
 総括原価方式が電気委員会に諮られた際の、逓信省による原案の理由書から抜粋しますと、
「標準負荷率よりも良き実績を有する事業に就ては・・・営業努力を尊重し之を萎微せしめざる用意を須ひ・・・」
(新規需要開拓や余剰電力消化の場合も原価主義に固執することは)「事業の活力を萎微せしむる虞あれば、その弊を避けんとするものなり
同上、14頁

(卸売価格について)「電源開発方面の企業意図を萎縮せしめざるの用意を必要とするものなり」
同上、14頁
 といった表現が目につきます。改正電気事業法の特徴は、過当競争を防ぎ公益規制を強化することと、「事業の活力」を尊重することとを、両立させることを狙っていたといえます。
 また、上の引用部分だけでも、電気料金は基本的に総括原価方式としても、電熱や農村などこれまで未開拓の需要などの場合は、柔軟に対応することを認め、また他の事業者より安い原価で電気を供給できる事業者には、料金もそれに応じて下げさせるとは限らず、その経営努力に対する高利潤を容認しています。その他、同様の方針は議事録における逓信省当局の委員への説明に読み取ることができますので、ご関心のある方はリンク先の原史料をご覧下さい。
 もう一つ、改正電気事業法には内務省の強い要請で、第29条に国や公共団体が民営電気事業を買収する規定が盛り込まれました。しかしこれも、省庁間の妥協の産物であって、逓信省は地方公共団体による公営化を進める気は全くありませんでした、というか抑制したがっていました。ので、改正電気事業法の施行時に、わざわざ逓信省は、第29条は「過去に於て極めて自然の進展に遵ひ来りたる本邦電気事業の経営形態に対し、今遽に変革を加へんとするが如き趣旨には無之」(田村憲治郎『戦時経済と電力国策』産業経済学会、1941年、302頁)という通牒を発しています。

 1920年代の電気事業者の行動については、電灯料値下げ運動や公営化運動のような反発もあり、それを受けて電気事業法は改正されたといえるのですが、しかし改正電気事業法は電気事業者の積極的な経営行動を否定してはいないのです。これが1940年代前後の、電力国家管理とは大きく異なるところです。
 この、電気事業における公益規制と経営インセンティヴの両立ということは、本質的には今日もなおその重要性は変わっていないと考えられます。総括原価方式と供給区域独占は、その一環として導入されたということは強調しておきたいと思います。さらにいえば、導入のイニシアチブは電気事業者の側ではなく、監督官庁である逓信省の側にあったことも留意すべきでしょう(この辺はあとで補足します)。


◆小括

 さて、以上の経緯があまり顧みられないのは、おそらく最大の要因は誰も電気事業史になんか関心がないということじゃないかと邪推しますが、一つにはこの1931年改正電気事業法による体制が長続きせず、1939年には電力国家管理が始まって、電気料金の基準は戦時国策的なものになっていってしまい、このことが忘れられたこともあろうかと思われます。
 最初の年表を見ていただければお分かりいただけるかと思うのですが、1932年に施行された改正電気事業法の、認可制に基づく新料金体制に移行したのは1937年のことでした。ところが翌年には、3月に議会で第1次電力国管の法律が通過してしまい、事実上、改正電気事業法に基づく民間企業のインセンティヴに配慮した電気行政は終焉を迎えてしてしまうのです。

 では改正電気事業法による体制がなぜ長続きしなかったかのか、それは一言で答えるには難しい問題です。大まかに言えば、電気事業に対しては、公益事業なので国有化すべし、あるいは公営化したい、といった声が一定存在していました。その声が、満州事変以降のいわゆる「革新」的な風潮の広がりと相俟って、そして最終的には日中戦争勃発による総動員体制の誕生によって、より強力な電気事業への公的介入が実現した、ということになるでしょう。
 ただしこの介入は、電灯料値下げ運動や電気事業市営化・県営化運動とは別な流れと見るべきで、電力国家管理は最終的に、市営や県営の電力事業も国に一元化してしまった面があります(そして戦後、かなり激しい復活運動もありました)。
 つまり、単純に1920年代以来の電気事業への公的介入を求める声が実現した訳ではないですし、また研究史上議論が分かれるところではありますが、改正電気事業法による体制に大きな問題があったというわけでもなさそうです(小生はそう考えます)。そのような経済的問題というよりは、政治的・軍事的状況によるものではないか、ということは、大きくは間違いなかろうと思います。

 で、改正電気事業法から電力国家管理への過程を、管轄官庁である逓信省の動向に即してみれば、電気行政の担い手が逓信省内のある派閥からある派閥に移ったことにより、電気事業者の経営インセンティヴにも配慮をする政策から、電気事業の企業経営を否定する政策へと移行した、ということが判明します。
 それは一体どのような事態なのか、日本の電気行政に料金の総括原価方式を導入したのは誰なのか、その電気行政の構想はどのようなものなのか、それは「革新」派の官僚とどう異なっていたのか、その辺の話は、もういい加減この記事が長すぎるので、次の記事に回したいと思います。

※追記:この記事の続きは以下の通り。
 総括原価方式の誕生(2) 逓信官僚・平沢要の電気行政構想
 総括原価方式の誕生(3) 公益規制と私企業精神の両立
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by bokukoui | 2011-11-11 23:59 | 歴史雑談 | Comments(0)